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太陽放射線の強さと、耳鳴りの強さが最近になって妙にリンクしている今日この頃です。別に大した問題ではないのですが、人間とはつくづく不思議なものだなと思います。話は変わって、今日少しうつらうつらしていますと、感覚的になんですけど、この現実世界というものを日常生活での感覚とは別の捉え方で感じ取りました。言葉で表すとなんてことはないんですが、あえて表現すればこんな感じです。たとえば、我々の目の前には宇宙人が頻繁に現れてきたりはしませんよね?(笑)なぜそうなのかというと、それは我々がそういう現実を選択していないからです。つまり、我々は今、宇宙人とは頻繁に交流しないという現実を選択した結果、今ここにいる。これを、理屈ではなく、感覚的に感じ取ったとで言いましょうか。我々が今こういった現実世界に直面しているのは、ほかでもない、我々がそれを意識的・無意識的問わずなんらかの形で選択したからなのだ、そういったことをC1に意識を置きつつ多次元的な「目」で感じ取ったのです。それを教えられたのは、私が今選択していない現実を垣間見た時でした。これ以上離すとちょっと我々の常識を超えることになっていくのですが、話のついでなので話したいと思います。夢物語と思って聞いてください。くれぐれも言っておきますと、以下はすでに今ここに存在している、私が選択していない現実世界のことですからね。私は、よくはわからないのですが、なんらかの災難に巻き込まれたようでした。気がつくと、私は誰か、はっきり言いましょう、我々が宇宙人と呼んでいる存在によって、宇宙船に引き上げられて、宇宙船とおぼしきところに救出されたようでした。そこには、私がよく知る2人の人物もいて、私と同じように宇宙人によって救出されたようでした。私は、これらの様子と夢見の状態で感じ取りました。私にはそれは、今自分が体験している現実とは別の現実であって、今ここにおいてすでに存在している現実であるように感じられました。つまり、現実とは、常に我々の選択の連続によって生まれているのだ、そういうことを感じとった次第です。なぜ今私達が宇宙人と頻繁に会って交流していないのか。今回の一連の体験で、私にはそれがごくごく当たり前のことに感じられたのです。ただ単にそれは、我々がそういった現実を「選択していないから」なのだ、と。Some rights reserved by SteFou!
2012.01.28

ここ最近の気づきを皆さんと共にシェアリングしたいと思います。最近思うのは、特に人間関係の中で、自分が対面する相手に自分自身の中にある別側面を見ていることがあるということです。いろんなタイプの人間と出会いますが、その出会いは偶然のものではなく、自分自身の中に眠るポジティブな側面やネガティブな側面を再確認するために、まるでその出会いそのものを自分自身で(あるいは共同作業として)多次元的観点からアレンジしているのではないかと思われるほどです。ですから、最近特に思うのは、出会いは大切にしたいなということです。いろんなタイプの人間がいます。自分にとって心地よい人やそうでない人。でも、どのタイプの人の中にも、自分と同じ性質がどこかにあって、そういった自分自身の性質を教えてくれている、そんな気がするのです。人は、人とのかかわりの中で成長します。もちろん、人以外にも、自分が直面する環境すべてがそうなのだとは思いますが。そう考えますと、与えられる環境は、たとえそれがどんなものであったとしても、すべて貴重なものであり、かけがえのないものなのではないか、そんな風に最近感じています。自分自身を再確認させてくれる存在、それが他人(=「自分」)なわけです。素晴らしい出会いに感謝します。 Somerights reserved by Sids1
2012.01.23

人生とは旅のようなものです。様々な経験をして、自分自身を磨いていきます。我々は今、自分自身を磨いているところです。本当の「自分」は、やすらぎの中にいます。そこが我々がやってきたところなのですが、今は現実世界の中に生きていますから、そのことを忘れています。進化のためには何が必要なのでしょうか?「今ここ」に生きることです。生きながら、我々は顕在意識と潜在意識の両方で、自分自身を磨いていきます。「自分」とは何か?このことをもう少し深く考えていきませんと、たとえば輪廻転生についてもうわべだけの知識で終わってしまう可能性があります。同じ「自分」から派生した別の自分は、確かに過去幾多の生で生きていたと感じます。でもそれは、今私が自分だと感じている自分とは違う自分です(笑)。まあそれは置いておいて、私はより大きな自分との対話の中で、驚くような話を聞かされました。ちょっと我々の想像を超えているのですが、全体は部分であり、部分は全体であるという事実が、多次元的観点から見た場合にあるようです。そういった視点から見ますと、輪廻をやめるかどうかも自分で決められるといいます。なぜだかわかりませんが、今の私にとっては、部分が全体となって輪廻をやめるという決断がトータルセルフ全体の意思となるらしいのです。ただこれは、あくまでも一つの例としてお聞きください。他にも様々なパターンがあるはずですし、一人一人で置かれた状況はまちまちですし、その決断は異なってくるはずですから。私は、もう地球上での輪廻を終えて、新たな進化の旅に出る時に近づいていると感じています。それは、ちっぽけな私が考えていることなのか、それとも全体としての「自分」が考えていることなのかはわかりませんけれども。トータルセルフ視点に自分を置いてみますと、何かが足りていないという自分はいません。満たされている自分で満ちていて、そこから出てくる答えは、たとえばですが、へミシンクは不要、ヒーリングも不要、前世を知ることも不要、ガイド拝見も不要・・・といった具合になってしまうのです(笑)。もちろん、それが必要と思うのであればやったらいいとは思うのですよ。やはり根底にあるのは、自分にとってそれが心地よいかどうかということに最終的にはなってくるのかもしれません。私にとって重要だと感じられることは、「今」を生きること、ただこれだけです。Some rights reserved by Naomi Ibuki
2012.01.20

今日は、鏡の世界のお話をいうのを少ししたいと思います。比喩というかたとえ話として聞いてください。我々の世界とは鏡の世界のようなものです。皆さんは、ブルースリーの映画を見たことがありませんか?(笑)私もうろ覚えなのですが、映画の中でブルースリーが敵と戦っています。その時、最後のボスと戦う時に、建物の中にある迷路のようなところで、全身が映る鏡がいくつも目の前に出現してきます。鏡には自分自身の姿しか映りませんが、鏡が何枚も微妙にずらして配置されているために、何人もの自分の姿が映っている、そんな状況です。鏡には自分自身の姿が映っているのですが、逆にそれしかないために、自分が今どういう状況に置かれているのかわからなくなっている、そんな感じです。多次元的に見れば、我々が今置かれている今日今日も、まさにそんな状況なのです。我々が置かれている状況とここで言っている意味は、我々がこの現実世界で生きていること、それ自体です。性別や国籍、年齢、その置かれた状況等は一切問いません。人によっては覚醒できていない、「目」が開かれていない、そんな表現をとるかもしれません。ここでいう覚醒や「目」を開くためには、瞑想やへミシンクや前世を知ること、ヒーリング、その他各種占い等々、そういったものをすることとは無関係です。自分自身の中にある、あらゆる可能性を開いていくためのスイッチ、それを入れると意図するだけです。自分が変わろうと意図することで、自分が内面から変わり、それによって自分自身も変化し、自分の置かれている状況も変化していきます。これが、鏡の世界から抜け出る方法だというのです。瞑想や変性意識に入っても、それ自体が鏡の世界です。つまり、外面に何かを求めたとしても、幾重にも鏡の世界が折り重なっていくだけなのです。内面から変わろうとする意思の力、これによって初めて人は自分自身変わることができます。たとえば、ガイドに会うということはどういうことなのかと叡智を持った存在に聞いてみますと、それは一種の「分離」なのだと言います。つまり、ガイドに会おうとする時点で、鏡の世界にどんどん入り込んでいきます。では、どうすればいいのか?あなたはどうするのか?と聞かれました。そこで私はこう答えました。「自分が今直面している現実世界を生き切ること、それが鏡の世界から抜け出る唯一の方法だ。」と。つまり、「今」に生きて、自分自身の存在を噛みしめていく方法です。皆さんは、どうしますか?Some rights reserved by titanium22
2012.01.18

今回は、地球の意識との対話からお話ししたいと思います。夢物語と思って聞いてください。今から2万5千年ほど経た新生地球でのある高次との対話です。その新生地球というのは、今の地球にとてもよく似ています。イメージ的には、なんとなくエメラルドグリーンに象徴されるような、そんな雰囲気というか色合いがぴったりです。そこももちろん、今の現実世界と変わらないリアリティがあります。私が垣間見た世界は、自然あふれる光景でした。私はその時、意識の上で、その未来の地球に女性の高次と共に訪れていました。今回私は、地球の源付近を目指していました。直感力を駆使して、光輝く方向性を目指していたのです。しかし、いつまでたっても源には到達できません。その時私は気がつきました。今の私にとっての源とは、「今ここ」の現実なんだと。次の瞬間に、私は高次の助力を得て、どこかに飛び立ち始めました。そしてたどり着いた場所が、2万5千年後の新生地球だったのです。今回高次と話した内容は、大枠では2012年のアセンションがらみです。人類は、現実を共同創造していると考える見方もできます。私なんかはそういった考え方をよくします。しかし、今回聞いた高次の話では、現実とはもっと個別的なものだというようなことをいいます。具体的には、「人によって」無数のバージョンの現実世界が用意されていて、そのおのおのの人にとってのバージョン世界が、現実世界だといったような話でした。どちらかというと、バシャールの考え方に近いのではないかなと思いました。ですから、我々が同じ世界で暮らしているように「見えても」、それは、その人その人にとってふさわしい世界が個別的に用意されていて、無数のバージョンの世界がその人その人に応じて瞬時に創造されている、そんな感じです。最初からどこかに個別的な世界が用意されているのではなく、まさに瞬間瞬間に個別的現実世界が形成されて我々は「今ここ」に生きている、そんな印象がありました。2012年のアセンションがらみといったのは、こんな視点からです。我々がアセンションだと考えているものには移行期とよばれるものがあり、それは今年の春から秋にかけてだということ。その時に生み出される世界というのは、あくまで個別的なものであって、一人一人にとって異なるということ。今の我々の世界は、個人レベル、集団レベル問わず、様々な争いに満ちていますが、争いのない世界にも我々の意図次第で移行可能であること(争いとは、進化にとって必須のものではなく、選択の問題であること)。我々が今後進む世界(それがいかなるものであろうと)は、「全体」からみれば仮想現実のようなものであって、それが唯一絶対のものではないこと。ただ、それを生きる者にとっては、まぎれもなくそのものが直面する現実こそが真実であること。2012年前に亡くなった人も、その人にとってふさわしい過程を経て進化していけること。でも、それと我々が考えているアセンションとは異なること。地球意識本体と今の人類は、今後別々の方向性に進む可能性があること。人類は今後、さらなる霊性進化を経た後、他の存在の霊的進化を手助けするようになる可能性があること。そこには、新生地球で新たに生まれてくる人類や、他の宇宙存在までに及んでいく可能性があること。などでした。私は、今の現実世界を楽しみたいと思っています。今後どのような進化の過程を経ていくにせよです。我々の今の世界は、お世辞にも地上天国とは言えません(笑)。貧困、争い、殺戮、略奪、等々。でも、それは我々人類が長い時間をかけて生みだしてきた世界なんです。以前高次から言われたことがあります。それは、人類は数千年にわたりネガティブな世界にどっぷりと浸かってきました。ですが、それこそがまさに、人類が今後飛躍的に進化できる可能性を秘めているのだと。つまり、陰極めれば陽となるといったように、陰と陽の融合が、爆発的な進化を生みだすのだということです。我々は今まさにそういった状況に生きています。ですから、私は「今」楽しみたいのです。Some rights reserved by tlindenbaum
2012.01.16

>今年も コソ~っと 覗かせて頂きますね(笑)(⌒~⌒)/いつでもブログに遊びにいらしてください!(2012/1/6「神との対話」)>新年おめでとうございます。新春スペシャルですね。なんとなく、ジンとの会話を思い出して、なるほどねえと思いました。http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-164.htmlこんなオイラでも神かい?と言っているのは表層意識?とても実感出来ないけど、なんとなく2012初頭にふわわしい記事でした。ヘミシンクが薄っぺらっぽい? うう、1年半CD聴いていて何にも感じないワダスでは、頭の方が薄っぺらか。記事をいつもありがとうございます。前回は、新春スペシャル企画ということで(笑)、我々自身の高次の存在との対話(「神」)からお話ししました。実際にはもっと多くのことを話しているのですが、現実世界に戻った時にかなり忘れてしまいます。しかも向こうの世界で理解できていても、こちらに戻ってくるとよくわからないこともあったりします(笑)。そういえば、去年の新春スペシャル企画も、我々自身との対話からでした(「ハイアーセルフからのメッセージ」)。私の高次と書いたかもしれませんが、おそらくは私がアクセスする高次元の存在は皆様の高次でもあるはずです。今後は皆様おひとりおひとりがそのような高次元の存在と無意識レベルあるいは意識的にアクセスできる時代に入っていくように感じています。(ミクシィから)>新年明けましておめでとうございます。 本年もどうぞ宜しくお願いいたします(笑) >明けましておめでとうございます。 今年も宜しくお願い致します。 穏やかな年を願っています。 >お久しぶりで~す お元気ですね?何よりです お会いしていなかった近年~。色々な出来事があり~その変動を楽しんでおります お互いに~<ゆめ>に向かって~迷う事無く、感謝の言葉と共に~歩んで行きましょう お時間ありましたなら~遊びに来て下さいませ~~~ >明けましておめでとうございます ごぶさたしてますが、今年もどうぞよろしくおねがいします 北海道に来られることがあったら、ぜひ連絡くださいね >明けましておめでとうございます いつも素敵な写真とブログに心癒されてます 今年は大変な一年になるとあちこちで囁かれていますがあまり気にせずに み~んなワクワク楽しい一年になるといいですね 今年もよろしくお願い致します >おめでとミクシィからの皆様、コメント本当にありがとうございます。皆様にとっての一年が素晴らしいものでありますように。今年は2012年、出発の年ですね。どこに行くのでしょうか?それは、皆さんご自身に聞いてみてください(笑)。昔、こんなことを言った人がいます。「過ぎし日のことに悔いず、まだ来ぬ日をあこがれず、取り越し苦労をせず、今を生きれば、身も心も健やかである。」これを言ったとされているのは、ブッダ(仏陀)です。歴史上のブッダも我々自身の一側面であり、他方で我々同様一人の人間でした。ブッダその人をリーディングしたことは過去に数回ありました。ブッダのパーソナリティは、過去にフォーカス49にあると書いた記憶があります。しかし、それはごくごく一面的な見方でしかありません。前回お話しした「神」の場合と同様、ブッダが「どこに」存在するのかを特定するのは困難なところがあります。ブッダを神格化するつもりは毛頭ありませんが、ブッダと我々が呼んでいる存在を深く見つめてみると、我々の意識の奥深く(高次の領域)に存在するのは確かです。ですが、それは別の言い方をすれば、我々自身の姿でもあります。もう外の神(外在神、先生、教祖様)をあがめる時代は終わりました。これからは内なる神を見出す時代ですから。Some rights reserved by Tony Wan Kenobi
2012.01.11
(2011/12/20「「今ここ」からすべては始まる」)>今サイババの「神の詩」という本を読んでいるのですが、今日のお話と同じようなことが書いてあったのでびっくりしています。それによると広大な物質的な宇宙は心の宇宙の一部でしかなく、またそれは因果の宇宙の一部でしかなく、神=真実の自分=アートマはそれすらも超えた存在だというお話でした。また真実のお話楽しみにしています。私もサイババの本を20歳くらいの時に読んでいた記憶があります。あまり内容は覚えていませんが、ごく当たり前のことを説いていたように思います。もっとも、当時の私には難しくて理解できないことも多かったに違いありませんけどね。サイババも一人の人間です。そもそも高次元の存在であればあるほど、人間の世界には干渉することは許されませんから、人間界に生まれてきている時点で、まだ人間界に干渉できる程度の進化レベルであったということになります。サイババについてはいろんな憶測がありますが、その人がどこにつながっているのかはたいして問題ではなく、その人物自体が問題であると私自身は常々考えています。そしてもっと大事なのは、「自分は」どうするかだと思います。これからは自分の中に「神」を見る時代ですから。>はじめてメッセージを書かせていただきます。最近imimiさんのブログに添付される写真がとても綺麗で、心が爽やかになります。心が開かれすがすがしい風を感じます。いつもありがとうございます。写真を選ぶ際には記事を書く以上に神経を使います(笑)。多くの人が癒されるような写真の掲載を心掛けています。(「変わろうと思った時に、人は変われる」)>私もちょうど昨日から強い葛藤が始まりましたが、徐々に収まりつつあります。偶然とは思えませんでした。シンクロしているのでしょうかね。何をするにおいても、自分が目にするものにはより大きな「自分」からのなんらかのメッセージ性があるように思います。読者の皆様にとっての私のブログももしかしたらそうなのかもしれませんね。>21日にあるワークショップに参加してから、自分の中に、凄く強い、とっても根深い葛藤があることに気付き、それに苛まれています。そのワークショップに一緒に行った人は『自分にはもう葛藤はない』というような立場でアドバイスをしてくれているのですが(少なくともそんな風に受け取れるような感じで、本人にとってはそんなつもりではないのかも知れませんが・・・)『そんなの、嘘だろう?』と、その人に対して猜疑心の塊のような気持ちに陥ってしまっています。人は、覚醒の寸前まで、葛藤を手放せないものなのでしょうか。私はそんな気がしているのですが、imimiさんはどう思っていらっしゃいますか?もし、以前からこのことについてブログで書かれていらっしゃるようでしたら、申し訳ありません。人間生きている限り、なんらかの葛藤はありますよ(笑)。完全に浄化「しなければならない」、ということではありませんから。もっと言うと、肉体というスーツを身にまとっている時点で、肉体の生存に関わる部分でのなんらかの葛藤からは、生きている間はのがれられないでしょう。でも、それでいいんだと思いますよ。ありのままの自分を見つめて、肩の力を抜いてみるのもいいかもしれませんね。>imimiさん、こんばんは。 いつも深いメッセージありがとうございます(笑) imimiさんの所に赤いケーキのマークがついてました。 明日、お誕生日ですね。おめでとうございます(笑) >自分のほうが変わることによって、その変わった自分にふさわしいバージョンの相手が自動的に変化して自分の前に出現してきます。 確かにそうですね。 「過去と他人は変えられないけれど、未来と自分は変えられる」、 昔の人は、この深い意味を理解していたのかもしれません(笑) 他人に頼らず、自らのハート(真我)に従い、自らの道を切り開いていく。 以前、imimiさんの日記にもあった、ブッタの「自灯明」 「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生きなさい」 と同じ・・・ >変わろうと「決めた」ときに「変われる」 私も心からそう思います。 頭だけではなく、心の底から、魂の叫びとして「変わりたい」と願えば、 人に出来ないことは何もないですね(笑)そうですね。ブッダの説いたと伝えられる自灯明は、現代ではすっかり忘れ去られた感があります。苦しい者(私達)と、それを救ってくださる者(神・仏)という分離の中で多くの人は生きています。しかし、そういった分離から目覚め、自分をよりどころとして生きなさいと説いたのがブッダなわけです。前世占いやヒーリング、リーディング、超能力、その他なんでもいいですが、何かに対する依存心からそれを求めても、「何か物足りない」的な空虚感は決して満たされることはないように思います。むしろ、求めるのを「やめて」、自分にあるものを振り返ってみます。たとえば命(いのち)です。命があるからこそ、さらなる可能性を探求できる、これほどすばらしいことはありません。あたりまえに生きることを通して自分自身というものを見つめていくことは、前世を知ることよりもずっと「今ここ」に自分自身をフォーカスさせます。「神」としての自分の生きざまがどこか遠くの世界に行かなければ得られるものではなく、まさに今自分が直面している現実から得られるというのは、本当に驚きです。
2012.01.11
(2011/11/16「瀧原宮と伊雑宮(その2)」)つい最近、お伊勢様また別宮(わけみや)詣りしたものです。その直前にこのブログにたどり着きました。瀧原宮全体の印象は、精妙な気に満ちていることは感じられましたが、それ以外はさっぱりでした(笑)。しかしながら日本にこういうところが現存していて、それらが守られているというのが或る意味貴いことだなあと思ったりします。内宮でも橋を渡るとそこはもう神のいらっしゃる世界。気の流れが違いました。良い体験をさせていただきました。瀧原宮はいいところですね。古き良き時代を感じさせる場所ですね。この前、温泉に行ったんですが、その近くに神社がありましたので参拝させていただくと、地球が見えてきました。めずらしい神社だなと思いました。でも、良く考えてみると、神社とは私たち自身を映す鏡のようなものであり、私たちは高次元の観点からみれば地球意識や太陽意識の一部分でもありますからね。自分自身とは何者なのかを感じさせてくれる場所、それが神社なわけです。(12/4「次元は素粒子のように振る舞う」) >いつも興味深いお話ありがとうございます。ミクロの量子力学とマクロの宇宙論の考えが融合してきている今の物理学は非常に面白いですね。われわれの存在は多層的に織りなす意識の揺らぎなのでしょうね。そうみたいですね。マクロ的な見方とミクロ的な見方は、今後いろんな分野で融合されていくかもしれませんね。(12/7「アセンションのための努力は不要」)>お勧めの映像のほかにいろいろ関連動画を見ました。話し方がどこかのサイトで聴いたセスの話しっぷりと元気な感じが似ているなあと感じました。未来を読み取るときはエネルギー状態の方向を見ているので決まっていないと話してましたが、imimiさんの言われた「葱坊主」状態なんでしょうね。私の理解力では把握しきれないのですが念を健やかに保つことが大事かなと思っています。バシャールは担当違いで日本にはいけないけど日本で活動は行われていると話してましたがそれはimimiさんのことですかね?今後のご活躍を楽しみにしてます~。今の我々にはエネルギーを見る(感じる)習慣というのはありませんが、古代において日本人はごく当たり前のように誰もがシャーマンとしての資質を備え、自分の内からくるエネルギー(太陽神)を感じ取っていたように感じます。そういったことも今後(弥勒の世)は当たり前になっていくのではないかなと思います。バシャールの情報を降ろしている人は、私の他にもたくさんいますよ~>「状況は問題ではない。私の在り方が問題だ。」バシャールが話す映像を観ていつも感じるのは、自分の周りに在るモヤモヤした空気が瞬く間に清々しく掻き消されるという感覚。上記のマントラをバシャールの波動から聴く事ができて良かったです。今の私に的確に効果のある言葉です。上記のマントラを発すると、目に見えないモヤモヤした空気が霧散するようです。これは一種のアファメーションなんでしょうね。私も何度か試しましたが、とても威力のある言霊でして、すぐに強烈な手放しが起こってきます。言霊というのは生き物でして、自分にとってふさわしい現実を引き寄せてくる力を与えてくれます。自らの思いと、魂から欲する思い、それと現実世界での言動(行動)の一致は、自分自身にとっての現実を確かに変えてくれます。我々は自分にとってふさわしい現実を引き寄せているのだということを実感できます。>すばらしい動画を紹介していただきありがとうございます。今回のバシャールさんの動画をきっかけに、他のバシャールさんの動画を順番に拝見していくと、バシャールさんが、お勧めする本を動画で語ってましたhttp://www.youtube.com/watch?v=KPI9ylSCmREなんとバシャールさんが、「神との対話」本は100%明快です。読んで見てください」とコメントしているではありませんか^^とみなが夢駆さんが、以前のプログで「2010年06月07日(月)のタイトルがものすごい体外離脱体験・・・で語られた内容が「そこで、僕は、あの“神様”に会いたい…と思いました。最近僕はニール・ウォルシュ著の『神との対話』という本を読んでまして、このニール・ウォルシュ氏と対話している存在が本当に“神様”かどうかはわからないけれど」http://ameblo.jp/femiohji/entry-10556510473.html僕的には、「ハンプティ・ダンプティ」の正体は「神との対話」で語られた神様と感じてます。imimiさんが信頼しているバシャールがお勧めしてる「神との対話」ですから、是非ともimimiさん~!「神との対話」の神様と対話して頂ければ幸いです^^私は「神との対話」はまだ読んだことがないんです(笑)。なので、本から感じられるイメージというのをよく知らないんですが、前回お話ししたような感じに私は受け取りました。まあこれも数多くある見方のひとつにすぎないとは思うのですけどね。ちなみに、バシャールも「神との対話」における「神」と深いかかわりがあるように感じられます。上のほうは皆つながっていて、「神」もバシャールのハイアーセルフ的存在なのかもしれませんね。あくまでimimi説です(笑)。(2011/12/15「自分自身の直観を信じること」)>忘年会のシーズンですね。飲み会に行くと、居心地が悪くて、翌日は心がスッキリしない1日を過ごします。なので今年は忘年会には参加しない事にしました。飲み会に行っても自分は喋らず、ただ時間が過ぎるのを待っているような状態です。精神的な向上には興味があるのですが、誰が何した、どこに行った等の雑談的内容は、興味がほとんど無いのです。なので会話も見つからず、自分は人付き合いを避けています。こういう性格を思い悩んでいるわけでは無いのですが、時々、もっと人と付き合わないといけないのではないかという、考えがよぎる事もあります。興味の無い、世俗的な話題を頑張って話して、親睦を深めなければいけないのではないかと。でもそれは自分の心に反する事にも思えるのです。自分は何かのグループ、派閥に属する事を恐れています。そういった物に属する事で、公平な心の判断力が鈍るような気がするからです。なので、できるだけ独りでいるようにしています。それが自分の直感が選んだ生き方なのですが、世間一般から見れば、自分の殻に閉じこもっていると思われているのかもしれません。はたしてこれで良いのかと、時々迷いが出てくる事があります。いいんじゃないですか?(笑)良いも悪いも自分で決めることですから。自分が良いと思えば良いんです(笑)。他人の視線は気にすることはないです。所詮他人は他人の世界の住人にすぎず、自分のリアリティに真の影響を与えられるのは自分だけです。むしろこれからは、自分にとって心地よい感情や感覚を大切にする時代ですから。
2012.01.11

新春スペシャルということで(笑)、久しぶりに非物質的な側面からみた我々自身についてのお話をしたいと思います。ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」についてのリーディングです。今回は、意図は明確でした。「神との対話」における「神」とは何者なのか?それを探るべく、私はいつものように僧侶のガイドに意識を合わせました。しばらくすると、私は海岸を歩いていました。服装は白っぽい感じで、容姿は西洋人のように感じられます。私が沖のほうに意識を向けると、すぐに光速で海岸すれすれを飛び始めました。やがて海岸の景色は見えなくなり、光のトンネルのようなところを抜けると、私はどこかの部屋の中にいました。目の前にテーブルとイスがあり、誰かと対面して向き合っているように感じられます。なんとなくですが、ニール・ドナルド・ウォルシュに似た人物のように感じます。すぐに私は、その時私が置かれている状況が理解できました。これは「仮の」姿・状況なのだと。パソコンで言うと、インターネットに接続するためのパソコンソフトのようなものです。私は本質部分を見通すように意図(思念)すると、巨大な光輝く球体が見えてきました。私は、目の前にいるニール・ドナルド・ウォルシュに似た人物とその背後にある巨大な光の球体とコンタクトを取り始めました。まずは率直に、あなたは何者かと尋ねてみると、「私はあなただ。」という思念が瞬時に返ってきます。彼?にとっては、あなた(あなたたち)は私(私たち)なのです。彼?にへミシンクでいうところのフォーカスレベルについて聞いてみました。すると、彼?は、我々が考えるところのフォーカス49(7次元)に相当する存在のようです。ですが、私は同時に彼?とのコンタクトの最中、我々が考えるところのフォーカスレベルが非常に「うすっぺらい」ものであることも直感的に感じ取っていました。彼?に言わせると、フォーカスレベルやその各段階にあるとされている様々な領域も、すべて人間自身が生み出した産物にすぎないというのです。つまり、そのようなものがあると思えばあるし、ないと思えばありません。これは我々の常識をはるかにこえることなのですが、同じことはあらゆることに当てはまってきます。我々にとってのあらゆる現実というのは、高次の我々を含めた我々自身の信念や認識が生み出した結果なのであって、別の信念や認識のもとでは別の何かが生まれてきます。ですから、我々が直面しているリアリティは、突き詰めれば、「たまたま」このような結果となっているにすぎない、それ自体が絶対唯一のものではない、こういったような表現しにくいものなのです。ですから、彼?がフォーカス49に存在するというのも、単なる目安とお考えください。実際にはそれをはるかに凌駕する我々の知らない超現実的世界や事実があるはずです。今回私は、彼?に人類の起源と、今置かれている状況、今の私たちにとって大切なことなどについて聞いていきました。まずは人類の起源からです。よく、人類は猿から進化したなどと言われることがあります。ですが、それは本当なのでしょうか?こんなことを考えるのはたぶん私ぐらいかもしれませんが(笑)、夢物語と思って聞いてください。その昔、地球はまだ半霊・半物質だった頃があるように感じられます。複数の星系から、今の人類の元となった存在達が地球上にそのままの状態で降り立った時がありました。その当時は、半霊・半物質ですから、そのようなことが可能だったわけです。彼らはその当時から、我々とは異なった次元にいましたから。でも当時は、地球のほうが彼らの波動に近かったのです。彼らが地球に降り立った時にすでに、今の物質的な地球や我々が誕生することは初めからわかっていました。なので、その時のことを人類がいつでも「思い出せるように」、人類の意識の中に神的な部分をやどしました。ゲリーボーネル氏の言い方ですと、ダイアードとトライアードの複合的な体です。何度か確認しましたが、トライアードだけが神に通じるわけではないみたいです。ダイアードとトライアードの複合が、神的なわけです。したがって、人類というのは、別に猿から進化したわけではなく、「はじめから」人類だったのです。もっとも、当時は半霊半物質ではありましたが。それから、次元降下により今の物質的な地球が形成され、それにともない人類自身も次元降下し、「今ここ」に我々が存在しているわけです。人類は今後、300年くらいかけてゆっくりと進化の階梯を歩んでいくようです。その根本的な部分は、「意識の改革」だと言います。我々はだれでも、自分自身の中に「神との対話」に出てくるような神的な部分があります。それとのつながりが、今度300年くらいかけてゆっくりと進行していきます。ここでいう「神」というのは、創造主のことではありません。彼?に聞いてみると、神とは「真実の自己」だと言います。ただそれだけです。本来は別に神秘的なものではなく、人類は神(=創造主)というフィクションを作り出し、様々な形で脚色しているだけなのです。では、300年たった後からは、人類はどうなるのでしょうか。今から300年たつと、人類は自分自身が神であることを思い出すようになります。もちろんここでいう神とは、「真実の自己」のことです。いわゆるUFOというのも、中には乗り物としての飛行物体もあるのかもしれませんが、その大部分はマカバすなわち我々自身の姿を別の側面から見ているだけなのだと言います。我々にとっての物事の常識というのは、我々自身が長い時間をかけて生みだしてきた非常に一面的なものにすぎないのであって、それとは別のところに、数多くの真実が無限に存在しています。無限にというのは、大げさに言っているのではなく、可能性レベル、我々の思考形態や認識、様々な信念体系によって物事が実際に作られていくという側面においては、その真実の数は実際に無限なのです。今の我々にとって大切なことは何かと聞いてみると、「あなたは私」であるという気づき、「真実の自己への目覚め」、「真実は自分自身の中にあるという視点」、そういったものが混在となった思念が返ってきました。その時の私の印象としては、「目新しいものは何もない。でも、本質的なものはたった一つに通じている。」というものでした。「今ここ」で私たちが直面している事実で、何一つ大きな問題というのは感じられません。ただそれがあるべくして存在している、そんな言葉にできない感じです。物事はそれ自体が問題ではないわけです。それをどのように我々が受け止め、それに対して反応していくのか、そこに学びがあります。今あらゆる人が2012年のアセンション(彼?によればそれは世界の変化ではなく我々の意識の変化だと言います)についてや、様々な世界規模で起こる出来事について、いろんなことを言っていますが、彼?と対話していると、そんなことはどうでもよくなってきます。どんな事実に直面していようが、それ自体に特別な意味があるわけではなく、我々自身がどういった「心持ちで」日々を過ごしていくか、そちらのほうがより大切になってくるわけです。まさにそれが我々自身の進化の方向性を決める原動力となっていきますから。運命などは存在せず、自分自身で切り開いていけます。それ自体が「運命」なわけです。彼?と話していく時に、そのような運命のもつ可塑性を、まるでそよかぜが吹くかのように感じました。いろんな人がいろんなことを言います。どれももっともらしくて、どれもまた別々のことを言っているように感じられます。ですが、よくよくその本質的部分を感じ取り、吟味してみますと、実は同じことを別の視点から言っているだけだということがあります。今回もそんな感じがしました。「神との対話」における「神」とは他でもない、我々自身なのです。 Some rights reserved by Grand Canyon NPS
2012.01.06

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。年末ずっと忙しくて更新できませんでした。ごめんなさい。いよいよ2012年ですね。素晴らしい年でありますように。コメントもお返事できなくてすみません。アカハナさん、いつもコメントありがとうございます!他のみなさんも、もう少しお待ちくださいね。皆様にたくさんの幸せがありますように。 Some rights reserved by mezuni
2012.01.03
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