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我々は、今、現実世界に生きていますが(今だけでなく、「常に」そうなんですが)、自己成長ということを念頭において考えますと、「継続性」の中に自己を成長させる原動力があると感じます。私の場合、「自分らしくありたい」という思いが心の深いところにあるみたいです。独自性と言い換えてもいいです。それが、継続的に何かに取り組んでいく中で、発揮できるのだと感じます。それが、日々何かに打ち込んでいることであったり、より大きな視点から見れば、人生そのものがそれであるという見方もできます。自己成長に関連してトータルセルフ内で自分自身の方向性を見つめているときに、人はこれから、ヘミシンク的なフォーカス27を単なる通過点として、死後にすぐにフォーカス35に向かう人も出てくるのではないかなと感じました。フォーカス27であると我々が感じている領域は、入り口にすぎません。自己実現のための深淵な領域というのは、その先にあると感じます。我々は、死んだあとに行き先が決まると考えている人が多いと思いますが、実際にはそうではなく、今ここで我々が死後にどこに行くかが決まります。すべては同時に存在しているわけですが、今の時点から、我々は自分自身の向かう方向性を自分で決めて行けるからです。人生というのも、自分自身の独自性を追求する(追求していける)貴重な場所ですから、思う存分楽しんで生きたいものです。Some rights reserved by titoairedale
2013.02.27
人間は、幾度の転生の中で、自分が自分であることを再確認するために生まれてきていると言います。言いかえれば、自分という存在がかけがえのない存在であるということ自体を確かめるためにです。転生回数は人によってまちまちみたいですが、350回から640回程度、大雑把にいって数百回程度が最も多いみたいです。それは時間を超えた所から見ればすべて同時に存在しています。したがって転生というのは永遠に続くわけではなく、トータルセルフは自分自身で判断して、次のステップに進む決断をすると言います。私の場合は、トータルセルフは女性性として存在していますが、トータルセルフの視点から別のトータルセルフを見ますと、光り輝いた人に見えます。我々の現実世界でもそうですが、たとえば私なんかは、ヘミシンク関連の人となんらかの関わりを持っています。それは、一度出会ったにすぎない人もいれば、何度か会ったことのある人、あるいはブログを通した付き合いの人、などなど、そのかかわり方はさまざまですが、それらすべてをひっくるめて「関わり」と表現しています。そのようなかかわりは、ヘミシンク的な世界観、特にロバート・モンローが生前言っていた世界観(モンローが自分にとって関わりのある人々をヘミシンクを通して集めて、ある時期に来たらどこかに旅立つといったもの)とは直接的な関係はないみたいです。むしろ、トータルセルフによれば、人は、進化の階梯を進んでいくにつれて、ますますその人なりの個性を強めていくと言います。その人の総体であるトータルセルフのレベルで見ますと、そのトータルセルフの個性がますます洗練され、豊かに、個性的になっていく、そういったイメージです。ですから、現実世界のどの人との出会いも、何らかの関係性を伴ったものであり、非物質界からの影響を受けたものであったとしても、最終的には、個々の存在はそれぞれの独自性を追求していきます。協力関係はあっても、独自性は保たれている、そんな感じです。それぞれのトータルセルフが独立国家のようなものだとお考えいただければと思います。ただ、私が今コンタクトしているのはトータルセルフですから、ロバートモンローがそれ以上の世界観を見ていた可能性もあります。しかし、今回の話では、それについての具体的な話は聞きませんでした。トータルセルフと会う前に、ガイドから興味深いものを見せられました。それは、一人の赤ん坊(私自身)なんですが、トータルセルフからエネルギー的に分離して、下界に降りていく時の様子です。私は無意識に、その分離して降りていくときの自分自身のエネルギーを情報に変換していました。すると、そこから出てくるのは、自分自身の性格・個性を形成していくうえでの基本的な枠組みのようなものだけであり、どのような職業に就くかだとか、生活の具体的なものは一切含まれていませんでした。私が特に印象に残っているエネルギーは、「信頼」に関するものです。あとからトータルセルフにも言われたんですが、私の特性として、人との関わりの中において「真心」を大切にしていくというのがあるみたいです。私の場合、その「真心」を相手との関わりの中で発現させていくことが、自己成長につながっていくのだとトータルセルフは言います。あなたがどのような人生を歩むのかは、あなた次第だとはっきり言われました。ただし、話していてこんな印象も得られました。我々は、人生というのはたった一回であり、たった一つしかないと思っていますよね?ですが、実際にはそうではなく、蓋然性レベルで複数の人生が同時に存在しています。それは、我々のレベルだけではなく、トータルセルフのレベルでもそうだと言います。我々は、複数の蓋然性レベルの人生の中で、そのどれかを自分自身の人生として「認識」します。ですが、人生というのは、「たとえ蓋然的なものであったとしても」固有の価値と意味を備えていて、我々が選択した人生となんら変わらない現実性を備えたものとして「生きています。」ですが、そのような同等の現実的価値を備えた人生のうちで、我々はたった一つを瞬間瞬間に「選んで」、それを自分の人生であると「認識」している、こういうことみたいです。トータルセルフは、多くのトータルセルフが目指す方向性に「地球」とのかかわりがあると言います。平たく言うと、ある一定の進化レベルに到達したとき、地球やそこで生きている存在を助けるようになると言います。それは、ある意味において我々の人助けとは異なる感覚かもしれません。「自分」という概念が拡張された、全体自己としての「自分」がなす判断だからです。その中には、セスのように「語り手」として地球との関わりを持つものもいると言います。セス自身が「語り手」なわけですが、セスは自分自身の別側面であるジェーン・ロバーツ(トータルセルフレベルでは「ルバート」)やロバート・バッツ(トータルセルフレベルでは「ジョーゼフ」)を通して、主に本の出版としてそれを具体的に行っていたということみたいです。語り手はセスのほかにもたくさんいるわけですが、あくまでもトータルセルフの話なんですが、私も語り手だと言います。私はいろんな多次元的存在とコンタクトを取ってきましたが、自分の中では、自分のほうがそれらの高次から影響を受けてきたと思ってきました。しかし、トータルセルフによれば、私もその高次達に影響を与えてきたのだと言います。要は、一方通行ということはなくて、相互交流ということなんだろうと思います。もちろんそれは、多次元的世界だけではなく、この現実世界においてもあてはまることなんだろうと思います。私はかつて、別の存在から、語り手だと言われたことがありました。自分自身では全く普段意識していないことです。私は、全体自己とのコンタクトを通じ、たまたま多次元的な役割があることを知りましたが、この現実世界を生きる上では、まず自分自身の生活を大事にする必要があります。私は、これからも「真心」を大切にしていきたいと考えています。これはスピリチュアルとは無縁の、私が私であるための根本的な部分にかかわる話です。我々はそもそもが霊的(スピリチュアル)な存在ですが、その霊的部分の核心とは、意外にもスピリチュアルなことだと我々が考えている超能力や霊能力とは無縁の、「人間らしさ」であることを知った、今回のトータルセルフとの交流でした。 Some rights resereved by itravelnzTM
2013.02.25
私は今の仕事が好きですし、楽しんでいます。しかし、資格試験の勉強は、今まで眠っていた知的好奇心を呼び起こしてくれます。ただ、そのプロセスは、「過去の記憶」を伴うものであり、知識だけでなく「つらいと当時の自分が感じた記憶」までも蘇ってきます。ですから、一瞬一瞬が知的好奇心を満たす喜びでもありつつ、一瞬一瞬が浄化と開放のプロセスでもあるという複雑な作業を伴っています。ですが、最近の私のアファメーションは、今に強くフォーカスしつつ、今からすべてを創造していけること、そして何より勉強できることの喜びを強く意識するものとなっています。少し話がそれますが、勉強中、浄化が必要になった時は、少しだけ目を閉じて、瞬時に源につながり、特に「愛」と「感謝」のアファメーションを用いながら自己浄化して、また勉強に戻ります。そうかといって、別に勉強自体に苦痛を伴っているわけではなく、ガイドによれば「思いぐせ」が私にはあると言います。それは以前も少し言いましたが、「自分は疲れている」という思いぐせです。本当は疲れていないんですけどね。ですから、たまには自分自身を納得させるために、あえて休んだりもします。自分自身を行為によって誘導してやるわけですね。そうすると、自分自身が納得していきます。自分とは自分であって自分ではないところがありますからね。それでは最後に、少しだけセスの本からご紹介したいと思います。『個人的現実の本質』の最後の部分からです。「あなたが必要だと考えるとき、ほかの人々に援助を求めることには、確かに何も間違ったところはないし、ときには多くを得ることもあります。けれども習慣的にほかの人々から助力を求める人々は、その習慣を責任逃れの手段として使っています。具体的な物理的問題において、ほとんど知識のない領域では助力を求めるべきでしょう。しかし多くの人々が人生全般の状況に対する答えを、霊能者や医者、精神科医、聖職者、牧師、友人など自分の外側に求め、そうすることで自己認識し、成長する自らの能力を否定します。あなた方の教育に関する枠組みのために、人は先に述べたように、内なる自己を警戒するように教えられます。それで不運にも普通の人々は自分の問題の解決法を自己の外側に求めますが、そこで見つかるはずもありません。・・・・・・ただ自分が自分自身の現実(リアリティ)を創造しているということを知っているだけで、過去においてあなたを妨げていた制限する概念のいくつかから自分を解き放つことができます。それから自分の観念を創造的に調べ、それらと自分の経験との相関関係を知ることができます。意識的な知識だけでも内なる自己の内部に直感的な反応を引き起こし、夢や衝動、あるいは通常の思考パターンを通して役に立つ情報を受け取るようになるでしょう。あなたの基本的な恩寵を肯定すると、あなたが抱いている、その原理に反する観念を自動的に弱めます。あなたは「理想の自己」のヴィジョンと、そこから自然に逸脱するものすべてを、ひとしく経験することができるでしょう。今いるところから始めてください。いまあなたが持っている属性を、十分に発達したもののように見えることを期待せずに、楽しく伸ばしはじめるのです。あなたは自分自身を愛し、苦もなく隣人を愛するでしょう。それは最愛の人があなたの理想の概念から逸脱しても、気づいてはいけないという意味ではありません。さらに、絶えずほほ笑んでいなければならないということではなく、人間としての存在の範囲内で自分の正当性と恩寵を肯定するということを、意味しているのです。いまの自分自身と自分自身についての理想化された概念を比較した途端、あなたは自然と心が咎めるでしょう。そのやましい気持ちは、あなたが自分の観念を処理するまで、もっとも無害な出来事や特性によって起こされることもあります。あなたをやましい気持ちでいっぱいにする具体的な行為や出来事をリストにするのはいい考えです。それらを追跡して幼い子ども時代の観念まで容易にたどれることもよくあります。なかには親があなたを護るために善意で、あるいは大人の無知から、徐々に教え込んだ観念もあるでしょう。けれども明るみに出されると、それらの多くはあなたの理解力を前に消滅するでしょう。宇宙における自分の存在の正当さを肯定すると、あなたは自分自身の本質の一部としてほかの人々と容易に、また自然に協力します。あなたがあなた自身であることが、ほかの人々が彼ら自身であるのを助けます。あなたは自分にない才能を妬んだりしないので、ほかの人々にある才能を気前よく助長することができます。自らの独自性を認めているので、ほかの人々を支配する必要もないし、彼らにへつらう必要もありません。あなた方はいつか自分自身を信頼しはじめなければなりません。私はいまそうすることを勧めます。そうしないと、他の人々があなたの価値をあなたに証明してくれるのをいつまでも期待するし、けっして満足しないでしょう。どうするべきかをいつも他の人々にたずね、それでも自分がそのような助力を求める相手を恨むでしょう。あなたにとって彼らの経験こそが正当なもので自分の経験は偽物のように思われ、ごまかされている気がするのです。・・・中略・・・さて、本書にはあなた方がスピリチュアルな成長、あるいは霊的な専門知識と見なすようなものを得るのに役立つ、秘境的な教えは含まれていません。けれども人間の性質を枠組みとして使い、それを通して他の様々な現実を知覚し経験したいと望んでいるすべての人々によって、本書は助けになるでしょう。前にも述べたように、肉体を否定することでよりスピリチュアルになるということではありません。これがあなたの生きている人生なのです!あなたを循環するその「生」を信頼してください。そうすることで、他のさまざまな現実が自らを示すでしょう。それらはあなたのいまの現実に広がりと深みを加えるでしょう。あなたが自分自身の現実を創造している――あなたがどこへ旅しようと、自分自身を見出すどの次元においても。意識に関して他のさまざまな旅に乗り出す前に理解しておくべきなのは、あなたの観念は、それらがいまの場所で機能しているのと同じように、そこまであなたについていき、あなたの経験を形成するということです。悪魔を信じていれば、あなたはそれらに出会うでしょう。この世界では敵として、ほかの意識での領域では魔王あるいは「邪悪な霊」として。自分の感情をひどく怖がり、それらを悪いものと信じていれば、「心霊」実験を試みるとき、自分は憑依されていると思うかもしれません。あなたの感情が、つまり抑圧された感情が魔力を持っているように思われるでしょう。怖くてそれらを自分のせいにすることができないので、肉体から離れた霊のものだと考えます。すべての感情の真の潔癖さを理解することがとても重要です。個々の感情は、干渉せずに従えば、あなたを愛の現実へと帰してくれるのですから。あなたの本質や身体的存在を理由にして、あるいはそうした類の何らかの教義を理由にして、あなたは悪であるとか罪を犯しているなどという人を信頼してはいけません。あなたをあなた自身の現実から離そうとする人を信頼してはいけません。どんな形でも罪の償いをしなければならないと説く人には従わないでください。代わりに、あなた自身の存在の自発性と、あなた自身のものである人生を信頼しましょう。今いるところが気に入らないなら、自分が抱いている観念を調べてごらんなさい。それらを明るみに出すのです。あなたの内部に恐れるべきものは何もありません。わたしの人生はわたしのものであり、わたしがそれを創造している。これをしょっちゅう言ってください。画家が絵の具を使うように、自分の観念を使っていま、自分の人生を創造しましょう。身体の器官のどれかが欠けていたり、機能しないなどといった不利な要因のように、生き物としての範囲の中で誕生時に受け入れた疑いの余地なく身体的なものを除いて、あなたが変えることのできない状態など一つもないのです。あなたが病気や人生の状況のために自己憐憫でいっぱいなら、自ら主導権を握るようにしてください。自分の観念を正直に直視し、苦労の原因を見つけ出してください。わたしは読者のそれぞれに内在する内なる生命力、そして彼らのものである内なる知識と話をしています。以前に言ったことがあるように、次のことを言って終わりましょう。あなた方は神々の天賦の才を授けられています。あなた方は自分の観念に従って自分の現実(リアリティ)を創造しています。あなたの観念はあなたの世界をつくる創造のエネルギーです。あなたが信じているものを除いて、自己に限界はありません。わたしはセスです。名前は重要ではありませんが、わたしは喜びにあふれて自分の名前を言います。あなた方もそれぞれ毎朝、アファメーションとともに自分の名前を発してください。あなたは自分の存在の内なるパワーによって自分の人生を創造しています。あなたの存在の根源はあなたの内にありますが、あなたの知る自己を超えています。奔放で分別ある独創的な能力を活かしてください。自分自身を敬い、自分の存在の神性を通じて進んでください。」Some rights reserved by BONGURI
2013.02.23
前回の記事は、少し歯切れの悪い表現になっていました。ヘミシンクと瞑想を併用する場合に慎重になったほうがよいと述べた部分です。しかし、ヘミシンクを始めたばかりの方もおられることですし、もう何かを隠す時代でもありませんから、この際はっきり言いましょう。私は一般的な人というのを想定してああゆう発言をしたんですけど、そんな気遣いは不要でした。私は今まで、ヘミシンクや瞑想をしてきて、一般の人から見たら危険だと思われる体験をいくつもしてきました。しかし、当の自分自身は、まったく危険だと思ったことはありませんでした。危険だと思う根底には、恐怖心があります。その恐怖心ととことん向き合ってみるのも、一つの方法ではないかなと思います。そのためにヘミシンクや瞑想を活用する手もあります。あらゆる現実は、自分自身が作り出しているとセスは言います。もしそうなら、恐怖心やそれに根差した現実も自分自身が作り出していることになります。誰かのせいにするのは簡単です。あの人が私の恐怖心を煽(あお)ったから怖いんだ、と。ですが、怖いと思う人もいれば、全く思わない人間もいることに目を向ける必要があります。これは単なる「選択の問題」なんです。自分自身のもつ恐怖心がどこからきているのか、それと一度向き合ってみるのもいいかもしれません。そのためには、ヘミシンクや瞑想は最高のツールだと思います。大丈夫です、人間、死んでも死にませんから。セス曰く、人間は自分の寿命というのを自分で決めて生まれてきているそうです。それだけではなく、いつどのような形で死ぬのかについてもです。もしそうなら、自分の生命を奪ったり脅かすことのできる存在など、いないことになります。ですから、ヘミシンクや瞑想でたとえどんなにダークな存在に出くわしたとしても、自分の寿命が縮んだり死んだりするのは、その存在に出くわしたからではなく、「自分自身で決めたから」だということになります。そう考えると、何をしても、何を体験しても、大丈夫だということになります。Some rights reserved by kk+
2013.02.21
最近、学校で瞑想を取り入れるところがあるみたいです。私もよく知らないんですけど、超越瞑想なんていうのがあるみたいです。Youtubeなんかで見ることができます。西洋の学校だけでなく、日本の中学校でも、瞑想を取り入れているところがあるのを個人的に知っています。要はバランスの問題なんだろうと思います。左脳と右脳のバランス、論理と感情のバランス、まあ表現は何でもいいのだと思います。ここでは、瞑想というもの自体を問題にしたいのではなく、精神のバランスを取り戻す一方法として有効な場合もあるという一例として紹介している次第です。もちろん、瞑想のしすぎもよくないと思います。これは私自身経験があります。特にヘミシンクと併用した場合の瞑想のしすぎには注意を要する場合があります。いわゆる変性意識下での体験はものすごくリアルに、そして一時的に深まるのですが、そのつながっている先がどこであるかに慎重になる必要がある場合があります。また、私は特定の瞑想法、たとえば超越瞑想をすべきだとかそういった話をしているわけではありません。超越瞑想も巨大なビジネス産業が背後にあり、そういったビジネス産業に流れる独特の「エネルギー」というのがあります。ビジネス産業から目を転じて消費者の立場から見ても、瞑想法の習得に何百万もかけるのは、どうかなと思います。ただ、日常生活で補助的に観想として、あるいは、いきすぎた左脳の使いすぎを抑制し左脳と右脳のバランスをとる補助として用いる分には構わない気がします。内なる意識に目を向けるきっかけにもなります。これからの子供は、より(霊性)進化が進んでいくことが予想されますから、将来的には、子供の教育において、瞑想があたりまえのように用いられることも可能性としてあるように思います。以前ならば私はこういった話はしませんでした。ですが、もう時代(次元)が変わりつつあるのを感じます。新しい時代には、新しい方法論が必要な場合もときとしてあると感じる、今日この頃です。 Some rights reserved by ComùnicaTI
2013.02.18
最近、深夜にブログを更新することが多くなってきておりますが、今日は今日の分の記事を昼のうちにあげておきます。ロシアの隕石落下で、甚大な被害が出ているようです。今回は、この事実がもつ霊的意味について、自分自身の本来の自分と、もう一人別の高次の存在に聞いてみました。まずは、ニュースからご紹介したいと思います。 「ロシア南部チェリャビンスク州周辺の隕石落下による負傷者は16日までに、同州のまとめで約1200人となった。米航空宇宙局(NASA)は、大気圏突入前の隕石の直径を約15メートルと推定。1908年にシベリアに落下した隕石以来の大きさという。 被害を受けた建物は州都チェリャビンスク市だけで3300棟を超えた。被害総額は10億ルーブル(約31億円)を上回る見通し。窓ガラスが損壊した企業や商店が多いため、現地当局は盗難や治安悪化を警戒、市街地で夜間の巡回を強化した。 被害を受けた同市の建物は、集合住宅が2962棟、学校や幼稚園が計361施設、スポーツ施設が5カ所だった。 ユレビッチ州知事は、損壊した窓ガラスの総面積が同州だけで20万平方メートルに及ぶと試算。夜間の気温が氷点下20度以下になることがあるため、窓ガラスの復旧に優先的に取り組む考えを示した。」http://sankei.jp.msn.com/world/news/130216/erp13021609210000-n1.htmはじめに、本来の自分とつながってみました。このニュースから感じられるのは、「夜明け」という言葉です。自己の内面への気づきという意味がそこに含まれています。あらゆる事象は、集合意識レベルで見れば、我々人類自身によって創られていると見ることができます。それを、我々は自分とそうでないものとを切り離してみるわけですが、雷鳴やその光、それに類似した自然界の出来事(そこには今回の宇宙からの隕石も含まれます)には、そういった人類の内面へ目を向けさせる気付きとしての意味が含まれています。たとえ顕在意識ではそれに気づいていなくても、そういった現象界での象徴的な出来事がいわば導火線となり触媒となって、自分自身の精神的な成長を促すということがあるみたいです。別の高次にも聞いてみました。この高次は、キリスト意識と深いつながりのある存在で、かつて地球上でリーディングによって人類に様々な情報を伝えていたパーソナリティが所属するトータルセルフです。彼には様々な憶測があるみたいですが、私が調べたところ、その情報源はすべてキリスト意識の本体に由来するみたいです。その存在によれば、人類の精神的な成長には3段階あって、一つ目は、自己の内なる領域への気づき、二つ目は、個々の細胞間、意識間における活性化、三つ目は、行為なんだそうです。で、今回の隕石の落下は、一つ目にあたるのだそうです。我々は、自分と世界とを切り離して生きていますから、外側で起きている事象の中に、自分自身の精神的成長のための気づきが含まれているとは到底思えません。ですが、別の次元から見ると、それは確かにそうなのであって、自分自身の内的変化は、外の事象に対する反応、そこから生まれてくる影響として体験していくと言います。外側の事象から、自分自身の中心にある源への気づきがもたらされ、実際に意識レベル、細胞レベルでの活性化が起き、行動となって現れてくる。その一連のプロセスが、いわゆるアセンションと人類が認識しているプロセスにも通じてきます。今回尋ねた二人目の高次(と言っていいかどうか微妙ですが。なぜならいわゆる高次というのは集合意識レベルで存在していることが多いからです)によれば、人類が今ここで経験するアセンションというのは、序章にすぎないと言います。我々の時間軸から見てこれから、いろんな国や、民族間、共同体で、あるいはもっと視点を拡大して、いろんな次元、いろんな存在において、その中にいる「個人」の内面において、神性の火がともり始めるみたいです。その現象をどのように体験するかは、あなた次第です。 Some rights reserved by HenryStradford
2013.02.16
大学時代、私は大阪に住んでいたんですが、よくバスと電車を利用しました。私が住んでいたあたりは学生が多かったので、特にバスはいつも学生であふれていました。で、大学に入学してすぐに、バスに乗っていると面白いことに気づきました。それは、降りるときに皆、運転手に「ありがとうございました。」と言ってから降りるんです。バスに乗せて目的地まで連れて行ってくれてありがとう、という意味なんですが、私は当時からひねくれていましたから(笑)、素直に「ありがとう」とは言えませんでした。運賃を払っているんだから当然だろう、みたいに思っていたわけです。でも、今になって思えば、ありがとうという思い、大切な気がします。それは、自分がしてくれたことに対して、素直に「有難い」と思う気持ちです。たまたま現代では、社会構造の中に金銭を支払うというシステムが存在していますが、それとは別のところで、何かの行為を自分にしてくれたことに対する感謝の気持ちというのが、自然と湧きおこってくるときがあります。最近、少しそれがわかるようになってきました。よく、お年寄りなんかは、素直に「ありがとう」と言われる方が多い気がします。年をとると若い人に気を使うというところもあるのかもしれませんけど、それとは別の所で人が本来持っている素直な気持ちが年をとることでよみがえってくるのではないかなと思ったりします。「ありがとう」という気持ち、大切にしたいなと思います。Some rights reserved by Spencer T
2013.02.16
今日は、日記を書くネタがあったのですが、みんな忘れてしまいました(笑)。変性意識に入ってたんでしょうか、おかしいですね。なので、仕方ないので、今日仕事に行く前にたまたま読んだセスの本で興味深かったことを引用したいと思います。「あなた方は過去を変えることによって現在を変えることができるし、未来から現在を変えることもできます。けれどもそれらの操作でさえ、あなた方が実際に経験する現在でなされる必要があります。自分がそんなことをしたとはまったく知らずに、多くの人々が「未来」の蓋然的な自己の忠告に応じて現在の行動をいろいろな折に変えたことがあります。あなたには一人の若者として、目指して励んでいる特別な目標があるとしましょう。あなたの意図、イメージ、願望、決意が霊的な力となり、あなたの現前にいわば投影されます。あなたは自分の現在から自分自身の現実(リアリティ)を未来だと思うものの中へ送るのです。さて、ある段階で、決定すべきことがいくつか出てきて、でもどの道に進路を向けるべきかわからないとしましょう。目標からそれる危険があるけれども、他の理由から、そうしたいという気持ちが強くなるかもしれません。するとたぶん夢や空想で突然、最初に意図したことをどんどん進めなさいときっぱり告げる声を聞くでしょう。あるいは同じ情報を何かほかの形で受け取るかもしれません。たとえば衝動やヴィジョンで、または急にすべきことがはっきり分かるなど。これらはあなたの現在で起こります。他の見方では、あなたが未来に投影した自己が、いまなお創造することのできる蓋然的な現実(リアリティ)から、あなたを激励してくれているのです。けれどもその焦点(フォーカス)を合わせられた自己はそれ自身の現在から影響を及ぼしています。そしてあなたは自分自身の未来のある日、ずいぶん迷い、しかし適切な道を選んだ過去のそのときを、懐かしく思い出している自分に気づくかもしれません。「ああしてよかった」とか、「いまにして思えば、あのように決心したわたしはなんて運がよかったんだろう」などと思うことがあるでしょう。そしてそのとき、あなたは「過去のあの人」に元気づけるように話しかけた未来のあなたです。蓋然的な未来が事実上の現在に追いついたのです。未来に投影されたあなた自身についてのずっと前のアファメーションが、そのようなことを可能にさせたのです。同じようにして、自分と自分自身の全体性を受け入れることによって、あなたは自分のいついかなる現在においても、自分の過去と未来を変えることができます。」現実は自分で変えられるというのがセスの考えなのですが、そのための方法というのをいくつかセスは話していて、一言で言うと「今ここ」に自分のエネルギーを集約させるわけです。自分というのは今自分が自分だと感じている意識だけではなくて、過去や未来、もっと拡大すると、過去生や未来生だと自分が感じている自分もすべて自分自身なわけです。それらすべての自分というのは、すべて同時に存在し、同時に生きています。そのすべての自分からエネルギーを「今ここ」に集約させます。それが、「パワーポイントは現在にある」ことの意味です。現実は自分で変えられるんだということを、私自身体験していきたいと思っています。 Some rights reserved by TANAKA Juuyoh (田中十洋)
2013.02.14
今日は、いつも以上に感覚的な話になるかもしれません。まずは、自分自身の内側から湧きおこるエネルギーの話からしようと思います。これは、口では説明するのが難しい部分がありますが、内なる「自分」とつながっている感覚というのがあります。私は基本的にエネルギーはハートのあたりで感じるんですけど、このうちなる「自分」とつながった感覚というのは、ちょっと特殊で、感覚的には第4チャクラと第3チャクラの中間あたりと、その奥からくる感覚です。腹の底から気力が充実してくるとでもいいますか。同時に、安心感があります。根拠は何もなくても、「自分」からのエネルギーだとわかります。そういった感覚を、日中いたる時に感じた一日でした。その気力が湧き上がる感覚にフォーカスしていると、面白い感覚を得ました。仕事中に目の前に見えている景色を見ていた時のことなんですが、言葉にすると「この現実を作りたかったんだ!」とでも言うような感覚です。そこに見えていた景色すべての、原子の一粒一粒が、自分が経験したくて作り出したとでもいうような、妙な感覚です。でも、エゴ(自我)の自分は、その現実に満足していないんです。満足していないんですが、腹からくるエネルギー的には自分の別側面は満足している、この経験を求めていたとでも言うような感覚です。言葉で表現するのは本当に難しいですね。あと不思議な感覚があるのは、自分の今の職業が霊的なものに根差しているとでもいうような感覚です。今後、職業的な方向性を変えることがあったとしても、今している仕事の経験はずっと生きてくると感じます。霊的な意味で重要な仕事だと感じます。それは、C1現実世界だけではなく、私の多次元的なつながりを持つ高次の存在との関係ともリンクしているように思います。抽象的な表現になって申し訳ないですが、以下は比喩だと思って読んでください。たとえば自分が誰かから何かを学んでいるとしますよね?同級生達は、もっと高度なことを学んでいます。ですが、自分は小学校低学年程度の授業を、ある存在から受けています。自分ももっと高度なことを学ぼうと思えば学べるんですけど、自分は基本が大切だと考えています。それは、ほぼ個人授業に近い形で行われているようですが、先生は自分の学ぼうとする姿勢に親身になって答えてくれています。その先生は、語り手と呼ばれる存在で、多次元的に様々なところに行き来して、必要な助力を与えてくれている存在です。私も、その先生に多次元的に学んでいると感じます。でも、私も現実世界で生きながら、仕事上で出会った人達との間で、意識の上で何かをアドバイスしたり、まるで私が逆の立場で教師として何かを教えているような感覚です。与えたら与えられる、そんな自然界の法則を今ここで体験しています。人と人との間で。多次元的に、存在と存在との間で。私は、今必要があって必要な人物と出会い、日々の生活を楽しんでいます。Some rights reserved by showbizsuperstar
2013.02.12
前回のセスの述べた部分について少し補足したいと思います。まず、アファメーションについて触れたのは、ヘミシンクのセッション中でアファメーションの練習をするからなんですが、アファメーションと言うのは実はもっと日常的なものであって、しかも自分自身に対して強い影響力を持つものだということをご紹介したかったからです。ヘミシンクではそれが、アファメーションの特別な部分にのみフォーカスされていて、それが普通なんだと思われているところがありますが、そうではないということなんです。ヘミシンクで用いられているアファメーションに近い記述もセスは述べており、それは次の部分です。・・・あなた方の内部にはまだ十分に使われていない構造もあります。それらはいまのあなた方から見て、未来の進化に向かっています。広範な心を使うには必然的にそれらを必要とします。あらゆる時代を通して人々は他の種類のこの気付きを経験してきました。もっとも、けっして十分とは言いませんが。広範な心での経験は、ほかのレベルにおいて知性と直観の間で生じる外見上のどんな対立をも消滅させます。身体組織は感覚データを新たに組み合わせることによってその一貫性をできる限り解釈するので、その情報が物質的に筋の通ったものになります。人間は一生に二度か三度、そうとは知らずに広範な心の作用に同調し、あとで解釈するのが困難な経験をすることがあります。このときのアファメーションは超越の一つであり、人はしばらくの間、肉体を持つ自分の現実を肯定し、同時に肉体からの独立を申し立てます。そしてそれらの状態の両方が同時に存在していることに気づくのです。知覚が二重になり、広範な心が活性化されます。「活性化される」でわたしは、身体組織が「広範な心」の存在に突然きづくことを意味しています。あと、愛と憎しみを例に挙げて、感情を開放することの大切さについても触れられています。抑圧された感情は激しい言動となって現れてきますが、それはまだまだ進化の途上にあって、ある程度進化が進んでくるとバランスを取り戻してぶれなくなるみたいです。ただ、セスの本の中で強調されているのは、感情の抑圧の危険性についてです。セス曰く、「感情を否定するのは無益なことです。物質世界に適応している意識にとって感情は自らを知る手段の一つであり、けっして破壊的なものではありません。良い感情も悪い感情もないのです。感情はただ感情であるだけです。」と述べて、ネガティブな感情であろうとポジティブな感情であろうと、まずはそれが自分のものであることを受け入れる(感情に蓋をしない)ことが大切であるといいます。ただ、セスはこうも述べています。「憎しみに正当な理由はありません・・・・人の悪口を言うとき、あなたは自分の悪口を言っています。その悪口はあなたに返ってくるのです。」(セスの口述の速記をしていたロバートバッツの解説によれば、「もちろん憎しみは正当化されないが、それに正直に向かうことが人をその根本にある愛に立ち返らせてくれると示唆した。「悪口を言う」と言う言い方で、セスはののしることではなく、憎しみを相手に向けることを言っている。憎しみは憎んでいる当人のものであり、ほかの誰のものでもないので、その人が自分自身そして自分の感情を受け入れるまでくり返し生じることになる。」ということです。)およそ主張というのは、誰に対してどういった想定でするのかによってずいぶんと変わってくるものです。セスもそのことは十分承知の上で、場面場面に応じて、聞き手(読み手)の理解に応じて、適切な話しをしているということなのだと思います。Some rights reserved by rkdg portfolio
2013.02.12
今回は、セスの語るアファメーション、本物の謙虚さとは何か、自己犠牲の無価値性、そして「愛」についてご紹介したいと思います。・・・さて、アファメーションとは、あなた自身とあなたが導く人生に「イエス」と言い、そしてあなただけの個人的特質を受容するということです。このアファメーションが意味するのは、自分の独自性を表明することです。アファメーションとは、あなたのものであり、あなたに流れている生命を受け入れるということです。自分自身についてのアファメーションはあなたの最強の武器です。アファメーションにおいてあなたは自らの生命力を確信する一方で、ときに経験の一部を当然、拒むことができます。あなたがはなはだしく迷惑を被っている人や事柄や出来事に対して常に「イエス」という必要はありません。アファメーションとは、人生で起こる何もかもを、自分の気持ちを無視して適度に当たり障りなく受け入れるという意味ではないのです。アファメーションは生物学的には健康につながります。つまり自分の経験を自分で形づくっていることを理解し、自分の人生に同調するのです。アファメーションとは、「私には何もできない。すべては天の定めで、所詮起こることは起こる」と静観することではありません。アファメーションとは、あなたと同じ意識はほかにはなく、あなたの能力は比類なくあなたのものであり、ほかの誰のものとも似ていないという認識にもとづいています。それは肉体を持ったあなた自身の個性を受け入れるということです。基本的にこれは精神的、霊的そして生物学的に必要であり、あなたの唯一無二の全体性についての正しい認識を表しています。・・・中略・・・アファメーションをするということは、あなた方自身の奇跡的な複雑さを受け入れるということです。それは自分の存在に「イエス」と言うことであり、肉体を持つスピリットとっての自分の現実に黙って従うことを意味します。 ・・・中略・・・ 本物の謙虚さとは、自分の全体性と価値を愛情深く認めることです。真の謙虚さは自分自身に対するその愛情深い敬意にもとづき、さらに自分の住む宇宙にいるすべての存在がそれぞれ否定しえない個性と自尊心を持っているという気付きに根ざしています。誤った謙虚さは、あなたはつまらぬ人だとあなたに告げます。誰も自尊心を否定する説を心から受け入れることなどできないので、誤った謙虚さには歪められ、思い上がった、否定された自負が隠されています。偽の謙虚さはほかの人々の価値をおとしめることがあります。なぜなら自分に価値がないと認めていれば、ほかの誰にも価値を見いだすことが出来ないからです。真の自負があれば仲間である人間存在たちの全体性に気づき、彼らが自分の力を使う手助けをすることができます。多くの人々が、たとえば表向きやたらとほかの人々を援助したり、自分を頼ることを奨励したりします。彼らはそれをまったく神聖で高潔な企てだと信じています。実際には、彼らはほかの人々が自分自身の力や能力に気づいていたり、それらを使ったりすることを妨げているのです。あなたが何と教えられていようと自己犠牲に値打ちはありません。一つには、それは不可能だからです。自己は成長し発展します。それは消滅されえません。自己犠牲はたいてい、自分の「重荷」をほかの誰かに放り投げ、それをその人の責任のように見せることを意味します。自分の子どもに、「お前のためにわたしの人生をあきらめた」という母親は、無意味なことを言っています。基本的な観点から言えば、そのような母親は、本人が何と言おうと、自分はあきらめるべきほど多くを持ってはいなかったと、そしてその「あきらめること」によって自分が望んでいた人生を手に入れたと思っています。「わたしは両親のために自分の人生をあきらめ、彼らの世話に専念した」という子どもが意味しているのは、「わたしは怖くて、自分の人生を生きる勇気も親に親自身の人生を生きさせる勇気もなかった。だから自分の人生を『あきらめる』ことで、自分が望んでいた人生を得た」ということです。愛は犠牲を要求しません。自分自身の存在を肯定することを恐れる人はまた、ほかの人々が自分自身のために生きようとするのを許すことを恐れます。子どもを鎖で自分につないでおいても子どもを助けることにはならないし、年老いた親の無力感をあおっても親への助けにはなりません。人間の性質を通してあなたに与えられる普通の感覚のコミュニケーションに自然に正直に従えば、あなたの問題の多くが解決されるでしょう。暴力を引き起こすのはコミュニケーションが抑圧されたときだけです。自然な愛の力があなたの内にくまなくあります。そして普通のコミュニケーションが常に、仲間の人間たちとのよりすばらしい接触をあなたにもたらすようになっているのです。自分を愛し、自分に正当な敬意を表してください。そうすればほかの人々に公正に対処するでしょう。あなたが「嫌だ」と言ったり否定したりするのはいつでも、当面の状況や提案されたそれが、あなたの頭や気持の中で、何らかの理想にはるかに達しないからです。拒否は常に、少なくとも、より素晴らしいと考えられる何かに対する反応です。あなた方に「完全さ」についてそれほど頑なな概念がなければ、普通の拒否はまったく実用的な目的に役立ちます。しかし何か理想化された完全なものと比較して、あなた自身のいまの現実をけっして否定したりしてはいけません。完全なものは存在しません。というのは、すべての存在がなりつつある状態だからです。これはあらゆる存在が完全なものになりつつあるという意味ではなく、いっそうそれ自身になりつつある状態だということです。異なったすべての感情は愛にもとづいています。それらはすべてどうにかして愛と結びついていて、愛に帰り、愛の力を広げる方法なのです。さて、この本であえて「愛」という言葉をあまり使わずにきたのは、その後に付されるさまざまな解釈のためであり、また愛という名目で犯される数多くの過ちのためでした。人を愛する前に、まずあなた自身を愛さなければなりません。自分を受け入れ、喜びに満ちてあなたであるところのものであることによって、あなたは自分の能力を開花させ、またただそこにいるだけで人々を幸せにすることができます。自分を憎みながら人を愛することはできません。そんなことは不可能です。代わりに、自分にはないと思うすべての性質を誰かに投影して口先だけで賞賛し、それらの性質を持っているためにその相手を憎みます。たとえ愛していると公言しても、その人のまさに存在基盤をひそかに弱めようとするでしょう。・・・Some rights reserved by BONGURI
2013.02.11
今も昔も、巷ではいろんなスピリチュアル系のセミナーなんかがありますよね。そういったものをされること自体は、私はもうその人自身の問題であると考えるようになりました。パワーにすがりたい。そういった心情は、私にも理解できます。かつて私も、鬱になるほど苦しみましたから。ただ、自分以外の他のものに頼っても、私の場合、救われませんでした。悩んでいる時というのは、悩んでいる状態を求めてしまっているんだと思います。現実は自分が作り出していますから。嫌だと思えば思うほど、そこにフォーカスしてしまっているのかもしれませんね。でも、その状態から抜け出そうと決めるのは、最終的には自分自身だと思います。自分で自分を救い出す必要があるわけです。Some rights reserved by Elsie esq
2013.02.10
今回は、ジェーンロバーツに会いに行くのが目的だったんですが、流れ的に最終的にはセスとコンタクトすることになりました。ジェーンロバーツとセスは、明らかに異なる人格で、存在する次元も異なっています。ジェーンロバーツに会いに行くと決めた時点で、私はセスと、ジェーンロバーツと、ロバートバッツ(ジェーンの夫)の印象を感じ取りました。現れてきたのは、なぜか日本庭園でした。とてもいい雰囲気に仕上がっています。入り口から入る時に、誰か外国人の男性と会ったんですが、それが誰かは私にはわかりませんでした。その方と入れ違いに、私は日本庭園の中へと入っていきました。しばらくすると、ジェーンロバーツが現れてきました。思っていたよりも小柄なのに少し驚きました。しかもなぜあんなに嬉しそうなんだろう・・・(笑)ジェーンロバーツに会った場所が日本庭園だった理由は、私には直感的にわかりました。それがジェーンロバーツなりの日本人である私に対するおもてなしの仕方だということです。ジェーンロバーツと会っていると、自分自身の内側からふつふつとエネルギーが湧きあがってきました。ジェーンロバーツによれば、それは私自身の本体(エンティティ)からのものだということでした。私はジェーンロバーツとロバートバッツに、今何をしているのかと聞いてみました。すると、生前と何も変わらない生活をしていると言います。ジェーンロバーツは作家としての活動、ロバートバッツは画家としての活動を今でもしていると言います。私は二人が今取り組んでいる作品について聞いてみました。ジェーンロバーツが取り組んでいるのは、動物達と人間との関わり、もっというと、生きとし生けるものすべての中で人類が置かれている価値、そういった壮大な物語らしいです。一方で、ロバーツバッツが取り組んでいるのは、月の描写らしいです。ロバートバッツによれば、霊界にも月はあると言います。で、月というのは、その時々でエネルギー的にいろんな表情をするらしく、それを描写しているのだとか。なんとなくですが、月はエネルギーの源泉といった雰囲気があったような印象がありました。なぜ太陽でなく月なのかは私的には謎ですけれども。最初私が会ったのは、ジェーンロバーツとロバートバッツだったんですが、その後、C1にいったん戻ってから再び変性意識に入り、同じ日本庭園に行った時に、セスと思われる光り輝く球体が現れました。なぜセスが球体に見えたのかについても、同時に情報がやってきて、そう見えるように私自身が望んでいるからなのだそうです。セスは、本で感じられるよりも男性的で、力強い印象があります。セスの声は、私自身の内側から男性的な声が響いてくる感じです。こんな印象がまずはやってきました。「あらゆる事物は、それを経験する人物の内側に答えがある。」これは、コンタクトしはじめたばかりに得た印象です。それから徐々にコンタクトしやすくなっていきました。以下は、対話式にセスと私とのやりとりを書いています。「友人としての私のアドバイスは次のものだ。一つ目は、なにものにも染まらないということ。」「あなたのこの発言にもですね。(笑)」「そうだ(笑)。」「二つ目は、時間と空間は幻想だと知ることだ。」「簡単ではないですよね。」「そうだが、たとえば夢の世界では過去での経験を思い出したりするのは比較的自由だと君たちは知っているし、君たちが日常よく持ちいるイメージの力は、容易に時間と空間を飛び越えることができる。」「でも、それは脳が作り出したものであって現実とは異なるものだという考え方もできます。」「それは君たちが、自分や自分の叡智には客観性があるとどこかで思い込んでいるからだ。だが、君は君であって君ではないという所がある。君はいわば通り道であって、君という中をいろんな存在が通り抜けていく。」「それは、自分が様々な存在の総体だということですか?」「そうだ。」「そこには、男性も女性もいるんですか?」「もちろんだ。男性、女性、そしてあらゆる国の人々がいる。他の宇宙からの人々もいる。その総体が君だ。」あるイメージがやってきました。深い変性意識の中で、私は自分の胸と腹の中間あたり、30cmくらい前方に、大きさにして70~80cmくらいの回転する光り輝く球体を「作り出して」いることに気づきました。セスによれば、それは私が作り出したものだと言います。そのようにして、自分自身の持つ経験や信念そして観念が、自分自身の現実を作り出している(作り出していく)のだということを伝えたいみたいです。Some rights reserved by infomatique
2013.02.08
想念の現実化は、体に一番変化が表れてきますね。それも、少しだけタイムスパンを置いて。先週ぐらいのヒーリング効果が肉体にも及んできたようです。実際には、(顕在)意識なのか、肉体なのか、微妙なところではありますが。ただ、肉体には何も変化がありませんから、おそらく意識の問題なのでしょう。ですが、体感覚としては、肉体まで良好となってきています。セス曰く、およそ病気というのは、自分で治せると言います。手足を失ったとか、不可逆的なものでない限り。しかも、病気は、自分自身の観念が作り出していると言います。ですから、その観念の変化を現実世界にまで及ぼすことができれば、ガンであろうと治ると言います。セスのエクササイズの要点は、「パワーポイントは現在にある」です。これを自分なりに検証すべく、今現実世界で資格試験の勉強を通じて取り組んでいます。セスの本は、空き時間等を利用して少しずつ読み進めているんですけど、本に出てくる内容が現実世界での体験とどうもリンクしているように思います。今日は、昼寝中(10分くらい)に夢を見たんですが、その内容は眠る直前に勉強していた内容の続きでした。セスによれば、夢は、ある出来事を現実化する上で重要な働きをすると言います。夢も現実の延長と考えられるのですが、夢のほうが意識の自由度が高くなっています。ですから、その分だけ観念が夢の中で現実化しやすくなるらしいんですが、我々は、自らの観念を現実世界において現実化する際に、夢の中で起きているプロセスと似たようなプロセスを経て現実化していると言います。ですから、夢で示唆的な情報を得たら、それを現実世界でも生かせるらしいです。そんなわけで、観念の現実化を夢の中で確認するという私にとってめずらしい現象を今日体験した次第です。つまり、勉強したいという思いが夢の中で現実化して、それを体験した、ということです。観念の現実化とはそういう趣旨です。観念の現実化はおそらくは日常茶飯事なんでしょうけれど、今まで意識していませんでした。セスによれば、そういった夢見の世界での体験を生かしたりして自分自身の内なる観念の現実化を体験していくうちに、自分自身のパワーポイントがより明確になり、自分自身の「内側から」力が湧いてくるようになると言います。 Some rights reserved by donjd2
2013.02.06
「imimiのリトリーバル日記」ということで、たまにはヘミシンク話でも(笑)。私のブログを読まれている方ならお分かりだと思いますが、リトリーバル(救出活動)とヘミシンクは直接的な関係はありませんので。念のため。(もっとも、間接的には関係があります。)最近、救出活動というものにこだわらなくなりつつあります。というか、セスの影響で、トータルセルフやガイドについての認識がずいぶん変わりました。ただ、ガイドについては、前々から自分で思っていたことがセスの考えと似ていることに気がついた次第です。セスのいう本体(エンティティ)の話や別側面の自分についての話をガイドに当てはめてみると、ガイドの範囲というよりも、関わり方(影響の受け方)がもっと日常茶飯事的になってきて、ヘミシンクの世界で言われている「ガイド」という範疇(はんちゅう)よりさらに広くなっていくように思います。これはガイドだけでなく、救出活動についても同様です。もっとも、救出活動というものが存在するという前提での話ですが。もっというと、救出活動という概念をもうける必要性というか、それが絶対的ではないということも最近感じ始めています。ここでも、認識レベルの話になってきて、共通認識が得られない話になってくる可能性があります。我々は、共通認識があることを前提にいろんな話をしますけど、その共通認識をささえている「認識」が、あってないようなものである可能性があります。まあそうはいっても、我々は認識なしには生きられませんから、自分が直面している現実世界における「認識」を基準として、いろんな体験を積み上げていく必要があることは確かではあります。結局のところ、ヘミシンクをやる意義というのは、いかにして現実世界と向き合うかに再び舞い戻ってくるというか、認識論も含めた現実創造のプロセスときちんと向き合っていくきっかけを与えてくれることになる気がします。ヘミシンクされたことのある方ならお分かりだと思いますが、ヘミシンクではセッションの後にグラウンディングというのをしますよね。現実世界との結び付きを強めて意識をC1状態に戻すあれです。どんなに意識が離れても結局はまたC1に戻ってきます。でも、C1にフォーカスすることそれ自体が重要なんじゃないかなと私は思います。グラウンディングした後といいますか。そのためにいろんなセッションをしている気がするんです。Some rights reserved by "KIUKO"
2013.02.05
ネットのニュースを読んでいると、死後の世界を信じるかどうかアンケートを取ったという記事がありました。それによれば、「あなたは『死後の世界』はあると思いますか?」という問いに対して、はいと答えた人が35.9%、いいえと答えた人が64.1%だったのだとか。はいと答えた人は意外に少ないなと思いました。日本人は墓参りなどの習慣もなじみがありますし、どこかであの世や死後世界を信じている人が多いのではないかと思ったからです。ただ、あらためて聞かれると死後世界を信じないと答えるものの、内心では信じている人も中にはいるのではないかと思います。社会生活を送っていると、そういったあの世的な話は否定したくなりますよね?その感覚は私にもわかります。ただ、あくまでも私見なんですけど、死後世界を否定してしまう空気観が、今の利己主義の行き過ぎを助長している側面がある気がします。人間死んだら終わりなんだから、生きている内にやりたい放題やっておこう、みたいな感じでしょうか。日本も最近は西洋文明の影響をかなり強く受けていますから、「お天道様が見ているよ。」などと忠告してくれるお爺さん、お婆さんもいなくなりつつあります。あるいは、「おかげさまで」などという言葉にも表れているように、日本はもともとは、見えない部分の影響というものも大切にしてきた国なんだろうなと思います。こういう物質文明の終焉とも言える時代転換の時だからこそ、そういった見えない存在に対する畏敬の念とでもいうべきものは、重要な気がします。それは何も、霊だとか、なんだとか、そういったものに無理やり結びつける必要も本来ないわけで。ただ、人としての思いやりですとか、人間らしい慈愛ですとか、そういったものにもつながってくる気がします。話は変わりますが、昨日の昼食時に飲んだ味噌汁はうまかったです(笑)。リラックス効果も高いように思います。あと、エネルギーも高いです。味噌はガン予防にもなるみたいですし、発酵食品であり生きた食べ物ですから、体にいいんでしょうね。生きたまま腸まで届く植物性乳酸菌の宝庫でもあります。我々は、見えないものからの影響を受けて、「今ここ」に存在しているんですね。見えないものへの心、大切にしていきたいですね。Some rights reserved by Armando Maynez
2013.02.05
セスの言っていることは、私が今まで本で読んだり、あるいは直接コンタクトをとったりしてきた存在の中で最も深い洞察力を秘めていると感じます。それが顕著に表れている部分は、トータルセルフについての理解だと思います。セスはトータルセルフを本体(エンティティ)と呼んでいます。以下、『個人的現実の本質』からその一部をご紹介したいと思います。(トータルセルフ以外にも優れた洞察はたくさんあります。たとえば地震などの自然災害が人間の出す感情に影響を受けているなどといった話や、なぜ生まれつき障害を持った人が生まれてくるのか、それにはどういった意味があるのか、等についてです。それらについては『個人的現実の本質』をお読みいただくのが一番です。私も機会があれば自分にとって興味深いところを今後ブログ上で引用するかもしれません。)初めと終わりという概念は、あなた方の三次元というシステムにおける人生の内側のみの現実だということを、覚えておかなければなりません。あなたの存在のエネルギーはその三次元システムの外にありますが、時空間のあるポイントにおいて肉体的に「命」を持つことによってそのシステムに入り込むができるようになります。あなた自身のより大きなエネルギーはあなたが知るところの時空間連続体を出たり入ったりしています。そうするうちにその経験が物理的になり、三次元システムの中に生命の痕跡を残します。転生の観念からは、ある痕跡が他の痕跡より前に存在するように見えるけれども、あらゆる人の生命の痕跡が同時に含まれる「全体図」があるのです。これらの分岐というか生命の痕跡はどれもあなたの本体(エンティティ)から来ていて、心理的にそして電磁エネルギーのパターンでつながっています。こんなふうに考えてごらんなさい。あなたが多次元の存在であることは間違いないけれども、身体を持つ生命の特性として三次元のシステムが自動的に「前後関係」を特定するので、自分自身の経験を一度にそんなに多くは知覚できないのだと。あなたがたとえば、一度に七つの世紀に存在しているとしましょう。けれども生命の特性のために、今生におけるあなたの経験様式がそれらすべての人生の全貌を見えなくするのです。くり返しますが、そこであなたの存在のエネルギーは実際に、言ってみれば七つの「瞬間点」で三次元システムに流れ込んでいます。七つそれぞれの瞬間点において、単独の人生と見なされるものが経験されます。しかしまさにそれら交点の向こうに、すべてにまたがる一元的で包括的な全体性の認識が存在します。これこそ多次元的な本体(エンティティ)の表れで、個々の人生の痕跡とは別でありながらその一部でもあります。たとえばあなたの一存在が17世紀にあるとすれば、その人生はあなたにとってすでに完結した過去のように見えるでしょう。そして現在の人生に備わる能力や試練のすべてはその過去の人生の結果だと思うかもしれません。けれども両方が同時に存在しています。17世紀は活動を停止していません。あなたは一本道の歴史を突き進み、ある活動だけを現実として追い求め、あまりにもそれらと完全に同化しすぎてそれしか知覚することができなくなりました。それでもほかの蓋然的な活動は常に生じており、あなたが選んで経験することになる出来事とまったく同じように有効です。あなたの転生の自己たちそれぞれに、あなたと同じくらい多数の蓋然的な人生があります。あなたの現在の観念と行動が「彼ら」の経験を変え、同じように彼ら個々の経験がその現在においてあなたの経験を変えます。あなたがあらゆる転生の自己を一つの本体(エンティティ)と見なせば、それは自明の理になります。そこに含まれるすべての理解が全体自己を変化させるのです。本体の各部分はどれも唯一で独立していて、それぞれ観念からどういう影響力を受け入れるかを当面の状況の中で決めます。大いなる驚異は、個々の意識はどんな段階のものもすべてそれ自身であり、果てしない相互作用の大海原の中にあって他の一部になってさえ、けっして他のものにはなりえないという事実です。都市が州の一部であり、個人が家族の一部であるのと同じように。あなたの理解している人格の立場からすれば、人はどんな能力を持ち、どんな人生の試練に遭遇するかを自分で選びます。そして現在にこそ、個人が本体(エンティティ)のエネルギーを引き出し、またそのあらゆる部分から知識やパワーを引き出す無限の機会があるのです。どんな人間存在にも、偉大な芸術家やスポーツ選手、政治家、哲学者などが示すような潜在能力があることはいうまでもありません。生き物の性質には広範な能力が備わり、ほとんど使われないものでも、そのシステムの中で表現されうる実際的な理想としてそこにあります。同じように、どの自己も潜在的に本体(エンティティ)の能力を持っています。それらもまた、実際的な理想として役に立つけれども、背景は異なります。あなたがかかわる世紀や人生は一つだけではなく、たくさんあるのですから。・・・中略・・・あなたは個人であり自由意志を持っていますが、もう一人の「あなた」の一部でもあります。単に今はより大きな自己と一体化していないだけです。あなたはあなた自身の独特の特性を持っています。あなたのより大きな存在もまたそれ自体の独創性を持っていますが、家族の似たところとあなたが考えるようなものがあるので、全体的なあなたとあなたの他の自己は、たとえ異なるように見えるやり方であっても、同じ種類のチャレンジを選ぶことがよくあります。あなたの多次元的な存在のほかの部分は、あなた自身のものといくぶん似ている経験にかかわっています。もっとも、見たところ状況はまったく異なっているかもしれませんが。彼らの進化は、瞬間点という窓の中に潜在しています。瞬間点とは単にあなたが知っている現実とあなたの「いま」が交わるポイントです。加えて、あなたの同時に存在している自己たちの冒険は、あなた自身の意識に痕跡として現れます―概念、あるいは白昼夢や一貫性のないイメージとして、またときには突然の直感として。あなたはそれらを引き上げたり引き出したりして、現在の問題を理解するために役立てることができます。Some rights reserved by ddmantx
2013.02.04
以前は非物質的な話がメインだったこのブログも、最近は現実世界をいかに有意義に生きるかといったような話題になりつつある今日この頃です。別にそうしようと思ってそうしているわけではなく、普段自分がしていることでも書かないと、忙しいと書くこともなくなってしまうというのもあります(笑)。前は、自分なりにちゃんとしたものを書こうという気持ちが強かったんですけど、最近はそれもなくなってきました。ブログなんかどうでもいいといったら読んでいただける方に失礼かもしれませんが、逆にそれくらいの心境でいるほうが、何か書くことができますからいいんじゃないかという気もします。最近は幽霊もどうでもよくなりました(笑)。あと、霊能力とか超能力もどうでもいいです(笑)。いかにして楽しんで生きれるか、そこに焦点をあてています。普段は、仕事と資格試験の勉強だけの日々になりつつありますが、それも試行錯誤しながら過程を楽しみながらやっています。資格試験のほうは、今年受験のための願書の締め切りが去年だった関係もあり今年は受けられないんで、早くても来年受験という感じです。話は変わりますが、最近、自分のやり気モードを引き出す方法というのを模索していて、ある音楽を聴いていたんですけど、その歌詞の中で「明日の今頃はどうしているだろう。」みたいな歌詞があり、最近セスにはまっている私としては、「明日の今頃って何?」みたいな不思議な感覚になりました。我々の現実世界ではいたって普通な感覚ですよね。何がおかしいのかさえ、疑問に思わないと思います。ですが、最近私は、いつということはよくわからないんですけど、よく言われる「今しかない」というのをより一層明確に感じる(理解ではなくて)ようになっていて、ちょっとうまく言えないんですけど、あらゆるものが同時並行的に存在しているのを感覚的に感じ取るようになりました。たとえばそれは、「今ここの自分」と、「昨日の自分」もです。それは、同時に存在しているんですね。で、私がフォーカスしているのは、「今ここの自分」のほうという具合です。現実は、刻一刻と変化していますが、我々はそれをより大きな自分レベルで瞬間瞬間に選択しつつ生きている現実があります。もちろんそれは科学的に証明不可能なことですが、それが私から見た今の現実の主観的観測事実です。ですから、その見方からすれば、過去があって現在があるというのは、幻想なんです。逆を言えば、過去にとらわれる必要なんて全くなく、今現在から自分自身を創造していけるということになります。セスはそのことを「現在にパワーポイントがある」という風に言います。もしこれが本当ならば、人生まだまだ捨てたもんじゃないですよ。すべては「自分次第」ということになりますから。 Some rights reserved by t3rmin4t0r
2013.02.02
奈良の纒向(まきむく)遺跡で、卑弥呼の祭祀用の建物の跡と思われるものが発見されたみたいですね。 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる3世紀前半の小型建物の柱穴が100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに集中し、小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が集中して確認されたのは初めてで、専門家は「年に数回、卑弥呼が特別に執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」とみている。http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/topics/west_life-16790-t1.htmこの場所は、三輪山のふもとにあり、数年前に私が見たリーディング内容と符合する点があり、個人的に興味深いです。当時私が感じたのは、いわゆる邪馬台国が九州ではなく機内にあったということと、卑弥呼の活動した主な場所が今の奈良の辺りであったということでした。(興味のある方は、ブログトップから「卑弥呼について」で検索してみてください。)(纒向遺跡の場所は、以下の地図情報をご参照ください。)http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?latitude=34.546058&longitude=135.840197 私が最も興味を引いたのは、纒向遺跡の位置です。仮にここが卑弥呼の祭祀場跡ではなかったとしても、三輪山との位置関係からして、重要な宗教的意義をもつ場所だったのではないかと感じられます。 Some rights reserved by dsearls
2013.02.02
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