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『死んでいない者』滝口悠生(文藝春秋) この小説も芥川賞受賞作品ですが、一種の実験小説ですね。 どんなところに実験性があるかといえば、まず、そのストーリーにおいて、一人の老人が死んだその通夜の晩のことだけ、そこに集まった故人の親族や友人のことだけが描かれた小説であること。設定がかなり実験小説的。 で、そこから想像がつくように、お話としてはかなり退屈であります。 二つ目に、「語り」の視点が分からない文体であること。 基本的には三人称文体なのですが、時々誰の思い・感じ・考えなのか分からない記述が出てくることです。 それに合わせるように、せりふと地の文を区切る印(多くはひとえかぎ。これ「 」)が用いられておらず、わざと視点の分からない記述と混乱させているように書かれています。 実は私は読み始めたとき、この文体がかなり気になりました。読んでいて、いいいいーーー、という感じで、とても気持ち悪い思いをしました。 話が進んで少し読み慣れるまで本当に気持ちが悪くて、何度か読むのを放り出そうと思いました。 そして三つ目の実験性。これは、実験というのかちょっとよく分からないのですが、こんな風に書いてあるところがいくつかあるんですね。 しかし寛の記憶は混濁している。弟の出産でこの家に預けられ、夜布団の中でべそをかきはじめた日、横でなぐさめていたのは祖母ではなく祖父だったはずだ。 実はこの表現の数ページ前に、祖母に慰められる幼い少年寛の描写がかなり丁寧に書かれてあるんですね。だから、ああそうなんだと思って読者は読んでいくわけです。ところがその後で、それは嘘だったよと書かれる。そんな箇所が数カ所あります。 これは少しあっけに取られますね。 しかしこの仕掛けは、考えようによれば出来事(記憶)の二重イメージのようで、それなりに悪くない広がりを作り、それにこの「嘘つき」の描写は、なんとないユーモアを産んでいます。 という風に3つの実験性に整理してみましたが、ではこれらによって筆者は何を描こうとしているのかと考えますと、作中ところどころに「種明かし」があるように私は思いました。例えばこんな部分。 どれくらい歩いたか、そこに時間の感覚はもうなくなってしまっているのでわからない。十分ほどだったようにも、何時間もかかったようにも、想像ができる。地図を見ればおおよその見当がつくかもしれないが、結局そこにあるのは距離であってあの日の道のりや時間ではない。あの日立ち止まったり、遠回りをしたり、道に迷ったりしたことまでは地図に書かれていない。しかし重要なのは絶対にそちらの方で、だから地図を見るのは記憶を殺すことになりかねない。だから俺はもう絶対地図は見ない。 こういうのは、いかにも純文学的だなと思いますね。 そう思ってあれこれ考えてみると、芥川賞には、このような感じ方に対する「嗜好」とも言うべきものが、かなり以前から連綿と続いているような気がします。 とりあえず私が思い浮かべたのは保坂和志の芥川賞受賞作「この人の閾」。 これはくっきりとしたストーリーライン(起伏のある物語)をほぼ持たない小説でした。保坂和志の小説は他にも何冊か読みましたが、どれも本当に「事件」が起こりません。 冒頭にも書きましたが、退屈といえば本作以上にとても退屈な小説です。 そのことについてはもちろん賛否はあるでしょうが(純文学小説とは退屈な小説のことだと思われる等)、しかし、あ、そんな流れの小説なんだなと思って読むと、小さなエピソードの一つ一つが、とても静かに優しく丁寧に書かれていることに気がつきます。 大きな起伏はないのだと思いながら読むと、実は細かい「仕掛け」は、作品中にかなりいろいろ書き込まれていることに気がつきます。 例えば本書には、やたらと未成年が飲酒する場面が出てきます。小説の内容を倫理的に断罪するつもりはありませんが、これだけ未成年(十代前半の未成年)の飲酒シーンが出てくると、私としてはリアリティに違和感を感じるのですが、読み進めていくと、あ、そういうことかと思ったりします。 また、保坂和志の小説のように、描かれていることに「裂け目」の様なものがないと書きましたが、本作は、保坂和志よりはもう少しくっきりとした「裂け目」があります。 特に私が興味深く感じたのは、「引きこもり」の人物が、中盤以降俄然魅力的な人物として描かれているところです。 例えば小説『コンビニ人間』等のように、自己肯定感がきわめて低くコミュニケーション障害の様な女性が主人公の話が、芥川賞でもここ数年五月雨的に取り上げられていますが、本書に至って、いよいよ「引きこもり小説」が現れたような気がしました。 しかしこの「引きこもり」の姿は、興味深く魅力にあふれています。 本書には、そんな「裂け目」もあります。 読み始めてしばらくはあれほど気持ち悪かったのに、読み終えると割とさわやかです。 うーん、筆者はなかなか手練れな書き手だな、と私は強く感じたのでありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.06.24
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『リア家の人々』橋本治(新潮社) 本年初め鬼籍に入られた橋本治の作品について、私は、やはりあまり読んでいないとしか言えないなーとは思いつつ、ここ半年ほどで、本書を含めますと、3冊読みました。後の2冊はこれです。 『いつまでも若いと思うなよ』(2015年・67歳) 『九十八歳になった私』(2018年・70歳) この2冊に本書(2010年・62歳)となります。いうまでもなく、ここに書いた年齢は、その本を書いた時の筆者橋本治の年齢です。 「老い」というものを考えようとした時、シェイクスピアの『リア王』は、出るべくして出る本だと思います。 (『リア王』については、わたくし、たぶん大学時代に一度読んだきりで、ほぼ内容を忘れていたもので、この度安易ながら、ネット記事を中心にいくつか調べてみました。まー、安易ではありますがー。) 筆者のごとく極めて知的分析的な作家が(橋本氏がいかに知的分析的かは、私は『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』で十分理解いたしました。私のアバウトな頭ではついていけない論理展開がたくさんありました)、「老い」を相対化するために『リア王』に触れるのは当然という気がします。 (ついでながら、「老い」の相対化がいかに難しいかは、上記の2冊の随筆と小説に十分書かれてあります。) しかし、この度の冒頭の小説は、これはどうなんでしょうか。 というのは、本書の感想について、小説の好きな友人と意見を交換したんですね。 私はわりとアバウトに、けっこう楽しく読んだということを言ったのですが、わが友は、本当にそうなのかという持論を展開し、以下のようなことを述べました。 彼の言ったのは、結局のところ、本書の構成が崩壊してはいないかということであります。それについては、私も読みながら薄々、えーっ? などと思うところもあったのですが、彼はさらにこのように言いました。 ——例えば、文芸評論であれだけ三島由紀夫の作品を明晰に分析した筆者が、なぜ自作になるとこのように構成が「崩壊」しかかったものをそのまま完成品として世に出すのか。 とても考えづらいが、強いて意味付けをするなら二つ思いつける、と。 彼は言います。この小説が一番面白いのは、第一章であろう、と。 ——第一章にはまだ「父・文三」の物語が描かれている。その物語とは、タイトルに「リア王」とあるので、本来優れた人格のものが老いによって崩れていく話なのかと思いながら読むと、そうでないことが分かった。文三は、本質的に人間不在の人格として描かれているのだ、そしてそれは、かつての日本の家父長制家庭の閉鎖性と、官僚エリートの非人間的実像によって。 ——そのように読むと、第一章の父の物語はそれなりに面白い。しかし、第一章の終了とともに、父の物語は完全に終わってしまう。そのあと描かれるのは、ほとんど濁ってしまったような彼の意識である。 ——終わった父の物語の後にまず書かれるのは長姉と次姉の遺産を巡る駆け引きだが、これはいかにも類型的ではないか。話は心理描写を中心に展開していくが、この描写が評論家的で、小説的な広がりを持たない。小説的な肉付けと広がりを持たない分析はひたすら小説を貧弱にしていく。 ——そして中盤から大きく書かれだすのは、筆者による「時代」の分析である。個々には面白い指摘も少なくないが、小説としてはどんどん拡散していかないだろうか。そして、描かれていた長姉と次姉の確執も、唐突に尻すぼみになる。 ——最後の第四章にクローズアップされるのが三女の恋愛話だが、この若い男女の恋愛の崩壊過程は、やはり「陳腐」とはいえないか。1970年頃の日本社会ならびに日本国民の、骨がらみのような男尊女卑意識がその根底にあるのだろうが、そしてそれはそれでわからないわけではないが、はて、この小説はそんな小説なのかという思いが強い。 ——そしてすべての物語が、唐突に終わる。 ……というふうに彼の話は、まー、少し身もふたもない批評になってしまったんですがね。それを聞き終えた後で、私はふと気が付いたことを尋ねてみました。 なかなか厳しい君の意見だが、しかし君は、君が言うところのそんな構成の破綻について、意味付けできる可能性が二つあるといったね。それは、何。 ——ふたつといったが、一つは何ということはない。要は本作は未完だと考えることだ。ただ、そのように考えることは(過去の日本文学作品には結構多いが)、何でもありになってしまいかねない。 ——後、もう一つは、本書の濁ったような構成や展開が、父・文三の老いて濁っていく意識の比喩になっているという見方だ。 例えば、第一章の末尾の一文、つまり文三の老いの始まりの場面の描写が、最終章の末尾の一文と全く同じ形になっているのは偶然ではないだろう。こんな相似文だ……。 文三は、忘れていた感情を、高い木の上の柿の実に見る。それは「寂しい」という感情だった。(第一章末尾) 家の中が、暗く、寂しくなる。そのことだけは確かだった。(最終章末尾) ……なるほど。本書の崩れた構成(それが崩れているとして)は、主人公文三の加齢により混濁していく意識そのものの象徴であるという考え方ですか。 そういえば、と私は思いつきました。 冒頭に挙げた『九十八歳になった私』という小説は、まさに耄碌も芸のうち、描写も構成も刻一刻と霧の中……という小説でありました。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.06.15
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『火花』又吉直樹(文春文庫) この小説が芥川賞を受賞したのは、もう3年以上も前なんですね。 少し調べたのですが、2015年の上半期の芥川賞受賞です。 で、文庫本も入れると、300万部くらい売れた、と。すごいものですねえ。 いつの世のどんな社会にもあるのでしょうが、売れればいいというものではない、いや、本当に優れた作品はそんなに売れないものだ、という考え方がありますね。 ……えー、実はわたくし、基本的にはそんな考えに反対じゃないんですね。 だって、こんないわゆる「純文学」読書報告をしているくらいですから、少なくとも「売れる=善」みたいな考えには異議ありと思ったりしています。 またそれくらい思っていないと、ちょっとやりきれないところがあったりします。 ただ、少しだけ(3点)補足しておきます。 まず、いわゆる「ベストセラー」はあまり信じませんが、私は「ロングセラー」は信じるんですね。 一時的な熱狂ではない、「延べ」で考えられる多くの人々が共感する作品は、やはり文学として優れているんじゃないかと考えます。(だから本書が優れた文学作品かどうかはまだ全く分からないと思っています。) 二つ目の補足ですが、芥川賞とは新人賞(厳密にはそう呼べないような作品も選ばれているようですが)だという事ですね。 それはプロ野球で言うところの「新人王」と同じで、例えば打者なら3割を打っていなくっても選ばれたりしますし、投手なら10勝を超えていなくても選ばれるんですよね。シーズンの最優秀選手の賞じゃないんですよね。 あくまで芥川賞の性格は、そんな位置づけにあると思います。(新人が瑞々しく頑張っている姿を評価するのは、気持のいいものでありますが、ただ、私だけの思いかもしれませんが、そこには何か、新しいものが描かれていることだけはあって欲しいと思います。) 最後にもう一点。芥川賞の生みの親である菊池寛は、そもそもこの賞は商業ベースのもので、雑誌の宣伝の一環であると、賞を作った当初から書いているということも、ポイントでありましょうね。 ということを総合しますと、この度の作品の芥川賞受賞はまさにふさわしいと言っていいんじゃないか、という結論がでてきそうです……。 さてそんな大ベストセラーの読書報告です。 どうでしょう、純文学作品としてよく書けているんですかね。 私のバイアスのかかった感想を以下にまとめたいと思いますが、まず、文章的には取り立てて優れているという感じはしませんでした。ただ、一生懸命しっかり書いているという印象は持ちます。 展開的に私が面白いと思うのは、作品中に何か所か出てくる漫才やそれに準じるやり取りのシーンです。例えば、冒頭の「飼っているセキセイインコに言われたら嫌な言葉」のネタとか、主人公徳永が、神谷と一緒に最後に真樹の家に行く前の「泣く」事にまつわるやり取りとか、クライマックスの「反対のことをいう」というネタとか、とても面白く読みました。(これは私が関西人であることと関係があるかもしれませんが。) あわせて、そんなエピソードが、朝から晩までずっと漫才のことを考え続けている主人公の意識の中に割りこんで描かれていますので、この部分はほぼ古典的な「教養小説」(=「ビルドゥングス・ロマン」)であり、「職人物語」(料理人の話であったり、民芸品作者の話であったり、また、賭博者の話であったりと、分野は様々ですが)であり、さらには、すでに文学の世界ではとうの昔に滅びてしまったと思われていた「破滅型」人物が、現在の漫才の世界に生きていたのかという発見と驚きも感じられ、私は面白く読めました。 ……それだけ面白く読めれば、それでいいじゃないかという気はします。 これだけで十分じゃないかという感じはします。 ただ、例えば上記に触れた料理人の話を通して、結局のところ小説には何が描かれているべきかといえば、やはり人間なんですよね。 この度の作品が、間違いなく青春物語(教養小説は青春物語であります)であるならば、登場人物たちの成長或いは変化の過程が描かれているかどうかというのは、文学的にはかなり重要な要素だと私は考えます。(偏向します。) そんな視点を加えると、さて、どうでしょう。 点在する主人公たちの変化は描かれながら、しかしそれを線に(面に)広げる書き込みが十分なされているでしょうか。ひょっとしたら、それは展開として難しい部分もあったのかもしれませんが、やや重層的な深みに欠けはしないかなと、私は愚考するのであります。 ただ、最後の神谷の豊胸エピソードについてですが、私も最初はあっけに取られました。 しかしこの個所を「じっと」睨んで読んで、ああそういうことかと、わりとすとんと心に落ち着きました。 ここには、筆者の、「結局ちょっとええ話しやったなぁとは絶対にまとめさせんぞ」という、文学少年のようにピュアな意気込みが感じられるエンディングだと思いました。 なかなか意見の分かれそうな挿話でありましょうが、私は好意的に読めたことを付け加えたいと思います。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.06.08
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『西行花伝』辻邦生(新潮文庫) 以前瀬戸内寂聴の書いた西行の小説を読んだ時にも触れましたが、西行という歌人は、私のような和歌素人でも、少し気になる人であります。 今回、冒頭の長編小説を読んで(文庫で700ページ余りです)、もちろん何首もの西行歌が記されてあったのですが、何といいますかー、どの歌もとってもよい、と。 ずっしり重い歌から一筆書きのような歌まで、どれをとっても、「歌の力」(これこそが本編のテーマの一つでありましょうが)に惚れ惚れします。 以下に何首か書いてみようと思って、どれを選ぶかかなり迷ってしまいますが、二首だけ書いてみますね。(これ以上書いていくとキリがなくなりそうですから。) 道の辺の清水流るる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里 実は本書を読んでいて、私は途中で別の文章を少しつまみ食いしました。 まー、つまみ食いと言っても、そもそも私がなぜ西行に魅力を感じるようになったかの原因となった有名な文章ですから、完全にはつまみ食いとは言えませんが、それは、おそらくご想像通りの、小林秀雄の評論「西行」であります。 むかーし、たぶん高校生の頃読んで、おそらくちっともわからなかった評論で、でも何かかっこいいことがここには書いてあると感じた文章です。 たぶんその後も何度かチャレンジしつつ、もうひとつピンときませんでした。「西行」よりは「無常という事」や「徒然草」の評論の方が面白かった記憶があります。 その小林の「西行」を、この度本小説を読んでいる途中に読んだんですね。 すると、えらいものですねー、何かぐんと小林の言っていることがわかるような気がするんですねー。(まぁ、主観的な感想ですからー。) そのうえ辻邦生の小説を読みながらリアルタイムで私が感じていた「西行をめぐる三つの謎」について、なんと小林秀雄も同じ問い掛けをしているではありませんか。(まぁ、しょせん主観的な読解ですからー。) 私の感じていた「西行をめぐる三つの謎」とは、こうです。 1.歌道と出家の関係について(なぜ出家したのか)。 2.なぜ出家後も専一修行しないのか。 3.西行の歌の本質は何か。 しかしこうして改めて箇条書きしてみると、西行を論じるにあたっては、当然出てくるべき疑問という感じがしますねー。 特に私と小林秀雄が同じ思考経路をたどったというわけでもなさそうです。(なーんだ、というか、当たり前ですよねー。) しかしまあ、小林秀雄も辻邦生も、これらの問いにそれぞれ答えています。 読んでいて切れ味が鋭いと思うのは、やはり小林秀雄の書きっぷりですね。 それはもちろん評論と小説の差に加えて圧倒的な長さの違いのせいでしょうが、うっかりしていると、辻邦生が何十ページもかけて肉付けした内容が、小林は一行ですでに書いているじゃないかなんて思ったりしますが、もちろんそれは間違いですね。 辻邦生も頑張って書いています。 さて上記に挙げた三つの謎は、実は、一番と二番はセットでもあるんですね。本文中にその説明は至る所に描かれていますが、一つだけ抜き出してみますね。晩年の西行の独語の場面です。 陸奥の旅のあと、歌がまたとなく重く感じられるようになったのは、このことと無縁ではない。歌こそが真言なのだ。歌こそが、森羅万象のなかに御仏の微笑を現前すものなのだ。私はこの頃、歌を詠むとき、仏師が仏像を作るのと同じ気持ちになる。歌の現前す相は如来の真の御姿だと言っていい。 「歌こそが真言なのだ」というのが中心ですね。歌道修業が仏道修行である、と。 また、三番については、小林秀雄は「自意識が彼の最大の煩悩だった」といっています。全く上手な言い回しで、例えば私が西行に感じる魅力の源泉は、多分これなんだろうなあと大いに納得するものです。 一方辻邦生も、やはり同種の内容の答えを、これも本書のいろんなところにいろんな角度から書いていますが、その一つを抜き出してみます。本書の中心の語り手が、師匠である西行を語る場面です。 師は思いの丈を詠み切れた歌を最良の歌と考えていた。その点では迷いはなかった。師の歌は、激しい思いのなかへ踏み込んでゆくという趣がある。遠い風景を静かに見ているのとはまるで違う。心が身悶えしていると思えることがある。 ……ともあれ、700ページにも及ぶ長編小説を読んでいますと、終盤はやはり気持ちの上ではどこか高ぶってきますね。 ましてや本書は西行伝ですから、終盤は晩年の西行の描写となり読んでいてぐいぐい盛り上がってきます。本文中に散りばめられていた「伏線」も次々に回収されて、いよいよ西行の「きさらぎの望月」の死に、一歩ずつ近づいていくわけですね。 そして最後には、静かな深い感動が込み上げてきます。 小林秀雄も、有名な歌で評論「西行」を終えていますが、それは少し考えれば、やや小林らしからぬ感傷性ではないかと感じたりもするのですが、この歌であります。 願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2019.06.01
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