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端正な顔立ち。太くて濃くてつりあがった意志の強そうな黒いまゆ。まさに原田巧だなーっと思うこんな子役をよく見つけたなっと感心しちっゃた。彼のおかげでこの映画はやっと完成したんだ。 協調性第一、チームワークが何よりと思われるスポーツの世界で、その天才ゆえに人とのかかわりも作らずに孤独に野球だけに向き合う主人公巧。 巧みの性格は、まるで、やたら勉強の出来るエリート少年とそっくりだ。野球をやろうとしているのに、こんなにチームワークや仲間とのふれあいを無視できるやつがいるんだ。というのが、原作を読んだときの感想だった。 『バッテリー』の文庫本を始めて読んだのが確か四、五年前。だから、ハードカバーが出たのはそれよりずっと前。そこから少しづつじわじわと人気が上がってきたんだろう。六巻まで出るのにはずいぶんかかった。 原作はストーリーもなかなかなのだが、とにかく文章が読みやすくて読んでいて抜群に面白い。頭にすーっとはいってくるような文章で、どんどん次に読み進めたくなる。児童文学と言うカテゴリーに納めてしまってはもったいないほどの完成度とおもしろさなのだ。 原作の登場人物はもっとそれぞれの性格が切れていてきついのだが、映画ではやはり映画的常道でかなり軟化されてはいた。が、それでも、かなり原作に忠実な映画化で、原作の雰囲気がそのまま再現された映像に原作ファンとしては、ゆっくりとたっぷりと『バッテリー』ワールドを楽しませてもらえた。 一冊目だけの映像化と思っていたら、意外に五巻目くらいまでがうまくまとめられていて、さすがにきちんと完成されていた。原作では、一人ひとりの喋りが異様に長く、またそれが面白いのだが、さすがに映画なので、事件を追う方が重視されていた。 地方都市ののんびりしたたたずまいや小説では思い描けなかった巧の家や町なみがほのぼのとして美しい。 ほとんどしゃべらない無口で友達とかかわることを由としない巧が、野球という共通点だけで、豪やその友達とだんだん心を通わせていく。野球をするというだけでこんなに簡単に友達になれるなんていいなあと思う序盤から、やがて野球を道具として子供たちを管理しようとする大人たちのみにくさや、そういった管理の中で心を蝕まれていく野球部の先輩たちによって、野球と言うものが現代社会の中で変容されていくさまが描かれる。 「野球は誰のものですか」と巧は作中でなんどもと問いかえす。 本来やること自体が楽しくて、それゆえに人と人を結び付けていくはずの野球というものが、大人たちによって子供を管理し自分たちの思惑のために使うものへと変容していく中で、巧だけは決して、その方向性を見誤らない。 「俺が大好きな野球を勝手にいじるな」という怒りが寡黙な巧の体の中で青い炎となって燃え盛っているようだ。 やること自体が楽しいはずのスポーツがいつのまにか、試合に勝つための苦しい修行をメインとするものになってしまったり、試合に勝つ事で学校の名を売るための道具に使われたり、勝つための練習の過酷さゆえに選手自身の体をも破壊していくような、大人のための道具に成り果ててしまっている現在のスポーツは、明らかにおかしいと私は思う。スポーツとは本来体を使うことを楽しむためのものであったはず。 巧たちは必死に練習したり、基礎トレをしたりもしているけれど、それだけじゃなくて、青波(巧の弟)を投手にして巧や豪やそのほかの仲間たちで三角ベースの野球をやるような本来の野球とのかかわり方を巧たちは忘れていない。その時の楽しそうな少年たちの笑顔こそが本当の野球なんだよと思う。 ルールや試合や大会や部活なんてそのあとにあるもの。 巧の母は、病弱な弟青波のために巧が野球をやること自体を非難する。けれど、本当は少女時代野球部の監督として忙しいゆえにほとんど家族を省みなかった父ゆえに野球を嫌い、憎んでいるのだろう。本来これほどの天才少年をわが子に持っていたら、母親は歓喜して息子の才能を伸ばすことに夢中になるものだが、「青波が、青波が」と言って巧にきつくあたるこの母も自分の本音に気づいていない。 わが子に野球をやめさせたいのにやめさせられない豪の母親は巧に豪を説得するようにと頼んでくる。本来自分がやるべきことをまだ中学生にもならない子供に割り振ってくるというのはどういうことか。自分の仕事を放棄しているんじゃないのか。 野球さえあれば子供を管理していうことを聞かせることが出来るなんて思い込んでいる学校の先生たちや学校の監督もその行動自体が自分たちの無能ぶりをさらしているに過ぎないことにきずかないのかな。 巧や野球少年たちを通して、大人世界の実相や矛盾が浮き彫りにされている映画でもある。 春休みの子供向け映画なので、子供たちが多くて、映画館の場内は少し騒がしかったけど、明らかに野球少年だなと思える男の子たちが群れをなして見に来ているのを見るのは、それはそれでほほえましくて楽しかった。 バッテリー@映画生活日本映画、邦画
2007年03月31日
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春休みですから、昨日はうちの娘もお友達とディズニーランドにいきました。帰ってきたのは夜の11時半でした。十代前半の女の子が夜遊び!! ってディズニーだから特別に許可したのですが、私は本音は「明るいうちに帰って来い」と思いました。せめて八時くらいには切り上げて帰ってきてほしかったのですが、いかんせん他の子達は閉園時間までいる予定らしくて、娘は途中で一人だけで帰ってこようかともいっていたのですが、それはそれで危ないので仕方なく許可しました。この状況で友達と別れて一人だけで帰らせるなんて鬼のような決断はさすがに出来ませんでした。でも娘はお母さんに怒られるかもとひやひやしていたようです。普段こんなに甘い親でいいのかなーと心配していたんですが、子供にとっては十分怖い母なんですね。安心しました。これ以上怖い親はやらなくていいらしい。 でも、実際には閉園間際というのは、すごい人ごみになるのでなかなか思うように動けず、一時間半以上もかかったようでした。車で行けば20分くらいの距離のところなんですけどね。最も閉園間際ですと、車で帰るのにも出口で時間がかかるのでやっぱりかなりかかりますけど。 こういうとき私は非常に悩みます。ディズニーといえども六時か七時くらいで帰らせるべきなのか。たまのことだし、場所がディズニーなんだから、特別に閉園まで許可するものなのか。他のお宅はみんな閉園までオーケーだったらしい。私が厳しすぎるのでしょうか。非常に毎回悩むんですけどね。それに家庭ごとに価値観とか、基準が違うみたいだし。 何しろこのあたりは場所が場所なので、普通に当たり前に年パスもってて、しょっ中自転車で言ってる子とか、家族で年パス持ってる家庭とか、結構あるんですよね。 ディズニーが特別なところじゃなくて、すでに日常になっているという。愛知万博にフリーパスで開催期間中連日いってたというより、すごい。 さすがにうちは年パスはないけど、でも場所が場所なので、小学校の卒業直前で子供だけで友達同士でディズニーにいくのがもう慣習になってたりとか。さすがこの時は、親が送迎してたけど、その時は、絶対だめって言う人家庭と、六時までという家庭と閉園までオッケーという家庭と、いろいろ分かれてたんだけど。絶対だめって言った後で、えっみんないかせるものなのっておどろいてたなー。そのお母さんは。 年に二回は子供だけで行ってるというところもあるし。 それが中二くらいになってくると、もう本当にどこまで許可していいものか、微妙。 帰宅が十一時過ぎってのはさすがにちょっとねー。最初はメンバーの人のお母さんが帰りだけ迎えに行くという予定だったんですが、直前でだめになり、娘たちはバスと電車と自転車で帰ってきました。自転車で行けばもっと早かったのでは。 これから先、来年、卒業だからいっぱい旅行に行きたいなんて言い出したら、どうしよう。 やっぱりやっぱりやっぱり私には、女の子を中学生から旅行させるなんて許可できそうにないよう。 男の子はね。いいんだけどね。別に。怖くないけど。 でもやっぱり女の子はちょっとー。できないなあ。 と、悩んでいる今日この頃なのです。 他のおうちはどうなのかなあ。ちなみに私はもうディズニーは飽きた。もう子供と一緒にはないし、大人だけで行く気もおきません。でもってダンナは賛成も反対もなし。事後報告だけでしたので。
2007年03月30日
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画家になりたかったけど、今はもうそういう時代じゃないね。コンピュータグラフィックとか、漫画家とか、ゲーム製作とか、そういうご時勢でしょ。油絵なんか描いててももう売れないよねえ。でも趣味として描くぶんには楽しいです。今でも高校の美術の時間は油絵だもんね。これは昔私が描いた絵だけど、デジカメの写真の取り方が下手です。今はもうめんどくさくてできない。
2007年03月29日
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上映当時はかなり宣伝かけてましたね。でもみなかった。 ウィルスの流行と、それによる治療で人口は激減。たった一つのドーム都市で管理されて暮らす未来社会。実はその時人類はもう不妊になっていて、クローンの再生によって人口を維持しいてるに過ぎなかったのだ。 こういう設定はもうすでにSFでは当たり前すぎて、新鮮さなしなのですが、最後の結末で、不妊症が自然治癒し始めるという解決のしかたは面白いですね。 クローン人間だらけの社会はこわいけれど、それでも自然治癒してまた人類が子供を生んで社会を維持していけるようになるまでのバつなぎとして、クローンという技術が役立ったのだというところに救いを感じました。 この物語の後人類はまた、人口を増やして、地球上にどんどん増殖して行くのかな。 今現在地球上にあふれかえって環境を破壊し続け、我が物顔で地球を支配する人類は評価ポイント悪いけれど、人類が激減して絶滅しそうな未来社会の話も怖い。そして、もう一度地球の上に増殖していく未来を感じさせるストーリーにほっとするなんていうのことは、やっぱ人間は地球にぞろぞろいて、のさばってる方が普通なんだろうか。
2007年03月28日
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「年を取ると体力がなくなってくるので若い頃のようには寝られなくなってくる。」 というような内容の文章を読んで驚いたものだ。これは渡辺淳一の小説『化身』にでてきたもので、すでに二十年位前のヒット作で、映画にもなり、主演は黒木瞳だった。この時の黒木瞳はまだぺーぺーの新人女優だった。私は本を買ったわけじゃなくて、会社にある日経新聞に連載されていたその小説をどういうわけか第一回から読み始めてしまって、毎日会社で読み続けていたのですよ。新聞の連載小説を読んだのはその時が初めてで、どういうわけか面白くなってずーっと読んでいたら、世の中でも話題になって、テレビドラマになるわ、映画になるわ。ま、それはどうでもいいのだが、主人公は五十代くらいのおじさんで、それなりに社会的地位の高い独身。黒木瞳の前にもう一人恋人がいて(これは映画ではなんと阿木陽子が演じてました。ヌードもあったのよ~)、別れちゃいますが。 その時私はまだ二十代という人生まっさかりの元気な時で、若い頃というものはとにかく眠くて眠くていっくらでも寝られるし、世の中が一番楽なのは寝ることだと思っていてたので、かなり意外だった。そんなものなのか?とその時思ったのだけれど。 実際自分が年を重ねてくると、たしかに若い頃のように一気に十時間くらい軽く寝続けるということもなくなって、昔はぜったいありえなかった朝の六時とか五時に目が覚めるようになってきてしまった。もう今じゃ十時間もなんて寝続けられない。 そうか。寝るのにも体力がいるものなのか。というのが最近実感します。 お年寄りが早起きなのも、そのせいで昼間うつらうつら昼寝してるのもだからなんだろうな。まとめて寝るほど体力がなくなっていくんだ。 私の父は病気がちの人で昔からいつも山のように薬を持っていて、そして、毎日薬ばかり飲んでいた。でもってしょっちゅう入院ばかりしていた。「看護婦さんていうのはすごいよ。あんな仕事はなかなかできない。」と、よく言っていた。 そんな父でも、晩年はもう入院すること自体がいやでしかたなかったようだ。体力がないので、すぐ高熱をだし、入院するのだが、熱がひくともういやだいやだといって退院してしまっていた。病院側はきちんと検査して、きっちり直ってからと思うのだが、すでに高齢になってくると、もうそんなことすら我慢したくないし、出来ないのだ。我慢や忍耐にも体力がいるんだろう。母がよく電話で私にそのことを言ってきていた。もうそこまで行くと無理に長生きすること自体も無意味だし、そのためにいやなことを我慢すること自体も意味がない。「いやなら、病院なんて出ちゃえばいいんじゃない」とわたしも答えていたものだけれど。 父は、子供の頃は病弱で、若い頃は内臓が悪くて下痢しやすいために脂の入ったものや肉類は一切食べられず(当然揚げ物なんかもだめです)、そのあと、胆石になり、さらにそのあともいろいろな理由で何度も入院した。そして晩年になると、頭の中に血がたまってしまって、穴を開けて血を抜いてもらったりしていた。血を抜くということは実際には、その中に脳の細胞も入っていただろうと思う。そこから急速にぼけ始めて母をうんざりさせていたけれど。 晩年は生きていること自体がつらくて、自殺しようと考えたりしていたらしい。と、母に聞いた。私は父がどうして死にたかったのかわからないのだけれど、やっぱり体の不調に耐え続けること自体がもうつらくてつらくてしょうがなかったのだろう。 でもさすがに出来なくて、最後は何度かの入院の末に、すーっと息が絶えて、亡くなった。こういうのはたぶん一応天寿を全うしたというのだろうけれど。さいわい苦しむこともなく、心臓が止まって一瞬で逝ってしまったらしい。 長男夫婦と同居していて、金銭的には心配もなく、さびしいこともつらいこともなかったはずだけれど、高齢による体の不調のつらさだけはどうしようもなかったのだろう。 私もときどきものすごい頭痛の時なんか本当に「死んじゃうとこういう痛いのを我慢しなくてすむんだろうにな」とか考えます。 こんなに体の悪い人なのに、身長は185くらいあってすごく体格のいい人だったのですが。 父は酒もタバコやらず、賭け事も女遊びも不摂生もなかったけれど、そのぶん一生病魔からは逃れられなかったようだ。 人間どんなに節約しても何かの形でお金を取られていくものなのか。父は晩年は自分のお金で無駄遣いばかりしていた。人間はその人生の中で決められた枠を使い切ると死ぬものなのか。父は自分のために人生に用意されたぶんのお金を使い切らないと死ねなかったのじゃないかとか思う。 その他にも人生に用意されたぶんの時間だけあぞひきったりすると終わりなのかなーとか。人生に用意されたぶん働いちゃうと終わりなのかなーととか、まあ、いろいろと考えてみたり。 人生に用意されたぶん勉強しきっちゃっても終わりかなー。 この記事のために「渡辺淳一」を楽天で検索してみたら、やっぱり「愛ルケ」がトップでした。楽しみすぎても死んじゃうのかなあ。
2007年03月27日
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今話題の『20世紀少年』の前に書かれたもので、これもかなり話題になり、全世界レベルで売れたそうです。 世界を破壊しようとする人間を主人公が追っていく。そして、その悪役の人間の正体がなかなかはっきりしない。名前のないどこか不透明な存在。『20世紀少年』とストーリーがとてもよく似ていて、今となっては『20世紀少年』の前哨戦のようにすら見えます。 物語が時間軸をさかのぼっていくというか、ことの発端に結末からさかのぼっていくように謎が解かれていく上に非常に長いストーリーなので、一読しただけではわからない。かなり複雑な物語です。それでつまり、読み終わった時にはよくわからなかったような…。 東ドイツ時代に東ドイツの中で感情を持たない戦士を育てるためのプログラムと実験によって誕生した少年ヨハン。彼はずば抜けて頭がいいために、東ドイツの軍上層部が期待する以上のカリスマを持った指導者候補の人間として、悪魔のような性格を持って成長する。彼にかかわる人間たちが次次と殺されているのに、なぜか彼の正体は誰にもわからない。殺人者としてつかまることもない。敏腕刑事ですら、犯人は天馬だと読みを間違える。その怪物のようなヨハンを抹殺するために神のように心の優しい主人公天馬は、自らの全てをかけてヨハンを追いかけていく。しかし、彼はあまりにも優しくてどうしても人を殺すことが出来ない。 人を殺すことに全く迷わない悪魔のようなヨハンと、医者として人を救い、あまりにもやさしくて人を殺すことのできない神のような男天馬。 そのヨハンを作ったやはり悪魔のような男、クラウス・ボッペは、すでに自分の過ちにきづき、山間の静かな村でひっそりと暮らしていた。子供たちが感情のない人間に育つための実験場としての孤児院511キンダーハイムを作ったのも彼だ。その彼が自分の過ちにきづいたのは、ヨハンとニナの母親に出会い恋を知った瞬間なのだが、いったいどうして彼がヨハンたちの母親に惚れたのか、その時彼の心の中にどんな変化が訪れたのか、どうしてその結果自分がそれまで行ってきた悪行にきずくことが出来たのか。そのあたりが書かれていないのが惜しい。その心理変化がわかりにくい。本当にそんなことで自分の人生を180度かえることができるものなんだろうか。 外伝で書いてほしいくらいなのですが。 そして、クラウス・ボッペほどの男が惚れたというヨハンの母親はどんな女性だったのか。ラスト近くで出てくる彼女は非常に知的で聡明でそして温厚で優しそうなのだけれど。その彼女がなぜヨハンたちを置いていなくなってしまったのか。 バラの館の大量殺戮の後の二人の行方がわかりづらい。 そして、ヨハンとニナが行く先々で二人の養父母を殺したのは本当にヨハンなのだろうか。 大人になってニナと再開し、ニナの話を聞いた途端殺戮をやめたのはなぜなのか。 私はヨハンが彼をキンダーハイムに追いやった関係者を調べ上げて殺しているように予測したんですけど。 そして、ラストで一つの村をみんな殺人に追い立てたのはなぜなのか。 いろいろと疑問残りまくりです。もう一回読まないとだめなのかな。 少年マンガ
2007年03月26日
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映画賞総ナメ究極の愛の物語だそうですが。 一昔前は身分違いの恋が社会的に認められないゆえに実らない恋の物語のテーマとしてずいぶん使われたものですが、もういまさらなテーマになってきて、最近はあんまり見ない。 で、この物語は同性愛がテーマのようで、つまり社会的に大手を振ってできない恋。だからドラマになるんじゃないかと思うのですが。 西洋で、同性愛が認められるようになったのはつい最近のことなので、いまでこそこうやって映画化もできて、かわいそうだねっていう風に見ることもできるけどね。 でも、キリスト教社会ではずーっと同性愛は社会的に禁止だったので。バックグラウンドにキリスト教があるからなんだと思うんだけど、本当に内緒の内緒の恋だったみたい。うっかりばれると社会的にすごい制裁を受けちゃうからね。社会的な抹殺だけじゃなくて命自体危なかったらしい。 でも、日本の場合だと結構許容されていたんじゃないかと思います。仏教が禁止してたのはあくまで女色だから、お坊さんたちって結構お稚児さん遊びとかしてたでしょ。武士の世界だって当たり前のように小姓とかいたでしょ。江戸時代までは社会的に許容されていたような気がします。同性愛に対しての目が厳しくなったのって案外明治以降西洋の文明が入ってきてからなのかもしれないと思うのです。 一昔前は少女マンガでも、少年愛とか流行ってたしね。ずいぶん読んだなー。 オスカー・ワイルドとかも同性愛者として有名だし。 で、あらすじは知っちゃってたし、あんまり感動もしませんでしたが。 本当に好きな人がいても、他の人と結婚するというのは、まま、あることだけど、その後、浮気を続けるのってどうなんでしょう。しかも、男同士だから、友達だって言ってしまえば、浮気には見えないという。それって随分じゃないか。 二人とも同性愛者じゃないはずなのに、好きになってしまったということのようですが、ジャックの方はどう見ても同性愛者だなと思います。実際に男娼を買うシーンがあるし、わざとやたら男っぽいロデオをやっているように見えます。ラリーン(アン・ハサウェイ)との関係も一方的に彼女の方から迫ってるし、彼女は基本的に男性的な性格をしているようだし。だから、ジャックと夫婦でいられたんでしょう。それにしても、アン・ハサウェイは花がありますね。でてきたシーンで、パアッと目立つんだもの。 イニスはかなり男性的な性格してますね。本当に男性なんだけど、本当に本音でジャックに惚れてるようだった。 人を好きになるのに、同姓だろうと異性だろうと関係ないとは思うんだけど、いつも見てて不思議なのは、同性愛の人たちがどうして、男役と女役に分かれるんだろうということ。こういうのを見ていると、やはり恋愛の基本形は男女で成り立つからなんじゃないかと思う。男女で愛し合う方が生物学的にも自然だし。それでも、果実に出来のいいものと不出来なものがあるように、必ずものには、数パーセントの確立で、定形外が出来るものなんだと思うけど。 もっとも最近はそれ以前の段階でまったく結婚することもなく、一生結婚しそびれて独身で終わる人たちが多くて、少子化はますます加速されちゃうし。 出来ればみんながちゃんと一生のうちにいい伴侶に出会えるといいね。 しかし、結婚したダンナが実はゲイだったなんて絶対勘弁してほしい。イニスの奥さんが一番かわいそうだった気がする。だって自分の夫が男性の友人とキスしてるのを見ちゃうんだもの。そのあとも旅行だといって浮気旅行されちゃうし。 この映画が感動を呼ぶのは、長い間同性愛に対して社会的規制が厳しかったキリスト教社会だからこそ何じゃないかと思うんだけど。日本の場合はちょっと…。 私にとってはいまさらな、なんだかなとそんな感想で終わってしまいました。うーん。 それにしてもこのアリアリのタイトルは勘弁してほしいなあと思うし、劇場ではまず見たくない映画でもあります。 そして、社会的に同性愛が許容されてきたおかげでゲイの男性の偽装結婚の相手にされる女性が減るだけでもずっといいと思います。 かつての西洋で同性愛者がいかに過酷な運命をたどったかは、藤原正彦の『天才の栄光と挫折』の中に、一人,同性愛者の数学者のことが書かれてます。なかなか面白い。当時は絶対ばれちゃいけなかったようですね。そういうバックグラウンドがわからないとただの悲恋にしかみえないかもしれない。 この映画が描いているのは、究極の愛の切なさというよりは、人間のためにあるはずの社会のルールというものが逆に人を不幸にしていく過程なのかもしれない。愛し合っていても、周りに公言することも結婚することも一緒に暮らすことも普段会うこともままならない二人の他にも、彼らの妻たちのように、本当は他に本気で好きな相手がいるにもかかわらず、社会的偽装のために結婚相手に選ばれてしまう不幸。相手が女でないために浮気だと明言できずにいる苦悩。夫が女とではなく、男と浮気しているという事実と苦痛はどれほどのものなのだろうか。 社会を秩序をもって構成するための規律が逆にその構成員たる人々を苦しめていく不思議さ。 男性同士の結婚までが許されるようになった今だからこそ、この映画が訴えうるものがあるのだろう。 身分違いの恋の映画を見ながら、みんなが平等で誰とでも恋人になって結婚することが出来るような自由な社会になったことを再認識したように、この映画を見ながら、同性愛が今現在かなり社会的に許容されるようになってきた現実を再認識する。そして、そんな風に一人ひとりが自分の心を殺さずに、自分の心に忠実に生きていきやすい社会にもっともっとしていけるようにするにはどうすればいいだろうと考えさせる映画なんだろうと思う。 でも同性愛の社会的許容はまだまだなのが現実らしいですね。 ブロークバック・マウンテン@映画生活
2007年03月25日
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木を隠すなら森の中に。 この話の一番面白いところは、銀行強盗の犯人が事件後に逃亡せずに、自分たちと同じ服を着せた50人の人質の中にもぐりこんでしまったところでしょう。そのために、警察側が犯人を特定できずに、結局犯人を捕まえることが出来ずに捕まえた人質全員(犯人込み)を開放するしかなかった。銀行強盗ではない別のことが狙いのように見せかけて実はやっぱり銀行強盗が狙いだったようにもみえます。犯人たちはうまく目的のものとダイヤを盗み出す。 今までにない設定の面白さに思わずびっくりしたんだけれど、でもよく考えてみれば『ルパン三世』のアニメでも、ルパンは、たくさんのルパンの顔に変装した群集を用意して、その中にもぐりこむことで銭型警部の追跡を逃げ切っていた。このルパンとやってることは同じ。もっと古いところでは分身の術を使う忍者漫画と同じ。必ずしも独創的とはいえないかも。それでも、銀行強盗にこのアイデアを使ったのは初めてなのですごく斬新なアイデアに見える。 なんだ、よく考えるとこんな設定は日本ではとっくに考えてあるんだから、日本の方がよっぽど独創的でオリジナリティがあるんじゃないか。そもそもオリジナリティなんて言葉や考え方自体西洋のもので、オリジナリティをもたないからこそ西洋はオリジナリティにこだわるのかもしれない。日本の方がよっぽどオリジナリティがあるのかもしれません。だって日本の漫画文化は日本独自のもので世界のどこにもほかにない。コミックはあっても小説や映画並みのストーリー展開をするような漫画なんてものは世界にはないもの。 日本人が無個性でみんな同じに見えるのは、西洋から見ると、アジア人はみんなちっちゃくて異人種だから見分けがつきにくいだけに過ぎない。見かけが貧相だから、個性もないように見えるだけだ。でも、オリジナリティは、見かけじゃないもの。 全員に同じ制服を着せ、同じ勉強をさせ、同じ行動を取らせる。個性をつぶす教育に見えるけれど、本物の個性は決してつぶそうとしてつぶせるものではなくて、みんなが同じだからこそ浮き立って見えてくるもの。みんなが青い服を着ている中で赤い服の人は目立つ。個性を尊重しようという教育はみんなが違う色の服を着ているようなもので、みんなが違う色の服を着ているのだから、誰か一人が目立つこともない。個性尊重の教育は個性を育てるわけではなく、個性をつぶすのをやめただけ。好きな色の服を着てもいいよと。そして、個性なんてものは育てられるものでもない。生まれたときから個人が持っているもの。オリジナリティってそんなものかもしれない。 さて、本題に入ります。 強盗に入られた銀行の会長ケイスはその銀行の貸し金庫にある重要なものを隠していたので大慌てである。そこで、ジョディ・フォスターの登場となる。銀行の会長ケイスは第二次大戦下にナチスがらみで不法なことをして儲けた金で今の銀行を作ったらしい。その上、ストーリーの時間軸を交差させているためにますます話がわかりにくくなっているように見える。でも何のことはない。成功した銀行強盗の話だ。 よく見ていると、自分たちが最後に人質の中に隠れこむために途中でいろいろな仕込をしている。途中犯人の一人が人質のなかにもぐりこんだりとかしてるし。そのあたりを見抜くために二回ないしは三回見ないとわからなそうだ。何度も楽しめる面白い映画だ。 銀行強盗の物語である。しかもこの物語は最後まで犯人はつかまらず、銀行強盗は成功している。成功した銀行強盗の話は珍しい。しかし、この物語は銀行強盗が成功しないと意味がなさそうだ。なぜなら、金銭を盗むことが目的なのではなくて、不正な行為によって財産を築いたケイスへのあだ討ちの物語だからだ。 第二次大戦下にナチスに絡んで金儲けをした男がいた。その男というのが強盗の入った銀行の会長ケイスのようなのだ。彼は自分が助けることが出来たかもしれないユダヤ人銀行家を私利私欲のために見過ごした。その後彼はそのことを悔いて、善行を行い、罪を償おうとした。けれどそれはそんなことくらいでは許されないものらしい。 非常に複雑でわかりにくい上に、強盗のシーンと逮捕後の尋問のシーンが交互して流されるためにさらにわかりにくくなっている。私は二度見ました。二回目に見てみると、一度目に見落としたシーンが結構あることがわかった。劇場だと一度しか見られないので苦しいけれど、そのぶん集中もしているだろうな。 さて、ケイスはその時の書類を自分の銀行の貸し金庫にしまっていたらしい。「その貸金庫を開けてその書類を盗み出してほしい。」これが今回ユダヤ人から強盗のリーダーに「盗んでほしいと依頼されてもの」らしい。ただの銀行強盗の話ではないらしいことは大体中盤くらいでわかってくるけれど、じゃ話の黒幕がいるんじゃないのか。と想像してみるけれど、黒幕らしい人物は最後まで出てこない。しかし、最後に犯人たちが乗っている車に乗っている高齢の男。実際の犯行は四人なのに、ラスト近くで車に乗っているのは五人。この五人目の男がたぶんユダヤ人で、ケイスによって財産を没収され死に追いやられたユダヤ人銀行家と何らかの関係のある人物なのだと思う。あるいは唯一生き残ったその本人なのかもしれない。 ただ、この映画、本当にいろんな人種が出てくる。白人に始まって、黒人、ポーランド人、アルメニア人、アルバニア人、シーク教徒、日系人、アジア人なんかが怒涛のようにでてくる。明らかに意図的だ。アメリカの映画を見ていてこれだけ多彩にいろいろな人種がでてくる映画は確かにめずらしい。だから、最後にユダヤ人がいかにもユダヤ人な格好をして出てきても違和感なしなのだ。でもってこのいろんな民族の人たち。よく聞いてるとみんなアメリカ人なんだよ。日系アメリカ人、中国系アメリカ人。アルメニア人だって言ってる人もアメリカで生まれてアメリカで育ってアルメニア系アメリカ人だ。それから、アフリカ系アメリカ人ももちろんだし。よくよく考えれば、白人だってイギリス系アメリカ人だし、ヨーロッパ系アメリカ人なのだ。つくづく人種差別や民族の違いなんてあほらしい。 ジョディ・フォスター演じる敏腕の女弁護士マデリーン・ホワイトが、かなり重要な役どころのようなのだが、ただ、漠然と見ているとたいしたこともしないで終わっているように見える。しかし、そんなたいした役でないなら、ジョディ・フォスターのはずはない。彼女はかなり重要な役どころであるはずだ。 銀行の隠し金庫から書類を盗むように依頼したのは、 最後にでてくるこのユダヤ人だ。ナチスのユダユ人迫害という人種差別への問題提議。が含まれる。しかも、作品中ものすごく多くの人種が出てくる。そうやって人種を差別している割には、アルバニアとアルメニア、アラブとシークの区別もつかない。そんなものなんだろうね。世界は白人中心に出来ているけれど、実際にはそれ以外の人種の方がずっとずっと多いのだ。 マデリーンは最初は事件の実情を知らないのだが、強盗のリーダーダルトンから話を聞いている。そのあと彼女はコネを使って市長に頼み込み、今回の事件の捜査を終らせたり、刑事フレイサーの疑惑の14万ドル横領の事件を帳消しにしたり、彼を出世させたりしてあげているのだと想像できる。そしてさらに、会長のケイスに脅しをかけて、正規の報酬以上の報酬を受け取っていたり、「今後もこんな表ざたに出来ないような事件がありましたら請け負いますよ」と言っている。これと同じような手で、市長も自分の仕事にうまく使えるように弱みをにぎっているのかもしれない。たぶん、マデリーンは、普通の弁護士の仕事ではなく、この手の公に出来ないような事件を請け負っている仕事人なのだろう。最初に出てくる時は白に近いスーツなのに、ケイスを脅す時は黒のパンツスーツなのだ。彼女が裏世界に通じていることをいかにも暗示しているではないか。この物語の主人公は実はマデリーンなのではないかとも思う。 この話で事件にかかわる二人の刑事が黒人だったのも、もし、白人であれば、ケイスに対してあんな断罪の仕方はしないからだ。指輪を手に入れて二人は果たしてこの後事件の真相をどこまで追えるのだろう。 この話は銀行強盗の爽快な成功物語であるとともに、人種差別や、人の弱みに付け込んで金儲けをしていく社会の上層部にいる人間たちを非難している物語でもあるわけで、まるでねずみ小僧のような女弁護士マデリーン・ホワイトシリーズなんて出来たら面白そうだね。 インサイド・マン@映画生活外国映画、洋画映画分析
2007年03月24日
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去年父が亡くなったので、彼岸のたびに実家に行くとか、墓参りするとかのプレッシャーがかかってきて面倒くさい。こんなことを考えるのは不謹慎この上ないんだけれど。ダンナの実家のお墓参りとダンナの実家への彼岸ごとの来訪は結婚当初からのことだし、姑にはいろいろとお世話になっているのでそれほど苦痛に感じないのでけれど。いや、苦痛だけど、仕方ないかなと。それに、ダンナの実家のお墓は歩いていける距離。ダンナの実家も歩いてすぐのところ。ところが私の実家のお墓はちょっと遠い。遠いといっても車で30分かそこらでいけるんだけれど、それでも墓参りとなれば一日つぶれる。その上夫婦で実家に彼岸ごとに行くのはさすがにめんどくさい。それでも、ダンナの実家への彼岸ごとの来訪がなければどうということはないのだけれど。彼岸ごとに二軒もいかなくちゃならないのはさすがに苦痛です。だって行っても何にもすることなくてつまんないんだもの。それでなくても、自分の母親と会うのすら面倒なので。とっても困ってます。彼岸だけならいいんだけれど、何しろ正月のたびに一日ずつそれぞれの実家に行っているのにその上彼岸ごとにもいかなくてはならないとなるとちょっと面倒。しかも、だんなの実家にはお盆にもいくんだもの。そういうつまんないけど、一応社交としてやってることがこれ以上増えるのもなあ。というか、実際に自分の近しい人がなくなってみると、今までご先祖供養だと思ってやっていた墓参りがぴんと来ない。今までナマで会っていたひとが死んだ途端にお墓の中にいるからそこにいくのが一番近いよなんていうのはどうにもこうにもぴんと来ない。仏壇にお線香を上げて、拝めば供養になるなんてこともぜんぜんぴんと来ない。こまったなあ。 そんなところに父がいるとは思えないのに、さらに春秋の一番気候のいい季節を墓参りでつぶすなんてことをこれ以上増やさなくちゃいけないなんて。「千の風」の歌が今流行っているのだけれど、あの歌の歌詞を聴いてなるほど私の感覚は間違っちゃいないんだなーと納得なんです。お墓の中に父がいるとは思えない。空気になったか、天に昇ったか。さて、これからの彼岸ごとの行事をどうしよう。でもあんまりいかないと母が怒るし。困っちゃった。
2007年03月23日
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話題の割りにいつやっているのか知らなくて今まであまり見たことがなかった。夜遅い時間らしいとは思っていたのだけれど。やっと水曜日らしいと知って昨晩初めてまともに見た。 見たはいいのだが、つまらなかった。まるでぬる湯の砂糖水のようだった。この番組のファンはかなり多そうなのでこんなことを言うと怒られそうだけど、でもつまらなかった。胸焼けしそうだった。人気番組なはずなのに。いい年をした男が三人集まってお互いに褒めあいごっこをしている。はっきりいって気持ち悪かった。これなら、まだ細木数子の番組の方がましだ。あっちの方がずっと面白い。話題なわりにいつまでも夜中の番組な理由もわかる。もっともこんどゴールデンタイムになるらしいけど。ゴールデンタイムになった途端『あるある』のようなことにならないようにと思う。 普段私たちがむっとしながら面と向かって怒れない甘ったれで諸行の悪い若者たちをびしーっとしかるところが細木数子の番組の面白さなのだけど。でもあまりにも言葉がきつくて人を人と思わないようなこき下ろし方が不評の原因でもあるんだけど。それでもちやほやと褒めまくってべたべたする気持ちわるさよりずっとましだ。 この番組を見ていたら、いまどき流行りの褒めて育てるなんて子育て法はもしかするとそんないいものじゃないのかもしれないと思った。人に褒めてもらわなければ自分の行動をあげていけないようじゃたかが知れている。そして、厳しく育てられた人間の強さにはかなわない。社会が困っているのは、厳しく育てようとすると、きつい言葉一つだけでやる気がなくなってしまうほど今の子供や若者の精神力が弱いからだ。 細木数子は、相手の言われたくない部分を言うことで相手を諭し、江原は相手の言ってほしい言葉を言うことで相手を諭している。やっていることは同じなのだが、その方法が違う。どちらがいいかはそれぞれによって違うのだろうけれど。それで結局どちらがいいかは個人しだいなのだろうけれど。 一回見たくらいじゃわかんないから、また次をみよーっと。
2007年03月22日
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長男は駆け込みの中学受験でわずか一年のためにかなりハハードな受験を強いることになったので、下の子の高校受験はさすがにそんなのは無理だろうから、中一から余裕をもって勉強に取り組ませようと思っていた。しかし、実際には三年間の中にある長期休暇、夏休みとか、冬休みとか、を毎度塾の講習でつぶすというのはなかなかどうしてきついことだ。おちおち遊んでもいられない。難関校を目指すならいざ知らず、そうでないのなら、結局本気で取り組めるようになるのは、一年前なのだということが二人やってみてつくづくわかった。三年間四年間なんてのはあくまで塾の売込みだったり、目の前でちっとも勉強しなくていらいらして不安でしょうがない親の気休めのためだったりする。この親の圧力で塾の授業が増えていくものらしい。というわけで、下の娘は中二はすっかりだれまくり、やっと最近塾の授業を三科目入れて少しその気になり出した。大学受験となるとどのくらい塾に行くものなのか検討もつかなくて、いったいどれほどお金がかかるのかと思っていたけれど。現実には自分で勉強しなくては、意味がなくて、そんなに塾に行っても時間を取られるばかりでたいして役に立たないなあと最近だんだんわかってきたし、だんだん自分でやれそうなめどもついてきたので、塾はせいぜい週に一回か二回くらい。どうも、自力ではものになりそうにないようなものだけ講義をとることにした。何十万もかかったらどうしようとはらはらしていたのでほっとしてます。それでも、年間トータルでは結構ばかにならない。こんなにお金がかかるから、こどもなんて二人が精一杯。少子化なのも仕方ないけど、こんな国土の狭い国だし、寿命も延びてるし、定年も延びてるんだから、一人当たりの生涯労働時間とか考えると人口が減ってもちょうどいいかも。いや、受験の話を書いていたはず。要するに結局受験勉強なんて一年がせいぜいなんだなとつくづく。
2007年03月20日
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江戸城大奥。男三千人。 男の大奥というとんでもない設定を何かでチラッと読んで面白そうだなーとは思っていたんだけど、読みました。つまり将軍様は女。 いったいこの設定をどうやってつくったんだと思ったら、いろいろと作者が苦労している感じで面白かった。 つまり、日本の歴史はそのままに、ただ、男と女が逆転して社会構成されている。で、この男だけの大奥という設定を無理なく作るためにいろいろなストーリー上の仕組みを作るのに苦労しているのがわかる。 江戸自体初期。将軍家光の時代に「赤面疱瘡」という病気が流行る。この病気はなぜか若い男性だけがかかる。そして、かかったら最後絶対死んじゃう。この病気が日本中に大流行し、結局男性の人口がそれまでの四分の一に激減して、病気は終息する。ここまで男が減ると今までのように男に社会を任せておけないので、力仕事も社会のいろいろな重要な仕事も女性たちがまかなうようになる。男性は死亡率が高いので、家督を継ぐのも女。家長も女。そして、絶対数が少ない上に死亡率も高い男たちはつまり、種馬としての存在でしかなくなってくる。結婚も社会の上層や金持ちの商家くらいしか出来なくなってくる。子供のほしい場合は花街で男を買い、子種をもらってくるしかないし、貧しい武家に生まれた男子は種馬として毎日のように体を売られることになる。 いやー。要は大奥に男だらけで将軍が女という逆転の設定のためにここまで話の設定を作るのも楽じゃないなと。話の理屈にどこかで破綻が来ないように理屈合わせが並大抵じゃないくらいしんどそうです。そのぶん面白いけど。 現在二巻まで。この後どうなるんでしょうね。 ファンタジーというか、SFというか。とにかく男女逆転しているという以外は江戸時代の歴史はそのまんまなんですから。 そして、この社会構成ってミツバチとそっくりですね。さすがに人間には、一人の女だけに出産をまかせきるのはさすがに無理ですが。でも、オスが種付けの時だけしかいらないってとこもね。 男が少ない分社会的に貴重なわりになんだか大切にされてないのが不思議なんだけど。私は女なので読んでるとかなり面白いんだけど、男の人が読むとどんな気分になるんでしょう。聞いてみたい。 少女マンガ
2007年03月19日
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これで完結。これだけの長い話は珍しいですね。『ロッカーのハナコさん』(全部で9巻)以来でしょうか。でもハナコさんは全部描くのに時間や場所が結構飛んでますからね。某有名ホテルで働くキャリアウーマンの早歩はある日親戚の三歳の少女を預かる羽目になる。しかも少女はなんと狐のお面を付けていて、決して人に素顔を見せようとはしないのだった。はたして少女が心の傷をのりこえてお面をはずせる日は来るのだろうか。 いよいよわらしちゃんの素顔がみられる! 飛ばしてそこだけ見たい!という欲望を抑えて最初から順番にちゃんと読みました。ストーリーのナガレで見ないときっと面白くない。それに想像出来ない。どんな顔だろう。イメージとしては、どうしてだか、すこぐかわいい女の子が浮かんでたんですけど。 でも、実際のわらしちゃんは普通の、でもって眉毛の濃い~女の子だった。納得。だってすごーくがんこな女の子だったものね。 だって普通あそこまでお面をかぶって顔を見せないことにこだわりきるなんてなかなか出来ることじゃないですよ。普通はどこかで挫折しちゃうんじゃないかな。途中でめんどくさくなったり。 でもうちの子たちもすごく頑固者だったので、子供っていうのが大人からは想像もつかないくらいすごく頑固なものなのもわかります。 このお話では、ロリータ系のファッションがうまく使ってありました。ロリータは自己表現のための服だからです。 ホテルの保育室でわらしちゃんと一緒のえまちゃんて女の子がいるんだけど、両親が離婚してしまうんですね。で、この子がきているのがこのロリータ系のドレス。いつもこんな調豪華ホテルに来られる裕福な家の幸せそうにみえる少女が実は両親の離婚に傷ついていて、「私を見て」、という気持ちを表現しているのがこのドレスです。こんなに派手で、フリルだらけのドレスって絶対目立つし、誰もが振り返ってみてしまうでしょう。『下妻物語』でも書いたのですが、女の子の自己表現の現われなんですよね。大人の方はもちろんそんな考えはなくて、すっごくかわいいから着せたいと思うだけなんだけど。 で、ラストでわらしちゃんがやっぱりこのドレスを着てるんですね。 素顔を知らない早歩さんは最初わらしちゃんであることにきずかないわけ。早歩さんはわらしちゃんのためと思ってわらしちゃんをわらしちゃんの故郷の家に返して自分だけ帰ってきちゃったわけなので。そんな早歩のところにわら師ちゃんがひょっこり帰ってきたわけなんだけど。 でわらしちゃんも実はこんなロリータの服に憧れていたんですね。お面をかぶって誰にも顔を見られないようにして、自分の存在をかぎりなく無にしようとしていたはずのわらしちゃんも実は周りの人たちに「自分を見てほしい。きずいてほしい。大切にして愛してほしい」と思ってたわけで、ラストでロリータを着たわらしちゃんを見てあーなるほどなーと。なるほどこういう結末になるんだなと思いました。 もっとも、狐のお面をしていまどき珍しく着物着てる女の子の方がロリータよりよっぽど目立つし自己主張してるように見えるけどねえ。 でも子供にそんなことわかるわけないし。ちょっと「すずめのかくれんぼ」に似てますね。 作者の石井先生はもう少し違ったラストも考えていたみたいだけど。 んーでもなんでわらしちゃんがお面をはずせたのかがどうも今一つわからない。何でだろう。おかしいなあ。早歩さん自身の心理の変化は書かれているし、彼女の中でわらしちゃんの存在がすごく大きくなっている経過もわかるんだけど、一番重要で話のメインテーマのはずのお面をはずした時のわらしちゃんの心理の経緯がどうもわからなかったような。そのあたりの描写がないなあ。こまりました。 わらしちゃんがお面をしているように、他の普通の子供たちも見えないお面をしている子はいっぱいいる。あるいは大人だって。 まして子供は親の望んでいることを察知して「親の望むような自分」を全く無意識に演技している事だってある。普通にきちんと育ててもらって、愛してもらっている子供さえそうだ。そして、そういったことを理解してわかっていて、子供が素地のままであるようにと思っている親の子供でさえ、そうだ。 一見頑固でいうことを聞かなくて困っている子供でさえ、やはりどこかでお面をかぶっているような部分をもっていたりする。だから。子育てって難しい。 ところで、今回コミックスを買ってびっくりしました。だって私のハンドルネームが書いてあるんだもの!「みなさんのブログの感想読みました。ありがとう」って。作者石井先生ご本人からのメッセージがコミックスの余白のところに書いてありました。もちろん私だけじゃなくて他のかたがたのブログに対しても。前回の四巻の感想を書いた私の記事をまさか作者本人が読むだろうなんて考えもしませんでした。どびっくりーでした。こういう時ブロッグってすごいなーと思います。私はブログのこういうオープンなところが好きなので。誰が読んでるかわからないということをマイナスととるか、プラスととるかという意識の違いなんだけど、わたしはこの誰が読んでるかわからないってところが好きなんですよ。誰が読んでる川からないけど、でも、これを読んでいる人。私はこんな風に考えるけれど、貴方はどうですか。と。 それから、石井まゆみ先生の作品は大好きで、コミックスはもちろんレンタルじゃなくて全部買ってます。読めるものはたぶんみんな読んでます。石井先生これからもがんばってくださいね。 少女マンガ
2007年03月18日
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長男は期末試験も終わっておとといからもうすでに春休みです。つまり毎日、家にいる。でももう受験生ですからね。勉強してるのはいいんですが、母としては、とにかく毎日が子供のご飯作りに追われる日々。なんだか忙しいんです。普段だってお弁当とかつくってるわけですけど、あれは朝、ささっと作って持たせてしまえば、昼間はのんびり出来るし、まずかろうが何だろうが、目の前にいないんだから、どってことないし。 でも、春休みだと、みょーな時間に起きてきて、いきなり私に向かって「めしー!」という。全く親のしつけがなってない。それから一時間ぐらいですぐに「ひるめしは?」と、くる。なにしろそのあと図書館に行くもので。学校の自習室で勉強し、塾の自習室で勉強し、家で勉強し、結局結論としては、家からいちばん近い公立図書館が一番いいということになって、休みの日は図書館に行く。で、その前に朝ごはんと昼ごはんをおなかに入れていかないといけないらしいです。もう少しすると、娘も春休みになるから、二人から一日じゅうご飯の催促。食べる量もさらに増えるから、さらに買い物も大変になるし。おちおち掃除も、パソコンもしてられなさそうだ。しかも家はどんどんちらかっていくだろうし。 普段のときより運動量増えて、この期間の方がもしかすると太らないのかも。と、いいつつ、子供と食べる回数とか、おやつとか増えそうでアール。 ↑今読んでるところです。
2007年03月17日
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この番組は『フロジェクトX』の現代版だなと思うんだけど、今回は浦沢直樹とどっかの司会者(←こっちは覚えていないという…)さんだった。『20世紀少年』の作者浦沢直樹を見た!ケンヂにそっくり。かっこいーーーーー。めがねかけてて、ちょっとひげ面の中年のおじさんだった。ちょっとロンゲでカジュアル。どうみても、ケンヂでしょう。何のことはない。浦沢直樹は自伝を書いてたんだー。やっぱり『20世紀少年』は作者の自伝なんだ。とにかくもうかっこよかった。あのひとのあの頭の中にあふれんばかりの才能がぎゅぎゅーっとはいっているかと思うともうかっこよさ倍増。でも膨大な仕事量のせいで、すでに肩を脱臼し、左腕も痛めていて、シップをいっぱい貼っていた。何しろものすごく書き込んでる上に週刊誌連載だもんね。並みの仕事量じゅないと思う。『20世紀少年』はまだ完成していない。それまでに彼の手がだめになりませんように。 それにしてもかっこよかったぁ。やっぱり男は顔や学歴や頭の良さじゃないのね。やっぱり経験がいい男を作るのね。男のを作るのは、年輪なんだわぁ。あーかっこよかったあ。ちなみに一緒に見てた娘が「どこが?」っといっていた。あんたみたいにひよっこにはわからんよ。ふっふっふ。
2007年03月16日
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昨日に続いて今日も新宿御苑温室編です。だっていっぱい写真取っちゃったんだもの。デジカメってフィルムとかきにしないで、失敗もきにしないでバシバシ取れていいですね。マニラ麻です。これであの夏の涼しい麻のお洋服が作られるのですね。そうか。これからできるのかー。なるほどー。コショウの木です。世界の歴史を変えた植物です。西洋の人々は胡椒がほしくて世界の海へ船出して行ったのですからね。何気ない普通の木なのにね。これからスパイスが取れるなんてどうやって見つけ出したのか。不思議ですね。温室は全部で三つありました。これは二番目の温室の入り口。です。二階からはいるんですよ。さっそくなにやら実がなっているのを発見。なんだろう。二階なので上から目線です。ぼんかんだそうです。かなり大きい。大き目のグレープフルーよりさらにさらにずっと大きい。ハンドボールくらいだったかな。温室なんかで実がなってるのを見つけるとうれしいです。とっちゃだめだよ。ここは二階から入るので、上から温室を眺められます。そして、階段を下りていくと、さっきのぼんかんも下からまた見られるのです。いろいろと工夫が凝らされていますね。都民税が有効に使われているのを体感するのは気持ちいいものです。はっはっは。いい天気だったので、温室の中にいても気持ちいいです。あったかいので、光が南国の太陽のようでした。天井たかーい。そしてその高い天井まで木が伸びてる。三番目の温室につながる回廊がサンルームになっていました。白いイスとテーブルがあって、ちょっと休憩。何しろ晴れていて日が入ってくるのでちょっと熱いくらい。もうジャンパーいらないな。やっぱこれでしょう。サンルームで飲むなら。でも、イチゴとか桃って南国の果物じゃないよね。サンルームの天井。雲が見えます。ちゃんと充電してなかったので、そろそろ電気の残量がなくなってきてしまいました。まだまだあったんだけど、取れなかった。残念!最後はこれ。すいれんです。ここまで取っておしまい。おしい!JRのガード下をくぐって新宿御苑に向かう道です。でも、最後につかって帰り道のイメージ。さようならあ。またきまーす。はー。お疲れ様でした。写真のアップにもだいぶなれました♪ ↑新刊。完結巻。わらしちゃんの顔が見られる!東京写真
2007年03月15日
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寒い中新宿御苑をお散歩。でもやっぱりひえてくる~。こんな時うれしいのが温室ですね。キットあったかいに違いない。新宿御苑にも温室があります。こんな公園の温室なんてどうせたいしたことないわよ。なんて思うでしょ。ところがどっこい結構大きくて広くて、充実してるんですよ。わーい。伊豆バイオパークみたーい。しかも近くて安い。御苑の入園料でここも見れるんですから。温室の入り口。結構大きいんですよね。近くで見ると。こんな赤いはっぱがあるのも南洋植物ならではです。名前は…なんだろう。見てこなかった。いかにも温室です。あったかいし。温室なんて久しぶりー♪ところ狭し植えられていて、すごくいっぱい。どこもかしこも南の国。いちいち見てない。けどね。ホースです。すごい。こんなきれいに片付けて置いてある。わたしなんかほっぽらかしだもの。ホースがあまりにうつくしいのでおもわずぱちり。温室係りさんごくろうさまです。ハイビスカスです。いかにも温室らしいものもほしいので。でもあんまりハイビスカスはなかったですね。シーズンがちがうのかな。レモンです。少し…かなりでぶっちょだけど、でもレモンです。まだまだあるけど本日はここまで。続きはまた明日にしまーす。都道府県別の情報
2007年03月14日
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東京に住んでる割にこういう東京の名所ってあんまり行かないのですよね。以前に行った時は子供たちはとても小さかった。下の子はまだバギーに乗っていた。その時は桜を見に行ったのでした。先日はだんな様が会社お休み。子供たちは学校に行っていたりするしで、昔のように遠出もしずらいし、どこか近場でと考えたら、新宿御苑くらいしかなかった。千葉の方はいまいちいいところも思いつかないし、だだっ広いだけのところは子供もいないし、回るのも大変だし。でもまだ桜はあまり咲いていませんでした。シーズンに来ればすごく満開のさくらがきれいなところなんだけど。わずかに咲いていた桜でーす。向こう側にビルが見えるところがいかにも新宿御苑ならでは。先日買ったデジカメがやっと出番です。ふふふ。はくもくれんです。ちょうど今が咲き時らしくて、どれも満開。もくれんて、いつ見てもミステリアスで不思議な花だと思う。新宿御苑名物?プラタナス並木。ここにきたらやっぱり見ないと。みつまた。珍しいというか、こんなのはじめてみたし、知りました。こんな植物もあるんですね。枝の先がみっつに別れてるからこういう名前だそうです。春ですね。こういう花もみんな満開なんだもの。みつまたのところにあったプレート。今しか見られない花のようです。紅梅です。うめもまだほとんど咲いてなかった。時期が早すぎなんだ。右にあるのがボケ。うめと似てるけど違うんだよ。針葉樹なわけだけど、これはなんだろう。この手の公園に行くとよく広場の周りにありますね。でっかくて豪快。自分ちの庭には無理だもんね。最後にこれも桜。アップにしてみた。早く満開の桜のお花見がしたいです。今年はきれいに咲いてくれるかな。はー。なれないのもあるけど、写真載せるのって大変。疲れるよー。長たらしい文章書いてるほうがましかな?
2007年03月13日
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昨日の夜テレビでやってたんです。 ボスニア上空からの撮影任務の途中に撃墜されて、ボスニアのど真ん中に落ちてしまったアメリカ軍の大尉の脱出劇。途中大尉はセルビア人民軍の虐殺行為をみつけ、証拠写真を持ってこの戦争犯罪を公開するために決死の逃避行となる。 適当に見ていたら、最後の方で、彼を助けに来てくれた上官のヘリコプターの待つ中、あめあられのような銃による攻撃の中、大尉は命がけで証拠写真を取りに行く。これを持ち帰らないと話が成り立たないもの。 適当に見ていたのだが、ここまで来てこの作品が『正しいアメリカ』の映画であることにきずいた。主人公は超ハードな地雷原の中も、砲弾の嵐の中も、決して死ぬことなく、突き進んでいく。これは『正しいアメリカ』の英雄の映画なので、どんな窮地であろうと主人公は絶対死なない。 一昔前なら、感動して見ていたこんな作品が、今見ると、ちんけで陳腐なヒーロー映画なのだ。一緒に見ていた長男が「まるでディズニーじゃないか。」といってけらけら笑い出してしまった。主人公が危険な状況を必死に戦えば戦うほど、見ているこちら側にはチンプにしか見えない。 「なんで今時こんなもの流すんだ?」という長男に「ほんとにー。何でだろう?」と、言い合っていたら、映画の後に『エネミーライン2-北朝鮮への潜入-』のDVD新発売を記念して抽選によるプレゼントのお知らせが入った。そっかー。 『エネミーライン2』新発売の宣伝のための放送だったのか。「なんで北朝鮮に潜入するの?」と長男が聞く。「そりゃあもう正しいアメリカだからね。北朝鮮も潜入してこないとね。」 エネミー・ライン@映画生活
2007年03月12日
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本屋で見かけ、古本屋で見かけ、どうも面白いらしいと思っていたのです。読もうかなと思っていたところで最近やっと読めるようになりました。 ツタヤがレンタルコミックをはじめるらしいと新聞で読んで「わーいいなレンタルなら安く読める」と期待していたら、よくよく考えるとWEAR HOUSEでもやってるかも。ってことにやっと気がついた。私がよく行くお店は小さいのでコミックスは置いてないんだけど、別のもう少し遠いお店は大きかったからもしかしてあるかも…と考えて行ってみた。ありました。アリマシタ。買うほどじゃないけど、読みたいって漫画がいっぱい。しかも、八冊セットで一週間で400円。安い。 だって買えば一冊400円はするし、コミックカフェだって一時間でやっと一冊読めることを考えると安くない。それに人気の青年コミックスはみんな巻数が多くて、買ってるときりがない。その割りに読み終わるともういいやっと思う。デモ、ブックオフで売っても思うほどの値段はつかない。漫画は普通の本より高い感じ。 で、レンタルで読みたかった『20世紀少年』を見つけた。なんと現在22巻まで出ている。それでもまだ完結していない。三週間かかってやっと読み終えた。もうあと一章で完結らしい。話はクライマックス寸前まで来ている。くううう。気になる。 今の40代の大人たちが少年だった頃の世界観を再現しまくり。ノスタルジーたっぷりの作品構成がおもしろい。 私たちが子供だった頃は、SF漫画が山盛り流行っていた。未来はきっと宇宙へどんどん出て行くような世界になると信じていた。でも、実際には、そのあと、予算不足で宇宙開発事業はどんどん削減され、SF小説もその後は逆に下降現象になっている。いまだにロケットは月まで行くのもやっとである。宇宙に住むなんてなんだかぜんぜん実現しそうにない。 科学いっぱいの未来はどうなっちゃったんだろう。ちょっとがっかりである。それでも、昔漫画やSFで予告されていたような、テレビ電話やリモコンは私たちの日常の中にごく自然に入り込んでいて、これがかつて予測された未来のものだってことに気づかないくらい。 『鉄腕アトム』の漫画に描かれていたような高層ビルの中の空中を道路が走り回っている景色も、流線型に近づいてきた乗り物も確かに現実になっている。最も私「アトム」は読んでないですけど。 そしてかつての昭和の少年だった主人公たちは現代では大人になり、物語はさらに未来になっていく。世界征服をたくらみ、人類滅亡を計画する世界最高の悪者ともだちに、主人公ケンヂとその友人たちが、かつての漫画のヒーローのように立ち向かっていく。 ケンヂは最初は町のしがないコンビニの店長でおよそかっこよくなかったのに、なぜか物語が進むにつれてどんどんかっこよくなっていく。武器を持っているわけでも、スーパーマンのように強いわけでも、超能力があるわけでもないのに。ただ、ギター片手に歌っているだけののそーっとしたミュージシャン崩れの中年おじさんなだけなのに。同じ町の同じ世代の一緒に遊んでいた少年たちが、未来で正義の味方と悪の帝王になる。彼らを分けたものはなんだったのか。誰もが正義の味方にあこがれていたはずなのに、悪者になってしまうその境界線はなんだったのか。 かつての昭和中期の懐かしい風景や子供の頃に見たたくさんの漫画なんかのエピソードが出てきて、四十代の私たちにはとても面白い。秘密の暗号を同世代の読者同士で共有しているような物語だ。 けれど、これを今の若い子たちがみると、わかるのだろうか。そういうことがわからなくても面白いだろうか。 しかし、実際に相当売れているようだ。結末が楽しみなんである。 少年マンガ人気blogランキングへ
2007年03月11日
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前回の『パフューム』の記事で結論が母の香りになったのは、ラストで主人公が自殺した場所が魚市場だからです。自殺の場所はどこでもいいはずなのに、なぜ魚市場なのか。映画を見ていて、ラストで主人公が魚市場で死んじゃったシーンをみて愕然となりました。えええっ?これってそういう話だったの?そういう結末になっちゃうの?母性の話なの?ミステリアスな殺人の、においの天才のミステリーじゃなかったの? においを持たない自分に絶望して死ぬ。世界征服を目指す傲慢な男であればどこで死のうがいいはずなのに。あえて魚市場であったということが。 彼が女性たちのにおいを集める時に何も殺さなくてもいいのでは?手足をしばって口をしばって声を出ないようにするとか気絶させるとか、眠らせるだけでもいいのでは?第一いくら死んだばっかりでも、すでに死体からにおいを取るって気持ち悪くないか? 女の人がいいにおいなのはあくまでも生きているからなのでは? それが死体なのはそこに死臭があるからかもしれません。ジャンバティスト自身、たぶん自覚してなかったんじゃないのかなと思うんだけど、彼が集めているものが母へのノスタルジーであるのなら、母のにおいは魚の腐臭つきなわけですから。母のにおいブラス自分が生まれついたその場所のにおいというか、母自身に染み付いていた魚のにおいもまたコミなのではないのだろうか、と。その魚はもちろん死んでいて、だから彼の作る香水には死臭もはいってなくてはなりません。 でもたとえ、死臭が入っていたとしても、まず普通にはそんなのわからないんだけどね。そこがまさにジャンバティストだからなんだなと。 つまりはマザコン男の話でしょか。 男ってそんなにマザコンなのかな。戦場で兵士が『お袋』を思い出して恋しがるシーンとかよく戦争ものに出てくるのだけど、私は女なので、母親ってそんなに懐かしいものなのかなあと、いい年をしたごつい大の男がお母さん恋しがるんですかい?と毎度不思議だったんですけどね。でも、実際に自分で男の子と女の子と育ててみると、母親との距離感や関係や感情の通わせ方なんかが、男と女では明らかに違うんだな。 現代は、母原病とか、マザコンとか、冬彦さんとか、過保護とか。母親と息子がねっちゃり仲良すぎたり、かまいすぎたり、ってことにとても否定的ですね。私もあんまり息子をマザコン男にしたりしたくないし、まあ、親の言うことを何でも良く聞く自分の意志のないお母さんっこにしちゃいかんだろと思いはしましたが、実際に育ててみるとやっぱり男の子って母親との関係性は女の子以上に大きいのかもしれません。 子供はよくお母さんのためにがんばるとか、中学受験でも親のために勉強するとか、あるんだけど、そういうのは良くないかなと今まで思ってたんですけどね。高校、大学の受験となればまあ自分のためにがんばるのでしょうけどね。それでも、人間の自己存在のために母親の存在が大きく影響するのだとすれば、母親のためにがんばろうとするこどもの感覚は必ずしもマザコン的なものじゃなくて、人が人として、個を確立していくために必須のものであるのかもしれない。 先日も再放送のドラマを見ながら、考えちゃいました。幼い頃からほとんど家にいない家出ばかりしている母親が、ひょっこり現れた時、主人公とその姉がすごく喜んで「お母さん。お母さん」といいながら一緒に嬉しそうに夜寝てたりとかする。彼らはすでにもう、社会人と大学生なんですけどね。そんなに母親の存在って大きいのでしょうか。うむう。 私なんか普通の母親でしたから、母のいない喪失感なんて実は全然想像つかないんだよね。本当は。 それでも最近では子育てのしんどさや女性の社会進出、男女差別の是正、なんかもあいまって、今まで言われてきて母性愛なんてうそだ、社会が女性にだけ子育てを押し付けるためのもので、本当は女性がみんな母性愛を持っているなんてことはないといわれ始めていて、今では母性愛なんてないってのが逆に社会通念になってきました。 本当のところはどうなのか。子供をかわいいと思う感覚は、女にも男にも同様にあり、子供を義務で育てているだけでかわいいなんて全然思わない感情もまた男女共通の同等のものなのかどうか。 それでも、今中学生の娘を小さな頃からずっと見ていると、やっぱり女の子には母性があるんじゃないかなと思います。三歳も年上の兄に対して母親のような口の聞き方や面倒のみかたをしていたりするのです。そして母親でありながら私も彼女の体臭をすごくいいにおいだなあと思い、時々くんくんとかいでおります。まるでジャンバティストのように。私も変態か?女の子がこんなにいいにおいをもってるなんて娘を育ててみて初めてしりました。ちなみに男の子は赤ちゃんのときからすでに男くさいんだ。 幼少時からもつ女の子の体臭の独特なにおいというのが、たぶんそのまま成長した時、男性をひきつける要素も母性の要素も持ち合わせたものなんじゃないのかなと思うんですけどね。 私もかつて少女だったわけだけど、自分がどんな匂いを持つのかなんて考えたこともかいだこともなかった。ついでに自分のにおいって普通わかんないものじゃない。自分のにおいを抽出されて、嗅がせてもらったとしても、たぶんわかんないと思う。だから、ジャンバティストが自分ににおいがないと思ったのは単なる勘違いで、人間は自分のにおいはわからないものだってことにきずかなかっただけだと思う。 彼にとってはにおいが全ての価値を決めるものなのだから、それが自分にないと認識したときの恐怖ってなかなかですね。自分が幽霊だって自覚のない幽霊が、自分は実は肉体を持たないってきずいた時に似てますね。 それでまあ、娘を持って初めて女の子ってこんなにおいなんだなって知ったんだけど、集めたくなる気持ちわかります。そして、男の人たちが、女性に夢中になる理由も。すごくいいにおいがするんだもの。 映画の場合は、女優の顔の美しさでいい香りを観客にイメージさせてましたけど、すごいブスなのに、すごくいい香りの女性とかだとお話はどうなるのかな。顔を見てすごいブスと判断する周りと、においのよさで美人とブスの評価が決まるジョンバティストみたいな男がいたら。見た目ブスの奥さんなんだけど、鼻のいい夫は自分の奥さんはすごくいいにおいの世界最高の美女だと思ってたりする。人間の価値観て面白いですねえ。基本的に私たちは目で見えるものが最優先なので、顔の美醜で美女を決めるけど、もし目があんまり見えない場合は、声の美しさで決まるだろうし、平安時代は、髪の美しさや歌のうまさできまってたそうですね。何しろあの頃は直接高貴な女の人は他人に自分の顔は見せないものだったので。で、普通は、目、次が耳で、美醜が決まるのは、人間は嗅覚は動物とちがってあんまり発達していないから。だとしたら、動物の世界の美人はにおいで決まるのか?そういえば動物ってよく、相手のにおいをかいでるものね。つまり、ジャンバティストって動物と同じ価値観で生きていたのでしょうか。動物に倫理なんてないし。でもメスを殺したりはしないけどね。 そういえば、野生の動物の子供ってたまたまひろっても人間が抱いたりしちゃいけないんですよね。人間の匂いがつくと母親がその子供を育てなくなっちゃうから。子供を視覚ではなく、においで判断しているともいえるのでしょう。とすると、動物に母性はないのか。 自分に匂いがないことにショックを受けていたジャンバティストですが、もしかして、自分にもあの脂布巻きつけて、自分の体臭を抽出して嗅いでみると案外自分のにおいがあるってことがわかって、彼は救われたんじゃないのかとか、想像してみました。 彼はにおいで全てが決まるから、自分を透明人間のように感じていたけれど、周りの人間たちは視覚やその人間の行動で人の価値を決めるものです。そのずれにジャンバティストが気づくことが出来たなら、彼の絶望はなかったかもしれません。 現実のわれわれもまた、自分の価値観と他人が自分を見る時の価値基準の違いに意外と気づいていないのかもしれません。 話がずれまくりでだんだんわからなくなってきました。 が、要するに、ひとが人になるためにやはり親である人間に育ててもらわないとだめなのか。 わが子が確たる将来を決めてしっかりと生きていけるようにするには母親の愛情ってやっぱり必要なのかもしれないのかなと、私考えたのでした。だから、ジャバティストは世界征服をやめたんじゃないのかなと。 子供がいい社会人になるにはしっかり育てないといけないのかも。その子自身の価値観ではなく、社会の価値観を教えないといけないのでしょうか。 母性の話と映画の話とにおいの話が混ざりまくりでした。ま、いいか。
2007年03月10日
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母親の愛情って、やっぱり大きいのかなあ。ないとだめなのかなあ。子供たちにとって私の存在ってそんなに意味あるのかな。私がいなくなっても何とかなると思ってたけど、やっぱだメかなあ。考えてしまった。でもまあここまで育てたことだし。後は大ジョブ大ジョブ。 見終わって思い出したのは、映画『アレキサンダー』だった。彼は世界の果てまで征服したのに、自分が求めているものが何なのか、最後までわからなかったのだ。自分の中の喪失感に最後まできずかなかった。そのために世界の果てまで征服の戦いの旅をし続けたのだ。アレキサンダーが本当に求めたものは世界征服後の大帝国を手に入れることではなかったのではないだろうかと、ちょっと考えてしまった。 実の母親に愛されていないことにずっと悩み続ける主人公を描いたのが下村湖人の書いた『次郎物語』だった。少なくともこの物語の主人公次郎は自分が求めているものが何なのかわかっていた分、ましだったのかもしれない。三人兄弟の真ん中に生まれた彼は、生まれてすぐ乳母に預けられて育つ。成長して生家にもどった彼はすでにもう母親に甘えるすべを持たず、けれど自分に冷たい母との関係も修復できずに、ずっとその心の影を引きずっている。物語のラストで彼は母に愛されない自分という認識から、実は他の多くの人たちから自分が愛されていたことに気づくのだけれど。 けれどアレキサンダーは実母から愛されないことの、その自分の中の喪失感に終生気づくことはなかった。 そしてこの物語の主人公ジャンバティストもまた、類まれなる才能をフルに使い、その生涯において全霊をかけて追い求めていたものに、物語のラストシーンで始めて気づかされる。そんな物語だった。 彼の四人の兄たちは死産で、母親によってその死体をセーヌに投げ捨てられ、彼もまた、魚市場の魚だらけの汚い地べたに生み落とされ、兄たちと同じ運命をたどるはずだった。もしジャンバティストが普通に生まれ、普通に母親に愛されて育っていれば天才調香師として、幸福な人生を送っていたのではないだろうか。もちろんその場合、この物語で作られたような至高の香水は出来ないだろうけれど。 けれど彼は母親に愛されることも抱きしめられることもなく成長し、自分が追い求めるものが何なのかわからないままに、その才能を駆使し手に入れようとし始める。 香水というのは、つけた後、その人の体臭や体温と混ざり合って独特のにおいを作り出す。だから同じ香水をつけても、人によってその香りは違ってくるらしい。 だったらいっそ、調香の段階で最初から人の体臭も入れてしまうってのはどう? ということになったのが、この作品における香水作りなわけだけれど。 作中で次々と人を殺すジャンバティストを見ていると、およそ罪悪感を感じている様子がない。彼の生い立ちを考えてみればごもっともな話である。彼は幼少期から一度も人に抱きしめられたことも愛されたことも優しいいたわりの言葉をかけられたこともなく、ましてや殺人を戒めるような道徳や倫理の教育を受けたことすらない。わが子を産み捨てる母親なんかが当たり前にいるようなこの時代に、はたして殺人やそれ以外の悪徳を戒める道徳が底辺の市民たちの中に存在したかどうかしごく疑問である。 だとすれば殺人者としての彼を責めて極悪人としてなじり、その罪を罰することが出来るものなのかどうか。 美しい赤毛の美女たちの放つ芳香に酔いしれる主人公に、みている観客のこちら側は彼が求め作ろうとしているのが、女性の持つ性的なフェロモンの香りなのだろうとつい思い込んでしまうのだけれど、究極の香りを手に入れたはずの彼はそれを使って世界征服をすることもなく、せっかくの世界最高峰の香水をわが身にふりかけて、その生涯を終えてしまう。 観客にすればなぜ?というところだろう。 ジャンバティストは彼の生まれついた魚市場にもどり、魚市場にすまう人々によってその体は飛散する。彼は母親の子宮に戻っていったのかもしれない。彼が求めていたのは母親の愛であり、母親のぬくもりであり、母親独特の体臭だったのではないだろうか。 ここにいたって初めて、彼が香水ビンの中に閉じ込めようとしていたのが、世界最高の香りではなく、彼の母親の体臭だったことにきずく。 生まれついた時ほんの一瞬だけ嗅いだ母親のにおい。普通の子供ならそのあと母に抱かれ存分にそのにおいをかぎ、心を満たされるはずのもの。そして、普通の人間なら記憶にも意識にも残らないはずのその母のにおいを、たぐいまれなる嗅覚をもつジャンバティストは、うみおとされるそのホンの一瞬に記憶したのだ。けれどこの時彼はまだ赤子で、それが何なのかはわからないまま。けれど、狂おしいほどに欲しいもの。 自分の中の喪失感にきずかないまま彼は成長する。そしてある日彼は街中で、母親の体臭にそっくりな体臭をもつ女性に遭遇する。かつて彼が本能として求めかなわなかった母のぬくもりにそっくりなにおいをもつ女。自分が手に入れることのできなかったあのにおいを永遠に手に入れたい。 彼の放浪と迷いと罪悪の旅のはじまりだったのだ。 そして、その果てに完成した究極の香水。まるで媚薬のように人々を酔わせ、人肌のぬくもりを求めずにはいられず、その香りを持つものにひれ伏さずにはいられない香り。 アレキサンダーが剣によって世界を手に入れようとしたように、世界を手に入れることの出来る香水という最強の武器をを手に入れたはずの彼は、世界を手に入れるほどの力を得た時初めて、自分が求めていたのが世界ではなく、自分が必死に求めていたものの正体が、母親に愛されていない喪失感だったことにきずく。 母親に抱きしめられて初めて得ることの出来る自分の体臭。だから彼には体臭がない。 しかし、彼が人間であり哺乳類である限り、化学的にそんなはずなんかない。だとすれば彼の体臭がなかったわけじゃなく、彼が求める母の体臭を彼は彼の中に見つけられなかっただけかもしれない。母親に愛されることのなかった人間のその存在感のなさと心の不安。 母親に愛されるということが人間の存在の核となるもので、それを持たないのであればたとえ世界を手に入れても、人は充足することはできないのだろうか。 そして彼は母親のにおいを他の女たちの中に求めていく。その方法としての動物の脂を使った方法は不思議ではありませんか。いくら優れた方法とはいえ、彼ほどの嗅覚を持っているとしたら、動物の脂のにおいが女性のにおいのエキスの中に入り込んでいることにきずくはず。誰がきずかなくても、彼だけはその動物のにおいにきずくはず。普通ならそれは醜悪で邪魔なにおいのはずじゃないのか。 けれど、動物のもつ哺乳類のにおいと、母親の人間として、つまり哺乳類としてのにおいとが重なり合い、そこに女性のにおいが混ざった時、彼の求めるにおいは完成しえたのかもしれない。 「香り」と「におい」という日本語の二つの言葉には、よい香りとくさいにおいという二つの意味合いに分かれて使い分けされているものだけれど、『パフューム』という言葉には、香りという意味とにおいという意味との両方を持ち合わせていて、原作の翻訳の段階では「香水」と訳されていたけれど、今回の映画ではそのまま『パフューム』と表記されていたのには、そんな物語の含みの表現があるのかもしれない。 作中で彼が香水『愛と精霊(プシュケー)』を批判するシーンには、けばけばしい飾りではない人肌のぬくもりとにおいの持つ素朴な美しさへの礼賛と、愛を否定する彼の心理が微妙に暗喩されており、香水の物語と思い込んでいた物語が実はよい香りとくさいにおいに良い悪いの区別のないジャンバティストの、彼にとっての究極の香り(におい)を求めての遍歴の物語であったのだとわかる。 以上は私個人の解釈なので、実はあんまり自信ありません。全然ちがうだろと言われてもしょうがないですが、ま、思いついたので書きました。 それでも香水の描写と物語の微細な展開と構成は見事な物語でした。拍手!追記を書き足しました。読んでね。 パフューム ~ある人殺しの物語~@映画生活外国映画、洋画
2007年03月08日
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やっと受験勉強が軌道に乗り始めて毎日問題集と向かい合っている長男。 「くそー○○大学。はいりてえなあ。」 と、毎日一回は勉強しながらつぶやく。私も入ってほしいです。その先がどうなるかわかんないけど。勉強のハードさについかわいそうとか考えちゃうんだけど、そんなことより、思志望大学に入れない方がずっとずっかわいそうなんだ。だから、目先のかわいそうに流されないように気を引き締めないといけないんだと思う。 つい、こんな朝から晩まで模試なんて大変なんじゃないかとか、塾が夜遅くまでになるなんてとか、ついついつい、思っちゃうんだよー。 でももう大学受験生だし、あとたった一年のことだ。 しかし、受験勉強をやり始めてからなんだか生き生きしている。今までの五年間のノーんびりして、だれだれだった普通の中高生活よりよっぽど充実していて楽しそうだ。いい点が出せれば勉強ってのは楽しいからね。 明日から期末試験。歯を磨いてもう寝るようです。このひと夜なべの勉強もしない。けど、朝早くおきて勉強もしない。昼間しか勉強しないけどね。 でもこの先、今の問題集が終わったら、何をすればいいんでしょう。ぜんぜんわかんないです。 中学受験みたいに塾が手取り足取りってわけじゃないからわからないなあ。
2007年03月07日
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これは三重構造の物語です。 物語で不正を摘発されるスリービーズ。三匹の蜂。蜂ってつまり働き蜂でしょうか。つまり庭師によって働かされ、がんばってためた蜂蜜つまり利益は庭師つまりはこのさらに上にいる存在によって吸い上げられてしまっているのじゃないか。わざわざ蜂というネーミングにしてあるのは、映画の原題が庭師だからという他にやはり、利益を集めながら、さらにその上にその利益を搾取されているに過ぎないのではないか。製薬会社のその上にいる存在を暗に示しているようにも思えるネーミングのように思えたのです。 そして、この物語の一番のテーマであるアフリカ人の命は安いということ。先進諸国にいいようにされているアフリカ。しかし、その内部に入ってみれば、主人公ジャスティンが最後に訪れる僻地の貧しい村のそんな場所でさえ、さらに土地の村びとたちは部族間での紛争をしている。 単純にただ、発展途上国を搾取する先進国の悪だけでなく、その搾取されているはずのアフリカの内部にすら存在する争いまでが描かれているのだ。うち側にも外側にもある利益のための争いに、まさに人間の原罪が描かれている。 非常に複雑な物語構成に脱帽です。 ところでヒロインの名前のテッサはもしかすると、マザーテレサから来ているのかも、とも、思いました。似てるでしょう。 人類の歴史は、支配欲を持つ男たちと、情によって生きる女たちとの、壮絶な対立の歴史なのかもしれません。この対立にいつか結論がでるものなのでしょうか。 以上。書きそびれたぶん、書き足してみました。
2007年03月06日
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私はアンケートって結構好きです。しかも、楽天アンケートなんかはポイントまでつくし。だから、うっかりして答えそびれたときはちょっと悔しい。あるんですよたまに。クリックすると、「規定量に達しましたので終了しました。」てやつが。 でもね。今さっきやったチョコレートのアンケートのあの文章は何とかならんのですか。 「あなたはアーモンドチョコレートをお食べになりましたか。」 ってあるの。質問のたびに毎回「お食べ」が出てくるの。 うーん。 これだって敬語なのか。でもなんか気持ち悪い。釈然としない。この敬語は正しいのか。 普通は「召し上がる」ってのを使わなかったっけ? お召し上がりになりましたか。かな? えー。 どうしてもね。京都の銘菓の「おたべ」が頭に浮かんじゃうんだよね。 「お食べ」は間違ってないかも。でも美しくないよー。なんとかならんか。 で、このアンケートの文章は楽天のアンケート部が作っているのか。チョコレート会社の宣伝部が作っているのか。 果たしてこれからの日本の敬語の運命やいかに。 でもねー。このアンケートは久しぶりに30点ついた。ほくほく。
2007年03月05日
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ひとくくりにする恐怖。 昨日この映画の感想を書きながら、いまひとつ記事の結論がゆるくて、結論が出きらないままアップしてしまったのだけれど、そのあとつれづれに考えてみると、この話は要するに「ひとくくりにすること」に問題があるのか、と思い到った。 フツ族はツチ族にかつて支配された。その時のいろいろな屈辱が、恨みとなって、とうとう仕返しの行動に出たのが、1994年の大量虐殺事件だったわけだけれど、でも実際に殺された人たちが直接フツ族の人たちをいじめたわけではない。フツ族の人たちを実際に苦しめたのは、その支配当時、ツチ族の上層部が指揮を執っていた人間や、過去の人たちなのだ。 それが全て、ツチ族としてひとくくりにされ、ツチ族の人間はみんな憎い。ということになってしまう怖さ。 つまりは『全体責任』ってやつでしょうか。 昔よく学校で悪いことをすると、クラス全員の責任にされて、怒られましたけどね。注意したり、とめなかったんだからってことですけどね。でも、この場合そんな理由で全体責任にされて殺されても困ります。だって、その時まだ生まれてなかった人たちまで殺されてるんだもの。 みんなツチ族だとしても、フツ族をいじめたツチ族の人間と今殺されるツチ族の人間は違う。みんなツチ族だとしても、その中の一人ひとりは全然別の人間なのだ。 積年の恨みがあるのはわかる。でも、その怒りを向ける対象は違う。そのことにフツ族の人たちは気づくべきなのだ。 集団があったとしても、それを全てひとくくりにしてはいけない。一人ひとりはみんな違う。だから、「見分けがつかない。みんな同じルワンダ人じゃないか。」というのが、「みんな同じツチ族じゃないか。だから殺せ。」になっちゃう怖さ。「同じツチ族だけど、一人ひとりちがうんだ。だから殺していいはずないんだ。」 というのがこの映画のテーマの一つなんじゃないかと思いました。だからこれを内乱といえるのかどうかとか、周りはどうすれば一番いいのだろうかと、考える必要があるなと思います。また、こんな事件がアフリカやそのほかの国で起こった時、先進諸国や、日本はどんな対応をすべきなのでしょう。そして、もうこんなことの起きないように、今どうすればいいのでしょう。考えるしかないですよね。以上、昨日書きそびれたんでした。
2007年03月04日
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私、平和ボケしてます。 今まで見てきたのはほとんどが戦争映画だった。ハードな戦闘シーンも多かった。でもそんなものよりもっと怖いのは、やっぱりごく普通の市民が女や子供や老人までもが、死の恐怖と隣り合わせになる怖さなんですね。 1994年、アフリカのルワンダにおける、ツチ族とフツ族との民族間抗争が激化し、大量虐殺が行われた。これは内乱だから、国連軍や諸外国は手を出すことが出来ない。今目の前で大量殺戮が行われていても、国連軍は殺される側を助けることも出来ず、手をこまねいて見ていなければならない。 一つの国がまとまるためには内乱や民族間抗争はある意味必要悪であって、そういった抗争を潜り抜けなければ、国は一つの国家としてまとまることは出来ないのではないか。そうは思ってみても、それは所詮俯瞰、神の視点であって、いざ自分がその渦中でいつ殺されるかわからないとしたら、そんなものは理想論であり、空論であり、そんなことはどうでもいいから誰か助けてほしいと思うはずだ。そして、いざ自分がその中で国連軍だとしたら、助けてといわれて手をこまねいてみていることもまたつらい。 かつてソマリアで軍事介入したアメリカ軍が、逆に現地の人々に虐殺された過去などもあり、内政干渉はできない。 しかし、かつての先進国の内戦の場合は、周りの国々も助けるほどの余裕もなかったし、敵対する部族を皆殺しにしようとまではしなかったはずである。しかし、ルワンダにおける民族間抗争は敵対する部族を全て根絶やしにして、ルワンダを一部族だけの国にしようとした。そして、周りの諸外国もまた、過去とは違っていろいろなフォローが出来るだけの経済的、軍事的余裕をもっているのも事実なのだ。 だとしたら、殺される人々を助け出す手段もあるはずだ。それでも手をこまねいてただ見ていることが、本当にいいことなのだろうか。国は内乱を潜り抜けなければ一つの国家として統一できないものなのだろうか。そして、いったい、民族間抗争の起きる原因は本当に過去のうらみつらみの蓄積だけなのだろうか。 一つの部屋で20人の子供が遊んでいる。10人は赤い服を着ている。残りの10人は青い服を着ている。そこに10人分のお菓子が渡される。10人分のお菓子を20等分してみんなで仲良く食べるのが理想なのだが、ここで赤い服の子供が、青い服のやつらに食べさせる必要なんかない。といって、赤い服の子供だけでお菓子を分けようとしたら。赤い服の子供と青い服の子供はけんかを始めてしまった。服の色が違うだけでみんな同じ子供なのだが。 さて、お菓子を与えた側は、黙ってみているか。みんなで分けて食べるように言うのか。あるいは喧嘩をとめるのか。一番いいのは、最初から20人分のお菓子を与えること。そうすれば喧嘩になんかならない。でも、お菓子は十人分しかない。どうすればいいのだろう。みんなで後10人分のお菓子を探しに行く。手に入れるために努力する。 20人で20人分のお菓子があればおなかは満腹。みんな満足して平和だ。 さて、人間同士の差異はあるのだろうか。ないのだろうか。劇中で、白人がツチ族とフツ族の女性の顔を見比べて、『同じに見える。どこが違うんだ』という。この言葉には、「みんな同じルワンダ人なんだから、くだらない争いはやめて仲良くしよう」というメッセージに感じられる。しかし、本当にそうだろうか。 確かに日本人の私の目から見ても同じに見えた。何でほとんど同じなのに、争うのだろう。 しかし、物語の最後で、主人公の妻タチアナが行方不明の兄夫婦を探し、その途中に難民キャンプでやっと姪っ子を探し当てる。たくさんいる子供たちの中から、タチアナはやっと姪っ子を見つけ出して、喜び連れ去る。でもねえ。私には全部ほとんど同じ顔にしか見えなくてね。彼らは写真を多くの人に見せながら探すんだけど、ほんとに私には見分けつかないんだよね。でも、彼らが探し出して、面倒を見ようとしているのは、自分たちの姪であって、他の子じゃいけないらしい。当たり前だけど。でも私の目から見ると、同じなの。 もし、私の子供も含めて全部子供を集めて、そのあと、貴方は二人だねって言われて、誰か知らない子供二人渡されて、子供二人なんだから、同じでしょって言われても困ると思う。私が愛して一生懸命育てているのは、あくまで自分の子供たちなんだから。よその子を渡されて、子供なんだから同じでしょって言われてもねえ。 中国人も韓国人も日本人も、西洋人の目から見れば同じらしい。だから、「別々の国になってないで、一緒に一つの国になって仲良くすれば」って言われても、やっぱり困ると思う。 だって、日本は日本であって、韓国とも中国とも違うんだもの。 だから、ツチ族とフツ族はやっぱりきっちり違うんだよね。彼らにしてみれば。それなのに、同じに見えるから仲良くすればといわれてもそんなに簡単なものじゃないですけど。 喧嘩したクラスメートを担任の先生がいさめるのに似ている。同じクラスの仲間なんだから、喧嘩しないで仲良くしろよって言われても、そんな上から、喧嘩の理由も、喧嘩の実情も、当事者たちの感情のもつれも無視して、強制的に仲良くしろなんていわれても、そんな簡単に納得できない。フツ族とツチ族を見分けるポイントは、鼻の広さなんだそうだ。主人公のポールはフツ族なので鼻が広い。他の役者さんに比べても特にすごく広い。映画を見ている間ひたすらこの鼻ばかり見ていたような気がする。そして、妻のタチアナはツチ族なので鼻が細い。黒人とは思えないほどきれいな鼻で、わたしはやはり映画を見ている間中彼女の鼻ばかり見ていた。きれいなんだもの。これだけ明らかに鼻の違う二人の役者が使われている背景に監督の作為がないはずがない。二つの種族はそれぞれに全く違うんだよと。そして、それでも直、愛し合っている二人なのであることも。 外側からは同じに見えても、やっぱり人間は一人ひとり違う。その違いがあってそれぞれに違いがあって、その違いをお互いに認めるところから始まる。それこそが相互理解ってもので、そういうものがあって初めて人間同士は仲良くなれるのだろう。でもすごく難しい。だから、途中で喧嘩したり、反省したり、そんな試行錯誤があるんだけどね。その試行錯誤の過程をすっきりそぎ落としていきなり仲良くなんてなれない。でも喧嘩はしても相手を殺しちゃいけないんだけどさ。殺しちっゃたら相互理解も出来ないものね。 赤い服の子供は赤が好きで赤い服を着ている。青い服の子供は青が好きで青い服を着ている。だからみんな同じ子供じゃなくて、それぞれに好みや趣味嗜好の違いと個性がある。 仲良く分け合うのもいいけど、20人分のお菓子を手に入れるためにみんなで協力して探しに行こう。あるいは作り出そう。そのためにどうすればいいか話し合おう。 衣食たりて礼節を知る。でしょうか。 10人分のお菓子しか用意できなかったなら、喧嘩を止めて、残りのお菓子を手に入れる手伝いやアドバイスこそが必要なんじゃないのか。 しかし、喧嘩を止めるのも命がけである。その命がけをやった男たちがいたんだな。戦争をとめることは出来ないし、全ての人間を助けることもでない。それでも、せめて、自分とかかわった人間、自分の能力で助けだせる人間をたった一人でもいいから、救い出すことが出来るなら。 目の前のかわいそうに目をつぶらない。 日本の杉原ちうねも、シンドラーも、そして、この物語の主人公、ポールも。自分の持つ特権や能力や財力や使える限りの全てのものを駆使して、自分の能力の範囲で助けられる人々を救った物語なのだ。 千人の人が一人づつでも助けることが出来れば、一人が助けられるのが一人でも、全体では、千人が助かる。はず。それこそが神の視点ってもんだと思う。そして、ポールが助けたのは、1200人。これは実話なんです。作中で彼は言う。「品格がわれわれを助けるのだ。」ホテルミルコリンズの四ツ星ホテルとしての、品格。そして、ポールの人としての品格。なんだろうと思う。そしてさらに、ルワンダというホテルもまた国民が気持ちよくすごせる品格を持ってほしいと。追記を書き足しました。こっちも読んでね。 ホテル・ルワンダ@映画生活外国映画、洋画
2007年03月03日
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『理系離れを何とかしたい』と政府は考えているらしい。ま、科学技術は大事だからね。でもこの『理系離れ』って発想自体がそもそも間違ってる。 「離れてる」ってじゃあ昔はみんな理科が好きだったのか。とんでもない。理科って言うのはかなり特別な科目でほとんどの生徒は苦手なんだけどね。理科が苦手なのは今に始まったことじゃない。昔から結構みんなきらいで苦手。だって難しくてよくわかんないんだもの。 ところがである。なぜかすごく少ないんだけど、理科の好きなやつ、理科の得意なやつ、理科だけはめちゃくちゃ出来るやつってのがいるのもこの科目の特性だ。でもってこの理科が特別に好きな理系人間とのを大切に育ててあげる。実は大切なのはこの部分だ。 今の入試は理科だけが出来ても受からない。五科目、七教科、特に古文なんかが出来ないと上位の学校に受からない。しかし、理系人間が一番不得意とするのがこの科目なのだ。そのために理系の彼らは本当はすごく頭が良くて、ものすごく難しい理科の問題をこなせるにもかかわらず、試験に落ちてしまう。 そして、理科はそこそこ出来て、国語もこなせるそこそこに頭のいいやつが受かってしまう。しかし、彼らはあくまでそこそこに頭がいい程度なので、いざ理系の大学に入って専門的な理科系の勉強をやりだすと難しくてだんだんついていけなくなっていく。結果、どうも自分は理科は向かないといって,いざ就職の段になると文系の職業に転向してしまうのだ。 かくて、本物の理系少年は目指す大学に入れず、私立のそこそこの大学でそこそこの勉強をこなし、そこそこの会社に入るしかない。理系人間養成にかけた予算は無駄遣いに終わる。 ノーベル賞を取れたほどのあの田中さんですら、二番手の大学、二番手の会社にしか入れなかった。 五科目の勉強をしてバランスのよい人間を育てる。一見正しいように聞こえる。しかし、実際には所詮はペーパー勉強だ。情操を育てるはずの国語だって、学校での勉強は所詮ペーパーの勉強にしかすぎない。古文なんか、本来の男女のあれやこれやの心のやり取りなんか二の次で今はもう使いもしない言葉の文法ばかりをああでもないこうでもないと重箱の隅をつつくような勉強ばかりしている。こんなもので人間の情感なんか勉強できるはずもない。国語の文学によって感動できるようになるのは人生のいろいろな経験をこなして中年になってからの話であって、中年の人間がいい文学だといって、経験のない若者に勧めてみても、所詮猫に小判であって無意味なだけだ。そして、無駄な労力ばかりが浪費される。そしてますますよっていく。 マッドサイエンティストなんて言葉があるように科学者、理系タイプの人間というのは、理科のごく一部の部分にだけ興味が集中しているために、それ以外の人間的な部分が落ちていたりして、普通の人間の目から見ればかなりよっちゃってるものだけれど、そもそもそんな風にすべての注意とエネルギーを注いでいかない限り結実しないのが理科ってものであって、それをわざわざ揺り起こして他の分野もそつなくこなすことを要求する段階でそもそも、理系の振興を何とかしようという狙いからずれている。 マッドなんて言葉がつく職業なんてほかにないものね。そのくらい理系の人間は寄りやすいし、よらないといいものはできない。 「理系離れ」という言葉には、すべての子供を理科好きにして勉強させてその中で特に出来る子を見つけ出して、この国の産業技術分野を良くしようという意味合いを感じるけれど、そもそもこの発想がまちがっているのだ。 理科好きの子は天性のものであって、本当に理系技術をよくしていこうというのなら、小学校、中学校の段階で、理系少年を見つけ出し、拾い上げて大切に育てていかなければならない。そのうえで、ペーパーではないもっとリアルな教育によって彼らの情操面を育てていくことこそが重要なんじゃないかと思う。 ペーパーテストで頭の良さは図れないとはよく言われることだ。しかし、その一方で日常見ているだけで、少し言葉を交わしただけで、他人とは違う傑出した頭の良さがわかるのも事実だ。そうして、学校教育の現場で並外れて出来るという子供をセレクトしていく方が全体を理系に向けさせるよりはるかに効率よく、現実的な方法なはずである。 しかし、日本ではこういったエリートだけを集める教育法に対して批判が多いのも事実だけどね。 ソシテ、セレクトされてみたけど、それほどに能力が上がらなくて途中でリタイアする少年も出てくるだろうし。彼らの挫折感をどうすればいいか。というのも考えなくちゃいけないし。 それでもやっぱり、ただの理系離れ対策では、意味は全然ないと思う。 理系少年を救ってほしい。 ペーパー国語に泣かされる理系少年に幸あれ。 ところでまあ、理科が嫌いでも、理科の知識は現代社会を生きるうえで大切な勉強です。好きにならなくてもいいけど、勉強しようね。
2007年03月01日
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