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ああ、びっくりした。ココモJPさんのツイートで今さっき知りましたwキング・ハリーの唯一アルバムがなんと38年の時を経てCDになるんですよ。驚きますね。以前、いかにも権利とって無さそうなロシア製パチモンCD化はあったのですが、こちらは紙ジャケットです。本当にマスター起こしなのかはわかりませんがw ディスクユニオンさんの予約サイトでは、紙ジャケットCD入荷は10月下旬だそうです。リンクはこちら King Harry - Divided We Stand http://diskunion.net/rock/ct/detail/RY150918-BP-01生産国は韓国みたいですね。10/1追記、アマゾンJPでも販売が開始されました。販売業者は韓国ということです。Divided We stand (韓国盤, 紙ジャケット仕様)King Harry 元フィールズのアラン・バリーらが関わったKing Harryについて三年前に書いた当ブログの紹介記事はコチラです。King Harry - Divided We Stand (1977) http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/ 当ブログで何度も書いてきましたが、初期キングクリムゾン人脈と複雑に入り乱れたファミリーツリーも載せてあるので、よろしければどうぞ♪ バンドリーダーのジョン・ディッケンソンは80年代はドラムマシーン制作やスタジオ業務などで活躍したそうですが、キング・クリムゾン初期メンバーらとも昔なじみで同郷の縁。80年代以降のリハーサルでディッケンソンの実家が経営するモーテルを利用することもあったそうですね。というかムーブメントスタジオ自体もそのモーテルが利用されてたようですがw 最近確認した所、彼らのレコードが日本で発売された1978年、その秋に出版された「ブリティッシュ・ロック大名鑑」にも彼らキング・ハリーの項目が載っていました。とはいえその人脈関係を当時誰も判ってる訳も無いですから、ただの新人バンドとしての記載のみですが。 内容は70年代後半のポップスですからプログレ臭を期待してもすかされる気持ちになるかもしれません。しかし、アラン・バリー氏のプレイや初期クリムゾン人脈の傍流サウンドだと割り切って楽しめる作品だとは思います。決して傑作だとか無闇に持ち上げることは致しませんw 下記参考ジャケ画像は1978年辺りに日本盤が出た当時のジャケットです。 こちらは1978年春アメリカ盤が発売された当時のビルボード紙での広告 発売時のポスター
Sep 30, 2015
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GGFがまだデッカとの契約以前、これと言った仕事も無い時代フリップは昔なじみのホテルバンドで小銭稼いだりしてましたが、当時そこそこ話題だった旧知のマイク・モートンの演奏にマイケルも助っ人参戦し小銭を稼いでたようです。 キング・クリムゾンを脱退したマイケル・ジャイルズは、70年5月からイアンとマクドナルド&ジャイルズで制作活動を行いましたが、アルバムを秋に発表するとコンビが解消されてしまったのはファンの皆さんならご存知の話。その後セッションマンとして多くのレコーディングやライブで活動したマイケルは、マイク・モートンのバンドのカバー曲集LPで4枚ほど叩いています。昔からの顔なじみとと言うことでの本作参加なのではと考えています。 以前当ブログでこのカバーバンドを数回取り上げてきましたが、どれもほとんど一発どりの録音のようで、一部オーバーダビング箇所もありますが、凝った作りの物ではありません。LP一枚の定価が99ペンスじゃ制作費もそんなにかけられないわけです(発売当時の日本円換算で500円くらいか?)。 と言う事で音はチープですがそれ故に演奏者の個性がにじみ出てくる、そんな奇妙なレコードともいえます。下記の曲はザ・フーの無法の世界のカバー。軽いですw ジャイルズ先生がこの一連のシリーズに重宝がられたのも昔の縁と共に譜面ですぐ叩けるという即応性が生かされたのではないかと勝手に推測しています。 THE MIKE MORTON CONGREGATION - Won't Get Fooled Again (1971) 当時はやった曲やそれなりに知名度のある曲を次々ライブ風仕立てで収録してるシリーズで、その安さもあり当時は結構この手のイージーリスニングチャートで上位に毎回入ったようです。単純にマイケル・ジャイルズのドラミングをひたすらだらだらと聞く分にはマニアにとってこれもまた面白いシリーズだと思っています。中古でもそんなに高く売られてるわけじゃありませんw関連過去記事:THE MIKE MORTON CONGREGATION - NONSTOP TOP 20 (1971)THE MIKE MORTON CONGREGATION - NONSTOP TOP 20 volume two(1971)THE MIKE MORTON CONGREGATION - NON STOP TOP 20 VOLUME THREE (1971)THE MIKE MORTON CONGREGATION - NONSTOP ROCK-N-ROLL(1971)
Sep 30, 2015
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今秋もミニツアーを観光中のハスケル氏。その動画が早速上がっていましたのでリンクします。なに?昨年とあんまり変わらんぞ?まあそうカタイ事は言わずにどーかひとつw別アングル
Sep 30, 2015
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iTuneでの新曲発売の関係でしょうか?久しぶりにブリン様が映像を公開されてます。まずはスライドギターテクニックが光るコチラからWhen I Survey the Wondrous Cross 弾き語りのブルースGood Friend そして往年の美しい名曲の弾き語りヴァージョンMoments (2015 - brand new video!)
Sep 29, 2015
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6月に音楽映画Just For You (June 1964) DVD (2014)というブログ記事にて、ジョン・アンダーソンやイアン・ウォーレスのウォリアーズが出演した映画のDVDをご紹介しました。 実はこの映画が公開された年にデッカレコードはサントラ盤を出していたんですね。リマスターDVDが出た以上余り欲しいとも思えませんが、公開年のLPだけにどんなバンドが収録されてるか見てみました。 映画では全21曲が登場しますが、LPではさすがにそこまで収録しきれない為に12曲入ってるのみ。ウォリアーズが映画で登場した際のDon't Make Me Blueも収録されています。ジャケット裏面右から2列目最上段に写真が載ってるのがウォリアーズ、その二つ下車に乗って帽子を被ってる男たちがア・バンド・オブ・エンジェルズ(EG創始者エンゾーヴェンが在籍してたバンド)。 スチール撮影なら貴重かなと思ったのですが、どうも映画のフィルムと同じ様なショットに見えます。現在このサントラLPの相場は3~5千円程度のようです。そんなに値は張らないようですね。
Sep 27, 2015
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フィンランド向けに制作された楽曲。ゴードン・ハスケルとマーリットの大人の色気溢れる一曲。日本ではペドロ&カプリシャスが大ヒットさせた曲でしたね。ハスケル氏本人は「企画でやらされたので好きじゃない」と言ってましたが、そう悪い出来じゃないと思います。Gordon Haskell & Maarit - The Music Played (Rakkauden Jälkeen) 2003日本では1971年初期ペドロ&カプリシャスがヒットさせてましたね。原曲はオーストリアの歌手でウッド・ユルゲンスの「Was ich dir sagen will」(夕映えのふたり)なのだそうです。まあそういう欧州人気の高い曲だから、歌わされたのでしょうねw
Sep 27, 2015
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ゴードン・ハスケルがファーストアルバム「セイル・イン・マイ・ボート」を出した翌年70年二月に出したセカンドシングルA面から。前年秋に出したアルバムヴァージョンがゆったりとしたアレンジだったのと比較すると別の曲のようなバンドアレンジに様変わりしています。ディストーション掛かったリードギターや踊るベースライン、そしてストラトっぽい響きのカッティングギター等、気になる点があったので、丁度一年前ハスケル氏に質問をしたのがコチラでした。 結局、ハスケル氏にアラン・バリーらジ・アクトレスがバックを務めたのでは?という質問は、「彼らは関わっていないよ。」の一言で見事に否定されましたw 同じCBS所属と言う事で少し期待したのですが。 今でもたまに市場に出るシングルです。売られてる価格はまちまちですが。Gordon Haskell - OO LA DI DOO DA DAY (13 feb. 1970)Produced by Jimmy DuncanArr. & Cond. by Johnny Arthey 13日の金曜日に世に出たという、発売日があれな一枚。一部サイトではファーストアルバムと同時期に出たとかかれてるところもありましたが、同時期に出たのはファーストシングルの方でコレとは別曲です。ファーストアルバムのリマスターCDが出た際にこのヴァージョンもボーナストラックで入るかと期待しましたが、残念ながら入りませんでしたね。 アルバムと同じジミー・ダンカンプロデュースですが、アレンジャーがジョニー・アーシー。エンゲルベルト・フンパーディンクやメリー・ホプキンも手掛けたベテラン作曲家・アレンジャー&ピアニストで自身の名を冠したオーケストラでも活躍した人。このテイクでビブラフォンが使われているのも彼の手法なのでしょうね。ピアノを弾いてるのもたぶんアーシー氏ご本人なのでしょう。こんな有名アレンジャーがシングルに関わったのに忘れちゃったんですかね?ハスケルさんw このシングルが発売された1970年2月というと、キング・クリムゾンが非常に慌しかった時期で、1月中旬に次期ラインナップのメンバーになるマカロックとコリンズの起用が内定しながらも両名の契約上情報は伏せられていた頃で、2月のグレッグ・レイクのインタビューも「今度入るドラマーは以前一緒に演奏してた奴(たぶんShy Limbs時代を指す)」とマカロック参加を名前こそ出さないが仄めかしてました。 4月に入るとレイクがELPの準備に入りクリムゾンに来なくなった為、フリップは元学生バンド仲間のハスケルを50ポンドでセッションに呼び「Cadence and Cascade」を歌わせたのはファンの皆さんならご存知の通りです。その後新ヴォーカリスト選出でEGとクリムゾンが迷走したのもあり、昔なじみの縁で強引にハスケルがバンドに引き込まれる事態となったのでしたね。当ブログに最近来られた方の為に今までバラバラの時期に書き散らかしてきたハスケル氏に纏わる項目を別窓で開く様下記に並べておきます。関連ブログ記事:ゴードン・ハスケル氏に5年ぶりに質問してみたら続・ゴードン・ハスケル氏に5年ぶりに質問してみたらゴードン・ハスケル氏との往復メール その3 ゴードン・ハスケル氏、春のお返事からちなみに上記記事内で書かれているハスケル氏の新作アルバムは延期され現在まだ製作未定です。シングル制作とプロモーションで思った以上にお金が掛かったそうで、いつ頃アルバムが出るか判りません。つまり山口百恵さん楽曲のカバーについても果たして実現するかどうか。今の所全く判りません。この点は制作開始が判ったら判明するかもしれないですが・・・JOE(最初の質問メール関連)ゴードン・ハスケル氏からの返信(2009年)ゴードン・ハスケル氏からの返信その2(2009年)ゴードン・ハスケルのセカンドアルバムのドラマーについて1991年のゴードン・ハスケルインタビュー その11991年のゴードン・ハスケルインタビュー その21991年のゴードン・ハスケルインタビュー その3グレッグ脱退時の次期ヴォーカリスト騒動について キング・クリムゾンのヴォーカルになりそこなった男
Sep 27, 2015
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ツイッターでちょろっと盛り上がってしまったアグネス・チャンの香港制作盤カバー曲集。全編メロトロンで紡ぐクールなサウンドが、時代性を超越したサウンドとなってとても美味しいです。いやー驚きました!こんな作品があるなんてw 昔銀座によく足を運んでいた頃、数寄屋橋デパートの某レコード店店頭に彼女の様々な輸入盤が大量に売られていたので、たぶんその中にコレもあったんでしょうねー。まさかこんなメロトロン作品だとは。安くデモノがあったなら絶対買いですね♪アルバム自体は未CD化なのだとか。Youtubeからアルバム収録曲の一部をリンクしておきます。ご参考に♪ツイートでご教授いただいたパードレばばんこさん、ありがとうございました。面白い作品ですね。
Sep 26, 2015
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フェイスブックにてアランがかっての盟友レイ・ウォーリー氏の訃報を伝えています。「 マネージャーレオナルドから親しい友人レイ・ウォーリーがこの世を去ったという非常に悲しいメールを受け取りました。暫く連絡も取っていませんでしたが、我々は非常に親しい友人でした。 レイは私がロンドンへと活動拠点を移した1972年、無料で滞在場所を提供し活動の後押しをしてくれました。彼は私にお金を与えライブにも連れてってくれましたし、ロンドンのミュージシャンたちとの縁を結んでくれて、彼らと共に演奏する喜びを与えてくれました。 もう彼と会う事が叶わないとおもうと非常に辛いです。 レイは大変素晴らしいミュージシャンで、私が聞いてきた中で最も美しいサウンドのサルトサックス奏者でありましたが、それと同じ位驚異的で素晴らしいフルート奏者でもありました。 私は打ちひしがれています。 愛するレイよ安らかに アラン 」 英国のジャズ/ロックの世界で活動の軌跡を残されたレイ・ウォーリー氏。アランとの共演記録は余り数残されてはいませんが、ソフトマシーン名義で出されたLand Of Cockayneがありましたね。レイの参加した作品も大変多く、百枚以上のセッション作品があるようです。クリムゾン関連ミュージシャン絡みだとKeith Christmas - Brighter DaySharon Forrester - SharonAnnette Peacock - X-Dreams等がありましたし、他にはジョン・メイオールやクレア・ハミル他活動は多岐に渡っています。日本人との関わりとなると山口百恵さんのロンドン・レコーディング作品「Golden Flight」がまさしくそれで、一緒にセッションへ参加したハスケル氏の話通りとすれば、グラフェィティハウスバンド名義のいかすぜジャック/ツイスト決定盤にも参加してるはずです(こちらは未クレジット)。そして、プロレスラー藤波辰巳のテーマ曲「ドラゴン・スープレックス」シングル盤にもクレジットされていましたね。2017/2追記アランがレイと1980年共演した際のBBC音源が公開されています非常に良い演奏です
Sep 26, 2015
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2012年、当ブログでは、学生時代ロバート・フリップがゴードン・ハスケルと組んでいたバンドに関わってたティノ・リチニオ氏が参加したレコード King Harry - Divided We Stand (1977)について取り上げました。 その際、初期クリムゾンに纏わる人脈を様々なデータからかき集め、様々な方の協力も経て、その人々がどの様な経緯でバンドを移って行ったかをファミリーツリーとして公開いたしました。 当初は不明な活動内容も多かったのですが、その後新たな情報が入るたびに手を加え、だいぶ大きな人脈図に至った次第です。 生来、掘り出すと気が済むまで掘り続ける性分ですが、一旦掘り返すと後のフォローはあんまりしないもので、掘り返されたクリムゾン結成以前のバンドの多くについては詳しく紹介も整理もしてまいりませんでした。 以前からかってにリンクさせていただいてる「60s/70s英国ロック・データベース」サイト様におかれまして、それら初期クリムゾンメンバーたちの関わったローカルバンドの数々を見事に整理して紹介されておられます。 その中からいくつか当方のツリーと絡む主要部分をリンクしてご紹介します。(たぶんその多くで私が放り出した以上に詳細を掘られてると思いますのでw)各個人名とバンド名のクリックでそれぞれの項目に別窓リンクさせていただきました。ロバート・フリップ関連・The Ravens・The League Of Gentlemen・Giles, Giles & Frippマイケル・ジャイルズ関連・The Dowlands・Trendsetters Limitedイアン・マクドナルド関連・McDonald & Gilesグレッグ・レイク関連・The Shameゴードン・ハスケル関連・Fleur De Lys・The Flowerpot Menメル・コリンズ関連・Phillip Goodhand-Tait & The Stormsville Shakers・Circusアンディ・マカロック関連・Shy Limbs・Manfred Mann Chapter Three・Fields・Greensladeアラン・バリー関連・The Actress・King HarryKing Harry Family Treeを乗せている当ブログのページKing Harry - Divided We Stand (1977)http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201205190000/
Sep 22, 2015
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ツイッターでちょいちょい上げてた小ネタ画像からビルボード紙で4つ星評価を受けていたジャイルズ・ジャイルズ・アンド・フリップのLPだったが、それはロックでは無く、ポピュラーアルバム評のカテゴリーだった・・・w熱心なファンならご存知、オリジナルラインナップのクリムゾンの集合写真だが、照明に懲りすぎてシンフィールドの背後のメンバーたちが背後霊のようにも見える。特にレイクさんはこけしみたいな顔でw いや吉田戦車かも、包帯巻いたら。クリムゾン入りしたメル・コリンズはレイクに連れられて舞台衣装を派手にさせられたそうですが、KC加入前のサーカス時代の衣装もそんなに悪くないですよね。1993年プロコルハルムに在籍してた時のイアン・ウォーレス。オリジナルアルバム作らないでツアーばかりの活動だったので、スタジオ作品として彼の遺した音源が無いのが残念。クリフ・リチャード・バンド時代のゴードン・ハスケルさん。ステージ終盤クリフから思い切り指を指されノリノリで演奏してます♪
Sep 18, 2015
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クリムゾンの写真と一緒に発掘されたのがフリス氏初来日時の写真多数。その中から各会場の写真を一枚ずつ。池袋西武スタジオ200(今は閉鎖してしまって無くなってるミニホール)明大前キッドアイラック・ホール。演奏後ファンと行われた質疑応答から。御茶ノ水 日仏会館ホール。多重露光 フリス氏はコンサートの前に「撮影も録音もOKだよ」と言ってくださりましたので、行く度に撮影と録音もしたのですが、残念ながら録音テープは紛失しています。30数年ぶりにクリムゾン初来日写真と一緒に密閉された袋がたんすの奥から発見され一部をこうして公開しています。 今後は折を見て、画像の取り込みをじっくり手掛け、いずれかの機会に残りの画像も公開できたらと考えてます。写真のクリーニング道具を昔の様に常備して無いため、結構スキャンに手間取りましたのでw余談:この初来日時、フリスは日本の男性用トニックシャンプーを初めて使用し、そのスッキリする快感のトリコとなったそうです。何せ帰国する際に大人買いして帰られたそうですからw
Sep 18, 2015
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たんすを開けたらなんと昔撮影したクリムゾンの写真が出てきました。本番前のリハで2曲ほどだから10分くらいの時間制限付き、しかもフラッシュ使用禁止。急いで増感撮影に切り替え、当時働いてた現像所で増感現像した際に具合を見るためテストプリントしてたものです。34年も経つのに劣化がほとんど無かったのは、たぶん桐のたんすの奥にずーっとしまわれたまま忘れられていたせいでしょうね。こんなものがあったのさえ忘れてました。 初来日でのクリムゾンは後の二度目の来日と比べ、機材も少なく、エフェクターも足置きが多く、まだラック機材も少なかった。そんな事を思い起こしました。ではその中から一部ですが、少しだけ公開します。尚、くれぐれ他への無断転用はなさらぬようお願いします。(以前某レコード店に勝手に使われて呆れ果てたので。一言ツイートなりこのブログに連絡いただければ結構ですw金が欲しくて書いてるわけじゃありませんから。)キング・クリムゾンが2015年に復活来日を果たす前に見つかったのも何か因縁めいたものを感じますw
Sep 18, 2015
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私のような物ぐさなリスナーは、昔からLPやCDのライナーをただダラダラみて、歌詞も合ってるかどうかなんてほとんど考えもしなかったものですが、コチラのサイトでは徹底的に楽曲の歌詞の正確性を追及しておられてて、いつもひたすら関心ばかりさせて頂いてます。私にその根性の一部でもあれば、もうちょいとマシな人間になれそうなものですが、みる度に気の引き締まる思いが致します。 と言う事で毎度お世話になるクリムゾン和訳集さまからELPの永遠の謎の和訳をリンクさせていただきます♪個人的に好きな曲ですので「永遠の謎」http://homepage3.nifty.com/~crmkt/other2.htm#enigma
Sep 16, 2015
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1980年秋。当時のヒカシューが、船橋東武の屋上で行ったコンサートを見た際のメモが出てきました。こんなのを書いた記憶が全く無かったのですが、まだ個人でビデオ撮影したりするのも難しかった時代でしたので、印象を走り書きしたのだと思います。ちなみにコンサート当日は友人と連れ立って行ったのでしたが、録音したカセットテープは既に紛失。友人はひたすら機材やコンサート風景を撮影し、大量のフィルムに記録してましたが、そのフィルムが今も残されてるかどうかは、現在確認のしようがありません。もう残ってない可能性も高そうです。2015/10/3追記1980年10月5日船橋東武屋上での写真が発見されたそうです。こちらにリンクを貼っておきます。あわせてご覧ください。http://plaza.rakuten.co.jp/geugeyo/diary/201510030000/10/5(日)8時半御茶ノ水駅構内にて待ち合わせ。10時、船橋東武到着。友人はエスカレーターそばの女店員にいらっしゃいませと言われ深々とお辞儀。(座席取り部分は書かれてないが、最前列のセンターに席を確保)11時、屋上で焼きそばとソフトクリームを食す。11時半、海琳さん突如現る。どうやら屋上の一つ下階層の小ステージそばでウロウロしているのをファンに馬鹿にされたらしい。客席に含み笑いが広がる。彼は黒のスーツだった。以後リハーサルまで姿を見せなくなる。12時、セッティング開始。私ら二人は使用機材をすばやくメモし、ついでに写真を撮りまくる。巻上、戸辺、山下、井上各氏、機材のセットに掛かる。海琳さんが行方不明の為、巻上さんが苦労していた。それをみてた友人曰く。自分たちでセッティングするなんてポリスみたいだ。(活動初期に経費を抑えたコンパクトなチームでツアーしたポリスに喩えてたらしい。)各氏、ファンにサインをしながらも音調整、海琳さん再び登場(着替えていた)。12時半リハーサル開始、終了は45分ごろ。PM1時、ライブPart1開演。曲「モーニングウォーター」で巻上さんが舞台から飛び降りてそこら中を走り回る。「パイク」で山下さんトチる。PM3時、ライブPart2開演。今回は一層乗りに乗った演奏になった。(アクションも激しくなった。)「プヨプヨ」でマイクを自分の股間に立てたので、巻上さん女子の観客たちから「怒られてた」。(※紛失してしまったカセットの録音では「あー、お母さんに怒られるー」との批難の合唱を浴びていた。)「幼虫の危機」では後方から観客を乗り越えて巻上さんが客席縦断、友人が撮影で離れてた為最前列に一席できた空席、つまり私の隣まで後方から席を乗り越えてくるとその席に座りベースを弾き始めた。そばで拝見すると案外毛深く見えた。========以上、当日の流れを大まかに書き留めたものからでした。コンサートでは、デパートの屋上で一度やってみたかったという巻上さんの話があったように記憶しています。ステージ自体はドラム無し編成のヒカシューがやっと乗り切る程度のワイドで奥行きも狭く、だいぶ機材が山盛りに見えるほどギチギチにつまってた印象が残ってます。高さもさほど無いステージなのでポンと飛び降りるのにも何の苦労も無かった訳です。今考えると当時としては珍しくワイヤレスでベースを鳴らしてたのでしょうね。こんだけ暴れてたわけですから、有線じゃ無理ですね。そこら辺の様子の記述はありませんが、客席乱入した暴れっぷりを思い出すとワイヤレスしかありえないでしょうしwステージ上で目に付いたのは、リズムボックスとメロトロン、そしてローランドのシンセ/ジュピター4などが記憶に残っています。当日の事は、巻上さんのサイトにも一行だけイベントのあった記録だけが記述されています。◆巻上公一の年譜http://www.makigami.com/jbio.html
Sep 16, 2015
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英国でデビュー後、北米地域にも進出しようとしてたボズのマネージメントは、DJ向けのシングル見本盤にプレスリリースを付け売りこみました。以下そのプレスリリースから毎度ポンコツ意訳です。66年当時ボズがどの様に紹介されたか?その雰囲気だけでも楽しんで頂けたなら幸いです。※9/15、後半部分追記。『1966年11月 = ボズ = ありふれたカッコ良さと才能の英国人歌手が成功への殻を破ろうとレイモンド・バレルがボズというニックネームを使い始めたのはそう遠い昔の事ではない。 昨年5月、この19歳はポップ音楽をよく知らないBチャールズ・ディーンというトップセールス輸出コンサルタントと出会った。音楽は知らなくとも、彼は商品投資について多くの知恵を持っていた。 過去の投資経験から、チャールズ・ディーンは、不良品のままでは商売になら無いが、素晴らしいポテンシャルがある健全な投資は常に利益を生み出す事を熟知していた。 この出会いで、チャールズ・ディーンはボズと5年契約で現代のショービジネスにおいてユニークで斬新なプロモーション実験を開始した。 ボズのキャリアは市場リサーチの助けを借りて実験的に打ち上げられた。チャールズ・ディーンは、ボズのために広報担当者、振付師、衣装のコンサルタントとヴォイストレーナーをこの年雇い入れ、初レコーディングも徹底的な選択を経て、一大キャンペーンを展開した。ティム・パン・アレー(大衆音楽業界)から集めた200以上の新曲候補をふるいにかけた後、チャールズ・ディーンは、その中から4つを選び、二枚のシングルにした。 それら二枚のA面が「ピノキオ(英国での三枚目シングル)」と「ザ・ベイビー・ソング(英国での四枚目シングル)」である。 先にリリース(66年6月)された「ピノキオ」は、すぐにイギリスでヒット・レコードとなった。英国の興業組織のブッキング会社はシングルを聴くとすぐにボズと排他的な長期契約をしようと問い合わせた。「ザ・ベイビー・ソング」もその後まもなくリリース(66年7月末)され、再び偉大な成功実績を獲得した。有名音楽出版は、ピノキオの歌と内容に基づき、彼をホストに据えた大規模なテレビショーと様々な紙面で彼の特集記事を展開した。英国から海を越えてきた彼は成功をエンジョイするだろう。 興味深いのは彼が歌手キャリアを始めてまだ短い事だ。しかし心配には及ばない。17歳から彼は彼のグループでギター演奏をしていて、地元からロンドンへとショービジネスのキャリアを積んでいた過去があった。(※訳注:ティータイム・フォーからボズピープル時代を指している。)しかし、その彼のバンドは機材を盗まれてしまい唐突に終わりを告げることとなってしまった。 幸いなことにボズのキャリアは、Bチャールズ・ディーンと出会い、懸念を解消された。山高帽を被ったチャールズ・ディーンはボズにとって救いの天使であると証明された。』以上です。 ボズのデビューには投資家が後ろ盾になっていた事が判りますね。今となってはマーケットリサーチはよくある手法ですし、日本では松任谷由美、竹内まりやというアーチストが作品作りで綿密な市場調査をしてる事が知られてます。しかしボズのケースはまだ音楽界がビッグビジネスになる前の過渡期の時代。まるで80年代以降のアイドル歌手並に様々なスタッフの知恵を寄せ集めて売り出しに掛かったようですね。意外でしたw 道理でアイドル風のあまーい青春歌謡風な歌もあるはずです。あと60年代半ばのボズはまだ可愛らしい写真もありますね。 このプレスリリースでは、ボズが出した一、二枚目のシングルについて何も語られていません。あくまでも米国デビューに向けて三、四枚目シングルを中心とした話題が綴られてます。あとチャールズ・ディーンとの出会いが書かれてる通り65年5月だとすると、ボズピープル活動時期と重なります。宣伝文最後で投資家チャールズ・ディーンの美談に結ぶ為、実話に脚色が加えられているのでしょう。 文面最後ボズピープル終焉が演奏機材盗難だったと言う話が出てますが、この点はシド・スミス氏のキング・クリムゾン伝記本でも同様に書かれていましたね。この時を振り返ったボズピープル元メンバー故イアン・マクレガン氏は生前この当時を振り返り「ボズは『もうダメだ。何もかも終わりだよ。あはは。』と笑いながら残念がっていた」と述べてました。実際はこの当時既にチャールズ・ディーンはレコード会社への売り込みをしていたのでしょう。コロンビアがバンドには興味を持たなかったのも逆に幸いし、ボズをソロ歌手として売り込みやすくなったのは皮肉ですね。 あと、ボズがヴォイストレーニング受けたり、振付師の指導を受けていたのも面白いですね。キング・クリムゾンのアルバム「アイランズ」で、ボズのクレジットは、ベースと歌とChoreography振り付けとなっています。実際クリムゾンのステージでサウンドトラブルなどの合間にもダンスを披露してたそうですし、その元ネタはここらへんで仕込まれた物だったのでしょうね♪メル・コリンズが故障したメロトロンをステージ上で分解メンテしてる間、踊って場を繋いでたのかな? 1970年末にキング・クリムゾンのヴォーカル・オーディションに紹介され現れたボズをメル・コリンズは60年代半ばのボズ・ピープルやサイドワインダーズなどの活動で知ってたそうですから、英国国内では知名度を得られたのでしょう。米国でどの程度活動したかは不明。まあこの時米国で成功していたら67年にもっと足跡を残してそうですが。初めてコチラを訪れた方に、今まで書いた60年代ボズ・バレル関連記事をまとめておきます。もし興味が湧きましたらどうぞ。ファーストシングル:Boz - Isn't that so / You're Just The Kind Of Girl I Want (1966)1966年2月11日発売で、ブラスセクションの華やかで派手なサウンドと素早いパッセージのカウンターフレーズを入れるジャズギターが特色のジャズ・ヴォーカル・ナンバー。テナーサックスのソロも。時期的にバックでサイドワインダーズが演奏に加わっている可能性を考えてしまいます。B面は当時ボズへ出資していたBチャールズ=ディーンが作詞作曲した楽曲で、ボズのサードシングルにタイトルを変えて再収録。出資者の職権乱用かどうかは定かではありませんw 米国向け宣伝でチャールズ・ディーンは音楽をよく知らないと書かれてる割りに思い切り楽曲提供しているという事実w ここら辺のいい加減さも60年代ならではの適当さなのでしょうか?セカンドシングル:BOZ - MEETING TIME / NO(AH) BODY KNOWS BLUES (1966)1966年4月7日発売。のどかなオルガンと軽やかなギターカッティングと女性コーラスをバックに、ボズがお散歩リズムで歌い上げる教会を舞台にしたラブソング。サビ部分にはブラスセクションも加わり、ジャズギターも顔を出し、ボズのヴォーカルスタイルもミュージカル風な色彩を帯びます。B面はボズのジャズ趣味を丸出しにしたスウィングナンバー。作者もボズ本人。ボズが唄うたびにサックスやピアノが短くソロを挟み込みますが曲自体も短い。サードシングル:BOZ - PINNOCHIO / STAY AS YOU ARE (1966)1966年6月10日発売。セカンドシングルまでの古風なポップスから一変、ど派手なオーケストラと女性コーラスが「ピノキオ」を気持ち良さそうに歌い上げるボズを盛り上げている。B面はなんと最初のシングルB面曲タイトル替え再利用。当時ボズのライブ活動でバックを務めていたフィール・フォー・ソウルがレコーディングに関与してたかは不明。トニー・マクフィーのインタビュー記事よるとピノキオでアコギのカッティングをしていたのは時期的にも彼であった可能性が高いです。フォースシングル:BOZ - The Baby Song / Carry On Screaming1966年7月29日発売。Youtubeに公開されたB面曲の人気が上がり入手難易度がグンと跳ね上がった一枚。本来のA面はアコースティックギターのアルペジオとリバーブが効いたオーケストラでしっとりと唄われるザ・ベイビー・ソングという甘いラブソング。ホラーコメディ映画主題歌カバーソングだったB面と比べるとどうしても地味に聴こえる。Youtube動画のサウンドはリミッターがきつめにかけられており、実際のシングル盤のサウンドより息苦しく聴こえるが参考までに。フィフスシングル:BOZ- I Shall Be Released / Down In The Flood1968年5月3日発売。67年の一年の活動不明期間をはさんでボズが出した5枚目だが、この頃既にチャールズ・ディーンとは関係が切れていたのだろう。プロデュースがデレク・ローレンスでバックバンドがほぼ初期ディープパープルである事が有名。両面ともにボブ・ディランのカバー曲。サウンドカラーが以前のシングルと比べ激変してるのもありますが、ボズの歌唱スタイルもかなり変化しています。肩の力が抜けておりバンドサウンドとも馴染んでます。ボズ、メロトロン初共演楽曲という側面もw 68年はボズがパノラマというバンドと活動してた時期ですが、本作レコーディングには関与しなかったのですね。A面はジョン・ロード編曲、B面はなんどボズ自身の編曲。Dパープルにボズがアレンジですよwシックスシングル:Boz - Light My Fire / Back Against The Wall (1968)1968年8月16日発売。ボズが年頭のドイツ巡業以降に出した二枚目のシングル。彼のソロ歌手キャリア最後の一枚。ドアーズの大ヒット曲をアコースティックギターを背景にドラマティックに歌い上げ、女性コーラスも絡んで掛け合いを展開する。割りと渋め。B面は久しぶりのボズ自作曲、ピアノとジャズギターでブルージーな粘っこいヴォーカルとスキャットを披露している。当時の彼のステージナンバーをそのまま流用した可能性がありそうですね。ヴォーカルにかけられたプリディレイ(歌い出し前に歌声が被ってくる)。本当にテープをひっくり返してディレイ処理した音を混ぜたのか、別トラックに取った音声を混ぜたのかは不明。このレコードでパノラマやミラーズ等当時のボズのバックバンドが関与したかどうかは未解明。その他のシングル:北米地域ではDJコピーで出回ったこのブログトップに貼った画像のピクチャースリーヴ仕様のシングルがありますが、他に4枚目のシングルも正規品として出回ってた模様で。実際米国エピックから市場に出た商品は英国でのフォースシングルと同じ収録曲だった。DJコピー盤は溝がかなり深く、針に伝わるレベルもかなり大きいです。英国の通常盤と比較するとその違いに驚かされます。その他ボズ関連過去記事Boz Burrellが60年代に在籍したTea Time Four等バンド活動についてTHE TEA TIME FOURについて補足説明Boz Burrell 1965年1966年のマーキー・クラブ出演歴ボズ・バレル1970年10月マーキークラブ出演記録
Sep 11, 2015
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以前、 Boz Burrellが60年代に在籍したTea Time Four等バンド活動について、というブログ記事でボズの1963年からクリムゾン加入前までの活動を紹介いたしましたが、マーキーの出演記録が判るサイトがありましたので、こちらに補足として書いておきます。 まずは1965年 http://www.themarqueeclub.net/1965 8月にボズ・アンド・ザ・ボズピープルとして登場してます。最後の登場は10月。イアン・マクレガンが生前の証言でバンドから10月に抜けたといったのも、ここらへんでボズピープルとしての活動が終わったということなのかもしれません。 そして注目は12月2日、新たにボズ・アンド・サイドワインダーズとしてギグの記録があります。どうやらボズとサイドワインダーズの活動開始はこの頃からなのでしょう。 そして1966年 http://www.themarqueeclub.net/1966 年が明けて1月2日と2月7日にサイドワインダーズはステージを行っています。しかし、1月16日にはマーク・チャリグが加入したブルーソロジーのギグも行われているので、この時点のサイドワインダーズにチャリグがまだいたのかは不明です。 3月にはボズ・アンド・ニューグループとバックバンド名の詳細が無いまま、記録が残されています。これがソロシンガー契約をコロンビアと結んだボズのバックバンドを務めたフィール・フォー・ソウルとの初ステージの可能性が高そうです。 9月27日から10月8日まで、ダスティ・スプリングフィールドらとのパッケージツアーに参加しており、バンド名はボズ・アンド・ヒズ・グループと記録が残されています。このバンドがフィール・フォー・ソウルである可能性はありますが、確証はありません。http://www.marmalade-skies.co.uk/dustytour66.jpg共演バンドにロス・ブラヴォーズがいますねw(この時のブラヴォーズにジョン・アンダーソンの兄トニーが在籍してたかどうかは、判りません。) ロンドンで活動記録が無い1967年が、ボズがいったんノーフォーク州の田舎ノリッジにいたといわれる時期なのかもしれないですね。この当時を振り返るエルトン・ディーンの生前のインタビューによるとボズやティム・ヒンクレーは既に顔なじみだったようです。後の70年代一緒にスネイプやエルキー・ブルックスやマイク・パトゥ等で共演したボズとヒンクレーの二人は60年代からの知り合いだった訳ですね。9/12追記余談:上記ブログを書いてからちょろっと考え込んでしまいました。ボズのデビューシングル Isn't That So は、1966年2月11日発売でした。という事は録音→プレス→配給の関係上レコーディングは前年の可能性があります。コロンビアはボズピープルというバンド自体には興味を持っていなかったといいますから、デビュー曲の派手なブラスセクションは、サイドワインダーズが関わっていたんじゃ無いのかと。もしそうだったなら、マーク・チャリグやジョン・マーシャルが録音に関与してた可能性があるかもしれないですね。あくまで個人的推理です。もしかしたら・・・という仮定の話です。
Sep 10, 2015
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だらだらと書きます。今回もw キングクリムゾンに関わったメンバーに話を聴くと、それぞれが在籍していた時分のバンドこそがクリムゾンだと主張するメンバーが多いと以前読んだ事がある。オリジナルメンバーはオリジナルゆえの誇りがあるだろうし、その後だとアイランズ期なり、太陽と戦慄期なり、80’Sなりそれぞれの主張はいろいろあるのであろう。ただし、それぞれの時代のどのメンバーもが口をそろえるのは「クリムゾンはフリップのバンド」である。 前身バンドのGGF時代を、フリップは当初ピーター・ジャイルズが主導権をといい、マイケルは「リーダーはいなくて3人平等だったよ」と述べ、案外全員の意識は統一されていなかった。 レコーディングやマネジメント他雑用までこなしたピーターは必死に仕切ろうとしても、バンドがあやふやな方向性のままであったことから、後期GGFは出資話に反対するピーター・ジャイルズが次第に立場を失っていき、最終的にはグレッグ・レイクと交代の憂き目を見た訳でしたね。 この時期を指し、グレッグ・レイクはオリジナルの時期は全員が平等だったと言っていたし、出入りしてたハスケルのようなリハ見学者は「当時の中心はマクドナルド」とバンドの音楽的重心を指摘している。フリップのリーダーシップが次第に大きくなったのは、マクドナルドとジャイルズという中核メンバーの離脱、そしてグレッグ・レイクも契約上明かさなかったがいずれ抜けることへのフリップなりに持ちこたえようとする気概だったのかも。 二作目はともかく、三作目のリザードがあれだけ楽器音が多く、多数のゲストを起用し、ともすればオーバープロデュース気味にさえ聴こえるのも、私一人でもクリムゾン音楽は作り続けられるといういじましさを感じてしまう。彼の強権的な行動もバンドの危機が深く影響したのではとも考えられる。 ボズが日本のインタビュアーにクリムゾン時代を語りたがらなかったのは、クリムゾンに偏りすぎた日本メディアが嫌がられただけかもしれない。彼自身はアメリカなどのファンのインタビューで結構な分量の思い出話をかなり長尺で答えている。(フリップがブルースの演奏を出来ないので、あえて我々三人はそれをステージでやって困らせた。等) 最近のメル・コリンズのキング・クリムゾン復帰は昔からのファンには驚きを与えた。過去には、太陽と戦慄以降のバンドはアレグレッシヴ過ぎると、余り肯定的に見てない位だったし、21バカバンドでも73-74楽曲はメンバー構成上取り上げなかったくらいであったし。何せイアン・ウォーレスがコンサート後の反省会用に記録してたライブ音源が、フリップの独断でアースバウンドとして世に出されたことにも不満を持っていた。(契約上出さざる得なかった面があったとしてもだ。)クリムゾン・プロジェクトでの共演が、彼のクリムゾン復帰にいかなる心情的な変化をもたらせたんだろうか? 例外的に言うならリザードの編成時期メンバー、ハスケルやマカロックはクリムゾンでライブ経験を行わずバンドが消滅させてしまったので、彼らがこの当時を何がしかの発言で肯定的に振り返ることは無い。ハスケルは相変わらずDGMから出るアーカイブ音源にさえ怒りを表しているし、演奏家を引退したマカロックに至ってはもう音楽的な質問には応えもしてくれないだろう。間違えても彼らが「我々のいた頃のクリムゾンが一番」と言う事は無い。そりゃそうだ。 とは言うもののハスケルはまだフリップとの同級生という側面でまだ過去の話を少しはしてくれるので、多角的にバンドの歴史を見る場合貴重な証言者であり続ける。 数少ないマカロックの証言として残された記録のうち、グリーンスレイド時代のインタビューではクリムゾンの話題を降られた途端、話題を変えるように要求した位なので、本人も思い出したくない確執を抱えてるのかもしれない。それに失礼ながら結構見た目も気難しそうなドラマーという気もするのですよ。 マカロックの脱退については、シド・スミス氏によるキング・クリムゾン伝記の決定版(日本版タイトル、クリムゾンキングの宮殿 ~風に語りて~)においても、コンサート向けのリハ時に起きたフリップへのハスケルの謀反が発端の様に書かれていた。確かにアルバムレコーディングの頃からフリップから強引に演奏内容を指示されまくっていて彼にもそれなりの不満はあったろうが。 ただ、このリズムセクション二名の脱退劇も証言の当事者が変わるとその視点の違いで見方が違ってくる。 フリップがメンバー脱退に失望し、ティペット関連企画センチピードに客演したり、制作に関わると、クリムゾンの新メンバー探しは時にメルのみが立ち会うケースもあった。 この当時のことを振り返るメルの証言だと、バンドはヴォーカル・オーディションを最優先にしていた。やはりバンドのフロントを担う最重要な部分。ウォーレスをクリムゾンのヴォーカルオーディションへ紹介したのは、ウォーレスが部屋を間借りしていた大家キース・エマーソンであるという話だが、メルの証言では確かにウォーレスはヴォーカリストとしてオーディションへ着たらしい。で、話を聴くとドラマーであるということなので早速演奏をしてみるとあの重戦車ドラムである。バンドの構想に合うという事でフリップも気に入りドラマーとしての起用はすぐに決ったという。 このオーディション前まで、依然としてアンディ・マカロックはドラマーとしてバンド側は考えてたと言う。ウォーレスの起用でマカロックを解雇というのはメル自身否定しており、あくまで「契約を延長しなかっただけ」で、その証拠に彼を他バンド(キングダム・カム)へと紹介したからとも証言している。その後もグラハム・フィールドへフリップが紹介しフィールズ結成にまで一役買ったのは有名ですね。ちゃんと面倒見たのだから解雇じゃないですよと言いたいのでしょう。解雇というと言葉の響きも悪いですしね。 ココまで彼が発言に気を使うのは、メル自身アイランズ期クリムゾンが消滅した後、フリップ以外の3人でアレクシス・コーナーとスネイプに組んだり、ハスケルとも度々共演するなどOB同士の悲哀をよく知ってるからだろうか。マカロックやウェットンともダンカン・マッケイのアルバムで一緒だったし、他のクリムゾンOBとの共演の機会は彼が一番多いんじゃないだろうか? ボズが残したインタビューでは、クリムゾンへはティペットのセンチピード参加がきっかけになったと以前も取り上げましたが、メルもボズ・ピープルやサイドワインダーズ時代のボズは既に有名だったと言ってる程なので、彼が現れると一発でキング・クリムゾンの新ヴォーカルは決定したと語っている。 やはり60年代中期、ダルトリーに替わってザ・フーに入るといわれた噂も伊達じゃなかったんですね。 ウェットンをこの時期ベースとしてバンドへ入れようとした件も、ウェットンから「フリップはバンドで孤立し味方がほしかっただろうけど、今はその時期じゃないからといって断り、ファミリーに入った」と断られた訳だが、実はメルらフリップ以外のメンバーも「急速にボズの演奏力が向上している」とウェットンの加入に反対を唱えていた。 元々ギターが弾けたボズだからこそ、練習次第でメキメキ実力を付けたのだし、ウォーレスも親身に練習に付き合い、様々なスタイルのリズムをレクチャーしたという。何もフリップだけがボズに特訓をしたんじゃないんだよ。とウォーレスも主張したかったのかもしんない。 語る立場で証言に差異が生じるのは仕方が無いですね。それだけ多くの人物が長い歴史のクリムゾンに関与したわけですし。 願わくば今後は現メンバーも元メンバーもなるべく仲良くして頂きたいものです。難しいことは承知の上でw 久しぶりにダラダラとあれやこれやとりとめも無く書き連ねました。読み難い部分が多くてすみません。たまに頭を整理しないとこんがらがったまんまになるので。
Sep 7, 2015
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海外でミューアがアラン・ホールズワースと短い期間からんでたサンシップについて珍しく証言してる文があったので、毎度のズンドコ意訳でw「アランが着てくれたことで壮大な音楽的組み合わせを望んでた。それまでの私はアート音楽に浸かってたので、他の分野も探求したかったんだ。我々はいくつか冗談みたいな方法論を試みてみた。その多くで楽しんで。まあ音楽演奏より笑って過ごす時間の方が長かったけどね。」 あんまり証言の無いサンシップ(ジェイミー・ミューア、アラン・ゴウエン、アラン・ホールズワース、ロウリー・スコット・ベイカー)。 演奏の記憶が無いような発言がアランにあったように、バンドと言う認識は余りなかったのかもしれません。(ホールズワースも70年代はいくつものバンドを掛持ちし続けて活動してましたのでw UKやBruford在籍時も他アーチストのギグに顔出してましたものね。) 音楽より他で過ごす事が多かったって・・・飲んだくれてたのかな?
Sep 5, 2015
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表彰式の冒頭で亡くなったクリス・スクワイアの功績を紹介しています。PROG ROCK AWARDS PT.1 | Classic Rock Magazine PROG AWARDS Pt. 2 | Classic Rock Magazine そして今年のぷろぐれ神に選ばれたのはTony Banks | Prog God | Progressive Music Awards 2015
Sep 5, 2015
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9月下旬から恒例のポーランドツアーなのだそうです。http://www.gordonhaskell.com/events-2/日本へ来る予定はありません。残念ながら。しかしほんとポーランドばっかりですね。ところで最近ロンドンでスタジオも兼ねる移転先を探していたのはどうなった物か?続報がありません。とはいえ決る前にアレコレ質問するのも失礼なので落ち着くまで控えようと思っています。さて来年新作アルバムは出せるのか?出せるなら来日もどちらかで企画して欲しいものです。
Sep 4, 2015
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