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2013.10.21
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『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ(ハヤカワ文庫)

 おや? とお思いになった貴方、そう、そうです。その通りですね。
 カズオ・イシグロは、そう、日本文学作家ではありませんね。この本の原文は日本語では書かれていません。

 グローバルな時代になって、何が日本文学なのかというのも、他国文学とほとんど交流のない現代日本文学(そのように私は思うんですが、でも、他国の文学の現状はと聞かれると、ほとんど何も知らないわたくしなんですがー)でさえ、さすがに少しややこしくなってきたように思います。

 取りあえず、原文が日本語で書かれていないのは受賞の対象ではないってのが、芥川賞なんかの基準にあったんじゃなかったかしら。まー、今のところ、それくらいしか現代日本文学の定義はしづらいんじゃないかと思います。
 そして、急に話は矮小化してしまうんですが、本ブログが近代(近現代)日本文学として取り上げる作品の基準も、実はそれに則っております。
 ……なんですがー、でも、まー、今回はあっさり、あまり何も考えずに本作を取り上げてみました。すみません。

 この作家の作品は、わたくし、初めて読むんですね。本作は主な舞台が日本(長崎)になっておりまして、そして主な登場人物が同じように日本人になっています。
 ところが上記にも触れましたように、本作は、イギリス国籍を持つ筆者が英語で書いて英国で出版され、そして日本語に翻訳された(翻訳者は小野寺健という方です)作品となっています。(ついでの話ですが、本の最後に「訳者あとがき」というのがあって、そこに、最初の訳の時のタイトルは『女たちの遠い夏』という邦題だったと書かれています。しかし、変われば変わるものですねー。こんな例って多いのでしょうか。)

 ……ということで読んだんですね。んー、しかし、なんとも、とっても奇妙な読み心地なんですね、これが。何と言いますか、「逆輸入」ってんですか、あるいは、例えば日本人がヨーロッパに行ってメイドインジャパンのお土産を買ってきたようなというか、あ、そうだ、これはプッチーニの『蝶々夫人』を見ている時に感じる、なんか少しヘンな感覚に似ているな。

 例えばこんな場面。主人公である女性の夫が、父親(当然年輩)とのんびりと将棋を指しているシーンなんですが。

「そうかもしれませんね。何しろさいきんは忙しすぎて」
「そりゃそうだとも。まず仕事だ。気にせんでくれ。さて、わたしの番だったかな?」
 二人はほとんどしゃべらずに将棋をさしていた。一度だけ緒方さんが言った。「こっちの思ったとおりにさしてるぞ。よほど頭を使わないとその隅でつまる」


 どうですか。なんかちょっと変な気がしませんか。
 これは、翻訳者が悪いせいでしょうかね。
 うーん、そんな気も少しはしないでもないんですが、やはりこの少しヘンな会話は、作品のテーマに深く関わっているような気がします。

 というのも、作品中、会話は頻繁に出てくるのですが、そのほとんどが、ヘンに噛み合っていなくて、いわば、会話することによって、お互いの心に不安が芽生えていくような仕組みになっているからですね。
 それはあたかも、未来にどうもよくないことが待っていそうだと何となく感じてしまうような、もやっとした薄暗い不安であります。

 その原因は、実は書いてあります。
 一人称の主人公の女性(たぶん初老ごろか)の長女が、かつていろいろあった末に自殺するんですね。一人称の語りは、それらが終わった後の回想形式になっています。だから、表現がそれを引きずっているわけです。

 でも本作の面白いのは、長女の自殺そのものについては、本当にさらっとしか触れてなくて、話の中心が、主人公がその長女をみごもっている時に付き合っていた少し年輩の女性とその子供との、細かな、ぼんやりとした、変な不安が漂いながらも結局何にも起こらない幾つかのエピソードになっていることであります。

 なぜそんなスタイルになっているかも、読んでいると分かってくるんですが、読みながら私は、これは一体なんだろうね、と考えておりました。
 何のことかというと、近いものを現代日本文学から探るとどうなのかなということですが、思いつきました。これは、「内向の世代」であります。この漠然とした不安はまさにそんな気がします。

 かつて太宰治は、悔恨の無い文学は屁の突っ張りにもならないというようなことを書いていました。
 悔恨と、そして安心感の持てない日常生活というものは、なるほど、世代と地域を越えて広く文学の濫觴でありましょう。


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Last updated  2013.10.21 17:45:26
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