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自然の地異は そのかたみに おたまじゃくしを降らした この村にひとしきり おたまじゃくしは 悲しい追憶のように音たてて 木々のこずえに 家々の屋根に降りしきった 詩人立原道造ありせば さぞかし驚いたことだろう テンテン テンテケ 天の声 ケンケン ケンサツ 手がそれて どこからどこまで飛び火する 垣根を越えて 丘越えて 表も裏も トンデユケ トンデユケ 天の声騒動もいっぷく状態 いつしか世は 解散風やら麻生颪が吹き荒れ 東国原やら橋下やら有象無象 地方の大名・小名 下克上の世ぞとばかり 名乗り出で かしましいこと うるさいこと さてもさても 日本丸は何処へ行く
2009.06.30
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6月という季節の贈り物 したたる緑の木陰に 「三文豪」の銅像がある 時空を超えて 三人がもし語り合ったとしたら 「ゲーテなら文豪の名にふさわしいけど ぼくはゲーテの柄じゃない」 と犀星がつぶやけば 「ぼくとてバルザック流でもなし」 と鏡花 「ましてや ぼくにトルストイは似合わない」 秋声も苦笑する 文豪の呼称が 三人三様にそぐわないとしたら 重厚さがかえって軽佻さを 表現しているとしたら 街を囲繞する自然と風土 巷々の日常が 綺羅を飾った 四季の移ろいのなか ぽっかり開いた 小康という落し穴に のめりこめば 穴底から覗く 6月の空がやけにまぶしい 閑話休題 春浅きある日ある時 あんずよ花つけ 地ぞ早に輝け と詩人が叫び 平穏無事の 安逸に憤怒し 突如 非日常の世界へと 修羅のように 駆け抜けたとしたら 異土のかたいとなるとても 異土のかたいとなるとても ふるさとは遠きにありて想うもの それがふるさとの自然への 回帰願望であったとしても うらはらに ふるさと人への 不回帰願望であったとしたら その遠きたるや 果てなきものであったとしたら・・・ 後世が文豪とまつりあげ 銅像を建ててみたところで 帰るところにあるまじや 帰るところにあるまじや したたる緑の迷彩のなか いまどき 三人が語り合ったとしたら・・・
2009.06.15
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奈良盆地北辺と京都府相楽郡木津市との 境界を東西に走る標高100メートル前後の 低丘陵が平城山(ならやま)である。 ここは、古来多くの歌が詠まれてきた地である。 記紀歌謡から万葉まで。 ひと恋ふはかなしきものと平城山に もとほりきつつ堪えがたかりき この歌は記紀でも万葉でもない。 明治から昭和までを生きた歌人・北見志保子の歌である。 これを歌詞として、平井康三郎が作曲した歌曲「平城山」は 戦中から戦後にかけて愛唱されてきた。 この歌には、『磐乃媛御料』という詞書がついている。 イワノヒメというのは、仁徳天皇の皇后であったが、 多情な仁徳帝の女性遍歴の陰で悲劇的な生涯を送った。 イワノヒメについて、今随想を書きたいと思っている。
2009.06.12
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巷に雨の降るごとく わがこころにも雨ぞ降る ならば おたまじゃくしの降る町に ひとの心は如何ならん 石川県七尾市と白山市に 6日から8日にかけて 100匹以上もの おたまじゃくしが降ってきたが 原因については諸説紛々 金沢地方気象台は ファフロッキー現象 つまり 空から 降るはずのないものが降る 超常現象の記録が欧米にもあると コメントを出した 竜巻ならば おたまじゃくし限定で降ることは 有り得ない とも 付近を飛ぶ鳥が 空中で吐き出したのでは という説について 山階鳥類研究所は エサを呑み込んだ鳥は 空中では吐き出さない ペリカンなら 有り得るかも知れないが ペリカンは日本には生息していない と いしかわ動物園は サギやカモなどが おたまじゃくしを食べることはあるが 100匹以上を一斉に 同じ場所に落とすことは考えられない 原因不明の不思議なればこそ 超常現象なのだろう こういうときは 科学の側面からではなく 物語の世界から 説明するのもひとつの方法だ 石川県のお隣り 富山県黒部市 そうそう「黒部の太陽」の黒部だ 黒部には山もあるが 日本海に面した海辺もある その黒部市に 佐渡からトキが一羽やってきた あの 韃靼海峡をテフテフが一匹渡っていった のとは 逆の方向に 日本海を飛翔してきたのだ 黒部市では トキの定住を願って 「特別住民票」を交付することにしたそうだ トキの快挙を祝って おたまじゃくしを運んできたのは きっと ユリカモメの大群だったろう トキの好物はドジョウなのに ユリカモメは急いでいたので つい おたまじゃくしとドジョウを 取り違えてしまったのだよ きっと 途中で間違いに気づいて 一斉に吐き捨てたのだ きっと ユリカモメはいまごろ ドジョウの捕獲に懸命だろう 健気なユリカモメの トキに奉げる生き餌補給作戦は 多分 成功するだろう そして 放鳥されたトキの 本州定住のときが やってくるだろう めでたし めでたし
2009.06.11
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二十四節気 芒種 路上に散らばる 完熟した桜の実 Dahlia Purple か Magenta か 季節の色は 池の畔には咲き競う 杜若と紫陽花がある 水面に かすかな輪がひろがるのは かいつぶりのせいだ 小さい 小さい 雀より小さい 雛が十羽あまり 親鳥のまわりを つかず離れず 水草を啄ばむ 親子が飛び立つころ 杜はもっと緑を濃くしているだろう 水辺には そのとき 何の花が咲いているのだろう
2009.06.09
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猫ちゃん ワンちゃん 四つのアンヨをじょうずに 動かすじゃないか 前足の左右二本 後足の左右二本 どんなプログラムが組まれているのか 動きのカラクリはどうなっているのかしら ・・・そんなこと知っちゃいませんよ 四本それぞれが 勝手に動いてくれるのですからね だって ムカデなんか もっと大変でしょうに そんなこと言ってたら・・・ 不思議なこっちゃ まったく そういえば 華厳経の根本思想のひとつは 「一即多 多即一」と 教えているそうだ 案外 真理はこのへんにあるかも知れん 戦国時代のこと 甲賀流忍者 猿飛佐助は 実は 猿飛と佐助の二人だった と書いた本がある 二人は一心同体の活躍ができたので 後世の読み本作家は 一人の人物として でっち上げてしまったのだそうだ また その本にはこうも書いてあった 伊賀の上忍 百地三太夫と藤林長門守は 実は 同一人物だったと お互い対立関係にありながら 別人を装って 表の顔と裏の顔を うまく使い分けていたというのだ なるほど なるほど 現代にも有り得る話じゃないか 「一即多 多即一」が 分るような気がする でも これって 華厳経の教えからすれば きっと 邪まな考えかも知れんなあ
2009.06.07
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霞か雲かと 見まがう なかぞら 巨大な「いとまきえい」が 音もなく ゆっくり泳いでゆく -ああ 「時」がまたやってきたー かたわらの桜守りが小さくつぶやいた この季節 あのものは かたときも停泊することなく いつまでも どこまでも 遊弋をつづけるらしい 劫初から劫末へ こぼれ落ちた かすかな夢のはざまに 「いとまきえい」は 鮮烈にも現われ やがて おぼろな視界から 消えていったが 満開の桜は そのとき 少しずつ 散りはじめたようだった
2009.06.02
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