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1446 年末年始、休みを取れず、忙しくて、旅に出られない方、私の旅の記録を眺めながら、雰囲気を感じてください。個人的旅は人の積極性を育む、活動する世界を広げるとともに、将来行動の選択肢を増やすでしょう。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage%20top%203.htmlhttp://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage229.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage1.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage2.html平均寿命は今生まれた赤ちゃんが何歳まで生きるかを示している。平均余命は今何歳の人が何年生きるかを示している。平均余命を意識している人はほとんどいないで、平均寿命をみて、それに近い人、それを越している人は、妙な地震予知と同じように、「明日、死んでもおかしくない」と言っている人が多い。そうじゃないよ。「まだまだ、憎まれ口を言う時間は長く残っていますよ」と言ってやる。昨年の今頃は母親の最後を迎えていたので落ち着かない毎日でしたが、今年は一周忌も終えて、身の回りに不安を抱く人がいないので落ち着いた静かな日々になっている。私のいとこが一人亡くなった。今年もまた、大勢の著名人が亡くなりましたね。誰が何歳で亡くなった、若いね、大往生だね、いろいろ、印象はあるが、死は予期せぬ状態でやってくるものだと感じる。死んであらの段取りやお世話になった多くの方々にお礼や感謝の言葉を残してあの世へ行った、何とかという、人がいましたね。そこまでは、用意周到でなくても、遺言を残しておくという人は増えていると思う。身の回りにも平均余命で10年そこそこの人も多くいる。平均より多くの材をなしている人が多い、そういう方々と、お付き合いの中で、「お前の弔辞は俺が読んでやるから、そのことは心配しないでいいから、安心しろ」「逆でしょ、順番からいって、私が読みますから、安心してください」そんな会話も弾んで?いる。そういう会話がふさわしい年齢になってきたし、そういう会話が寂しいとは思わない。一致する意識は、行くならぽっくり行きたいね、寝たきりになったり、ぼけたりして、人の世話にはなりたくないね。ぼけそうもない人たちばかりだが、こればかりは、望み通りになるかどうかは、分からない。森のように茂っていた庭の木を思い切って丸坊主にしてしまった庭、テレビに夢中になっている二人。余命 別に人生 弔辞
2012.12.31
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1445 朝方、雨模様だったが、10時スタートの時には雨は上がっていて、雲が垂れこめているので、前二回の時より、冷え込みが少なかった。ホロンは静岡県東部の菊川というところにある。孫の一人が吐き気を催し、気持ちが悪いというので、03:00頃、夜間当番医(市立病院)へ連れて行った。04:00には家に戻ったが、彼女、眠れす、のどが渇いた、というので、水を与えりして、私は一睡もできなかった。風邪を引いてしまっていて、それでなくても、ずるずるしている私です。ゴルフは当然、多叩き、最後のゴルフとしては、不満足だった。強制竿でオリンピックもマイナスだった。 今年は何回、ゴルフをしたでしょうか、前半は日本にいることが多かったので、月平均にしたら4回程度だったが、後半はおそらく月平均10回以上だったでしょう。ということで、記録をしてはいないが、90回くらいやっていたともう。そして、結局、今年もゴルフに進歩が見られなかった。体力維持とぼけ防止に効果はあったと思う。結局、今年もゴルフに進歩が見られなかった。突然話は昔に帰る。“Nona manis siapa yang punya Nona manis siapa yang punya Nona manis siapa yang punya Rasa sayang sayange” “ノナ マニス ヤン プニヤ×3 ラサ サヤン サヤンゲ” プニヤとは所有、もっている、という意味です。ノナは若い女性、女の子です。マニスは“甘い”ですが、この場合は、“かわいい“です。ヤンは~~であるところの、という意味です。ラサは味とか印象とか感じの意味です。”可愛いあの子は誰のもの×3 愛しい“という歌です。 インドネシアでは子供のころ覚える歌で、誰でも知っている、日本でいえば、“花いちもんめ”のような感じで、歌われている。どういうわけか、私が小学校のころ、“ブンガワン ソロ”と共に覚えた歌です。最後の“愛しい“というところを”いえ、あの子は僕のもの“と歌っていた。ブンガワン ソロは日本語歌詞だけで歌っていたが、この歌は、インドネシア語とは知らず”ノーナマニシャパヤンプーニャ、ノーナマニシャパヤンプーニャ、ノーナマニシャパヤンプーニャ、ラササーヤサーヤンゲン“と、これが一番で二番は日本歌詞で歌っていた。インドネシア語とは全く知らないで歌っていた。“やさしいインドネシア語“という教材本にこの歌が乗っていて、「そうだったのか、インドネシアの歌だったのか」と思った。1996年インドネシアへ赴任した時の自己紹介の場で、二十人ほどのインドネシア人の前で、この歌を歌って見せた。拍手、喝さいだった。それ以来、何かの会でも、この歌と、ブンガワン ソロ(インドネシア語と日本語)と五輪真弓の“心の友“をリクエストされた。満更ではなかった。ホロンゴルフ場記憶 子供の頃 馴染み
2012.12.30
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1444 インドネシア語を使えるようになるコツというか、私の経験では、半年で日常会話は、ほとんど、問題なくなった。1年で、押出の仕事を指導することに必要な単語はほとんど覚えたその方法を書く。インドネシアへくこことが決定したのは、赴任から一年前、その時からインドネシア語の勉強材として、やさしいインドネシア語という本を買って、覚えることから始めた。半年前ぐらいに、インドネシアで一緒に仕事をする予定の若者がインドネシアから、やってきた。太田化工へも工場見学に寄った。その時、私が案内したが、挨拶くらいはできていた。彼らが帰りがけに“サンパイ ジュンパ“と声を掛けた。彼らはびっくりしていた。それに、気を良くした私は、毎日、その教科書にある単語や文章を一ページずつ覚えていった。一日平均二時間程度その時に充てていた。最初の赴任は出張者3人出向者4人で私は出向者に入っていた。社長を除けば私が飛びぬけて高齢だった。しかし、その時、インドネシア語で積極的に話をしようとしているのは私だけだった。その時の社長は英語がペラペラで、怒りっぽい人だったが英語でどなりまくっていた。その社長が毎朝ミーティングは英語かインドネシア語でやろう、日本語は禁止だ、と、自分に都合がいい宣言した。私は、それに従って、次に日の朝、少なくとも一分間は話ができるように、日本語で作文し、それを、辞書を引きながら翻訳して、それを、また、できるだけ暗記した。話したいことを毎朝インドネシア語で話をした。違う知お直され続けたが、半年後には下書きして準備する必要がなくなっていた。学校へ通ったり、家庭教師に来てもらったり、通訳を雇ったりする人は、総じて覚えが遅い、覚える時間が少ないからだ、自ら、少なくしてしまっている。何をおしえてもらうのか、私には理解できない。その何時間を単語の暗記に使えば、10個くらいは覚えられる、半分忘れても5個毎日残る。勉強はいらない、記憶することが重要。そして、使うことです。間違えた方がいい、間違いを指摘されれば、そのことは覚えたと同じ事です。当然ながら、日本人同士で話をしている人はだめです。積極性という点でも劣ります。インドネシア人の中に入って行って、指導するという点でも、だめです。私は、会社では大部分を現場にいて、指導に当たった。当然、専門用語?押出し成型をするにあたってよく使う言葉、たとえば、組み立てる、解体する、引っ張る、ゆっくり、早く、そのまま、意識して、集中して、混ぜる、測る、浮いている、沈ませる、止める、動かす、移す、などなど、ほとんど毎日使う言葉です。中には、“不良が少なくなるように、の、~~に、なるように”とか、“~~と同じように”“~~過ぎる”“~~より良い、良くない”などなど、一言で表すことができる日本語と同じような使い方ができる言葉もある、技術を教えるために覚えた言葉は、日常生活でもたやすく使えるようになって、大いに皆さんの会話の中に入ることに役だった。もうひとつ私がやったことは、インドネシアのテレビの中での映画、アメリカ映画で字幕がインドネシア語のものを良く見た。それも、辞書を引いて確認しながらである。これも、大いに役立ったと思う。結局 一年あまり、それらを続けた後は何も覚えようとしていない。そこまでで十分、不自由はなくなっていた。後は、生活のなかで、少しずつ言葉を増やしていった。私は、NHKを見ない。インドネシアのテレビしか見ない。インドネシア人と会話が弾む、インドネシア人は、親近感を感じるようだ、チェリーベル(女性グループ)の物まねをすれば、大受けである。 インドネシア語でも何でも言葉は、教えてもらうものではなく、自分で覚えるものである。そして、使うことである。黒はんぺんのフライと孫を救急病院へ連れて行っていった。記憶 活用 積極
2012.12.29
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1443 インドネシア語を話すことができるようにならない出向者は、仕事の能力は低いし、指導者としての能力も少ない。なかなか、覚えない、話ができない、通訳に頼ってしまう、そういう人は、自分の努力が足りないし、インドネシア人からもこの人、努力していないなと思われていると思ってください。怠け者です。逆もまた真ならずで、インドネシア語ができるからといって、仕事ができるとは、限らない。インドネシア語は日本人にとって英語などよりはるかに覚えやすいし、使いやすい。これが、私の持論です。相手を馬鹿にする言葉で、今はあまり使われないが“アンポンタン“という言葉があります。語源は諸説あるようですが、インドネシアに住んでいる私としては、インドネシア語が語源ではないかと思います。他の説は何々という言葉から転じて、という説で。無理やり変化させた感があるが、こちらは、ほとんどそのままで、聴く人によっては”アンポンタン“とそのまま聞こえるでしょう。”Ampun tuan“実際は”アンプン トゥアン“です。オランダ植民地時代に、召使いというか、各種プランテーションでの使用人がご主人様のオランダ人に使った言葉で、アンプーンというのは、“そうですか、なるほど、ごもっとも”などを含んだ、“はい、おや、まあ、おお”の意味です。トゥアンは“旦那さま、ご主人様”という意味です。一種の慣用句で、平身低頭して謝る時に使う言葉です。それを、オランダ人のご主人は、「インドネシア人のやつらは、こちらが、ちょっとでも、叱れば、わかっても、わからなくても、そういうだけだ、この阿呆共め」そこから、“阿呆、わからずや、どうにもならないやつら”のことをアンプントァンと言ったのです。それが、昨日のジャガタライモ、ジャガイモが伝えられたと同じころ、日本の召使いに対しても、同じ意味で使ったのです。それが、日本人にとってはアンポンタンと言われたように聞こえたのです。どうですか、もっともらしいでしょ。インドネシア語は日本人にとって一番覚えやすい言葉です。まず、読み方が、例外はあるが、ほとんどローマ字読み、子音母音の単語が多い、接続詞はあるが使っても使わなくてもいい、単語の変化は前や後ろに何かをくっ付けるが、くつける前の基本単語をそのまま使ってしまっても、相手は理解できる場合が多い。日本語と似ていたり、そっくりの単語が多い、などで、覚えやすい、使いやすい。インドネシアで働き人で、なかなか覚えない人は、覚えが悪いのではなく、覚えようとしていない人です。要するに、溶け込もうとしていない人です。http://space.geocities.jp/enplaindonesia/newpage0051.htmlほとんど、付け足していないが、私のインドネシア語講座です。コドック(カタック) ダラム トゥンプルン“kodok (katak)dalam temprung”直訳は”ヤシの殻の中のカエル“という意味ですが、日本の諺、”井の中の蛙、大海を知らず“と同じ意味です。これはほんの一例に過ぎない。インドネシアには諺というか、慣用文句が沢山あります。日本より多いと思う。私がよく使うゴルフ場の風景、インドネシアと日本 インドネシア語 語源 人並み
2012.12.28
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1442 新東名を初めて走ってみた東へ行くときには新清水インターから入って、戻りは新静岡インターから出た。静岡は旧東名とのアクセスには都合が悪いが、バイパスとは近い場所にある、これは、地形上、仕方がないと思う。 それにしても工費が、高そうな道である。山から山への道なのでトンネルや橋が多い。ただ、土地の買収費用は安そうだ。走ったのは新富士と新静岡間だけだが、東名と比べれば、トンネルの状態も二車線区間も広々としていて走りやすい。改善されているなと感じる。静岡県の御殿場から三ケ日までが完成しているらしい。渋滞や事故をすくなくする効果はもちろんのこと、経済的効果も金額的地域的に大きいと思う。 ということを考えながら、静岡という土地にはやはり、権力者というか目立った政治家は必要ないなと改めて思う。なにやかやと強引に引っ張ってくる必要がない場所だなと思う。 この何日間、強烈な寒波襲来で日本の北東地域は大雪に見舞われているらしい、気温も12月にしては過去にない低さになっている地方もあるらしい、そういったなかでも、静岡の気温を見ると本州では一番高い。そして、雲一つない快晴である。富士山もくっきり、これだけ見ても、静岡の人たちは恵まれているなと思う。家康が子供のころ人質として静岡に住んだ時の経験があって、隠居地として静岡に住んだということもなるほどと思う。 その静岡で生まれて育った、そして、活動した静岡だが、私にとっては刺激が足りなかった、このまま、この土地でのびり、老後まで暮らしてゆくことに物足りなさを感じて、静岡脱出、日本脱出を目論んだのです。それだけ、私にとっては、静岡は、たと土地に比べて恵まれすぎている、平凡に暮らすなら、あまり頑張らないで暮らすなら、いい場所だと思う。 そして、今の考えは、その静岡よりもインドネシアの方が便利さや清潔という意味でなく、ゴミや渋滞や洪水などの大問題があっても、総合的過ごし安さという観点から、恵まれているなと思う。年をとってきた私の生活感に合っているなと思う。 恵まれ ぬるま湯 刺激不足12月26日 (^_-)-☆豆知識 1442 唐突ですが、私の生活に関係ある豆知識、ジャガイモの語源は“ジャガタラ イモ”ジャガタラとは今のジャカルタの北部の旧市街地の地名である。この地域はオランダが植民地とした時代はバタビヤという地名になっていたが、日本が占領して以来、ジャカルタというようになって、ブンカルノはその呼び名を引き継いだようです。Betawi(Orang Betawi )その土地の人びとをバタビヤという地名からブタウィと呼び、今でも純粋なジャカルタ人のことをブタウィと呼ばれ、人口比率は年々少なくなっている。 インドネシアを通ってオランダ人が持ち込んだイモだから、当時の日本では、そう呼ばれるようになった。元々は南米アンデス山脈にあった、それをスペイン人がヨーロッパに持ち帰った。腐ると毒性が強かったので、花の観賞用だったが、フランスのルイ15,16世のころ飢饉を乗り越えるための食料として庶民に普及させて、それ以来、ヨーロッパで貴重な炭水化物として主食になっていった。オランダ人がインドネシアなどの植民地に持ち込んだ、それとほとんど同時に日本へも持ち込んだのです。ということのようです、正しいかどうかは保証しません。http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage04.htmlhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage003.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage36.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage10.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage35.htmlで、中部ジャワのまた中央部の高原地帯、ディエンを一大、ジャガイモ産地として、何回か紹介している。日本では男爵とかメークインなど煮て柔らかくなるものとならないものなどがあるが、ディエンではなんという種類か知らないが、余り柔らかくならない種類が主体のようです。ポテトチップス,フライドポテトをインドネシア語では、“クリピッククンタンkeripik kentang””クンタン ゴレンkentang goreng”と言います。どちらも、日本の味やりインドネシアの方がおいしい、私に合っている。素朴な、子供の頃、お八つとして」食べた味にそっくりである。ちなみに、サツマイモもインドネシアの方が甘くておいしい。酒に弱い原因は遺伝子による。鍛えて強くなったという人は、肝臓のバイパスを使うようになっているが、負担は大きくなり、肝硬変など肝臓の病気になりやすい。ゴルフの帰りに見える富士山“箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ“の大井川から焼津港から。左の山の崖っぷちの道、大崩海岸大崩海岸を過ぎたところ、手まえが太田化工がある用宗海岸、右向こうが日本平がある谷津山群、久能海岸、久能山東照宮がある。ジャガイモ ジャガタラ ブタウィ
2012.12.27
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1441 新東名を初めて走ってみた東へ行くときには新清水インターから入って、戻りは新静岡インターから出た。静岡は旧東名とのアクセスには都合が悪いが、バイパスとは近い場所にある、これは、地形上、仕方がないと思う。 それにしても工費が、高そうな道である。山から山への道なのでトンネルや橋が多い。ただ、土地の買収費用は安そうだ。走ったのは新富士と新静岡間だけだが、東名と比べれば、トンネルの状態も二車線区間も広々としていて走りやすい。改善されているなと感じる。静岡県の御殿場から三ケ日までが完成しているらしい。渋滞や事故をすくなくする効果はもちろんのこと、経済的効果も金額的地域的に大きいと思う。 ということを考えながら、静岡という土地にはやはり、権力者というか目立った政治家は必要ないなと改めて思う。なにやかやと強引に引っ張ってくる必要がない場所だなと思う。 この何日間、強烈な寒波襲来で日本の北東地域は大雪に見舞われているらしい、気温も12月にしては過去にない低さになっている地方もあるらしい、そういったなかでも、静岡の気温を見ると本州では一番高い。そして、雲一つない快晴である。富士山もくっきり、これだけ見ても、静岡の人たちは恵まれているなと思う。家康が子供のころ人質として静岡に住んだ時の経験があって、隠居地として静岡に住んだということもなるほどと思う。 その静岡で生まれて育った、そして、活動した静岡だが、私にとっては刺激が足りなかった、このまま、この土地でのびり、老後まで暮らしてゆくことに物足りなさを感じて、静岡脱出、日本脱出を目論んだのです。それだけ、私にとっては、静岡は、たと土地に比べて恵まれすぎている、平凡に暮らすなら、あまり頑張らないで暮らすなら、いい場所だと思う。 そして、今の考えは、その静岡よりもインドネシアの方が便利さや清潔という意味でなく、ゴミや渋滞や洪水などの大問題があっても、総合的過ごし安さという観点から、恵まれているなと思う。年をとってきた私の生活感に合っているなと思う。 恵まれ ぬるま湯 刺激不足
2012.12.26
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1440 ちょっとだけ遠出、富士山の麓、そり遊びに連れてゆく。ルートは初めて使う新東名、静岡から清水インターを過ぎた清水ジャンクションを北上して新東名に入って東に向かい、新富士で一般道にはいり富士山と愛鷹山の間の道の途中、富士山こどもの国へ向かった。途中、雪の気配は全くなし、富士山に雲は掛かっていたが頂上は見えていた。“頭を雲の上に出し“の状態だった。 テレビコマーシャルをしているほどだし、三連休の最終日だし、クリスマスイブなので、大勢の客で込んでいると思ったら、さにあらず、閑散としていて、人がほとんど見えない、駐車場は広いが駐車している車は入口の近くに50台ほどだけだった。その駐車場の4分の3が空き、その駐車場の他に第二第三とあるらしい。 目的はそり遊び、しかし、雪が見当たらない、入場料を払って、広いであろう場内を、それらしき場所方面へ登ってゆく、親子ずれの他の客も少しはいて、登って行っているので、同じ方面へ行く、やっとそれらしき場所が見えてきた、ちらっと、白い場所が見えた。 ソリの遊び場は、二か所、一か所は10m×50m高低差5mほど、もう一か所は10m×100m高低差10mほどか、ざっと見て200人くらいの人がいた。そり遊びをしているのはそのうちの50人ほど、孫たちは、大喜び、レンタルソリ(2時間200円)を借り、早速、滑り始めた。もう、夢中、日本では初めて、人工雪なので、シャーベット状、それでも、大満足、登りは歩くしかないが、転ぶような急斜面ではないので駆け足でスタート地点に戻っていた。私は、何もすることがない、写真を撮るだけ、とにかく、寒くて仕方がない。ゴルフの時の寒さとは違うが、こちらのほうがはるかに寒い、手が、しびれてしまって、固まってしまっている。人工降雪機からの細かい氷が風に舞って降りかかってくる。 そのうちに、黒い雲が広がってきて本物の雪が降り出した。それでも、彼女たちは辞めない。次第に風も出てきて、雪も横殴りになってきた。場内アナウンスでノーマルタイヤの人は早めに山を下るように言いだした。 まだ遊びたい彼女たちを説得して帰路に就いたが、2時間一杯ソリを使った。もう、彼女たち大満足、帰りの来るもの中ではポカポカ温度で、すぐに眠ってしまった。家に着くまで1時間ほど、ずっと、眠っていた。 私にとっては、大変つらい一日でした。とにかく、寒い、痛いくらい寒い、インドネシア体質なので、多分、他の日本人よりはるかに寒さをきつく感じるのだと思うが、それにしても、寒むかった。それでも、お爺ちゃんは、家の縁側で日向ぼっこやうたた寝をしているわけにはいかない。寒!! 痛!! キツ!!
2012.12.25
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1439 インドネシアの来年のカレンダーを渡すのが目的で、ヤント君に会ってきた。いよいよ、彼は、来年三月、静岡大学の大学院を卒業、日本語学校2年、大学4年、中国留学1年、大学院2年、合計9年間、一応、保証人をしたことになる。資金援助は約5年間でしょうか、その他は奨学金とアルバイトで自立できていた。3月21日卒業式、出席を頼まれたが、できるだけ、としか答えなかった。3月24日結婚式、これはジャカルタで、これに出席は約束した。孫にせがまれて、静岡市街の中心地へ。ヤント君と会うときには彼女たちも一緒だった。食事は静岡で一つしかないインドネシアンレストラン、“東京ナシゴレン“静岡駅ビル、パルシェにある。ブリタール出身の国債ことば学院に通っているインドネシア人がウェーターをしていた、ヤント君は、インドネシア人留学生のボス的存在なので、もちろん彼とも親しい。何日振りかでインドネシア語で話をした。心地いい。私は、ソ ブントゥットゥを頼んだ。肉は骨から剥がし取った状態で出てきた。ナシは日本の短粒米、“違うじゃないか“と、うぶやいたら、”わかっているじゃないか“と、にやりと笑った。ジュースはアボガドが無いというので、グアバを飲んだ。ちょっぴりインドネシアに戻った感じ、孫たちはナシゴレン シーフードを半盛りにしてもらって、”唐辛子抜き、辛くないように”頼んだ、孫いわく、“少し辛かったよ“と、私が、インドネシアでよく言うことを言っていた。そうです、辛子を使わなくても、若干辛いのです。鍋に付着している油が辛いのです。ということですが、キュウリや酸っぱい人参の添え物まで、全部きれいに平らげた、大満足だったようだ、”インドネシアへ連れていって、おじいちゃん“町はクリスマスムードまっ盛り、路上パフーマンス、路上ミニコンサート、どこかの放送局の素人パフーマンス大会などなど、次々と催しに当たる。デンマークのマーメード(人魚像)の像ではないが、世界何大ガッカリ所の一つではないかと思われるアイススケートもどき場、市役所の裏の催し物広場に臨時セッティングされたプラスチック板制である。狭ま過ぎてどうにもならない上に、長い行列で二時間待ち、ブカシのショッピングモールにあるスケート場のほうが数倍広い、それでも、静岡人は行列している。賑わいを共有していると、大地震が30年以内に90%の確率で襲うと予言されている場所とは思えない、対策を考えている人がいるとは思えない。それでいいのだ!!!平和 足りる 幸せ
2012.12.24
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1438 またまた、くだらない、馬鹿げた、地震発生確率予報がだされた。私が今いる静岡で90%くらいの確率?30年以内、震度6弱?震度6弱以上?ここ何年か間で、すでに震度6弱の地震は何回か起きている、被害はほとんどゼロでした。これらについては、予言はされていたのでしょうか、“日本になら全土、独にでも、震度6弱程度の地震は30年と言わず、今すぐにでも起きる可能性はある“というのが、私の予言です。50年以上前、小学校の時から知っていたことです。それは、次々と、的中しています。わたしは、予言者としての才能があるあると思っていないが、知識として知っていることです。東海地震については、何度も書くが、30年ほど前に大地震がいつ来ても可笑しくないという説を唱えた地震学者がいて、不安をあおり、そのおかげで多額の資金を対策費として使いました。その多くは、無駄使いだったと思う。中には、用心することを意識させただけでも無駄ではなかったという、言い訳じみたことを言う人もいるが、事実、現在の立派な科学者の説では、まったく、今までの対策では不十分で、また、新たに強化しなければならないらしい。もっと無駄金をつぎ込んで、工事屋を儲けさせろと言っている。今、役に立っているものは、無いとは言わないが、使った資金の1%残っていないでしょう。その間に、“オオカミと少年“の物語のように、その他の予知してない地域で大震災が起きている。東北地方大震災が締めくくりの例です。無駄な、防波堤や門を作って、それが、何の意味もなかったどころか、倒されたり流されたりした防波堤が、建造物を壊す武器に変化してしまった。それを、どう説明するのでしょうか。そして、10年後、あるいは15年後などの来る確率は言わないのでしょうか、言われているがマスコミが発表しないのでしょうか。10%未満の場所なら、原子力発電所を、だめだと言われている活断層の上に作ってもいいじゃないの?実用期限を30年にしたらいいじゃないでしょうか。というような、ことも言えるでしょ。とにかく、曖昧で、無意味すぎることを言って、人心を惑わせるのは、罪です。NHK海外放送を見た人は、知っているでしょうが、“海外安全情報”というやつ。“自分の安全は、自分で守りましょう”と言っています。その通りです。海外大使館は何もしてくれませんから、そう言っているのです。だから、日本に住んでいる人も天変地異が起きたら起きたで仕方が無かったと思って、自分で何とかしましょう。公共に頼ってはいけません。その上、またまた、バカな予知をだして、どうしろというのでしょうか。学者はだれに頼まれたのか、自発的なのか知らないが、曖昧な予知をして、世の中のためになっていると、思っているのでしょうか、“私たちは予知をしているだけ、どうするかは、行政や市民の判断です”というでしょう。無責任もここまでくれば、子供騙しのようなもの。日本はやっぱり、変!!!私のように思う人は少数派でしょうね、きっと。 タカアシガニとウツビ 予言 八卦 出まかせ
2012.12.23
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1437 冬至ですね。インドネシアのジャカルタ付近は夏至ですね。地球は破壊されなかった。暦は続いている。1999年ノストラダムス?の大予言で地球滅亡をうたわれているということで信じていた日本人は多かった。何事もなかった。2012年冬についても何らかの異変があると書いてあると言っているに至っては、執筆者の本を売りたい意識が書かせているとしか思えない。馬鹿なことに9.11や3.11も予告していたと、後だしをする人がいることが、こりていないなと気の毒に思う。その他にそれ以上の事件や戦争が2000年以降も度々起きているのに、それらの多くについては触れていないのが、手落ちでしょ。調査ごっこを辞めたら。どこの地震がいつごろ何%の確率でくるという予言も、同じレベルの予言で、人心を惑わせる、悪だと思う・それにつけても、活断層、活断層と鬼の首を取ったように資質学者?が誇らしげに唱えている、津波の予想高さが何メートル高くなったと言っている地震学者?津波学者?いっそのこと、100mくらいになるといっておけばいいじゃないの、活断層は全国、いたるところにあるから、また、全国いたるところで、新たに出来上がる可能性があるから、原発に限らず、化学工場や火薬工場などは、日本に作ってはならないという提案をしたらいかがでしょうか。そもそも活断層って、いつか、できたものでしょう、その前はなかったでしょう、無かった場所にできるのだから、無いからといって、活断層ができないとは言えないでしょ。それに、活断層自体が地震の原因ではなく、近くに起きた、あるいはその辺りに起きた地震によって断層ができたのでしょ。その断層が、いつかまた、その辺りの地震によってもっと大きくずれるのでしょうか。どうも、何度も何度も同じ場所がずれるという歴史的、地質学的検証はされていないようで、たまたま、二回、三回の場所は例外的で少ないでしょ。だから、活断層と言っている場所、活ではないが断層と言っている場所、どう区別しているのか良くわからないが、はっきりした線が引かれているはずがないでしょう。電力会社も原発推進派も、活断層、断層のどこが悪いの?それらがあることで地震が起きたということはない、と主張すればいいのです。活断層の調査をすることと、がけ崩れが行きそうな場所を調査することと同じで、怪しいと思えば、私でもちょっと眺めれば、わかる。がけ崩れがありそうなところに、無数に道や家があるが、それらを移しますか、移さないでしょ、それと同じで、調査自体に意味がないのです。誰が調査しろと言ったのか知らないが、その人は、放射能恐怖症の人でしょう。まったく、マヤ暦やノストラダムスの詩のようなことと、同じレベルの不真面目さで、予言していて人心を惑わせている人々をマスコミがもてはやしているとしか思えない。この種の本を書いている人は、日本しか見ていない、ノストラダムスは日本のことなど頭になかったはず、私が知っているインドネシアの天変地異で何十万人も亡くなっている、そのとこを書いてもらいたかったったと思う。そうすれば、ちょっぴり、信じるかもしれない。だから、こういうことが原因でやりたいことができない、日本の沈下は人的原因が主だと思う。地震対策、津波対策などは予算に盛り込まないほうがいい、集めた少ない税金の無駄使いでしょ。活断層かどうかを問題にする、または調査する、ことのための予算も無駄使いだと思う。こういうことも日本の沈下の原因の一つです。私のように思う人は少数派でしょうね、きっと。家から出たところ、今年はサザンカが咲かない、今まで伸び放題だった枝をばっさり払って、当分、切らなくて済むようにしたためである。なんという鳥でしょうか、冬になると庭に住み着く。無駄 見当違い 調査ごっこ
2012.12.22
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1436 4か月ぶりにお会いしたが、元気そうでなにより、結構、忙しそうで、まだ、のんびりとはいかない様子、新しいメールアドレスももらった。 9日にインドネシアでゴルフをやってから、出発、それから、10日を間にして日本でゴルフ。天候には恵まれたが、気温が8時のスタート時で2度、やはり、つらい。両手はかじかんでいる。指先はしびれている。厚手の長袖の下着とシャツ、その上にジャケットを着込んでいるので、思うように腕を回せない。その上、鼻水たらたら。ポケットティッシュを鉛筆やマーカーと同じように、“自由にお取りくださいコーナー”に置いてある分けを納得した。環境というか景色は全く違う、広々としていて川や池が随所にあり、ヤシやビンタローが主な木で、あくまでも明るい、黄緑色、そんな場所から、狭く山の中、松や杉、真冬とあって。頭上が青空であっても暗い、茶褐色の場所に変化している。あまりにも環境が違いすぎる。エンジョイできるはずがない。場所は、周りに茶畑がある、頭上を旅客機が低空で通過する。大体同じメンバーで今年あと二回、新年に一回予定している。ほとんど、毎年恒例になっている。それぞれに生活の場や立場に変化があっても、このメンバーでの集まりの状態は変わらないでしょう。先日、稲沢を訪問した時の感慨と似たようなところがあって、仕事とは別に大切にしたい状況です。ゴルフのプレーはその状況に浸る手段にすぎない。今後、生きている限り、ゴルフができる限りこの状況は続けたいと思っている。インドネシアでのゴルフのメンバーも同じである。どちらも、私は聞き役に回ることが多いが、一緒にいる時間は心地がいい。恒例 習慣 気楽
2012.12.21
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1435 日本の地盤沈下の流れは終わらない、まだまだ、下流まで到達していない。多少、途中、淀み(踊り場)は、あるにしても。下り階段の下まで行っていない。そこには人口構成のピラミッド型の始まり、明らかに子供の出生率が上昇したときです。その最下段に早く到達させれば、登りだすのも早いが、現状に対する生半可な対処療法を施せば、最下段に到達するのを遅らせるばかりだ。景気対策などは、愚かな対処療法の一つです。限られた人種が一時的に恩恵を受けるだけで、日本全体に恩恵が及ぶことは全くないのです。今に日本国民はそれを望んでしまっているのです。自民、公明も目先の甘い汁をぶら下げようとしているだけです。それに気が付いていない日本人が多いこと、おろかなことだと思う。外国から見れば日本が打つ手はすべて手遅れの手ばかり、誰でも考える小手先の手ばかり、失われた20年と同じ手を打っても仕方がないでしょ。何か新しい手を自公民が打てますか?裏技がありますか?金融緩和?何年も繰り返してきたことです。今までとどこが違うのでしょうか。私が国の予算を決めるなら、今まで打たれた手はすべてご破算にし、失われた二十年、その前の10年も含めて少子化の歯止めに関しては失われた30年です。その間に打たれた手は打ちません。最初からやり直します。既得権をゼロにするのです。慣例、習慣などのしがらみを全部断ち切ります。今までの継続もプッツリと切ります。新しい予算配分の基本的考えは、課税最低収入を今の1.5倍にします。累進課税を緩やかにします。消費税は10%にします。国債の発行はゼロにします。これば大前提です。もう一つの大前提、最優先は出生率を上げることです。拡大予算などはもってのほか、税収分の予算にしなさい、無駄な補助を繰り返し、自立をしない産業に対する補助は打ち切り、貿易は例外なく全面自由化、公務員の数を半減させるか、給料を半分にし、既得権は無にする。国会議員の半数にする。デフレ結構、日本の物価は、今でも高すぎる。少子化解消予算は、妊娠、出産、生まれてから保育、義務教育が終了するまで無料にする。育児相談や援助の制度を充実させ無料化する。”忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え“敗戦の時の玉音放送の一部です。今、その時に劣らない日本の再生決意が必要です。そんなつもりで、まず、まだ先のどん底に速くすることです。ドン底を過ぎれば回復の流れに変わります。ドン底にしない、政策は、ドン底を遅れさせるだけです。今はまだドン底ではありません。 他の人への土産ではなく、自分のために、インドネシアへ持ってゆく食品の例です。 黒はんぺんとインスタントラーメン各種、値段に注目。少子化 歯止め 回復
2012.12.20
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1434 1993年頃に日本のバブルは終了した。私が社長を辞めた頃でした。それから、20年、日本は沈みに沈んだ。いわゆる、失われた20年といわれる期間です。この失われた20年はまだまだ失われ続けるでしょう。10年ほど前から、毎年、失われた何年と言い。これからも、毎年、失われた何年と言い続けて、最低でも、もう、20年言われ続けるでしょう。失われた40年以上になるでしょう。景気、年金など福祉、エネルギー、TPP,税制、憲法、領土、国の借金、選挙制度、このくらいでしょうか、自民党、公明党の政権下でますます、状態を悪化させたものばかり、それを、また、その連中に舵取りを任せるというのですから、有効投票をした人たちの神経はどうなっているのでしょうか。民主党政権が内紛が、これらの問題に取り組んだが、どうしようもなかった。おまけに、東日本大震災それに伴い原発の事故、対応がどうのこうのと批判したところで、民主党の責任でも何でもない、運が悪かっただけです。自民、公明はラッキーだった。そして、棚から牡丹餅、漁夫の利的に政権が転がり込んできた。何ができるでしょうか、何もできないどころか、事態をどんどん悪化させることしかできないでしょう。もともと、期待する人が間違っている。日本の産業が海外へ流出し始めてから30年以上経過している、その流れは今も止まっていない。これからも20年は流出が続くでしょう。その流れと同じように、日本が抱える問題は悪い方向に向かうでしょう、この流れ、傾向はだれにも止められない。いたずらに、小手先の対策を打っても、どれ一つとして、好手にはならない。何度も書くが、日本の諸問題の根本原因は少子化です。人口構成の歪みです。今は菱形に近いのではないでしょうか、これがピラミッド、悪くても、釣鐘状になったとき、初めて、日本の元気、活気が回復し始めるでしょう。庭の紅葉悪手 流れ 衰退
2012.12.19
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1433 選挙には行かなかった。積極的な危険です。結果を見ても、行かなくてよかったと思う。まったく、意味がないと思う。結果に関して何も思わない、ただ、がっかりした。そして、ただ、投票率が53%プラスだったことは、高すぎると思う、よく、投票に行く気になるなと思う。そして自民党の圧勝、馬鹿げている。選挙制度のヘンテコさまもさることながら、有権者の動き、考え方もまともではない、日本全体が可笑しくなっている。三年前に駄目だと烙印を押された政党に、やっぱり、今度はあなた方に日本の舵取りを任せます、というのですから、どんな、神経をしているのでしょうか。自民党や公明党が何かいいことをしたのでしょうか、三年前からさかのぼって何十年も日本のために良いことをしたのでしょうか、失われた20年の大多数の期間は、景気対策と言いながら、適切な対策がないまま、今に至っているのがよいことだったのでしょうか、原発に関して推進してきた何十年の間、大震災が原発を襲わなかったことは、自民党の政治、行政がそうしたのでしょうか、領土問題も何か進展して糸のでしょうか、全然そんなことはない。現在の日本がるのは自民党の政権時代に出来上がったものです。それが、民主党ではなく、やっぱり、自民党の政治のほうがいいと判断したのでしょうか。私には、まったく理解できない日本の政治です。どこだれが、政権を担当しても、日本の流れは変わりません。前にも書いたが、人口構成がピラミッド方に変わるであろう、50年後くらいまでは、日本の経済力地盤沈下は続くでしょう。いま日本に生きる人々は、第二次大戦後約50年間の後、バブルが崩壊するまでの間に生きてきた人々に比べて、運が悪いと思う。そういう日本に生まれてきてしまったのです。東南アジアや中国などの国々の勢いが全然違う、日本は寂しい、活気が違う子供の数が違う。興津と由比の間のサッタトンネルを抜け由比町に入ったところ蒲原トンネルを出たところ大瀬崎から戸田に向かう途中。http://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage101.htmlhttp://nanbuindonesia.web.fc2.com/newpage102.html変! 無意味 無駄
2012.12.18
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1432 今回、日本でも初めての日曜日、早速、孫にせがまれる。どこかへ、つれて行けと。じいちゃんが、何のために日本へ戻ったかというと、自分たちを車でどこかへ連れてゆくためだと思っている。そして、どこかへ連れて行ってと言えば、必ず、つれて行ってもらえると思っている。その通りである。どこへ行ったかというと、伊豆半島の入り口までである。この順番に富士山が望めるというと、あからさまに見える場所を通過した。静岡から、どこを通って、静岡へ戻ってきたか、三枚の写真からわかりませか、他のルートではこの三枚の写真を繋げてとることはできません。思い出です。三津(ミト)シーパラダイスという、沼津の南、伊豆半島の西海岸のスタート地点的な場所、水族館というより、海の動物主役のアトラクションを見せる場所といったほうがいい、孫たちをつれては三回目である。私が初めて行ったのは、小学校四年の夏休み、沼津港から竜宮丸という遊覧船で三津水族館といった場所でした。その頃はアトラクションもイルカだけだった。そのほかは確かに水族館、丘の上にはクジラなど海の哺乳類の博物館になっていて、特にクジラに関する展示が多かった。シロナガスクジラの全身骨格の標本には圧倒された覚えがある。捕鯨の技術の進化の経過や南氷洋の状態も紹介されていた。当時は捕鯨と言えば、冒険的な職業で、花形職業だともてはやされていたので、その展示も大勢の見学者が押し掛けていた。今はどうなっているのでしょうか、寂れているが、施設の名残はあるようです、そっちの方向へ行く人は少ない。高校生の時の夏休み、同じクラスの仲良し四人組で伊豆半島をテントを担いで一周をしたときにもやはり、遊覧船で三津水族館に渡ったのがスタートだった。バスで南下し、一泊目は大瀬崎(オセザキ)の半島を見下ろす道端にテントを張った。夕方、寝ようとしていたころ、人がやって来たのか、通りがかりだったのか、その人「ここは私に土地だ、誰に断ってテントを張っているんだ」というようなことを言っていた。何も答えようがない、「どこでも、かまわないと思って、ここが、見晴らしがいいのでここで泊ることにした」というような返事をだれともなくしたと思う。他のことは覚えていないが、そこで、そのまま一泊した。その後は、娘が小さいころ、まだ、長泉町に住んでいたころ一回、つい三年ほど前孫たちを連れて行った。何も感動はない、やはり、子供のころに来た時のことが一番印象深い。東名高速道路、富士川サービスエリアを過ぎた直後、富士山と愛鷹(アシタカ)山と富士市を一望、大瀬崎の半島を足元に駿河湾の向こうに富士山土肥港から駿河湾フェリーで清水港に向かう途中、駿河湾洋上から左から清水、由比、蒲原、富士川、富士を望む、由比漁港から、一斉に桜エビ漁の船が、ボートレースのように全速力で最適漁場に向かっている様子に出会った。フリー目がけて突進してくるよう。 ということで、東名沼津インターから南下し、沼津の町を通って三津、戸田、土肥、清水へと一周経路でした。他の土地の人から見れば、かなりの観光ルートに違いない、素晴らしい眺めの場所が多い。9時に家を出て戻ったのが17時前、ガソリン、高速代、入場料、食事、ソフロクリーム、フェリー代合計2万円ほど、高い、インドネシアなら5千かからない。厳しいのはガソリン代、4千円で25Lちょっとしか入らない。千円ちょっとである。旅? 憩い 癒し
2012.12.17
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1431 母親が大往生して間もなく一年が過ぎる。一周忌というのでしょうか、今回帰国した一番の目的がこのイベントのためでした。私は、まったく、準備に関係していないが、浅間神社の西、静岡養護園の幼稚部の理事長をしている妹がすべてを整えてくれた。彼女が母親と一緒に暮らしていた。一応、私が施主ということになっているので、形としては協力したことになっている。何の意味があるのか釈然としないが、一つの区切りである。完全に私の兄弟とその子供、孫たちだけの集まりで、全員で10人ちょっと、本当に内々という感じでした。しかし、それでよかったと思う。今日の出席者の中では一番に、この墓に入るのは、私である。もうそれほど遠い先の話ではないことを感じる。親父が亡くなったとき、私が作ったものだ。当然、私は入る権利はあるが、入ったかどうかは確認できない。そんなことを思った。“我思う故に我あり”デカルトですか。ずっと、何かを思っていたいが、何も思わなくなる時が必ず来る、その時、私は無になる。皆さんで食事をしたときに出てきた料理の一つ、桜エビのかき揚げ、蒲原という町の料亭だったが、その町の西隣の町、由比は桜エビ漁で有名な街、絶品である。子供のころから、黒はんぺんとともに、おやつ代わりに食べていたが、こちらは、生のまま食べてもおいしい。静岡の北部を走るバイパス、中央道が笹子トンネル事故以来、通り抜けできなくなっているので、東名、新東名、そして、一号線とそのバイパスの交通量が増えていることは確かなようだ。私が住む丸子(鞠子)という町は、静岡でも西の端に近い、そこで、清水や富士など東に向かうときには、バイパスを使うのが一番便利、渋滞がなければ、東名高速の静岡インターまで行く時間で、清水インターの近くまで行ってしまう。供養 功徳 色即是空
2012.12.16
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1430 何年かぶりに日本の歯医者へ行ってきた。家の近くの行きつけ?の歯科医。といっても、多分、数年前が最後だったと思う。歯医者にはハラパン クルアルガに三年ほど前に通って、刺し歯や入れ歯をしてもらっている。歯医者というのは、どこの国でも嫌いである。どうしようもなくなったと判断したとき、あるいは痛くて痛くて我慢が出来なくなったときに、差し迫ってゆく、今回は、痛くはないが、歯垢がかなり溜まっているらしいことと、一本、虫歯でかけ始めてしまっていたため、そして、二週間ほど、医者に通う余裕があるからだった。覚悟を決めて、行ってみた。その医者、日本で多くの歯医者に行っているわけではないから、比較はできないが、乱暴のような気がする、口のきき方もドリルの扱いも乱暴のような気がする。歯垢について今日言われたことは、ひどいの一言、歯の磨き方が悪い、血が出てもいいから、歯を磨くより歯肉を磨くつもりで磨いてください、と、注意された。この注意は今回が初めてではない、何年も前に言われている。そのつもりで磨いているが、医者にとっては、磨いていないという判断なのでしょう。ギリギリ、ガリガリ歯の根元に届くのではないかと思われるほど、歯肉と歯の間にどんどん、ドリルを差し込む、血が飛び散っているのがわかる。助手の奥さんでもバキュームで吸い取りきれない、口をゆすいだ時に、真っ赤な血が噴き出しているのがわかる。5分ほどガリガリやったあと、ヨウドチンキでしょうか、歯の根元の周りにたっぷり塗りこんだ、これがまた、きつい苦味とにおいと痛みが口の中に沁みわたる。そのまま、5分ほどじっとしていたあと、口を濯いで終わりでした。「今日は、下でした、次ぐは、上ですね」「はい、ありがとうございます」試練だが仕方がない。これで、4,500円、インドネシアで保険を使えないで治療した時と同じ値段である。それでも、年内に数回はお世話にならなければならない。連日の寒さ痛 非情 耐え
2012.12.15
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1429 私は経営者ではなく技術者だと思っている。金の計算もできるし、従業員に楽しく仕事をしてもらえる会社の雰囲気を作ることもできるし、経営も普通の人よりできると思うし、利益が出る会社にすることもできる、が、技術者としてなら、もっとはるかに、かなり、並以上にできると思うし、経営をしていても面白くないと思うが、技術的仕事をしているときには面白いと思う、楽しいと思う。小学校の低学年のころから、義務教育が終わるまで、ずっと、学級委員長や学級委員をやらされていた。ないかと、仕切ったり、まとめたりする仕事をしなければ習い状態にされていた。「静かにしてください」とほとんど毎日のように言っていたような気がする。休みの日でも、子供会の会長やリーダーをやらされていたので、町内の子供のまとめ役、祭りのときにも林間学校などの行事の時にも、まとめ役、修学旅行や遠足の時に小旗を持たされて、集合場所に一番早く行って、みんな待っていた。点呼を取るなどは当たり前にやっていた。それらが、自分に向いて入りとは思わなかった、全然楽しくなし、やりがいがあるなどと一度も思ったことがない。いやでいやでしかたがなかったが、やらされていた。それは、卒業して何十年たっても、日本にいなくても、同級会を仕切ることもしなければならない立場だった。他にやってくれる人がいないから、仕方なくやらざるを得なかった。 だから、こうこりごり、だった。経営もうまくいっていた。従業員を全員、30人以上いたが、毎年、海外旅行に連れて行った。旅費はすべて会社持ち、プラス土産代も支給した。儲かっていた、新聞にも高額納税ということで毎年、紹介されていたし、日本の悪しき習慣、手形を切る、ということは、一切しなかった。成功はしていた、しかし、全然、楽しくなかった。いつの間にか、技術的な仕事から離れてしまったからだ。儲かるので金の心配はいらないが、以前開発した仕事を継続してやるばかりで、その、生産や納期の管理、人材の心配などが主な仕事になってしまっていた。それが、子供のころの私の姿と重なってきて、脱出したくなったのです。 スパイラルチューブやコイリングチューブ、エッジングやグロメット、エンドレス自在ブッシュをつくりあげたころの自己満足感、快感は、忘れることができなかった、そこで、簡単にいえば、“包丁一本さらしにまいて”ではないが、押出成型技術一本だけひっさげて、日本から飛び出たのです。 この期間の節目に機能お会いした北川会長が関わっていたのでした。しかし、北川会長とは生き方は違う。そのことを昨日も話をした。http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page232.html全然関係なく、突然ですが、パンガンダランのヤマアラシの親子の様子です。スポンジボブがお気に入り、私のラップトップをお気に入りの上の子。静岡のちょっと高いところならどこからでも眺められる富士さんです。向き 不向き 得意
2012.12.14
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1428 121212の日 お元気そうな顔を拝見し、ほっとした。腹の底から響くような声に衰えはなかった。愛知県の稲沢へ行ってきた。ある、私にとっては重要の方にお会いするためでした。何年ぶりでしょうか、多分、6年ぶりくらいだと思う。私が若い時、26歳の時、社長がまだ40歳前でした。初めてのご対面でした。それから、40何年以上のお付き合いです。現在は息子さんに社長と代表権を譲ったとはいえ、まだまだ、会長として、毎日、会社に出て来客の対応をしながら、社長をサポートしている。82歳である。私が押出の技術者として生きてゆくと決心する機会を与えてくれた人、私が独立してから、間もなく、私に注文を出してくれた人、私が社長を止めて、海外で技術指導をしたいと、多くの関係者に話をしていた時に、インドネシアに押出工場を作ってみないか、と、声をかけていただき、今もインドネシアで技術指導したり、輸入製品のインドネシア国内からの調達のお手伝いをしている、その機会を作ってくれた人。私の人生の転機で深く係わり、頼りにした人です。常に目を掛けてくれたと思っている人です。http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0201.html会長にとっては、私は多くの人達の中の一人に過ぎないかもしれないが、私にとっては常に意識をする方でした。今でも、そうです。 だから、今回、ぜひ、お会いして、私の気持ちを伝えようと社長にお願いして設定をしていただいたのでした。本当にお会いできてよかったと思う。前日、日本で感激すること、うれしいことは殆どないと書いたが、今日という121212の日は、久しぶりにお元気な姿を拝見し、一時間以上に渡って、御話しできたことは、感激の一言です。稲沢へ行って良かった。一年後には元の本社に新本社ビルが完成するそうです。その頃に、また、来てくれよ、と、言われた、必ず、御伺いしますと約束した。 13時のアポだった。12時ごろ会社の周辺に到着していた、食事をして時間の長以西をした。5分前に会社の玄関に到着した。13時丁度に、応接に通された、会長は既にその応接室で私が到着するのを待っていてくれたのです。その姿を横から見ながら、部屋に入りながら、遅れて、待たせることに、ならなくて良かったと思っていた。「太田君、時間ぴったりだね」と言われた。流石だなと、思った。 別れ際にご一緒に写真を取ってもらった。その他大勢との記念写真のようなものは、何度も機会はあったが、二人だけで、写真に収まるのは初めてだった。これも、良かったと思う。 帰りの東名で運転をしながら、インドネシアから何度も電話が入った。パーキングエリアに駐車して、それらの電話に返事をした。今も、こうして、インドネシアの多くの人が私を頼ってくれる、一応元気に生きて行けているのは、会長のおかげだという事を意識しながら。 今日は一日、素晴らしい日だった。本当にお会いして良かったと思う。 感謝 恩人 尊敬
2012.12.13
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1427 日本の方が便利という事はあまりない、日本にいてあまり感激することはないが、少しはある。その一つがネット接続でローディングが早いこと、色々な動作を連続して出来る、休憩してそのローディングが終わるのを待つ必要がない、逆に待つ必要がない、インドネシアではそういう事はまれで、何かを食べながら、飲みながら、動作が出来るというより、何もしないで、ただじっと画面を眺めて待つのはつらいことが多い。会社内のワイアレスランでもケーブルランでも、なぜか、雨が降りだしたり、雷が鳴り出したりすると、なお、状態は悪くなる。時には切断してしまい、ローディングが止まってしまい、せっかくに作業が台無しになってしまい、やり直さなければならにこともある。日本ではそんなことはないでしょうね。その他に日本でやることはあまりないので、嬉しかったり、感激したりすることは?今のところ思いつかない。例えば、日本での車の運転、渋滞が少ないことと曲がりたいところで曲がれるいことでしょうか、信号が多すぎると思うが、信号が変わる時に規則性があるために、信号が邪魔になることはほとんどない、インドネシアのように、直ぐそこに目的地があるのに、遥か向こうまで行って、Uターンして戻って来なければならないという事がないのは喜びの一種か。ただし、車のオートマは逆に良いとは思えない。というより、マニュアルでもオートマでも、どちらも変わりがない。ナニュアル車に慣れている私は、家にある私の車は、時々、戸惑う。HPは日本でもインドネシアで使っているソニーエリクソンとノキアの安い3Gの方が使いやすい。日本のHPを使おうとは思わないが、AUの折りたたみ式の只のHPを使っている。SMSを打ち込むのに日本語は出来ない、変換が面倒くさい。アルファベットのモードに固定していて、ローマ字風に書きこんでいる。電話先登録もアルファベットでやっている。だから、日本語で書くより、英語やインドネシア語の方が便利である。お爺ちゃんと寝たいといっていた下の子、20:00頃に私の蒲団に入ったら直ぐに眠ってしまった。寒いはずです、今朝の庭一面の霜柱、30mmくらいの高さになっていた。明け方は零度以下だったという証拠でしょう。感激 それほどでも マニュアル車
2012.12.12
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1426 機内のガラ空きは私にとって、いつものように都合が良かった。32が一番の後部座席、31に席を取った。窓際が皆さん好きなようで、二人並んで座っている人が多い、私には理解できない。真夜中のフライトでは外の景色は無いし、良くわからない。そういう人が多いから、私はゆっくり眠っていられる。 11:30頃には、家に着いたが、待っていたのは、孫の幼稚園への迎え、そのすぐ後、その子をピアノ教室へ送り、家に一旦、帰った時の上の子が、学校から帰ってきて、自転車の空気が抜けてしまったから、直しに行ってほしいというので、近所の自転車屋へ持って行って、修理をしてもらった。空気が少ない状態で、使っていると、ゴムチューブの一番弱い部分がすり減って薄くなり、亀裂が出来てしまうからタイヤがへこんできたら、空気を足さなければだめだと言われてしまった。 彼女が直った自転車で家に帰るのに走って付いて帰って、つぎはまた、下の子をピアノ教室へ迎えに行った。それで終わりでは無い、妻の染物趣味がこうじて、その生地を使った和服を呉服屋に作って貰ったとか、その呉服屋へ最終チェックに行きたいから、送ってくれとか、土曜日の学校の何とか教室で使う、教材の仕入れに付き合ってほしいとか、18:00過ぎまで付き合わされた。その間をぬって、自分の買い物、日本の冬での必需品、メンソレータムと目薬を仕入れた。メンソレータムはインドネシアのオバット カユ プティーに匂いがそっくり、それはどうでもいいが、両足の湿疹の防止にこれが無ければならない。目薬は、インドネシアにいても年のせいか目の乾きが気になるが、日本の乾燥時期には、目が痛くなるほどだ、どうしても目の潤いを薬で補わなければならない。挙句に、上の子の宿題の手伝いや風呂に一緒に入ることまでやらされた。たっぷり21:00まで掛ってやっと終わり、寝かせたのが、21:20。 外出も多かったが、走り回ることも多かった。疲れよりも寒さが答える。家の寒暖計は4度だった、名古屋、米原などは、積雪を記録したとか。 とにかく、日本での生活が始まった。 静岡市の北部に向かう時の安倍川橋を東に向かう、その向こうに雪冠を頂いた富士山がくっきり見えていた。日本だ。 寒! きつ! 耐え! 昨日の花は火炎樹の花です。直径は5Cmくらい、こういう花が、桜の花のように一杯なっていて、木全体が真っ赤になっているのです
2012.12.11
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1425 インドネシア最終日、昨日と今日、ゴルフ。暑い場所でのゴルフは一カ月ほどお預けである。間もなく待合室の入る、23;30発ガルーダインドネシアである。19:00にBIISの会社からタクシーで出発、日曜日の夜なので、渋滞はなく、1時間半以下で空港に着いた。かなりの余裕である。四月からフリーになって、インドネシアに大体、一カ月ギリギリの滞在を三回繰り返した。その間、インドネシアのまだ行ったことがない場所を主に数カ所、旅をした。住んでいる場所が、チカランだし、短期滞在がギリギリだったこともあって、出国時のイミグレで、多少、怪しまれたようだが、旅の話をし、日本人にその場所を紹介している、という話をすると、納得してくれた。事実、仕事は全くといって良いほど、していなかった。確実のインドネシアをエンジョイしていた。その間に、会社に申請中だった製造業の認可が下りた。私のワーキングビザの申請もして、三回目短期滞在期限が切れる寸前にシンガポールでビザを収得してきた。なお、日本からの押出機や引取機の入荷が遅れていたので、会社から給料をもらわずに、旅を続けていた。9月になって装置が肺いてきてから出社して、装置が使えるように準備を始めた。9月末頃から真面目に7時ごろ出勤するようになった。それが、今の場所での仕事の始まりでした。インドネシアでの仕事始めは、分かっているが、順調に進むことはない。それに、できるだけ節約しなければならないので、自分たちで装置をセッティングする必要があって、思ったほどの結果が出なかったり、条件が合わなかったりで、手直しや追加があって、物作りの前の条件出しに時間がかかってしまった。例えば、引取機の速度範囲が原過ぎて、低速にするとばらつきが出ていまい、一定速度で引っ張れない、スプロケットのサイズを交換し、最低速度を遅くすることもした。という事で、私がインドネシアにいる間にPOを受け取るまでには行かなかった。ただ、私がいなくても年内にPOを受け取ることが出来る可能性が大きくなった。間もなく、日本へ出発である。朝、通るチカランバラット出口の高架道から東の空を望む、昨日と今日である。この花は何の花?無事 希望 エンジョイ
2012.12.10
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1424 私がいなくなるぎりぎりまで、試作を続けて、二種類の製品を完成させた。ジャバベカのS社とEJIPのT社である。両方とも、客先には二カ月の納期を貰っていたが、私の都合で、一月半で仕上げた。いずれも何社かでトライをしたが出来なかった物です。一応、ほっとした。私がいない時のことはHENI君に任せる旨、関係者に伝えた。修正が必要なら出来るし、原料や資材の手配も彼が一手に引き受ける。その他に二種類のPSエラストマーのプルファイルの見積もりをMM2100のM社に提出してある。金型手配のPOが入れば、その手配も出来る。一カ月のご無沙汰です。完成した試作品、色に着いても変色はしない。EJIP東芝の新しい洗濯機の設計にあたった若者の一人、H君と食事をした。私のサポーターである。10年ほど前から、私を手伝っている。K社時代に私の直接の部下では無かったが、図面書きは彼に頼んでいた。彼はK社を止めてその後、二社で勤務し、今は、設計者が大勢必要になった東芝に引き抜かれたかたちで、勤務をしている。私が何社かを移動している間も、必要なら彼と外で会った図面書きを頼んでいた。N社の日本本社に勤務中、新製品を作る時には彼に図面を書いてもらっていた。今回もある新規製品の金型の構想が纏まったので、彼を呼び出して、その装置の図面を依頼した。彼に取ってはサイドビジネスです。持ちつ持たれつの関係が続いている。彼に考えてもらう事も多い。設計図面書きばかりではなく、色々な専門職を見に付けている人は、給料の高い会社があればいつでも移ろうとする傾向がある。今頃、多くの外国企業がインドネシアに進出しようとしているし、インドネシア国内向けの新商品を売り出そうとしている。その物を作るのは進出してきた会社の外国人だが、その補佐をするスタッフが必要だ、今やそういう人達は最近の最低賃金の40%アップなどという事は全く別の世界で、移動する度にそのくらいのアップにはなっているので、どんどん、移動する。お互いに同じ会社に落ち着いていないが、渡り歩いている会社にいる図面書きよりもずっと押出に関する図面書きを手伝ってくれている彼を貴重な存在として付き合っている。昨日のバナナを買った、通りがかりの)果物専門店。目立った店です。応援 相互 専門
2012.12.09
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1423 2007年5月からですから、ウェブサイト、5年6か月、1日平均45回になる。それにしても、この間、私としては、大きな障害も無く。旅や仕事に関して、内容を増やし続けることが出来たことと、無事にグログを書き続けることが出来たことを、ラッキーだと思っている。そして、毎日、何人かの人がアクセスしてくれていたことも、私に励みになっていたし、少しは皆さんの時間つぶしに役立っているのかなと思う。http://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/http://otaenplaext.net/newpage0.htmlインドネシアでの今年の仕事は終わった。仕事に関しては不完全燃焼だった。インドネシアに4月辺りから来ていたが、係わってくれた人々のお役に立てなかった。理由は色々あったが、全て、私の動きが適切でなかった、というより、打つ手が後手だったことが多かった。若いころと比べると、読み違いが多くなったし探究力が浅くなっていることを感じる。昔から、いい加減に、これでいいやとやっていて、それでも辺りが多かったが、この頃ははずれが多くなったような気がする。今回の原料も色サンプルを渡して、これと同じ色の原料を作ってほしいと2種類、頼んだ。届いた時に直ぐ、中身を確かめればよかったが、色に着いて信じていたので、確認せずに受け取った。それから1週間ほどして試作をしようと袋を開けたら、全然違う色だった。その色については、そううるさくないので、サンプルを作って提出するだけなら問題はなかった。もう一つの色については、どうしても、色がほとんど同じものを提出しなければならなかったので、どうしようもなく、納期が遅れてしまった。再び、教訓、信じてはいけない、必ず、直ぐに確認すること、分かっていたが、しなかった。以前の私なら確認していた。それにしても、色サンプルを渡してあるに違った色のものを持ってきて~~。担当者も確認していないのか、これでいいやと思ったのか、インドネシアらしいと言えば、その通りだと思う。とにかく、今年のインドネシアでの仕事は終わったのだから、私がいない間はヘニー君に任せて、大丈夫の筈である。アプはヘニー君にと、頼んだ。ヘニー君では困ったことがあれば、私に連絡するように言っておいた。私がいない間に、今までの試作品が量産になれば良いなと思う。ど寒い、日本へ行くのは覚悟が必要。年を取ると、寒いの、暑いの、耐えがたくなる。インドネシアの気温は年寄りにとっては年中快適である。立派なバナナ、いくらだと思いますか。これで、120円くらいです。交通警察に呼びとめられて免許証と車検証のチェックをされようとしているところ、免許証は20万Rpくらい払えば買えるが、罰金は一回、5万Rpです。捕まるのは運が悪いと考え、免許を買わないでいる人の方が多い。一説によると、バイクの台数の半分の数しか免許証を発行されていないそうです。師走 帰国 寒さ
2012.12.08
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1422 始めてインドネシアへ来た時に、感じたことだが、目的地のすぐ前まで来ているのに、眺めながら通り過ぎ、運転手にどこまで行くの?と聞いた、もう少し先のUターン場所まで、という、なかなか、Uターン場所が見えない、2kmほど行ったところでやっとUターン出来た。この無駄な走りは、燃料の無駄使いは、国家的に見れば膨大な損失になると思った。それが、もっとひどくなっている。インドネシアの街中は信号が非常に少ない、交差点も非常に少ない、そして、中央分離帯があって右折やUターンは決まったところでしかできない。ある日突然、今まで右折できたりUターン出来たりした場所が閉じられて出来なくなる。そうなると、もっと遠くの場所まで行かなければならない、その場所もまた閉じられると、もっともっと遠回りをしなければならなくなる。気の毒なのは店や食堂である。 開店当初は店の前に、中央分離帯が切られた場所があって、そこで、反対車線からも客が来ることが出来たし、帰る客も反対車線に出ることが出来て便利で繁盛していても、その場所が閉じられて、客は遠回りして入らなければならないし、帰る客も遠回りしなければならない、その遠回り場所も閉じられて、もっと、遠回りしなければならなくなり、ついに客がいなくなる。ショッピングモールは悲惨である。チカランのカルフールやCTC(チカラン トレーディング センター)は、まだ頑張っているが、閉じるのは時間の問題だ。客がいない。とにかくリッポチカランのイジップとモールが分かれる交差点から、チカランバラットの高速道路入り口まで右折、Uターンを出来る場所がない。もっとひどいのは、リッポモールの方からはそのリッポチカランのイジップとモールが分かれる交差点も右折できずにイジップに入って暫く行ってUターンし、その交差点に戻ってきて、初めて高速の一口に向かう事が出来る。典型的な場所がジャバベカ2にもある。コタ チカランやジャバベカ1方面からから南下してチカランバラットインターに向かう時、ジャバベカ2に入る三差路は最初は直進できたが今はジャバベカ2の方へ右折します。直ぐにロータリーがあってそこでUターンするように、三差路に戻れた、それもできなくなり、ロータリーを三分の二回ったところで右折しなければならなくなった。次にほてるズリを過ぎたところでUターン場所がって、そこでUターンできた、そこも、今は、バイクだけしかUターン出来なくなった、今はそこから、また、500くらい行ったところ、マテルの手前まで行ってやっとUターン出来る、そこから、来た道の反対車線を通って、先ほどの三差路へ戻って、右折し、インター方位に向かう事が出来る。やっと、振り出しに戻ったという感じ。相当な遠回りをさせられる。始めてに人は、どんどん、目的地から遠くに行かされるので、不安が多くなるでしょう。もう、もとのところへ戻れないのではないかと思うでしょう。近い将来、もっと遠くのマテルの前を通り過ぎて、ハラパン クルアルガ病院の四差路まで行かないとUターン出来なくなるのではないかと予想する。とにかく、どんどん、年々、遠回りが遠くなる。“お家が、段々遠くなる~~~”である。よっぽど、そこにしかないというものを売らなければ、店は持たない。閉店してしまった店が沢山あるし、ルコも空き家が多い。同じ日の同じ場所、チカランバラットインター入口付近。放水車と装甲車など警察の車がデモ隊の侵入を阻止するための警戒をしていた。午前中と夕方、スコールに因る、急性洪水現象である。私は高速道路に入るのではなく、右側からUターンして反対車線に入って、戻る方向へ行きます。イジップからここまで来ないとUターン出来ない。 損失 Uターン 遠くなる
2012.12.07
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1421 MM2100からの帰り、チカランバラット出口の渋滞があまりにもひどいので、デルタマスまで行って戻るか、カリマランを使うか迷いながらデルタマスまで行ってみた。久しぶりだったので、この変貌ぶりは知らなかった。チカランプサット(チカラン中央)という名前のデルタマスのインターが、チカランティムールに変わった。多分もうすぐ使えるようになるインターチェンジの名前をチカランプサットにするのだと思う。そのデルタマスを出て直ぐの信号を右に曲がると、以前は突き当たりになっていて右へしか曲がれなかった、それを道なりに行くと高速の陸橋を超えてカリマラン道にでて西に行けばジャバベカ東に行けばカラワン方面である。それはそれで今もある。ところが、今は、以前付き当たりだった所から真っすぐ(暫く行くと曲がりくねるが)西に向かう広~い道が貫通していて、その道はデルタシリコン5に繋がっている。という事は、高速道路を使う必要が無くなっているのです。逆にイジップやヒュンダイから東に向かうにはその道を通ってデルタマスで高速に乗ればいいのです。 また、間もなく開通する新しいインターチェンジはその道の途中からアクセスしているのだから、色々な道の選び方が出来るようになる。また、新しいインターのすぐ横に高速道路を超えてジャバベカ2の工業団地やチカランバルと言われている進行住宅や商業エリアに繋がる。その新しい高速道路でジャバベカ方面に出れば、ジャバベカゴルフ方向へ真っすぐ広い道路を造成中だ。私たちチカランンへ住んでいる者もジャカルタ方面に住んでいる者もゴルフ場へ向かう道を選択することが出来るようになる。チカランバラットをジャカルタ方面から出る時には、高速道路上まで三キロメートル以上続く渋滞は、それも、ずっと、競り合いをしなければならない。もう、うんざりである。運よく、その渋滞が無い時の喜びは知らない人にはわからないし、自分で運転しない人にはわからないほどだ。新しいインターが来年早々には使えるようになるでしょう。そうなれば、チカランバラットを使わなくなる車が増えて、利用しやすくなるでしょう。どうするのでしょうか、今の道の状態では、デルタマスの工業団地だけが取り残されてしまう感じがする。勿論、誘致するにはそれなりの対策が計画されていることを説明するでしょうが、ここ数年の間にアクセス道路が新しくできるとか、今のインターの拡張をするなどとい話は聞いていない。 金型を新規に作らされた硬質PVCのパイプの試作が終わった。しかし、この製品も客先がパイプをはめ込むインジェクション部品をよこさない上に、寸法をチェックしてあるのか、と聞いても、図面道理に出来ているというだけで、チェックしようとしない。こういうお客さんを相手にすると疲れが増す。何とか、言う事を聞いてよという感じになる。 開発 便利 丘陵地帯
2012.12.06
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1420 インドネシアの今年は残り6日になった。今週の日曜日の夜のフライトで日本に戻る。ところがまだ、試作品が完全な姿になっていない。もう少し、あと一歩というところだが、金型の修正がまだ続いている。この製品については、何年越しでしょうか、一旦作ったものいが、二回に渡って、あきらめてしまった、曰くつきの製品です。名前はウウェートバー、巻き上げ式のブラインドの巻き上げる芯の役目と垂れ下がった時の重りの役目をする。一回目も二回目も製品の形状は完全に出来上がっていたが、色の問題であきらめてしまった。二回目は押出機がPVCに適さないので、少し継続して流していると焼けてきて黄色みがかってしまう。それを解決するには、スクリュータイプを替える必要があったが、そこまで会社はしなかった。一回目は原料をABSで押したことも重さでも色でも納得してもらえなかった、というより、日本のサプライアー(今も作っている会社)との担当者の関係で、切ることが出来なかった。値段より義理的、政治的な力が働いてインドネシア現地調達を見送るように指令が来たという理由が正しいと思う。http://island.geocities.jp/enpla_indonesia/newpage0221.htmlここ、二三年前から、は、そんなことを言っていられない価格状況になってきていて、現地調達を進めようという方針に変わったようだ。私が今回、再び装置を整える時にこのことを考慮して押出機を選んだので、焼けの心配は無くなっていたので、形状の完全化を目指すだけだった。今度こそという意識で取り組んでいる。私にしか分からない意識である。もう一つデザインが大幅に変わった製品の金型が出来あがってきた。引取機の速度範囲を替えるための解体とセッティングもしなければならない。インフルエンザに掛っている人が周囲に多くなっている。ほとんど全員がのどの痛みを訴えている。声が超ハシキーになったり、ガラガラ声になったりしている。それも、一週間以上長引いている人がいる。季節の変わり目?乾季から雨季に変わる時には風っぴきが多くなる、インドネシア人はほとんどの人がそういう。日本人からすれば気温の差はほとんど感じないが、風を引く人が多くなるのが面白い、体は気温の変化に着いていかないのに気がつかないでいるからだと思いう。私は移されないように気を引き締めている、帰国前に風を引いたのでは間が抜けているとういうものでしょう。 今度は 背水 難しい
2012.12.05
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1419 ヘニー君、私の後を付きまとってきている青年である。K社、A社、ではその他大勢の中の一人として、他にも、インドネシアの初期からの私に弟子のような子はいなので、その中では、後から入ってきた人間なので、弟子の弟子という感じだった。N社の時に三交代へ入らずに昼間の仕事で、遊撃隊のような仕事をしていた。休んだ人がいたら、その補充として、また、急に忙しい仕事があったらその手伝いに、という、いわば、何にも真面目に快く手伝ってくれる存在だった。偶々、私が或る会社の製品のトライをしていた時に、呼んでいないのに、私の手伝いに来ていた。他に仕事が無かったのでしょう。彼に仕事を与えるのは私の管轄外だった。難しい仕事で、何度も何度も修正したが、なかなか、うまくできなかった。毎日、頭を抱えながら仕事をしている時に、他の場所での仕事が一段落したのかどうか、私の傍に来ていて何かと手伝いたがっていた。その内に次第に私が試作をする時には助手のような存在になっている。幾つかの新しい仕事を彼と一緒に完成させるようになっていた。マクタという会社にいなかったので、N社には正規社員としてではなく、暫く遅れて契約社員として働いていたが、契約期間が終了しようとしていた時に、私は何とか正社員にと進言したが、会社の方針が契約社員は増やさない、という事にあってしまって、本採用にはなれなかった。彼は、落胆して、一旦、東ジャワの田舎に帰ってしまった。ところが、私が、別にお場所で仕事をすることを聞きつけた彼は、再びチビトゥンにやってきて、私が始めるのを待っていた。N社の私の弟子たち社員には、今度は絶対止めて私のところへ来ては駄目だ。もし、止めてしまっても私は採用しないと言い渡しておいた。だから、誰も止めてしまうものはいない。ただし、そのヘニー君は正社員では無かったし、首になったようなものだし、私が始める前に田舎へ帰ってしまった人物いだから、私を頼ってくることは自然だし、私も一緒に仕事をしても楽ことに何らの後ろめたさも無い。むしろ、ぜひ、若に後継者として育てたいと思って、来てもらった。現在、二つの新規アイテムに関して試作をしているが、彼が一人でやっている。私が指導をしているが、実際に修正するには彼である。私の仕事は、それぞれの慣性でするのだから、私がこうした方がいいよといっても、彼は承知せずに自分の考えでやることが多くなった。私の望み通りになってきた。N社時代から2年間くらい私に付きまとっていたが、ここへきて、任せられるようになってきた。将来、この会社の押出し部門を仕切ることに慣れでしょう。花と動物 名前や種類は私には、分からない。近い 任せる 自主的
2012.12.04
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1418 PT.PARAMOUNT BEDの来年のカレンダーが出来てきた。十何年も前から、卓上タイプでデザインは全く変化はない。デジカメで写真を取り出してからだから10年ほど前から、当時の坂本社長にその年の写真を提供してきた。私と同じ年生まれでゴルフも一緒に回る機会も多かったし、何よりも、サイドバンパーという難しいPP炭酸カルシウム30%のプロファイルの現地調達の相談を受け、何とか以来の答えることが出来てほっとしたころでした。そういう間柄でしたから、完全無償、ただ、出来上がったら、私に希望の部数を分けれ貰うという口約束だけでした。そこで、毎年、15~20部貰う事にしている。2013年のカレンダーは15部いただいた。私の写真が9カ月で使われていた。2012年は10カ月でした。写真は私が気に入っている物と採用審査を社内の日本人数人で選んだものがほとんど一致しているので、私の美意識感覚は、良いとこ、いっているなと思う。来年の写真の中で11月、私に誕生付きにルンバープトゥリから見下ろして撮ったパンガンダランの半島(チャガールアラム)と東海岸一帯の写真が使われている。この風景は何度も取っているので同じ写真ではないが、私のウェブサイトの表紙使っているほど私が気に入っている写真、風景です。こんな景色はインドネシア広し、といえどもここだけである。始めて一緒に行く人は必ずパンガンダランへ入る前にここへ立ち寄って全貌を眺めてもらう事にしている。“あそこのジャングルに中にブンガ バンカイガ(BUNGA BANGKAI)が咲いていると。http://otaenplaext.net/newpage0.htmlhttp://www.k4.dion.ne.jp/~enplaind/newpage036.htmlところで、何といっても私が一番、魅力を案じているブンガ バンカイ(ラフレシ パトマ)の写真を百枚以上提供しているが使ってもらえない。当然です。このカレンダーのほとんどは、インドネシア国内の病院や介護施設に起きる物です。施設長や病院長のデスクに置かれるのですから、その中に“動物の死骸の花”の写真は流石にまずいでしょう。ということで、非常に貴重な世界中にパンガンダランにしかない花(ボゴール植物園などに咲き花は移植したものです)と言えども、使ってくださいとお願いするわけにいかない。 ですから、このカレンダーはインドネシアにある病院や介護施設に贈るのが目的で作られていますから、日本人が手に入れることが出来るのはごく限られた関係者だけです。日本のパラマウントベッド関係者も手に入れることはできません。祭日はインドネシアの物になっているし、日本の祭日は乗せられていません。私は日本に住むインドネシア人に贈ります。大変喜ばれる。http://nanbuindonesia.web.fc2.com/page238.htmlhttp://otaenplaext.net/newpage33.htmlテビーベアーぬいぐるみその他の縫いぐるみの製造会社、ジャバベカのマテルが撤退するという噂がある。マンモス会社である、もし、撤退という事になれば、各方面への悪い影響は多大である。また、日本食スーパー、カモメが閉じた、二三か月前から、そういう、噂があった。売る商品が極端に少なくなっていたらしい、もう一か所、一番老舗のコスモも品が少なくなっていることから、閉じるのではないかという噂が消えていない。回想するために仕入れを控えているらしいという人もいるが定かではない、ただ、普通の状態では無いことは、確かのようだ、日本からの輸入の手続きが色々な意味で難しくなっているとも言われている。これは、一般の会社も同じことで、以前のようにスムーズにはいかなくなっている。フォトPHOTO写真 グラティスGratis只 プアスpuas満足
2012.12.03
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1417 大統領、副大統領、大統領の息子、三人そろって、緑を保護しましょう、増やしましょうと、テレブキャンペーンを流している。全てのテレビ局で見ることが出来る。高速道路沿いにも大きな看板で緑化運動の宣伝をしている。木を植えましょう、増やしましょう。そうすれば、空気がきれいになりますと。 そうじゃなくて、インドネシアはゴミを無くす方が先でしょ。ゴミを視界から無くす運動を代々の大統領、一人としてやったという記憶いはない。緑を増やすには木や花を植えればいい、それが、枯れないように保護をすればいい、法律で伐採禁止の森を増やせばいい、レンジャーの取り締まりを強化すればいい。法律で縛ればある程度の効果は上がる、それもできるとは思えないが。前にも書いたが、ジャカルタやスラバヤのような大都市ではどうにもならないでしょうから、どこかの人口二三万人の小規模都市で実験的にゴミがゼロになるように、モデル都市に指定し、ゴミを無くすにはどうしたらいいか実験したらいいと思う。ゴミの集積所を作ったり、収集車を増やしたり、焼却場の規模を大きくしたり、監視員を増やしたり、その後はリサイクル施設を作ったり、場合によってはISO9000を習得できるように指導を受けたらいいと思う。結局は市民のモラル、意識の問題だから、イスラム教会主導で模範を示したらいい。宣教師自身がゴミを捨てまくっているような社会ではどうしようもないでしょ。マスジッドから“サンパー コソン キャンペーン”をしたらいいと思うが、出来ないでしょうね。セントラ グロシール チカラン(通称SGC、エスゲーセー)コタ チカランの中心的存在。ジャカルタから東に向かう国道沿いの都市です。リッポリカランが開ける前はチカランと言えばこちらでしたが、今では、ここまで来る外国人は非常に少ない。私は偶にジャラン トールを使わないで、チカラン、ジャバデカを通ってリッポチカランに戻ることがある。 コタ チカランまでの道沿いでバイクの違反取り締まりに向かう白バイ。 的外れ ゴミ キャンペーン
2012.12.02
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1416 インドネシアの学校では、地図に関して何も教えていないと思う。というのも、今日、会社の事務の上の方の人にある買い物をしたいので、場所を教えてと頼んだ。私の手元に来たのは店の名前と電話とFAXの番号だけだった。自分で電話をして聞けというのでしょうか。どの辺りか、聞いたら、直ぐ近くだという。それじゃ分からない、地図を描いてくれ、と頼んだが、描こうとしない、もう一度、どの辺り?と聞くと、ガソリンスタンドの近くだという、ガソリンスタンドはここから5分も走れば5カ所あるでしょう、どこのガソリンスタンド?説明に困っている。一番有名なEJIPとモールの四差路から説明すればいいのに、どうしようか、といいながら、会社の前から地図を描こうとする。そのあたりは良いから、ガソリンスタンドの近くから書いてくれと頼んだが、これもだめ、結局、私が、その一番大きな四差路から、周りの地図を描き始めた、そうだ、高速の一口の方だという。そうか、その交差点から直ぐのところにガソリンスタンドがあるね、と言ったら、そうです、そこの手前出す。やっと、分かった。この辺りの地図を描いて目的地を示すことが出来ないのです。地図と言えば、結婚式会場までの地図のでたらめなこと、16年前も今もでたらめさは同じである。親も関係者もそれでいいと思っているのでしょう。先祖代々でたらめな地図で、目的地に到着しているのでそれでいいと思っている。距離が示されていない、地図上の距離は道の長さで見るのだがでたらめ、1kmと5kmも同じ長さだったり、10mが同じ長さだったりする。道の広さもでたらめ、車が通れないバイクしか通れない道幅が一般国道と同じに書いてある。一般の民家でやることが多いが、駐車場の案内が無い。同じ日のそのあたりで結婚式が何カ所かある場合は本当に困る。いちいち、この辺りと思われるところで、通りがかりの人に聞かなければならない。それがまた、全く、頼りにならない。その地図を見せても、全く、地図を読めない。ん~~~ん、もういい!!という事になる。旅をしていて、目的地に近いはずだが、目的地が見つからない時、そのあたりの人に一応、本屋で買った、まともだと思われる地図と高校の地理で使う地図、教科書見せながら、目的地を指して、ここへ、行きたいが、今、どのあたりか、教えて、と頼む。彼らが今いる場所が地図上のどこかを示すことが出来る人は一人もいなかった。ん~~~ん、もういい!!!カーナビを搭載しているタクシーに乗った時には、感激した。あるんだー、と思った。ところが、変、海岸の道を走っているのに海が無い。橋の上を通過しているのに川も橋も無い、どうなっているの?運転手、何も気にしていないで、これがカーナビゲーションだと自慢げだった。 MM2100と高速道路を挟んで反対側のチビトゥンへ行くつもりが、寸前で考え事をしてしまい通過してしまった。次の出口タンブンまで行って戻るしかない、コノタンブンはグランド ウィサタという新興住宅地のために作られたようなもの、広い工業団地が造成されていないインターは少ない。日本人、韓国人も多少住んでいるようだが、いわゆる彼らが楽しめる場所はここには無い。ここからジャラン カリマランを通って目的の会社へ着いたのが約束より15分遅れてしまった。 困惑 でたらめ いい加減
2012.12.01
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