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ごく普通の主婦鮎川早紀は、ある日夫秀行から離婚したいと告げられる。けれど、いきなりの離婚では困るだろうから、離婚するのは、三年後の今日この日。それまでに自分の力で生きていけるように仕事を見つけて、準備をしておくことを約束することになる。 ぐうたらで、家事が嫌い。毎日の食事はスーパーの惣菜。片付けもろくすっぽしないで昼寝ばかり。夫との関係も冷めていたまさに倦怠期。 けれど早紀は、夫からの離婚宣言で、仕事探しを始め、家事をしっかりやって秀行の離婚の決意を変えさせようと努力する日々。 働き始めた早紀のために秀行も家事を手伝い始め、夫婦関係、家族関係は、修復され、良くなったかに見えた。 それぞれに相手のよいところを見直し、離婚はやめて、これからもやっていこう、と、それぞれが思っていたはずなのに、ちょっとした行き違いから、結局秀行によって離婚届は出されてしまう。本来なら、離婚しても、同じ相手とならすぐに再婚できるのだが、それを知らない二人は、半年待たないと再婚できないと思い込む。そうこうしているうちに、秀行は昔の知り合いの女性と結婚せざるを得なくなってしまう。 早紀もまた、彼女の天性の優しさにほれた裕福な年下の青年実業家にほれられて、結婚する。 前半の、早紀を中心とするごく普通の家庭の暮らしや、主婦の生活描写のリアルさが見事で、パートで働く大変さ、PTA、町内会などのこまごまとした主婦の雑仕事、子育ての日常的な大変さなどがよく描かれていて、共感しながら、読んでいた。二人はそれぞれに努力してお互いの今まで気づかなかったよいところに気づいたり、ぐうたらだった早紀が働いたり、PTA会長をしたりして、自立し始め、それぞれに見直していて、これは、離婚しないで終るだろうなと思っていたら、意外にばっさりと離婚になってしまった。しかも、そのあと、それぞれが別の人間と再婚。 それぞれの努力によって家族を築いていく物語ではなかったらしい。 三年たってもやはり、家事をきちんとやらない全てに大雑把でいい加減な早紀の性格がどうしても我慢できなかった夫秀行。 離婚されたくなくて、必死に家事をこなし、働いていた早紀はけれど、離婚が決まったあと、結局それまで働いていた医院にたいして、一言の断りもなく、姿をくらましてしまう。三年間努力したにもかかわらず、結局早紀の本質は変わっていない。家を出た後、拾ってもらった、義理の姉の霧子の家でハウスキーパーとして働く早紀は相変わらず、家事がいい加減でぐうたらなままだ。 夫の方は、仕方なく結婚した相手のあまりにもきちんとした家事ぶりに最初はなれることができず、つかれてしまうのだが、結局そのまま結婚生活は続く。なんだかんだいいながら、結局、彼は最初ののぞみどおり、家事をきちんとやってくれる妻と結婚したのだ。早紀の人としての優しさに気づいたけれど、やはり、家のことをきちんとしてくれる妻を彼は望んでいたのだろう。けれど、早紀とのことがあって、ある程度相手の大変さを思いやるやさしさをみにつけた秀行は新しい妻に対して以前よりずっと思いやり深く接することも出来るようになっていた。 そして、早紀のほうは、お金持ちなので、家事はやらなくてもいいから、心を和ませてくれる女性を望んでいた実業家と再婚する。早紀のぐうたらぶりは結局3年間の努力によっても変わらなかった。 相手のためにそして自分のために努力するのは大切なことだけれど、結局二人の人間が長い間一緒に暮らしていくには、相手のために頑張れるかよりも、相手の欠点をどこまで許せるかなのだろうか。 この結末を読むとどうやらそういうテーマに落ち着いてしまうようだ。 自分が望む部分を満たしてくれる相手を見つけること。そのうえで、それ以外の部分は許容していくこと。結婚相手はやはりそれなりに、そういう自分の望む条件をよくよく考えた上選ぶべきものなんだろうと思う。 夫が妻に望むのは、家事や家のことをきちんとやってくれる相手なのか、家に帰ったときくつろがせてくれる相手なのか。 妻が夫に望むものも、収入なのか、自分を理解してくれるやさしさなのか。 それにしても、前半のリアルな庶民の生活ぶりを描いていた物語が、後半から、殺人のからんだ、サスペンスストーリーに変化してしまって、読者としては、なんで?という意外な展開だった。 作者は当初は離婚せずに、仲直りしてハッピーエンドのつもりが人気がでて話を引き伸ばしているうちに、話がどんどん予定外の方向に進んで行ってしまったのだろうか。それとも、最初からこの結末が用意されていたのだろうか。 物語としては、面白かったけれど、美人でもないし、頭も良くない、だらけた普通の主婦に二人もイケメンのいい男が寄ってきたり、最後はものすごい金持ち男と再婚しちゃうシンデレラストーリーになってしまった。でも、現実の私たちにそんなことある分けない。離婚された後は、少ない収入にきゅうきゅうしながら、一人で孤独に生きていかなければならないし、子供といっしょだとしても、一人での子育ては大変だし、教育費はとほうもなくかかる。 だから、やっぱり、夫婦仲良く暮らせるように自分なりに自分のすべきことはきちんとして暮らしていくべきだよなあと思う。 それにしても、最初は悪役で登場する性格の悪い女性たちが、物語の進むにつれて、その生い立ちや裏側の部分の描写によって、なぜそんな性格になったのか、こんな行動をとるのか、その人物描写が非常に深くて見事だった。悪役が悪役だけで終らずにもそれぞれのいろんな人物の人生が描かれていたのがすばらしかった。 何年か前にテレビドラマ化されていたけれど、そちらの方は微妙にストーリーが違っていたようだ。
2007年11月28日
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勉強ってのはどうやってするものか。私は何しろ頭が悪かったから、だいたいのものは、紙とか、ノートにそれぞれの前後関係がわかりやすいように整理して書くことで覚えていったものだし、勉強とは、そういうものだと思っていた。 ところが娘の勉強を見ていると、とにかく教科書を読む。これだ。声に出して何度も読む。社会科なんかが特に。最近は学校だか、塾の先生だかも、声に出して何回も読めという。 わたしにしたら、えっそんな非効率な方法っと思う。必要のないつまらない説明とか、回りくどい説明の部分なんかも娘は重要な部分と同じような調子で読むのだ。 そんな方法より、ノートに、もっときれいにまとめて、要らない部分は切り捨てて整理して書いていった方がいいと言うのだけれど、彼女はそんなのは嫌といって頑としてきかない。そして、相変わらず教科書を声を出して読むという勉強法を結局三年間通してしまった。 これで、まあ、成績があがらなければ、さすがに改善するのだろうが、その方法で、それなりに成績をとってきてしまうので、さすがに私はあきらめてこの方法に口出しするのをやめた。 どのブログだったかどうしても思い出せないのだが、先日読んだとあるブログの記事に、アメリカの大統領の話が載っていた。側近は大統領のために必要な情報や資料をレポート化して渡す方式をとっていた。ところが、大統領が変わって次に就任した大統領はこの方法が気に入らなかった。新しく大統領になった人物の場合、レポートのような文字ではなく、側近からの声による報告、つまり、音声型の報告の方が良かったらしいのだ。で、つまり、人間には、文字などの視覚的なものによって情報を頭にとりいれるタイプと、人や講師の声などの音声によって情報を脳に吸収する方が向いている音声聴覚タイプの二つが存在するらしい。 だとすると、わたしは、とにかく一度文字にしてくれたほうが頭に入りやすいので、文字視覚型なんだと思う。一方で、娘の場合、もしかすると、音によって情報を取り入たり、勉強する音声聴覚型なのかもしれない。 昨今塾が増加の一途をたどり、塾で勉強が当たり前の時代だが、その一方で勉強は塾などに頼らずに自学自習、自分で勉強するものだという考え方もまた、ねづよい。自分で参考書を読み、問題集をこなすということだ。しかし、これってつまり、文字視覚型の人間にはいいかもしれないが、音声聴覚型の人間には、塾で講師の説明を聞く、講義をきく、ラジオ講座や、今流行のDVDなんかを買って自宅で見て、勉強するとか、東進ハイスクールのビデオ講義を見て勉強するとか、とにかく、音になってるものを吸収する方法が向いてるのじゃないか。 かつての勉強はあきらかに、文字視覚型の人間の勉強法だったけど、塾やDVDの普及で、今までは、勉強が苦手と思われていた音声聴覚型の人間にも勉強しやすい環境が出来てきたのかもしれない。 だとしたら、このタイプは、家出こつこつ勉強するより、いっそ、週5日塾に通って、ものすごくよくしゃべる講師のなにからなにまで口で説明してくれるような講義を受けて勉強するのが一番能率がいいのかもしれない。 かつて、勉強しながら、深夜のラジオ放送を聞いていた受験生も、塾のない代わりに音声刺激を脳に与えることで音声型の脳を活性化させて、苦手な文字視覚型の勉強をなんとか耐え抜いていたのかもしれない。 最近はやってる「読み語り」も、ある意味、音声聴覚型の子供に物語の楽しさを教える役に立っているかもしれない。文字をおうことは苦痛でしかなかった彼らに、音声によって物語を伝えることが出来たのだとしたら。 今まで、文字視覚型に一方的に有利だった、受験勉強も、塾やDVDの進出で、音声聴覚型の人間の入り込む余地を作り出したのかもしれない。 さて、自分はどっちだろう考えてみてください。
2007年11月26日
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偏差値のことをぐるぐる考えていた。少しでも偏差値のいい学校へというのがいまどきの流行の考え方だけど、てか、(塾に洗脳されてるだけだが、) 私はそんなことが望みなわけじゃなくて、ただ、子供の能力にみあった学校に行かせたいと思っているだけだ。普通に勉強して普通に合格して、普通に暮らせる学校に入れたいだけだ。 でも、最近の偏差値は変化が激しくて、数字だけ見ても、その数字からその学校の本当のレベルが読み取れない。実際に入ってみると、案外レベルが低いから、と、塾の先生は言うし。でも、入れなくちゃ困るから、あまり高いところは受けさせたくないし。などといろいろ悩むのだ。 いろんな偏差値表があって、偏差値表によっても違うし。都立は内申が入っていての計算なので、私立とは偏差値表が分かれているので、数字が同じでも、レベルが同じとは限らないし。 で、中学受験で有名な偏差値の話にあるのが、 『とある私立がとある有名な塾にやってきて、「うちの学校はこんなに偏差値は低くない。もっと高い数字にしろ。」と文句を付けてきて、偏差値表の自分の学校の数字をかえさせたという話。』 この話にでてくる私立校っていったいどこなんだろう。そして、脅されて偏差値を変えた塾ってどこ。 私としては、塾はあのN研かなーと思うけど。うーん。どうなんだろう。でも、そのクレームをつけにきた私立ってどこだろう。過去のいろんな偏差値表を調べればわかるんだろうか。 でも、実際、一年のうちでも、ころころ変わるのが偏差値表なので、いろんな学校がいろんな理由で数字を乱高下させているのだから、とても、特定できない。 なんてつらつらと考えていたら、これってもしかして、都市伝説?なんてことまで思いついてしまった。どこの塾の話やら、どこの学校の話やら。私がこのての話をネットか受験本で知ってからすでに何年もたっているわけだから、すでにそんなことの意味もなし。 まあ、こんな話が言われるほど、偏差値って当てにならないし、変化が激しいんだよなあ。最近は。 うーん。既に都市伝説にさえなってしまうかもしれない受験の偏差値表ってなんなんだよーーーーーー。あ。私が勝手にいってるだけだった。
2007年11月23日
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平行して見てた、NHK大河ドラマのDVD『新撰組!』と一緒に子供たちも読みまくって、我が家は現在「新撰組」がマイブーム!!!!となっております。長男が言うには、「少女マンガのほうが絵がきれいで読みやすくていい。」だそうです。男の子でも、少年漫画のあの書き込みすぎの黒い汚い画面は不快なんですね。 とりあえず22巻まで読破。でも、娘の期末試験が終るまでは、新刊の23巻は買ってこれないよー。 新撰組のめんめんはほぼ歴史上に実在の人物なんだけど、ただ一人主人公の女の子『神谷清三郎』(女の子名おせいちゃん)だけが、フィクションです。しかも、このおせいちゃん。女なのに、男だらけの新撰組に男装して、男と偽って入り込んでいるという。まずありえない設定なんだけど、なにせ、少女マンガだから、でてくるのが全部男だけだとあまりにストーリーがむさくるしくなって、女の子には売れないだろうとは思うけど。 女の子の感覚で新撰組を見る。 という漫画です。 しかもしかもしかも、この主人公のおせいちゃんがなんとあの剣豪として名高く新撰組の中でも特に人気の沖田総司とラブラブであるという。ありえなーい設定がまたなぜかむちゃくちゃ面白いという。 さらに、当の二人は自覚してないんだけど、とにかく、コミックス何巻にもわたってずーっといちゃいちゃいちゃいちゃしているシーンばっかりだという漫画なんですねー。 状況としては、男同士(本当は違うけど)なんだけど、なにせ時代が時代なので、衆道として、ちゃんと回りは応援してくれちゃうという。今のように同性愛は変体扱いされてなくて江戸時代まではごくふつうの当たり前のこととして、社会的に認識されていたので。この頃は、異性同士も同姓同士も別に問題なかったみたい。さすがに結婚は異性じゃないとなかったみたいだけど。 ただのラブラブのハッピーラブコメに見えるんだけど、でも、沖田さんはあと数年で死んじゃうという史実。で、話が進むと沖田さんが死んじゃうので、物語の方は「金門の変」以来ちーっとも進まないという。でも、読者はそのあたりは知ってるので内心かわいそうではらはらします。 ぜんぜん明治維新の勉強にはならないし、娘は天下分け目の期末試験前だというのに、勉強もしないで、沖田さんとおせいちゃんの世界に埋没してしまっているという。 とにかく、娘は、試験が終ったら、日野市の新撰組資料館とか、高幡不動に行きたいそうで、それだけが楽しみのにわか新撰組ファンなのですね。はたして、いつまでつづくのやら…。 期末試験が終ったら、23巻買いますかね。 それにしても、この漫画の時代考証の精密さはすごいですよ。作者は時代物とか、歴史の勉強とか大きらいというわりに、下手な映画やテレビドラマよりよっぽど見事。 なにしろ女の子が男だけの新撰組にいるという設定で、じゃ女の子独特の生理とかどうするんだろうというあたり。人によっては適当にごまかして済ましてしまうはずの部分なのに、資料を読み漁って当時の生理のときの対処法とか、実に緻密に調べて、無理のない展開になっています。 そのほかにも、花町の細かいルールや、着物の着こなし、街中の公衆トイレまで出てくるという周到ぶり。 へんな時代物のテレビドラマや映画よりよーっぽどためになりますです。 こないだ生理でおなかいたーいといっていたら、息子に「お馬ですか?」とも聞かれてしまいました。なんか沖田さんに心配してもらってるおせいちゃんの気分です。
2007年11月21日
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いまさらながら、娘の高校受験の併願校選びに悩んでいます。 長男の中学受験の時にさんざん「高校受験だといい私立はなくなる」と聞いていながら、いざ高校受験で偏差値表を見ていると「ほんとにないなー高校が」ってことをつくづく実感しています。そうはいっても、下の子まで中学から私立に入れるほどの経済的な余裕はないし、それに、当時の娘を中学受験させても、たいした偏差値は出さなかったでしょう。この子はそんなに出来ないし、(ていうか、たんに普通なだけなんですが) 中学受験は上位生の戦いで、普通の子は無理とわかっていましたから。ところがここにきて、偏差値がうそのように上がり始めたわが娘。(あげてくれた塾には本トーに感謝です。)私は下がるだろうとは思っていたけれど、上がるとは思ってなかったんですよね。だから、いざココに来て上がっても、偏差値の高い私立高校なんて調べてないし。説明会はほぼ終ってるし。ていう以前、ないんですね。ぜんぜん。ちょうどいい中堅のところが。で、このあたりの偏差値の学校って、中学では、ほぼ底辺の偏差値の学校の特進コースばかりです。これだけ、中堅どころの私立校が高校入試をやめているのでは、残った底辺校が特進コースつくるしかないですね。って感じ。 高校受験の偏差値表だけみてると、わかんないんですね。で、中学受験の偏差値表をみると、高校受験では上位よりちょっと下の学校が、中学受験ではほぼ底辺校だったり、低すぎて偏差値表にも載ってなかったり。 うーん。ほんとにこんな学校入れていいのかなと悩み始めてしまいました。そうはいっても、他にないし。それよりちをっと上の学校になると、中学受験ではかなりの難関校だったりする。高校受験では、この間が数ポイントの差でしかないのですが、中学受験ではこのあたりの差が実に20ポイントくらいあったりするのです。 だから、高校受験の難関校は偏差値的に足りてるといっても、その内実は全然違います。実際には、過去問やっても出来ないかもしれない。受けても受からないかもしれない。と、思えるのです。 で、中学受験で低くても、高校でそこそこなら、生徒もそこそこの子がはいってくる、高校受験がメインの学校だったりもするのですから、中学受験の偏差値で考えても仕方ないかなとも思う。 それでも、中学受験の偏差値を気にするのは、既にいる生徒の質とレベルを推し量るためです。 いくら高校がそこそこでも、学校の中のレベルは低いかもしれないし。 高校受験ではそれほど変わらない偏差値の学校が、中学受験では10ポイントくらいの差があったりもします。ちなみに、四谷大塚なんかだと、下の方の世界は偏差値の差がつかないので参考にならないですね。しかたないから、首都圏模試を見てみたり。10ポイントくらいのさがあっても、実際のところ大して変わらないなあと思います。 つくづく偏差値なんて当てにならない。そうはいっても、他にないし。というより、中学受験、高校受験を合併させた偏差値表がないと、たとえ、高校受験だけ、中学受験だけしかしないにしても、私立のその学校の全体での正しい位置がつかめないなあと最近つくづく思います。いっそ自分で作ろうかなあと思うくらい。 で、第一志望の都立は変わらないけど、併願の私立はどうしようかなーと悩むこのごろです。もうおそいよなぁ。
2007年11月20日
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わたしの実家は金魚や小鳥などを売るいわゆるペットショップでした。ウサギやハムスターなんかも売っていました。あれは確か私が小学生か中学生くらいの時。なんとなく、いつものように父とお店にいて、その時にあるおばあさんがやってきて、ウサギを一匹買って行きました。おばあさんが帰った後で私は父に言いました。「お父さん、あのおばあさん、後であのウサギ返しに来るよ。」そのあと夜になって自宅に帰ってきた父が私に言いました。「あのおばあさんが、本当にウサギを返しにきたよ。」 なぜ私がそう言ったのかといえば、とても、やさしそうで気弱そうなおばあさんがかわいくて思わず買ってしまったウサギを家に持ち帰った時、たぶん、その家のお嫁さんが嫌がるだろうなと思ったからなのでした。ペットの世話は大変ですし、ちょっと油断すれば臭くなるし、汚くなるし。おばあさんが買って帰ったおばあさんのウサギとはいえ、結局なんだかんだで、お嫁さんがめんどうを見ることになるでしょう。おばあさんが持ち帰ったウサギを見て、お嫁さんが嫌な顔をする場面が、子供だった私に容易に想像がついてしまったのです。そんなシーンがすーっと頭に浮かんだ私が思わず父にいった言葉だったのです。 そのおばあさんが見るからにしっかりしていたり、きつそうな人であれば、それなりに、お嫁さんと言い合いつつ、そのままウサギを飼ってしまったと思うのですが、その時のおばあさんのやさしそうな風情は、どうにも、お嫁さんにしきられ、おされているだろう雰囲気なのでした。 父がそのウサギを引き取ったのかどうか、私はその時、聞きませんでした。けれど、私から予告されていた通りにもどってきたウサギを、たぶん父は引き取ったろうと思うのです。 私の実家でも、嫁である母と姑である祖母との確執は、もちろんよその家と同じようにありましたし、子供の目からもはっきりわかることでした。 そして、動物を売りながら、その大変さもまた、良くわかってもいたのでしょう。 あのあと、あのウサギはどんな家に買われていったのでしょう。
2007年11月16日
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先日娘の通う公立中学校の開校70周年の記念式典がありました。 私もたまたま役員をしていたので、お手伝いに参加しました。担当はなんと、受付。寒い玄関でドアを開けたまま。受付なのでコートを着るわけにもいかず、ストーブもなく、寒いのを我慢しながらの受付でした。ホッカイロでも付けていけばよかった。時節柄、ストーブを置くほどでもなく、でも、寒さが気にならないほどでもなく、微妙な気温。雨が降らないだけ良かったということでしょうか。 それにしてもね。いつものごとく要するに不満が書きたくて書いてるんですけどね。 私の担当は、地域の他の中学校の校長先生や、元校長先生や、PTA会長、元PTA会長のなんかなんですよ。 で、こられた人の名前をチェックしたら、各個人につけてあるナンバーを確認して後ろにいる人に告げて、既に名前をかいてある記念品を渡すわけです。これが、混乱をさけるために、すべて名前入りなので、その名前のついた記念品を該当の人に渡さないといけない。それを探すのに、ちょっと時間がかかるわけです。 ところが、一人調べている間にすぐ次の人が来て、並びもせずにいきなり自分の名前をいうわけですよ。なにしろ、わざわざ忙しい中来て頂いていて、しかも、全員偉い人たちな、わけなので、待ってくださいとも、きちんと並んで順番を待ってともいえないのですね。 で、一人調べてる途中で次に入り込んできた人も調べて記念品を渡さねばなりません。しかも、こちらは座っているし、もともと人の顔をおぼえるのが大の苦手なので、記念品を渡すときには、誰だかわからなかったりする。そこにさらに次の人が割り込んでいるのでさらに混乱してくる。 そういう状況での受付はとっても大変でした。 どの人もみんな、現校長とか、元校長とか、PTA会長だったりするのに。教育をする立場にいる人たちのこのマナーの悪さは何なのでしょう。これじゃあ、教育の現場が、荒れるのも、悪くなるのも、後輩するのも仕方ないんじゃないの?っと、かなーりむかついた一日でした。なにしろみんな偉い人たちなので、まさに「おれがおれが」の世界なんですね。 列に並ぶという、こういう基本中の基本も、前の人がいたら、ちょっと待つということも誰もしていなかったように思います。みんながみんな、こんなですから、おとなしく待って並んでいたら、ずーっと順番が来ないかも。もっとも、そんなに多い数じゃないし、多少の時差があったので、救われましたけど。 もっとも、一度に全員来たのなら、いくらなんでも、並んでくれたのかなあ。 ちなみに、その時のわが校のPTA会長や式典実行委員長の有能ぶりには、敬服しました。このPTA会長は小学校でも、6年間もPTA会長をこなし、そのまま、わが子と一緒に中学校にきて、中学校でも、PTA会長を引き受けているというすごーい方です。実行委員長の方も、娘の幼稚園で、役員の長をこなし、息子の卒対でも、実務をいろいろとこなした方です。 この人たちあってこその式典でした。娘の学校がそれほど荒れないのも、こんな保護者がいてくれるおかげでしょうね。 ところで、こういう式典はほぼ十年ごとにやっているようです。ゆとり教育で授業時間は削られても、こういうイベントは削らないんですね。ゆとり実施で文部省が一番削りたかったのは、実はこういう部分なんじゃないかと思うんですけどね。教育現場の人たちってぜんぜんわかってないんですよね。 そのたんびに私たち保護者は、お手伝いに借り出されるわけだし。余計なお金は使われるわけだし。しかも、やってくるのは、地域の議員さんたちだったり。こういうことが、政治資金の無駄遣いになってるんですよね。 式典なんて、50周年と100周年くらいでやれば、それで十分だと思うんだけどね。なんで、こんなにしょっちゅうやるのでしょう。しかも、授業時間つぶして。 日本人て、どうしてこういう儀礼的なことがすきなんだろう。何とかしてほしい。
2007年11月14日
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私が渡辺多恵子の『風光る』を借りてきて読んでいたら、なぜか娘がビデオやさんで、NHK大河ドラマの『新撰組!』のDVDを借りてきて見始めまして。横でなんとなくみていたら、だんだん面白くなってきちゃったのでした。 なんせ、近藤勇役が香取慎吾。土方歳三役が 山本耕史で、沖田総司役が藤原竜也。 しかも、脚本がなんと、三谷幸喜。 近藤勇って実際はもっと鼻の穴が目立つ無骨な顔だったみたいだけど、普段はノリの軽い香取慎吾がすごい真剣な顔をして演じているのをずっと見ているとだんだんひきつけられていきました。男らしくて素敵だった。 新撰組っていうのは、昨今なぜか人気があるんだけど、実際には、明治維新の時代に逆行するような集団だったのに、なぜ人気があるのか。あの時代にあの集団のやろうとしていたことや目指していたことはなんだったのか。すこぶる謎だったのです。 明治維新はまず、外国からの船団が日本に来たところから始まります。それまでずっと鎖国していた日本にとって、開国を迫る外人は恐怖の的であり、不愉快な存在であり、日本人のほとんどが追っ払いたいと思っていたし、追っ払おうとしていたわけです。だから、新撰組も後の明治政府になる薩摩や長州も攘夷というわけです。 けれど、それだけではなくて、既に長い江戸幕府の体制の中で生涯自分の身分が変わらない社会体制の息苦しさへの不満から、今の自分たちの身分を乗り越えたい、変えたいと願っていたのもまた、新撰組も、薩摩長州も同じだったわけです。 けれど、何が違っていたかといえば。新撰組は今の自分の身分を脱して、当時の最高位である武士になろうとした。けれど、薩長の場合は、身分の社会構造自体を変えようとしたのです。 この違いが何処で起きたかといえば、薩長の人たちは外国を既に見て、知っていたのです。おしいかな。新撰組が外国に目を向けることにきづいたのは、もう、幕府の負け始めた後だったのでした。 時代を見ることのむずかしさをじっくりと感じたドラマでした。時代をいかに読みきるか。今にあっても大切なことで、でもすごくむずかしいことだと思います。 それとともに、最初は三人くらいだった新撰組がだんだん人数を増やして集団化して形を成していく前半がなかなか面白かったのです。今で言う会社組織にたとえられるというか。近藤局長は社長として、外交交渉や営業をして、会津藩というスポンサーを見つけてくるわけですし、集団の気持ちを引っ張っていくのも、集団をまとめるのもうまいです。そのサブとして、人事部長の土方さんが、新撰組内部の実際の実務をこなしていたり、総務部長にあたる山波さんと一緒に入隊希望者の面接をしていたりするあたりがなかなか面白いんですね。で、沖田さんや、芹沢さんていうのは、剣がうまい。いまでいう、技術部門です。 それで、話が進むと組の規律を守り、まとめるために、隊員の粛清が始まるのですね。もっともはじめに殺されたのがこの芹沢さんです。自分のことばかりで組のことをまるで考えない行動をとるのです。しかし、いまなら、解雇にすればすむのに、この時代はじゃまな人物はどんどん殺されていく。隊の規律を乱しただけでも、切腹ですから。許可なく脱走したり、経理のお金をちょろまかしただけでも、切腹ですから。とーっても、怖いです。いまどきなら、会社辞めるとか、くらいなのにね。 おもしろくドラマは作ってあるけど、実際にはかなり怖い集団だったのだろうなと思います。 ところで、一番初めに殺されちゃう芹沢さんは、いまでいう、技術畑。自分しか見てないんですね。視野がとても、狭い。山波さんや、土方さんは一応、新撰組全体をみて行動しているわけです。新撰組に良かれということを行動基準にしています。けれど、近藤局長はだんだんいろいろ考えるようになり、いろいろな情報をえて、海外の情勢を知るにつれ、新撰組というよりは、日本全体のことを考え始めます。視野の範囲が日本なのですね。芹沢さんより、土方さんより、見ているものが広い。けれど、その近藤さんが負けたのは、やっぱり、日本ではなく、世界を見ていた薩長の方が視野が広かったからなのでしょう。近藤さんは剣の腕はよかったし、人物的にもなかなかなんだけれど、世界を見ていた薩長には、到底勝てなかったのです。明治維新より前に外国に出ていたり、外国のことをよく学んでいた人たちには、到底叶わなかった。 自分を見るか、全体を見るか、日本を見ているか、世界を見ているか。人間のあり方が視野を何処に置くかでこんなに変わる。というこてです。この時代もやはり、情報戦がものを言ったのですね。 とにかくまあ、受験生の娘には、日本史のいい勉強になりました。明治維新のあたりは、人物も事件も多いし、流れも複雑だし。明治維新の人物が顔とイメージと一緒に頭に沸くそうです。で、横で一緒に見てたわたしは…。記憶ないです。全然。勝海舟と、西郷隆盛と、坂本竜馬は覚えたな。 ちなみにわたしは、このドラマでは、山波さんのキャラが一番良かった。
2007年11月11日
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子供たちの受験もだいぶせまってきて、受験生の母の私も気が気じゃない。 こないだは長男の志望校の模試があって、帰ってきた息子は英語が特に出来なかったーといいました。母の気分はますますはらはらです。英語は大学受験の一番の要なのに、六年も進学校にいってるのに、そのあたりがまるでわかってないんですよね。どうしてだろう。その挙句、一年の頃からも毎週のようにやっている英語の単語テストを「あんなもの意味ないよ。」と、言います。結局その場をクリアするために、その場での瞬間暗記で、くぐり抜けて、テスが終れば、ぱーっと忘れちゃうからというのです。「その場でだけ覚えるんじゃなくて、忘れないような勉強の仕方をすればいいでしょ」って言うんだけど、それがどういうことか彼にはわからないらしい。 そんな長男をずーっとみてるので、下の娘の高校受験でも、私立の学校の「面倒見のよさ」なんて売り言葉がどうにもうそ臭く聞こえて、やっぱり下の娘は都立志望です。いまどきの私立高校はどこもみんな、学力別にコースわけしているので、高校名だけきいても、偏差値がわからない。一つの高校で生徒の偏差値は、10くらいはかるく幅があるんですよね。そんな中のとくに、「特進コース」なんかに行かせるしかないんだけど、どうせ、口で言うほど、先生たちに勉強をさせる技量があるとも思えないし、量ばかりやらされたり、やたらむずかしい勉強させられたり、成績が悪いと教え方の下手さを棚に挙げて勉強をしない生徒が悪いといわれそうで、なんだか、いやだなーって思う。もっともこれは私の想像だから、本当はそんなことなくて、よく見てくれるかもしれないし、はいってみないとわからないけれど。でも、まあ、中一の時からの憧れの都立を娘は目指してるわけだしね。 それにしてもね。今はいろいろと便利になってるというか。大学の願書なんかは、もちろん、ネットで業者に申し込むと、あとは、待ってるだけで、自宅に届くんですからね。一応息子が学校からもらってきた、二つくらいの業者のパンフレットがありまして。一つは郵便局なんだけど、昨今郵便局の仕事ぶりをみてるとこわいので、もう一つのテレメールというところに申し込みました。学校でくれたパンフレットに書いてある大学ごとの指定番号を入れるだけですからね。イヤーすごいですね。大学まで買いに行く必要もないし。もちろん、各大学のホームペーシからでも、買えるんだけど。と、思ってみてみると、大学のホームページから願書を買おうとすると、テレメールのページに飛んでしまいました。他にも、有名な大型書店なんかでも、各種大学の願書が売ってたりするんだけど。行く必要なしみたい。ほかにはね、大学によっては学校にただで願書くれるところもある。お願いすると、くれるみたいです。うちのこの志望校のはなかったけど。 でもって、1200円もする。高い。泣。国立は290円なんだけど、私立は高いです。5校も買うと、それだけで、6000円は行くね。でもってこれ。代金はコンビニ払い。ほんとーにいまどきは便利ですね。 でもね。大学の受験料はさらに高い。35000円以上します。くらーーーーーっとします。これを5校くらいうけると、それだけで、175000円。うわぁ、くらくらする。いまどきはさらにセンター入試なんてのもあるからね。センターさえうければ、それで、出願して、大学の入試はなしです。これが、15000円くらい。うへえ。しかも、このセンター入試の募集枠が10名くらい。でも、べんりだから、かなりの数の応募があるだろうし、みんな押さえで出願するわけだから、受かっても来ない数がかなりあるだろうし。だから、枠は10人だけど、実際の合格者数はかなりの数があるんだと思います。このあたりの数字を知りたいんだけど、ネットの何処を探せばいいんだろう。やっぱ、予備校かしら。 でも、いっちゃん有名な早稲田の政経なんて、センター入試の合格ラインは、9割以上だそうですよ。どうやったら、そんなにとれるんだろう。 でもって、願書の出願を郵送するわけで、そのさいの受験料の支払いもコンビニで出来るそうです。すゴー。い。 さて、さきほど、近くの本屋に行ってみたら、なんと願書売ってました。しかも値段が810円。安い。自転車でいけるところにそんなに安くかえるなら、なにも、1200円も払う必要ないじゃーん。申し込んだの、取り消そうかな。
2007年11月08日
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福田さんが総理になってから、毎日ニュースを見るのが楽しい。最初は大丈夫かなあと思っていたけど。最近はいつもニコニコしていて、かわいい。歩き方も堂々としてきて、だんだん大またになってきた。そして、国会で質問攻めにあい、野党の反対されたりして、いたけれど、気がつけば、いつのまにか、大阪城の外堀を埋めてしまった。野党はもう、殿が城に戻っても、外堀を掘り返すことは出来そうにない。さー。次は、内堀だ。個人的には、自由民主党の一党独裁より、民主党がいるほうがいいんだけど、なんせ、福田さんのファンだし。こないだなんか、国会中継を見ながら、ゲームをしてたら、福田さんに見とれて、ついうっかり死んでしまった。やっぱり、ゲームしながら、国会中継は見ないほうがいいかも。
2007年11月05日
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映画『幸福の食卓』を見ていて一番不思議だったのが、兄の直ちゃんがなぜ鶏を飼ったあとに殺して食べるんだろうということだった。しかも、その鶏はきちんと名前をつけて、自宅の庭で毎日えさをやって、面倒をみて、ペットのように情をかけてからのことなのだ。しかも、一匹だけじゃなくて、一匹食べたら、また一匹というように次々と飼っていってそして、食べる。養鶏場のようにただの養殖として大量に飼育した挙句、大量屠殺というのとは、違う。ちょっと普通には私たちには出来ない。それをなぜするのだろうと思った時、兄の直は、佐和子に愛するものを失うことの心の痛みを教えようとしていたのかもしれないと、やっと、思い至った。 父の自殺未遂にショックを受けて、家を出たり、大学進学をやめたりした、母や兄に比べて、それなりに痛みは感じたにしても、いまひとつぴんときていないというか、感じていないというか、佐和子の日常は変わっていない。 それはやはり、父の自殺未遂当時もっと幼かった子供の佐和子には、やはり人の死というものはわからなかったのかもしれない。それは、父の自殺が未遂に終ったこともあるかもしれないし、父の自殺の現場を佐和子が見ていなかったのかもしれない。 愛情をかけて育てた挙句、鶏を殺して食べてしまう兄。 けれど、それでも、佐和子には伝わりきらなかったようだ。 佐和子が愛するものを失う痛み、あるいは、命を失うこと、生きるものが死んでしまうことの痛みを本当に理解するのは、やはり、家族以外で初めて愛した恋人、大浦くんの死によってなのだった。 だから、物語の中で佐和子と大浦君の恋愛の様子は、丁寧に丁寧に見ているものまで引き込んでいくために、丁寧に描かれていく。そして、思いもよらない突然の大浦君の死に、なぜ?と、思う。 けれど、大浦君の死は、物語において、最初から、予定されていたもので、兄の直が鶏を殺してみせたように、大浦君の死もまた、佐和子に、愛するものを失う痛みを理解させるための道具立て、エピソードだったようだ。 大浦君が鶏と同じ扱いってどうよ。大浦君は、鶏レベル? 命の大切さを教えるために、かつて子供たちを通わせた幼稚園でも、ウサギとか、金魚とか、いろいろ飼っていたけれど、たくさんの園児たちに毎日のようにいじくりまわされているウサギは見ていてかわいそうだった。その挙句、そのウサギは精神的なストレスで、円形脱毛症にまでなっていたし。 命を教えるために毎年毎年幼稚園の各クラスで、飼われる動物たち。彼らには、彼らの人生を生きる権利があるのに、園児たちの情操教育のために使いつぶされる動物たちを見ていて、それはそれでちょっとなーと、思ったことを思い出した。 大浦君もそれとおなじ? まあ、それでも、大浦君の死によって初めて愛するものを失う心の痛みつらさをやっと佐和子は理解するわけだから、鶏よりは大浦君の方がレベル高いのでしょうかね。 そして、大浦君の死を体験して初めて、佐和子は父の自殺未遂の意味を理解する。「お父さんが死なないでいてくれてよかった。」と佐和子が父に告げるクライマックスシーン。 りっぱじゃなくても、どんな父親でも、それでも、お父さんは、一人しかいないから、ただ、生きて、一緒にいてくれれば、それでいいからと。佐和子は初めて父の死と、生と、その存在のの大きさを知る。 父がいて、家族がいて、毎日普通に一緒にご飯を食べられることの幸せを知る。 幸福な食卓@映画生活
2007年11月03日
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芸術ってなんだろう。芸術ってどこまで人の心を変えることが出来るのだろう。 ベルリンの壁が崩壊する4年ほど前の東ドイツ。社会主義体制の中で個人の行動、言動、思想統制の厳しさが描かれていて、そういえばこんな設定の映画を観るのは、初めてだったかもしれない。でてくるのは、劇作家ドライマン、女優クリスタ、そして、彼らを監視し続け、盗聴し続ける冷酷な大尉ヴィースラー。 ドライマンとクリスタという芸術家二人を盗聴し続ける中で始めてヴィースラーは、芸術の世界に出会う。そして、ドライマンの部屋から盗んだ本(文学)を読み、ドライマンの弾くピアノの『善き人のためのソナタ』に感動して涙を流す。彼は生まれて初めて芸術というものがあたえる感動に出会ってしまったのだ。 そしてそれゆえに、彼のに中に人間らしい感情が芽生え始め、ドライマンとその恋人クリスタの二人にいつしか情が移り、つい味方してしまった結果、自分は大尉の地位を奪われ、地下室のメイル係という仕事に追い込まれてしまう。 それでも、いつか善意は必ず伝わるものなのだろうか。ベルリンの壁崩壊後にヴィースラーの存在を知った劇作家ドライマン。ヴィースラーのことを書いた本を手にして、自分ことをドライマンが感謝してくれた事実をしるヴィースラー。 人知れずする善意の行動は、いつかかならず相手に伝わるのだろうか。けれど、人は人のために善き事をするわけではなくて、自分の内側の抑えようのない思いゆえに善行をするもので、だから大尉は自分の行動に悔いている様子はないし、逆に今までの彼の自信満々で傲慢で冷酷な態度は、後半一転して、おとなしく生気のない人となる。 それでもラストで、ドライマンの本を手にしたヴィースラーの姿にほっとする。 芸術にまで政府が口出しをする社会主義世界で、書きたいものも書けずにいたドライマンが、いざ東西ドイツ統合で言論と表現の自由を手に入れてみれば、今度は逆に何にも書きたいものがなくなってしまうというジレンマ。 そんな中で知った、ヴイースラーの存在は彼にもう一度執筆の熱情を沸き立たせる。善意が善意をよびさらに善意につながっていくそこに、芸術がもつ力。 この映画で描かれているのは、社会主義社会の非道や、言論表現統制だけでなく、どんな社会にあっても、決して人の中から、芸術を奪い去ることはできないという、人の中の芸術、人によってしか生み出されることのない芸術の姿なんだと思う。 表現の自由を奪われた社会主義体制下にあってもなお、芸術はその力を失わないどころか、いっそう力を増していくように見える。 本、文学、演劇、絵画、音楽。 芸術の美しさが人を感動させる。芸術が人の心を美しくするのか、人の心の美しさが芸術を作るのか。 善き人のためのソナタ@映画生活
2007年11月01日
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