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神の使者昨日ようやく読み終えました。久しぶりに、新しいビジョンが見えた内容でした。というか、古いビジョンを壊されました。このごろ私は「A Course In Miracles」(奇跡のコース)にとても興味があるのです。奇跡のコースは1965年から74年の間にわたってイェシュア(イエス・キリスト)が学者さんに伝えたメッセージがそのまま私たちのこの星での学びの教則本になっているものですがまだ日本語訳がでていません。「神の使者」はそのコースの副読本とも言える内容になっています。率直に言って、最初この本の内容はちょっと受け入れにくかったのです。なぜかと言うと、「神の使者」ではスピリチュアルの原則ともいえる「意識」「エネルギー」「進化」「宇宙」といったことがらをこてんぱに「否定」してくるのです。ですが、私が待っていたのはこの「受け入れ難い」という真実でした。スピリチュアルの本を読んでいても最近はなかなか受け入れ難いことに出会えませんでした。ホ・オ・ポノポノのような、違和感でなしに(あれは、真実のごく一部を切り取って「これが真理だ」と言われているような違和感。間違ってない=真実、ではない。その裏にエゴの陰ををちらほら見てしまう。)「見えざる真実に気づいていないことに気づいていない」自分を見せてくれるというそういう体験を私は求めていました。そしてまんまと出会いました。私はこれまで、自分に必要な学びのほとんどを本から得てきました。本当に求めている本を手元に引き寄せるのが得意です。そして、それを知識としないで必ず自分が実践してきました。というとかっこいいけど、私の場合そうしないと人生がにっちもさっちも行かなかったのです。常にがけっぷちでしたから。それでまたマインド・トレーニングの話しになりますが神の使者を読んだ後でもやはりこれを取り入れておいてよかったと感じました。マインド・トレーニングがシャクティー・ガウェインによって書かれたのは80年代ですが恐らくコースの流れを汲んでいるのではないかな。ちなみにマインド・トレーニングでは宇宙という言葉が頻繁に出てきますが神の使者では、宇宙そのものを幻想と言っていてそれは罪悪感の顕現であり神の創らなかったものとしています。私はシャクティーが宇宙と呼んでいるものは神のことだと思いました。私はそもそもこの世界の仕組みを知りたいと子供の頃から願っていて悟りとか超越とか大いなるものとか今、とかという言葉に惹かれました。もの心ついたころから心には苦しみがあり争いがあり、憎しみがあり、殺人があり、愛憎のドラマがあることに悩みました。神と呼ばれるものが生活の中に点在しておりしかしこの世ではそれが機能不全であるかに見え人々はどこか絶望しており神の教えに背きながら神だのみをする大人たちをたくさん目の当たりにしてきました。真実を教えてくれる大人はいませんでした。大人は子供よりさらに迷っていました。どうして大人は子供の時に知っている真実(例えば平和や愛は何より尊いとか)を忘れてしまうんだろう私は大人になっても今心に感じる問いかけを忘れまいと思いました。「自分を再教化する」などというとほとんどの大人は嫌がります。洗脳でもされるんじゃないか、とか、このままで自然にしあわせになりたいんだとか。ですが、人間は「自然に」大人になることでどうなるんでしょうか。「神の使者」の中で胸のすく一節があります。「自然がスピリチュアルだなんて思ったら大間違い。大自然のジャングルをごらんなさい。すべては弱肉強食の法則で成り立っているのよ。」そうです。私たちは自然に生きると弱肉強食、食うか食われるか、戦うか逃げるか、といった本能で生きることになります。それが今、ここにある、世界です。もし、愛を生きたいなら、平和を、天国を生きたいならそれを選んでください、そしてそれを選ぶなら、7割でなく完全にそれを選んでください。7割妊娠してる、という事実がないように7割愛と平和と天国を選ぶことはできません、とメッセージにはあります。引き寄せの法則を使って、7割ほど現実をしあわせに構築しているスピリチュアリストにとってそれはまったくがっかりするニュースかもしれません。でも結果的にはそれほどがっかりすることはないと思います。私はこの体験と出会いながら、なぜコースが今まで日本語訳されなかったのか不思議でした。だって今こうしてたくさんのスピリチュアルメッセージが日本にありますがコースは恐らくそのどれよりも古く(ケイシーやフローレンス・コスヴェルシンは別だけど)そして体系的だというのに。そしてある時納得しました。日本に神(宗教の概念でない)を受け入れる土壌があの時はなかった。スピリチュアルの概念を通して大いなるものを受け入れる準備をしていたのだ。私も先にコースが来ていたらしんどすぎてスルーしていたかもしれない。それよりなにより、概念に頭を支配されていて理解できず誤解してしまったかもしれない。そして本当の出会いはもっと遅れたかもしれない。ちなにに、みなさんおなじみの(?)「数字は天使からのメッセージ」を読んでいると(ご存知ですか?目にした数字には天使からのメッセージがこめられています、偶然ではないんです、という教えでシクロニシティに親しむことができます。ミクシィにコミュがありますので良かったらご参照ください。)「A Course In Miraclesにもあるように・・・」といった記述が出てきますよ。私はその中でとても気になっていたものがあります。「祈りを変えるようにと創造主は言っています。もしあなたが健康や豊かさについて祈っていたのならこれがそれに対する答えです」というような内容です。何番だったか忘れてしまいました。みなさんはこのメッセージの真意がおわかりですか?私は「神の使者」を読み進めるうちに、数字のメッセージの中で唯一腑に落ちなかったこのことを思い出しそのメッセージの意図が腑に落ちました。そればかりでなく、祈りとはなんなのか、がわかりました。それから、「神の使者」ではニューエイジをこっぴどく否定していますが悟りに最も近い現代人といわれているエックハルト・トールのニュー・アースの取り組みはやはり大きな一助となる気がします。エゴは解体されるべきもの、という表現は全く同じです。長くなりましたがまた!
2009.05.29
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久しぶりです。歌うのが久しぶり、という状況が久しぶりなのでちょっと緊張してます。でもまあどうしたってできることしかできないので普通に準備して普通に臨みます。そして、そろそろワークショップの準備をしたいと思い出しました。場所から考えなければならないですが・・・考え始めようと思います。東京でのミラーマジックはとてもとてもおもしろく毎回おどろきがありました。また東京でもやりたいです。ワークショップ受けに沖縄へ、なんて感じで来ていただけるようなことを夢見ています。
2009.05.28
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本当のわたしもしあわせも、かたちにしていろんな人に見せることができません。言葉にすることも本当にはできません。本当に知るには、それを実際に感じてみてこれかな、これのことだな、と真実に迫るしかありません。でもひとたびそれを感じたならそれは瞬時にわかることでしょう。でも実際にそれに出会うには、やはり自分の心と向き合う必要があります。なぜなら私たちが「これが真実(事実・現実)で私はこう感じている」と感じる心には多分に思い込みのフィルターがかかっているからです。それは潜在意識にインプットされた記憶でありイメージであり価値観です。もっと大きく言えばこの世界が植えつけた概念そのものが作られた価値観であり、エゴというアイデンティティです。自分の心と向き合うというのは辛かった過去をほじくりだしたり、原因探しをしたり自分の感情をどこかにぶつけたり吐き出したりすることではありません。そういう作業をしたほうがはかどることもありますがそれだけでは向き合ったことにはなりません。向き合う作業とはエゴが私たち自身になりすまし私たちの人生や選択、価値観を勝手に操っている状態からその主導権を取り戻すことにつながります。そのためにはエゴがしていることを知ってエゴが我が物顔にしている状態を返上する必要があります。もし、自分の心と向き合うのは恐い、と感じるならそれこそがエゴの成せるワザです。なぜなら、真の自己、しんのしあわせの中にエゴは存在できないからです。消滅を恐れるエゴの反応です。魂と潜在意識、愛と真の心はいつだって本当のあなた本当の私を歓迎しています。恐れを恐れないで恐れる自分自身をゆるしてあげてください。あなた自身を裁いているのはあなた自身しかいません。ゆるすとは裁くのをやめることです。裁かない時、裁くのをやめる時私たちは、すべては自分の中にあるということを知ることができます。私たちが裁くとき裁かれるべき何かを生み出します。本当のわたしとは本当のわたしの心が還る場所です。しあわせとは、本当のわたしのすみかです。
2009.05.24
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沖縄で最もいけてる名物は、やっぱりおじいとおばあ。私のランキングではいまのところこれです。海もいいけど、やっぱりおじいとおばあはいいんです。私は生まれる前におじいちゃんが2人とも亡くなっていたのでなんとなくこの人生、おじいさんというものに馴染みがなかったのですが祖父の亡くなった地に住んで、名物のみなさんになんとなく囲まれて生活しているのは楽しいです。だんなさんの仕事の、訪問鍼灸リハビリの宣伝のためにチラシ配りをしているのですがちょこっと坂を上がると、そこは別世界です。みなさんが沖縄から連想するような赤レンガに木の古い民家が並んでいたり道をひとつ隔てるとごく普通のモダンな家並があったりと。で、古いほうの世界には絵にかいたようなおじいとおばあがいてチラシをポストに入れたいんだけど、必ず手招きされてしまって結果的に訪問セールスみたいに説明して回るはめになってしまって全然進みません。そして多分、ほとんど話しは通じてないみたい。「役所に電話すりゃいい?」とか言われてしまう。役所ではダメです^^;昨日はチラシを蒔いたら早速お電話をもらって、それがなんと高校生でした。訪問リハビリは基本的に通院の不自由な方に健康保険を使って受けていただけるシステム。高校生の彼は部活で故障して明日が試合らしく、テーピングをしてほしいということで結局遅くにうちまで受けに来てくれました。ケガのことをご両親に言えないらしく、おこずかい千円握り締めて「10分でお願いします」って^^で、帰りに「しばらく通ってもいいですか?10分の客なんですけど」って。あまりにかわいくてだんなさんもいいよって言わざるを得なかったようです。テーピングだけなら5分でできるけど、やっぱり良くなってもらいたいじゃないですか^^それからその前は、大きな手の訪問の患者さんのおばあのところにだんなさんが初めて行ったとき担当が代わるという事でおばあ少し心配だったようで「研修の先生じゃないの?」と何度も念を押していたそう。「研修じゃないよ、この先生は上手だから大丈夫」と、大きな手のボスが何度も言ってくれたらしいのですが心配そうなおばあ。そして鍼の施術が始まるとおばあ、いきなり喜んで安心した様子。聞くとおばあの亡くなったご主人は鍼灸師だったんですって。「あ~気持ちいいね~、おとうさんの鍼に似てるね~、おとうさんに鍼されてるみたいね~」と何度も言ってたそうです。鍼灸師の妻どうしなので、話しを聞いた私もぐっときました^^帰りにおばあが主人を見て「あら、あんたきれいな目をしてるね~」と言ってくれたそうで主人もうるっとしっちゃった、と言ってました。先日はうちの前の川(いつも言ってるけど名前のない干潟の延長のどぶみたいな川です)縁でいつもゆんたく(お話し)してるおばあがいるんですが私がいつものように橋の上でカメさんとお魚さんと鳥さんのチェックをしているとおばあがいきなり「カミさん(カメさんのことみたい)いっぱいいるよ。ほれおばあこうしてカミさんにえさやってるさ~。いっぱいいるよ~。」と、パンのみみを握り締めて話しかけてきました。楽しいので相槌をうってしばらくお話ししてましたが、おばあが「そんであんた、今日は、なに?勉強の帰り?」と。買い物のエコバッグが塾かなんかのバッグに見えたのかな。それにしても、子供と間違えられてたとはびっくりしました。おばあにとってはたいした間違いではないんでしょうけど^^豊見城ビーチの夕日。
2009.05.17
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5月、沖縄に来て4ヶ月経ちました。みなさんお元気ですか?こちらでもヒプノのセッションを順調にさせていただけていて毎回のセッションにいつもながら新しい発見と新鮮な驚きとを与えていただき充実した時間を過ごさせていただいています。いつも言っていますが、自分の心に取り組むことは平和と愛に取り組むことと同じです。私の来てくださる方は、そのことに気づかれていらっしゃる方が多くお手伝いさせていただけることに感謝せずにはおられません。この世のすべての人が恐れを手放し愛という存在として天国を生きる日を夢見ています。私が人生で費やすのは、そのための時間なんだなーとつくづく思いました。そしたら、またいちだんとこの世界もクリアに見えてきました。天国を見る瞬間がとても多くなりました。妹から「・・・あんまり早く死なないでね」と言われていますが^^季節はずれになりましたが、妹作 さくら
2009.05.14
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だんなちゃんの子供のころからのお友達カップルが読谷に旅行とのことで会いに行きました。読谷村(よみたんそん)は沖縄本島の中部にあります。だんなさん、いささか泡盛飲みすぎで店員の女の子にうちなーぐち(沖縄ことば)をやたら聞きたがってちょっとひかれてました(若い人はうちなーぐちわからないし、よくいる観光客のおじさんぽかった)がとても有意義で楽しかったです。だんなさんは以前は物事の核心的な話には一歩引いて話しに入らないところがありましたがこの時はどんどん踏み込んでお話ししていて彼の中でいろいろなことが育っているのを感じました。特に人と向き合うとか、パートナー(私とってことですが)と人生を分かち合うということがどういうことなのかについて彼は「よくわからなかったり不快だったり面倒だったりということがあってもそれを相手のせいにせずに自分に問いかけてみる。自分の内側の何が自分にそう感じさせているのかと問いかけることをしていると自分の思い込みや無意識だった部分が見えてくるんだ。その気づきが今度は別の人間関係に反映されて、これかぁって思うんだ。」というようなことを話していました。そういった発見から内面が自由になっていくことがおもしろくて仕方ない、といった様子です。さて、読谷は飛び切りきれいなビーチがたくさんあります。残波(ざんぱ)ビーチ。それにしても、休みもとらずに平日にちょっとこんなところで過ごせてしまうような環境ってやっぱりものすごくしあわせですよね。夢のようです。
2009.05.08
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少し前まで私も心のどこかで、この世で成功しなければスピリチュアルの真髄を生きたことにならないのではないかと思っていた。今はそれは全く関係ないのだということがわかってしまった。それは、この世にたくさん所有するのが悪いことだという教えとも全く関係がない。別にたくさん持ったっていい。持っていなくたっていい。どっちが上でもないのだ。つまりどういうことかというと、人のしあわせの本質(目覚め、満たされること)と持つ持たない、達成するしない、は全く関係がないということがわかったからだ。よく「しあわせの形は人それぞれ違う」というがそれは、やがて来ては過ぎ去るエゴの欲求の次元での話しで本質はすべてが過ぎ去ってなお輝くもので、ひとつだ。過去のいろいろなスピリチュアルの情報は、人々をエゴの幻想のストーリーのスパイラルから逸脱させるための方便や喩えがたくさん含まれていた。多分、最初からこうすべき、と言ってしまったら人類は恐れをなして誰もチャレンジしないだろうとマスターは知ってたに違いない。もしくは従来の「すべき」的な道徳説教と混同されてしまう。今すぐしあわせになってもいい、というのは真実だ。でも人は何がしあわせなのか、すらもよくわかっていない。人類で本当のしあわせに到達した人がまだそういないのだ。でもそんなこと言ってしまったら、しあわせへの道を目指すのは生まれつきキリストやブッタになるべく生まれついた人かすごい勘違いしてる類の人に限られると思われてしまう。何度も言うけど、しあわせを探求すると人は目覚めへ向う。ある意味人類の義務なんじゃないかと思う。こういうことを言ってると、多分セラピストとしての人気は落ちるだろうなとは正直思った。でも気づいてしまったので仕方ないと思う。だからといってセラピーが自分の必要を満たすために役に立たないかというとそんなことはなく、やっぱり役に立つ。それはやはりこの宇宙には確固たる法則があり、その法則を知って実践すれば、その法則は機能するからだ。この世で行き詰る体験に行き当たった人は、すごいチャンスを得ていると思ってもらいたい。それは古い法則から目覚め、新しい(本質)のやり方へと移行するためのウェイクアップ・コールだからだ。友人が、しあわせを求めているけどやり方がわからないと言っていた。それは、自分の頭の中や世の中の知識に頼ろうとするからだ。まだ人類が到達していないというのに知識に頼ったってそんなことできるはずがない。だから私たちは奇跡や愛(完全なるひとつ)の力を借りる。奇跡や愛は私や宇宙の一部ではない。こころをそこに向ければそれは在る。在ると仮定して求めてみてください。必ず答えが返ってきます。さて、自分のこころの痛みや苦しみは個人所有と思われがちですがそんなことはありません。それは4大悲劇に代表されるように連綿と引き継がれてきたエゴの葛藤、戦いの歴史でもあります。それに取り組むということがどれだけ偉大で重要なことか知ってください。それは数千年と解けなかった人間のこころのからくりに挑むことです。戦いを終わらせましょう。そのためには、その正体を探求し取り組まなければなりません。ですから私はセラピーを受けにきてくださる方はみなさん、この世に天国を創りにいらした使者だと感じます。これはセラピーの宣伝ではありません。(笑)妹が描いた「もやし」
2009.05.06
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はいさい(初めて使いました!)沖縄はこのゴールデン・ウィーク最高のお天気です。我が家は暦関係なく月曜だけのおやすみですが^^地元の方のお話だと、こんなこんなゴールデン・ウィークは珍しいそう。というか、今年のお天気はずっとイレギュラーのようです。ゴールデン・ウィークに沖縄旅行されたみなさんはおめでとうございます。海開きを迎えて、美々ビーチに人がたくさんなところを初めて見ました。夕日はこんな感じです。やーすごい迫力。そして、なんと沖縄に来て初めて虹を見ました。ケータイカメラなのでこれが限界でしたが、すごいタイミングで現れましたよ♪さて、みなさんは思いやりのある人が好きですか?私は好きです。1988年に下北沢の駅前劇場で「M版 不思議の国のアリス」という芝居をやって私はアリスの役をやりました。ルイス・キャロルのおとぎばなしとはかけ離れた物語で、それは原発事故のあと、シェルターでわずかに生き残った人の断片的なシーンのコラージュでした。そこで描かれたアリスは象徴でした。アリスは肉体を持っていましたが、持っていないかのような存在です。彼女は人や物事の深部を映し出す鏡で、人々のエゴによる思いにことごとく問いかけをします。つまりそこはエゴとそうでない世界が描かれていたのです。舞台は円形のぼんと呼ばれる回転する舞台で中央には丸い池があり真ん中に木が立っていました。(ぼん舞台からすべて自分たちで作りました。)その木は、わずかな人間たちの命をつないでくれている水や空気を循環させてくれている存在でしたが人々は恐怖と悲嘆からその木を逆恨みします。アリスはその木と一体になり、その木を守ろうとして死にます。人々のあまりの嘆きの思いを浴びて死んでしまうのです。アリスの死により目覚めた人々は小さな木の苗を新たに地球に植える決意をし方々に散っていきます。アリスは死んでしまいますがその命は、彼らの植えた苗とともにこの大地に花を咲かせ、実を残すだろう、というお話しです。当時はそんな風に解説など誰もしなかったけれど私はこの芝居をとても愛しています。私は真っ黒い長い髪をしてまっしろいサテンの総タイツに真っ白いコートの衣装でメイクをして仲間の前に立つとみんながびっくりしていました。「この世のものじゃないみたい」どうしてそうなるのか当時ははっきりわからなかったけれどそれはアリスという聖霊のためだったのだなと思います。芝居をするとき私はたくさんの大いなるものに守られている感覚の中にいました。物語の最後にみんなが小さな木の苗を手にして言うセリフの中で「アリス、おまえは・・・人々の何でもない悲しみを自分のことのように感じ取り・・・」というのがあります。思いやり、ということを思うとき、私はいつもこのシーンがよぎるのです。
2009.05.05
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