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れいめい塾のブログを拝見したら伊勢でなかがわゼミの中川先生と会われた帰りに松阪高校の資料をうちに届けていただいたらしい。ポストか?と覗いてみるもなし。中学生がみんな帰った後でパソコンデスクの横に置いてあるのを発見。中山先生、ありがとうございました。今年、うちから松阪高校を受ける生徒はひとり。そして、完全な横綱相撲。三進連県3位が落ちたらびっくりする。まぁそれもあって、塾生7人でそれどころじゃないのもあってもうひとつの仕事を優先させたわけです。この中3には、受験勉強という名の余計なことしかさせていない。うん、灘の数学は難しいね・・・。英語は、下手なセンター英語より読みづらい・・・。そして、もうひとりの中3についてはまだまだ勉強以前の問題が片付いていない。中山先生、今のうちで、檄がとぶのは中3ではなく他学年です。
2012.11.21
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古典の重要性を理解していない国立大学志望者は多い。常々、口を酸っぱくして言っている我が塾であってもそれは例外ではない。古典の授業は滞りがちで、何かと言うと他の科目に振り替えられがちだった。ところが、先日から高2のSから授業をやりたいと申し出があり、高2のSが板書解説する形で古典の講義が始まった。しばらく、様子を見守ってみよう。ところで、今年の松阪高校の説明会には忙しくて行けなかった。れいめい塾の中山先生も今年は行かれなかったようだ。さぞかし、静かな説明会であったことと思われる。
2012.11.18
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文化祭で金賞とったからクラスで打ち上げがあるので休みますだと。まあ、大人文化にあこがれるのは子供の習性だ。先生も参加だと。先生、あなたは意見するべき立場じゃないのかな?あんまり早くから大人の遊び方覚えちゃうと大人になる楽しみがなくなっちゃうぞ。せめて、その打ち上げの参加費は自分の小遣いから出そうな。携帯電話に良い印象をもっていないにも関わらず松阪高校から、公衆電話が撤去されたりと大人も時代と大人の都合に流されている。うるさい大人はどこいったんだ?
2012.11.12
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NHKニュース:“教職員定数 5年で1万人削減”案少人数クラスの実施による「クラスサイズ効果」は世の中で期待されているよりも小さいという説がある。これを「クラスサイズパズル」という。この「クラスサイズパズル」を巡っての財務省と文科省の戦いが起こっている。私たちの仕事は、教育政策が混迷すればするほど需要が生まれるとも言えるので、どちらに転んでいただいてもいいのだが、少し感想を述べたい。少人数クラスにすると、ひとりひとりに目が届きやすく、ひとりひとりの発言の機会も増えるという。確かに理論上そうである。しかし、ひとりひとりに目が届くようになれば、指導者の目は上位層、または下位層のどちらかに偏りやすくなる。中々、両方に対して公平に目を向けるというのは難しい。どちらかの層が捨て置かれるという事態も起こりかねない。また、ひとりひとりが気になるようになれば、ひとりひとりにかける時間が増える。ひとりに対して時間をかけて指導している間、他の生徒は放置されているのである。忙しくて質問を後回しにされるのか、熱心に指導しているがゆえに後回しにされるのかの違いは、生徒の質問機会、質問意欲を減らすという点においてはどちらも同じことである。さらに、どれだけ生徒数を減らそうとも、たとえ1対1の指導にしようとも、質問できない生徒はできないものである。それは学習意欲、教育方法云々という問題ではない。結果、少人数にした効果よりも、少人数にしたために起こる競争の欠如の効果のほうが上回るのではないか。しかし、そもそもなぜ教育に「競争」を持ち込まなければならないのか。本来、指導とは「仰ぐ」ものである。自分がその人物から指導を仰ぎたいといういう思いがまず先である。公教育、特に義務教育においては、指導者を選べないというところに、まずジレンマがある。また、学習(鍛錬)とは本来「成績や順位を競う」ものではない。「自身に満足できるか」が大事なのであり、その1つとして「成績や順位に満足できるか」も含まれるというだけである。そういう意味においては、一時期いろいろと物議を醸し出した「順位をつけない」運動会は、私自身は嫌いだが、決して間違いではない。私教育としてはありだろう。私は公教育に携わるものではなく、公教育のなんたるかはよくわからない。私教育は公教育とは違い、自分が正しいと思っているものを、後進に伝えていれば良いからだ。それでも、公私問わず「一歩前の世界を見せる」それが教育の本質だと思う。一歩進めば新たな景色が見える。新たな世界が開ける。山が見えるかもしれない。その山に登ってみたいと生徒が思えば、生徒は自力で歩き始める。
2012.11.03
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