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先日、玉川大学名誉教授の岡田陽先生が亡くなられたことを書いた。同級生がメールで知らせてくれて先輩からも電話がかかってきた。やんちゃなガキ大将風のその先輩はべろべろに酔っ払って電話してきて岡ちゃんが死んで悲しい俺の気持ちをみんなわかってくれないともんくを言った。そりゃ、わかんないでしょうよ!86歳のおじいちゃん大学教授が亡くなって出張先の福岡で傷心で一人べろべろになってる43歳の男の気持ちは!だけど、そういうことが、この世にはある。私の学年でも、男の子が(43歳のね)2人実況でメールを流してくれておつや、お葬式、そして大学の追悼礼拝のことを伝えてくれた。そして先日玉川学園で行われた追悼礼拝には同級生数名が参加してくれてその写メを送ってくれた。おっそろしいほどみんな変わってなかった。何気なくネットで岡ちゃんの名前を調べるとどなたかがアップしているyou tubeの映像をみつけた。まったく知らなかったのだが昨年公開された映画「明日への遺言」は岡ちゃんの父上の実話だったということだ。B級戦犯として処刑された岡田資中将というのが岡ちゃんの父上。息子として岡ちゃんも劇中に登場しておりそのプロモーションなのか岡ちゃんがトークしている映像もあった。YouTube-岡田資~誇り高き生涯~映画もアップされていたので英語部分の字幕はないが見ることができた。藤田まことさんの主演で、意外に感じたが描かれている内容はすばらしいと思った。えーっと、彼は悟っていたんじゃないだろうか・・・と感じた。岡ちゃんは岡田資さんのご長男で、教育界、演劇教育界においてすばらしい貢献をされてきた方だがこの映画が世に出てお父様の久遠なる思いを伝えることができてきっとようやくご使命を果たされたのではないだろうかと思った。どういったいきさつで映画化されたのかわからないが岡田資さんの魂が今この時このタイミングでこそと満を持して地上に降ろされたように私には感じられる。映画としておもしろいかどうかよくわからないけれど私は岡ちゃんという大きな存在を通して父上の存在を垣間見ることができるのでとてもありがたい。大きな存在、というのは大きな慈しみを知る心のことなのだと思う。あなたの蒔いた種は静かに、そっと、根を張っています。あらためて感謝します。
2009.12.26
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メリークリスマス♪今日は豊見城は気温21度。曇りですが、とても穏やかな日和です。昨日は祝日で最高のお天気でした。冬至を越えて新たな扉が開いたことが肌で感じられました。うちの前の虹こうえんでは家族で遊ぶ人がたくさんで半袖Tシャツで遊ぶ人、そしてなんとカキ氷とアイスクリームの屋台が出ていました。なんてことのない公園であれだけの人出にも屋台にもその売り物にもびっくりです。さて、クリスマスにちなんで、今日は彼(J)からのメッセージを紹介します。「あなたがこの世の光である。」この言葉を自分に向かって言ったときどんな思いがわきあがるだろう。もしこの言葉が自己賞賛に聞こえたとして優越感でちょっといい気分になったとしても逆に謙遜すべき気持ちがわいてきたとしてもどちらにしてもそれはエゴの声です。もしエゴに取り組んで解体が進んでいればそれは自分の真実についての言葉だという風に受け取ることができるだろう。エゴを解体していくと自分と他はすべてひとつで同じものという知覚が開いてくるので上下という価値観が薄れていきます。ですので「あなたはこの世の光」という言葉もすなおにただあるがままの真実としか受け入れられないはず。それによって誰かより優ると誇示することはなくそれを自分のこととして受け入れることで人を蹴落としたり比べたりしたという罪悪感もわかないなず。そして「あなた」という呼び声はあなたのつながるすべてへの呼び声でもあります。あなたが「自分」についての真実を語るときそれは神について、そしてすべての存在についての真実を語ること。今日みなさんがご自身の光とともにある一日でありますように。メリークリスマス♪
2009.12.24
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心を平安に保つ、ということがどうしてそんなに難しいことなのか、と考えているとエゴの探求からさらに本能、という課題に行き当たる。妹と話していて本能の話になったのだけど「あ~エゴどころじゃない、本能なんだ~!!!」とものすごくガッテンしてしまった。本能は命を守るためのシステムだ。外敵というものがあると仮定して外敵から身を守り種を存続するために自然に働くシステム。人間、という種も宇宙のシステムから見れば肉体でありこのシステムによって生かされている動物である。ところがこのシステムにのっとって生きていると私たちの肉体は常に危機にさらされておりその外敵から身を守るためには常に「戦うか逃げるか」という選択を強いられこの選択肢を機敏に選択した固体は生き延びこの機能の愚鈍な固体は哀れ淘汰されていく、という筋書きになる。弱肉強食。そこには本質的な平安は存在しない。わずかな休息があるだけだ。だがスピリチュアル、という生き方はこのシステムを根本的に否定し人間は霊的な存在であり命とは肉体のことではなく永遠に存続する無限の存在であるとする。その中枢は愛であり生命の源は愛である。スピリチュアルの世界では宇宙=神=愛のように使われることが多いが宇宙の源はこのように考えると肉体の生命力でありこの宇宙の生命力と神の原動力=愛を混同してしまうといろんなことがワヤになってしまう。「神の使者」で言われる「宇宙すらも神が作ったものではない」というのは生命を存続させるシステムである「本能」は神の神秘ではない、という意味にも取れる。スピリチュアルに生きるにはただそれを信じるだけでなく体内のシステムをそのように切り替える必要がある。そうしないと、いわゆる頭だけで理解しているが、心と体はついていかない、という状態になってしまう。ではどうやってそのシステムを切り替えるかというと脳の本能のスイッチを切るのである。古の聖者の法であるが、瞑想がそれだ。瞑想、というと敷居が高いが要は脳のリラックス、催眠状態もそれである。またレイキによって起こるリラックスもそれだし魂が踊るような好きなことに熱中している時にもそれは起こる。本能から完全に自由になるとき肉体の死は恐れるに値しなくなる。死の恐怖を感じないようにすることとは次元が違う。その境地はすべてを味わい尽くしあらゆる感覚、知覚を堪能し超越しなければ来ないだろう。でなければ人はのこのこと肉体の知覚を持ってここへは来ないと思うから。もし心にあれをもっているならあれを無視しちゃだめだ。偽善者になってはいけない。偽善者は、心にあるものをないことにする。私たちが持つ本能を本能という知覚でなしに味わうことで私たちは本能に支配されない。人間という乗り物を乗りこなすのだ。平安。実はかなりエキサイティング。
2009.12.18
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沖縄は春。ここ数日、春です。一昨日なんて、ベランダの窓全開のままご主人は床でうたたねして明け方目覚めたようです。ものすごくびっくりしました。東京だったら凍死しちゃいそうな気がします。私たち夫婦は四季の匂いに敏感です。最近の沖縄は春、秋、冬の匂いがでたらめにしてきます。そのたびに私たちは、今は秋だね!今日は春だね!もうさすがに冬だね!と言い合っていますがきっと沖縄の人には私たちの嗅覚に結びついた四季の記憶とは違い今の季節がだいたいこんな匂いの幅、っていうのかこれらが今の匂い、なんだろうな、とか話し合ったりしています。だからたとえば私たちの子供に「春の匂いだね」と言っても通用しないんだろうな。だって春じゃないし。環境、気候ってすごい影響力ですね。食べたいものから気分から違ってきますものね。沖縄=のんびりって東京の人は言ってたけど実際のんびりした人にはそんなに出会っていません。どっちかというとせっかちな人のほうが目立つ気がします。早口の人も多いです。ただ、車の運転はゆっくりの人が多いですね。一年近く経ったけど、概ね変わらぬ感想です。最近は「だはず!」って言葉を覚えました。まちがいない!みたいな感じと解釈しています。まだ内弁慶にうちの中でしか使っていません。ネイティブの皆さんの前で使うチャンスはまだないです^^主人は職場でいろいろ使ってみるけれどイントネーションが違って通じないこともあるみたい。外国だな~。普天間基地のことが全国区のニュースになっていますがどうなんでしょう。外から見る基地問題と内部で感じるのには結構温度差もあります。ここから空を見ていると結構な頻度で軍のヘリが間近をぶんぶん飛んでいます。住宅地で落っこちたりしないでくれよと思います。だいたい、誰がなんと言おうと、ここは日本なんだしアメリカの軍隊の基地があるなんて、そりゃもう異常事態ですよ。日本は戦わない国なんだし。ここは戦闘戦略的にとてもいい場所だそうですが結局何かあって犠牲になるのはここの島の人たちだってことだよね。私はこっちで心のセラピーをしているけれどトラウマの質的にとってもきつい人が多いのが気になってます。トラウマっていうのは現世で言えばほとんどが家族、親族の中で作られ引き継がれているものです。伺っていると、お母さんの世代は兄弟や親戚がが何人もひどい死に方をしていたり戦争で傷ついている人がちょっと上の世代にはたくさんいるんです。私もおじいちゃんは戦死ですが沖縄にはそういう人がすごく身近にたくさんいます。傷ついていないわけがない。でも身近すぎてそれが影響してることにもまだ気づいていなかったりもする。みんなそうだから。うちの母もよく「私の世代はみんなそうだったから」と言っていました。みんなそうだろうがもっとひどい人がいっぱいいようが人間の心はとても小さなとげにうんと傷つくものなんです。医療関係の方のお話では沖縄は精神病神経症の患者さんはやっぱり飛びぬけて多いそうです。沖縄のこの自然と同じように人々の心が心底平安でありますよう。癒しの必要なところに光がありますように。できることをこつこつと私もがんばります。
2009.12.12
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ご無沙汰していましたが無事お引越しも完了してセッションも再開しています。ご心配おかけしたり応援くださったりみなさんどうもありがとうございました。今回のお引越しはこれまでの反省も踏まえて疲れないように、けんかしないように(笑)がテーマでした。お引越しって物理的にしんどいのはもちろんですがおそらく深層では恐怖を感じるものなのではないかと分析しています。生きる場所が変わるというのは環境、気候の変化を度外視したとしても本能的にサバイバルのスイッチが入る行為のんだろうな、と。なので主人を見ていると思うのですがやっぱりすごく気が立っているんです。で、沖縄に来てしばらくはものすごく短気でせっかちになってまわりじゅうに当り散らしている格好でした。それからしばらくするととても落ち着いて穏やかになり引越しでわたしもたいへんだったろうにあんなことしてたら奥さんが病気になってしまう、なんてことしてしまったんだろう、とすごく反省していました。それで今回は「けんかはなしね」「なかよくね」と引越しのあいだすごく心してかかったわけです。それで、わたしはというとほとんどひどい疲れもなく淡々と過ごせたのですが今度は主人がものすごく疲れてしまいました。わたしがあまり疲れていないのを見て主人が「今回あんまり疲れてないね、どうして?」と言うので「どうしてかな、レイキのせいかな」と言うと主人が「違うよ、俺が当たってないからだよ!」(笑)それで主人のほうは私に当たって発散できなかったので自分の毒にやられて疲れてしまった、という見解で一致しました。すごく笑えましたけど。それでも私自身にもからだの変調はやはりあります。引越しのときにしかならない症状なのでやっぱり移動って大変なことなんだなーと思います。わたしは手にけがをするとすごく元気がなくなったりして主人は口内炎を作るとやっぱり元気がなくなります。その度に「人間って、なんて弱いいきものなんだ!!!」って言い合ってだからこそ、どんな時にも、どんな状況でも心に平安を保つ存在「マスター」になりたいとすごく願うのです。本当に、どんな状況でも自分にも周囲にも優しくできる状態ってすごいことだと思います。今回主人と私のチャレンジは当り散らすよりは少し進歩しているようですがただ我慢するだけだと結局はストレスが自分に返って来てしまいますし元気のない主人を見てると私も結局ストレスになってしまうのでやはり我慢なく、ありのままで健やかでないと結局は苦しみは移動するだけ、巡りめぐっているだけになってしまう、というとてもわかりやすいサンプルになったなーと思いました。けれどもちろん、自分の行いや心の状態に目を向け内面に取り組み気づきを得ることは何より清い一歩には違いありません。小さなことですが、課題をみつけて日々の中で平安の実践をすることはそれ自体が幸せな取り組みだなーと思います。一緒に取り組んでくれる主人にも本当にありがたい気持ちです。
2009.12.10
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