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篠笛を練習し始めて 早一か月。基本毎日コツコツ吹いてたら、やっと 竹の音が聞こえてくるようになりました。ほんの少しの笛の角度や 唇の形 吹き込み加減で音が出たり出なくなったりするのも、少しは慣れてきましたが まだまだ吹ける音域も限られているので、少しづつ進めていきたいものです。 そろそろ次のレッスンを受けたいですね。さて 先日 友人からオランダハーグ美術展のチケットをいただき、せっかくの機会ですので行ってきました。実は 絵を見に行くなんて 20年前の旅人時代に行ったマドリードのプラド美術館以来なのですが、その時は絵のパワーのせいなのか、単なる旅の疲れなのか 調子が悪くなってしまい途中退場してしまったのです。ということで それい以降はずっと美術館は無意識に避けていたわけですが、いやはや 今回は実に楽しかったです・・・もっと正確にいうなら 絵のことは知識どころか全く分からないのですが、その分 絵に対峙したときに感じる瞬間、瞬間の自身の揺らぎみたいものを見出しました。この感覚というのがとても新鮮で 調子にのってまた足を運んで 自分が何を感じるのか・・・とても興味深いです。でも 絵のエネルギーは予想以上に強いようで、奥さんと二人で 帰りはやはり疲労困憊でした、きっと 絵を見るペースというものが本来あって、僕には まだ それが見えてないのですね・・・そもそも 画家が全身全霊で書いたもが 長い時間と場所を超えて目の前に置かれているわけですから、対峙するには当然こちらもエネルギーが必要なのかもしれませんある意味 コンサートを見ているのと相似するのでしょうか?
2014.05.08
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今日は 素晴らしいフラメンコに立ち会う事が出来た。とても当たり前のことなのだけど そこに行かなければ得られない瞬間。こういう時間を過ごした後は その舞台を見る前の自分(もしくは世界)と今の自分が間違いなく変化してくる事に気づかされる。情報が流通いている今の生活で 画像を利用すれば様々な技術は分析できるだろうし、それも重要なことかもしれないけど、もし仮に今日見たステージを画像で見たとして、、僕には 彼女たちの奥底から湧き出るフラメンコのエネルギーをくみ取るだけの受信能力はないだろうし 今後も無理だと思う。観たいと心から思ったらいろんな事情を出来るだけクリアしてやはり足を運ぶしかないのだ・・・フラメンコにはもちろん様々(人の数だけ?)スタイルがあるのだけど、そんな中で パストーラ・ガルバン(セビージャ)とメルセデス・ルイス(へレス)の二人の進化には言葉を失った、場所は違えど豊饒なフラメンコの地に生きる同世代の二人でコンクール受賞などもあり 僕が住んでいた当時からその舞台には足を運んでいた。パストーラは マエストロ「ホセガルバン」の娘であり 鬼才?「イスラエル」の妹、それが彼女のスタイルにどのような作用を起こさせるのか僕には判断できないが、伝統的な踊りを そのセビージャにしかない空気感と絶対的なコンパスを根底にしつつ、現代に生きる自分のスタイルへと見事に昇華していた。(他者が真似したら たぶん気が狂った?とか 不作法とか勘違いされる ぎりぎりの世界感だと思う そしてそうさせないのが彼女の凄いところだと個人的には感じていますし、実際ぼくは幸せの境地だった・・)一方メルセは スタイルそのものを変化させているのではなく、自分の生まれた土地から得ているものに素直に感謝しつつも、そこで胡坐をかくのではなく、自分の持っているひとつひとの事を じっくりと丁寧に深部の深部まで向き合って、そこから自分のやり方で再構築した人にしか出てこない質の踊り、佇まいそして呼吸のようにに感じた。そして そういうのは衝撃的ではないのだけど 実に心の深い部分にじわじわと伝わってくる(実際 僕は最後には感動で言葉が出なかった・・・)その人自身を純粋に映し出してくれるフラメンコ、 今日 その瞬間に立ち会えたことを心から感謝したい。
2014.05.04
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