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茨城大会から3週間後の4月28日、「深谷ねぎ」で有名な埼玉県深谷市の総合体育館で、全埼玉競技ダンス大会がありました。種目は前回と同じ、サンバ、パソドブレ。そして衣装も同じ、私が赤で、男性が黒でした。本当に効くのかどうか知りませんが、私は小さい頃、風邪をひくと、喉に焼いたねぎを巻かれて寝かしつけられ、それがいやでいやで仕方がありませんでした。ねぎは、今でも苦手で、ようやく、そばやうどんに入っている薬味程度なら食べられるようになったものの、冬に欠かせない鍋料理に入っている、あのぶつ切りの白ネギは、どうもいただけません。大会に行くと、案の定、あたり一面、ねぎ畑ばっかり。会場の入り口で、「ねぎみそまんじゅう」なんて、売ってます。はじめは、おにぎりかと思って、お昼に丁度いいや、と買いにいくと、なんと、その饅頭。すごすご引き下がってきました。ラテンC級戦の予選が始まり、出場組数92組。今回は、2次予選も無事、通過しました。3次予選の出番を待って並んでいると、モデルさんみたいな美男美女カップルが近づいてきて、彼に声をかけました。私は、「すてきなカップだなあ。」と、見とれていると、「あの、背番号、付いてませんよ。」えー!!慌てて彼の背中を見ると、ほんとだ、付いてません。彼のこの日のコスチュームは、黒のタートルネックに黒いベストで、その、背番号の付いたベストを、「暑い」といって、さっき、脱いだのでした。もう、次の次が出番です。彼はあわててベストを取りに帰り、猛ダッシュでフロアに登場しました。背番号がついていなければ、点が入りません。この後、試合に出られたのは、この方達のおかげでした。その時から、教えてくださった埼玉のMさんとはよく試合でお会いするようになり、その度にこの事件を思い出して、いつか恩返しをせねば、と思うのです。立っているだけで絵になる、外人みたいな体型の二人ですから、きっとこれからもますます活躍されることと思います。さて、結果は、準決勝進出。92組中、ベスト12でした。あと、もう一息です。その美しいカップルは決勝に残られたので、その時は名前も知りませんでしたが、背番号を呼んで応援しました。せめてもの恩返しです。ゴールデンウィークの、初夏のような一日、私たちは、また、ここで新しい、すてきな出会いがありました。創業昭和26年ふくの老舗!下関「日高本店」とらふく(とらふぐ)料理セット(ふく刺し・ふくち...晴天の富士しゃぶしゃぶセット(B)【送料無料】
2004/12/31
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2002年春、JBDF北関東支部の最初の大会は、4月7日、全茨城競技ダンス大会でした。種目はサンバとパソドブレ。私たちは、ラテンB級戦に出場しました。この頃、パソドブレが種目に入っているときは、いつも赤いドレスを着ていました。髪型はいろいろ試行錯誤しているときで、スピンしたときになびいてかっこいいので、この試合では、一つに結んで、背中に長くたらしていました。実は、合気道の昇段審査のための練習で、4人相手に戦っていたとき、右手親指を突き指してしまい、それがまだ完治していませんでした。ラテンアメリカンのダンスでは、男性の左手と女性の右手をつなぐことが多いので、彼がちょっとでも親指に触れると、「ヒーッ!」というくらい、腕の方まで痛みが走りました。しかし、試合では、そんなこと言ってられません。練習でも、なるべく親指を触らないような工夫をしましたが、いつ触られるかとおもうとビクビクでした。今、ビデオを見直してみると、そんな怪我をしていたようには全然見えません。結果は84組出場で、2次予選落ちですが、そのせいではけっしてありません。昨日、今年最後のレッスンで、先生に、「他の選手との差別化を図らなくてはならない。」というご指導をいただきました。一言でお茶、といってもいろいろある、というお話です。安物の急須で入れる番茶もあれば、高級な器でたてる抹茶もある。他と見分けがつかないお茶ではなく、明らかに他と違う、高級感漂うお茶にならなければいけない。私たちの、この全茨城競技ダンス大会での踊りは、他の選手と比較して、可もなく不可もなく、普通の緑茶でした。確かに、他の選手と明らかに違う上手な選手が4組くらいいます。限りなくAに近いB級選手たちです。私が審判だとしたら、まず、この4組にチェックを入れて、そのあと、まあましなカップルに点を入れると思います。自分たちに点を入れるかどうかは、その時たまたま目に入るかどうかにかかっていると思います。では、どこで差別化を図ればいいのか。そのカップルの特徴を生かした振り付け、正確なベーシックムーブメント、お客さんたちへのプレゼンテーション、そして、自分たちにあったコスチュームや髪型です。例えば、スピンが上手な選手はそれを多用すればいいし、体の柔軟な選手は、その柔らかさを十分に発揮できる振り付けにするべきです。ただ、どんなに凄い振り付けにしても、基礎であるベーシックムーブメントがしっかりできていないと、安っぽいお茶碗に入れたお茶になってしまいます。また、踊りも振り付けもすばらしいのに、何となく暗ーい感じで踊っていては、好印象は望めないので、プレゼンテーションも重要です。審判の前だけアピールして、反対側に行ったら手を抜く、というのを耳にしたことがありますが、反対側に行ったときこそ、がんばってプレゼンテーションするべきだと思います。だって、背番号は審判の方を向いているんですから。そして、コスチュームや髪型などの身だしなみも、重要です。踊りもすばらしい、プレゼンテーションも振り付けも最高、でも、変な服を着ていたり、ボサボサ頭でフロアに立っていたら、適当に入れて、ドンと出されたお茶みたいに、飲む気がおきません。お客様に、入れたての、高級茶を気持ちよく召し上がっていただくつもりで、これからも、日々精進。器も、入れ方も、茶葉も、湯加減も、作法も、すべて整った時、誰からも認められるA級選手になれるのだと思います。■ 玉露「八女の宝禄」・煎茶「八女の茗峰」 300g缶入
2004/12/30
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早朝5時。携帯アラームの音が、いっせいに鳴り始めました。栃木県は、関東地方でも内陸なので、冬の朝は底冷えがします。真っ白い息を吐きながら、夜明け前の渡り廊下を伝って食堂に行くと、暖かい朝食が用意されていました。朝は軽くしか食べない私ですが、旅行に行くとなぜか食欲が出て、このときもお腹いっぱいいただきました。7時前に道場に行くと、畳はまるで、氷のようでした。足が痛くなるほどの冷たさで、しかも裸足ですから、それが頭の芯まで突き刺さるようです。それぞれ自分の技の練習をしたり、柔軟体操をしたり、寝不足の体を思い思いのやり方で起こしていきます。審査は初段から始まりました。審査項目が多いので、自分の番が来るまで、正座して待ちます。はじめは、統一道の試験。立ち姿、お辞儀の姿勢、様々なポーズでの安定性が試されます。初心者の頃、なかなかできなかったのは、橋の欄干に寄りかかるようなポーズで、うまになった審査官の背に寄りかかり、それが予告なしに崩れ落ちても、自分はバランスを崩さないというものです。あらかじめ予想して、軽く寄りかかっていると、「軽すぎる」と言われ、思いっきり寄りかかっていると、うま共々、崩れ落ちてしまいます。逆に、背中で寄りかかっていた壁が急になくなっても、バランスを崩さない、という試験もあります。ダンスがとても役に立ったのは、片手、片足を上げて統一、という試験です。これは、初段の統一道の中では一番難しいものの一つですが、この状態で審査官に押されても動かないのは、ルンバの練習の成果だと思います。統一道の最後は、呼吸法です。20秒鼻から吸って、20秒口から吐く、という呼吸を先生が納得するまで繰り返します。私は、6番目でした。足がしびれて、膝が痛くなってきて、自分の順番になったとき立てないとまずいので、時々足を動かしながら、じっと待っていました。朝日が斜めに差し込んできて、背中にあたり、暖かく見守られているかのようでした。統一道の後は、技の試験。横面を打ってこられたとき、片手を取られたとき、両手を後ろに取られたとき、そして、短刀で攻撃されたときの撃退法をそれぞれ5種類ずつこなし、剣技と杖技を終えると、多人数がけです。1級のときより一人増えて、4人でかかってきます。このかかっていく敵の係は、審査を待っている人や、終わった人がボランティアで出ることになっていて、足のしびれをほぐす絶好のチャンスなので、積極的に参加しました。無事に審査を終え、マミさんと私は合格しました。帰りの車の中で、マミさんは、自分の戦争体験を話してくれました。20歳の時、イラン・イラク戦争にかり出されたのだそうです。彼は、イラン北部の美しい町で、当時、服飾デザイナーの勉強をしていました。上官は23歳の「変なやつ」で、無謀な突撃を命令し、仲間が目の前で次々とやられていくのを見たそうです。私たちは道場に戻り、先生に合格の報告をしました。先生もとても喜んでくださって、かねてから用意してあったのか、名前入りの黒帯をくださいました。マミさんは、この年の4月にイランに帰りました。1年後、スーパーモデルみたいな奥さんとの結婚式の写真が道場に送られてきました。いまでは、イランで合気道の道場を開き、地元の方達に教えているそうです。合気道帯マギーティスランド イランイラン 12mlラピス×白蝶貝枠メノーカメオ
2004/12/29
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2002年の2月に、大応援団を迎えて出場したチャンピオン戦が終わると、ダンスは週に2回のボチボチ練習モードに切り替えました。3月に、合気道の昇段試験があったからです。1級取得から約3カ月、私は、相変わらず、暗くなると、職場の顧問の庭をお借りして、剣と杖の練習を続けていました。「もっと、たくさんやれば?」と、いっていただきますが、漠然と何度もやるより、真剣に1回やったほうが練習になるのです。外は、真冬。雪こそありませんが、透明感のある冬の星座がまたたき、吐く息は真っ白に凍って、そんなに長くやってられない、というのが実は本音です。初段の審査は、心身統一合気道の本部、栃木県で年3回行われます。泊まり込みの2日間かけて、日本全国の道場から集まった同士が、互いに技を競います。同じ道場から、2段を受けるイラン人のマミさん(本名モハメッド)と、初段を受ける私、そして、指導員の先生の3人が本部に向かいました。本部は、大きな道場と、講義室、男子寮、女子寮、それに食堂も完備された複合施設になっています。ついた途端、いきなり、物凄く大粒のヒョウが降りだしました。庭に白い玉がコロコロ転がって、みんなびっくりして窓にかけより、外にいた人たちはあわてて駆け込んできました。何か起こりそうな予感です。初日は、統一道の体操のテストがありました。「静中の統一はいまだ易し。動中になお、統一を乱さざるが、真の統一である。」統一というのは、バランスコントロールのことで、要するに、動いているときも、ちょっとぐらい押されてフラフラするな、ということです。これを極めたら、ダンスの競技会でちょっとくらいぶつかられても、びくともしない最強のカップルになるかもしれません。このあと、講義がありました。心身統一合気道創始者の藤平先生です。御年80歳を超えてなお、後に続く者たちの育成に力を注いでおられます。「武道は勝つためのものではない。勝つというのは、相対的なもので、絶対的なものではない。」「強いから正しく出来るのではなく、その通りにやれば全ての人が出来ることを、正しいことという。」「目標は、天地(宇宙)と一体となること。天地の理を実行すること。」なんのこと?合気道をやると、なんとなく分かってきます。気は宇宙に満ちているエネルギーです。その気に合するの道が、合気道です。この時は、全部で60~70人位の受験者がいたと思います。大学の合気道部の方が多いなか、九州や大阪、海外からの受験生もいて、女性も2割くらいいたでしょうか。食堂で夕食を済ませると、夜の稽古がはじまります。広い道場を4つに分け、審査をして下さる先生がそれぞれの場所について、稽古を見て下さいます。私が技を掛けるとき、受けを取ってくれるのはマミさんでした。彼は、身長175センチくらいなのですが、手足が長いので、もっとずっと大きく見えます。とても陽気で真面目な青年で、流暢な茨城弁を話します。素晴らしい身体能力を持っているので、まるで私がスーパーウーマンのように、かっこよく投げられてくれるのです。稽古は夜11時近くまであって、それからお風呂に入って女子寮に引上げたときはもう真夜中を回っていました。明日の試験は7時に道場集合。5時には起きなければいけません。同じ部屋に8人の女子がいて、本当はもっと語り合いたかったのですが、自己紹介だけして、すぐに寝ました。久しぶりの2段ベッド。あたりは、シーンと静まり返っています。「昇段審査は厳しくて、3割は落とされるらしい」そんな噂を耳にして、ちょっと不安な夜でした。合気道用木刀高級未晒合気道衣 3L号、4号
2004/12/28
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「ひょっとしたら、A級に昇級してないかもしれないよ。」今年のクリスマスイブは、先生のこんな爆弾発言。私たちは今年の前半で、DSCJ (JDSF)のA級昇級を決めていました。B級戦で3位と5位で2回決勝に入賞しているうえに、A級戦でも6位と優勝で、2回決勝に入賞しているので、こちらは、間違いなく来年度A級でした。先生のいわれたのは、もう一つの競技団体、JBDF関東甲信越のほうで、クリスマスイブに渡された、来年度の選手登録用紙を見ると、ラテンB、スタンダードCと書かれていました。B級からA級に昇級するには、2つの条件があり、そのどちらかを満たせばよいと記載されています。1 B級競技会で2回以上、3位以内に入賞すること。2 B級競技会で1回3位以内に入賞し、A級競技会で2回以上準決勝に入賞すること。私たちの成績は、B級戦で群馬大会4位と新潟大会3位、A級戦では、長野大会と埼玉大会で準決勝に入り、昇級規定の2を満たすので、てっきりA級に昇級していると思い、後期のラテンには出場しませんでした。今年から、昇級規定が変わって、ここには、思わぬ落とし穴があったのです。クリスマスの日、大会事務局に問い合わせてみると、事務局の先生は私たちのことをご存知でした。というのは、昇級審査会という会議があって、私たちも昇級審査の対象になったらしいのです。昇級規定の記載をよーく見ると、一番下に、昇級の制限なる項目があります。そこには、「D級以上の競技会で出場組数が50組以下の場合は、上記昇級規定によらずに、出場組数による昇級を準用する。この場合は決勝入賞のみに限定する。」と書かれていました。A級選手は少ないので、A級戦に50組以上が参加することはほとんどなく、たいてい、20~30組です。私たちの出場したA級戦もそのくらいでした。この場合、「準決勝入賞」には意味がなく、たとえば30組出場のA級戦なら、その決勝、しかも4位以内に入らなければ、審査対象にならないということです。今回の昇級規定変更で、私たちのような勘違いの選手が多数いたらしく、事務局には問い合わせの電話がたくさんかかってきているとのことでした。ショックです。知っていたら、後期の試合にも出たのに。年賀状にも「祝!A級昇級」って書いて、もう出しちゃったし。まあ、DSCJの方はA級昇級しているから、間違いではないんですが、また、来年も激戦のB級戦で3位以内をねらわなければなりません。実は去年の12月も、似たようなことがありました。去年最後のDSCJの試合で、優勝ならA級、準優勝ならB級という、極めてまれな同点決勝があり、審判の多数決3対2で私たちは準優勝。今年もB級ということになってしまいました。このことがあって、私たちは正月返上で練習しました。そして、今年の早い次期にA級昇級を決めたのです。今回、B級維持が決まった瞬間、私の心の中には闘志が燃え上がりました。ちょっと落ち込んでいた彼にも、その炎は飛び火したはずです。A級昇級が決まっていたら、しばらく練習しなくなってたかもしれませんから、かえってよかったかもしれません。社交ダンスA級への道はまだまだ続きます。 J.S.バッハ ヨハネ受難曲 BWV245 J.S.バッハ:マタイ受難曲
2004/12/27
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四谷怪談で有名な、東京四谷に、聖イグナチオ教会という、大きな教会があります。ここでは、毎年クリスマスを祝うキャンドルサービスが行われ、先着順500名までがキャンドルをもらえて、それを持って、街を歩く、というイベントがあります。私が高校1年の時、クリスマスの近いある日、テレビで、「ブラザー・サン、シスター・ムーン」という映画を見ました。13世紀のイタリアに実在した聖フランシスコの物語です。裕福な家庭に生まれ育った彼は、騎士として戦争に行きますが、病気になって生死の間をさまよい、それがきっかけで魂の目覚めを体験します。富と名誉に結びついた教会を否定し、雪の原野に一人、石を積んで教会を建て始めるのです。初めはばかにしていた友達も、彼の澄んだ瞳を見て、自然の中に生きる喜びを知り、一人、また一人、仲間が増えていきます。私はこの映画に、いたく感動しました。「これだ!」と、思っちゃったわけです。といっても、何が出来るわけでもなく、とりあえず、貯めていたお小遣い全てを、大した額ではありませんが、歳末助け合いに寄付しました。もっと、なにか出来ることはないか、と思っていると、冒頭でお話しした、聖イグナチオ教会のキャンドルサービスの記事を見つけたわけです。親には「友達とでかける」といって、その年のクリスマスイブ、四谷まで行きました。もちろん、本当は一人です。教会にはもう、大勢の人が集まっていました。長めの白いロウソクのまわりを、紙で四角く囲って、炎が風で消えないようにしてあって、その4面に賛美歌が書かれていました。夕方5時頃、そのキャンドルに次々と火がリレーされて、私のキャンドルにも灯がともりました。もうすっかり暗くなった教会に、たくさんの小さな明かりが星のように揺らめき、それは美しい光景でした。そのキャンドルをもった長い行列は、教会を出発して、街を静かに進んでいきます。リーダーの方が、次に唄う賛美歌の番号を指示されると、みんなが次々に唱和し、冬のキーンと冷えた空気の中に厳かな歌声が広がります。私は、というと、このにわか造りの「ナンチャッテ・クリスチャン」ですから、賛美歌なんて知りません。でも黙ってると変なので、「クチパク」で、参加してるふりをしていました。繰り返しその4曲を歌うので、そのうち覚えて、だんだん調子に乗ってきました。しかしそれよりも、ちょっとした心配事がありました。私のもらったキャンドルは、ちょっと作りが悪くて、グラグラしていたのです。ロウソクを囲んでいるその賛美歌の紙を、しっかり押さえておかないと、火が燃え移りそうでした。やがてキャンドル行列は、再び教会に戻ってきました。なんだか、とってもすがすがしい気分。周りの方と和やかにお話をして、つい、キャンドルから気をそらしてしまいました。グラグラキャンドルは、あっというまに周りを囲っていた紙に炎を移して、燃え上がりました。「あちっ!」思わず、手を放してしまって、燃え上がったキャンドル台は聖イグナチオ教会の乾燥した芝生に火をつけました。周りにいた人たちも、あわてて、消化に参加して、みんな燃え広がらないように、芝生と火元のキャンドルを足でバフバフ踏ん付けました。「すみません、すみません」と、みんなに謝りまくりながら、ボロボロになった、キャンドルの残がいを拾い集めました。焦げた芝生はどうしたらいいんでしょう。まずいです。これは、非常にまずいです。クリスマスでよかった、と思ったのは、すべてのクリスチャンがこの日ばかりは、一年で一番慈悲の心に満ちあふれ、どんな罪でも許しましょう、というモードになっていることです。周りの方々も、リーダーの方も、みんな、何かを許したくてしょうがない気分だったのではないでしょうか。私の罪は許されました。しかし、エデンの東へと追放されたカインのように、もう2度とそこに参加することはありませんでした。 ブラザー・サン シスター・ムーン【PDA-235】 =>20%OFF!《発売日:04/06/25》 エデンの東(新品CD)
2004/12/26
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毎年クリスマスの季節になると、「今年のクリスマスは何事もなく過ごせるだろうか」という不安が、一瞬なりといえども脳裏をよぎるのです。私が小学校3年のクリスマスイブのことです。冬休みにはいって、宿題さえ考えなければ、あとは、クリスマスにお正月、楽しいことばかりです。まだ、サンタを信じていたし、家族で囲むクリスマスの食事も楽しみでした。この年は、父が、チョコレートケーキを買ってきてくれました。食いしん坊の私でしたが、なぜか、この時ばかりはお腹が痛くて、ろくにケーキが食べられません。ただ、目の治療で、痛みに対して我慢強くなっていたので、じっとこらえて、ご馳走に手を出しますが、とうとう、耐えきれず、「お腹が痛い」とうったえました。母は、折角作ったご馳走を食べないなんて変だと思ったようですが、よく、お腹を冷やして痛くなることがあったので、「ストーブの前で、寝てなさい」といいました。私は、いわれた通り、ストーブの前に横たわり、両親が美味しそうにご馳走やケーキを食べているのを痛みに堪えながら見ていました。自分が「マッチ売りの少女」になったような、たまらなく惨めな気持ちでした。翌朝目が覚めても、まだ、痛みは続いていました。お腹が痛くて真っ直ぐ立てないので、腰を曲げたまま、近所のかかりつけのお医者さんにいくと、先生は、父に、病院を紹介するから、一刻も速く連れていくように告げていました。「入院」という言葉に、自分がなんだか悲劇のヒロインになった気分がして、少し嬉しかったのを覚えています。病院に行くと、先生から連絡がいっていたらしく、大きなガラガラいうベットに乗せられて廊下をどんどん進み、他の患者さんを押しのけての緊急手術でした。背中に大きな注射を打たれ、お腹がチョキチョキ切られている音が聞こえました。後から聞いた話ですが、急性虫垂炎で、腹膜炎も併発していて、あと30分遅かったら、盲腸が破裂して死んでいたということで、両親は肝を冷やしたようです。特に母は、幼いころ、自分の母親を腹膜炎で亡くしていたので、手術を待つ間、「母だけでなく、私の子供まで同じ病気で奪わないで下さい」と必死に祈ったそうです。盲腸は、暖めるとよけい大きくなるのが早いそうなので、我慢強いお子さんをお持ちの方は、お気をつけ下さい。私はその後、チョコレートがのどを通らなくなりました。多分このことがトラウマになっているのだろうと思いますが、いまでもチョコは苦手です。冬休みが明けて、始業式。その日は雪が降っていました。体重が半分になって、骨と皮になっしまった小さな少女は、それでも学校に行きたいといいました。しかし、学校までの1キロ半を歩ききる体力はなく、途中で力尽きました。もう、前にも後ろにも一歩も進めません。頬に降り掛かる冷たい雪。このまま死んだらどうしよう、と思いました。心配になって、あとからついてきた母に、私は連れ戻されました。そのまま風邪をひいて寝込み、結局、1月一杯は学校をお休みしてしまいました。このことがあってから、私は雪が降ると学校を休むようになりました。関東地方に雪が降ることはめったにないので、それでもなんとかやって来れたのです。今でも、雪が降ると、出かけるのにかなりの気合が必要です。好きなダンスの競技会でも、雪が降ったらパスしたいくらいです。子供の頃の体験は、結構、人生全般に大きな影響を与えるものですね。
2004/12/25
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私の通っていた眼科には、地元では有名な院長先生がいました。数年前、久し振りに近くを通って、大病院になっているのに驚きました。母は、先生の言い付けを守って、私にヤツメウナギの油を飲ませ、ほう酸を浸した脱脂綿で目を拭き、夜になると星を見せました。東京の夜空ですから、明るい星しか見えないのですが、それでも、星座早見板を買ってもらって、次第に星座や星の名前を覚えていき、そのうち、知らない星はないくらい、夜空はすっかり私の庭になりました。眼科には、毎週、夏も冬も、そしてまた次の夏も通い続けました。こめかみや手に電極を貼って、口の中が金属臭くなる、微弱電流を流したり、双眼鏡のような機械を覗いて、赤い光を見続けたり。ノイロと言う名の、プスッと金属が飛び出す器具で、目の周りを物理的に刺激するのもありました。最悪なのは、月1回くらい、眼球注射をされることです。それ自体はそれほど痛くないのですが、針が近づいてくるのが、ものすごくこわいのです。全てが終わると、目を洗ってくれます。これが、至上の快楽でした。スポイトでちょっとずついろいろな薬をたらして、食塩水で流しながら目をマッサージしてくれます。看護婦さんも上手でしたが、院長先生の手は魔法の手でした。そのまま寝てもいいくらい気持ちがいいのです。私は、お人形遊びで、よく「眼医者さんごっこ」をしていました。人形の目を洗ってあげたり、眼球注射したり、普通の子は絶対しないような遊びです。七夕の短冊には「眼がよくなりますように」と、毎年書いていました。夜なかなか眠れないときは、布団の中で「眼がよくなりますように」と何度も繰り返してとなえていました。本を読むと目が疲れるので、音楽を聴くようになりました。たくさんの映画音楽のレコードがあったので、何回も聴いて、イントロクイズ出来るくらいになっていました。それから、ヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」はお気に入りで、よくこれで踊ってました。もちろん、でたらめステップですが。1年後、視力検査で眼鏡をかけなくていいぎりぎりの0.7まで回復しました。自信をつけた母は、私がちょっとでも暗いところで本を読んでいたりすると、すぐに電気をつけるようにいい、本に眼を近付けて読んでいても、背中に和裁用の物差しを入れられました。小学校は1年から3年までがクラス替えなしで進級し、3年になっても相変わらず、眼鏡の男の子は、それだけの理由でからかわれていました。「しつこくいじめるの、やめなよ。」あるとき私は、ついに言ってしまって、しまった、と思いました。予想通り、いじめの標的は私に変わりました。「こいつ、あの眼鏡とできてる。」といって、いろんなところに「あいあい傘」を書かれましたが、バカ男子!と思って、私は徹底的に無視しました。そのうち、彼らも飽きて、また別の標的をみつけていました。4年生の視力検査では、1.0になっていました。両親とも目がいいので、それでも家族の中では、私が一番、目が悪かったのです。そして、5年生、ついに、1.5になりました。一番下の字も、両目開ければ見えました。もう、視力検査はこわくありません。私の近視は、完全に治っていました。この体験は私に多くの事を学ばせてくれました。夢は、それを諦めないかぎり、いつか必ず叶うこと。それまで、辛抱強く、時間をかけて取り組むこと。今思うと、私が一人っ子のせいもあると思いますが、両親は並々ならぬ愛情を私に注ぎ込んでくれていたんです。私がいまでも遠くがよく見えるのは、この両親のお陰だと思っています。1997年に私たちが初めて競技に出場した6級戦。この入賞者の集合写真がダンス雑誌に載ったとき、「いつか、踊ってる大きな写真が載ったらいいなあ。」という夢がありました。それが、2002年2月に出場したチャンピオン戦で優勝したことによって、ついに実現しました。私たちがパソドブレを踊っている大きな写真です。大応援団の友達も、さっそくその雑誌を買って、おめでとうのメールをくれました。大切なのは、いつも夢と希望を持つこと。その光がないと、私たちは、どこに向かっていけばいいのか、ただ迷走するばかりです。大きく構える必要はなく、ただ「こうなるといいなあ」と思うだけでいいんです。「お金持ちになりたいなあ」、「頭よくなりたいなあ」、「きれいになりたいなあ」、何か心に浮かぶごとに、遠くに光が一つ灯ります。後は、それに向けて、歩きだせばいいのです。映画の中のクラシック・コレクション 〔ドレミ楽譜出版〕強力 天然やつめ 200粒
2004/12/24
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一年で一番憂うつな日、それは、視力検査の日でした。小学校に入学して初めての身体検査で、視力が0.6だった私は、すぐ眼科に連れていかれ、「逆さまつげ」の手術を受けました。まつげが眼球を射して、視力を低下させていたからです。その手術の痕が、目の下に残って、誰かに会うたびに、どうしたのかと聞かれました。両親はそれで治ったと思っていたようですが、そうでないことは自分で分かっていました。黒板が見えなかったからです。クラスに一人、メガネの男の子がいて、みんなにからかわれていたので、絶対に眼鏡はいや。目がよく見えないのは、6歳の私の誰にも言えない秘密でした。そして、2年生の春。その日は朝からとても憂うつ。仲良しのちえちゃんは、ちょっと太っていたので、体重測定がいやだと言っていました。が、わたしの抱えている問題は、そんなこととは比べ物にならないほど、世界で一番深刻でした。視力検査の順番を待つ間に、前の子達が読んでいる字を覚え、いよいよ、私の番。先生が差したのは、無情にも、いままで差したことのない記号でした。全然、見えません。私が立ち往生していると、検査の終わった子達が集まってきて、「なんで、みえないの?」とか、「それも見えないの?」と、騒ぐので、ますますプレッシャーがかかりました。視力は0.2。去年よりさらに悪くなっていました。バスと電車を乗り継いでいく、ちょっと遠い眼医者に、母は私を連れていきました。もう一度、手術をすることになり、ついでに前回の傷跡も取ることにしました。しかしこれは、信じられないほどの拷問でした。目の下の肉を、ちょっと手でつまんでみて下さい。それだけでも痛いのに、そこを切り取って縫い合わせるなんて、想像を絶します。7歳の私は手術用のベッドの上で暴れまくりました。看護婦さん5人掛かりで押さえ付けられ、目をこじ開けられ、泣き叫ぶ私にお構いなく、手術は続けられました。最初の右目で懲りた私は、もう左の傷跡はとらなくていいです、と先生にお願いしました。先生も、「大人になったらマスカラつけたりして、目立たなくなるからいいでしょう。」と母を納得させてくれました。数週間後、手術の眼帯が取れると、視力検査のイスに座らされました。検査をしてくれた看護婦さんはとても事務的でした。視力検査のボードがとても遠くに感じられます。イスに座ったときから、私はもう泣きそうでした。「めがね」といわれるのが、この世のなによりもこわかったのです。しかし、いくら目を凝らしても、上から3つめより下は見えませんでした。看護婦さんは、カチャカチャレンズを代えて、「はい、じゃ、めがねね。」と、私の最も恐れていた言葉を、いともたやすくいってのけたのです。私は検査イスの上で、口を真一文字に結び、看護婦さんがレンズをかえて、「こんど、これで、上から読んでみて」というのに対し無言の抗議を続けました。涙がポロポロこぼれて、もう全然見えません。困り果てた看護婦さんは、私を先生のところに連れていきました。先生はやさしく私の話を聞いてくれました。「どうしても眼鏡はいやなんだね。分かった。先生が治してあげる。そのかわり、きちんと毎週来れるかな。」希望というのは、遠くに見えるかすかな光のようなものです。私はそれを信じました。いつかきっと、視力検査の下の方まで見える日が来るに違いない。夢には、その大きさにしたがって、それが叶うまでの「時間」を注ぎ込まなければなりません。しかし、希望の光が消えないかぎり、いつかはそこに到達するものなのです。(つづく)
2004/12/23
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このブログの初日に書いた、ユーリ&ヤグダと同じスロベニアから、グレゴール&リサが、昨日、教室にやって来ました。彼らは、先週は秋田で、今週は東京のパーティでデモを踊るために来日し、途中、私たちの教室でのラテン練習会に立ち寄ってくれたのです。一昨日、パーティが終わったばかりのせいか、練習会参加者も、私たちを含めて2組だけで、きっと後で言ったら、みんな悔しがるに違いありません。グレゴールは長い足に逞しいボディ、甘いマスクの好青年。リサは、まるで上品な砂糖菓子のようにスィートで、小柄な金髪のおかっぱ娘です。しかし、ダンスシューズを履いて、ひとたびフロアに立つと、なんて大きく見えるんでしょう。床から生えた大木のような足から来るトーンの強さ、自由自在な身体の動き、スピードコントロール、コネクション、どれをとっても、私たちとは次元が違いすぎて、比べ物になりません。彼らは世界ランキングでベスト24くらい、と言っていましたから、まだまだ世界は遠いぞ、と肌で感じました。練習の後、ストレッチをしながら、いろいろ話を聞きました。グレゴールは、まだ19歳の大学生です。いつも、どんな練習してるのか、気になって、聞いてみました。「ベーシックも含めて、その時の課題や躍り込み、いろいろやって、一日4~5時間かな。」「4~5時間?!毎日?」「試合のある土日は練習しないよ。」そりゃ、そうでしょ。他にジム行ったりしてトレーニングもするのかと聞いてみると、「大学は体育学部だから、講義もあるけど、ほとんど実技なんだ。サッカーもやるし、バレーもやるし。だから、それ以上にジムに行って鍛えようとは思わないね。」二人がどこで知りあったのかも聞いてみました。「ロンドン。リサはイギリス人なんだよ。競技するのに、どちらかの国の所属にする必要があるから、スロベニアにしてるけどね。」「リサもスロベニアに住んでるの?」「そうよ。私はもう学校卒業したから、今は、ダンスの練習だけ。」ダンスに国境はないのです。特にヨーロッパは地続きですから。どのくらい試合に出てるのかも、気になるところです。「多いときはね、7週間連続ってこともあるんだ。IDSFの試合がヨーロッパのいろんな国であるから、今週はハンガリー、来週はリトアニアっていう感じ。他にブラックプールやロンドンインターみたいな世界大会にも参加するから、シーズン中は休みなしだよ。」「参加費は全部自腹なの?」「IDSFの試合は、ファイナルに残ると賞金がもらえるの。それを次の試合の出場料に充てるのよ。」やっぱり、踊りの次元も違うけど、出てる試合のスケールもかなり違うなあ、と実感しました。世界中の高いレベルの選手が集まる試合に、たくさん参加すると、それだけでいろいろいい影響を受けることができそうです。この短い練習会だけでさえ、こんなに凄いイメージトレーニングをさせてもらえたんですから。今回が、彼らの初来日。スケジュールが過密で、昨日は初めての自由時間。浅草と上野に行ってきたと言ってました。今日は秋葉原に行くそうです。リサが私に、「プロなの?」と、聞きました。なわけないでしょ。踊り見りゃ分かるじゃないの。アマです。もちろん。でも、ちょっと気分いいなあ。頭の周りにお花が飛んでる気持ち。サンキュー、リサ。今後のお二人の活躍を心からお祈りしています。 スロベニア発行民族衣装切手 ベンチ スロベニア
2004/12/22
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洗濯物がたくさん下がった物干しざおを、主婦が重量挙げのように持ち上げる、妙に感動的なテレビコマーシャル、ご覧になったこと、ありませんか?首に巻いたチタンネックレスの宣伝です。2002年の2月ごろ、私たちがいつものようにダンスの練習をしていると、スタジオに雑誌の取材の方が来られました。教室の生徒さん何人かがモデルになって、チタン製品の使用前/使用後の写真を撮っています。まずは、チタンスパッツを履いた女性。足が90度も上がらなかったのに、履いた途端、120度くらい上がってます。私たちは、練習しながら興味津々でチラチラ見ながら、「ウッソー」とか、思ってました。次の女性はチタン入りシャツにトライ。着る前は、反る、というより、上むくだけ、という人が、な、なんと、床に平行になるまで反ってます。「そんな、ばかなー!」ますます興味津々です。なんで?と思いますよね、普通。そんな私たちににも、チャンスがやってきました。たまたま取材中に男性の生徒さんがいなかったので、教室の生徒じゃないけど、試してもらえませんか、と言っていただきました。「どこか、硬くて困ってるところありませんか」彼は、今練習しているパソで、背中を捻るのが結構きつい、といいました。上半身裸の彼の背中に、チタンローションを塗り込み、その上から背骨の両脇に10個ぐらいチタンテープを貼って、その背中を写真に撮られました。見た感じはピップエレキバンみたいな小さな円形のシールで、よくマラソン選手なんかがいろんなところに貼ってます。そのシールにチタンファイバーがうめこんであって、持久力を高めたり、柔軟性を増強したりする効果があるらしいのです。私も何か試したい、というと、チタンスパッツを履かせてくれ、それで二人でパソドブレのシャッセケープというポーズをとりました。彼が闘牛士の役で、私が、彼の持っているケープの役です。写真を撮る前に、その教室の先生が、シェープを直してくれたので、その格好が、チタンのお陰なのか、先生のお陰なのか、微妙なところになってしまいました。1カ月後、発売されたダンス雑誌に私たちはコメントつきで、モデルとして登場していました。知り合いの人に、載ってたことを教えられ、買いに走りましたが、すでに売り切れ。私たちがモデルしたせいで、ダンス雑誌バカ売れ、なわけないんですが、友達にも連絡して、本屋さんで探してもらいましたが、もうどこにもありませんでした。そのまま、しばらく忘れていましたが、夏に京都の実家に帰ると、そこにありました。「すごい効果ですね。チタンのおかげで、次の大会は好成績が期待できそうです」えーっ!!こんなこと、言ったかなあ?!ま、でも、出演料代わりに、チタンテープとローションのサンプルもらったし、試合で使ってないわけでもないので、いいかな。嘘かほんとか、身体が堅いとお悩みの方、一度おためしあれ。【ファイテン】チタンパワー★効果は半永久的!!?パワーテープ(70マーク入り)(写真左)ラクワネックスポーツボルドー×ホワイトe-ウォーターRAKUスポーツスパッツ[ハーフ]ファイテン ラクシャツ 半袖丸首 ストレッチファイテンRAKUスポーツスパッツ(ロング)
2004/12/21
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昨日、千葉県の某結婚式場でクリスマス舞踏晩餐会2004が行われました。美しく装った200名を超える観客は、コース料理をいただきながら、なごやかに歓談し、中央のフロアでは、教室の先生と生徒さんによるダンスが、次々と披露されていきました。ダンス教室の、仲良しの友達も2番目に登場。ゆいちゃん、6歳。レッスンの後、一緒に遊ぶのが大好きで、ぐるぐる回したり、ジャンプしたり。そのおかげで、随分腹筋背筋が鍛えられてきました。昨日のパーティでは、かわいらしいピンクのドレスで、ルンバとジャイブを踊り、大喝采をあびて、初めてのデモは大成功でした。さあ、そして、いよいよ競技選手12組による紅白戦。紅組を先頭に入場行進、私は白組のプラカードを持って、その後に続きました。審判は、この日、お見えになっていた素晴らしいゲスト、全日本アマチュアのトップファイナリストの和智選手と、菅野選手が担当されていました。リハーサルの時に、「紅白の実力は伯仲していますから、どれだけ観客を喜ばせることができたか、というのを今日の採点基準にします」と言われていましたので、アピールにも熱が入ります。優勝チームには賞品が出るということですから、遊びとはいえ、みんな勝つ気満々。キャップテン対決は得点が倍、といわれて、白組キャプテンを仰せ付かっていた私たちにはプレッシャーがかかります。紅組キャプテンはA級選手ですから、競技会とはまた別の緊張感で、彼の手は冷たくなっていきました。タンゴ、ルンバ、ワルツ、チャチャチャ、スローフォックストロット、そしてサンバの順に、紅白1組ずつの対戦。確かに実力は伯仲していました。残念なことに、紅組ルンバに出場予定だった男性が、高熱のため欠場されて、急きょ、紅組キャプテンが代理を務めることになりました。いよいよ、最後のキャプテン対決。私たちは、今回は白組なので、白い長手袋にレモンイエローの衣装でフロアに登場しました。サンバの激しいリズムに乗ってフロアを回っていくと、グループレッスンでご一緒させていただいている方々や、教室で見かけるあの顔この顔、皆さんがそれぞれのお席から暖かい声援と拍手を送って下さいました。私たちはこの日のために、振り付けを少し変えました。前日の土曜も、リハーサル後の練習もそこばっかり練習して、それでもまだしっくり来ないので最後の最後までもめていました。それは、男女が早いスピードで入れ替わりながら、男性が大きく回し蹴り(ロンデ)するルーチンです。いよいよその場所に差し掛かると、彼のロンデは練習の時よりも一段と大きく決まり、目の前のお客さんたちから「おー!!」と言う声が漏れて、私たちはますますノリノリです。彼は、自分が何をどう踊ったのか覚えてないほど、緊張していたそうです。紅白戦のあとも、デモやダンスタイム、ディナータイム、プレゼント抽選会、そして、パーテイのもう一つの目玉は、ルンバ大会でした。申し込みをした人の中から、ランダムで即席カップルを作り、ルンバで競うというゲームです。私は、ラッキーなことに、いつも一緒に練習会に参加している競技選手と組むことになり、難なく決勝に進みました。まわりから「ずるい」という声も聞こえましたが、くじで決まったんですから。彼の方は、初心者に近い女性と組むことになって、予選落ちです。優勝したのは、紅組キャプテンと教室の上手な女性とのカップル。こちらもちょっと「ずるい」感じですが、くじで決まったんですから文句はいえません。さまざまな企画盛りだくさんで4時間にわたるたのしいパーティは、あっという間に過ぎていきました。私たち白組は優勝し、教室で使える300円のスポーツドリンク券を各組に1枚ずつ頂きました。そして何より嬉しかったのは、グループレッスンの仲間たちから大きな花束を頂いたこと。全然、予想していなかったので感激しました。終わってみると、夢のようだった華やかなパーティの一時。お部屋で美しく咲いている赤いバラと黄色のガーベラの花束、そして、ラテン系の小麦色の肌だけが、それが夢でなかったことを物語っています。 お誕生日や記念日にいかが?バラのアレンジ色・本数指定出来ます (20~24本) 「青い背景の赤いバラ] アイズピリ
2004/12/20
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昨日12月18日、京都アバンティホールにて行われました、桂よね吉、初独演会は、大盛況、満員御礼にて無事終了いたしました。応援に駆け付けて下さった皆さま、陰ながら応援して下さった皆さま、どうもありがとうございました。今日は、ダンス教室のクリスマスパーティ。教室に通っている競技選手同士で紅白戦を行います。私たちは、白組キャプテン。普段の競技会より、ずっと気合が入っております。2年ほど前の競技会で、応援に来て下さった先生から、ある需要なご指摘を頂きました。「ラテンにしては色が白すぎる。黒く塗れ」確かに、上位級になればなるほど、小麦色の肌をした女性が増えてきます。みんなどうしているんだろうと、不思議に思っていたのです。体中にどうらん塗ったらドレスに着くし、皮膚呼吸できなくて死ぬかも。よっぽど頻繁に日焼けサロンに通ってるのかな。先生に伺うと、「セルフタンニング」なるものがあるということなのです。近くの薬局で聞いてみると、ありました、ありました。男性化粧品ギャッツビーから「日焼けした肌でいつもモテモテ」みたいなキャチフレーズで売ってます。ムースタイプと液体のタイプがあったので、試しに両方買ってみました。次の日、美しい日焼け肌に変身している自分を見て感動しました。液自体には色が付いてないので、どこに塗ったのかよく分からなくなるのが難点です。失敗すると塗残し部分だけ白く残って、まだらになります。私はそのときから、ギャッツビー愛用者になりました。しかし、どうも、買っていくのは私だけだったらしく、しばらくすると、店頭から消えて、注文する必要がでてきました。さらに数カ月後、とうとう製造中止になってしまいました。おまけにしばらくすると、その薬局自体も閉店してしまいました。この話を聞いた友達が、海外旅行のお土産に買ってきてくれました。それは、クリームタイプで、白人用なのか、カフェオレみたいなマイルドな色合いに仕上がり。あっという間に使いきってしまって、またすぐに必要になってきました。今は、ダンスショップで売っているドイツ製の製品を使っています。これは世界中でポピュラーな賞品らしく、英語、スペイン語、フランス語、イタリア語、ギリシャ語、中国語、日本語で使用方法が書かれています。便利なのは、ちょっと茶色が入っているので、どこに塗ったのか一目瞭然。もう塗残しはありません。そして、一度塗ったら一週間くらい小麦色の肌が続いて、皮膚の代謝でお風呂に入るごとに少しずつ消えていきます。これなら、服にもつかないし、汗をかいても取れません。「なんか、あぶない薬品使ってるんじゃないの」と言う人もいますが、紫外線で焼くよりは皮膚に対するダメージは少ないと考えています。これを使い始めたころは、競技会の後仕事に行くと、「海行ってきたの?」とか、「よく焼けてるねー。」と、いわれましたが、最近は「ああ、また、競技会ね」という感じで、誰も何も言わなくなりました。今日、紅白戦でサンバを踊るために、またばっちり南米人に変身しております。パーティの様子は、また明日、どうぞお楽しみに。Rockford メンズ スキンケアセルフ タンニング男女兼用<日焼け用クリーム>◆エステダム サンシーンクリーム◆(フェイス&ボディ用セルフタンニングクリーム)
2004/12/19
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友達は、雨女です。いい天気が続いても、彼女がどこかに行く日だけ、雨になったり、最近はパワーアップして台風も連れてくるので、「妖怪あめふらし」の異名をとっています。2002年2月24日、大応援団が来てくれるということで、「雨かな」といっていましたが、誰か強力な晴れ人間がいたのか、冬晴れの好天に恵まれました。のべ900組を超える選手を集めた、この第6回八千代支部ダンススポーツ競技大会は、私たちが到着した段階ですでに近場の駐車場はいっぱいで、かなり離れた場所に誘導されました。私たちの出場するオープン戦ラテンの他に、午前中は1級から6級までのラテンの競技があり、午後はスタンダード競技。大応援団が到着するまで、何としても予選を勝ち残らねば、と使命感に燃えていましたが、予選が始まる前に、来てくれました。「今日は、頑張ってね!!」花束とチョコレートを渡されました。あれ?何か、勘違いしてる?ライブじゃないんだからさ。マラソン大会でスタート前に、選手が花束もらうような感じ?きっと、初めてダンス競技会を見に来るというので、何を持っていったら私たちが喜ぶか、ずいぶん考えてくれたんだろうなあ。その気持ちが、嬉しくて、胸がジーンとしました。優勝を先取りした気分です。遅れてやってきたご主人。駐車場がなくて大変だったでしょう、と聞くと、「係の人がさ、医療班の通行証見て、入口開けてくれてさ。役員の駐車場に置いてきたよ。」何か、うまいことやったなあ。でも、実際だれか怪我したら、応急処置してあげられるから、それも、ありですかね。オープン戦ラテンの1次予選。参加組数18組。2階席中央に陣取った大応援団に、ビデオ撮影をお願いしました。種目はサンバ、ルンバ、パソドブレの3種目。私は赤のドレス、彼は、最近手に入れた黒のタートルネックにベストが付いた、パソドブレにぴったりの衣装で入場しました。最初のサンバから、お母さんのこれ以上ありえないほどの、非常に好意的な解説が、ずっとビデオに録画されています。この大応援団3人の中で、社交ダンスをやっているのは、お母さんだけ。「すごい!場所取りが上手」「あの、ルーチンむずかしいのよォ」「すごく、キレがいいでしょ」この解説だけ聞いてると、どんなすごい選手だろうと、思ってしまいますが、他の二人も黙ってはいません。「おっ、あのまま投げに入るのかとおもったぜ」M君は柔道の達人です。「パソって、タンタカタンタカってやつでしょ。」Cちゃんは音楽解説。踊り見てるより、3人の解説聞いてるほうが、よっぽど面白いのです。そして、踊り終わるたびに、割れんばかりの拍手が録音されています。私たちは順当に勝ち進み、準決勝の段階で2位につけていました。1位だったのは、東京の選手です。M君は競技が終わるたびに、採点表をチェックしに行ってくれていたようです。決勝の前に2階席にご挨拶に伺うと、「あの東京のカップル、競技の合間もずっと練習してるよ。」きっと現段階で1位の選手があれだけやってるのに、2位の私たちはいいのか、と心配して下さっているんだな、と思って、大応援団を安心させるために、ちょっと練習しました。そして、いよいよ決勝です。大応援団はますます盛り上がり、フロアから見上げると、2階席のそこだけ目立っていました。と言うか、浮いていました。私たちの名前が呼ばれると、「4番がんばれー!!」大騒ぎです。なんか、すごくパワーがみなぎってくる感じがしました。たった3人ですが、千万人の味方がついているようなものです。最後のパソドブレの「ジャン!」というキメポーズが決まると、大応援団からの「おーっ!」と言う大きな声と、はじけるような拍手が聞こえました。私たちは、大応援団に向かって感謝の一礼をし、フロアから退場しました。表彰式は、午後のスタンダード競技が全て終了した後。午後の競技に出ない私たちのような選手は、それまで待っていなければなりませんでした。「結果、教えてね。」といって、3人は先に引上げていきました。決勝では、大応援団のいる2階席を意識して踊り続け、それが審判には「パフォーマンスがよい」と、映ったのかもしれません。優勝でした。早速メールで結果を知らせると、!マークがたくさん付いたおめでとう!の返事が来ました。「初めてダンスの大会などという所へいって、皆さんの熱気やら、スバラシサやら・・・・・(最初は少々ビックリしましたが、)楽しませていただきました。 美しさ、かっこ良さ(踊りだよ!)あの中で一番でした。母も、Mも、もちろん私も、二人のダンスにひきこまれて大興奮!!スゴイ、スゴイ、の連発でした。 表彰式を見てから帰りたかったのですが残念です。二人の優勝を信じていてヨカッタです。(夜、何度も、携帯に電話してすみません、どうも気になって気になって・・・・・)次回もぜひさそってください、また力一杯応援します。(今度は手ぶらでいきます)」応援して下さる方がいる、というのは、本当にありがたいことです。2位を優勝に変えてしまう、大きな魔法の力。私たちには、素晴らしい、大応援団がついています!! チョコレート!ローズ 【プリザーブドフラワー】スィーツレッド
2004/12/18
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2002年最初の試合は、千葉県八千代市のオープン戦でした。このとき初めて、大応援団が来てくれることになりました。といっても、3人なんですが、私の友達(Cちゃん)と、その旦那さん(M君)と、彼のお母さんです。Cちゃんは、<第98話>不思議な夢で紹介した友達の、高校からの親友で、ライブに来てくれるようになって仲良くなりました。記憶力がとても良くて、私たちのオリジナル曲も全部歌詞を覚えて、ライブの後、「あの曲、歌詞まちがえたでしょう。」と、よく指摘されました。人生何があるか分からないもんで、彼女はスクーターでコケて、足を骨折し、通っていた病院のお医者さんと恋に落ちて、結婚してしまいました。私たちが茨城に住んでいたころ、夏休みには友達が避暑をかねて、多いときは10人くらい押し寄せてきたんですが、二人はその中の欠かせないメンバーでした。丁度みんなが集まっていたとき、風でアンテナが倒れ、テレビが映らなくなってしまいました。高いところ大好きなM君は、するすると屋根にのぼり、みんながヒヤヒヤしながら下で見守る中、あっというまに直してくれました。バーベキューセットを持ってきてくれたので、庭でやることにしました。M君を含む男子数名が焼きの係、私と主人と、女子数名は材料を切ったり下ごしらえをする係、そして、Cちゃんと残り数名は家の中と外を行ったり来たりしながら、運んだりする係でした。外で焼きそばを焼いているM君が、「C子、紹興酒(しょうこうしゅ)持ってきて!」と、叫んでいるのが聞こえました。(ん?何で紹興酒?かくし味か?それとも、ファイヤーってやるのかな?)ちょっと不思議でしたが、Cちゃんが表からもどってきて、「ねえ、紹興酒なんてある?」と、まじめな顔で聞くもんですから、主人も「たしか、床下収納に入ってたと思うよ。」結婚式のお祝いに来て下さった、上司の方のお土産が残っていました。Cちゃんは、「あった、あった!」元気に外にもどっていきました。すると外から、M君の大きな声が聞こえました。「塩、コショウっていったんだよ!バーカ!なんで、焼きそばに紹興酒、入れんだよ!」これにはみんな大爆笑でした。確かに紹興酒って聞こえたもの。二人はいつもこんな江戸っ子口調で、ワイワイ言い合っていて、端から聞いていると喧嘩しているみたいなんですが、とっても仲がいいのです。この話は、いまでも飲み会の席になると出てくる話で、忘れられない楽しい思い出です。さて、そんなにぎやかな二人と、社交ダンスをされているというM君のお母さんが応援に来て下さるというので、私たちも気合が入りました。このころのルンバのルーチン(振り付け)は、今のに比べてずっとアクロバティックで、難しい技の連続でしたので、こなすだけで精いっぱいでした。気合が入っていたのは私たちだけではなく、この3人も相当気合が入っていたようです。なにしろ、競技会どころか、生で踊ってるのを見るのは初めてという人たちです。さて、いったいどうなることやら。続きは、また明日。紹興皇酒20年陳醸 500mlBird ソルト&ペッパーセット(STOHA design )
2004/12/17
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映画「マトリックス」の中で、主人公ネオを助けて人類救助のために戦う、女戦士トリニティ、かっこいいと思いませんか?私は、この映画が公開されて何度も見てしまいました。そして、トリニティのようになりたい(全然なれるわけないんですが)と思って、同じような形のサングラスしてたりしました。ダンス競技の練習のほかに、地味な練習を続けてきたものがあります。2001年12月に、合気道の1級検定試験を受けるための練習です。トリニティに憧れて、合気道を始めたわけではありませんが、ダンスを理由にさぼっていた昇級試験に挑戦しようと思ったのには、彼女の影響が大です。合気道の1級は、私にとって、ダンスとは比べ物にならないほど大変でした。剣と杖の技は、特別の鍛練が必要で、職場の顧問の庭をお借りして、暗くなってからこっそり仕事を抜け出し、約3カ月間、毎日練習させてもらいました。試験当日。試験は級の低い生徒から順番に行います。子供から大人まで、15人くらいいたと思います。1級は一番上で、受けるのは私一人でした。まず、敵が私の首を狙って討ちかかってきたとき、それを5種類の技を使って撃退しなければなりません。次に、片手をつかまれた時、そして、両手首を後ろで捕まれたとき、同様に5種類ずつの技で撃退します。もうこれだけで結構ヘトヘトですが、さらに、10級から2級までに検定で試された全ての技、約40種類の中から、先生が抜き打ちで技の名前を言い、それを咄嗟に敵にかけなければなりません。これが、だいたい10種類くらい試され、モタモタしていると、もっと数が増えます。ダンスでサンバやルンバ2種目だけ踊ってればいいのとは全く種類が違います。さらに、短刀で切りかかってくる敵に対して、これも5種類の技で対処します。短刀はもちろん木製ですが、ちゃんとドスの形をしていますので、切られるとはっきり分かります。この後、最大の見せ場、多人数掛け。1対3の戦いです。3人でかかってくる所を、千切っては投げ、千切っては投げ、まるで、時代劇の格闘シーンのようなものですが、先生が「ヤメ!」というまで、一人で、押さえ込まれないように持ちこたえる必要があります。これらは、指導員の先生が相手をしてくれますが、ここから先は個人技になります。剣、これも木製ですが、日本刀の形をしていて、結構重く、きちんと臍下(せいか)の一点から動かないと、振り回されてしまいます。剣技1と呼ばれる剣を使った一連の動き、何となく、日本舞踊か、能の舞を連想させるものですが、これを終えると、次は杖です。1メートルくらいの木製の杖で、これも、杖技1と呼ばれる、もっと激しい動きの一連の動作を行います。これらの動きは、敵が色々なところから討ちかかってきたときを想定したものですが、一人でやるとこれまた、踊っているようで、きめポーズが結構かっこいいのです。トリニティみたいに。これら全てが終わると、正座して、合気道の心得、全21個を制限時間内に暗唱します。結構長いので、これが出来ずに試験を落とされることもあるくらいです。10級から2級まで、すでに試験を終わった人たちがかたずを呑んで見守る中、試験は一つ一つ、こなされていきました。最後の、暗証に入ったときは、息も絶え絶えで、3つくらいまでは、息なのか声なのかという感じでした。しーんと静まり返った道場に夕日が赤く差し込み、私はその光の中で黙々と暗証を続けました。「… 人の見ざる所、報いを求めざる所に善因をつまねばばらぬ。しかして、陰徳の最たるものは…」最後の章の暗証を終えて、先生を見ると、先生は静かに頷かれました。その瞬間、じっと見守ってくれていたみんなから、大きな拍手が起こりました。「ああ、やったんだ!」私は、大きな達成感に包まれて、天井を仰ぎました。そして、先生と、見守ってくれていたみんなに、深々とお辞儀をしました。年が明けて、2002年1月20日、一年の稽古の無事を祈願する鏡開き式で、私は、奉納演舞をさせていただくことになり、杖技を披露しました。主人も、このあと振る舞われる「おしるこ」目当てで付いてきて、ビデオを撮ってくれました。道場に通う人たちや、その家族、来賓の方々が静かに見守る前で、私の気合のこもった声は、りんと道場に響き渡り、すがすがしくトリニティ気分を味わうことができました。◆◇◆マトリックスモデルサングラス トリニティタイプ◆◇◆マトリックス 特別版 (DVD)《DVD》 マトリックス リローデッドマトリックス レボリューションズ 特別版【DL-33209】 =>20%OFF!《発売日:04/04/02》
2004/12/16
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何度挑戦しても、結果がついてこないとき、「負け癖がつく」といわれます。少しずつ進歩はしているのかもしれませんが、秒針のないデジタル時計のように、1分過ぎるまで、途中経過が見えないので、本当に進歩しているのかだんだん不安になってくるのです。2001年後期、JBDF北関東で、とうとう来年もC級と決定してから、北関東以外のもっといろいろな試合に出たいと思うようになりました。負け続けることに、飽きてしまったのです。そして、また、ダンス雑誌にも載りたいと思いました。ダンス競技会は複数の団体が運営しているので、選手はそのうちのどれに所属するか、選択することができます。かけもちも、もちろんOK。年間を通じて一番試合数の多いのは、アマチュアの団体、JDSFです。日本全国津々浦々、毎週どこかで試合をやってます。サークルに所属していない選手が、JDSFの試合に参加する資格を得るために取る手段は一つ。プロの団体、JDCかJBPDAのノービス競技に出場して、D級になればいいのです。2001年11月25日、JDCの関東ダンス選手権大会と併催されるアマチュアラテンN級戦に出場しました。東武動物公園に近い、進修館という会場です。とても変わった建物で、明治の洋館のような、それでいてモダンなデザイン。私は、外観を見た瞬間から、建物の中をあちこち探検したくてウズウズしていました。天井や立派な柱や「この奥はどうなってるんだろう」と思わせる廊下に興味を奪われて、キョロキョロしている間に受付をすませた彼が、「ねえ、受付にいたの、二つ森先生だったよ。」二つ森先生といえば、日本を代表するトッププロ、ウリナリのコーチとしても有名な方です。気が付けば、雑誌やテレビで見たことあるような、プロの先生があっちにもこっちにも。建物も面白いけど、ミーハー気分も出てきました。こんなことで、気が散っていてはいけません。試合なんですから、集中、集中。出場組数48組。種目はサンバとルンバでした。2階観覧席にビデオをセットし、1次予選が終わって戻ってくると、スイッチを切りに行った彼が、硬直した顔でもどってきました。「ビデオ、なくなってる....。」「うそ! どうしよう。とりあえず受付に言ってみる?」レモン色のコスチュームを着けた彼は、そそくさと受付に走っていきました。一瞬、盗難かと思いましたが、実は没収でした。プロの試合では、ビデオを撮るのは有料なのです。彼は、うまいこと言い訳したらしく、ビデオをもって帰ってきました。「自分たちの競技を撮ろうと思ってたんです。」(これは本当)「まだ全然撮ってません。」(1次予選撮ったから、これはウソ)ノービス(初心者)級に出場しているということで、特別に許してもらえたのかもしれません。試合は、予選2回と準決勝、決勝で、久し振りにトロフィーをもらえました。準優勝です。これで、2002年からは、いろんな試合に参加できて、上手くすればまた、雑誌に写真が載ることもあるかもしれない。登録手続の時に、こんなことを言われました。「何県の所属にしますか?住んでるところの千葉にするか、男性の職場のある東京にするか、女性の職場の茨城にするか、どれでも大丈夫ですよ。」どこでも良かったのですが、私たちは千葉を選びました。このため、JDSFの試合では千葉県、北関東の試合では茨城県の所属になりました。千葉には、日本のアマチュア選手のランキングでトップ10に入る選手が何組もいるので、この選択によって、県代表への道は、ぐっと遠くになってしまいました。ソニーDVDビデオカメラDCRDVD201SONY デジタルビデオカメラDCR-HC1000+HAKUBA三脚&収納ケースをセットでお得!
2004/12/15
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JBDF北関東支部のラテンB級昇級をかけたこの年最後の試合が、2001年10月28日、栃木県藤岡町総合体育館で開催されました。全栃木競技ダンス大会です。関東・甲信越ブロックのアマチュア昇降級規定の、一番下に、これ以下はありませんよ、というのが載っています。それは、D級登録選手で、2年以上競技に出場しない場合、登録資格抹消というものです。実は、2年前にN級戦で優勝し、D級に昇級して以来、全然スタンダードの試合に出ていなかったので、この、今年最後の試合に出ておかないと、抹消されるピンチでした。しかし、ラテンの方は、リーチがかかっていて、あと1回決勝に残れば、B級になれるところにきていて、ワルツやタンゴを練習する時間があれば、むしろ、ラテンの練習に当てたいくらいでしたから、スタンダードの練習には力が入りません。いくら出るだけとはいっても、せめて1周くらいは踊れないと恥ずかしいので、先生にお願いして、久しぶりにワルツを見てもらいました。2年もやらないと、お話にならないくらいガタガタになっているもんです。ワルツは何とか1周踊れるだけのルーチンが出来ましたが、タンゴまで時間がまわらず、そのまま試合当日になってしまいました。午前中のラテンB級戦、種目は、チャチャチャとルンバ、90組が出場していました。私たちは1次、2次、3次と予選を順当に勝ち進み、最終予選、ベスト24までこぎ着けましたが、惜しくも準決勝に進出することは出来ませんでした。それでも、今期の試合の中では、最高の成績でした。午後、いよいよ問題のワルツとタンゴです。224組も出てました。背番号が後ろの方でしたので、自分の順番が来るまでが、随分と長く感じられます。ワルツは5人の審判の4人までがチェックを入れてくれましたが、タンゴはそうはいきません。私たちの踊れるタンゴのルーチンは限られていて、競技フロアに入るまで、どの順番で何を踊るのか決めていなかったので、周りをビュンビュン通りすぎていく他の選手に圧倒されてなかなか出られません。彼は、あたま真っ白を通り越して、半透明になってたようで、ウォーク、リンク、ファイブステップを果てしなく繰り返すだけで、なかなか流れに乗れず、とうとうフロアの半分くらい踊ったところで、音楽が終わってしまいました。審判の立っているコーナーまで行き着かなかったのです。この時、初めて、「0点」をとりました。いくらなんでも、これは情けなさ過ぎる!やっぱりやった分だけの結果しか出ないんだ。私たちは、思い知りました。まだ、当分はラテン中心に頑張るつもりだったので、2年後の健闘を誓いあいました。2004年から昇降級規定が変更になり、2年ごとに出場するだけで、D級を維持できる時代は終わりました。E級、F級というD級より下の級が出来て、ある程度の成績を取らないと、どんどん下がっていくようになったのです。私たちは一念発起してスタンダード競技を再開し、今年の春、234組出場のD級戦で、あの時と同じワルツとタンゴを踊り、準優勝に輝きました。あの「0点」だったタンゴも、一生懸命練習して、いつしか満点が取れるようになっていました。レッツダンス <NHK DVD> 2.ワルツ・タンゴ【VIBS-2】 =>20%OFF!《発売日:00/12/06》タンゴ DVDバーン・ザ・フロア ◆20%OFF!<DVD> [UUSD-70090]
2004/12/14
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沖縄に着いてみると、台風の影響で風は強めでしたが、泳げないほどではありませんでした。すぐに水着に着替えて、ホテルのプライベートビーチに繰り出し、一泳ぎしたあと、水中メガネだけ持って、裏の岩場の方に行ってみました。「活きている魚、こわい」と言っていた彼も、青や黄色の小さな魚達が岩辺でひらひら泳ぐのは気に入ったらしく、明日はタンクを付けて体験ダイビングをしてみようと、すっかりその気になっていました。もちろん私も、久しぶりに南の海に潜れる、期待で胸は一杯でした。沖縄に来る前に、友達から、耳寄りの情報を得ていました。「沖縄に行くなら、E男ちゃんに連絡してみれば? 彼、今、沖縄で仕事らしいよ」E男ちゃんは、私の昔のバンド仲間です。大柄で口ひげをはやしていた彼は、高校生の時から「30歳以下には見えない」人で、チョッパーという弦を弾くベース奏法が得意でした。ライブになるとますます過激に弾きまくるので、ベースの音だけ物凄く大きくなってしまったものでした。彼は、音響建築関係の仕事に進み、「ベースよりスノボ」にはまって、バンドをやめてしまいましたので、しばらく音信不通でした。沖縄といっても広いので、あまり期待はしていませんでしたが、連絡してみると、なんと、私たちが宿泊しているのと同じ町にいました。夕方、彼は車でホテルに迎えに来てくれて、なじみの郷土料理の店に連れていってくれました。店のママはとても気さくな人で、初対面じゃないみたいな歓迎ぶり。コラーゲンたっぷりの豚足やチャンプルー、ウコン茶で割った泡盛、お腹が一杯になったところで、三線(さんしん)登場。三味線に似た沖縄の楽器です。E男ちゃんはさすがベーシストだけあって、弦ものは得意です。私も主人もカスタネットみたいな「三ば」という沖縄の楽器の叩き方を教わって、でたらめに打ち鳴らしながら、「しまうた」や「はな」を唄い、夜が更けるに連れて、ますます盛り上がっていきました。E男ちゃんは、明日もどっかいこうか、と誘ってくれました。私は、まだ、ダイビングにちょっとこだわっていましたが、沖縄に来てまだ日が浅い彼も、週末は家にいるだけだから、いろいろ回ってみたいと言ってくれているので、観光のついでにシュノーケリングくらいできるかな、と明日も一緒に行動することにしました。沖縄万博の記念公演でイルカショーを見たり、ガラス工房でビールジョッキを買ったり、午前中は有意義に過ぎていきました。あとは、美しい海を素潜りでもいいから満喫すれば、もう何も思い残すことはありませんでした。「E男ちゃん、どっかで泳ごうよ。」「おれ、泳げないの。水着ももってないよ。」なんでーっ?!そういえば、みんなで海に行こうと言っているときに、1度も乗ってこなかった....。突然、色々なことを思い出しました。彼はウィンタースポーツ派で、暑いの嫌いでした。こんなに素晴らしい海と太陽のもとで仕事が出来るのに、泳げないなんて、なんて気の毒なんでしょう。彼はお酒も飲めないのでした。風貌からすると、お酒、強そうなのに、好物はパフェとかでした。それなのに、私たちを喜ばせようと、昨日の夜は、つきあってくれて、今日だって、貴重な休日を割いて、暑い中、車出してくれています。「私、海に潜りたいから、じゃあね」とは、とても言えません。お昼は、海の見える民宿のレストランで食べました。午前中のダイブから帰ってきた、学生風の集団がいて、ちょっと、寂しい気もしましたが、ダイビングはまたいつでもできますから....。結局、台風は進路を変えて、沖縄には来ませんでした。かばん一杯のダイビングギアは、1度も水に濡れることなく、そのまま持って帰りました。ダンスシューズも、予想通り1度も履くことはありませんでした。「東京では、仕事するとき、いつも、でんろく豆ポリポリ食べながらやってたんだけど、沖縄にうってないのよ。」といっていた、E男ちゃんのために、箱一杯のお菓子を送りました。もちろん、でんろく豆も。海に潜るよりずっとたくさんの忘れられない思い出をくれたE男ちゃんに、感謝です。初心者入門楽譜、練習用CD付琉球本皮三線(サンシン)6点セット オムニバス 美ら歌よ~沖縄ベスト・ソング・コレクション~-CD-〔送料無料キャンペーン中〕琉球サンバ 沖縄ミュージックにかかせない!!
2004/12/13
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結婚する前、趣味はダイビングでした。美しい海の魅力に取りつかれた私は、サイパンでオープンウォーターの免許を取りました。冬でも暖かい南の海は、色とりどりの魚達の楽園。パンを持ってはいると、魚達が集まってきて、小さな口でツンツンパンをつまむのが、とてもかわいらしいのです。そのままゆっくりとフィンで進むと、みんな私についてきます。レギュレーターから上がる泡が光に反射して、彗星のように銀色に流れ、カラフルな魚達を従えて泳ぐ私は、まるで海の女王になった気分。サイパンには、たくさんのおすすめダイブスポットがあります。なかでも特に印象深いのは、「グロット」とよばれるスポットです。岩場に開いた池のようなポイントから潜ると、海へと続くトンネルがあります。暗い海底トンネルを進むと、突然現れる青の三角。真っ青に輝く光が、神秘的に差し込み、私たちは吸い込まれるようにその海の出口へと泳いでいきます。トンネルを抜けると、そこはまるで秘密の花園。赤いサンゴや黄色のレモニエローフィッシュ、華やかな海底の楽園に、大きなウミガメやエビもいます。見上げると、マンタが悠々と泳いでいきます。雪が苦手な私は、友達がウィンタースポーツに出かけると、南の島に潜りにでかけました。その後、ナイト・ダイブやディープ・ダイブも楽しめるアドバンストの免許も取り、さらに進んで、レスキューダイバーの免許まで取ってしまいました。彼も何度かダイビングに誘ってみましたが、食わず嫌いの彼は「活きてる魚、こわい」とかいう、分けのわからない理由で、1度も付き合ってくれませんでした。2001年10月、会社の記念行事で家族共々2泊3日の沖縄旅行に行けることになり、私は久しぶりにダイビングができると大喜びでした。このころ私たちが参加していた競技は、JBDF北関東大会だけなので、ダンスの旅行といっても関東平野を出ることはありません。お父さんの病気のこともあり、普通の旅行も京都に限られていました。それだけに、この特別社員旅行は、久しぶりの飛行機搭乗、物凄く気合が入りました。ダンスの競技シーズン真っ只中だったので、練習しないのはちょっと不安でしたが、一応、靴だけは持っていくことにして、心は南の海に飛んでます。今回の旅行で、彼も体験ダイビングをやってみるということになって、かばん一杯にダイビングギアを詰め込み、たった2泊3日の沖縄旅行なのに、まるで、海外旅行に出かけるような荷物でした。しかし旅行の日が近づくと同時に、台風まで近づいてきました。誰か、「嵐を呼ぶ男」がいるんでしょうか?旅行は思ってみなかった方向に展開していきます。(つづく) 3泊4日ダイビングツアー(4ダイブ付) 【PADI】オープンウォーターライセンス取得コース コース料金
2004/12/12
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テレビアニメの「ゲゲゲの鬼太郎」、ここに出てくる妖怪で、一反木綿(イッタンモメン)と塗り壁(ヌリカベ)、ご存知でしょうか。競技会で「ポイントを入れてくれる審判と、入れてくれない審判にはっきり分かれる」とか、出る競技会によって「すごく点が入る時と、全然ダメなときがある」、こんな経験がある方は、妖怪の可能性があります。2001年後期、私たちはラテンで苦戦していました。しかし、少しずつ、本当に少しずつですが、進歩はしています。2001.9.23 北関東全群馬競技ダンス大会 ラテンC級戦 種目チャチャチャ&ルンバ、86組出場、2次予選2001.9.30 北関東全埼玉競技ダンス大会 ラテンB級戦 種目サンバ&パソドブレ、57組出場、1次予選2001.10.14 北関東全茨城競技ダンス大会 ラテンC級戦 種目サンバ&パソドブレ、70組出場、3次予選2001.10.28 北関東全栃木競技ダンス大会 ラテンB級戦 種目チャチャチャ&ルンバ、90組出場、最終予選(ベスト24)前期で一度決勝進出を果たしたので、あと一回、決勝に残ればB級昇級なのに、なかなか、決勝どころか、準決勝すら残れませんでした。なぜか?それは、私たちが妖怪だったからです。同じ山に登るのに、いろいろなルートがあるように、ダンスも目指すものは一つでも、アプローチにはいろいろな方法があります。ラテンで、一番多いのは、次の二つのタイプです。1 姿勢が美しく、フロアでの存在感はあるが、動きが固い2 柔軟で動きは速いが、芯がない前者が、ヌリカベ、後者が、一反木綿です。本当は、芯があって、しかも柔軟な動きが出来る「鞭」のような身体が理想なのですが、そこに到達するまでの過程に、どちらかのルートをたどるのが、よく見受けられます。この2つのタイプは、いずれも妖怪なので、どっちもどっちなんですが、審判の好みによって、ヌリカベ派と一反木綿派に分かれるため、点が割れます。私たちは、典型的な一反木綿でした。ラテン出身の「動き」を重視する審判には好まれますが、スタンダード派の「姿勢」を重視する審判には嫌われます。人間だんだん年をとると、「美しく立つ」ための筋肉も、「素早く柔軟に動く」ための筋肉も衰えてきます。しかし、筋肉は100歳になっても鍛えればたくましくなるそうです。よく、競技会で「若い人はすぐ上がっていく」という声を耳にしますが、それは、「若いから」ではなく、美しく立って、素早く柔軟に動くためのそれぞれの筋肉が、まだ衰えていないからだと思います。最近では、ゲームやパソコンの影響で若い人でも姿勢が悪い人はたくさんいます。近くに行くのも車に乗るようになると、足腰の筋肉が衰えて、すぐ疲れたり、俊敏な動きができなくなったり。これらの筋肉は、使わないと、若くてもどんどんおとろえていくようです。一反木綿に芯を入れるのと、ヌリカベを柔軟にするのでは、どちらも同じように生易しいものではありませんが、一番簡単な方法は、ラテンとスタンダード、両方やることではないか、と最近になって思っています。私達のフニャフニャのラテンの動きにようやく軸らしきものが見えて来たのは、今年になって、スタンダードを再開してからでした。皆さんは、妖怪になっていませんか?そういえば、以前、ダンスの先生に「ネコムスメ」に似てるといわれたことがあります。「砂かけババア」でなくてよかった、と、内心ホっとしました。 鬼太郎ファミリー ミニクリップゲゲゲの鬼太郎切手シート
2004/12/11
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思いのほか大変だった今年最後の試合。その後日談を、少々。ボタン穴の開いていなかったシャツは、競技会の帰りにダンスショップに持っていきました。メーカーに送り返して、造り直してもらうことになり、昨日、出来上がったと連絡が入りました。この燕尾服用のシャツ、名前が「イカムネシャツ」といいます。見ると「なるほど」と思うような、イカの形のかざりが、胸の部分についています。イカムネシャツクリーニング屋さんのシャツも取りにいきました。「それは大変だったね。急いでるようなこといってたから、一番上においといたんだけどねえ。うちの姪も社交ダンスやってるのよ。夫婦でやってるなんて、いいわねえ。」日曜日のいきさつをお話しすると、十分すぎるほど同情されてしまいました。部長は、火曜日にわざわざ彼の所にお礼に来られたと言っていました。「ビデオありがとうね。参考になったよ。でも、ぜんぜんダメ。今度、教えてよ。」彼の周りの人たちは、いったいなんの会話なんだろう、と思ったに違いありません。私たちは水曜日に六本木ヒルズで、慰労会をしました。少しブルーがかった白の電飾で光り輝く並木道は、雪をイメージしたもの。エントランスのクモのオブジェの周りは、真っ赤な電飾で彩られ、そこだけ燃えているようでした。私たちがここに来るのは初めてで、せっかくだから、と大展望台に登りました。ペ・ヨンジュンの写真展の最終日とあって、エレベータは圧倒的に女性の比率が高く、私たちは特にファンというわけでもないので、まっすぐ展望台の方に向かいました。地上250mの大パノラマ。東京の夜景は地平線まで続き、まるで銀河の中心に降り立ったようです。「あ、東京タワー、東京タワー!」美しくライトアップされた東京タワー、新宿の高層ビル群、渋滞の首都高に続く赤と黄色のランプの帯、あまりの美しさに、我を忘れてはしゃぎ回ってしまいました。「ねえねえ、おのぼりさん状態になってるよ。」彼に言われて、はっと我に帰りました。夜景が好きじゃない人なんて、この世にいないでしょう、きっと。去年クリスマスに何貰ったか、皆さんは覚えてますか?ひょっとして何も貰ってないかも。自分が何あげたかすら、思い出せません。ただ、一つだけ、私には忘れられないクリスマスプレゼントの思い出があります。それは、私たちが結婚する前の話です。その時つきあっていた彼に、クリスマス間近の晴れた日、ドライブに連れて行ってもらいました。全然知らない道をますます街から遠ざかっていく方向に走り、あたりはもう薄暗くなってきました。着いたのは、なんと、飛行場。セスナに乗って、ナイトクルーズです。「宝石箱のような」という表現では、とても足りません。関東平野全体が、遥か彼方まで光に満たされ、それはまるで、巨大なクリスマスツリーでした。私は窓に張り付いて、瞬きもせずに眺めていました。この一つ一つの明かりが、すべて人の営み。1千万個を越える命の輝きを、このとき私は胸に焼き付けました。もちろん、彼氏のポイントは私の中で大幅アップです。ご想像の通り、その時の彼氏が、いまの旦那さん。今年のクリスマスプレゼントをまだ決めていない方は、このインパクトの強い、夜間飛行はいかがでしょうか。あなたの大切な人のハートをがっちりつかむこと、請け合いです。クリスマス期間特別運航ダイヤ(総合案内)ヘリ・ナイトツアーズ新宿(スターライト) 12月セスナ・ナイトクルージング大阪コース
2004/12/10
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2004年12月5日、東京都豊島区の雑司ヶ谷体育館で開催された、JDC主催、第2回TDAチャリティダンス競技大会、これが今回のお話の舞台です。ラテン、スタンダードともに、ノービス、D級、C級、B級、そして、TDA東京ダンス杯の競技が用意されていました。前夜の暴風で電車が大幅に遅れ、午前中のラテン競技に出場予定だった人の多くは、とても大変な思いをされたようで、それに巻き込まれなかっただけでも、私たちは、まだ、ましだったのかもしれません。私たちの出場するC級スタンダードは、午後からで、全競技の中で一番出場者が多く、113組。何とか競技会場にたどり着くことができて、ほっとしたのもつかの間、またしても次なる問題勃発です。「ねえ、このシャツ、不良品だ。」見ると、袖にカフスボタンを通す穴が、片方だけあいていません。えー!!そんなことあるんだ。新品の、しかも16000円もするシャツなのに!もう今から、取り替えにいくわけにはいかないし、これ、一着しかないんですから、このまま着るしかありません。カフスボタンのところを安全ピンで見えないようにとめて、何とか形になりました。1次予選の第一ヒートから試合は大荒れです。参加人数が多いせいか、フロアがとても滑りやすく、転倒する人がC級戦だけで2組もいました。すごい音がして、頭を打ったり、膝をうったり、幸い、大けがには至りませんでしたが、その度に競技は中断しました。私たちは、靴底を念入りに削り、滑り止めのスプレーを塗って充分注意していましたが、それでもタンゴですべって、なかなかシャープな動きが出来ません。1次予選では同じフロアに15組もいたので、ぶつからずに思いっきり踊るのは不可能でした。2次予選では、ワルツで大失敗をしました。彼曰く、「反対側から出たから、フロアの感覚が狂っちゃったんだよ。」フロアは普通、長方形なので、長い方と、短い方で、ルーチンの組み合わせを変えてあるのですが、最初の長い方を踊り終わったあと、突然真っ白になって、次、何やるか忘れたらしいのです。私たちは、角で行ったり来たりホイスクを繰り返し、とうとう一周することもできませんでした。もう、完全に終わった、と思いましたが、「仲良しの誓い」があるので、文句もいえず、しょんぼりおにぎりを食べていると、「上がってたよ!!」彼がうれしそうにもどってきました。予選が進むにつれて、落ちた人たちがどんどん帰っていくので、体育館が空いてきます。私たちも、もう少し邪魔にならない所に移動しようと、空いたスペースに荷物を移しました。と、何と、隣にシートを広げていたのは、彼と同じ会社の総務系の部長でした。部長達は、ノービス級に出場中。この何百人もいる会場で、隣になるというのは、なにか特別なご縁でもあるのでしょうか。世界は狭すぎる......。部長たちは準決勝まで進みました。私たちも4次予選、ベスト24にコマを進めていました。最終予選でのワルツは、この日、最高の踊りだったと思います。音楽が鳴り始めると、なぜか、今日起こったいろいろな出来事が浮かんできました。それでも、今、ここで踊れている自分たちの幸運は、何かとてつもなく大きな力で守られているからのような気がしました。「ここまで踊らせてもらって、ありがとうございます」その大きな力に対して、それから、「仲良しの誓い」を守って一緒に踊ってくれているリーダーに対して、心から感謝すると、自然と涙があふれてきて、でも、こんな競技中の、しかも予選で泣くのはかっこ悪すぎなので、私は天井を凝視して、瞬きをせず、必死に涙をかわかしました。結局、私たちも、部長たちも、ここで終わってしまいました。部長たちはとてもきれいに踊っていましたので、きっとすぐに、わたしたちのライバルになるでしょう。ビデオを撮って差し上げると、とても喜んで下さいました。体育館を出る頃には、もうすっかり日が落ちていました。駅に向かう道は、学習院大学の壁にそった石畳で、今朝の大風で落ちたイチョウの葉が、厚く降り積もっていました。まだ、ところどころ緑の混じる黄金色の道は、とてもフカフカで、私たちの長かった一日を、優しくねぎらってくれているかのようでした。 M:I-2
2004/12/09
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彼のミッションは、燕尾服用のシャツを店で買って、試合時間に間に合うように競技会場に来る、でした。「シャツ、もう一枚買おうと思って、買ってなかったのがいけないんだなあ。」「でもさ、そういうのって、何かきっかけがないと買わないじゃない。今回のが、いいきっかけになって、よかったよ。」こんなことを言っている私ですが、実は、ミッションをより困難なものにする事柄を隠していました。携帯電話を家に忘れてきたのです。広い試合会場で、私たちはどうやって再会することが出来るんでしょうか。初めての場所ですから、待ち合わせ場所を決めることもできません。電車でわかれる前にそう告白すると、彼はちょっと心の中で「このボケ!」と思ったに違いありません。「こんなときこそ、携帯は役立つんじゃない。」でも「仲良しの誓い」のおかげで、ボコボコにへこまされずにすみました。余談ですが、私の携帯の着メロは、ミッション・インポッシブル(スパイ大作戦)です。彼は、途中下車してダンスショップに直行しました。店は何と、準備中。11時開店と書いてあります。そっとドアを押すと、鍵が開いていました。「すいませーん。急いでるんです!今日、これから競技会なんですけど、シャツがないんです。お願いします!」彼の必死の形相に、店員さんも圧倒されたのか、急いで在庫のシャツをいろいろ見せてくれました。丁度いいサイズがなく、「小さくて入らないより、大きいほうがまし」と思った彼は、その大きめのシャツを買って、駅に走りました。試着もしないで....。目白駅に降りると、彼は迷わずタクシーに乗りました。「すいません。○○体育館、急いで下さい。」「今日は、○○体育館のお客さん多いんですよね。何かあるんですか?」「ダンスの競技会です。」駅からあっという間に着いてしまいました。11時15分。よかった、間に合った。さてさて、うちのかわいい奥さんはどこに場所とったのかな。会場は大変な混雑でした。選手控室からあふれ出た人たちが、トイレ前や階段、競技フロアの周りにまで陣地取りシートを広げていて、探すのは大変です。フロアを一周しても見つからないので、受付に戻ってみると、汗だくで駆け込んできた、見覚えのある人がいます。それ、私です。「あれ?もしもし、今来たの?」11時25分。ギリギリセーフでした。「何で、先に来てるの?一緒に行けば良かったあ。」無事、受付を済ませて、再会も果たし、もう場所がないので、フロアの隅の方の隙間に小さくシートを広げました。やっと、スタートラインに着いた私たちでしたが、もう1日分の集中力とエネルギーを使い切った感じでした。しかし、守護天使のいたずらは、まだまだ続くのです。 ダンス用燕尾服(オーダーメイド)
2004/12/08
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私のミッションは、11時30分までに競技会場に到着して、受付を済ませること、比較的楽勝です。昨夜の暴風で電車が遅れていましたが、もう11時近かったので、かなりダイヤは戻っていました。目白は初めてでしたが、「地図と太陽さえあれば、どこでもいける」と自負していた私は、駅から学習院大学の脇を通って1キロほどのところにある体育館に行くのに何の問題もない、はずでした。駅を降りてみると、掲示板が、日本語と韓国語で書かれています。明治通り沿いに、韓国街があるそうです。前に競技会に行くような風貌の、髪をきちっとセットした男女が歩いていて、学生風の人たちも多かったので、何も考えずにその流れについていきました。「へえ、こんな店があるんだ。」町の様子を眺めながら歩いていくと、商店街の人たちが、今朝の風で散ったイチョウの葉を掃除していました。気が付けば、いつのまにか競技会風のカップルが消えています。「ははあ、さては、荷物が重いからタクシーにのったんだな。私は、歩くのね。たった1キロだもの。」確か地図で見たら、駅のすぐ側に学習院があったのに、商店街の裏なのかな、コンビニでお昼のオニギリを買うついでに聞いてみよう。「○○体育館て、どこですか?」「知りません」「学習院て、このへんですよね?」「知りません」まずい、日本人じゃないのかな、この人。時計を見ると、11時15分。あと、15分しかありません。外に出て、目白通りの看板を見ると、「新宿区」と書いてあります。私たちの試合は、「豊島区」のはず。歩道で、落ち葉を掃除しているおばさんに、聞いてみると、「学習院?ずっとむこうのほうよ。」といって、私の来た道を指さしました。耳がカーッと熱くなるのが分かりました。「私って、ほんと、ばかじゃないの。」大きなかばんをゴロゴロ引きずりながら、小走りで今来た道をもどり、そんな自分に呆れました。「何で、地図見ないで、人の後をついていっちゃったんだろう。カルガモじゃあるまいし。」太陽は確かに、最初からこっちは西、といっていました。私が行くべきなのは、東!「これで間に合わなかったら、絶対しゃれにならないよ。3時までオペラなんか見てたからいけないんだ。」もう絶対間に合わない、と思って、いよいよタクシーに乗りました。最初からタクシーに乗ってればよかった。「すいません。○○体育館、急いで下さい。」「○○体育館?それ、どこですか?」えー!!私に聞かないでよ。地図、地図!「これが目白通りで、これが明治通りだから、ここです!」体育館について、私は受付までダッシュしました。外は気温25度、12月の夏日です。競技の前にもう汗だくです。このあと競技に出られるかどうかは、この最後の走りにかかっています。見上げると、3階の受付まで外階段。私は大きく1度息を吸うと、大きなかばんを担いで一気に駆け上がりました。(つづく)デジタルコンパスGPS 72
2004/12/07
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私たちには、万能の守護天使がついていて、いつも見守ってくれています。ただ、どうやら、ちょっとばかりいたずら好きのようです。私たちが昨日結んだ「仲良しの誓い」、本当に守れるかどうか試すように、次から次へとわなを仕掛けてきます。競技会に持っていく荷物をまとめ、寝る前にストレッチをしとこうかな、と床に座って、テレビをつけると、ハイビジョンでオペラをやっていました。しかも、私の大好きなワーグナーの「マイスタージンガー」です。慌ててテレビ欄を見ると、朝の4時までやることになってます。「あー、だめだ。こんなの見てたら、明日起きられない」ドイツのニュルンベルグという町、教会でお互いに一目惚れした旅の騎士と美しい娘。彼女に結婚を申し込むためには、歌合戦でマイスター(名人)にならなければなりません。ちょうどテレビをつけたとき、その歌合戦の朝、騎士が愛する人を勝ち取るために、作曲している所でした。「詩やうたは、すべて正夢のなぞとき」、これから、いいところなんです。騎士が作った歌を、ライバルが盗みに来ます。私はストレッチにかこつけて、結局3時頃までずるずるオペラを見てしまいました。試合の朝、起きてみると、素晴らしい天気。巨大な低気圧が通りすぎたあとで、まるで初夏のような太陽が窓から差し込んでいました。天気予報を見ると、最高気温25度。夏にもどったの?私は慌てて半袖をさがしました。オペラにひっかかって早起きできなかったので、駅前のクリーニング屋さんには、電車に乗る前に寄っていくことにしました。結局、家を出たのは、「この時間に出ないと間に合わない」ギリギリの10時でした。さすがにこの時間なら、クリーニング屋さんもやってるでしょう、と駅のロータリーに出てみて、私たちは固まりました。クリーニング屋さんが、休みです。年中無休のはずなのに、何で今日だけ休み?それとも開店時間がもっと遅いのかしら(後で聞いたら、休日は12時からとのことでした)。受付時間に間に合わなければ、試合には出られません。燕尾服用のシャツがなくても、試合には出られません。私たちは、クリーニング屋さんの閉じたシャッターの前で、作戦会議をしました。このミッションをやりとげるには、手分けするしかありません。作戦は、こうです。私は、このまま予定通りの電車を乗り継いで会場に行き、申込を済ませて、着替えておく。彼は、一番近いダンスショップで途中下車し、シャツを買って、会場に急行する。もし試合前に私と会えなかったら、プログラムでまず出場時間を確認し、着替えて、競技会場で現地集合。物凄い綱渡りです。競技会出場という、私たちにとってはよくある出来事が、ミッション・インポッシブルに変貌していきます。さて、私たちの計画は成功したのでしょうか。続きはまた明日。ワーグナー:「ニュルンベルグのマイスタージンガー」■■■オペラ大好き! ワーグナー■■■
2004/12/06
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未明まで吹き荒れた暴風が、全ての空気のよごれをぬぐい去ったかのように、東京の空は透き通った快晴でした。目白へ向かう電車の扉にもたれて、ビルに切り取られた真青な空を見上げながら、私は、今日、この事態を招いた原因を一つ一つ思い起こしていました。同じころ、開店前の店の入り口で、大きな荷物を抱えた彼は、ガラス越しに店の中をのぞき込んでいます。ふと見ると、鍵が開いている様子。そっと扉を押し開けて中に押し入り、開店準備中の店員さんを捕まえて、「すみません。急いでるんです。お願いします!!」ことの発端は、昨日の夕方。今年最後の競技会を明日に控え、私たちはダンス練習場でもめていました。タンゴのステップの一つが、どうしても男女でかみ合わないのです。6時20分を過ぎた辺りから、突然、たくさんの人が練習場に入ってきました。まだもめていた私たちも、さすがに「何かあるな」と悟って、聞きに行ってみると、今日は月に1度の特別講習会で、あと10分で貸し切りだというのです。テーマは「スタンダードとラテンにおける、回転運動の原理」。なんだか物理の講義みたいですが、教えて下さるのは、JDCでスタンダードとラテン共にA級で、10(テン)ダンサーとしても活躍されている先生で、私たちも飛び入りで参加させていただくことにしました。参加者は20名ほどで、全員がカップルです。まず、ラテンダンスにおける回転運動の講義。これは、主に、男女各自が個々に行うものですが、スパイラルとスリー・ステップ・ターンという2種類の回転を美しく速く行うための重心の移動、身体のバランス、足の位置を実践を交えて説明して下さいました。続いて、スタンダードの回転運動。こちらは、ラテンとは全く原理が異なります。スタンダードは、男女が組んで踊るので、どうしても男性が女性を回そうとしたり、女性が男性の邪魔をしたり、思うようにいきません。なぜ、ワルツでお互いが回っているように見えるのか、先生は「固定点に対する物体の運動」だとおっしゃいました。私たちは男女手をつないで、真っ直ぐ歩き、男性が好きなときに止まる、という実験をしました。男性が止まると、女性は真っ直ぐ歩きを継続しているのに、つないでいる手に引かれて、男性の周りを回っていきます。ワルツの回転運動は、この男性と女性が交互に固定点になることによって、回転しながら進むという話でした。なるほど、いわれてみると確かに、スピンターンなどで、女性が男性の後ろに回り込もうとしたり、男性が女性を回そうとしても上手くいかないのはこの原理に反しているからなんですね。私たちは、最後に、もめていたタンゴのことについて質問させていただきました。タンゴはこのワルツの原理とは、ちょっと違うのですが、こちらも納得できて、とても有意義な時間を過ごすことができました。あのままもめていたら、きっと、険悪なムードのまま、競技会に臨まなければならなかったでしょうから、そういった意味でも、とてもラッキーだったと思います。講義が7時半過ぎに終わって、私たちはまだしばらく練習を続けていました。種目はワルツ、タンゴ、スローフォックストロットですから、いくらでも練習材料はありました。「あ、しまった!」彼が突然、引きつったような顔で私を見つめました。「クリーニング屋さん、行くの忘れた!」競技会で着る燕尾服の下には、それ専用の特別のシャツを着ます。何かあったとき困るから、もう1枚もってたほうがいいねと言いながら、まだ買っていませんでした。そして、1枚しかないそのシャツはクリーニング屋さん。「普通のYシャツで出ちゃえば?」私は全然、ことの重大さを分かってませんでした。彼は、シャツがなかったら棄権するしかない、と言いだし、練習どころではなくなりました。「朝、一番でクリーニング取りに行けるよ。」幸い午後のスタンダード競技だけしか申し込んでいなかったので、11時30分までに会場に行けばよかったのです。もし、午前中のラテン競技にも申し込んでいたら、アウトでした。練習はそこで切り上げて、近くの美味しいイタリア料理の店に行きました。今日は随分もめたので、明日は絶対お互いの悪口を言わないことにしよう、という「仲良しの誓い」を、ビールで乾杯しながら、結んだのでした。(つづく)ミッション・インポッシブル(期間限定) ◆20%OFF!<DVD> [PDI-62]
2004/12/05
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歌と踊りが両方好きといえば、当然ミュージカルも大好きです。2001年9月には、念願の「ライオンキング」を見に行きました。ライオンの王子誕生を祝って、動物達が大集合する最初のシーンで、もう私は感動して、ウルウルでした。舞台を見に行くのは、ちょっと大変ですので、気軽に楽しめるミュージカル映画は子供の時からよく見ていました。ミュージカル映画は、1920年代に初めて映像に音声の付いた、トーキーが登場したのを期に出現したといわれています。始めは、舞台をそのまま映画にしたものが主流でしたが、後に映画でしか出来ない特撮などで、独自の発展を遂げてきました。私の見たことのある一番古い作品は、「オズの魔法使い」。これは何と、1939年の作品です。1950年代になると、有名な「雨に唄えば」(1952)、「王様と私」(1956)、「南太平洋」(1958)。この「王様と私」の中で、「Shall we dance」の歌が歌われます。1960年代、「ウエストサイド物語」(1961)が登場します。ジョージ・チャキリスの踊りが、かっこいいですよね。「シェルプールの雨傘」(1964)では、カトリーヌ・ドヌーブの美しさに目を奪われます。「マイ・フェア・レディ」(1964)は、皆さまご存知のオードリー・ヘップバーンが登場します。この作品は、アカデミー賞8部門受賞しています。「サウンド・オブ・ミュージック」(1965)もご存知の方が多いのではないでしょうか。「ドレミのうた」や「エーデルワイス」は、この映画の中で登場。この映画もアカデミー賞5部門を受賞。ジュリー・アンドリュースのさわやかな歌声が耳に残ります。1970年代、ライザ・ミネリ主演の「キャバレー」(1971)は、これまたアカデミー賞8部門を受賞。「屋根の上のバイオリン弾き」(1971)、「ジーザス・クライスト・スーパー・スター」(1971)、「ラ・マンチャの男」(1972)、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975)、「トミー」(1975)等々。このトミーはミュージカルというよりロックオペラといわれています。当時、人気のあったイギリスのロックバンド「ザ・フー」が作った物語です。1980年以降、「ブルース・ブラザーズ」(1980)、ピンクフロイドの「ザ・ウォール」(1982)、「アニー」(1982)、「コーラス・ライン」(1985)、だんだん作品を上げていくのに疲れてきましたが、最近では「ベルベット・ゴールド・マイン」「ヘドウィック&ザ・アングリーインチ」「ムーラン・ルージュ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「シカゴ」などがありますね。映画の内容が、戦争批判や人種差別のような重いものでも、そこに歌と踊りが付くことで、のど越しさわやかな軽妙感を与えてくれて、すんなり受け入れることが出来るようになります。ミュージカルで使われた音楽の中で、好きな曲はたくさんありますが、どれか一つといわれたら、私は「ラ・マンチャの男」のこの歌を選びます。夢を見よう、見果てぬ夢を最強の敵に挑もう耐えがたき悲しみに耐え勇者も避ける道を進もう不正な誤りを正し清らかな人をひそかに愛そう戦いに疲れ果てた腕で届かぬ星に手を伸ばそうみなさんは、どんなミュージカルがお好きですか?ラ・マンチャの男【楽天野球団】■■■どこかで聴いた歌がここにある!! ミュージカル■■■
2004/12/04
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学生の時、冬休みの短期アルバイトで、新幹線車内販売をしたことがあります。帰省ラッシュで、通路にもたくさんのお客さんが立っている中、カートは通れないので、お弁当を両手に持てるだけ持って、車両を行ったり来たりします。思っていたよりずっとずっと大変でした。このアルバイトで知りあったのが、今日のお話の主役、私の大親友の一人です。彼女は大学卒業と同時に結婚し、友達の中では一番ノリでした。リッチな旦那様と都心の高級マンションの最上階で新婚生活。「友達の友達はみんな友達」ということで、いろんな友達をゾロゾロ連れていって随分迷惑をかけたにもかかわらず、おおらかでさっぱりした性格の彼女は、いつも快く迎えてくれました。私が結婚して茨城に引越したあと、しばらくたって、彼女が家に駆け込んできました。ご主人と喧嘩して、しばらく泊めて欲しいというのです。田舎の一軒家で、部屋は余ってましたから、いくらでも好きなだけいてもらってよかったのですが、二人の仲がちょっと心配ではありました。彼女が泊まりに来た日に、私はとても不思議な夢を見ました。中世のヨーロッパ、だと思うのですが、さだかではありません。私は小さな少年で、村の大きな教会のお手伝いをさせてもらっています。ミサのお手伝いが終わると、好奇心旺盛な私は、帰るふりをして、こっそり一人で教会の中を探検します。そして祭壇の裏に、隠し扉があるのを発見するのです。ワクワクしながら近づいてみると、そこからぼんやり光がもれていました。中に誰かいるようです。音を立てないように、そーっと扉をあけ、するりと忍び込んで、大きなテーブルの影に隠れました。「ドスン」大きな重たい音が頭の上で響いて、私は縮みあがります。「ドスン」恐る恐る覗いてみると、その大きなテーブルの上に、大きな斧を降り下ろしている大女がいました。黒い僧衣を身に付けたその大女は、なにか禍々しい黒魔術のような儀式を行っているところでした。「バベル教こそ、唯一の教えなり」そういって斧を振り下ろす恐ろしい大女は、全く似ても似付かないのですが、なぜか「彼女だ」と私は直感し、ハッと目が覚めました。その夢はあまりにもリアルで恐ろしいものでしたが、不思議とその大女が少年の私に危害を加える気はしませんでした。夢の話は、彼女には内緒にしていました。きっと、自分が恐ろしい黒魔術の大女だったなんて聞いたら、たとえ夢でも、いい気持ちはしないだろうなと思ったからです。その日は土曜日だったので、私たち3人は近くのホームセンターに出かけました。何を買うわけでもなかったのですが、巨大なホームセンターには、インテリア館やアンティーク館、見て回るだけで楽しい建物が集まっていました。私たちは、ジグソーパズル館に入り、壁に飾ってある色とりどりのパズルを見ながら、ゆっくり階段を上がって行きました。「これ、欲しいな。」彼女の声に、ふと振り返って見て、私は目をむきました。彼女が見ていたのは、「バベルの塔」だったのです。背筋が凍る思いがしました。それは、オランダ画家、ブリューゲルの描いた有名な絵を、大きなジグソーパズルにしたものでした。ひょっとしたら、私たちは、前世からずっと知り合いだったのかもしれません。彼女はしばらく滞在し、ご主人と仲直りして帰っていきました。しかしついに2001年9月、離婚が成立し、近所に引越してきました。最近は新しい彼とも知りあって、仕事と恋に燃えているせいか、あまり遊んでもらえません。後になって彼女に夢の話をすると、別に気を悪くするわけでもなく、「バベルの塔は昔から好きだよ。」といっていました。偶然にしてはタイミング良すぎだったあの夢は、正夢だったんでしょうか。ジグソーパズルバベルの塔 1000ピースジグソーパズル[ピーテル・ブリューゲル]バベルの塔 2000ピースジグソーパズル「バベルの塔(ブリューゲル)3000ピース」
2004/12/03
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後楽園ホールといえば、プロレスやK1などの格闘技を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。2001年8月5日、JBDF主催、東京ダンス選手権大会も、ここ、後楽園ホールで開催されました。来年度のアマチュア県別対抗戦の東京代表が選抜されるだけでなく、プロの選手権も行われましたので、ホールは朝からたくさんの応援の方々がつめかけ、ごひいきの選手や、自分の先生の名前を書いた旗や垂れ幕が、会場2階にずらりと並びました。このメイン競技に合わせて、JBDF東部総局に未登録の選手が出場するノービス競技も行われ、私たちは、このアマ・ラテン部門に参加しました。同じJBDFでも、北関東支部と東部総局は登録が別なのです。ノービスとは、初心者という意味ですから、踊っていいフィギュアはベーシックルーチンに限られています。スケートでいったら、規定演技のようなものです。私たちはこのために、チャチャチャとパソの2種目のベーシックルーチンを復習しました。後楽園ホールは、リングが設営される場所に上からスポットライトがあたるようになっているようで、フロアの真ん中だけ、明るい場所ができます。初めて後楽園ホールに出た私たちは、その光に吸い寄せられる蛾のように、そこばっかりで踊っていました。まわりにいるお客さんは、完全に無視です。特にどこが悪いという踊りではないのですが、はっきりいって、彼が黄色、私が赤のコスチュームは、すごく変でした。そして、光の輪の中から、出たり入ったり。床が茶色ですから、ホットドッグのケチャップとマスタードみたい。出場組数は59組で、それほど多いわけではありませんが、ベスト24には届きませんでした。この大会は、私たちにとてもいい反省材料を与えてくれました。踊りの質はもちろん大切ですが、コスチュームも大切な要素です。フィギュアスケートのペアダンスでも、選手は男女のバランスがとれた衣装を身に付けています。二人が踊っていて、カップルに見えなければいけません。この日、先生も東京選手権に出場されていましたので、ビデオをお互いに撮りあうことが出来ました。プロが出場する競技会では、ビデオを撮るのは有料なので、シェア出来たほうがお得です。先生達はC級でしたが、並み居るA級選手の中で健闘しました。しかしさすがに決勝に勝ち残った選手達は、テレビや雑誌に常連の選手ばかり。特に印象に残ったのは、中村俊彦&青柳朋子組の踊りで、中村選手は、自由自在に身体が動く、まるでイルカみたいでした。この時撮ったビデオは、随分何度もみました。自分たちのケチャップとマスタードは、2回くらい見ればもう十分です。プロの競技会でビデオを撮るのは5000円くらいかかって「高いな」と思いがちですが、これだけいいイメージトレーニングになるなら、かえってお得かもしれません。 「黄色い背景の赤いバラ] アイズピリ
2004/12/02
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私たちの通っているダンス教室のサマーパーティで、初めてデモを踊ることになりました。2001年7月22日のことです。先生は、「いつか優勝してオナーダンス踊るときのために、ソロで踊るのにも慣れといたほうがいいよ」なんて、おっしゃるので、自分たちがチャンピオン戦で優勝して、オナーダンスを踊っている様子が、頭のかたすみにポンッと浮かんだりして、「是非やらせて下さい」すっかり、乗せられてしまいました。曲選びと編集は自分たちに任せて下さいました。どうせなら、誰も使ったことのない曲で、私たちの踊りのイメージにピッタリあったものを探そうと、毎晩家にあるCDを片っ端から聞きまくり、ルンバとチャチャチャのメドレーに合う曲をピックアップしていきました。最終的に選んだのは、映画「グラン・ブルー」のオープニングテーマ曲と、ビートルズのオブラディ・オブラダです。私たちは競技ダンスを始める前は、夏になると毎週、ボディボードやビーチバレーをしていました。二人とも海が大好きなんです。映画「グラン・ブルー」は、ジャック・マイヨールという世界素潜り競技チャンピオンの話を映画化したもので、職場の近くにオープンしたスポーツクラブの、オープニングセレモニーにマイヨールが来るというので、会いに行ったこともあります。紺碧のエーゲ海。岩場に隠してある足ヒレをつけ、少年マイヨールがシュンと泡音をたてて飛び込むと、たくさんのさかな達が、彼のパンをめあてに集まってきます。お気に入りのウツボ君にえさをあげるために、小さな魚をゆっくりと手で払いのけると、頭の上にはキラキラと光が揺れています。音楽は、この海の中の世界をとても美しく表現していて、この曲でルンバを踊ると、まるで自分がイルカになったような気がするのです。小さなダイアモンドのようなたくさんの泡が、水面に向かってゆっくりと上がっていくと、曲はフェードアウトし、そこから一気に、「オブラディ・オブラダ」のピアノが、陽気に始まります。私たちは左右に別れて会場を一周し、お客さんに挨拶して、再び出会ったところで、腕を組んで市場にお買い物に出かけます。イメージ的にはこんな感じのデモ、ほんの2分程度の踊りなんですが、私たちは、かつて味わったことのないほどの緊張で、余裕ゼロでした。集まったお客さんの全視線が自分たちに注がれて、シーンと静まり返った会場に、初登場の「ヒヨコとヒヨコ使い」。体中の毛が逆立つようでした。ありがたいことに、スポットライトがあたると、眩しくて周りが見えなくなり、少し自分を取り戻しました。出だしは間違えずにすみましたが、緊張して足に力が入らないので、スピンのあとよろよろっとなり、イルカどころかワカメみたい。こんなオナーダンスしたら、石投げられるんじゃないかと、いまビデオを見直すと思うんですが、その時は、その時なりに、最高の踊りを、私たちは披露したのです。グラン・ブルー アルティメット・エディション (DVD)アトランティス (DVD)オブラディ・オブラダ/Ob-La-Di Ob-La-Da(ブラスバンド 楽譜セット)
2004/12/01
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