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私は三重県亀山市にある国内最大の液晶パネル製造現場に先月までT社の派遣社員としてK社に派遣されていました。K社はS社の生産請負会社で、液晶テレビ「アクオス」のパネル工程と実装工程を請け負っています。私は2004年3月から7月までは、実装工程の外観検査を主に担当していました。パネル検査(M検)や出荷(組み立て工程や最終検査工程への払出)も行い、派遣社員の交替制の班のリーダーを勤めていました。工程の組織変更に伴い、2004年8月からは、パネル工程の棚管理を担当し、ここでも派遣社員の交替制の班のリーダーを勤めました。
2006.05.19
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平成10年4月まで、私は大阪府に本社がある建設会社に勤めていました。その会社はコンクリート構造物の調査・診断および施工を主たる事業としていました。またアスベスト除去工事や集合住宅の外壁改修工事、高速道路の橋脚や床板の補強工事もしていました。1996年頃が全盛で、年商70億円、利益3億円近くありました。株式の公開も検討するほどの勢いがあったが、97年にゼネコンや銀行・信組などが次々に倒れ、取引先も多く失いました。またその頃から指名競争入札から自由競争入札になっていき、補修工事は随意契約とかゼネコンとJV(受注共同体)での高値落札ができていたのが、談合が成立しなくなりました。新規公共工事が減少したため、大手も補修工事に力を入れ始め、急速に競争力を失い、利益率が落ちていったのでした。経理課長をしていた私は、精神的にまいっていました。私が○○建設の大阪支店に5000万円の手形をもらいにいってから半年後に、○○建設は会社更生法の適用を申請したのでした。負債総額は4000億円を超えていました。タッチの差は不渡りを食らわずに済んだものの、そんな倒産が一年に4~5回もあったら、たまりません。私は鬱病と不眠症になって、精神科で薬をもらうようになりました。他にも、いろんな理由があったんですが、建設会社を辞めた訳です。とりあえず1回目はこれでおしまいです。
2006.05.19
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