全63件 (63件中 1-50件目)
恵みに生かされ 主イエスの愛で輝く一日 微笑み豊か疲れも重荷も すべて消えゆき福音伝える 情熱新た やさしい主イエスは きょうも友なり世の終わりまでと 約束されて すべての国民(くにたみ) 弟子とせよとの宣教命令 使命にあふれ福音語れば アーメン信じ主イエスの弟子になり 笑顔輝く みことば信じて 恐れは消えて ありがとう感謝で 平安満ちる アドナイシャローム アドナイイルエ アナイチドケヌ 主は我が牧者アドナイシャンマー 主はいやし主(ぬし) 勝利に輝く アドナイニシで アーメン
2016/04/30
コメント(0)
アモス書3:3 ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。いっしょに歩く者がいると幸いです。23歳で結婚し、49年共に歩みました。2014年5月17日、湯川胃腸病院ホスピスで、てんごく・・・と指文字を残し、安らかに天国へ召されました。 高校生の時、西之表市最上医院でのキリスト教会集会へ行き、初めて聖書を読みました。アメリカ人宣教師だったため、日本語で説教ができず、聖書を読むだけの時間。開かれ読む順番が来た時、箴言31章10節= しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。その時は、年配の婦人たちだけ。ここにはいないと思った記憶だけ。けれども牧師の道を歩みはじめ、良い出会いが与えられ結婚。 真珠で身を飾ることもなく、つつましやかに生きた家内だったが、天に召される日まで、しっかりした妻であり、神様からの大きなプレゼントで、祝福の妻でした。すべての働きの背後にあって常に祈り続け、ABCラジオ放送、旧ソビエトやアフリカなどの世界宣教、生駒聖書学院や各地に開拓伝道支援、妻の祈りで豊かに必要も備えられ、経済の心配も一度もすることもない、結婚生活でした。ひとり暮らしの、インマヌエル神ともにおられる生活です。 明るい愛で、いのち支えて、美しく嬉しい笑顔で、大きな恵み。ハレルヤ。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。。感謝します。
2016/04/30
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手神6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。1日に歩行中、乗用車にはねられ救急車で病院。今日でちょうど一ヶ月。今は恵みの時、救いの日。何事が起ころうと、その日、その時が救いの日神の助けと救いがあり、すべてのことにありがとうございます。感謝します。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。神のなさることはみなその時にかなって美しい。ハレルヤ。だから、これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼうと、強がりでもなく、頑張りでもなく、ただ恵みに監査者しながら過ごす一ヶ月です。顎と頬の20針縫った後も、縫った医者が驚くほどの復元です。右足腿の打撲と挫傷の痛みは、激痛でしたが、今朝包帯交換で病院へ。昨日のヨベル聖会では、一ヶ月ぶりに立ってメッセージ。明日の生駒と大阪の礼拝もOKです。5月2日(月)午前7時~8時は、大阪玉造の大阪女学院角、大阪クリスチャンセンターチャペルでメッセージです。朝食祈祷会で会費500円。どうぞお近くの方ご参加ください。確かに、今は恵みの時、救いの日です。交通事故の4月でしたが、5名が救われ洗礼を授けました。一人はぢ地震の益城町へ、種子島からボランティアに来てくれた63歳男性。エリムキリスト教会で濱田達郎兄に福音を聞き、天の虫けら=榮義之自叙伝を読み、洗礼を決心死、電話で救いに導き授洗。6:3-10私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/30
コメント(0)
ヨブ記1:21-22 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名は、ほむべきかな」ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。ヨブ記は試練の書として有名。ヨブは潔白で正しく,神を畏れ、悪から遠ざかり、精錬潔白でした。 7人の息子と3人の娘の子。羊7000頭、らくだ3000頭、牛500くびき、多くのしもべたち。当時の世界で、一番の富豪でした。ところが一朝にして、10人の子どもが大嵐で全員死亡、野蛮人が羊、らくだ、牛を強奪、しもべもたちもすべて虐殺されました。 現代も同じような試練があり、東関東大震災は未だに、その大試練は解決せず、放射能の害があっても隠ぺいしている感です。14日には益城町を地震が襲い、熊本地震はもう余震が1000回を越えました。今日は大分県に、震度4の地震や3の自身がありました。 家内は、2011年8月、肺がん末期レベ4、余命一年との宣告を受けました。ヨブ記のことばを覚えつつ、ありがとうございます。感謝しますと、家族で受取り、2014年昨年5月17日に、余命一年から3年9ヶ月生かされて、天へ帰りました。今年も高29日が一人だけの結婚記念日です。良い妻を神様からの贈り物として受け、幸せな結婚生活を思いだし、感謝する夕べです。 今日は、生駒聖書学院主催、一年に一回の学院長メッセージのヨベル聖会(午後1時)ピリピ人への手紙 4:11-13 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日。感謝します。
2016/04/29
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。誰でも、主イエス・キリストをアーメンと信じると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではなく、新し人生が始まったのです。十字架により、すべての罪や病、呪いや貧乏、死と滅びから救い出され、神の子となる平安と幸せ人生。正しく、健やかに、祝福されて豊かに、永遠のいのちを受け、天国人生です。恐れや不安より、愛が多く全ったき愛が恐れを取り除きます。赤ちゃんの幸せな笑顔は、この世に産み出され、豊かな愛に守られている輝きです。生駒聖書学院は、イエス・キリストの十字架の愛に救われ、新しくされた人生を、神の愛と人々の幸せのために生きる願いを持ち、キリストの愛に生きる学び舎です。今日29日午後1時は、恒例のヨベル聖会。学院長メッセージで、今年もキリストの愛に心動かされ、9月5日の入学式に備える者も起こされます。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ。すべてがあたらしくなりました。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/29
コメント(0)
ヨエル書2:28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。クリスマス=イエス・キリストの誕生日イースター=イエス・キリストの復活日=死からの誕生日ペンテコステ=イエス・キリストの教会誕生日=今年は5月15日このヨエルの預言は、イエス・キリスト昇天された10日後の日曜日の朝、実現しました。120名の弟子たちがエルサレムの2階座敷で10日間、断食と祈りをしていました。突然、天から、激し風が吹い来るような響きが起こり、家全体に響き渡りました。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとり一人の上にとどまったのです。すると120人全員が、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる通りに他国のことば=異言で話し出しました。その音や大声を聞いて、人々が集まり、その日説教聞いて、3000人がアーメンと信じてバプテスマを受け、キリスト教会が誕生しました。その日がちょうどペンテコステの日=五旬節(過ぎ越し祭から50日目の収穫祭)=イエス・キリストが十字架で死に「復活して50日目でした。 聖霊なる神が地上で働きを主役としてお働き始めた日、その聖霊に満たされると、今でも同じ現象=特に異言を語り、今でも世界中のクリスチャンに5人に一人が同じ経験をしています。異言は神様だけが分かる天国言と言っても過言ではありません。また新しい言語習得の早業み与えられます。なんであれ、聖霊に満たされたら同じ現象が現れます。明日29日は、生駒聖書学院ヨベル聖会;一ヶ月ぶりに立ってメッセージです。お会いできるのを楽しみにお待ちします。ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/28
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙5:11 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。聖書のことばは、そのまま読むとスッキリ心に入ってきます。肉体のことを幕屋=地上の住まい。神のくださる建物=天にある永遠の家。肉体を持っている限り、重荷を負ってうめいている。疲れたり病になったり、事故ったりの人生です。肉体の死は、天からの住まいを着る時です。しかし、その時は自分で決めるのではなく、神様の心にあります。それが寿命です。その特、死はいのちにのまれ、永遠の天国に憩う幸いです。自分お努力や才能、地位や名誉や財産ではなく、イエス・キリストの十字架と復活をアーメンと信じると、聖霊がその保証をしてくれます。信仰によって見えないのをアーメンと受け止めます、信仰によって歩む人生は、いつも心強く生きる力です。心からの願いは、いつも念願とするのは、主に喜ばれることです。相対的に人と比較するのではなく、真の神の愛に絶対的に守られる平安と喜びです。人生の終局は死であり、死後に全てがキリストの最後の審判で決まります。善であれ悪であれ、必ず人は人生の結果を刈り取るのです。天国か地獄が決定します。罪の支払う報酬は死=地獄です。主イエス・キリストの十字架は、全ての罪を贖い、アーメンと信じる者を神の子とし、永遠の裁きから救い解放しました。ヨハネの福音書5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。ありがとうございます。今日もまた死からいのちに移された天国の一日です。感謝します。
2016/04/28
コメント(0)
ネヘミヤ記8:10 きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。主を喜ぶことはあなたがたの力であるから。 今日という日は、生涯で今日だけ。しかも今日は、光あれと天地創造の日と同じように、愛の神によって備えられた新しい聖別された日。 悲しんではならない。悲しみと辛さの多い人生。イエス様は悲しんでいる者は幸いである。その人は慰められる。なぜ泣いているのか。と悲しむ者に声をかけてくださる。そしてイエスは涙を流された。泣く者とともに泣いてくださる、素晴らしい友であるイエス様がいっしょです。 主を喜ぶことはあなた方の力である。上を見上げてみよう。先日、天王寺駅改札付近に、警官が7人も固まっている。何事と覗くと幼児が泣きじゃくっている。おまわりさんがしゃがみこんで声をかけている。そこへ若いママが駆けつけ、その胸にすがりつき大きな声で泣き出す。しかし、先ほどとは違う涙と泣き声。悲しみの尽きない人生。病や死も人間である限り必ずある。愛と慰めのイエス様は、世の終わりまで共におられる。涙の原因も意味も分かってくださる。幼子はやがてにっこり微笑み、ママと手をつないで歩いて行った。祈り感謝し、賛美しつつ喜びの中を生きる幸い。その幼子と同じように、神の愛の御胸に抱かれ、今日も一人暮らし。あなた方の力を主が喜ばれるからだ。力がないのではなく力があるのだ。微笑み喜ぶことができる。ダメだ、仕方がない、どうにもならないと嘆くだけでなく、今できることをやってみよう。熊本地震中心地益城町のエリムキリスト教会。土台がズレたが、今日、八代から来てくれた工務店社長が、土台を強化すれば大丈夫と、力強く電話で語ってくれた。現在も被災地にたっており、民間ボラアンティアの宿泊所.とんこつラーメン炊き出しの中心となっている。支援物資も届き、生駒聖書学院もボランティア派遣。九州自動車道も開通したし、新幹線も動き始めた。 明後日29日は、ヨベル聖会メッセージ。脳梗塞の言語障害も、歯の治療後の語りにくさもいやされ、交通事故の顎と頬も20針塗ったが、自由に聖書のメッセージを語ります。1日から一ヶ月、ようやくたって話せる許可が出た。お祈りよろしくお願いいたします。ありがとうございます。今日もまた笑顔で喜びの天国の一日。感謝します。主にすがる我に悩みはなし 十字架のみもとに荷をおろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ歌いつつ歩まん この世の旅路を アーメン
2016/04/27
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。人間は土の器。ちょとしたことで、欠けたり壊れたり、長寿時代になっても、例外はあっても死を迎え、最後は土に帰ってしまいます。ところがその土に器に、尊い宝を入れているのが人間の尊厳です。器ばかり磨いても、中がガラクタばかりだったら役に立ちません。外形ばかり気にして化粧出ごまかすのではなく、内面の宝が耀くようにしたいものです。市役所から後期高齢者通知が多く届きます。折角なら光輝・高貴・好機・好気・好奇・香気にあふれる人生をと願います、。この宝=主イエス・キリストのいのちです。アダムが想像された時、土の塊でしたが、神はその鼻にいのちの息=神の霊を吹きこまれ、人は生きた者=人間になりました。イエス・キリストをアーメンと信じるとき、神の聖霊が新しいいのちを与えてくだします。その日から土の器が、神の栄光を現す器へと変えられていきます。1日に車にはねられ足をけがして歩けなくなり、全治一ヶ月を超えそうです。左顎と頬wp20針以上も縫い、幸い名の後遺症もなく綺麗な顔になりました。29日午後1時のヨベル聖会では、たって話せるよう主治医から許可が出ました。1ヶ月間の書斎暮らし、不便さもありましたが、この測り知れない力=内なる宝=この奥義は内なるキリスト栄光の望みです。自分の力ではなく、聖霊の力と、イエス・キリストの愛と恵みです。4章8節以下をお読みください。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/27
コメント(0)
ホセア書14:8-9 もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。ほんとうの知恵は、天地万物の創造者、全知で全能、偏在、永遠不変の唯一の神を知ることです。真実の神は目で見ることはできません。聖い義であり、公平で完全、愛の神です。その神がひとり子イエス・キリスト=神が処女降誕により人間として生まれ、十字架上にいのちを捨て、墓に葬られ3日目の朝に復活し、救いのわざを完成されました。その良い知らせ=福音をアーメンと信じるだけで、救われます。 世界中がその良い知らせを知らず、偶像にひれ伏し救いを求めています。大きな愛と恵みで、アーメンと言えば救われ、罪とがを赦され、神の子となり、神のいのち=永遠のいのちを与えられ、天国行きが保証されます。信じてバプテスマを受け、神の子となり59年。恵みと愛とにいのち生かされ、元気に今日も礼拝メッセージを、生駒と大阪,で語り続けています。今日も書斎を訪ねて来た保険会社社員に語り、福音を語り冊子を手渡しできました。春の輝き豊かな時期、緑が芽ぶき花も咲き、やがて実がなるように、天国に召される日まで、平安で幸せな道です。ありがとうございます。今日もまた、正しく健やかに祝福豊かな天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/26
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙3:5-6 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。種子島で高校生=16歳の時クリスチャンになり、今年の11月で60年。若い時から牧師となり、その資格は、新しい契約に仕える者。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者、主イエス・キリストの救いを伝え、信じてバプテスマを受けるものは救われます。今朝早く、被災地の益城町へ種子島からボランティアに来た63歳の男性。濱田龍郎神学生に導かれ、天の虫けらを読み、イエス・キリストを信じ、今朝は、電話で祈り洗礼を授けるすばらしい朝のスタートです。7月の種子島行での再会を約しました。4月1日に歩行中、交差点を歩いていて交通事故。脳内出血、脳梗塞を病んだ後で、絶体倒れないようにとの主治医厳命でした。跳ね飛ばされましたが、CT検査で脳に異常はなく、右腿打撲と挫傷.。左顎とほほを20針も縫いました。全治1ヶ月余り。29日には何とか立ってヨベル聖会で語れそうです。そんな中でも、新しい契約に仕える者として、4月3日には、益城町から自動車で生駒まで来た4名に、交通事故の動きにくい身体したが浸礼の洗礼式。益城町の73歳濱田龍郎夫人、種子島の82歳と81歳老夫婦、57歳長男。そして今朝は63歳の種子島の男性。7月29日からの種子島行きが楽しみになりました。文字は殺し、霊は生かす。イエス・キリストの十字架と復活の福音をアーメンと信じるよう、聖霊がイエスは主ですと告白する恵みをくださいます。3:16-18 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/26
コメント(0)
第二歴代誌31:20-21 ヒゼキヤはユダ全国にこのように行ない、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行なった。彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした。ヒゼキヤ=主は私の力の意=王は、BC716年頃から29年間、ユダを統治し、歴代の王の中での名君。聖地旅行では、今でもヒゼキヤの掘ったトンネルを歩ける。 唯一の真実の神、イエス・キリストの平和を祈りつつ。良いこと、正しいこと、誠実なことを、心を尽くして行い、その平和への目的が果たされるよう祈る。アメリカが核をすべて放棄、沖縄基地を変換し、日本が原発廃止、平和憲法を守る決意を実行すれば、世界は変わる。それくらい思い切った決断をしてもよい。第3次世界大戦など起これば、人類も地球も滅亡することは、SF映画の世界が現実となる。噴火口の上で恍惚にダンスをしているようなものだ。世界中が核放棄と原発廃止、武器製造も武器ビジネスも廃絶し、平和を造りだすことである。唯一の被爆国日本が、広島、長崎の被爆の事実を国際社会に訴え、原爆ドームの前で、戦争志向を悔い改め、靖国の妄想を捨ててしまえば、世界の平和の先頭に立つ国になる。ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/25
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙2:1417 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。しかし、神に感謝します=しかるに、神は感謝すべきかな。聖書は、すべてのことに感謝することを、愛の神が願い望んでいることを、教えています。どんなことがあっても、しかし、神に感謝します。そう言い切ってしまうと、奇跡が起こります。感謝します。ありがとうございます。それだけで気持ちが落ち着きます。上機嫌よく目覚め、ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。すばらしい新しい感謝と喜びの、平安と幸せな25日を感謝します。いつも幸せに居れるのは、出来事や問題に感情的に支配されないで、インマヌエルの主がともにおられることを信じ、幸せです、しかし、感謝します。と言い切ってしまうのです。すばらしいことnちゃんと感情は着いてきてくれます。何にも問題が無ければ、そう言えるのに、何て言わないで、感情に支配されずに、神のことばにアーメン。ありがとうございます。しかし、神に感謝します。神はいつでも、どんなときでも、キリストの勝利の行列=死からの復活、すべての問題を解決した凱旋行列に生きる。大勝利、大感激の中にあります。今年は市役所から様々な文書が届きます。9月2日で95歳になるので、後期高齢者通知です。そのことばを光輝と置き換え、香気な年齢を高貴に生きよう、幸喜に好機と捕えて、好奇心でチャレンジです。キリストの香気にあふれて生きようとご機嫌です。嬉しい、最高のゆっくりと笑顔輝き、生きる今日です。朝はチャペルメッセージ。午前10時5分からは、高橋裕子先生講義=日本禁煙科学会 理事長、国立京都医療センター 禁煙外来担当医...病院でエコー検査診察、包帯交換もあります。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/25
コメント(0)
ホセア書13:14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。 復活の春。野に山に庭に、小川のほとりの小道に、いのちが燃え輝いています。枯れ木にさえ花が咲く感です。 今朝のホセア書のことばは、イエス・キリストの復活預言です。復活こそキリスト教の歴史的事実です。その十字架の死と葬り、3日目の朝の復活を、2000年の歴史を通して伝え続け、アーメンと信じるだけで救われ、バプテスマにより新しい人生に。19957年11月24日に、種子島でアーメンと信じ、その日に海でバプテスマを受け、今年年を迎えます。ホセア書の預言は成就し、復活のキリストを信じる者は、その恵みで日々生かされます。コリント人への第一の手紙15::54-58 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。 自分の労苦が無駄にならない人生。たとえ地上では報われなくても、無駄にならない豊かな祝福を受けつつの日々です。心からハレルヤ。アーメン。ありがとうございます。今日もまた天国の何一つ無駄にならない笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/24
コメント(0)
聖書の一言;コリンント人への第二の手紙1:19-20 私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。昨日は、種子島鴻之峰小学校の幼馴染が、書斎まで見舞いに来てくれました。種子島から来て、多大な苦労でしたが、東大阪市一の多額納税者になり、鉄工所で大成功しました。君は小学生の頃は物も言わない、おとなしい無口だったが,はいはハイ、いいえはイイエと言えたねと言う話でした。16歳でクリスチャンになり、聖書のすばらしい約束に感動の人生です。神の約束は具体的に、聖書には7000もあると言われます。そのずべての約束はことごとく、イエス・キリストによってしかり=実現しました。アーメン=誠=言+成る。神の約束にアーメンと応じることで、救われるだけでなく、すべてのことが実現します。神の栄光を生きるのが目的ですが、アーメンで神の栄光を帰する楽しい人生です。今日もまず神の国と神の義を第一として、霊とまことを持って礼拝することをアーメンと優先して、恵まれた歩みを続けましょう。午前中は生駒聖書学院教会で礼拝説教。午後は大阪新世界のエリムキリスト教会へ車イスで行き椅子に座って説教。今週29日午後1時、ヨベル聖会では立ってメッセージっできるように、交通事故の傷も快癒しています。お祈りありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/24
コメント(0)
ホセア書11:3-4彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。イエス・キリストが十字架の上に、すべての罪だけでなく、病ものろいも貧乏も、死もすべてを背負い、解決してくれました。墓に葬られたが復活し、十字架の御業が完成したことを証明しました。十字架も復活も歴史の事実です。そのことを初めて、聞いて種子島の西之表キリスト教会で聞いて、アーメンと信じてバプテスマを受けました。 健康もそのもので、風邪も引いたことも、頭痛も腹痛も経験のない牧師生活。58歳の時、東京で聖会説教を終え、ホテルに帰った時、右脳内出血に襲われ、生まれて初めての入院。すっきり直って一年後、東京北区赤羽の病院へ行きました。婦長にあなたは昨年死んでいた人ですよと言われました。2012年に堺市で運転中左脳内出血に襲われ、自動車がひっくり返り、電柱にぶつかり救急車。退院後、現場を徒歩で16000歩も歩き、今度は小脳内梗塞になり入院。 左右脳内出血、小脳内梗塞に.直してくださいと祈り、主治医が何べんも奇跡ですよと、画面を見ながら説明してくれます。まず、健康であるのは、愛の神の恵みであり、健康が最高の癒しの恵みです。その愛に心から感謝します。 病になっても、直してくださいと祈ったら、もう病気ではなく、癒されて直ったと信じて、ありがとうございます。癒されました。感謝します。いつも病でまだ体が弱くても、気まで病まないで、祈りで直ったと宣言します。 机上に、医者が学んだ祈りの力=小松健治著;幻冬舎刊=があります。病は気からの科学的立証。諦めないこと=希望と愛と赦しでガンが消えた=元益田日赤病院胸部外科部長が、ガンになり、祈りで直った体験を、科学的に立証している書です。イエス・キリストの十字架の癒しは、科学的立証を越える信仰の癒しです。聖書の癒しを体験し、今日も気まで病まないで、病の身体であっても、生かされている恵みに心から感謝し、微笑みつつ笑顔で過ごしたいものです。また、人間の綱、愛のきずな、病める人に必要なのは、周りにいる人の愛です。笑顔でほほえみで病める人をつつみこんでください。明るい輝きが、元気を与えます。その大きな愛が今日もあります。ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/23
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第二の手紙1:36 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。すべての慰めの神がほめたたえられますように。交通事故で右足腿を打撲挫傷。激烈な痛みが襲うとき、ありがとうございます。ほめたたえます。感謝します。左あごと頬を20針縫い、食べることもままならないときも、ありがとうございます。ほめたたえます。感謝します。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださる恵みを体験しています。愛する家内が天国に召され、一人暮らしももうすぐ2年。慰めを受け平安に現役牧師として、2年間で15名の召天式を行い、自分も苦難を味わい、慰めもまたキリストにあってあふれ、死の床に着き添い、召された家族とともに悲しみ、特に葬式の前に家族そろって、アーメン信じますと、救いを受けてくださる方が多く与えられています。熊本・大分地震も余震800回を越え、苦難と試練の日々です。しかし、どんな時でも、苦難と共に、苦難に耐え抜く力も与えられます。シッカリ望みの忍耐で、立ち上がり過ごしたいものです。牧師をしている益城エリムキリスト教会も、被災地益城町にあります。通信神学生二人と教会員が、そのさ中でもとんこつラーメン炊き出しを17日から連日継続しています。教会もボランティア宿泊を受け入れています。といっても揺れるので、教会駐車場車中泊の時間が多いみたいです。覚えてお祈りお願いします。ありがとうございます。今日もまた慰め豊かな天国の一日です。感謝します。
2016/04/23
コメント(0)
ホセア書10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。 蒔いたものを刈り取る人生です。貧しい農家で育ち、種蒔きの思い出は、小学生の時、庭の隅にカボチャの種を蒔きました。 花が咲き学校で習ったようにおしべとめしべを交配し、カボチャがどんどん実ります。美味しいカボチャで、朝も昼もカボチャだけの食事。 多くの実りがあったのは、まず種を蒔いたこと。次に庭の隅だったが、しっかり耕して種を蒔けるようにしたこと。三番目にゴミ捨て場だったので、非常に肥料が良かったこと。4番目には交配をし、手入れを良くしたこと。5番目に、毎朝期待したこと。 最高に素晴らしいのは、日の光と雨と風が、目が出て花が咲き、身を実らせるまで、豊かな神の愛が注がれたことです。 人生でも、何事をするにも、正義の種=ほんとうに正しいことを蒔くことです。思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ガラテヤ6:7-9良く耕して=いつも前向きに考え、語ることばも天国ことばを口ぐせに、ありがとうございます。昔話の猿蟹合戦のカニのように、早く芽を出せ柿の種と大きく期待します。桃栗三年、柿八年ですが、不思議なことが必ず起こります。 動植物も愛の期待に応えて美しく花を咲かせ実ります。ペットも可愛いと愛を注げば期待に応えてくれます。 日本を愛し、日本国にも期待と愛を注ぎ、祈りと愛で福音の種を蒔き続けたいものです。午後に市役所から介護認定をする福祉士が来て面接。終わってから側に来てもらい握手し幸せを祈り、イエス様を心に迎える祈りにもアーメンと応じてくれた。漫画と冊子を手渡し、5月には介護認定ができるそうだ。書斎を訪れる方に福音を語る恵みの日です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/22
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙16:13-14 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい。聖書の言葉は。愛の神のことば。聖書を読むときには、ストレートに語りかけることばとして、ストレートに受け取ると、ことばどおりの人生を生きる平安で幸せ。ありがとうございます。目をさまし自覚しました。感謝します。ありがとうございます。堅く信仰に立ちました。感謝します。ありがとうございます。男らしく、強くなりました。感謝します。ありがとうございます。いっさいのことを愛を持って行いました。感謝します。今日も被災地の益城町、熊本全県、九州各県の地震と余震、雨の被害から守られ、復興が速やかになされるよう祈る朝です。昨夜のANNニュースで。被災地益城町で地震のさ中、九州ラーメン党とんこつラーメン炊き出しが放映されました。自室も、福祉作業所も壊滅状態。車中泊で17日から炊き出しを連日続ける濱田龍郎夫妻。生駒聖書学院通信神学生で、最大の被災地でゴールデンルールの愛を実践してくれています益城町のエリムキリスト教会も、東北からのボランティア受け入れ場となっています。歩行困難で現地へ行けないが、教会員たちが励んでおります。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/22
コメント(0)
ホセア書6:1-3 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 今日は雨になり、地震の被災地は大変です。も上がりそうに、東の空が明るくなり、雨も止んでいます。人生には、なぜこんあことが?と思うようなことも多くあります。 傷ついたり、病になったり、失敗したり、試練や悩みが襲って来たり、いろいろです。そのたびごとに悩みの炉に投げ込まれたたり、涙の谷を通ります。死の陰の谷を越えなけれなならない日もやって来ます。しかし、イエス・キリストは十字架に、そのすべてを背負い、墓に葬られました。黄泉のどん底を体験されましたが、3日目の朝に死を打ち破り復活されました。その事実をアーメンと信じるだけで、救われて神の子とされ、永遠のいのちを受け、天国行きが保証されます。罪とがを赦され、健やかに豊かに祝されます。 被災地は雨で大変、守りと平安を祈る夜です。今、朝日テレビで九州ラーメン炊き出しボランティアの様子が報じられています。九州ラーメン党浜田達郎代表は、生駒聖書学院通信神学生。義援金をよろしくお願いします。ボランティアバンク=郵便振替01940-1-59572ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/21
コメント(0)
昨夜、益城町の現地と話し、義援金が必要とのことです。益城エリムキリスト教会通信神学生濱田龍郎兄は、益城町からとんこつラーメン炊き出しに、阪神大震災から20年間、すべての被災地にボランティアで炊き出しとんこつラーメンを届けました。今回はボランティア本部が被災地のど真ん中になり、自分お住まいも福祉作業所も大混乱です。しかし、益城町被災者のために、とんこつラーメン炊き出しとお握りを、17日より連日提供しています。義援金ご支援をお願い申し上げます。益城エリムキリスト教会牧師;榮義之振込み;ボランティアバンク01940-1-59572
2016/04/21
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙15:57-58 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。どんなときでもいつものように、しかし、神に感謝すべきです。ありがとうございますと、全能で愛と恵みの神を見上げる日々です。今回の熊本地震は、エリムキリスト教会のある益城町から始まりました。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。昨日も、午前中1時間半近く、74歳婦人の話を聞きました。ご主人は、最強の企業マンで、海外でも大活躍し、二人仲良く愛し合い定年。5年前に認知になり現在78歳。施設暮らしで、毎日施設へ通い、職員から3日に一回くらいでいいですよと、言われたが愛する主人の顔を見たいと、すばらしい夫婦愛です。でも、なぜ?認知に?、毎日なぜ?なぜ?の思いに捕えられ続けています。IFに支配されると、LIFEが思い煩いと心配に支配されます。悩んでいる方に、なぜ?ではなく。!マークにと言うのは失礼と思いつつも、!驚きのありがとう。感謝します。少しだけお話しでき、幸い祈りを受けてくださり、イエス・キリストを信じる心をもってくださいました。教会員が渡した拙著全部を、何回も読んでおられて幸いです。神は、私っ体の主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。死に打ち勝ち、復活された主イエス・キリストが、アーメン信じますと受け入れるとき、心に住んでくださり、どんな状態の中でも、勝利を与えて守り導いてくださいます。土な時でも、堅く立って動かされることなく、全力を注いで主の業に励む恵みに感謝します。交通事故から3週間、まだ激痛があり、今朝も病院で診査を受け、来週月曜日に結果が出るので、検診です。その時に包袋交換。剥がれた表皮は80パーセントきれいになっています。もう少しで全部きれいな腿になります。歩かないで足を上げながらの、部屋暮らしです。!!ありがとうございます。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。詩篇118:23-24 感謝します。
2016/04/21
コメント(0)
ホセア書2:15 アコルの谷を望みの門としよう。アコルの谷は、エリコの城壁の外にあり、苦い記憶の場所。イスラエル民族が、40年の荒野の旅を終え、約束の乳と蜜の流れる国に来た時、眼前に立ちはだかる城壁の町エリコ。全能の神のことばに従い、その町を占領しました。小さな町アイを攻めると、大敗北を喫しました。原因はユダ部族のアカンが、エリコ攻略の戦利品を見て欲しくなり盗みました。その結果が大敗北になり、アカンを石打の刑にした場所が、アコルの谷です。民族にとって苦い思い出の、いや思い出したくもないアコルの谷です。 聖地旅行に行き、エリコに行くたびに一度見たいと思っていました。幸い5日間のイスラエルの旅をしたとき、運転手が退役の大佐で、アコルの谷に連れて行ってくれました。今はバナナとイチジクの緑の谷間でした。その時にアコルの谷を望みとしよう。ホセア書のことば通りになっていることに感動でした。人生にも色んなことがあり、思い出すことも嫌な過去もあります。 骨董には面白い愉しみ方があるそうです。貴重な皿を落として割ってしまったとき、破片を集めて継ぎ合わせる。それも、割れ目を浮き立たせ、割れ方の豪快さや、継いだ跡の風情をあえて楽しむ。ぶち割れという、じつに洒脱な愉しみ方。欠点を知られまい、悟られないと押し隠し、いつも他人の目を警戒し、ビクビク生きていると、欠点よりもこうした萎縮した態度が大きな欠陥となってしまいます。イエス・キリストの十字架と復活をアーメンと信じる人生は、恵みは十分にあり、恵みのより救われ、弱さがそのまま強さに変わり、侮辱されても辱められようと、迫害されようと、十字架の救いによって、継ぎ合わされた=というよりまったく新しくされた=ぶち割れ人生が、豪快な恵みとなり、多くの人々の人生にも祝福をもたらすのです。 生駒聖書学院は、ぶち割れ人生経験者が入学し、すばらしい神の器として巣立つ神学校です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/20
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙15:9-10 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。神の恵みによって、私は今の私になりました。すべてのクリスチャンも同じ経験を告白できる幸いです。実るほど頭を垂れる稲穂かな=稲は実が入ると頭が垂れて来るが、人間も学問や徳を積むにつれて、かえって謙虚になる。使徒パウロは、復活のキリストに出会い、全く新しく変えられ、大使徒パウロになりましが、使徒の中では最も小さい者ですと告白しました。大使徒パウロの告白は、エペソ人への手紙3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝えるためでした。すえてのクリスチャンの中で、一番小さな私と告白しています。さらに晩年には、テモテへ第一の手紙1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。使徒の中では最も小さい者で、使徒と呼ばれる価値のない者です。聖徒たちのうちで一番ちいさな私。私は、その罪人のかしらです。傲慢は人を滅びに導き、謙遜は栄誉に先立ちます。そのようなリーダーが、キリスト教会にも、すべての社会に必要です。イザヤ書57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/20
コメント(0)
第二歴代誌20:21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」 戦いに直面したヨシャパテ王は、攻め寄せてくるおびただしい大群に、なすすべもなくただおびえ恐れ断食を布告し、全能の主に助けを求めました。 軍備増強や軍事同盟ではなく、苦難の中から主に呼ばわるだけ。その時、神のことばがあり、おびただしい大群に恐れてはならない。おびえてはならない。気落ちしてはならない。ではどうすれば?「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と歌い賛美するだけ。 彼らがアーメンと賛美すると、どこから現れたか伏兵が来て、何とおびただしい大群は、同士討ちで全力を出し全滅した。勝利した彼らは、ベラカ=祝福&ほめたたえるの意=の谷に集まり、主をほめたたえました。 人生には多くの戦いがある。健康、家族、勉強、仕事、政治、経済はもちろん、親戚、隣人関係など、寄せては返す波のように押し寄せます。どんなことがあろうと、どんな時でも、主に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。ハレルヤ。アーメン。それを体験的に実践する経験です。四差路交差点で乗用車にはねられ横転。顎と頬を20針縫い、骨折はなかったけれども、右太腿を激しく打撲、3週間歩けず部屋暮らし。激痛が襲う度に、癒されました。ありがとうございます。感謝します。との告白を続ける一人暮らしです。同時に、益城キリスト教会が熊本地震の渦中で、土台が20センチ傾き、もう、ありがとうございます。感謝します。それしか言えない現実です。腿の痛みはあっても、心は晴れ晴れ、気分スッキリで、愛と祈りに支えられています。明日午後、採血と診察です。来週は歩いても良いと許可が出るはずです。お祈りありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します
2016/04/19
コメント(0)
ホセア書2章15節アコルの谷を望みの門としよう。預言者ホセアは、ゴメルという美人と結婚し、子供も生まれたが、彼女が浮気し男に捨てられ、遊女にまで身を落としてしまいます。その絶望の中で、神はゴメルを買い戻し、再び妻とせよと、ホセアに語ります。ホセアは銀と大麦の袋=遊女の身請け代を背負い、ゴメルを再び妻とする、愛の預言者ホセアの書。 真の愛の神から離れ、偶像を求めて拝み、虚しさを生き、地獄の中にある人類を救うために、大麦の袋ならぬ十字架を背負い、背負うだけでなく十字架にいのちを捨てて救ってくださる、イエス・キリストの 愛を象徴するホセアの姿。アコルの谷が望みの門となる、十字架と復活の救いです。アーメンと信じるだけで、絶望が希望に変わります。地獄行きの定めが、天国へ迷わず行ける、平安と希望の幸せの日々です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/19
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙15:15 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。熊本大地震のど真ん中、益城町にエリムキリスト教会=榮義之主任牧師が2013年設立。2011年、東関東大震災ボランティアのいわき市で、九州ボランティア仲間ラーメン党濱田龍郎理事長に出会いました。今朝の聖書のとおりに福音を語り、アーメンと信じクリスチャンとなりました。九州ラーメン党は、阪神大震災以降20年間で8万食のとんこつラーメン炊き出しを8万食継続しています。三角公園でも1500食。今回、何とその地元、益城町が被災地のど真ん中になり、自分の住まいも福祉作業所も備品も損なわれ得ました。教会駐車場の車に寝泊まりして、ラーメン炊き出しとお握り配布を3日目から始めました。地元の方に喜んでもらっています。お祈りとご支援をお願いします。今朝のメールを転載します。爽やかな被災地の朝に祈りを捧げます!(アーメン)、、、先生に、許可を頂きたいのですが、、実は、「ラーメン炊きだし」を、強力にサポートしつ下さる「石巻市復興を考える市民の会」が、1日も早く炊きだし会場に来たいと願っているのですが、ホテルが満杯です。そこで、4~5名を教会に受け入れたいのですが如何でしょうか?教会は、いずれ何らかの補修は必要だとは思いますが、宿泊は夜具は濱田、又は先方が持ち込めば、宿泊可能な状態にあります。、、、5年間親交のある方々です。私が責任を持ちますので、是非!ご許可下さい。お願いいたします。「追伸」今日朝6:30~7:30の間のテレビ番組「朝チャン」で、ラーメン炊きだしの様子が流れる予定だそうです。時間取れましたら御覧ください。昨夜、電気も水道も開通しました。テレビを、私も見たいと思います。被災地のど真ん中で、益城エリムキリスト教会が用いられています。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/19
コメント(0)
の賜物を分かち合う」ローマ1:11-12 「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。」この手紙はパウロの第3次伝道旅行の途中、コリントのガイオ邸でローマの教会宛てにしたためられたものです(ローマ16:23)。パウロはなぜローマの教会員に会うことを熱望したのでしょうか。それは、パウロがこの時点ではローマの地を踏んだことがなかったからです。人伝えにしかローマの教会の様子をうかがい知ることはできなかったのです。パウロは直接会って、恵みを分かち合いたいと願っています。それは、パウロが直接話しをして交わることの大切さ、恵みが豊かにされることを今までの伝道旅行で体感しているからでしょう。さて、パウロの言うところの分け与えることのできる「霊の賜物」とはなんでしょうか。1コリント12章では、パウロは「霊の賜物は種々がるが、御霊は同じである」と御霊は主イエス一人であることを強調したうえで、霊の賜物とは、「知恵の言葉、知識の言、信仰、いやし、力あるわざ、預言、霊を見わける力、種々の異言、異言を説く力」(8-10)などをあげています。そしてこれら全てのものは、「一つの同じ御霊(イエス)の働きであって、御霊の思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである」(11)と述べています。これらの霊の賜物を分け与えることのできるのはイエス様だけであり、パウロが霊の賜物を分け与えることはできません。しかし、パウロがここで意味していたのは、霊の賜物のおおもとであるイエス様の福音を愛を伝えることだったのです。イエス様の福音を伝えることによって、各自がそれぞれの賜物を御霊であるイエス様によって分け与えられるからです。そして「力づける」とはもちろん「励ます」意味もありますが、パウロがわざわざここで霊の賜物に言及していることを考えますと、それぞれの霊の賜物をもって一つの身体(教会)とする、つまり「神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和を与え」「からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合い」(1コリン12:24b-25)、キリストのからだとなることが、弱い所は他がカバーし、しいては「力づけられる」ことだと主張しているのです。パウロは今だ会えていないローマの教会の方々に、イエス・キリストの福音を確固たるものとし、霊の賜物にあずかることを確信させ、共にイエス・キリストの福音を信じるという信仰によって、恵みをさらに増しくわえていただくよう熱望しているのです。 現代の私たちにも同じことが言えるのではないでしょうか。パウロのあげた「霊の賜物」は一部でしかありません。主イエス・キリストの身体の一部として、主を讃える働きはすべて霊の賜物です。例えば、賛美リード、演奏、グループのリーダーシップ、子どもたちの導き、営繕、会食の用意、掃除、送り迎えの運転、会計などなど教会に関係することは全て霊の賜物によってなされているのです。教会の奉仕すべてが、霊の賜物と言っても過言ではありません。しかし、パウロはわざわざ「霊の賜物」と言う言葉を使いました。それは、私たちに、教会のあらゆる奉仕は主の身体の一部であって、私たちがその奉仕にたずさわる時には、主に祈り主を賛美し主に仕えるごとく奉仕をさせていただかないといけない、すべてが主のための清い愛の行為であることを、私たちに悟ってもらいたいからです。私たちは、どんな霊の賜物をいただいて主にお仕えしているのかを考えてみるべきではないでしょうか。主を仰ぎながら喜びをもって主に仕えるように、お互いに仕えあっているでしょうか、励まし合っているでしょうか。そして、それが、本当に主の目にあって尊い奉仕です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/18
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙 14:18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。生駒聖書学院て驚いたのは、神学生たちが異言で熱心に祈る姿でした。現在は全世界のクリスチャンの五人で一人が異言を語ります。66年前は異言を語るクリスチャンは奇異の目で見られました。ペンテコステの日に、キリスト教会は誕生したのに、クリスマスやイースターは、よく知られていますが、教会の誕生日ペンテコステ=今年は5月15日(日)です。イエス・キリストの十字架から50日目、昇天から10日の目の朝、エルサレムの2階座敷で祈る120名ので失態の上に聖霊がご降臨。今まで一度も話したことのないことばを、120名がいっせいに語り始めました。その余りの声に驚いて、大勢の人々が集まりました。聖霊に満たされたペテロが立ち上がり説教。そのメッセージを聞いて3000名がアーメンと信じ、洗礼を受けてクリスチャンになり、歴史上最初のキリスト教会が誕生しました。私も生駒聖書学院入学後に、異言を語る聖霊のバプテスマを体験し、異言で祈り賛美する、恵まれた信仰生活を継続しています。ヤコブ1:17 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。異言も神の良い贈り物です。今日も知性で祈り、異言で祈る、神に栄光を帰する輝きの日です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/18
コメント(0)
ダニエル書12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。この聖書のことばを読み、讃美歌を口ずさみながら。 再び主イエスのくだります日 召さるる幼な子 み国にてみ空の星と輝きつつ主の御冠の玉とならん いやしき こころ の なき おさなご,みくら の 宝 に 数えられ,み空の星と輝きつつ主の御冠の玉とならんわが主に 愛(め)でられ, 主をば 頼み,汚れを 知らざる おさなごは,み空の星と輝きつつ主の御冠の玉とならん讃美歌458番イエス・キリストをアーメンと信じ、思慮深く息抜き、幼子の心を失わないで、天国に召されるまで、まっすぐ生き抜きたいと願う、愛する妻が召されて11ヶ月目の朝です。マタイの福音書13:43 そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/17
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。14:1 愛を追い求めなさい。また、愛=美しいことばです。愛があれば生きる力と勇気を与えられます。聖書の愛は、ギリシャ語でアガぺの愛です。条件なし、一方通行の愛、あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イエス・キリストの十字架に現された愛ですありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。ヨハネの福音書3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネの第一の手紙4:9-12 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
2016/04/17
コメント(0)
ダニエル書12:1-2 その時、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。最後の審判の時が来ると、聖書は繰り返し宣言し、警告を呼びかけています。かってなかったほどの苦難の時がくる。それが終末時代です。先日乗ったタクシー運転手は、牧師だと名乗ると猛烈に無神論を強調し、神もいない、天国もない、この世だけだと主張しました。行き先まで間違えるほどでした。結論は、無神論だが地獄はあると信じるでした。自分は正しく生きているが、世の中にはひどい奴らが多すぎる。人殺しや不正不義がはびこり、ずる賢い者が得をしている。許されてはならない。地獄があって当然だと息巻いていました。小冊子を手渡し、少し高く料金を払いました。死後に一つの書=命の書が開かれます。天国の戸籍です。オギヤーと生まれれば人間の子です。イエス・キリストをアーメンと信ずれば、神の子どもです。神の子どもは天国の出生記録=いのちの書に、名前が記載されます。天国に国籍を持ちます。生駒聖書学院正門前に家が建ち、アメリカ帰りの家族が住んでいます。男の子二人はアメリカ人です。親は日本人ですが、子どもはアメリカ人。それはアメリカの法律がアメリカで生まれたらアメリカ人と決めているからです。聖書は、イエス・キリストをアーメンと信じたら神の子、天国人だと宣言しています。どうか、心配しないで、アーメンと信じてください。天国に名前が記録され、地上での生活が終わると同時に、天国での生活がスタートです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/16
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙13:1-13 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。有名な愛の章です。ダイアナ妃の結婚式の時、放映中のテレビで、牧師がこの箇所を読むのを聞いて、インドネシナ出向中の商社マンは、独り住まいの部屋でクリスチャンになりました。日本に帰国するたびに、礼拝に出席して、インドネシアの教会のすばらしさを話してくれました。この世のすべては過ぎ去り消えていきます。しかし、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛です。その中で一番優れているものは愛です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/16
コメント(0)
ダニエル書11:35 思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。 黙示録22:11-12 不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 終末が来ると聖書は警告しています。 時代の終末=人々が平和だ。無事だと言っているときに、突然やって来ます。天変地異によるか、人為的な戦争や放射能によるものです。平和憲法を持ちながら、政権党と内閣府が平気で破り、偽善者ります。智者たちが新解釈を生み出し、気が付いたら滅びへの道をまっしぐら。そうならないように願い祈ります。 個人的な終末は、世界の終末より確実です。人は死にます。千年も万年も生きたい。100歳以上が5万人を越えるようになったとしても、寿命が終れば肉体は死にます。その時までが、自分を練り、清め白くする時です。死に至るまで、正しいことを行い、聖なる者は、聖なる者ならせる約束です。 十字架で死に、3日目の朝、復活されたイエス・キリストは、アーメンと信じる者と、世の終わりまで共におられます。見捨てることも見離すこともなく、友としていつも歩んでくださいます。 生きている限り、死の陰の谷を行くときも、平安と幸せに包んでくれます。豊かな天国の報いが約束されています。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/15
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。神のなさることはみなその時にかなって美しい。世界には様々は働きがあり、ドイツ語では職業のことを召命と言います。どんな働きも、神の栄光のためにあります。キリスト教会にも、さまざまな働きがあります。12章は聖霊の賜物について教えています。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行なう力、預言、は霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力。9つの御霊の賜物=イエス・キリストのお力の現れが与えられています。どんな働きがあっても、それはキリストの体=教会を建て上げる賜物です。確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/15
コメント(0)
ダニエル書10:19 言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」DEN10:19 And he said, "O man greatly beloved, fear not! Peace be to you; be strong, yes, be strong!" So when he spoke to me I was strengthened, and said, "Let my lord speak, for you have strengthened me."神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。と天使は語りかけました。朝ごとに、聖書を開くたびに、あなたはわたしの目に高価で尊い。わたしはあなたを愛しているとの、愛の声を聴く思いです。生駒市には一人暮らし世帯が7000以上もあります。私もその一人暮らしです。神さまや人々に最高に愛され、天使に守られ励まされています。 人の力付けも有難い。特に昨年の歯の治療から流動食を、一年間も届けて下さった理事長。 流動食が終ると、野菜不足にならないようにとビタミンをくださり、お電話でシッカリ摂取しているかとアドバイス。また栄養のバランスを考えた夕食が届く。野菜を採らなければと、野菜のの煮つけが届く。どのように感謝しても足りないくらい、守られ愛されています。 毎朝、聖書の一言で聖書を開き、解釈というよりそのままアーメンと受け取ります。食事時はテーブルの上の日々の宝石=聖書のことば=を一枚抜き出し、「神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるように」コロサイ4:12 解釈うんぬんではなく、聖書のことばをストレートにアーメンと受けるとき、神の生きていて力あることばが実現します。ありがとうございます。恐れず、安心して、強くされました。私は力づけられました。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/14
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。 昨日は、整形外科での診察を終え、車イスで会計前にいたら、後ろでやはり車椅子の高齢者が、大きな声で叫んでいる。会計処理が遅く、いつまで待たせるのかと、会計に向かって怒鳴っている。会計職員は、奥さまが診療中で終ったらすぐですとにこやかに言う。それでも怒鳴り続けるので、側に行き、待つ時間マンガでも読んでくださいと、無口の牧師物語を手渡す。お、嬉しい読むわと、にこやかに言いうので、愛・ありがとう!余命一年の幸せを渡す。喜んで受け取ってくれた。 阪奈中央病院ができた時からの古だぬきだから、みんな=医者も看護師・介護士、職員も友だちだと笑っている。 84歳だと言うが、若々しい顔で声も大きい。病院でもいろんな出会いがあるが、医者や看護師と祈ったり、小冊子を手渡したりの病院行きです。 今度は、土曜日に打ち身の傷の手当てで、病院に行きです。イエス・キリストの救いの福音を語ると、聖霊のお働きで、イエスは主です。の信仰告白を聞くことができる。すばらしい十字架の救いが、波紋のように広がることを祈り願う。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/14
コメント(0)
ダニエル書9:4-5 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。 戦後70年、天皇陛下と皇后はパラオを訪れ、今までも戦争中に日本軍が歩んだ地へ行きました。憲法第一章一条。天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 戦争中への悔い改めもないまま、戦争正義論、果ては八紘一宇肯定論まで主張され、日本を戦争に駆り立てるような右傾化がある今悲しい現実です。この聖句は、ダニエルの祈りの箇所です。彼は、潔白で欠点もなく高尚な義人の生涯でした。しかし彼は、国が滅亡しすべてを失った時、その原因を王や支配者、罪悪をもたらした者たちを責めず、それを自らの罪、不義、悪と告白したのです。 現在、多くの政治家も評論家も、戦時中のすべてのことをなしたのは、自分たちのせいではない。その時代に生きていたら、そんなことはしなかったという考えと同時に、それは間違いではなかったと主張し初めています。 天皇陛下一人が象徴として、その責任を果たそうとしているように、幾度も戦没地慰問の旅でをしました。本当は全国民が、戦後71年を迎える今年も、総懺悔で平和憲法を守りたいものです。 何よりも平和憲法を護持し、国際社会の平和の先頭に立つ、国になるように心から祈ります。ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。感謝します。
2016/04/13
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。クリスチャン生活のすばらしさは、お手本があることです。習字や絵画、芸術や職業でも、良い師匠に手ほどきを受けると、上達も早く秀逸になれます。クリスチャンの歩みは、イエス・キリストの足跡に倣うことです。ペテロの第一の手紙2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。第二に、聖書の人物、特に使徒パウロはここで、私がキリストに見習っているように、あなたがたも私を見習ってください。と断言しています。大切なことは、私がキリストに見習っているようにと言うことです。カリスマや教祖になっているような、カルト的キリスト教会指導者も見られる現代です。主イエス・キリストに見習う牧師の指導こそ、間違いのない信仰の道です。パウロは、若い牧師テモテに、こう書いています。テモテへの第一の手紙4:12 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。十字架から永遠の天国まで続く栄光の道を、アーメンと信じて救われてより、主イエス・キリストの歩まれた御足の後を、しっかり踏みしめて歩き続けた、パウロやテモテ、聖書の弟子たち。2000のキリスト教の歴史を、現代にいたるまで踏み迷うことなく、栄光の御足の後を踏みしめてきた、多くのクリスチャンに後に続き、自分の足跡もまた、これからクリスチャンなる多くの神の子たちが、見習い踏みしめて続くことを思う時、身が引き締まるを思いです。コリント人への第二の手紙2:14-15 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/13
コメント(0)
ダニエル書6:10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。ダニエルは捕虜の身でありながら、大帝国ペルシャのダリヨス王の側近でした。王は120名の太守を任命し、その上に3人の大臣を置き、支配していました。ダニエルは他の大臣や太守よりも、きわだって優れて、神の霊に満たされていたので、ダリヨス王は、ダニエルを最高位に着け、国を治めようと考えました。他の大臣や太守たちは、ダニエルを訴える口実を探しました。賄賂も取らず精錬潔白で、国政に忠実で、何の怠慢も欠点も見つけられません。ずる賢い妬みと嫉妬の駆られた彼らは、ダニエルの信仰に注目し、とんでもない法令を考えだしました。それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。ダニエルは、そのことを知りましたが、いつものように日に三度、神の前にひざまずき、祈り感謝していました。ずる賢い彼らは、王の禁令を破ったと大騒ぎをし、ダニエルは罰せられる事に。ダニエルは連れだされて、獅子の穴に投げ込まれ、大きな石の蓋をされ封印し、処置が変えられないようにしてしまいました。 夜が明けると直ぐ、ダニエルがライオンの餌になったと思いつつ、石の蓋が取りのけられました。ダニエルは獅子に穴で守られ、ルシャ王に仕えました。ダニエルを訴えた者たちは、王がお気に入りのダニエルを助けるため、ライオンに餌を与えただろうと大騒ぎ。王は彼らを獅子の穴へ投じました。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわが物にして、その骨まで噛み砕いてしましました。 時代は代わり、環境は変わっても、人間の嫉妬心、憎しみ、残虐さは変わりません。人を呪わば穴二つは真実です。 十字架のもと、愛と許しの平安と幸せ人生を祈ります。恨み、憎しみ、呪いの思いから救われ、アーメンとイエス・キリストを心にお迎えしましょう。交通事故に会い、痛みや腫れや縫合、ライオンの穴に投げ込まれた厳しさはないが、傷みが早くい亜yされ、腫れ鵜が引き、自由に歩けるよう、ありがとう、直りました。感謝します。ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/12
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙10:23-24 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。酒も飲まないで何て不自由な人生だと、若い時に怒られたことが良くありました。酒もたばこも口にせず、16歳から74歳です。イエス・キリストを信じる人生は、すべてのことはしても良いのです。自由な人生です。その自由は自由奔放、自由放縦の自由ではなく、自ら選ぶことのできる自由です。真理を知り、真理によって与えられた自由です。酒を飲めないで不自由ですね。そう言われることも多いけれども、飲まない自由を満喫している喜び人生です。自由とは選ぶことができる幸せです。すべてのことを徳を高めるため、自分お利益を求めないで、他人の利益を心がける人生です。何事があろうと、すべてのことに感謝できる、平安です。床の上に落ちる朝の陽射しに感謝。パンに「美味しいジャムを乗せて食べる感謝。郵便ポストの手紙に感謝。熱を冷やすアイスノンに感謝。交通事故で医者や看護師に会える感謝。点滴を受ける感謝。新しい出会いに感謝。信じますと爽やかに告白する看護師に感謝。冊子を渡せる感謝。数え切れないほどに与えられている恵みに感謝。いのちが生かされていることに感謝。何でもできる自由に感謝。同時にすべてを他人利益優先を考え生きる感謝、すべてが神の栄光になる人生に感謝。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/12
コメント(0)
さけない網」ヨハネ21:11 「シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。」ヨハネのこの記述はなにげない記録のようにも見えますが、なぜこの記述が聖書に含まれたのでしょうか。復活され岸に立っていたイエス様が「子たちよ、何か食べるもの(魚)があるか」と尋ねられ、弟子たちは何もないことを伝えると、再びイエス様は「舟の右のほうに網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」とおっしゃり、実際にそうなった場面でのできごとです。ところが、弟子たちが大量の魚とともに陸に上がってきたときには、イエス様すでに炭火をおこし、その上に先ほどの魚ではない魚とパンが焼いてあったのです。そして弟子たちの取ってきた魚の一部もいっしょに焼いて朝食をするようにと勧められました。イエス様がいっしょに食べられたという記述はありません。このイエス様の「何か食べるものがあるか」は、イエス様の食べるものではなく、弟子たちの食べるものがあるかとお尋ねになったのです。イエス様の弟子たちを愛する・気にかける気持ちが「食べるものはあるか、魚はとれたか」という呼びかけになりました。夜通しの漁でも何も獲れなかったが、イエス様のことばに従い、網を下ろすと、彼らだけでは食べきれないほどの魚が獲れたのです。イエス様の満ちあふれる愛が、この「大漁」に表されているのです。そして、15節以降のペテロに対しての三度の「わたしを愛するか」という問いにつながっていくのです。この「不漁」から「大漁」になる記述は、ルカ5章にもあります。この時は、イエス様は「恐れることはない。今からあなたは人間をとる猟師になるのだ」とおっしゃって、ペトロとヤコブとヨハネはいっさいを捨てて、イエス様に従っていくのです。この時も大漁にもかかわらず「網がさけた」という記述はありません。この時の大漁は、イエス様の言葉から察して「イエス様を信じる人間の数の多いこと」を示しています。また、ヨハネ書21章の「大漁」も、イエス様の愛の深さを表すと同時に、これから弟子たちが福音を伝え、人間の漁師になった時、「福音を聞きイエス様を信じる者が多くいる」ことを予言しているのです。「大漁」は、イエス様が弟子たちに「収穫が多いが、働き人が少ない」(マタイ9:37)とおっしゃった、多くの収穫にほかなりません。また、網をおろしたのは、イエス様ご自身ではなく、イエス様に従った弟子たちでした。多い収穫の働き人も弟子たちです。イエス様は、わたしたち弟子に、「福音を聞き信じる人がたくさんおこされる。あなた方はその漁師であり働き手である」とおっしゃられています。また「網がさけない」とは、その福音を聞きイエス様を信じた者は一人ももれることなく永遠の命にあずかることを意味します。ちょうどイエス様が、弟子たちにおっしゃった、「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。、、、(その)者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ10:40-42)ということが暗示されているのです。 私たちは、自分の考えで、自分の力で、よかろうと思って福音を(夜通しの漁のように)一生懸命伝えても(漁をしても)、福音はとどかないでしょう。しかし、自分自身を低くし(低くされ、悔改め)主に従って福音を伝えれば(網をおろせば)多くの方が福音を聞き信じて下さるでしょう(大漁となるでしょう)。そして、福音を聞き信じた方々は(網の中の魚は)もれることなく(網がやぶれることなく)永遠の命にあずかるのです。そして、全ての栄光が主に帰されるのです。
2016/04/11
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。交通事故は、人の知らないようなものではなく、世の常です。私の事故は左あごと頬を20針縫い、右足打撲激痛で歩けないほどです。交通事故に会い、入院しているとき、ラジオ放送を聞き、すべてのことに感謝しなさいとの、ラジオ牧師の話に怒ってハガキをくれました。聖書を送ると、コリント人への手紙10章13節に出会い、感激してイエス様を信じ、退院しました。スゴイむち打ち症でリハビリの牛乳配達をして、ラジオ放送を支援してくれた24歳の女性のことを思い出します。神は真実です。誠実で愛の神です。耐えることのできない試練に合わせるようなことはなさいません。毎日祈りつつ、ありがとうございます。直りました。感謝しますと告白しています。耐えることのできるように、試練を逃れ、脱出の道も備えられます。11日は、本科生13名の入学式、東京から3名、浜松1名、大阪5名、姫路1名、種子島1名、沖縄1名通信科にも天橋立や栃木県からの入学です。人生の試練を越えて、イエス・キリストを信じて新しい旅立ち、定年で小学校教師、また校長を退職しての、献身入学生もあります。男子神学生8名、女子神学生5名入学です。9月から家族寮での献身入学を待っている者もあります。聖書のことばの真実を、心すなおにアーメンと信じ、告白し、実行する、平安で幸せな人生です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/11
コメント(0)
ダニエル書1:12-12 「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。ベジタリアンにとっては、最高の聖書の教え。この箇所を金科玉条に、肉を食べると救われないとまで言う教えもあります。 聖書の書いてあるからという理由だけで、食物のことで教えをつくりだすのは、聖書読みの聖書知らずになるかも。 聖書から食物に関する教えを紹介します。まずエデンの園=創世記1:29-30 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。ノアの洪水後=創世記9:2 野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。モーセの律法時代=11:44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。地をはういかなる群生するものによっても、自分自身を汚してはならない。=現在もユダヤ教徒は厳守している=マルコの福音書7:18-19 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。 使徒の働き10:14-15 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」テモテへの第一の手紙4:3-4食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。ローマ人への手紙14:17-23 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。コリント人への第一の手紙10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです。ありがとうございます。今日もまた天国の笑顔の一日です。感謝します。
2016/04/10
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への第一の手紙9:16-27 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。交通事故で救急車や二つの病院。ショルダーバックの中に入っている小冊子を、医者や看護師に手渡す。また受付や待合室でも、手渡し。幸い、にこやかに受け取ってくれ、めったに出会えない方々に、イエス・キリストの救いを知って欲しいと祈る療養の日々です。お祈りありがとうございます。どんな時でもすべてに感謝し、福音を伝え、福音お恵みを共に受ける日曜日です。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/10
コメント(0)
弱い時に強い=恵みは100パーセント=通信科神学生 2コリント12:9-10 「ところが、主が言われた、『わたしの恵はあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」パウロは、「わたしは弱い時にこそ、わたしは強い」と告白しています。まったく逆転の発想です。このような逆転の発想は、聖書以外にもあります。たとえば、「ピンチをチャンスにかえる」とか「失敗は成功のもと」とかです。これらも人生での教訓であり、多く支持されています。では、パウロの告白とどこが違うのでしょうか。「ピンチをチャンスにかえる」とは、今までの自分の考え方、生活の仕方、ビジネスの仕方などなどでピンチに陥っているのだから、それを変えるきっかけを作るという発想の転換方法です。また、「失敗は成功のもと」とは、失敗からその原因を学んで、それとは異なった方法や手法でアプローチをとることによって成功に近づく学習方法です。どちらも冷静に自分や自分の行動や手法や自分の置かれている状況を判断し、自らの力で乗り切ることが求められます。頼りになるのは結局自分であり自分の能力なのです。ですから、冷静に自己判断ができない人には、これらの方法をいくら説いても、無駄になります。確かに、パウロも自己判断のできる優秀な人でしたが、彼の言うところの「わたしは弱い時にこそ強い」は、冷静なる自己判断を求められることはありません。パウロは、「ピンチの時は主に頼れ」、「失敗したら主に帰れ」と言っているのですから。イエス様は「わたしの恵はあなたに対して十分である」とおっしゃられました。「十分」とは「100パーセント」だと言うことです。神様の恵は、現在のあなたのおかれている状況に対して、それ以上求める必要のないものであると言われているのです。また「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とは、あなたの弱さはわたしが補って完全にすると言われているのと同じなのです。「完全」とは、非の打ちどころのないことを示します。 「ピンチの時は主に頼れ」。モーセの率いる民はエジプトを出て40年間、天からの食べ物マナ(蜜を入れたせいべいのようなもの)を食べました。マナは一人一人に十分なだけしか取れませんでしたし、もし多めにとれたとしても翌朝には臭くなって虫がわき食べられませんでした。また7日目の安息日には収穫行為自体をしませんでしたが、その前の日に必ず安息日分も収穫ができ、その分に関しては腐りませんでした(出エジプト16章)。主は食べ物がないというピンチに必要十分な完全栄養食をモーセの民に与えられたのです。これはモーセが、食料欠如という自らではどうすることもできない状況において、神に祈り神に100%より頼んだからにほかなりません。 「失敗したら主に帰れ」。ペテロも大失敗をしています。よくご存知の「鶏がなくまでに三度、イエスを知らないと言う」失敗です(ルカ22:54-62)。ペテロはその後、すぐに外へ出て激しく泣いた(悔改めた→主に帰った)とあります。失敗は多くの場合、主から、主の御旨から離れている時、高ぶっている時に起こります。ペテロがこの失敗から立ち直れたのは、ひとえに主にたち帰り主をどこまでも信頼したからにほかなりませんが、そこにはイエス様の予め用意されていた言葉が支えとなっていました。「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31-32)。 私たちはなんと幸せ者でしょうか。私たちには、心が折れそうになった時、より頼む方が帰る方(避け所)がいらっしゃいます。その方は全てにおいて完全な方であり、私たちが身を寄せれば、完全に包んで癒してくださり、望めば必要な知恵と力と勇気を予め用意して下さるのです。そして弱い私たちは、その方にあって強くなれるのです。その方は、私たちの創造主であり、救い主、癒し主であられ、その名は、イエス・キリスト。
2016/04/09
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への手紙8:1-8 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。何でも神とし、八百万の神を拝する日本人。不思議な民族です。世界でも最高の知識と見識がありながら、こと宗教に関すると何でも拝み、イワシの頭も信心からという、不思議な国です。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。ペテロの第一の手紙1:18-24ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/09
コメント(0)
第一歴代誌18:6 こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。 生涯チャンピオンであり続ける秘訣は、イエス様をアーメンと心に迎えるとき、不思議に人生の勝利者になります。イエス様は十字架に死に、墓に葬られが、三日目の朝に復活しました。死を打ち破り今も生きている主であり、救い主です。その勝利の主イエス様を、アーメンと信じるとき、逆転勝利、どんなときにも輝く復活の喜びの日々です。 臨終の死の床でも、イエス様は共におられて、永遠の天国へ伴ってくださいます。何事が起ころうとも、行く先々で勝利を与えられ、天国で勝利の栄冠を得ることができます。人生、イエス様によって金メダルに勝る栄冠の日々です。交通事故から一週間。左ほほと、あごの20針抜糸。右足腿挫傷が激痛ですが骨折はなく、今日は包帯を2度も替えました。外科、整形外科、口腔外科、倉病院整形外科と、一日治療づくめでした。骨折もひび割れもなく、激痛はあるけれど元気です。お祈りありがとうございます。ありがとうございます。今日もまた天国の一日。感謝します。
2016/04/08
コメント(0)
聖書の一言;コリント人への手紙7:24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。今日がどんなでも。どんなことがあっても。今が最高レベル。できごとに良い悪いもない、すべてのことが働いて益となり、感謝があふれる。今のこの瞬間が最高の喜びとなる。すべては今から始まる、永遠の今だ。過去もなく、明日もなく、永遠の今をありがとう。思いがけない経験をした。乗用車に交差点の真ん中で飛ばされた。幸い、頭は打たなかった。頭を打ったr大変だった。左右脳内出血と、小脳内梗塞を経験。右足大腿部打撲。痛い。痛い。部屋の中でも歩けないくらい。左頬と顎を20針も縫った。今日は午前中、整形外科で包袋交換。昨日より痛みが少し収まっている。感謝だ。午後からは口腔外科で、抜糸になるか、来週月曜日かもしれない。明日は、来客、明後日は日曜日。月曜日は入学式。それまでには、しっかり話せるように、顎と頬がきれいになっているように。何事があれ、あるがままで愛の神の御手に守られ、癒され、守られ平安で幸せ。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/08
コメント(0)
天地万物の支配者、全能の父である神に祈れる恵み、祈る勇気が与えられている幸い。普通は主権者の前に出ることもできない、王や支配者は雲の上のような存在となり、取り巻きだけがい思いをする歴史であり、現在も同じ有様です。しかし、天地万物の創造主は、愛にあふれた父として、イエス・キリストを信じる者を子どもとしてくださり、良いことを数えきれないほど約束してくれました。イエス・キリストのことばを、アーメン=誠と信じ祈るとき、そのことばは必ずなり、祈りは答えられます。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。そのような恵みの豊かさを信じて祈る、神の子は幸いです。 交通事故からも守られ、激痛はってもあ、ありがとうございます。 快癒しました。感謝します平安で幸せです。ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。
2016/04/07
コメント(0)
全63件 (63件中 1-50件目)