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なかなかどうして、よく出来ていたと思う。 主人公のアーサーは、アメリカの片田舎にくらす10歳の少年。ごくふつうの元気な男の子。すっごくかわいかった。 そして、「パンズラビリンス」と、同じように、地下の妖精王国が出てくる。けれど、アーサーは、実際に妖精の国にいって、冒険し、最後には、行方不明だったおじいちゃんとルビーを見つけてかえってくるハッピーエンドの楽しいファンタジーだった。 最初は普通に人間としてでてくるアーサーがミニモイの国では、他のミニモイと同じCGのミニモイに変化するんだけれど、違和感がなくて、人間のアーサー同様にかわいい。ほかにも、ミニモイの王女や弟王子や王様。みんな、違和感なくかわいい。よく出来たデザインで、楽しめた。アーサーにしか抜けない剣がアーサー王の逸話だったり、頭に斧をさしたままの幽霊がハリーポッターからのエピソードだったり、そんなのも入っていて、なかなか楽しかった。 どうして、こんなによく出来てる楽しいファンタジーが、どんどん上映が終ってしまって、ランキングが低いのだろう。子供がみても、大人が見ても、楽しい作品なのに。 こまかいところでは、いろいろと突っ込みどころもあるけれど、このさいまあいいかと、思ってしまったのは、映画がほのぼのと楽しかったせい。話の設定が1960年だったのはなぜだろう。 やはり、ストーリーの構成上かもしれない。 場合によっては、シリーズ化で競うな設定。でも、このようすだと、次回作なんてできなさうそうなのが残念。私は見たいけどなあ。 アーサーとミニモイの不思議な国@映画生活
2007年10月31日
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娘が借りてきたのを一緒に見たんだけど、何気にいい映画だった。ごく普通の邦画で、普通の家庭の事件が描かれただけのものだけれど、意外に面白かった。主人公の女の子佐和子(北乃きい)がかわいすぎない、自然なかわいさで、見るからにいい子だなあという感じなんだけど、でも、別に優等生なわけでもない。そのボーイフレンドの大浦君がまた、すごく素敵な男の子で、それほどハンサムなわけでも、頭がいいわけでも、優等生なわけでもないんだけど、なんだかとにかく言動や行動がおもしろくて、高感度高かった。 教員の仕事に行き詰って自殺未遂し、「おとうさん」をやめた父親。そんな夫にショックを受けて、「お母さん」はやめてないけど、妻であることをやめるために家をでて、一人暮らしをする母。エリート優等生をやめて、農業をする兄。そして、普通の中学生の主人公。 いつのにまにか自分では気づかないうちに世間一般が求める理想の家族を演じていた家族。父の自殺によって始めて自分たちが自分たちをいつの間にか世間の常識によってがんじがらめにしていたことに気づく父、妻、兄。父の自殺はショックな事件だったけれど、それをきっかけにまじめな家族構成員であることを辞めた中原家の人たち。 家族である前に一人の人間として自分の望む人生の送り方をもう一度探り始める父、兄。そしてそれをはなれたところから、そっと見守る母。 「家族はもっとあまえてもいいんじゃない。」という、兄のガールフレンドの言葉がこの物語の究極のテーマなんだろうけれど、ほんとになんだか今の家族ってお互いにあんまりわがまま言わなくなってるかもしれないなあと、思う。 もっと、家族で愚痴をいったり、わがままいったり、つらかったら、家族の前で大泣きして、騒いで家族をはらはらさせたりしてもいいのに。と、思う。 いい父親になろうとしてこわれちゃったお父さんや、きちんとやっているつもりだったのに、壊れてる夫の心に気づけなかったことにショックだったお母さんや、壊れちゃった父親をみて、自分の未来を重ねてみてしまった挙句、エリートをはずれた兄。 いい父親や、いい妻じゃなくても、もっと家族で許しあって、やさしくのんびり暮らしていってもいいんじゃない。と、思う。 そんな状況なのに、主人公佐和子が、すれもしないで普通に頑張って生きてるのが不思議だ。 でも、そんな佐和子の、まだ十六歳の少女が身近な人の死に二度もかかわることになるというのは、ちょっと過酷だよなあと思う。 友達や恋人は替えが聞くけれど、家族はそんなわけに行かないから。だそうだけど。そのために殺されちゃう大浦君てあんまりだなあとも思った。 さわやかなラストがなんとなく、そんな~~~~~~~って気分だったかも。『幸福な食卓』補足 幸福な食卓@映画生活
2007年10月30日
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携帯の料金がどうにもわかりにくい。何でだろう。そのうちちゃんと調べればわかるはずだけど、まあ、めんどくさいし、と、ずっと思っていた。でも、よくよく考えてみたら、わかりにくいのは当たり前だ。 だって、携帯は、どこにも金額が表示してないんだもの。 ドコモを買う時もソフトバンクを買う時も、店内のいろんな張り紙や置いてあるパンフレットを見たり、注意書きを読んだりした。いろんなサービスがなんパーセント無料とか、家族割とか、いろいろ書いてあるんだけど、私の頭の中でどうにも、こんがらかって、ピンとこなかった。 でも、ほんとによくよく考えてみたら、わからないのは当たり前だ。だって、実際の金額は携帯をかって、最初の請求書がくるまで、利用者、顧客には、まったく知らされないのだもの。 携帯やさんの店内には、携帯電話機の値段は書いてあるし、パンフレットにも、いろんな電話機の写真なんかも載っている。しかし、店内のはじからはじまで見ても、パンフレットを最初から最後まで見ても、実際に契約して説明をきいても、どこにも、一度も、通信料などの金額は知らされていないし、明示されていない。 200円の半額と2000円の半額と二万円の半額じゃぜんぜん違う。 それなのに、基本使用量がいくらで、通信料がいくらで、パケットがなにで、そのほかにサービスパックや、安心パックがいくらで、なんていう料金表もないし、契約しても、それでも、それらの金額は明示されない。 結局消費者は請求書が来るまでまったくわからないのだ。 つまり私が悪いわけでも、利用者が悪いわけでも、料金がわかりにくいわけでもない。 最初っから、最後まで一切料金表示がないのだから、当たり前だ。わかりにくいんじゃなくて、わからないのだ。そして、携帯会社側は、わざと料金を表示せず、ただ、半額とか、家族わりとか、最初の何ヶ月無料とか、さも得をするようなことばかり、宣伝して消費者をだましているのだ。 普通、一般に店頭で売られているものには、金額が書いてあるし、旅行のパックツアーだって、料金体系はいろいろと細かいけれど、それでも、パンフレットをよくみれば、チャンとわかるように表示してある。 塾の場合は、安いところは家庭に届くチラシに書いてあるし、普通のところは、塾にいって、パンフレットをもらえば、金額は書いてあるし、かなり高いところの場合は、それでも、契約の話がまとまれば、その直前くらいには、明示される。 しかし、二つの携帯会社の携帯を買ってみたけれど、どちらも、結局契約しても、それらの月々かかる金額の説明は一切なかった。 固定電話もまあ、あんまり説明されないけれど、携帯ほどばか高くないし、世間的にはっきりしているし、複雑でもない。インターネットのブロバイダーは、チャンと最初に金額がわかる。 しかし、なぜか、携帯は月々のかかる金額がまったく、説明もされないし、表示もされていない。これでは、どんなに調べても、わからないはずだ。これって一種の不当表示、サギと、思えないこともない。 いったい、携帯会社はなぜ、金額をきちんと表示しないのだろう。 ソフトバンクの980円携帯の時は、その980円の部分に関しては、かなりきっちり説明されたけれど、それ以外の部分はやはり、説明されなかった。だから、パケット代や通信料や基本使用量が月にいくらで、安心パックなるものがいくらなのか、知らなかったように思う。 携帯会社がきチンと、店内や、パンフレットや、ネットのホームページに月々の基本使用料や、通信料や、メール代や、安心パック料なんかをきちんと表示するべきだ。と、私は思う。 そして、それがなされていない現在、政府、役所は携帯会社に対して、それらをきちんと顧客にわかりやすいように表示して、契約のさいは、顧客にきちんと口頭で説明するように、行政指導するなり、法的に規制するべきだと思う。 それがされないために、みんな、いくらかかるのかわからないまま、携帯を使い高額の請求がきて、初めてびっくりする羽目になるんだし。しかも、どうして、そんなに高額になるのかもよくわからないまま、しぶしぶ支払う。 その結果頑張って働いたお金が、携帯料金に吸い取られて、学校の給食費も滞納されるし、いい若者が車も買わないし。 はやく何とかしていただきたい。 これを読んで納得していただけたら、ぜひ自分のブログにも書いて、世論を持ち上げてほしいと思うのです。よろしくお願いしまーす。
2007年10月27日
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980円携帯といいながら、いったい、どうしたら、980円になるんだか。ちっとも980円にならない。契約後の最初の請求額は15000円以上だったし、そのつぎは、1500円くらい、その次が2500円くらいで、おととい来た請求書が3500円くらいだった。契約の最初はよくわからなくて、普通に使ったら、この高額。で、通話はいっさい禁止して、メールだけしたら、少し収まったけど。 最初はいろんなサービスパックがつくから、ちょっとやすくもなるけどそんなものは二ヶ月くらいしかきかないし、で、そのあとドレを解約したらいいのかもよくわからないし。携帯のシステムってどうしてあんなにわけわかんないんだろう。最近はAUとかも半額割りとかやりはじめたから、結局変わんないじゃん。 ついてるサービスもよくわかんないし。結局、パケ放題も、安心パックもはずせないから、結局980円にならないみたい。けーーーーーーーっ。しかも、本体を分割払いで買ってるわけだから、むかついても、途中解約できないし。 ばかにしてるう。サギじゃん。 で、AUの半額ってのも、実際に契約するといくらの請求書が来るの? 窓口で説明きいて、契約してみても、実際に、請求書が来ないといくらなのかわからない。…… それにしても、携帯会社の窓口の受付の人間てどうしてアンナに使えないんだろう。こっちから質問しない限り、なーんにも言わない。自分たちに不利なことも言わないし、お客さんの役に立つこともいわない。こっちはわからないから、カウンターまでいってるのに、わからないから、質問すべきこともわからないのに、こっちがなんかいわないとーはー?って感じで黙ってるし。都市銀行の窓口だったら、絶対ありえない。なーんて使えないんだろう。さっさとくびにしろよ。 というくらいむかついてるわたくし。けっ!!!!とかまで書くと書きすぎかー。でも、なんとかなんないの。あの携帯のわかりにくさ!!!!!!!
2007年10月21日
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今頃書くのもなんですが、実はこのブログもとうとう二周年を突破いたしまして。よく続いてるなーと我ながら驚きました。 最近は毎日更新をサボってますので、えらそうなことはいえませんが。続くものですね。ブログって。日記と違って。だって、ノートに書く日記って読むの自分だけでショー。それってなんか閉鎖的でつまんないんだものー。 何処の誰だかしらない誰かが読んでくれる。たまに感想なんか聞かせてくれる。やっぱ、これですかねこのオープンな感じ。これがやっぱりブログのブログたるゆえんなんだよなあ。 最初のブログの開設日は10月9日なんですよ。だから、こんなに日がすぎてからこんなことかいてるのも、日々ブログの更新をサボっているせいと、さきにアップしたい映画記事なんかがいろいろあったから。 それでは、これからも、日々頭に浮かぶいろんなことをいろいろ書いていきたいです。
2007年10月20日
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ファンタジーは好きです。だから、ファンタジー映画はなるべくもれずに見たい。というわけではるばる銀座のシネカノンまで見に行った。しかも、シネカノンは、上向いてますね。知らない間になんと劇場が増えていた。いままで、有楽町のビックカメラの上にあったシネカノンがいつのまにか、シネカノン有楽町一丁目にになっていて、最近新しく出来た銀座イトシアにシネカノン有楽町二丁目という新しい劇場が出来ていた。すごい。 シネカノンは、いまどきのシネコンとは一線をかくして、ちょっとそこいらでは観ることのできないような、くせのある名作を上映しています。 だから、期待していったんだけど。ちょっとなあ。 ダークファンタジーなんだそうで、見ていて目を覆いたくなるような残酷なシーンも出てきますし。話はチョー暗いし。 1940年代のスペイン。内戦のさなか。軍とゲリラの闘争を背景に、大尉と再婚した母につれられて、ゲリラ戦の激しいとある山中に引っ越してくるヒロインオフェーリア。そこには、パンズラビリンスという不思議な遺跡があった。 そしてこの大尉。継父となるはずなのなのだが、この大尉がものすごく残酷な男。当然オフェーリアは、なつかない。 ファンタジーを通しての、スペインの内戦をテーマにした話なのか、内戦を背景にしたファンタジーメインの話なのか。と、一瞬戸惑う。けれど、この大尉の残虐さはあきらかに、性格異常としか思えない。捕まえたゲリラの顔面になんどもナイフを差したり、妊娠した妻が危なくなってきたら、妻が死んでもいいから、子供の方を助けるように医師に言う大尉。彼は妻を愛しているわけではなくて、自分の分身としての息子がほしいだけなのだ。だから、義理の娘となったオフェーリアにも当然冷たい。というより、まったく、関心すらない。 内戦のさなかという状況で相手がゲリラだから、大尉がどんな残酷なことをしても、非難されないけれど、平和な時代であれば、明らかに、性格異常か、変質者。今の日本でも、同居する子連れの妻(女、恋人)の自分とは血のつながらない子供を義理の父親(男、あるいは恋人)が殺してしまう事件が最近何件かあるけれど。まさに同じことだと思う。 この母親はなぜこんなひどい男と結婚したのか。こんな男の子供を妊娠したのか。かなーり不思議である。ヒロインの母親なのに、存在感がない。 内戦の悲惨を語っている映画ではないと思う。見ていて悲惨なのは、あくまでこの大尉の残虐な行動の部分であって、内戦ゲリラ戦自体ではないのだ。ただ、この継父が、戦争という状況の中で大尉という役職ゆえにその悪行が問われないだ。もっともそれゆえにまた、大尉はラストにゲリラによって殺される。平和な時代には、法によってさばかれるから、場合によって納得のいかない甘い判決である場合もあるけれど、内戦の最中ゆえにゲリラによって殺されうるのだ。 そして、その悲惨な日々の中で、オフェーリアは、パーンに出会う。かつて地下にある妖精の王国の王女であった彼女が、ふたたびオフェーリアとして、肉体を持って生まれ変わったのである。らしい。彼女がもう一度父王のまつ地下王国に戻るための案内人なのが、このパーンなのだ。パーンは、オフェーリアが地下王国に戻るためにいくつかの課題を出す役割なのだ。 このパーンのデザインと作りがなかなかうまい。こういうクリーチャーが不出来だと途端にファンタジーとしての物語は地に落ちるほどに白々しくなるものだから。 それから、大尉と重なる存在としてのモンスターの作りもなかなかすごい。かなり怖い。 多くの客を招いて、大きなテーブルいっぱいのご馳走を振舞う大尉が座っていたホスト席に、オフェーリアが使命を果たすために行く幻想世界のモンスターもまた、テーブルいっぱいのご馳走とともに、座っている。このモンスターが大尉をあらわしているのは明らかだ。 これは、ファンタジーであるけれど、オフェーリアがみているパーンや、妖精やモンスターが、ほんとうにある世界なのか、彼女の幻想世界でしかないのか。ちょっとわかりにくい。物語のラストで、オフェーリアと一緒にいるはずのパーンは大尉には見えないのだ。 物語のラストは、ファンタジーとしては、よくあるパターンの結末で、ちょっと物足りない。結局こんな終わり方だったのかとがっかりした。いろんな雑誌などでは、すばらしいファンタジーだと絶賛されているのだけれど、私にはどうも、そうは見えなかった。 大尉を必要以上に残虐な人間にすることで物語の悲壮感を際立たせただけで、オフェーリアにとって悲惨なのはその部分だ。結局お産のあと、母親は死んでしまうし、山荘から逃げ出そうとしたオフェーリアはつかまってしまう。そして、最後には大尉に撃たれて死んでしまう。(駄作なのでネタバレします。というか、最初でわかるんだけど。)そのことで彼女は地下王国に戻れるけれど、はたしてこれは、ハッピーエンドなのか。アンハッピーエンドなのか。 悲惨な現実からの逃避の場としての幻想世界を描いてあるだけで、ダークファンタジーとして各雑誌の映画レビューなどで褒め称えるほどのいい作品とは、私には思えなかった。 ただ、平和な社会なら、あきらかに性格異常の犯罪者として断罪されるような人間が、社会的に評価され出世してしまうというところに、戦争や内戦の怖さがあるのだなとも思えた。 パンズ・ラビリンス@映画生活
2007年10月19日
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話題作だというので読んでみた。というのは、いつものことなんだけど、タイトルから想像して幕末維新の話かと思っていたら、なんと、宮本武蔵の話だった。原作は吉川英二の有名な小説『宮本武蔵』。昔、映画で、連作五作くらいかけて作られていた。それを大晦日のテレビ東京のスペシャル企画で一日に一気に見た。しかし、当時みたものと、原作は同じなのに、なんだかぜんぜんちがう。 とにかく人を切るシーンがすごい。まさにそのものずばり、真剣を使っているのだから、当たり前なんだけど、切りつけるシーンの描写が本当にそのまま書かれているのだ。手を切り落とすシーン。体をばっさり斜め切りに真っ二つに切ってしまうシーン。内臓にきりこんでいくシーン。切りつけられていたがるシーン。「痛み」が、読んでいても、ダイレクトにこちらに伝わってくる。 時代劇のチャンバラなんかだと、よく剣を使ってのたちまわり。でも、切ったはずなのに、刀には血の一滴もついてないし、切られた人はわーっといって倒れるだけで、切られたようにも痛そうにも見えない。 あくまで殺陣なのだから。 いままでの漫画でも大概がそんなものだったような気がする。 しかし、この漫画はその剣によって人を切る、切られる部分の描写がすごい。とにかくいたそう。本当にナマの剣で切られるとこんななんだなと、そういう部分の描写がすごくみごと。 宮本武蔵といえば、剣の達人として有名だし、映画でも、剣の道を究めていったその人生が描かれていた。 けれど、実際には、真剣を使っての命を賭けての殺し合いだったというのは、なかなかショック。自分の人生をかけて剣の道を究め、自分の修行のために相手を殺すことになっているのに、そのことに対して、武蔵は特に気にしている様子もない。 剣の道を究めるために人殺しをし続けている物語なのだ。 そして、人を殺しても、使命手配されるわけでもないし、殺人罪で捕まるわけでもない。剣道の竹刀のようなものを使っての剣の修行なんていうのは、現代の話であって、この当時は真剣で戦うのが当たり前の時代だったようだ。ちょっとびっくり、っていうか、かなりびっくり。 何しろ時代は関が原の合戦前後から始まっている。国を支配するトップが先頭を切って殺し合いをしているのだから、そこいらの人間が剣で人を切ってもつかまらないし、お咎めなしなのも、当たり前かも。 でも、テレビの時代劇のチャンバラや、新撰組なんかをテーマにした漫画なんかみて、それほど大変なことだなんて思ってなかったけど、剣の道、真剣を使っての勝負ってこんなことだったんだあと、とにかくオドロキ。その描写がすごく克明に書かれている。剣がうまい、イコール、かっこいいなんてとんでもないことだ。 現代人はやーっぱり平和ボケしてる。 こんな風に平和で人を殺せばきっちり殺人罪として、つかまるという治安のいい社会を当たり前のことだと思い込んでいたけど、そんなこと全然ない。 そういう安心して暮らせる社会になったのなんて本当につい最近のことなのだ。 時代物をみると、その当時の社会の価値観がよくわかる。 いやはや痛い漫画である。 バガボンド(26)
2007年10月17日
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世界一有名な絵本、ピーターラビットを知らない人はいないんじゃないかと思うんだけど、ピーターラビットを書いたビアトリクス・ポターのお話。 彼女の出版社めぐり、編集者ノーマンとの出会い、絵本の出版からはじまっての半生。 泣けたよー。さあ泣かんかなというような、わざとらしいつくりじゃなくて、実話だからって言うのもあるのかもしれないけど、自然な物語の流れのなかで、しっとりとじわじわと泣けてしまいました。 相手の人間性に惚れる恋愛っていいな。と、思う。 ミス・ポターは、本当に素敵な女性です。あの当時に自分の意思を貫いての人生。 どんな嫌な男でも金さえあればいいんだから、結婚しろという母親に逆らい、恋人との結婚を反対する家族とも戦いながら、自分の意思を貫いて生きていった、その生き方がすてきでした。 ミス・ポターは決して美人じゃないけれど、とても美しい人です。彼女と接する機会さえあればどんな男性も彼女の魅力にとらわれてしまったにちがいありません。 そして、後半。彼女の暮らす湖水地方の自然と環境を開発業者から守るために、彼女は自分の印税で、売りに出されていた農場を買い始めます。この当時、まだグリーントラストや、自然保護、環境保護なんていう発想自体まだまだなかったであろうこの時代に、私財を投じて、自分たちの愛する農場や、湖水地方の自然を守ったのですね。この土地と農場は後年ナショナルトラストに寄付されたそうです。彼女の死後遺産として相続されてしまえば、どうなるかわからないですからね。 仕事に成功して、多くの財を手にする人は結構いるけれど、それをこういう方向に使う人は少ない。最後の最後まですごい女性だなあと思う。 好きなことを仕事にする、好きな人と結婚する。自分が素敵だと思う好きなところに暮らす。正しいと思うことをする。 すごく当たり前なことなのに、実際にはなかなか出来ない。ラッキーな人だと思うけれど、いろいろなチャンスをきちんと自分の人生に捉えることができたのは、やっぱり彼女自身の力なんだと思う。 ミス・ポター@映画生活
2007年10月13日
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女流作家佐藤愛子の実体験がえんえん書かれている。北海道に夏の別荘を建てたところからはじまって、その山荘でのオカルト、心霊体験。それはやがて東京の彼女の自宅にまでおよび、実に30年近い歳月の戦いの記録。 それらの霊を払うために佐藤愛子は数々の霊能力者にたのむのだが、ドレもこれもみんな失敗におわり、最期にやっと解決のめどがつく。 いやあそれにしてもね。こんなにたくさんの人たちがいろいろとお祓いをやってくれたのに、どれもこれも失敗していてね。いろんな霊払いの儀式があって霊能者から、大学の先生まで、実に最もにやってくれるんだけど、失敗に終る。つまりかれらは、実際には、確証なしに、やってるんですね。ものすごい仰々しい儀式や、いろんな料理、供物など、そのルールを細かく指示して教えてくれる割には、結局失敗してるってことは、かれらにすれば、確証ないけど、とりあえずやってるわけで。ほとんどの霊払いは、そんなものなんですねえ。ほとんどはいんちきに近いともいえるし。もちろん、作者の佐藤さんはいんちきだなんて、書いてないし、いろんな人に手伝ってもらって、感謝してるけど。 ああいうのって、大概は、よくわからないままやってる人のほうが多いのですかね。それを佐藤愛子さんは、霊能者にも見える範囲があって、能力にも上のもの下のものなどいろいろといるという書き方で説明されているのですが。見えるだけの人。払うことの出来る人。低レベルの霊だけ払える人。もちろん、高レベルの力の強い霊を祓えるような能力のある人なんてそんなにいっぱいいるわけないでしょうし。 霊がいるかどうか、霊の存在を信じるかどうか。この手の話には、必ず出てくるテーマですが、わたしは、とにかくみたことないので、わかりません。 それにしても、オカルトとか、心霊の描写って、怖く書かなければ、こわくないんですね。ぜんぜん。佐藤愛子の心霊体験の書いてある本だっていうんで最初はどきどきはらはらしながら、読み始めたんだけど。 あまりにも、当然のようにしかも、具体的に理路整然と書いてあると、怖くないんですね。心霊体験の話でも。 オカルトやホラーなんかの映画はあれは、怖く感じるように作ってあるんだって言うけど、ほんとだね。 幽霊とかなんて怖いから、私は絶対見たくないし、経験したくないんだけど、もしかすると、霊能者の人たちは、普通の人が普通に他の人が見えるのと同じように普通に霊の姿が見えるだけなのかもしれないですねえ。 ところで、人というのは、いろいろとつらい思いやいろんな経験をしながら生きて、なんども生まれ変わって魂を磨いていくものなのだそうなのですが。その魂の修行の一環として、一度死んだ時その霊だけの状態で、生きている人の守護霊として、その人につくのも、修行のうちなんだそうです。 で、私個人的な感想としては、げげっと思ったんだけどねえ。 だって今現在の自分の人生生きるだけでも大変なのに、死んだ後もその意識が残ってたり、しかもそのあと、見ず知らずの他人の人生に付き合わなきゃいけないなんて、ちょっとしんどくない? しかもそれが自分のきらいなタイプのやつだったらどうするのよ。そんなやつとそいつが死ぬまで延々とつきあうんですか。しかも守護霊って霊だから、実際には後ろにくっついてるだけでなんにもできないし。 どうせ守護霊やるならイケメンのかっこいーひとがいいなあ。かわいい子とか。 でも守護霊って、ついてる人のトイレとか、ラブラブの時とかも横で見てるのかなあ。 それとも、それほどいつもべったりなわけじゃなくて、なんとなーくぼやーっとそばにいて肝心なときだけ、バシッとでてきて、そんなときだけ助けてあげられたりするんですか。 などと下世話なことばかり考えてる私。へへへ。 ところで、本の最後の方で、佐藤さんが、「人がこんなにすさんでしまったのは科学文明の進歩のせいなんじゃないか。だから、科学や技術の進歩なんていらない。不便でもいい」というけれど、私はそれは違うんじゃないかと思いますね。 昔から人間は戦争や戦や争いをつづけているし、今より昔の方がもっとずっと倫理や社会ルールはひどかったと思う。むかしは、泥棒なんて当たり前、江戸時代までは、当たり前のように刀をもっていて、人をきったり、女を強姦したり、なんてことが普通に横行していたわけで、今のように安心して街中をあるけるようになったのは、江戸自体以降なんじゃないのかな、人を殺せばきちんと殺人罪として裁かれるようになったのも最近。 科学技術が発達したおかげで多少の不作や凶作でも、とりあえず飢え死にすることもなくなってきたわけですからね。 人の世がすさんできたとしても、それは決して科学文明のせいだけじゃないと思う。それはもっとべっのところにも理由があると思う。そこまでもっと突き詰めて考えてほしいです。ただ、科学文明のシンポがわるいなんて結論の出し方は単純すぎる。 さて、佐藤愛子が心霊に悩まされたのは、山荘を作ったところにいたアイヌの霊と、彼女の祖先の霊などなどのいろいろな因縁が複雑に絡まっての結果なのだそうですが。 いや。あのね。自分の祖先が昔行ったいろいろなことが子孫に影響するとして。でも、それとは別に自分はいろんな人の生まれ変わりなわけで。もし、自分の祖先が、自分の生まれ変わる前の誰かを殺したり、いじめたりしてたとしたら。あるいはその逆に、自分の生まれ変わる前の人が自分の祖先を殺したり、いじめたりしてたとしたら。その場合どうなるの? よく映画なんかで、殺された人が相手にお前の子々孫々までのろってやるとか言うでしょ。 あれがほんとだとしたら。自分の祖先て言うのと、自分の生まれ変わる前の人たちは、自分とどちらも関係してるけど、ぜんぜん別な人たちなわけで。 その二つの経路のどこかでからまってたら、どうなっちゃうのでしょうねえ。 なんて下世話なことも考えてしまいました。
2007年10月12日
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今話題の一冊。ブックスランキング一位の本ですからね。 珍しい「男のダイエット本」だ。基本はレコーディングダイエット。自分が食べたものをノートまたはメモ帳にひたすら、書き記していくところから始まる。 それにしてもさすがに男性のダイエット本だ。まず、なぜやせなければならないかというところで、時代は今や学歴社会や、家柄主義社会、ブランド社会から、「見た目主義社会」へと変化しているから、という論理展開でとうとうと一章書いてある。実際ダイエットの途中で嫌になってくると、太っててなんで悪いのと考え始めるという心理的なわなを回避して持続するためには、最初にしっかりダイエットの必要性を論理的にはっきりさせておいた方がいいもんね。それって、勉強がいやになった子供が勉強なんて何の役に立つのとか言い出すのとよく似ている。人間嫌なことは必要ないと言い出すことで逃げようとするものだ。 最初はただ、食べたものを書くだけ。序盤では、ダイエットは楽しく、つらいなんてことはないと書いてあるんだけど、中盤以降では、結局はカロリー制限によるものになってくる。当たり前といえば当たり前なのだが。結局食事のカロリー制限をしない限りやせるわけはない。前半では運動も説教も要らないといいつつ、結局ダイエットが進んでくると、やはり運動はしたほうがいいとか、体が軽くなれば苦じゃなくなる、停滞期をのりこえるにはも必要となってくるということになってくる。 著者は100キロ以上の巨漢からのダイエットなので、一日1万カロリー以上の生活から最終的に一日1500カロリーにおさえるのだから、やせるのは当たり前。それでもそのあたりは結構壮絶そうだ。 普通の私たちは著者がダイエットをやめたその体重より少し多いくらいあたりから、もっと落としたいと考えているので、そして、普段だって著者のような膨大な量は食べていない。それでも、やせたいと思っているからむずかしいのだし。 なんといっても、いざやりだせば男性の体のほうが生物学的にやせやすく出来ているし。同じ量の食事を毎日一緒に食べていれば、女は太るし、男はやせるらしい。でも、街中のレストランは、男女に関係なく一人前を規定量で売っているし、主婦は家族優先の食事をつくっているのだから、自分のための食事設定はしずらい。こうどう 要は自分の内側から、自分の行動を認識して、自分の生活の何処に太る原因があるかを理解し、それを自分自身の意識として、改善し持続していけるかどうかなのだ。だからこその、レコーディングダイエット。 とりあえず私も、この本を読んで毎日の食事をノートに書き始めてみたりしてるのだった。 やせるかどうかは謎。
2007年10月10日
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日本の宝町というところが話の舞台なのだけれど、新宿と浅草とクーロンを混ぜたような世界観。思わずプレステ1 のゲーム『クーロンズゲート』を思い出してしまった。 親のいない二人は、学校にも行かずに暮らす十歳くらいの少年たちだ。クロとシロ。 ストーリー自体はどうにもおもしろくなくて、途中からあきてしまって、最期まで面白いと思えなかったのだけれど、たぶん、製作サイドはすごく楽しんで作ったのだろうと思う。背景の細部まで微にいり細にいって、非常に書き込まれていて、しかも、カラーが中華風のパステル調。まるで絵本のようなきれいさもある反面、暗く不気味な雰囲気もあり、なんとも、作画側のスタッフが徹底的に自分たちの世界にどっぷりとひたっているのがよくわかる。なんか、高校の文化祭見たいだなとも思ってしまったのだが。 ストーリーはこみいっているので、それなりに読み解けばそれなりに深いものはあるのだろう。 シロのことを思ってクロから、シロを引き離そうとする大人たち。シロのことを思って切り捨てるような言葉をいうクロ。けれど、いざ、二人をきりはなしてみると、シロを失ったクロはどんどんすさんでおかしくなっていく一方だし、クロと引き離したことで救われるはずのシロの心はクロとシンクロしているので、クロの心のひずみは、ストレートにシロに伝わっていく。 猫と呼ばれ、警察からも目を付けられ、悪がきであり、悪、闇のはずのクロの、正義、光の部分がシロなのであって、シロとクロ、光と闇、両方がそろって初めて人はバランスが取れるようで。 光の部分を失った人がおかしくなっていくように、闇の部分をうしなった光もまたバランスをとれずにおかしくなっていく。クロがシロを求めるのとおなじくらい、シロもまた、クロを求めていた。 人は光の部分だけでもまた生きてはいけない。正義や正しいことだけでは、バランスは狂ってしまう。自分の中の闇の部分も認めて、そのありどころを作っておかなければいけないのだろうと思う。影なしに光はありえない。 都電や、インドの象の姿をした神様の像の仕掛け時計。有名な『大中小』のお店。東南アジアのような建物。入れたいものは何でもありの宝町の町並み。ものすごく怖くて不気味なデザインの遊園地。ほんとに何でもありの作品だ。もしかして、原作の漫画の方ならおもしろいかも。 鉄コン筋クリート@映画生活
2007年10月09日
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レンタルDVDを借りてみていると、いつも他の作品紹介に入っていたのがこれで、どんな話ー?っと思っていたのだが、やっと借りれました。 ストーリー自体は結構面白かった。最期はどうなるのだろうと、はらはらしながら、結構飽きずに最期まで見ることが出来た。いつもかならず真ん中あたりで飽きる私にはめずらしいのだ。 しかし、ストーリー進行のための細かい設定がいかんせんご都合主義であくまで、ストーリーのためのものでしかないのが、残念。 主人公ダグ(デンゼル・ワシントン)がであうのは、既に死体になったヒロインクレア(ポーラ・バットン)。その美しさに一目ぼれしたダグの自分の欲望中心の行動にしか見えない。 爆破されて死んだフェリーの乗客を救うためにダグは、時間を跳んで過去に戻り、何とか犯人を捕まえようとする。けれど、ダグが時間を戻って世界を変えれば、彼がいなくなった元の世界はどうなるのか?元の世界は消えてしまうのかもしれない。それを覚悟の上で、タイムマシン?を作った研究者はダグを過去にと転送させる。もちろん、人間を送るつもりで作られたものではないので、彼自身も過去にいけずにチリとなってしまうかもしれない。一か八かの賭けなのだが、そこはそれ。映画だからね。見事過去に飛ぶことに成功する。 なんとか、爆破事件を回避したけれど、結局ダグ自身もまた死んでしまう。しかし、この世界にはもともといる「この世界のダグ」がいるわけで。つじつまあわせとしはて、やはり、この世界の一番の異物であるのが、時間を跳んで未来から来たダグなのだ。 彼はクレアを助けることに成功する。フェリー爆破事件によって死んだはずの多くの人たちも、もちろん助かるけれど、そのために、元の世界は消えてしまったのかもしれないし、元の世界にいたすべての人も消えてしまったのかもしれないし、結局のところ、彼が一目ぼれしたクレアを助けるためのものにしか見えない。 ダグは死んでしまうけれど、この世界のダグはチャンといて、死なずにすんだクレアと初めて出会う。クレアと(たぶん)結ばれるだろうダグはダグでありながらダグでないわけで…。 そういうタイムパラドックスは、このさい無しという展開か。 いったいこの物語は、ハッピーエンドなのか、アンハッピーエンドなのか。思わずうならせられるラストでした。 デジャヴ@映画生活
2007年10月04日
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説明するまでもなく、アメリカ・ニューヨークの貿易センタービルに二機の旅客機がつっこんで、ビルを崩壊させた有名な911事件を中心に、ブッシュ、ゴアの大統領選の不正疑惑から始まって、ブッシュとアラブの癒着によるイラク戦争への流れまで。大統領、上院議員、アラブ王家などなどの懐を暖めるための戦争に借り出されて死んだ兵士たちの家族の嘆きにいたるところまでが描かれている。 昨今、あの911事件が実はアメリカ側の計画的な事件だったのではないかという説も出ているわけであるし、この映画でも、それに近い意見がにおわされてもいる。 何も知らず、国家のために海兵隊員になり、戦死し、あるいは、手や足を失うほどの負傷。わが子の戦死に嘆き悲しむ母親。その一方で決してわが子を戦場には出さない上院議員たち。 アメリカという国の社会構造がいかに上部の金もちのためにできているか。しかし、マイケル・ムーアによってこれだけ赤裸々に描き出されながら、この映画が公開禁止になることもない。これだけ、オープンに訴えられていながら、マイケル・ムーアの最新作「シッコ」でも、やはり、アメリカ国内における上層部の金持ちのための社会という訴えは同じように語られる。 なぜだろう。 アメリカという資本主義の国が実は上層部の金持ちのための国でしかないという真実。それをかたる映画である。 しかし。 こんなに明確に語られているにもかかわらず、金持ちの犠牲になる社会の底流の一番この映画を見るべき人たちは、実は、この手の社会派の映画はおそらく見ないのだろう。彼らは、『グラインドハウス』や、『ブルース・リー』はみても、こういった社会派映画は見ないだろう。 マイケル・ムーアは彼らのために作っているというのに。 結局彼らは低俗な娯楽や日々の楽しいことに関心をむけ、その日その日を送る。 社会格差を産むその差はなんだろう。賢いかどうかだと思う。戦争に行くことが国家のためでもなんでもないことを、上院議員や金持ちは知っているのだ。 そして、おろかなまま、社会の底流にいる彼らは、宣伝文句のままに、国家のためにと信じて、あるいは、他に働き口のないままに、戦場に行く。 貧乏のらせんから抜け出すにはやはり、賢くなること、そして、勉強して、社会の上層部へと昇っていくしかないと思う。 しかし、そのために、すべての市民のために機会均等の下につくられた公立学校は、しかし、彼らによって崩壊させられてしまったのではないのだろうか。 賢くなり、社会の上層に上がっていくための勉強をするための場であったはずの学校は、校内の銃乱射、麻薬、暴力と、激しく校内レベルを低下させて、自分たちが登っていくためのきっかけを彼らは彼ら自身でつぶしたのではなかったか。 みかねた資本家たちは自分たちの子弟を私立学校にうつしてしまったのだろうか。今の日本のように。 それとも、校内に銃を持ち込み学校をあらしたのは、実は上院議員の子息達だったりするのだろうか。 社会には貧乏人と金持ちがいて、その格差は開いていく一方だが、それでも、その中で、必死に勉強してのし上がっていく人間もまたいるものだし、金持ちの家に生まれながら、そのおろかさゆえにその資産を使いつぶして貧乏へと落ちていくものもいる。 社会はなるべく全体の知的レベルが高く、みんながより多くの知識をもって賢く社会を動かしていける方がいいのだけれど、その一方で社会を押し上げようとする意図とは逆に社会全体を引き下げようとし、社会を荒らすものもまたいるのも事実。それは、校内暴力をするこどもであり、それを許す親であり、数々の犯罪をする大人たちでもある。 社会全体を底上げしようとする社会のリーダーの意向とは裏腹に社会全体を引き摺り下ろそうとする人たちもいる。 自分たちの欲望と目先の利益だけにとらわれ、あるいは社会の表面的な流れに乗せられてしまうことが、いずれは自分たちを落としていくことにきずかない。 一方で、資本家たちや、社会の上層部の人たちは、そんな底辺の人々に見切りをつけて自分たちの保身をはかり、あるいは、自分たちの利益を優先するための社会を作り始めてしまったとしても、あるいは仕方ないのかもしれない。 日本もまた、今、そんな社会構造になりかねない瀬戸際にいるのではないのか。とても、怖い。 華氏911@映画生活
2007年10月03日
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