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今日も自己ヒーリングしました。昼に15分ぐらいでしょうか。ノンへミでしたが、いつものようにフォーカスレベルを上がっていきます。で、いつものように半分昼寝でした(笑)。ただ、今日気付いたのですが、自分では寝ていると思い込んでいたんですけど、寝ていなくて意識があったことに気づきました。どこに意識があったかというと、鼻息です(笑)。やたらとでかいんです(笑)。そのでかさで、私は自分が寝ているんだなという意味付けを自分自身でしてしまっていたようです。ですが、ヘミシンクされる方ならお分かりだと思いますが、これはありがちな例ですよね。深い変性意識に入っているために顕在意識の領域が極端に狭くなっている状態なんだと思います。ですが、顕在意識を超えた意識はちゃんと目覚めている。その意識をなんと呼ぶかはどうでもよい問題でして。要は意識を超えた意識とでもいいましょうか。でも、「自分は寝ている。」と意味づけし、そう認識した瞬間に、自分が寝ていることになった(寝ているという現実を作り出した)わけです。あと、タッピングも絶好調です(笑)。暇さえあればしています(笑)。あと、今アファメーションの工夫もいろいろ試行錯誤しているところです。昨日少し話しましたが、自分自身の可能性を狭める要因となっている葛藤は、自分でも気づけない意外なところにあり、ガイドに聞くと教えてくれたりします。その一例をご紹介しますと、私の場合、「忘れることの恐怖」というのがありました。より大きな「自分」との対話の中で、私はどうやら、忘れていい部分とそうではない部分との区別がつかないと思い込んでいたところがあり、そのために余計な葛藤までも抱え込んでいたみたいです。そこで私はアファメーションとして、「忘れてもいいんだよ。また覚えればいいんだから。」というのを付け加えました。これで私はすごく楽になりました。他人から見ればどうでもいいことなんでしょうけど、当の本人にとっては必至です。そういうことってあったりしますよね。あと、疲れについて意外な指摘を「自分」(=ガイド)から受けました。ガイド曰く、「君は自分で疲れていると思い込んでいるだけで、実は疲れていないんだよ。」と言ってきます。要は、過去のある一時期の習慣から、「私は疲れている。」という現実に引きずられている部分があり、その思いが自分自身を疲れさせていたんです。本当は疲れていないのに、疲れていると思いこむことで本当に疲れてくる。人間って、不思議ですね。 Some rights reserved by Moyan_Brenn_be_back_on_Jan_20th
2013.01.31
今朝は、クリエイティブ・ウェイの「チャンネルの浄化」というのを聞いてみました。これ、なかなかいいです。ナレーションがうるさいのはあまり好きではないんですが、これはそんなでもないですし、深く入れます。これから毎日浄化していきたいと思っています。CD聞く時間がないときもありますけど、そんな時は運転しながらですね(笑)。でもノンへミですよ。深い変性意識には入りません。ピンポイントで源につながる感じです。あるいは、アファメーションとタッピングですね(笑)。 今日のあらたな発見は、自分の中にある最大の葛藤というか目標達成に向けての障害物を探すには、ガイドに聞くのが手っ取り早いということでした(笑)。効果はテキメンです。今日は朝と昼に二回に分けて内面の浄化をやりました。朝はさきほどのCDで20分くらい(私は途中でもう十分だと思ったら勝手に中断します(笑))、昼はノンへミから半分昼寝状態で20分くらいでした。ノンへミの時にも、ヘミシンクの手順というか、フォーカスレベルを上がっていく感覚を利用すると入りやすいですね。まずはフォーカス10へ。最近私は、ゲートウェイのおじさんの声を利用します。「10」とかいう声を頭の中で再現します(笑)。で、ほぼ同時に、フォーカス10のリラックス感に浸るフリをします。そしてすぐに、フォーカス12に移行します。フォーカス12に行くときにも、おじさんの声です(笑)。私のフォーカス12への行き方は、以前ブログにもご紹介したことがあるんですけど、光の玉を頭からハートに降ろしてきて、ハートまでおろしたら光の玉を徐々に拡大していき、肉体を超えて周囲へどんどん拡大していきます。マルチロケーション的に自分の体がなんとなく感じられるようになったらOKです。そこから、ヒーリングする際には、ハイアーセルフに意識を合わせて、その指示でその時に応じた対応をしていきます。今回は、トータルセルフの中の癒しの場に行き、そこでハイアーセルフからのヒーリングを受けてきました。光の玉に包まれながら、しばらくしてクリックアウトしました。クリックアウトって、今でも言いますよね?(笑)最近、ヘミシンクセミナーとか行ってないんで、よくわからないんですけど。あと、ここ数日の経過を見ていて感じるのは、意識の開放は、すぐにできるものもありますが、タイムラグがあるものもある気がします。特に強い信念で出来上がっているものなんかは、何度か開放して、しばらくして昇華されていくのかもしれませんね。 Some rights reserved by TANAKA Juuyoh (田中十洋)
2013.01.30
自己ヒーリングするには、変性意識に入る必要はなく、イメージの力で行うことができます。自分をつなげる場所というのがあります。私の場合、臨機応変に対応しますが、多くの場合、自分にとっての源か、地球か、ハイアーセルフ以上の高次と思われる存在のどれかです。それぞれ、自分だけのイメージというのがあります。ですが、これだけでは足りない場合に即効性のある効果的な方法があります。それは、タッピングを用いることです。タッピングとは、体を手で軽くポンポンという具合にたたきつつ、同時にアファメーションを用いて自己浄化する方法です。前回お話しましたが、我々の持つ信念や観念は、我々の肉体と深く結び付いています。ですから、そういった信念や観念を手放したいときに、タッピングを併用することで驚くほど有効に作用します。我々の思いや観念というのは、特定の思い出と結びついて特定の次元に取り残されていることがあります。それが、ある特定の出来事と結びついて芋づる式にマイナス想念もまた浮かび上がってくることがあります。リトリーバルなんかでは、ポジティブなエネルギーを自分自身に集めてから救出活動に向かうことがあるんですが(「自分リトリーバル」という記事をご覧ください)、いわばそれのネガティブバージョンとでも言うべき状態ですね。でもこれは、チャンスでもあります。その観念や信念に対して自分がネガティブな感情を抱くということは、自分にとってそれが不要なわけであり、それらを手放すことのできるチャンスでもあるからです。出来事、出来事の中に、思い出としてくっついている自分自身の想念。それらが浮かび上がってきたら、タッピングを利用した自己ヒーリング。ぜひお試しください。やはり何事も体験ですね。新たな発見があります。話は変わって、今朝、夢でガイドと思われる存在からメッセージを受け取りました。内容は、今私が取り組んでいる内的作業とでも言うべきエネルギーの集中と開放とに関連するものでした。それがどうも、過去の自分からの想念がよみがえってきた時に、今現在人から受ける想念とよく似ているのです。で、それが過去の自分からきているのか、それとも今現在の他人からのものであるのかが判然としない可能性があり、それを回避するための方法をガイドが教えてくれました。方法は簡単で、自分にとって心当たりのある生霊からの想念を遮断することです。インターネット、テレビ、電話、メール、などなど、現代においてはさまざまな媒体が想念が伝わってくる経路となりえます。ただ、それらすべてを遮断することは無理ですから、「自分にとって特に心当たりのあるもの」から、その媒体とつながる量を減らしてみるといいかもしれませんね。「そこから得られるものは少ない。」とアファメーションしてみるのもいいかもしれません(笑)。実際、本当に自分にとって有益な情報というのは、案外少なかったりしますからね。Some rights reserved by Lemsipmatt
2013.01.29
我々は、ただ生きているだけで、今までの人生で自分が作り上げて来た信念からの影響を受ける可能性があると感じます。惰性でそれらを見ず知らずのうちに「受け入れて」しまうのです。思いが現実世界を作り上げる側面があるものの、それまでに自分が自らのエネルギーを投資してつくり上げてきた部分がかなりの程度強固に残存しているために、このようなことが起こるのではないかと思われます。セスによれば、たとえ我々の顕在意識が出来事を忘れ去ったとしても、我々の体の細胞の隅々が、かつてのあらゆる出来事(およびそれにまつわる体内的変化)をすべて記憶していると言います。このような場合、能動的な自己ヒーリングや能動的なアファメーションが有効ではないかという気がしています。つまり、黙ってそれらに甘んじていてはだめなんで、自ら積極的に体の変化に応じて対処していくということです。自分にとってネガティブな観念は、身体にまず影響が出ると感じます。身体も、自分(のエネルギー)が作り出した現実だからです。実は、今話していることは、「現実にパワーポイントがある」ことを証明すべく実験中の私の身に起こっていることに基づいてお話しています。ただ、観念を変えることで現実的状況も時間経過後に変わっていくはずなんで、今後は様子を見ていきたいと思っています。現実世界で何かをしようとすることは、別の視点からみればエネルギーの集中なんですよね。行動としてエネルギーを集中させていくと、やがてそれが現実化してくる、そういったことなんだろうと思います。ただ、エネルギーも集中させるときは集中させて、あとは開放も必要なんだろうと感じています。その開放をしないと、あるいはそのやり方がまずいと、下手をすると病気になってしまったりする場合もあるのかもしれませんね。私はいま、「現実がパワーポイントである」ことを証明するために自分が選んだ行動に関して、その行動の側面からのエネルギーの集中と開放を学んでいるところです。今回は、現実世界での行動をエネルギー的に分析することを試みたお話でした。勉強の中身について(今日はこんな勉強をしたとか)書いても、皆さん面白くないと思いますんで(笑)。 Some rights reserved by Ross Catrow
2013.01.28
前回の記事でご紹介した、「現在にパワーポイントがある。」の例として私が自分自身に用いたと言ったのは、仕事上のこと、もっと言うと過去に挑戦したことのある資格試験のことでした。その勉強を最近また再開したんです。今の仕事についてからはずっとやめていたんですけどね。今の仕事も軌道に乗り、自分の中ではこれにもう踏ん切りがついていてもう再開するつもりはありませんでした。今回これを再開したのは、単に「現在にパワーポイントがある。」ということを自分自身で納得するためにです。証明可能な事実を扱っているわけではありませんから、要は自分自身で納得できて人生に役立てることができればそれでいいわけです。まあ、仕事をしながらですから、時間はあまりとれないでしょうね(笑)。さて、前回の記事が、おわかりのように中途半端な感じで終わっておりまして、きりのいいところまでご紹介したいと思います。・・・あなたは過去の観念に支配されてはいないのです。一方、できるだけ早く新たな観念に沿って行動しはじめた方がいい。そうでなければ現在においてそれを信頼していないことになります。貧しくてもっとたくさんお金がほしいと思い、裕福を信じようとしているのに、なお現在の貧しさという事実にとらわれつづけているとすれば、あなたが進んで変化を受け入れようとしていることを示す、何か象徴的な手段を現実にとる必要があります。ばかげていると思うでしょうが、たとえば人にお金をあげるとか、あなたにふさわしいやり方で、物質的に持っている以上のお金をもっているかのようにふるまってごらんなさい。あなたは新たな観念に応じなければなりません。そうすると神経系に新たなメッセージが走ります。あなたは自分の観念の結果として習慣的に決まったやり方で行動しています。さて、それらの習慣のいくつかを自ら変えると、そのメッセージが伝わります。あなたから、そしていまこの時点から、始めなければなりません。これはまさしく現実的な意味で、あなたの視点を転換するということです。過去と現在をながめて未来を想像するところの、あなた特有のその景色を変えるのです。望んでいるものの証しをポジティヴな経験という観点で自分の内部に探さなければなりません。そのような心の中で過去を調べてみます。現在のパワーのポイントから未来を想像してみます。そうすれば少なくとも過去を使って自分の限界を強化したり、それを未来に投影したりすることはありません。もちろん最初は自分の望みと現状が正反対に見えるのは当然で、意図も簡単に落胆してしまいますが、過去に誤りを探すのは無駄なことです。5分の時間を正しく使ったほうがはるかに役立ちます。5分間、パワーのポイントは「今」だという事実に集中してごらんなさい。あなたの感情的、精神的、霊的な力が確かに肉体を通って集まってくるのを感じ、その中に腰を据え、望んでいるものだけを5分間見つめつづけます。視覚化あるいは言語化その他、自然に思いついた方法を使ってもいいでしょう。ただしその間、どんな欠乏にも不足にも目を向けず、望みにだけ集中することです。あなたのエネルギーと注意力のすべてを投入してください。そうしたら、そのことは忘れましょう。それがどうなるか、うまくいっているかをチェックしようとしてはいけません。ただその5分のあいだ、確実にあなたの意図が明確であるようにしてください。それからあなた自身の状況に応じて、自分の観念や望みに一致している身ぶりや行為を一つしてみましょう。そして少なくとも一日に一回、自分の行動を信頼していることを示すふるまいをしてください。その行為はとても簡単なものでいいのです。あなたが孤独で必要とされていないと感じるなら、誰かにほほ笑むだけでいい。経済的に苦しいなら、何か買い物をするとき、いつもより少しだけ高いものを買うといった簡単なことをすればいいのです。そしてたとえほんのわずかでもその差額は必ず自分に与えられる、あるいは自分の経験に入ってくるという確信から行動しましょう。あたかも実際よりもっとお金があるように行動することです。健康に関してはあなたがどんな状態であれ、1日に1回、どこも具合の悪いところはないかのようにふるまってみましょう。現在の観念が5分間のワークで強化され、さらにそういう物理的な行動をとれば、本当に文字通り驚異的な結果をもたらしうるのです。ただしそういう効果が生まれるのは、「何が間違っているか」を過去に探し求めてネガティヴな経験をいっそう強化するのをやめたときだけです。あなたはさまざまな領域で多様な蓋然的出来事から選択していますが、こうした原理は人生のどんな領域にも適用することができます。一般的な意味で転生を信じている人々は、多かれ少なかれ「過去世」を責めの対象にしたり、現在の自分の観念から過去世を体系づけたりという過ちをします。自分は一つの過去世のなすがままだと考えるのも十分まずいことですが、たくさんの過去世でめんめんと積み重ねて来た無数の誤りのために自分はもう救いようがないと考えると、何もできない状態に陥ってしまいます。つまり、意志から行動のパワーが奪われるのです。それらの人生は同時に存在しています。どの人生もあなた自身の別の表現であり相互に作用し合っていますが、それぞれの意識的自己のパワーのポイントはそれぞれの現在にあります。しばしば「過去世の情報」が現在の個人の社会的状況をさらに強化するために利用されるのは、こういう理由によります。つまりこの人生における過去と同じく、過去世の記憶もまた現在の観念によって組み立てられるからです。たとえば霊能者など他の人からそうした情報を与えられると、本人もすっかりその気になり、いまの自分に納得いくような「人生」ばかりを採り上げ、それを自分の観念にぴったり合うように―もちろん無意識のうちにですが―組み立てていくことになりがちです。それでも、一見したところそんなふうには見えないかもしれません。自分には価値がないと思いこんでいたら、その考えを裏づける過去世を思い出したり知らされたりするでしょう。今自分の罪の償いをするべきだと考えていれば、その観念がそれを強化する過去世の記憶を引き寄せます。これは高度に組織化された回想力で、当てはまらないものすべてを除外します。あるいは自分は利用されるばかりで認められず、つまらない人生に束縛されていると思っていたら、自分が大いに尊敬されていたことを示す過去世の情報を得たり受け取ったりし、そのために自分のいまの状況があるとか当然の報いだという観念を強化するかもしれません。これらは一般的な話であって、一人ひとり観念を強化する独特のやり方をもっています。自分が病気だと考えていれば、過去世の情報は十中八九、何か罪を犯して今回それを償っているのだということを示すでしょう。どのような枠組みを選ぼうと、あなたの観念を補強するにふさわしい素材が必ず見つかるのです。「真実」としての要点はこうです。あなたはいまスピリットと肉体の交点で自分の現実を創造しているのであり、あなたから見た現在があなたのパワーのポイントなのです。Some rights reserved by papalars
2013.01.26
セスの言う、「現在がパワーのポイントである。」を、今現実世界で確かめています。私の場合、それには内面での変化が伴いました。出来事は何でもいいんだと思っています。私は、自分にとって「パワーポイントが現在である」ことを証明するために最適であると思われるものを選択しました。まずは、内面での出来事へのフォーカスから始めました。そして、現在からすべてを創造していくことを宣言しました。すると、内側からふつふつとエネルギーが湧いてきました。同時に、過去に経験した関連性のある人や出来事から、エネルギーが流れ込んできました。変化は即座に現れました。夜寝る前に上で述べた内的変化を体験し、睡眠中に夢の中でもその続きが起こり、朝起きるや否や即座に行動に移りました。抽象的で申し訳ありませんが、「現在がパワーポイントである。」、ぜひ皆様もいろいろ実験されてみてください。ポイントは、自分の内面にある思い込みや不必要な観念を手放すことにある気がします。すると、自分は本来的に自由である(潜在的に無限の可能性を秘めている)ことに気づきます。そして、「自分と関わりのあったすべての人や出来事から」エネルギーが流れ込んできます。それは、「自分にとって」プラス、ポジティブであると感じられるエネルギーです。また、上の内的体験を経てから現実世界で実行しているとき、現実世界の素晴らしさというか、セスのいう「恩寵」としか表現しようのない気持ちがあふれてきました。同時に、「対象の中に入り込んで体験を積んでいるこの現実世界は、自分自身で場面設定し、いまここにいるんだな」といった心境になってきました。ただ、その状況を表現しきれません。「自分が現実世界の場面設定をして、その場面を自分が体験している」ということなんですが。こうも感じました。自分自身の魂からの思いと行動とが直接的にリンクして一致した行動に出た時にふつふつと湧きあがってくる思いです。いろんな表現が出来るんだろうと思います。自分は生かされているとか、すべてのものに感謝したいとか、言葉は何でもいいですが。「現在がパワーポイントである。」このことを強く感じた一日でした。 以下は、「個人的現実の本質」からの抜粋です。現在がパワーポイントである。これは、実質的に本書で最も重要なことばの一つで、あなたがたが理解している時間の枠組みの中で効果をもちます。先に述べたように、あなたはスピリットと肉体が交わる現在で、自分の観念に従ってたくさんの蓋然性から出来事を選び、現実化しています。あなたの身体と心とスピリットの全能力が一つに焦点を結び、見事に「現在」という経験に集約されています。自分は過去に、あるいは過去の思考に支配されているとあなたが信じない限り、それらに支配されはしません。あなたの現在のパワーを十分に取り込めば、その時点でのその行為自体がもう自分の過去や観念や反応を変えていることに気づくでしょう。つまりあなたの現在の観念とは、いわば人格全体の監督のようなものであり、あなたはいまの現実の観念に沿って過去の経験を体系化したり再構成したりしているのです。当然、同じようにして未来 ―蓋然的な未来― も変えられます。いまの問題の原因を過去に求め始めると、過去からネガティヴなストーリーだけを拾い集めることが習慣化し、そこに喜びや達成感や成功の源泉を見出せなくなってしまいます。現在の不満によって過去の人生を組み立て、それによって自分の問題をさらに強化するのです。それはまるで過去に達成したことをすべて無視し、失敗や悲惨さや過(あやま)ちだけを記した歴史を読んでいるようなものです。そういう自分の「歴史」から、自分が誰であり、何者であるのかについて大きく歪んだ自己イメージをつくり上げ、そのイメージがいまのあなたの現実を描き出しています。そのように現実の間違いの原因を絶えず過去に求めると、ほとんどが的外れに終わります。むしろ直面を避けているネガティヴな経験をかえって強化してしまいます。そもそもの問題はまさしくそういう考え方から引き起こされたのです。不平不満が積りに積った状態というのは、さまざまな人生で数えきれないほど恐怖や自己不信を経験した結果、「ネガティヴ」な部分にばかり注目するようになってしまったからなのです。・・・中略・・・観念を変えようと思ったら、新たな概念を心に浮かべて過去を見渡してごらんなさい。あなたが病気なら、そうでなかったときのことを思い出しましょう。あなたが健康であるという証を見つけてください。まさにあなたの人生そのものが、あなたの内に健康が宿っていることの厳然たる証なのです!現在の制限や限界にはほとんどすべての場合、ある特定の領域における中心的なテーマがあります。理由はさておき、人は「ネガティヴ」な面に強く注目するように自分自身を仕込んでしまったのです。観念が現実を引き起こすと、わたしはくり返し言いました。そしてどんな徴候も「原因」を突き止めなければ自然に消えていくことはないと。しかしその原因とは、原因と結果に関する今のあなたの思考よりもはるかに深いところにあります。そこにはその人ならではの哲学的価値判断が密接に絡んでいます。個人の人生に表面的に現れている原因のさらに奥に、より広範に及ぶ観念が存在し、一人ひとりがその構成要素を個人的な経験の支えとして使っています。これはどれほど過酷な問題を生じさせる欠乏や障害にも当てはまります。あなたは過去の出来事に支配されていると教え込まれてきたので、あなたによって個人的な問題の原因を探すと言えば過去を調べること、つまり過去で何が悪かったか、どこで間違いが起きたか、あるいはどんな不適切な解釈をしてきたかを検証することでした。ところが、あなたが教えられたこととは無関係に、パワーのポイントは現在にあります。さっきも言ったように、あなたの記憶は現在の観念を使って組み立てられているのです。・・・中略・・・煩(わずら)わしい制限から自分を解き放つには、親愛なる友よ、現在において過去を新たに再構成することです。状況がどうであれ、過去を豊かな源泉として使うことができます。自分が達成したことだけを見つめ、過去を組み立て直してごらんなさい。間違いを探し出そうとする視点は好ましい面を見えなくするので、過去はただ、いまあなたが直面している足りないところを映し出すだけのものとなります。他の出来事は文字通り目に入らなくなります。基本的に過去と未来は同時に存在しているため、あなたは危険にも過去と同じ延長上に同時に未来も組み立てているのです。 Some rights reserved by BONGURI
2013.01.26
最近、『個人的現実の本質』のジェーン・ロバーツによる序文を読んでいる中で、ジェーン・ロバーツ自身がセスとの関係についてふれている部分をみつけました。「1963年の終わり頃に始まったセッションの初期から、セスは一貫してわたしをルバートと呼び、ロブ(ジェーン・ロバーツの夫)をジョーゼフと呼んでいる。それぞれの名前はわたしたちの現在のアイデンティティーのルーツである、より大きな“自己”のことをさしていると言い、本書でも彼(セス)はわたしたちをそう呼んでいる。」つまり、セスからみてジェーン・ロバーツはI/Tメンバーではなく、またジェーン・ロバーツはより大きな存在「ルバート」という人格存在であり、セスはそのルバートをジェーン・ロバーツの本来の姿であると認識しているわけです。セスは本の中で、セスよりもはるかに進化したセスIIについてふれ、セスとルバートとの関係は、セスとセスIIとの関係に似ていると言い、ルバートはやがてセスのように進化し、セスはやがてセスIIのように進化することになるとも述べたことがあります。私はセスがジェーン・ロバーツのことをルバートと呼ぶことは知っていましたが、改めてその三者の関係について考えたことはありませんでした。興味深いのは、前回の記事「セスとの対話」とも関係してくるんですが、私がセスに会いに行く時にとる意識レベルの拡大の過程が、上のジェーン・ロバーツの話によく符合する点です。セスに会いに行くためには、まず自分のトータルセルフに行きます。フォーカス34/35とヘミシンク的にラベリングされた領域です。そこからガイドの助力を得て、意識を内側に向けつつ、より大きな「自分」と融合します。意識を内側に向けたときに自分の意識がさらに拡大しますから、この大きな「自分」は少なくともフォーカス34/35よりは上の領域にあると思われます。セスのいる領域には、より大きな「自分」の中で独特の「名前」がついています。それは「セス王国」という名称です。単なるラベリングです。特別な意味はありません。それは宇宙空間に浮かぶ巨大な宇宙船のように見えます。その宇宙船に入っていくと、入口に女性がいて、案内を受けて進んでいくと、セスがすぐに現れてきます。セスは、白人男性で、光り輝いています。「セス王国」と感じられたように、「私」とは明らかに異なるエネルギーフィールドでありながら、まるでガイドと話している時のように情報が次から次へと自分の中に流れ込んできます。これは他の存在とは明らかに異なる特徴です。 このような私個人の体験とジェーン・ロバーツの話を合わせて考えてみると、セスというのはフォーカス34/35程度の存在ではなく、さらに意識レベルが上(フォーカス42かそれ以上)の存在ではないかなと感じている次第です。意識が上とか下とかって、いかにも人間的な視点ですよね。自分で言うのもなんですが(笑)。Some rights reserved by Redeo
2013.01.24
セス曰く、アセンションとは「自己の内面的変化のプロセス」だと言います。自分自身の内面の中で、自分自身の再構築が起きり、それが現実化していくプロセスのことです。それは、意識ないしは観念の再構築であり、まずは「自分自身を受け入れること」から始まります。まずは小さなことから始めてみるといいと言います。そのような自己受容のプロセスの中に、自分自身の中で変化を生みだす原動力があるということみたいです。つまり、アセンションは自己受容のプロセスからもたらされるということです。その変化というのは、いついかなる時にでも現れてくるものであって、ある特定の日時が指定されているわけではないみたいです。では、我々が2012年12月21日といったような、特定のアセンションの日時を指定して考えていたのはなぜなのでしょうか?セスによれば、「誰かが初めにそれを言い出し、その考えにさらなる多くの人々が従っていった結果」なのだといいます。我々の感覚で言うと、イベント的な考えとでもいいましょうか。つまり、自分から見ればそのイベントは受動的なものとしてしかとらえていなく、能動的なものではないわけです。ですが、アセンション(意識変化のプロセス)とは、本来能動的なものであって、自分自身によって変えていく必要があります。しかも、特定の日時が指定されているわけでもなく、チャンスはいつでも、そして誰にでも開かれています。アセンションするのは我々人類だけではありません。地球もアセンションします。それは、我々という存在がミクロの世界だとすれば、地球という存在はマクロの世界です。地球も霊的には生きています。あらゆるものは、相似象となっていて、そこに生命(意識)が宿ります。特に、霊的に進化したものは、「能動的に」自らを変えていける力を本来的に持っています。その一つが、上でご紹介したアセンションのプロセスです。我々は潜在的には無限の可能性を秘めています。その可能性の一部を、現在のあなたにとりいれて実行していくことで、自分自身の成長に生かしていくことができます。「観念が現実を変える」、というのはその通りです。ですが、大切なことは「能動的に」それを行うということです。 Some rights reserved by Matt Lavin
2013.01.23
マシュー君の記事をたまたま目にする機会があったんですが、素朴に疑問に思うのは、人類が闇に影響されるとマシュー君が考えているふしがあるということです。影響されるかどうかを決めるのは受け取り側(自分自身)ではないかという素朴な疑問があります。仮に闇側の情報をマシュー君が提供することが親切心からきているのだとしても、そうする意図がよくわかりません。 なんというか、視野が狭いというか、とても意識レベルの高い存在からの情報とは思えないところがあったりします。そこで今回は、再度マシュー君と名乗る存在とコンタクトをとってみることにしました。結論から言えばガイドからの情報ではないのではっきりとはわからないことも多かったです。マシュー君の本体は、かなり進化した領域にいると私は感じました。今回フォーカスしたのは、そのマシュー君の本体ではなく、「地球にメッセージを送っているマシュー君」です。今回、この「地球にメッセージを送っているマシュー君」とコンタクトするにあたり、今まで見たことのないガイドが登場してきました。あまりご存知の方もおられないかもしれませんが、たとえて言うなら「セイント聖也」に出てきそうな姿をしていて、私とその存在は、2頭の白い馬に乗ってマシューと名乗る存在のもとに向かいました。宇宙空間に無数の星が視界一面に見えてきました。フォーカスレベルは正確にはわかりませんが、おそらくはフォーカス34/35辺りではないかと感じました。印象的だったのは、ガイドの案内である次元を超えていくんですけど、2つの扉?のようなものが目の前に現れて来たことです。扉というか、次元への入り口というか。どっちかが陰で、どっちかが陽のエネルギーに通じているところです。その「いずれか一方の」世界に我々は入っていきました。(達観した見方をすれば、このような二極的な世界が出現していることそれ自体が、何者か、おそらくはその集合意識レベルによって作り出された世界を感じさせます。)マシューと名乗る存在に、なぜ人類に闇の世界からの情報を提供するのか?と聞いてみました。すると、答えは単純で、「人類が闇からの情報を求めているから」だと言います。この存在とのコンタクトは明瞭にはいかなかったので、あまり情報として記憶に残ってなんですけど、このマシューと名乗る存在が人類を闇の世界にフォーカスさせる理由は、人類がそれを求めているからということのようです。人類というのは、物事を二極的にみます。そして、自分自身が作り上げたその世界観に固執します。二極性を超えたところに真実があるという見方が出来ないんです。だから、そういった二極的な情報をもっている存在(これもおそらく人類自身が作り出した存在です)が、それを求める存在に、求められる情報を提供する、こういう構造になっているように感じられます。これがいわゆるマシュー君情報の真相ではないかと思います。世に出回っているマシュー君の情報は、本来のマシュー君とは全く別のところから情報が来ているように感じられます。でも、大切なのは、情報の出所ではなく、「我々自身がどうあるのか」ということだと思います。自分の中心軸さえしっかりしていれば、誰のどんな情報を参考にしても問題ありませんし、またそれはそういった存在とコンタクトをとること自体もまた然りです。闇というのは、自分自身の内面(ひいては人類の集合意識)の表れだというのは、かなり前から申し上げて来たことですが、このことについてあまり多く語られることはありません。ですが、そういった真実の一側面についても、今後はより明らかになっていくように思います。 Some rights reserved by USACEpublicaffairs
2013.01.22
人との出会いはとても魅力的ですし、自分にとって目から鱗(うろこ)の話も聞けてとても勉強になります。大阪でのオフ会の時、こんなご質問を受けました。エネルギーの高い食物を食べると、食べる量が少なくてもすむんでしょうか?と。わたしは、最近ではエネルギーの高い食べ物とそうではないものがわかるようになったんですが、自分ではそういった経験、すなわち、エネルギーの高い食べ物を食べると食べる量が少なくて済むという経験はまだしたことがありませんでした。(ただ、自分にとって高いと感じられるエネルギーを大量に浴びた後でおなかがすきにくかったという経験は、以前何度があった気がします。)普段の食事で、高エネルギーの食物と、食べる量との関係においてなんらかの相関関係をわたし個人では見いだすことができなかったので、そういった質問を受けた時に私個人はそのようなことはないと思うと申し上げました。すると、もしそうだとしたら、なんのために高エネルギーの食物をとる必要があるんでしょうかとさらなるご質問をいただきました。私は自分でもなぜそのようにお答えしたのかわからないのですが、次のようにお答えしました。たとえば私にとっては植物が一番高エネルギーだと感じられるんですが(なかでも豆類)、植物は地球意識とのつながりを強く感じます。植物を食べることで、その高波動のエネルギーから地球意識までつながりやすくなります。地球意識は、エネルギー的には他の高次意識との連携がネットワーク上に伸びていて、究極的には「すべてなるもの」へとつながっていきます。見方を変えれば、植物の中に地球意識というより大きな存在があって、その地球意識の中にさらなる大きな存在があって、・・・といったように進み、究極的には創造主までたどり着きます。つまり、高波動の食物をとることで、エネルギー的なつながりから、すべてのものは本来的にひとつであるというワンネスの考えに到達することができます。そのために高波動の食物をとる意義があるのだと、お話させていただきました。もちろん、私見ですから、それは絶対ではないですし他にもいろんな考え方はあるのだと思います。ですが、私自身あまり普段考えたことのないご質問でしたし、またとっさにそのようなことをしゃべっている自分にも驚きました。科学的に証明することの困難な分野ですから、いろんな見方があって当然なんだろうと思います。高波動の食物を身体が欲するというのも最近強くなってきたんですが、いわゆる我々の霊的存在としての本質部分と言いますか、自分と源との関係から見ていきますと、上でお話したような見方もあっていいのではないかなと思っています。Some rights reserved by Ramanathan.Kathiresan
2013.01.21
今回は、ロバート・モンロー夫妻がジェーン・ロバーツのもとを訪ねた様子を『個人的現実の本質』からご紹介したいと思います。1973年4月4日(水曜日)午後9時23分先週末、ロバート・モンローと妻のナンシーが滞在していた。彼らはヴァージニア州中部の農場に住んでいる。ロバートは『体外への旅』(ハート出版刊)という本の著者で、ジェーンとわたしはそのテーマに関するもっとも重要な作品と見なしていた。彼がとりわけジェーンに話したがっていたのは、研究のための複合施設についてだった。彼はいま自分の農場にそれを建設しているところで、仮に「メントロニクス研究所」あるいは単に「システム」と呼んでいる。そこは霊的活動のさまざまな局面を研究するために「大勢の男たち」が使うことになっている。その「男たち」とは医者、超心理学者、精神科医そのほか、科学畑の学究たちということになるだろう。 4月1日、日曜の晩、モンローとの長時間にわたる話し合いにセスが現れ、それは録音された。わたしたちはみんなで月曜の遅い時間にまた話すことにしていた。けれども月曜の朝になると、ジェーンがまた急に創造的なインスピレーションが強烈に湧き上がってくるのを感じ出した。それは明らかに並はずれたもので、何時間も続いた。客が到着する前日つまり日曜の午後、彼女はその予兆を感じていた。わたし(ジェーン・ロバーツの夫)はここでその現象を述べ、それについて彼女が書いた文からのかなり長い引用を用いて、この本が生まれるあいだ、ジェーンが行った霊的活動の一例を示そうと思う。同時に、こうした認識はこの本そのものに対する洞察ももたらすだろう。・・・中略・・・(この後のジェーン・ロバーツの創造的インスピレーションの話の中で、ロバート・モンロー夫妻が到着し忙しい夜となったという記述があります。次のようなものです。)・・・モンロー夫妻があと一時間くらいで到着するというので、ロブ(ジェーン・ロバーツの夫)が仮眠を勧めてくれた。わたし(ジェーン・ロバーツ)は眠ろうと努めたのだが、たくさんの考えから突然一つの概念が飛び出してきて、わたしは文字通り衝撃に打たれた。それは、『わたしたちは神の内にいる。決して外に出たことはない!』というものだった。この言葉に、わたし個人の感情や習慣や思考が入り込む隙間はほとんどなかった。なぜならわたしは突然、自分が家の中にいるように神の中にいるのを感じたからだ。わたしたちが想像することも、知っていることも、すべては内側にある。外側というものはないのだ。・・・・・・中略・・・・ロブはわたしを起こしてから、車でモンロー夫妻のホテルまで迎えに行った。私はとても高揚していたが、同時に疲れ果てていた。身支度を始めながら、内側にはまだ神の感覚が残っていた。外で小鳥がさえずりはじめ、わたしは手を止めて立ちすくんだ。小鳥は神のさえずりだった! これは象徴的あるいは美的な感動ではない。これは突然知らされた真実だった。・・・・・・中略・・・月曜の晩、セッションは開かれなかった。代わりにジェーンは「自分自身の」能力を使って、ロバート・モンローが描いたある機械装置の図にチューニングした。かれはそれを体外離脱の旅で見たものだった。フェルミのギャップ(ある種の電子の動きに関係している)その他の物理的な疑問が生じ、ジェーンが独自の図を描くことになった。彼女はそんなふうに自分の能力を使うのが好きだ。 ジェーンは、メモと図をロバートに渡した。それから、火曜日、彼女は自分の超越体験について書くことに加え月曜の晩の討論についてまとめ、自分の記録のためにメモとスケッチを構成し直した。・・・この後、セスが登場して、セスは睡眠中や変性意識時に感じるインスピレーションが日常社会において妥当する善悪の価値基準に何ら影響されないどころか、むしろ「内なる自己は夢の中に生じる壮大な創造性の推力を十分感知していて、個人のエネルギーの源は善悪の性質のような表面的な概念とは何ら関係ないこともはっきり理解しています。」と述べて、我々が顕在意識だと思っている意識状態とは別の意識状態における創造性の大切さについて言及しています。ロバート・モンロー
2013.01.19
私は、現実世界での生活や人との出会いを大切にしながらも、「好奇心」からいろんな次元の旅を続けています。好奇心には逆らえません(笑)。というわけで、私の「旅」は続きます。肉体の衣を脱ぎ去った後も、いろんな人との出会いがあって、生きている時と何も変わらない生活を続けながら、次第に本当の「自分」に気付いていきます。そのプロセスは、いろんな存在が伝えてきています。ですから、私がフォーカスしたいのは、いわゆる第2の死が訪れトータルセルフとして生き始めた生活というものがどんなものなのかです。昨日お話した同胞、すなわちガイドですが、いつも会うのは私自身が作り出したピラミッドを上下合わせた形の内部空間です。いわば、ここがガイドとの集合場所となっているわけですが、私はガイドに、トータルセルフとしての生活がどんなものが知りたいと聞いてみると、自分にはわからないと言います。では、トータルセルフに聞くことはできるのかと聞いてみると、できると言うので、一緒に会いに行くことにしました。どこに行くのかと思うと・・・ガイドは座って目を閉じて瞑想を始めました。私にもそれをテレパシーで促してきます。向こうの世界では言葉は不要だからです。瞑想して、内側の自分に目を向けることがトータルセルフに会うための方法だということのようです。するとすぐに、一人の女性が現れてきました。いつも見る人です。この人は、私やガイドの内面にいるより大きな「自分」です。ですが、この女性の中にも、さらに大きな「自分」がいます。その「自分」の中にもさらに大きな「自分」が・・・というように、「自分」という存在は、入れ子構造のようになっているのではないかなと思います。「自分」という宇宙があって、その中にさらに大きな宇宙があって、といったような感じでしょうか。我々の感覚では、「自分」=宇宙というのはかなり大きな飛躍があるようにも感じられますが、向こうの世界で感じてみると、それが一番自然だという気がします。トータルセルフとしての生活にも、我々と同様に実体があります。しかし、その形態が我々の想像をはるかに超えています。まず、不変的な社会というものがありません。あるのは、個々のイベントに応じた社会です。トータルセルフ同士で何かこうしようという目的というか企画があるとします。すると、その企画を遂行するために一時的に社会的枠組みが作られます。そして、人が集まり、あらゆるものを創造していきます。向こうの世界では、人と出会うのも一瞬で会うことができます。ですから、場所的移動に苦慮するということが一切なく、時間もないため時間的調整も不要です。いえ、時間があるのですが、複数の物事を同時に認識できるために、時間的調整をする必要がないといったほうがいいかもしれません。トータルセルフ同士の付き合いというものも、現実世界と変わらないかそれ以上に深い付き合いというものがありますが、トータルセルフの観点からみればどちらかというと意識は「内側」に向いています。つまり、別側面の「自分」(その一部が我々のパーソナリティです。それ以外にも無数にあります)との相互交流のほうが活発です。トータルセルフの世界は、基本的に、自分の思い通りの世界が瞬時に実現する世界です。我々の感覚からすれば、トータルセルフの一つ一つが創造主のようなものです。我々の世界のように、自分の本当の思いと現実世界が食い違うということが生じません。完全に一致しています。ですが、我々の感覚かすれば、これでは刺激が乏しいのでは?という風にも思えます。我々はどこかで、刺激=快感、喜びととらえているふしがあるからです。しかし、トータルセルフによれば、刺激を超えた喜びというか満足度を得られる手段がこの世界にはあります。我々は仲のよい友達同士でおしゃべりすると、楽しいですよね?それを、エネルギーレベルで味わうという感じです。もっと直接的に魂と魂が喜びの共鳴状態に入り、その喜びのエネルギーに浸ります。ですから、面と向かっておしゃべりして楽しむよりももっと直接的な喜びになります。それは、我々の五感で得られる刺激を媒介したものとは全く異なったものです。向こうの世界では、エネルギーには、確かさというか、存在感があります。それは、我々が今目の前に見えている現実世界の確かさと本質的には何ら変わりません。我々の存在自体がエネルギーなわけですが、友達と話す際に、お互いがエネルギー同士であるその奥深くにある魂同士が共鳴し合い、お互いがもつ喜びを分かち合う、そんな感じです。これだけでも我々の想像をはるかに超えるものですが、もっと根本的な相違があります。うまく説明できる自信がありませんが、次のような感じです。たとえば、今目の前に何かものがありますか?私の目の前には、車の模型があります(笑)。トータルセルフによれば、これは一つの「表象」(=象徴、シンボル)だと言います。なんの表象かと言えば、観念の表象です。つまり、物とは、観念の表象なわけです。我々の世界では、物を作るには時間や手間がかかりますよね?ですが、向こうの世界では、それが一瞬で出来ます。つまり、物を作るというのはある観念の表象化だということが、トータルセルフのレベルではそれまでの経験から十分によくわかっているわけです。ですから、ある出来事を表象化して「楽しむ」こともできます。それは、我々の現実世界での人との出会いや生活となんら変わりません。ですが、それが唯一絶対のものではないことも十分に手に取るように分かっています。ですから表象化せずに「楽しむ」こともできます。さきほどお話した友人とのおしゃべりのように。つまり、ある観念の表象化のプロセスを熟知しているわけです。ここが我々の現実世界での生活とトータルセルフでの生活との根本的とも言える差異ではないかなと話を聞いていて思いました。ですから、我々の立場からみますと、突き詰めれば我々は今、表象化のプロセスを学んでいる最中だということになります。最初はうまくいきませんから、徐々に、試行錯誤しながら練習している。これが我々(本来的にみれば霊的存在)のC1現実世界で生きる霊的真実の一側面ではないかなと思います。 Some rights reserved by titanium22
2013.01.19
以下は、意識を拡大してトータルセルフの同胞(別側面の自分)と交信した内容をまとめたものです。会話調での情報のやり取りとして私自身は認識しましたが、別の形式でまとめなおしてあります。人間は、様々な過程を経て自己成長を重ねていきますが、個人差があるものの、いつの時点かで、本来の自己の存在に気付き始めます。個人としては多くの別側面の自分が転生を重ねていく中で、すべて「同時に」、進化していきます。自分が死後どのような方向性にすすむかは、原則として自由意思にゆだねられます。自分が同胞を助けたいと思えばその方向に、さらなる叡智を極めたいと思えばその方向に進むことができるみたいです。霊的には、叡智と愛は同じものであり、もっと言うと、実在するエネルギーとしての愛の一つの表現形態が我々だということになります。「わたし」という存在は、実在するエネルギーの象徴であり、自分自身の個性の表れでもあります。さらに進化を進めていくと、本来の自分として生きるようになると言います。本来の自分とは、個性の集団であり、自分自身の人格存在の総体でもあります。多くの場合、死後、いろんな機会に気付きの機会が訪れてきます。死後には、自分自身の内面をより見つめるようになると言います。自分自身が持つ依存・執着・恐怖心の他、自分自身が無数にもつ「観念」それ自体も見つめます。さらに、その無数の観念を形作っている「何か」まで詳細にみていきます。そうする中で、ある時、自分自身の意識が拡大していくことに気付きます。まわりにいる同胞の存在に気付き、頻繁に情報交流していたのだという事実に気付きます。そうする中で、総体としての「自分」としての意識に目覚め、総体として生きるようになります。これが、いわゆるトータルセルフとしての「自分」であり、シルバーバーチの言う第二の死であると思われます。総体としての「自分」は、常に体をもっているわけではありません。肉体とは単なる象徴(シンボル)にすぎず、体がその存在の全人格を表しているわけではないからです。国体なんかでよく使われるキャラクターというかマスコットがありますよね。国体とあのマスコットとの関係が、人格存在と体との関係に似ている気がします。そうはいっても、トータルセルフは、固有の体を自由に具現化することもできます。その体は、そのトータルセルフとしての象徴であり、現実世界に生きる我々の体とは異なっています。トータルセルフは、他のトータルセルフを認識した時、そのトータルセルフのもつ個性を一瞬で感じ取ります。他の同胞が私に見せて来たのは、トータルセルフも他のトータルセルフを体として認識している様子でしたが、同時にやってきたのは、他のトータルセルフのもつ個性としかいいようのないもの自体を直感的に感じ取ります。進化の方向性は、基本的に自由であり、いかなる方向性にも進むことが出来るようですが、自分自身の内面を見つめ、自己の持つ無限の可能性に気付き始めると、意識の拡大が起こってきます。そのプロセスの一つが、上で申し上げた第二の死であり、それ以前にも無数の意識の拡大レベルが存在しているように思います。意識の拡大・変化は申し上げるまでもなく、この現実世界でも起こりえます。それが、アセンションのプロセスでもあります。いわゆるガイドについての補足を最後にしたいと思います。ガイドとは、すでに申し上げたように、無意識レベルで常に情報のやり取りがあります。ただそれが顕在意識まで上ってこないだけです。顕在意識と我々が呼ぶものは、潜在意識という巨大な氷山の一角であり、水面下では頻繁に情報交換が行われています。そのように、ガイドとの交流は日常茶飯事なのですが、ガイドの立場から見てみますと、いつどのような時点で同胞を援助していると強く意識するのでしょうか。同胞によれば、特に強く意識するようになるのは、死後に意識が拡大してからだと言います。死後に意識が拡大すると、複数のことを同時に認識できるようになります。自分が日常生活を送るのと同時に、ガイドとしての援助もできるようになります。しかし、同胞によれば、もともと無意識レベルで援助していたのをただ知覚できるようになるだけだと言います。Some rights reserved by titanium22
2013.01.18
今回は、リチャードバックの『かもめのジョナサン』をご紹介したいと思います。内容に霊的真実が散りばめられていて、とても考えさせられる内容となっています。「きみが真に完全なるスピードに達し得た時には、きみはまさに天国に届こうとしているんだ。そして完全なるスピードとは、時速数千キロで飛ぶことでも、百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。なぜなら、どんなに数字が大きくなっても、そこには限りがあるから。だけど、完全なるものは、限界を持たない。完全なるスピードとは、いいかい、それはすなわち、ただそこに在る、ということなんだ。」<あらすじ>”きみの心の目で見るのだ。すでに自分が知っているものを探すのだ。そうすれば、いかに飛ぶかが発見できるだろう”昔、高く飛ぼうとしないカモメがいた。まわりの嘲笑も気にせず、彼はひとり、ひたすら低空飛行の練習を続けた。彼は、ただ「自分には何がやれるか、何がやれないか」を知りたかったから。いつしか彼の関心は「どれだけ速く飛べるのか」に移ったが、彼はそれゆえに群れから追放される。完全に孤独となり、それでも日々加速し続ける日々。そしてある日、彼は高い空へ飛び立ち、戻って来なかった。彼は彼が天国だと思うところにいた。そこは彼のように、ただえさを食べるために飛ぶのではなく、飛ぶことの意味を知るために飛ぶカモメたちがいた。彼はその中で最も年老い、優れたカモメに教えを受ける。「自分がすでにそこに到達していると知れ」と語ったそのカモメは、彼に新しい道を残し、”天国”を去る。「他人を愛するということを学べ」彼は自分が残してきた、かつての仲間たちのことを思いだし、そして、新しい友人の制止を振り切って再び地上へ戻る。彼は、追放されたカモメたちに、飛び方を教えた。それは「わたしたち一羽一羽が、まさしく<偉大なるカモメ>の思想であり、自由という無限の思想である」ということであり、「きみたちの全身は、翼の端から端まで それは目に見える形をとった、きみたちの思考そのものにすぎない」ということでもあった。彼は群れの前で、素晴らしいデモンストレーションを行い始める。しかしある日、事故により倒れた一羽のカモメを、不思議な力で助けた彼は、”悪魔だ!”と見なされた。押し寄せる群れの中から、彼と彼が救ったカモメは忽然と消え失せる。 「ジョナサン、あなたはずいぶん前にご自分で言われたことをおぼえていらっしゃいますか? あなたは群れに戻って彼らの学習の手助けをすることこそ、群れを愛すると言うことだと、おっしゃった」 「フレッチャー。きみはああいうことが嫌いなんだろう。それは当然だ。憎しみや悪意を愛せないのは。きみは自らを鍛え、カモメの本来の姿、つまりそれぞれの中にある良いものを発見するようにつとめなければならない彼らが自分自身を見いだす手助けをするのだ。私のいう愛とは、そういうことだ」そして最後に、またたく光は、空に消えた。.天国から地上に戻ったジョナサンは、ガイドのようでもあり、あるいは再生したとも思えますよね。いずれにしても、同胞を手助けする為に働きかけるところは、トータルセルフ内にいる別側面の自分との関係を連想させますし、天国でジョナサンに教えたカモメもガイドやハイアーセルフを連想させます。セスの本『個人的現実の本質』に、『かもめのジョナサン』が生まれた経緯が載っているのでご紹介したいと思います。・・・後記=リチャード・バックは、実際には自分が『かもめのジョナサン』を書いたのではないと感じていた。その物語の着想についてはいまではよく知られている。1959年のある夜更け、リチャードが西海岸に近い運河沿いを歩いていると、「かもめのジョナサン・リヴィングストン」という声が聞こえた。まわりには誰もいない。彼は仰天した。もっと驚いたことにはその帰り道、同じ声がその物語のあらましを三次元の形のあるイメージで彼に伝えたのである。そこで声はやんだ。彼は自分でその原稿を完成させようとしたが、うまくいなかった。その後何も起こらないまま8年が過ぎ、ある日、彼は突然またあの声を聞いて目を覚ました。そして本の残りの部分がもたらされた。・・・リチャードバックがセスのチャネラーであったジェーンロバーツを訪ねた際、セスは詳細にかもめのジョナサンについて言及しています。セスによれば、『かもめのジョナサン』の真の著者は、リチャードバックの内なる自己にあり、その独創性によって生み出されたものだと言います。 Some rights reserved by tombayly13
2013.01.18
源と次元についての考察です(私個人の主観的事実であることをご了承下さい)。まずは、源からお話したいと思います。 「すべてなるもの」(=源)は、究極的な存在であって、いかなる存在にも認識(見ること)できませんが、直観的にその存在を知る(わかる、感じる)ことができます。それはあらゆる次元を超越しています。それどころか、あらゆる意識を超越しています。ですから、あらゆるところに存在していると考えることもできますし、あらゆるものに宿っていると考えることもできます。源は、あなた自身です。あなたはまぎれもなく、源それ自体であり、あなたの内面に源が存在していると考えることもできます。 それ以上の感覚的な情報のやり取りを「本来の自分」としていたのですが、その多くが欠落してしまいました。その感覚的情報は、まだ私には表現できないものなのかもしれません。 私は「本来の自分」と私が呼ぶ存在とコンタクトをしているわけですが、こんな話をしました。我々はよく、どの存在がどの意識レベル(フォーカスレベル)にいるとか、そういう思考をすることが多いと思います。なぜなら、それが自分とその高次の位置関係というか違いを把握する一つのメルクマールになると考えられるからです。しかし、「本来の自分」によれば、自分は自分だと言います。どのレベルにいるとか、そういったことはあまり問題ではないのだと。たとえばこういうイメージをもっていただけたらと思います。今、我々が自分だと感じている自分というのは、潜在意識下で、別の側面をもった「自分」と情報の交流があります。情報をわかりやすく光の玉であらわしてみます。その情報は、エネルギーであり、別の無数の光の玉とつながっています。その情報は、それぞれが意志を持っていて、思考することができます。ですが、あくまですべての情報は、「自分」という枠組みに存在していて、他の「自分」とは一応分けて考えることができます。しかし、本当は、そういった「自分」という枠組みすらなくて、すべて一つの巨大なネットワーク構造になっています。ですから、私が「本来の自分」から情報を引き出したとしても、それは当然のことながら、よりアクセスしやすいフォーカス35辺りから「自分」につながり、「本来の自分」から情報を引き出します。どこからどうつながらろうが問題ではなく、すべては一つの情報ネットワークを構築していると考えることができます。そのように考えると、そもそも意識レベルというものを問題にする必要がなくなる、こういうことを「本来の自分」は私に告げてきている、そういうお話です。では、我々の考える「次元」とは、いったい何を指しているのでしょうか?とっかかりとして、私は「本来の自分」に、いわゆるフォーカスレベルとの関係を聞いてみました。今からお話することは、すべて我々の認識レベルの問題と密接にかかわってくるとお考えください。「本来の自分」によれば、すべてのフォーカスレベルは、「あなた自身の内面からきている」と言います。我々は、自分の内面と外面を区別して認識しますが、本来は一体であって、その大本は自分自身の内面にあると言います。内面にある、あるポイントと我々が認識したものを、フォーカス○○と我々が認識している、こういった話です。では、こういったラベリングには意味はないのかというと、そういうわけではなく、自分との関係で意味を持ってきます。ですから、すべてのラベリングは、相対的なものであって絶対的なものではないということになります。「本来の自分」に、次元とは何かを聞いてみました。すると、「次元とは、ある観念によって作り出されたリアリティ(現実世界)である」と定義しました。観念は、それ自体が固有の意志を持っていて、思考します。その観念は、あらゆるところに無数に存在していて、それの無数の観念が多くの人の共有思念としてトータルセルフのレベルで合意されています。ですから我々は、パーソナリティレベルではなく、トータルセルフのレベルでの合意に基づき、この現実世界に生まれ、そこでの次元を存在している、こういうことになります。意志をもった観念には個性(信念)があります。その個性はどこからきているかというと、我々自身の内面からきています。たとえば、「現実世界は強固である。」といった信念です。たとえば、リンゴを手に持った時には実感が確かにありますよね?ですが、その強固さというのは、もとをただせば、観念であり個性(信念)なんだということです。それらに、生まれる前から合意の上、我々は今ここにいる、こういうことみたいです。現実世界を生みだす観念が、我々の内面からきている以上、究極的には現実世界は我々の内面が生み出しているということになります。ですから、我々は同じ次元を共有しているようでも、人それぞれ次元というのはまちまちであって、それはなぜかというと、人の観念を通すためのフィルターが異なっているからです。ですが、生まれる前からの合意により、ある程度の共通世界を認識できているということです。私は「本来の自分」に、振動数について聞いてみました。バシャールなんかは振動数で次元を把握していますから、バシャールに一定の信頼性を置いている私もそれに洗脳されているわけです(笑)。「本来の自分」は、こんなたとえをしました。たとえば、鳥には必ずくちばしがあります。くちばしがあれば、それはほぼ例外なく鳥であると考えられます。ですが、くちばしだけを見ていては、鳥がいったいどんな形をしているのか、どんな動きや生態をもっているのか、まったくわかりませんよね。「振動数」もそれと同じだというのです。「振動数」は、次元との関係で見れば、くちばしのようなものです。多くの場合、鳥がどんな形態・生態をするかを決めているのは、「観念」だと言います。つまり、次元とは、有機的な観念の複合形態に対する合意から生まれてきている、こういうことになります。それが、我々の住む現実世界ですと、トータルセルフレベルでの合意に基づいているのだということです。ですから、我々とは全く異なる観念体系に基づいた、全く別の枠組みのリアリティ(上の文脈で述べてきた「次元」)も無数に存在していることになります。Some rights reserved by Tobyotter
2013.01.17
昨日は書けなかったヘミシンクネタということで。今日はちゃんとCDを聞いてみました。クリエイティブ・ウェイの「創造性の肯定」というCDです。ヘミシンクを長年された方ならお分かりだと思いますが、ヘミシンクを聞かなくても変性意識に入ることができるようになります。意識状態を自由にコントロールできるようになるんだと思います。ただ、CDを聞いた方がより深いリラックス状態に入れる気がします。たとえば上の「創造性の肯定」はフォーカス10だと思いますが、CDを聞かずにフォーカス10に入るよりも深く入れます。私の場合、フォーカス10ではほとんどビジョンは見ませんが、変性意識に入った時の感覚はあります。この「創造性の肯定」は、アファメーションの練習にも最適だと思います。人にはいろんな道があるんだろうなと思います。基本、何をしてもいいんだと思います。ヘミシンク然り、ヒーリング然り、他のもろもろのスピリチュアル系のテクニック然り。以前私は、どこかで「・・・ねばならない。」におちいっていた気がします。「・・・ねばならない」=「信念体系」と置き換えてもいいと思います。現実世界を生きる上で必要な信念体系も多いですけど、余計なとっかかりをなくすためには、いったんすべてリセットするのが一番な気がします。もちろん、意識の上でですけどね。リセットを手放しと言い換えてもいいかもしれません。すべて手放してみると、そうか、すべてOKなんだと思えるようになりました。私も人間ですから、いろんな人の影響を受けたりします。特に、最初から私のブログを見ている方なんかでいろんな面で良い意味で刺激を受けてきた方なんかもいます。あらゆることは、偶然ではなく必然であり、すべての人は必要があってそれに導かれているんだろうと思います。その方の世界に入り込むととても素晴らしく思えて自分もその方に習ってみたいと思う自分すらいます。でも、現実体系の仕組みが「見えて」しまうと、自分とは方向性が違うことも感じてしまいます。でも、方向性が一致する必要なんてないんだという風に感じます。これからも自分を信じて、自分らしく生きたいと思います。Some rights reserved by DaGoaty
2013.01.17
私は仕事柄、国語の試験問題の解答を作らなければならなかったりするんですが、出題された文章などを見ていますと、我々は本当に無意識のうちに自分のI/Tメンバーとのつながりや過去生などについて考えているのだなと感じさせられることがあります。たとえば、こんなのがありました。ある著名人がエッセイとして書いたものなんですが、その人は普段は講演を良くするらしいんですけど、ある時、他の講演者と一緒にパネリストとして参加したことがあるそうです。おそらくは、講演者が順番に話していくからなんでしょうか、他の講演者が話している時は暇だというんです(笑)。それで、自分の時間が来るまで、講演を聞いている人の顔を見ながらいろんなことを考えるらしいんですが、ある時、人の顔を見ながら、自分がもし今とは全くことなる環境に生まれて、性別も異なり、まったく違った人生を送っていたとしたらどうだろうと考えたそうです。女性で子育てをしていたかもしれないし、また、金持ちの場合もあるだろうし、貧乏な場合もあるだろう。その日暮らしの生活の中でも、ささやかなことに喜びを見出して生活していくかもしれない。でも、その日常の中の喜びを嬉々として楽しめたら、どんなに素晴らしい人生だろう。そんな感じで、要は違った人格を「味わって」いたみたいです。これはどこか、トータルセルフの中の別のパーソナリティをほうふつとさせます。実際、トータルセルフ内にいるパーソナリティとは、我々は本来は一体であって、この現実世界に生きている間にも、潜在意識間では常に情報のやり取りがあると私は考えています。それは、ふとした瞬間に相手の存在に「気付く」ことで知ることがあります。今はもうしていませんけど、ヘミシンクの練習に瞑想を取り入れていた時には、自分の別側面であると感じられる自分を、私も感じていたことがありました。もちろん、非物質界のことを言っていますから、科学的・客観的証拠などはなく、ただそのように感じられるということなんですけどね。それは、たとえば生きている人の想念とは異なっています。もちろん、他のパーソナリティも、別のどこかで「生きている」んですけどね。でもそれは、私とは異なる現実世界もしくは次元にいるパーソナリティだと感じられます。あるいは、うたた寝というか、うつらうつらしている時なんかにもこれを感じることがあります。ただ、こういう時には、自分の意識状態をコントロールできませんから、妙な次元にも行ったりもしますけどね。おそらく作家と呼ばれる人達は、かなりの部分、非物質界から情報を得ているんじゃないかなと思います。象徴(シンボル)として印象を受け取り、それを文章化する際にはその作家の文才というかオリジナリティが発揮されますから、その人自身の作品ではありますけどね。実際、リチャード・バックの『かもめのジョナサン』なんかは、本人も言っているように完全にスピリチュアルな作品だと思います。リチャード・バックは、セスのチャネラーであったジェーン・ロバーツとも交流があり、『かもめのジョナサン』が生まれる経緯について本の中に書かれていたりします。それにしても、去年の冬至を過ぎた後の年末の10日余りの間は、かなり夢見の世界で潜在意識下での交流があったのかもしれません。私もそんなには覚えていないんですけど、いまだかつてなかった夢の中で示唆的な情報を得るということが、あの期間だけありましたから。我々が意識できる現実世界はほんのわずかですから、我々はこうしている間にもたとえばガイドなどからいろんな情報を無意識レベルでは受け取っているんだと思います。たとえばそれがパネリストであれば講演中に、作家であれば執筆活動中に、ヘミシンカーであればヘミシンク中に情報として受け取っているのかもしれませんね。Some rights reserved by longhorndave
2013.01.16
もう少し源や次元についての考察をしたいんですが、非常に奥が深い話ですし、一筋縄ではいかない気がしています。 近いうちにするかもしれません。 たまにはヘミシンクネタでも。一応、「imimiのリトリーバル日記」ですからね(笑)。リトリーバルらしきものはたまにしてますよ。でも、リトリーバルっていうのか微妙ですけどね。ヒーリングかもしれませんけどね。身内とかにやったりしてます。私がヘミシンクを始めたきっかけは、当時はいろいろ考えていたのかもしれませんけど、一番大きかったのは「好奇心」からだった気がします。人間死んだらどうなるんだろう的な、あるいはその先にある話です。好奇心と、それから当時抱えていた疑問を解決したいという動機からだったように思います。あとは、科学的な手法を取り入れているところにも魅力を感じました。私はもともとは論理的に物事を考える人間でした。でも、その当時から、いわゆる死後世界については漠然とですがその存在を信じてはいました。もちろん、誰にも言いませんでしたけどね。特に霊媒体質というわけではなかったですし、超能力や霊能力とは当時は無縁でした。ただ、私は、他のものだったらここまでやらなかったと思います。ヘミシンクだからやったんだという気はしています。この辺も言葉にならない感覚があり、なんとなく導かれたというのが本当のところかもしれません。ヘミシンクネタといったのに、こんな話でがっかりされた方。ごめんなさい(笑)。またそのうち何か書くと思います。話は変わりますが、ミクシィから、今度オフ会をする際には事前に告知してほしいというメッセージをいただきました(メッセージを下さった方ありがとうございます)。できるだけそのようにしたいと思いますが、私は今までオフ会とかあまりやったことがありませんでしたので、どのくらいの人数が集まるのかもわかりませんし、今回は知人を通して進めさせていただきました。やるとすれば、割と近い大阪でしょうかね。東京や東北にも行きたいんです、本当は。ただ、私はこれで商売をする気は全くありません(笑)。目的は、私と縁のある方々のところに行って、みなさんとお話をして楽しむことです(笑)。回数とかは限られてくると思いますし、どうせならできるだけ多くの方とお話したいので、やるなら大阪か東京でしょうね。ただ、時期とかについてはまだ未定です。私に会いたい方、気長に待っていてくださいね(笑)。 Some rights reserved by Sids1
2013.01.16
最近、いろんな意味で気付きを与えてくれる機会も多く、また自分が使った言葉の意味を自分なりにさらに探求したいという気持ちもあり、私は「本来の自分」と私が呼ぶ存在のもとへと向かいました。ちなみに、ヘミシンク的に言うとこの存在はフォーカス49と呼ばれる領域に存在します。次元に換算すると7次元です。ただ、意識レベルを正確に表すには、次元のほうが適していると高次から言われました。次元はバシャールの言うように、振動数で把握するのが基本みたいですが、それだけではなく、霊的反映度とでも言うべきものがあるようです。本来は上とか下とかありませんが、我々の感覚に照らしてご説明しますと、意識レベルが上の存在(密度が薄い存在)というのは、意識レベルが下の存在(密度が濃い存在)よりも物事を俯瞰(ふかん)して見渡すことができます。また、高次であればあるほど意識そのものが密度が薄いので、密度が濃い存在の中にも浸透していきます。ですから、イメージ的には、あらゆるものを包み込むような状態となっています。意識レベルが上のものは、意識レベルが下のものを包含しているとでもいいましょうか。もちろん、あらゆる存在は独立した存在であって、意識レベルが上のものが下のものをコントロールしているわけでは全くありません。この霊的反映度の違いが、次元の違いにも対応しています。「本来の自分」は、次元は無限に続くが、自分に把握できるのは16次元までだと言いました。今の人類に把握できるのは9次元までであって、そこまでの領域をうっすらと感じ取ることができます。人類は5次元から7次元までの領域でいわば「修業」を積み、さらなる進化を目指していくわけですが、そこでの意識状態というものが我々の常識を超えたものとなっていくみたいです。我々は物事を善か悪か、白か黒か、といったように二分化・二極化する傾向がありますが、意識状態というのは、進化とともに「徐々に」変化していきます。特にここで問題としたいのは、個別意識(パーソナリティ)と集合意識(トータルセルフ)との関係です。我々はこれはどこかで別物ととらえるところがありますが、実際には一体であって、進化が進んでいくとこれらをパーソナリティとしての現実とトータルセルフとしての現実を「同時に」体験するようになるみたいです。例えば、我々の現実世界でも、ヒマラヤ聖者と呼ばれる人々がいるみたいですが、そういった人々の場合、個別意識だけではなく集合意識としても体験を実際に積んでいます。ただ、より進化が進んでいくにつれて、個別意識での現実体験よりも、集合意識としての現実体験のほうが多くなっていくみたいです。その比率が、その存在が住む次元によって徐々に変化していくことになる、こういうことのようです。創造主(すべてなるもの)は、あらゆる次元に「自分」を生みだしましたが、なぜ我々はこの密度(density)の濃い現実世界に存在しているのでしょうか。「本来の自分」によれば、それは現実世界と自分とが本来は一体不可分のものであることを学ぶためだと言います。ただ、現実がなかなか思い通りにならないという風に負荷をかけてトレーニングしているわけです。あらゆる現実との出会いは、それ自身、自分で自ら生み出したものだということを、私たちは自らの体験を通して学んでいる真最中です。そのようにして密度の濃い領域で学んだことをいろんな存在が持ち帰り、全体としての体験に生かしていきます。いわば、私たちは一人一人が「探究者」であり、前線にいる「体験者」なわけです。「本来の自分」によれば、「すべてなるもの」は、躍動感、情熱、希望、熱意、そういった表現で部分的に表すことのできる「何か」を常に、どこかで、表現しようとしています。その一つが私たちです。「本来の自分」は言います。「現実世界を直視することです。今あなたがたの目の前に現れているのは、あなたがたの内面の現れです。大切なことは、それらから目をそむけるのではなく、それらを直視して、自分の内面からのものであると受け入れることです。」「戦争とか犯罪とかネガティブなものがたくさんありますけど、それらをなくすために何かしなければならないんでしょうか。」「日々できることは限られていても、まずは身の回りのことから取り組んでいきます。そして、徐々に視点を広げていきます。「我々が日々できることは限られています。」「何か積極的なことをしなければならないということではありません。人によって持てる技量や能力、おかれた環境も異なるからです。現実を直視し、体験を通して現実が自分で作り上げていることを学べばそれで十分です。」世の中のあらゆる出来事を自分との関係で見直すことができるかどうか、これが大切だということみたいです。その上で、現実は自分が作り出していることを、自分が直面する現実の中で日々体験して味わっていくことなんだろうと思います。最後にちょっと前にお話した、バシャールとセスについて少しだけ補足したいと思います。「本来の自分」はこう言います(ちなみに「本来の自分」は私の場合、女性性として現れてきます。)「セスはわたしの一部です。」セスという存在は、輪廻転生から抜け出して、ヘミシンク的にはI/Tスーパークラスターの領域の多くを共有できるように進化した人格存在で、キリスト意識と深い関わりがあると「本来の自分」は言います。それに対して、バシャールは、「異次元からの使者」と言った印象を送ってきます。「本来の自分」は、バシャールの目的は、「人類の意識レベルを上へ引き上げること」にあると言います。セスとバシャールは、住む次元が異なってはいるものの、同じ目的を持っているように感じます。以前私は、バシャールは進化も退化もしていないと感じたことを「本来の自分」に投げかけてみると、それはあなたの進化スピードと同じなので、あなたから見ればそのように見えただけだと言った印象を思念のまま送ってきました。つまりこういうことです。現実世界において、たとえば同じスピードで走っている電車があるとします。その電車の隣の路線に全く同じスピードで走る電車が現れた場合、あたかも自分の乗った電車から見て向こう側の電車は止まっているように「見えます。」「本来の自分」曰く、「あらゆる存在は常に進化しています。」これはもとをただせば「すべてなるもの」が常に進化していることに由来するのかもしれません。
2013.01.15
今回は、バンパイア(吸血鬼)への対処法について少し書こうと思います。バンパイアとは普通、西洋的なものとして知られているドラキュラなんかがありますが、ここでいうバンパイアとは、非物質的なエネルギーを吸い取る存在のことです。これは、吸い取られる人の自覚がある場合とない場合とがありますが、エネルギー的に敏感な人であれば気付くことがあるかもしれませんが、たいていは気付かないと思います。基本的にはそういった存在にはかかわらないほうが能力に自信のある方であっても無難だと思います。初心者でもできる対処法としては、アファメーションやリーボール等がありますが、今回は上級者向けの対処法をご紹介したいと思います。ヘミシンクをしてもしなくてもいいです。まずは、自分のエネルギーフィールドをチェックします。自分自身の姿をマルチロケーションで眺める感じです。その存在が何者か見当がついている場合には、その存在が自分のエネルギーフィールド内にいないか意識を集中します。おそらくは、ご自分なりのやり方というものがあるとは思いますが、私の場合、存在の有無を直感的に把握した後、ビジョンとしてその存在の有無を知ります。あくまでも私の場合という風な言い方になってしまいますが、私の場合、直観的に知るのか見ているのか、それともその両方なのかあいまいなところがあります。さらにその存在にフォーカスしていきます。たいていは、自分のエネルギーフィールドに対して、その存在がなんらかの形で影響力を行使しているのがわかってきます。たとえば、最近私にあった例で言うと、ある時私が自分のエネルギーフィールド内をサーチしていると、ある存在が私の頭頂部の辺りにしがみつくようにしてまとわりついているのが感じられてきました。頭頂部と言いましたが、実際には頭から30cmくらい上の辺りです。現実世界ではそこは空間ですが、非物質界ではエネルギーフィールドがあります。そこはどうやらエネルギーの通り道になっているようなのですが、ある存在はそこにしがみつきエネルギーを吸い取っていたみたいです。なので、私はエネルギーバーツールを使ってその存在との接続を断ちきりました。念のため、その存在の出所を探ってみると、その念を送っていたと思われる人物の顔がはっきりと表れてきました。非物質界でその存在は私の存在に気付いたんですが、私はその存在が私のもとを離れる見込みがないことを知っていたので、その存在を源に送るように意図しました。ここで言う源とは、自分自身の源でもありますが、もっと大本のあらゆる存在が生まれ出たと思われるソースです。念の強い相手の場合、下手に対応するよりも、相手にフォーカスするのをやめて(手放して)、相手の存在もろとも源に送り返して愛に変換してやるのが最も有効です。ちなみに、今回私は第7チャクラに存在がからみついているのに気付きましたが、場合によっては他のチャクラのポイントに来る可能性もあります。ですから、どのチャクラに来ているのかをまずはサーチしてみる必要があります。サーチの仕方は、チャクラに意識を向けるよりも、その来ている存在に意識を向けるほうがやりやすいと思います。普段、自分のエネルギーフィールドをチェックする機会なんてありませんが、最近疲れやすかったり、妙に人の念がからみついてくるなと思われた方は、ぜひお試しください。
2013.01.14
私たちは、自分自身の源から自由に情報やエネルギーを取り出して日々の生活に生かすことができますが、その一つのツールとしてガイドとのコンタクトが有効であり、そのコンタクトのコツを前回お話させていただきました。ガイドを人だと考えると、「会うにはどうすれば・・・?」などとなっていくわけですが、ガイドはよく言われるように自分自身であり、もっというと自分自身の内面の意識であり、今の自分よりももっと大きな「自分」である。このように考えると、ガイドとコンタクトをとることは、自分自身の情報源から情報を引き出してくることであって、顕在意識にのぼらない大部分の潜在意識とつながることであると考えれば、ガイドの存在も疑う必要もなくなってくるように思います。自分自身は本当に存在しているのだろうか?と疑う人はいませんよね。それと同様に、ガイドは本当に存在しているのだろうか?と疑う必要もなくなってくるわけです。だって、自分自身の内面であり、潜在意識であり、情報源なのですから。自分自身の内面から情報を引き出してくる場合(すなわちガイドとコンタクトをとる場合)、それは自分自身からの情報なのですから、顕在意識によって情報にゆがみが生じていないとしても、完全・完璧な情報であるとは限らないことが多いです。したがって、ガイドを試すようなことを聞いたり、宝くじの当選番号を聞いたり、なくしたもののありかを聞いたりなどといった、いわゆる現世的なこと「ばかり」をガイドに聞くことによって、それが本当にガイドからの情報かどうかを確かめてから信用しようとすると、下手をするとどんどんガイドからの情報の信頼性を自分自身の中で失っていきます。大切なのは、誰のどんな情報でも、参考程度にとどめることだと思います。たとえガイドからの情報であっても、鵜呑みにはしない姿勢とでも言いましょうか。ある意味、主観的な情報に対する客観的な対応が求められてくるように思います。バランス感覚の大切さとでも言いましょうか。「所詮、自分自身からの情報なんだし参考程度にとどめよう。」、このくらいの感覚が適切だと思います。「ガイドから、仕事をやめたほうがいいと言われたんだけど、どうしよう・・・」いえ、それは、自分自身(顕在意識)で考えるべきことです(笑)。ガイドからの情報を参考程度にと申し上げた、あくまでも一例です。 Some rights reserved by Letting Go of Control
2013.01.13
私もかつてヘミシンクを熱心にしていたので、オフ会でヘミシンクを始めたばかりの方に出会うとうれしくなったりします。大阪で言われた中に、ヘミシンク中に映像を見るもののその意味がわからないというものがありました。私自身、ヘミシンクを始めた当初はこういうことがよくありました。なんらかの映像を見ているのですが、それが何を意味するのかさっぱりわからないというパターンです。今になって思えば、体外離脱していたことが多かったと思っています。映像にも二種類あって、夢のような映像を見るパターンと、どこかしらない所の景色をじっと眺めるようにして見えてくるパターンです。前者は潜在意識の中に閉じ込められていた映像を見ている可能性がありますが、後者の場合、私は体外離脱している可能性が高いと考えています。私がよく見たのは、家の中の映像と瓜二つなのですが、微妙にどこかが違っているというものでした。あるいは、ヘミシンクを良くしていた頃には、体外離脱中の自分の体を知覚しつつ、第3の意識が非物質界で体験しているという体験もありました。つまり、肉体があって、その30~50cmくらいの上空に第2の身体とでもいうべき霊体があって、それとは別に非物質界に意識がありなんらかの体験をしているというパターンです。私の場合、体外離脱中の第二の身体自体が見えるというよりも、その第二の体に意識が戻る瞬間があり、その時に霊眼から見える室内の景色を見るというパターンでした。その見える景色が、肉体の目の視点ではなく、通常ではあり得ない位置からの目線なのです。肉体のあるすぐそばということもありましたし、天井のすぐそばに目線があったり、あるいは歩いて行かないと見れないようなところに意識の目だけが移動しているということもありました。ただ、私の非物質界での体験の特徴として、これらの体外離脱している意識とは別に、さらに意識だけが抜けて高次元の領域に行きそこで体験をしていたということがあります。ヘミシンクで体験を積まれたいという方は、体外離脱から入られた場合、そこからちょっと自分の意識を開放してやるのも一つかもしれません。つまり、体外離脱にはあまりこだわらずに、ということです。あと、体験を加速させ、また見えた映像を判断するうえで欠かせないのが、ガイドとのコンタクトですが、これについてもオフ会で話が出ました。最近私は、ガイドと言っても知覚しないことが普通です。以前はよく人の姿カタチで現れて来たんですが、もうそういうことはほとんどなくなりました。ぶっちゃけた話、何も知覚していなくても、何も感じられなくても、ガイドと会うことができます。でも、その状態をガイドとコンタクトしていると思えるかどうかは、ひとえに自分がガイドとコンタクトしていると「信じ切れるかどうか」にある気がします。客観的証拠なんてありませんし、その存在からなんらかの情報をもらったところで、だからといってその存在がガイドである(あるいはガイドとコンタクトをとっている)という証拠にはなりません。でも、証拠なんていらないんです。証拠がなければ納得できないというのは、一種の思考上のクセのようなものだと私は考えています。なんの知覚、感覚もなくても、ガイドとコンタクトは取れる。そのことをご紹介したくて、今回の記事を書いている次第です。あとは、自分なりに検証方法を確立する必要があります。それには、体験を記録してデータを集めていくことです。それによって、自分にとっての体験のクセというものが徐々に明らかになっていきます。ちなみに、今回お話していることは、ヘミシンクをされる方を想定していますが、ヘミシンクを用いなくても全く同じです。大事なのは、「その方法でうまくいくと信じ切れるかどうか」にあります。信じきれないと、自分で作り出す現実を否定する方向に「自分から」行きます。自分が作り出したものを否定せずに、「妄想でもいいから受け入れる」ことが、体験を加速させる秘訣だと私は思います。Some rights reserved by Trostle
2013.01.12
オフ会の時に、過去の歴史上の人物(徳川家康、織田信長、豊臣秀吉)は、現代に転生しているのかどうか見てほしいと言われたので、少しだけお話したいと思います。結論から言うと、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉の中で、現代に転生している人はいないと感じます。徳川家康については、トータルセルフ全体で転生している存在というのが感じられませんでした。中間生というような感じで、人格存在全体が調整期間というか休んでいるような感じがしました。織田信長については、生前の影響なのか、キリスト教関連の転生があると感じます。ヨーロッパです。イギリスとかフランスとか。「バテレン」そして「バチカン」の文字が見えます。もしかしたら宣教師のような職業についているのかもしれません。豊臣秀吉については、「農民」の文字が見えます。これはバランスの問題のようです。将軍という地位は、そのトータルセルフの進化にとって必要性があって選ばれているのですが、それによって何らかのカルマを背負うこともなく、単なる一職業とみなされるみたいです。ですから、他にも違ったタイプの経験をすることが進化のためには必要らしく、秀吉の場合にはそれが農民らしいです。あるいは、もし将軍にならなかったら・・・といったパラレルワールド的な人生なのかもしれませんけど。今回見た三人については、徳川家康のトータルセルフだけは普通とはちょっと異なっているように感じられましたが、あとの二人については、誰にでもあるようなたくさんの転生を重ねる中の一つのパーソナリティであるという印象でした。ここで私のハイアーセルフから一言言われました。「転生することあるいはそれを知ることが重要なのではなく、今の人生でいかにして現実世界を生き切るかが重要なのだ」と。この現実世界を生き切るという言葉には深い意味があるのですが、私の表現力ではなかなか伝えきれないと思います。読者の方々におかれましては、文字通りの意味でとらえていただければ幸いです。今後より深く洞察していき、また私なりの発見ないしは展開がありましたが、ご紹介したいと思っています。私の考える輪廻転生について、最後に少しお話したいと思います。我々は皆、今自分が自分であると考えているのが唯一の自分ではなく、それ以上の意識の広大な意識の範囲を含めて「自分」であると考えます。それがすなわち、トータルセルフ(=オーバーセルフ)です。転生とは、トータルセルフ内の意識で、今自分が自分であると考えている自分「以外」の別側面の自分が、さらなる経験を積むために現実世界に転生してくることを指すと考えています。この様子を、シルバーバーチはダイヤモンドに例えています。ダイヤモンドの表面にはたくさんの面がありますよね。その一つ一つの面がパーソナリティすなわち今我々が自分であると考えているちっぽけな自分であると考えます。そして、ダイヤモンド全体がトータルセルフ(オーバーセルフ)です。各々のパーソナリティの人生は「同時に」進行しています。我々は、自分が自分であると考えている自分が体験している人生だけではなく、他の自分が体験している人生も、情報として共有します。我々が共有するのは、情報のみであって、体験は個別にしています。ただし、セスなどの信頼できる情報によれば、我々が自分であると感じている自分もまた、さらなる進化を遂げていくと一種の「幻想」であると捉えることになるみたいです。つまりは、本当の「自分」は別の所に別の形で別の意識状態で存在しているのだということです。ですから、輪廻転生についても、我々が考える以上に難しくて奥深い問題があるのだと私は考えています。Some rights reserved by maf04
2013.01.11
ミクシィのほうから、前回の記事についてコメントをいただきましたので、ご紹介したいと思います。>この話によく似たことを今月4日だったかに知人から聞かされました。 それというのは、風水で東西南北を守るといわれる四神のことで、それらは、もともと同じ根源的存在から来ているというのです。それをあえて昔の人たちが、東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武と架空の動物をあてたと。 そのときは、当然だと思って聞いていたのですが、こうして、いみみさんが取り上げて下さると、何故、別の動物にたとえる必要があるのか、そこに何の意味合いがあるのかなど、改めて、不思議に思ってしまった次第です。そして、私たちは、それらをまさに全く別物として捉えているのです。。。続いて、私の記事における「認識上の問題」に関連して、>認識が現実を作り上げているという側面がある以上、この認識上の問題は、実は奥深い問題を秘めている この認識上の問題って何でしょう? 私が思っているのは、 4神が根源的には同じ存在だったとしても、3次元的に物質の形をとったものではない。 しかし、私たちがそれをエネルギーとして認識した場合、それぞれ違った種類として捉える。 その、私たちが「エネルギーとして認識できる」ということは、私たちが根源と繋がる、すなわち、全ては一つで一緒だということがわかるということ。 ようやく、エネルギーを認識して全てが根源と繋がっているというのがわかったのに、何故、4神を別個のエネルギーとして認識してしまうのか?ということです。 最初から、物質・肉体という殻のないエネルギーという存在なのに、です。一つには、我々の意識が限られた範囲しか「意識できない」ことが考えられると思います。意識の範囲は広大であり、本来は障壁などない、ほぼ無限に続くネットワーク構造をなしていると思われます。そのような広大なネットワーク構造の中で、我々はほんのごく一部だけを「自分である」と認識しています。つまり、有限の意識構造の中からほぼ無限の意識構造を把握しようとすることにそもそも無理があるように思います。加えて、より問題を複雑にしているのは、我々が有史以来、あるいはその前から、ある時点において選択した、自分だと感じているものと他とを分離して認識・把握するといった、根本的な認知の仕方とでも言うべき問題があります。例えば、精神世界でよく言われるトータルセルフというのがあります。これは、現実世界で感じられるちっぽけな自分だけではなく、過去生・未来生も含めた、そして他の現実世界での自分、そして他の確率的偶然(パラレルリアリティ)に支配される自分といったものすべてを包含した、総体としての「自分」を指しています。言い方を変えれば、我々は今ここで自分だと感じているものだけを自分だととらえていますが、そうではなく、ぶっちゃけた話、我々にとって他人と思える存在も「自分」の中に含まれてくるのだということです。そうなってくると、自分とそうでないものの区別というものも徐々に希薄になって行きます。あらゆる側面において、我々の考える「枠組み」というものがあって、我々は自分達が無意識に設定したその「枠組み」の中で生きています。別の表現をすれば、「信念体系」と言い換えることもできるかもしれません。それが良いとか悪いとかではなく、そのような様々な信念体系に支えられて、我々は今ここにおいて目に見える世界と対峙し、あらゆる現象を把握している、そういうことなんだろうと私は考えています。ですから、認識というのはものすごく深淵な部分を秘めていて、自分自身の存在やあり方にもかかわってきます。実際にはあらゆるものはすべて原子と原子核からできていてすきまだらけなのに、なぜ物体として「認識」できるのか。目の前にあるものだけを見ても、なぜそのように物が見えるのかを我々は疑問に思うことすらありませんし、それは私を含め多くの人間にとって「自然のなせる技」としか言いようのない部分があります。ただ、物理的現実世界にある物体ではなく、非物質的なエネルギーを問題とした場合、エネルギーは形を自由自在に変えることができやすくなるという性質があります。例えば、あるエネルギーについて、それを英語で翻訳したり、ドイツ語で翻訳したり、フランス語で翻訳したりしたとしても、そのエネルギー自体の本質的部分には変化はなく、いずれの言語であってもその中身に変わりはありません。今ここで申し上げた英語やドイツ語やフランス語が、我々の認識にかかわっていると考えられてもいいかもしれません。例えば四神の例で言うと一つの自然霊的エネルギー存在が四つに分かれて「認識されてくる」。そのように考えられてみてはいかがでしょうか。 Some rights reserved by Walt Stoneburner
2013.01.10
関西国際空港から梅田に向かうバスの中で、太陽を見ながら思ったことを書きたいと思います。太陽を見ていると、「観音」の文字が浮かんできました。これは、観音菩薩の「観音」のようです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E9%9F%B3次に、太陽からくるエネルギーに意識を向けてみました。ハートにきます。やわらかい、あたたかみのあるエネルギーです。再びエネルギーを情報に変換してみます。すると今度は、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」といった印象が感じられてきました。言葉は知っているものの、両者の意味を知らなかったので調べてみると、ヒンズー教では、「創造の神」、「繁栄の神」、「破壊の神」を、三神一体(さんしんいったい)としてとらえ、神がその役割に応じて3通りに現れると考えるらしいです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%A5%9E%E4%B8%80%E4%BD%93それで、ヴィシュヌは繁栄の神、シヴァは破壊の神にあたるのだとか。面白いな~と思いつつ、私は同一のエネルギーが持つ様々な側面、別の表現をすれば、「言葉は全体のうちの一部しか表現できない」のだろうなと感じ取っていました。思うに、古代の人は、同一の根源的な存在を見て、それを別の神として知覚したんだと思います。現代においては、あらゆる神がこのような同一の根源的存在の一側面であるのだという考えはめずらしくはないと思いますが、今回改めて私自身そのように感じた次第です。言葉が問題ではなく、その背後にある中身というか存在が問題なのだと。でも、考えてみると不思議です。今の時代は、アセンション(次元上昇)によってさらに振動数が高くなるとともに(こういった考えには異論も十分考えられるように思います)、人々の思考もより柔軟になって、互いを尊重し合う時代に入りつつあるように感じられます。つまりは、方向性としては、ワンネス(一元化)に向かうと言われる時代です。しかし、人間がひとたび何かを知覚・認識すれば、さきほどの観音、ヴィシュヌ、シヴァのように、根源的存在一つをとってみても分離する方向へと導かれていきます。それがいいとか悪いとかではなく、ただそういった認識上の根本的な問題があるのだという事実について述べています。認識が現実を作り上げているという側面がある以上、この認識上の問題は、実は奥深い問題を秘めているように思います。 Some rights reserved by Public Domain Photos
2013.01.09
はじめに前回の内容を補足します。明言することにちょっと抵抗があったのであいまいな表現になってしまったんですが、もともと自然崇拝思想をもっていた日本文化に、異文化からの自然崇拝がとりいれられたという部分についてです。私が言いたかったのは、日本にもともとあった自然崇拝思想とは別に、朝鮮から日本神話のもとになる人々が入ってきているということです。その人々が、日本に点在する神社や古墳と深く関わっているということです。つまり、歴史に残っているのは朝鮮から入ってきた文化で、日本古来の自然崇拝は形としてはほとんど残っていないか忘れ去られてしまっている可能性があると私は見ています。ですが、もともと日本人は自然崇拝的思想を好みましたから、異文化であってもそれは徐々に日本に根付いていったんだと思います。私は天皇家がもともとは異文化出身の人達であるとまでは言いませんが、リーディングで見る限り、そういった雰囲気は感じられます。ただ、ここでフォーカスしたいのは天皇家についてではなく、現存している神社という自然崇拝の象徴の中に、異文化からの影響が存在しているのだということです。(前回の話の続き)我々はよく、何かが良いとか悪いとか、二極的な見方を好みますよね?誰にでもそういった経験はあると思います。ですが、物事の真実は、そういった二極的な見方とは別の所にある気がします。これは、バシャールが言う「物事に意味はない」といった考え方に似ている気がします。それ自体に良い悪いはなく、それを決めた時点でそうなる(現実化される)とでも言いましょうか。今回お話した能古島の歴史についても、それ自体に良い悪いもないと思います。本来のエネルギー的側面(土地から龍、龍から地球意識といった非物質的なエネルギー的側面)とは別に、その地にまつわる人々の歴史があり、大本の存在とは分離した状態で物事が進められていく。そのこと自体に良い悪いもないのだということです。あとで詳しく見てみると、この地に宿った「龍」というのは、B.C。2~3世紀頃にエネルギー体としてこの地に実際に「やってきて」いると感じられます。ちょうど、今回お話した、朝鮮からたくさん人々がやってきた頃です。その時期に、人ではない高次の存在が、もしかしたら人を介して、この地にやってきているということです。ですが、高次の存在とは全く別のレベルで、我々はああでもない、こうでもないといろんな人生を送ります。そしてそういったなかでも、我々は自然崇拝という形で高次の存在と昔ながら触れ合ってきたと感じます。それが、直接的には山や川、海、等を通して、間接的には、神社などの象徴を通して感じられるということなのかもしれません。さらに、人によっては、あらゆるものは自分であるといった体験をする人もいるかもしれません。そういった気付きを秘めつつ日常生活を淡々と過ごしていく中に、自分らしさを思い出させてくれるきっかけがあります。それが、ある時は、人との出会いであったり、またある時は場所であったりするのかもしれません。オフ会で美容師をされておられる方に再会したんですが、その方と、日本人の多くは自分らしさを忘れているという話になりました。日々の生活にロボットのように埋没しすぎていて、自分らしさを見失っているような状態です。その美容師の方はいわゆる霊能力者で、本業の美容師の仕事とは別に無料で霊能相談やヒーリングをされているらしいんですが、その方がいわゆる心霊現象が映ったビデオを見せてくれました。皆にその方が撮られたというビデオをぜひ見てほしいというのです。その映像に映っている中には、非物質的エネルギーが原因であると思われるものが確かにありました。しかし、私が直感的に感じ取ったのは、それとは別のところにあります。その方はよくUFOを見られるんですが、その方の魂の遍歴が非常に多岐にわたると感じられること(シリウス、プレアデス、アークトゥルスなどの多次元的宇宙存在としての経験)、そしてその方は、何らかの形でご自分の魂とのつながりのある存在をご自身が引き寄せていること、見せていただいたビデオには、ご自身の守護神的な龍神が現れていることなどを感じました。この方にフォーカスしていくと見えてくる白い二つの球体。それは、この方の魂の故郷のようでもあり、また横に並んでいる様子は無限大∞のようでもあります。無限大∞の領域は、人間の非物質的エネルギーフィールドでもあります。自分らしさを思い出すきっかけ。いたるところにあるんだなと思います。それを、今回のオフ会を通して感じた次第です。Some rights reserved by nishioka
2013.01.08
オフ会最終日に神社巡りをしたんですけど、印象的なものを1つご紹介したいと思います。今回、九州のある島にみんなで行き、そこにある神社を訪れました。私は歴史的な事情は一切知らない状態で、何か面白いところがありそうだということなので皆さんと行ったんですが、私なりに得るところがありましたので、メモ的に残したいと思います。そこは、能古島(のこのしま)という所です。フェリーで島に入り、歩いて神社まで行きました。15分くらいでしょうか。神社はとても小さな所でしたが、ハートチャクラにうっすらと響いてくるようなエネルギーを感じます。 私はエネルギーを見るよりも情報を見るほうが得意なので、今回はそちらからお話したいと思います。知人がエネルギーの大本(おおもと)だと言ったポイントで、皆で光の柱を建てていた時のことです。 私は、この神社に宿るエネルギーの由来を見ていました。まず感じられて来たのは、土地の神と言いますか、自然霊的な存在です。もともと日本人は、土地や自然に対して崇拝する気持ちを持っていたと感じます。その土地に住ませていただくにあたって、土地そのものに感謝をささげる気持ちです。現代では忘れてしまっています。一番わかりやすいのは、落ち着いた気持ちで、太陽や月、海、山や川を見た時に感じられる気持とでもいいましょうか。その対象が何かは人によって違いがあるかもしれませんけど、人工的ではない、自然にある対象物に対して感じられる何かです。今からお話することは、科学的に調査・証明された事実ではなく、私のリーディングに基づく主観的事実であることをご承知置きください。訪れた場所にある神社は、土地そのものに感謝をささげる気持ちが発端で生まれた印象があります。それと共に、龍の存在を感じます。この龍はおそらく、地球意識の象徴だと思います。土地という象徴・対象を通してその奥にある地球意識につながっている、そんな印象です。太陽からというより、「地球との結び付き」が「土地との結び付き」として感じられる所です。時代をさかのぼってみます。「B.C.2~3世紀」の印象があります。「弥生時代中期」の文字が見えます。この地はとにかく、朝鮮からの「影響」を強く受けている所のようです。あるいは我々の通常の感覚に照らせば「侵略」と置き換えてもいいかもしれません。なんと言う表現をとろうが、それは私はどうでもいいことだと思っています。ただ、誤解を避けるために、そして私なりに感じられた事実を情報として伝えるために、以下では単に「影響」とだけ記します。その時代、日本は、朝鮮からの「影響」を強く受けていました。朝鮮から、未開の地だと当時朝鮮の人々が考えていた日本に、どんどん人々がやってきました。その人々は、この能古島(のこのしま)を拠点にした(日本に入る前にまずはこの能古島を立ち寄った)ようです。当時この島は、日本に入る窓口のようなところで、今風の感覚で言うと「貿易の拠点」のような活気ある所だったみたいです。朝鮮の人々は、日本に「影響」を与えるためにやってきたんですが、同時に様々な優れた技術や知識、文化をもたらしました。その一つが、なんらかの優れた存在に対して崇拝する気持ち、特に私にはそれが自然霊崇拝だったように感じられます。そういった崇拝が、もしかしたら神社として各地に残っているのかもしれません。いえ、正確には、神社という言葉を使うのはふさわしくないと思います。神社になる以前の、名もない石碑のようなものといったほうがいいかもしれません。今は次元を超えたつながり、すなわちムー大陸などとの関係は度外視して、この地から感じられる印象をリーディングしています。では、日本にやってきた朝鮮の人々は、もともとはどこからやってきたのでしょうか。私には「アリューシャン列島」の文字と、「シベリア」の文字が見えます。朝鮮半島は中国大陸とは陸続きですよね?ですが、この巨大なアジア大陸には二種類の民族がいたと感じられます。一つは騎馬民族、もう一つは農耕民族です。古代の朝鮮の人々は、古くは各地を転々と渡り歩いて行く民族で、アリューシャン列島やシベリアのほうから流れて来たようです(遊牧民族という表現が適切かどうか迷います。移動は数百年あるいはもっとそれ以上といったようなかなり長い時間的スパンがあると感じますし、一概に遊牧民族であると断定できない感覚的部分があります。)。それが、農耕文化が栄えるとともに、朝鮮の地に定住したようです。この朝鮮に定住した人々にも、二種類の人々がいたようです。一方は好戦的、もう一方は好戦的ではない人々です。好戦的ではない人々は朝鮮の地で農耕をして暮らすことを好みましたが、好戦的な人々は新しい土地を求めました。その人々が、日本にやってきたようです。これが、今回訪れた能古島で私が感じ取った大まかな印象です。
2013.01.07
ミクシィのほうから、エネルギーが高いとか低いとかはどうやったらわかるのですかというご質問をいただきましたので、私なりの見方になりますがお答えしたいと思います。 私の場合、経験則からそのように判断しています。 一般に、高波動のエネルギーは、ハートチャクラやハイハートにきます。心地よいエネルギーです。 ただし、人の念の場合、ハートチャクラにくるのですが、気持い悪いですし、ひどい場合ですと吐き気がする場合もあります。 ですから、あくまでも私の場合ですが、反応するチャクラとそのエネルギーの感じられ方を総合的にみて判断しています。 一般に、非物質界から得られるエネルギーや情報というのは、誰によってえられたものであってもそれは主観的なものであって、現実世界で我々が重視する客観性をもったものではないという特徴があります。 ですから、取得する側(ブログ等を書く人)も、それを見る側(ブログ等を読む人)も、そのことを分かった上でそれらの情報に接する必要があります。 例えば、霊能者に見てもらった場合でも、霊視の結果、「あなたのご先祖様には、○○という方がいて、そのことが現実世界のあなたに悪い結果を与えています。」といったようなことを言われるかもしれませんし、あるいは、「あなたの前世には、~という人がいて、そこであなたはこんなひどい目に遭いました。それが今のあなたに影響を与えています。」などと言われるかもしれません。 あるいは、自分でヘミシンク等を使って見た場合であっても、ある存在に出会い、それがガイドなのかそうではないのかといったことや、ある情報を得たとしてそれが自分にとっての真実味を帯びているのかどうかといったことも、な是そうだと思うのかと問われれば、「そう感じられるから。」と答えざるを得ないところが性質上あります。 これらはすべて、主観的事実であり、客観的に証明可能なものではないからです。 そこを踏まえたうえで、非物質的情報に接する必要があります。 私も以前は、客観的な検証可能性というものを重視していた時期がありました。 また、それまでの習慣から、物事を論理的・分析的にみる所がかなりありました。 したがって、非物質的情報についても、どこかで客観的な検証可能性というものを得られるのではないかと思っていました。 ですが、今は、そもそも「客観的」に証明する必要はないと考えています。 本来の「自分」から、エネルギーや情報を引き出して、現実世界をより心豊かに過ごせて幸せであればそれでよいのではないかと思うようになりました。 でも、この辺の考え方も、人によって違うのかもしれません。 ですから、私が以前、リーディングで見た内容について検証してくださいと申し上げていたのも、客観的な検証可能性を求めたのではなく、その人にとっての主観的検証を求めていました。あるいは、私の情報が主観的事実にすぎないことを分かった上で読んでいただきたかったのです。 以上、お返事になっているかどうかわかりませんが、私自身はこのように考えています。
2013.01.06
今回は大阪では都合2回、九州では年明けに1回のオフ会がありました。九州ではいろんな所にみんなで行ったんですが、最もすばらしいエネルギースポットだと感じられた所がありました。それは植物園なんですが、そのエネルギーが素晴らしかったです。雪国育ちの私としては、真冬に、外で花が見られたり土の上を歩いたりすること自体驚きだったんですが、それとは別の驚きがありました。建物内のビニールハウスの中に入ったんですが、いろんな植物がある中で、植物間の連携が素晴らしいのです。ビニールハウス内全体が強い高次元の波動に包まれているんですが、中でも特に強いところが2~3ありました。チャクラ的には、やはりここもハートチャクラにしみ渡るような奥深い、それでいて持続力の強いエネルギーです。エネルギーも五感の延長として我々は感じ取ることができます。それは、我々が普段最も利用しているのは五感であり、五感を通して我々は他者との交流を行っているからに他なりません。日常で左脳を頻繁に使っているような時には、ともすれば普通にやり過ごしてしまうような、「感覚」があります。五感の中の分類で言うと「触角」、に当てはまるかもしれません。温かい感じ、心地よい感じ、ドキドキする感じ、じんわりと響くような感じ、なんだかわからないけど涙が出てくるような感覚、そんな言葉にならないようなものです。それは、変性意識に入らなくても、感情が落ち着いた状態であれば、うっすらと感じられて「つながって」きます。それが、多次元的なエネルギーの通り道であるチャクラと呼ばれる人体の霊的器官で感じられることがある、そういった話を今しています。その植物園で、特にエネルギーが強いという場所を紹介された時のことです。私はどこからともなくハートチャクラに流れ込んでくるエネルギーを感じていました。しかし、不思議なのは、どの植物からきているのか特定するのが難しいのです。つまり、そこにある植物全体がエネルギー的に共鳴していて、歌うように響き合っていたのです。入り方は、最初はハートチャクラで感じ取ったエネルギーをきっかけに私もその共鳴に同調していきましたが、次のポイントでは、視界一面に咲く花畑がありましたので、そこでは別のやり方をとってみました。一つのきれいな花を見て、そこに意識を向けフォーカスしていき、植物全体のエネルギー的共鳴につながっていく方法です。これを体験して感じたのは、入り方には決まったやり方はなく、要は意識の世界での出来事なので、そこになんらかの方法で意識を向けさえすればよいのだということのようでした。知人とも話したんですが、サボテンの波動はやはり非常に高かったです。あと、今回訪れた場所は、動植物園ということで、植物園の隣に動物園もあったんですが、そこで初めてライオンの咆哮(ほうこう:ほえる声)聞きました。オスとメスの2匹が隣接するオリの中にいるんですが、それが食事の前後に咆哮する習性があるらしいんです。ライオンの習性らしいんですが、それを私たちが行った時に偶然にも目撃することが出来ました。ものすごいエネルギーです。ハートチャクラに響き渡ってくるんですが、オスライオンがほえるとメスライオンもそれに応じるようにほえます。エネルギー的にみてみると、双方のほえる声そのものにエネルギーが宿っていて、それが互いの声に共鳴してエネルギーが増幅されているように感じられました。さきほどの植物園でのエネルギーも、ハートチャクラに来るんですけど、それとは微妙に異なります。何が違うか、私には表現できませんけど、とにかくライオンの咆哮の持つエネルギーと植物のそれとは異なっています。でも、両者ともに高波動なんです。以前、シュタイナーは、ライオンの呼吸は生命力そのものだといった表現をしたことがありましたが、それをその咆哮を聞いた時に思い出した次第です。
2013.01.06
火の国から帰ってきました(笑)。今日から仕事です。今回の年末年始の旅は、大阪、九州でのオフ会と、いままでにない展開となりました。私から見てどのような意味を持っていたのかと言えば、私と縁のある方と直接お会いして、様々な話をさせていただいたということなんだろうと思っています。あと、シャンバラは大雪でした(笑)。あと、これだけはちょっと触れておかなければならないなと感じたことがオフ会でありました。それは、私がヘミシンクは不要だといった意味についてです。私個人は、ヘミシンクはもう全く必要性を感じていませんし、モンロー氏に対しても特別の思い入れといったようなものはないです。私は今回の一連の流れで、セスの本とモンロー氏について触れました。それとの関連で、私は飛行機に乗って上空を飛んでいる間、モンロー氏にコンタクトをとってみました。その印象が以前とはガラリと変わっていました。以前は写真でよく見るようなおじいちゃんの姿で現れてきていたのですが、今回は非常に若い姿で映画俳優のような姿で現れてきました。なぜか、奥様の印象も感じられてきます。モンローさんはこう言います。「もう、君たちの時代なんだから、好きなようにしたらいい。」モンロー氏は、もうモンロー研やヘミシンクに対して特別な思い入れといったようなものはないのだと直感しました。いわゆる、執着がないといったような印象です。私がモンロー氏から感じられたのはそれだけでしたが、要は好きにしたらいいんだと思います。ヘミシンクも、今始められた方にとっては必要性があって導かれたものです。自分にとって大切だと感じられた気持ちを大切にしていただきたいと思います。オフ会の神社巡りで感じたことは、次回以降にお話したいと思います。
2013.01.05
あけましておめでとうございます。大阪でお会いした皆様、ありがとうございました。すごく深い話ができ、とても楽しいひと時を過ごさせていただきました。話したいことがたくさんあるのですが、まだ旅の途中です。人と会うことは、想像以上にわくわくしますし、学ばせていただくことがたくさんありました。明日から、火の国に行きます(笑)。楽しみです。
2013.01.02
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