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2015.06.13
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『英霊の声』三島由紀夫(河出文芸選書)

 上記短編集の読書報告の後半です。
 今、「上記短編集」と書きましたが、『十日の菊』は戯曲でありまして、だから短編小説二編と戯曲一編というちょっと何と言いますか落ち着きの悪い構成になっています。

 おおよそ、フォームの美しさを大切にする(だと思うんですが)三島由紀夫の著書としては異例であることは、筆者自身の後書きに準ずるもう一作『二・二六事件と私』の中に、一言触れられてあります。

 実は前回の報告は、三島の自作解説がとってもよくわかるということを、わたくし、書いていたのでありました。

 三島は自作『憂国』について、自分の書いた短編小説について、普段忙しくって小説なんか読んでいる暇がないという人が、一作だけ三島の短編小説を読むとすればどれがいいと聞かれた時(よく考えればかなりストライクゾーンの狭い設定ですね)、迷うことなく薦めるのが本作である、と書いています。本作には自分の短編小説の長所も短所もすべてが入っている、と。

 前回、許光俊氏の文章を取り上げ、慶応大学法学部二回生(たぶん)の許氏の授業を受けた学生諸君が、揃いも揃って『憂国』にぞっこんになったという話を紹介しましたが、確かに『憂国』には、短編小説の「力」めいたものがあります。読者の心臓を一気にわしづかみしてしまう力強さがあると感じます。

 何といっても文章によどみがありません。明晰でリズミカルで、まるで水が隅々まで染み込むような、読んでいて本当に心地よいと感じる文章を、わたくし久しぶりに味わった気がしました。

 本作からだけでも、三島の短編小説論が書けそうな気もするのですが、『憂国』の「力量」もさることながら、実は私が今回、読んで特によくわかったのは『十日の菊』でありました。

 この戯曲は、以前読んだ時は、ちょっとジミーな印象で、どこに注目すればいいんだかよく分からなかったという記憶が残っているのですが(しかし、今でも私の作品理解力なんて、ほんとに取るに足りないものでありますが、若かった頃の私のそれなんて本当にアリの脳みそ程度のものでありますなー)、今回は筆者解説により、そして3作一気に読んだことにより(でもこれも、前回も一緒だとは思いますが)、かなり見通しよく理解できた気がします。

 『十日の菊』の(恐るべき)テーマとは、例えて言えば、『憂国』の主人公竹山信二中尉と麗子夫人が見事自刃したと思ったら、のこのこと玄関口から入ってきて(麗子夫人はわざと玄関を閉めなかったんですね)、二人の「遺体」を診て、「あー、この程度の傷なら大丈夫、ちょいちょいのちょいで生き返ります」と言って無理矢理手術をし、見事生き返らせてしまったお医者さん、といった役割が「菊」というおばさんの存在ということであります。

 たぶん三島は彼女に対して、ケーベツというよりはある種の「恐れ」を抱いていると思われます。(確かに上記のようにまとめてしまうと、とてもコワイおばさんです。)
 ただ三島のうまいところは、この「菊」を恐れる感情を、俗物の代表格であるような主人公「森」に語らせていることです。しかし本来これは三島自身の恐れであるはずです。

 三島は、「年を取る」ということを、ひどく恐れていた方であったようですが、「年を取る」ことの正体こそこれであり、そしてもちろんこれは、三島の自殺に大きく係わっていると思います。

 ところで、上記に触れました本書の自作解説で、三島はこの連作のテーマをこのようにまとめています。

『英霊の声』→狙って死んだ(殺された)人間
  『憂国』→狙わずして死んだ(自刃した)人間
  『十日の菊』→狙われて生き延びた人間


 なるほど。しかしこの組み合わせには、あと3種類ほどが欠けていますね。
 「狙って生き延びた人間」「狙われて死んだ人間」「狙わずして生き延びた人間」であります。

 そのうちまず、組み合わせの要素としては成立するが実際には成立しないのが、「狙わずして生き延びた人間」ですね。このカテゴリーは、要するに普通の人間一般を指します。
 次に「狙って生き延びた人間」。これについては同文章に、一定食指を伸ばしかけたが先人に優れた作品があったと紹介して、すでに書かれていると解説しています。

 では最後に残ったカテゴリー、「狙われて死んだ人間」。これが、少し気になるんですねー。
 言うまでもなく、三島は「狙って死んだ人間」か、それに準じて「狙わずして死んだ人間」になりたかった、絶対にそうなりたかった、と思います。
 しかし、ふと足元を見たら、「狙われて死んだ人間」がいるじゃないですか。そしてこのカテゴリーにも、三島が「おいしい」と感じる要素が存在しているのであります。

 『十日の菊』の「狙われて生き延びた」とは、本当のところは、せっかく狙われたのに死なせてもらえなかった、というのが正しい書き方であろうと思います。
 でも、「狙われた」という部分については、大いに魅力的であります。そもそも狙ってもらえなければ、話にも何にもならないからですね。(作品中に、その事に直接触れた一節があります。)

 しかしいくらなんでも、じゃあ「狙われて生き延びた」でもいいやとは、三島は言えんでしょう。とてもじゃないが、三島の美意識が許しません。
 だからたぶん、三島の心情の一部を託したはずの「森」は、俗物の元政治家と設定されたのでありましょう。

 ……うーん、どうなんでしょうか。
 上記に、私は『憂国』はかなり力を持った作品だと書きました。しかしなんというか、三島の世界の美意識を突き詰めていきますと、『憂国』にしても『十日の菊』にしても、どこかこういったところに滑稽感が漂います。
 と、書いてしまうことが、すでに私の鑑賞にバイアスが懸かっている証拠なんでしょうか。

 三島が割腹自殺をした時、三島は自身自分のやっていることの愚かさが十分わかっていて、それでもやったのだという論調のコメントが少なからずあったように思います。
 「愚かさが十分わかる」とは、己の偏愛する美意識(生のアイデンティティ)の不可能性と滑稽感という事なのでしょうか。
 みんなわかっていてとは、詰まるところそういうことであるのでしょうか。


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Last updated  2015.06.13 11:13:33
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analog純文 @ Re[1]:父親という苦悩(06/04)  七詩さん、コメントありがとうございま…
七詩 @ Re:父親という苦悩(06/04) 親子二代の小説家父子というのは思いつき…
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