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http://www10.plala.or.jp/shosuzki/korea/timetable/timetable1.htmhttp://www.han-lab.gr.jp/~cham/ajiwau/chrono/right.html1918年 上海で「新韓青年党」結成。1919年 三一運動後、上海の「大韓臨時政府」は李承晩を「大統領」とした。1920年「朝鮮日報」と「東亜日報」が創刊される。東亜は韓国資本「湖南グループ」による経営。1921年 上海で李東輝議長(臨時政府国務総理)率いる「高麗共産党」結成。1924年「義烈団」団員による二重橋テロ事件。1925年 臨時政府で李承晩「大統領」辞任、金九が「国務総理」として指導。1927年「新幹会」結成。1930年 臨時政府の金九ら、「韓国独立党」を結成。その行動部隊として「韓人愛国団(党)」を組織。対日テロ計画。1932年 桜田門外で李奉昌(イ・ボンチャン)、上海虹口公園で尹奉吉(ユン・ボンギル)が爆弾テロ実行。1933年「朝鮮中央日報」が創刊される。呂運享が社長就任。1935年 平安北道国境から左翼ゲリラが侵入、東興鎮で市街戦。1937年 間島から左翼武装集団が侵入。普天堡(ポチョンボ)を奇襲し、駐在署などを破壊。1940年 朝鮮日報と東亜日報、廃刊。臨時政府が「韓国光復軍」を組織。1945年8月15日朝8時 呂運享は総督府を訪れ遠藤総監と会談。遠藤総監は「遅くとも17日午後2時までにソ連軍がソウル入りするだろう」とし、治安維持のための協力を依頼。正午 日本が無条件降伏。午後 呂運享は青年・学生2000名を動員し、「建国青年治安隊」を組織。同時に行政の受け皿として朝鮮建国準備委員会を立ち上げる。副委員長に中道・保守の安在鴻を据え、独立運動経歴の持ち主を中心に中央執行部を形成。 右派の宋鎮禹は政権への参加要請を拒否。8月16日午後建国青年治安隊はソウル市内を示威行動しつつ、警察署のほとんどを接収。総督府庁舎の接収は拒否される。その後全国に162の地方治安隊が誕生。午後3時10分建国準備委員会副委員長の安在鴻は「国内・海外の3千万同胞に告ぐ」と題しラジオ放送。「建国準備大綱」を発表。呂運享は「雅量を示さなければならない」として国民の自制を呼びかける。(「建国準備委員会」を結成した呂運享は、左派・社会民主主義者で、2年後に暗殺された。インドネシアにおけるスカルノの位置を占める。)■日本人への報復を制する方針は、独立運動側がラジオ放送で住民に要請したものであり、良識ある市民はこれに従い、日本人の帰国を(必ずしも無償ではなく、さほど好意的ではないにせよ)助けたのであって、文師の回顧談は、さほど自慢できるような美談ではない。(1)9月11日 朴憲永は「朝鮮共産党」の再建を発表した。10月13日、平壌で極秘裡に開かれた会議で同党北部朝鮮分局が設立された。翌14日の祝賀集会に金日成が初登場した。(朴憲永は朝鮮戦争の前に「南朝鮮労働党(南労党)」の責任者となったが、米軍側協力者とされて、1955年、北朝鮮で処刑された。 現在の「朝鮮労働党」は北の「新韓民主党(新民党)」と共産党が統合したものである。)新しい政党として、9月に「韓国民主党(韓民党)」が結成され、11月に呂運享の「勤労人民党」が結成された。韓民党は湖南グループの支援を受け、李承晩を支えることになった。解放後、8月18日「高麗民主党」、 28日「朝鮮民族党」、9月4日「韓国国民党」、7日「国民大会準備会」、「重慶臨時政府及び連合軍歓迎準備委員会」などが結成され、これらが合流してできた唯一の自由主義政党(反共勢力)である。また、独立党は民族主義・中道保守の立場を守り、保守政党はこの2つとなった。10月16日 李承晩帰国。11月23日 金九など臨時政府一行帰国。■文青年は、帰国した独立運動の幹部と会うことなく、ソウルの自宅に妻子を残したまま、金百文のイスラエル修道院に入り、さらに北へ行った。彼らと会いたくない事情でもあったのだろうか。(2)この年の12月1日にようやく東亜日報が復刊された。翌年1月6日にソ連占領軍が人民委員会委員長に康良■(カンヤンウク)牧師を任命した。3年後、1948年3月8日、独立党の金九が、北朝鮮に対して南北会談を要請し、韓国民主党を除いた政党の全てがこれを支持し、金九ら代表団が平壌を訪問した。■金九の容共ぶりを見ると、東京でテロ組織(金九の独立運動)の連絡係をしていた(という)文青年が1946年にわざわざ共産圏へ越北したのも理解できる。(3)1948年の7月、李承晩が初代韓国大統領に選出された。5月の選挙では与党・韓国民主党の得票率は13%であった。翌年1月に大韓国民党(申翼煕)と統合し「民主国民党」となった。■李承晩大統領の与党「自由党」が発足したのは、さらに3年後の1951年12月のことで、文師(31歳)は釜山あたりで働いたり原理原本を書いていたのであるから、自由党創設を担う党綱領委員であったとは想像できない。(4)■文師がこれら自由党の要人から信用される人物だったとすれば、1955年7月に政治的弾圧を受けるいわれはなく、李花女子大事件を政治謀略の一種として説明することは難しい。(5)■文師が放免されてから2年後、CICの情報将校・朴普煕中佐が加入して右腕となってゆくが、1960年4月に「自由党」李承晩政権は、信任を失って退陣してしまった。(6)成約時代講義 http://www.geocities.com/MadisonAvenue/8203/seiyaku/chap4.htm・・・・韓国が日本から解放された後、李承晩を中心として組織された自由党の党設立綱領委員会のメンバー5人の中に抗日運動に功績のあった文鮮明師が入っていた。文師は当然のこととして、神の摂理によって未来の韓国を建てようと提案したが、その内の二人の牧師が反対したために提案は実現しなかった。・・・・
2006/08/28
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清帝国は欧米列強の侵略に屈しつつあり、東洋人が自らの伝統文化を継承するためには、清朝の庇護を仰ぐのではなく、自立しつつ協力する必要があった。隣邦協和と「東亜連盟」すなわち東アジア連帯によって、欧米列強に対抗すべしとする論が先にあり、これに対して、「興亜」を目指すとしても、まずは各国が自立するために「脱亜」「入欧」が必要なり、とする論があった。(今も続く議論である。)朝鮮(李)朝は「南蛮毛唐」との交際を忌避した(かつ、ロシア以外の欧米列強にとっては利用価値が低かった) 結果、先進諸国に学んで近代化することもできず、国力が弱く、国防力強化ができなかった。英国及びユダヤ人勢力は維新前から、ロシア帝国包囲網を築くため、日本攻略(取り込み)に乗り出し、成功していた。ロシア海軍が朝鮮半島を利用する場合、日本への脅威が増すであろうから、国策として朝鮮からのロシア排除が推進された。清朝は朝鮮を確保できず、ロシアに取られる惧れがあり、最終的に日本への吸収合併に到ったことはご存知の通り。朝鮮では内政改革、清朝からの自立のために、金玉均らが独立運動を起こした。日本では在野の民権家・大井憲太郎の「東洋自由党」がこの朝鮮独立を支援する活動を準備し、手製爆弾の輸送中に逮捕された女性党員が居た。大阪事件。銀行強盗も画策されたが、北村透谷(詩人)はこれに誘われた。韓国における動きは、欧州の小国が古い帝国から独立を図る動きに似ており、自由主義は常に民族独立運動として表れた。韓国内には日本統治時代から民族資本による文化運動はあったが、自由主義そのものを掲げる政治活動が始まったのは、米軍占領よりも後、議会開設まで待たねばならなかった。
2006/08/28
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日本の統一教会は、1945年のクリスマスを起点とすることを強調しているが、他方、文師自身は1946年復活祭が迫る情況を強調した。 弟子入りした10月が陰暦であることにはどちらも触れようとしない。しかし、英語の統一教会史を編纂した Nora Spurgin 夫人は、慎重に陰暦10月を西暦11月に直した上、解放から3ヶ月過ぎてしまったことを正直に指摘している。しかも、復活祭や12月25日には触れていない。その代わり、金百文牧師が文青年(妻子ある身の家出人) に与えた祝福について具体的に踏み込んで、「ソロモン王および全世界の栄光が彼の上にある 」と金牧師が言ったとしている。国民性の違いなのだろうか、ちょっと悔しいが、文化水準の差を見せ付けられた気がする。ただし、金牧師がクリスマスに啓示を受けたうえ、栄光が文青年の上にある、と言ったというが、文師の御言葉は見つかっていないが。Early Unification Church History Nora Spurgin Part 2 The East Coast Church http://www.unification.org/ucbooks/EUC-HIS/E-UC-H-2.htm ○ Father met Mr. Kim in November 1945 (three months after the liberation from the Japanese) and stayed and worked in his church for six months. お父様は、1945年 11月(日本人からの解放の3カ月後) に金氏に会って、6カ月間、彼の教会で働いていました。○ Mr. Kim received a revelation about Father and placed his hand on Father's head, saying that the glory of King Solomon and the whole world would be on him. 金氏は、お父様に関して啓示を受けて、彼の手をお父様の頭に置き、ソロモン王及び全世界の栄光が彼の上にあると言いました。
2006/08/25
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「教会紹介・創始者」 第2章 草創期1(第一次実体的カナン復帰) 2 実際の摂理の展開(3)許孝彬の不信http://www.uc-japan.org/intro/tf/22.aspx ○ しかし許孝彬は、神からの啓示を否定することは死んでもできないと固執した。それで文先生は最後の手段として割り箸を入れる紙切れに、魚の骨で直接手紙を書かれた。「成約時代講義」 第四章 再臨主を中心とする復帰摂理第一節 神が準備した摂理http://www.geocities.com/MadisonAvenue/8203/seiyaku/chap4.htm○ それに対して文師は「今はそのことを否定して出獄するように」と人を介して伝えたが、女教主はその言葉に従わなかった。そこで最後の手段として、囚人服の端を裂いた布に魚の骨の先端を砕いてペンにして、墨の代わりに板の間のすすで黒くなったゴミを唾で練って、文字を書いて送った。実際に魚の骨で文字を書いたら分かるが、硬筆に近いので墨液の乗りが悪く、伸びない。また、布地に文字を書いたら分かるのだが、厚みがあるので墨液の吸収が早く、目が粗いので大きな文字を書く必要があり、墨継ぎが多くなる。割り箸の袋くらいなら、たとえば醤油でも、文字が書けるだろうが、布に書いた、とは考えにくい。裏を取る、という習慣が無い人達の話は、つじつまが合わないので、単なるメルヘン(与太話)として聞き流すことになるが、それでいいのだろうか。
2006/08/24
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「統一教会史 上巻」 前編 史前史7、韓国解放-伝道開始http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/06_07.htm○ このような状況であったその年10月に先生は、霊級が高く、摂理的に重要な使命を帯びているようにみえた金百文氏に会って、彼が導くイスラエル修道院に身を置かれた。○ そして、その年の12月25日のことであった。金氏は、「文鮮明先生はソロモン王のような使命を持たれた方である」という金氏自らが受けた啓示を間接的に先生に伝えたのであった。啓示を受けた金氏自身も、この意外な啓示の内容に驚いた。また、当時その他にも啓示を受けた数名の中堅信徒たちがいたが、「これからは文先生に従うように」等の啓示を受けたが、不思議なことだと互いに話しあっていた。- しかし、先生は現実的に分派運動を広げることはできない立場だったので、「それは自分たちが知って決めることである」と答えられた。- 結果的には、そのような啓示を受けた指導者、金百文氏も中堅信徒たちも、相反する現実の信仰体系と新しい啓示の間で、衝突と苦痛を受けるのみで、信仰的行為の決定的な変革はもたらされなかった。8、平壌におけるみ言伝播http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/08_09.htm○ 文鮮明先生は、1946年4月までのまる6ヵ月間、「イスラエル修道院」に入っておられたが、その大部分の時間を修道院の系列の上道洞集会所(教会)引導者として過ごされた。- しかし、伝統的な基督教指導者たちを前面に立てて神の摂理を広げようとした第一次計画はなされず、イスラエル修道院を摂理進展のための土台にしようとした第二次計画も成就されなかったのである。このように、復活祭とは関係なく、12月25日(クリスマス?)に金百文師から文師へ啓示が伝達されたという。間接的に伝えられた、とは、金師がソロモン王の祝福を与えたということだろうか。この「12月25日」は旧暦だろうか。「哀れな復帰の役軍たち」 ○ その人々も霊的に冴えている人たちですから、天が彼らに命令を下すのです。3月の復活祭を迎えて、彼の食口たちを中心に天の役事が起ったのです。それで自分に従うすべての食口たちの前で、先生を祝福したのです。洗礼ヨハネが相続の継代を受けたような役事が起ったのです。白い衣服を着て、その祝福を行ったのです。どんな祝福をしたかというと、ソロモン王の祝福をしたのです。 先生にこのような祝福を与えたので、その集団で神霊なる恩恵の役事をする婦人たちや食口たちのすべてが、金先生に従わないで文先生に従え、という啓示を受けたのです。
2006/08/24
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【ソウルの出版社、反社会的カルト700人に襲撃される】 宗教団体が政治に介入することに対して、自民党が危機感を募らせていた時期。野党・新進党の選挙運動に宗教団体・創価学会が全力投入していた。自民党は党内に宗教問題ワーキングチームを設けて「宗教基本法」の骨子なるものを用意し、その時これを世界日報が報じた、という。それまで自民党は宗教団体から支援を受け、教団ぐるみ選挙を展開していたが、規制したほうが有利と判断したのだろう。政教分離のための法律だ、という触れ込みだったが、もちろん狙いは創価学会対策である。 政教分離は大事な原則である。ではあるが、よく考える必要がある。なんらかの信仰を持つことと、政治に参画することは両立する。(いや、JWなどでは否定されている。)政治家でありつつ、宗教家であることも、ある程度は不可能ではない。特定の教団に属することは、必ずしも特定の政党を支持することを意味しないし、強制されてはならない。(いや、創価学会などでは守られていない。)問題は、政治家・政府高官が宗教団体を利用したり、宗教家が政府・政治団体の力を利用することだ。その時、自民党が問題視したのは、免税特権を与えられている創価学会の会館が党の選挙運動に利用されていることだ。教団の電話を無償で使用したり教団職員が勤務の一環で選挙運動するのは、選挙運動資金の提供と同じである、ともいえる。それは、統一教会職員が議員秘書として提供されたり、医師会館などが選挙運動に提供されるのと同じだろう。少し広げてみると、宗教団体の集会に祝電を打つのも、政治家の日常活動の場として宗教団体が利用されていることになるだろう。もちろん、政府高官からの祝電は、カルト団体の宣伝材料として利用される。それらを問題視するのは当然だ。しかし、事の是非を判断するのは有権者であり、これらの行為については、広く公開されるべきであるが、法律(公権力)で縛る必要はない。資金提供は公職選挙法で既に規制されており、解釈を整備して摘発すれば足りる。その昔、青年・小泉純一郎は勤め先に出勤せず、選挙区回りに精を出していたそうだが、そういうことが許されないのは当然だ。公権力で規制されるべきは、宗教団体ではなく、議員自身の選挙運動・日常活動の資金源なのではないか。選挙公報などに、選挙運動に利用している施設、議員秘書の派遣元・所属組織、祝電を打ったことがある宗教団体・業界団体、などを明示させることを法制化できないだろうか。 フランスでは反カルト法ができているそうだが、欧州議会では決議に留まっているようだ。カルト防止法についても、公権力(寺社奉行のお役人)が出しゃばるべきではないと思う。(くそ坊主どもに対する)批判は私達(下々の市井人)がする。しかし、情報公開は義務付けるべきだ。公権力の出番は、公益通報者保護の枠内で自然発生的なカルト批判を不当な圧力や隠蔽工作から守ることに集中するのが妥当だ。義務教育では、霊界話しに脅されない理性ある市民を育てる全人教育を尊重し、子ども向け検索規制ソフトでも、反カルト・サイトを尊重するように希望する。
2006/08/23
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◎ 1969年6月8日 今、先生がお話します。先生が復帰摂理歴史を成すためには、どうしなければならないか。李龍道牧師を中心とした三代の継代の中の一人が誰かというと、金百文でした。金百文は男性を中心としてエデン復帰の使命を負った二番目の人でした。この人が信仰生活において、最高の場にまで至っていたのです。その集団に神のみ旨があることを知って、先生は訪ねて行きました。この時が解放直後の、1945年10月でした。この集団は洗礼ヨハネの集団でした。そこに訪ねて何をしなければならないか? 蕩減復帰歴史を経るのです。洗礼ヨハネがヨルダン川でイエス様を祝福したように必ず祝福しなければなりません。このような蕩減歴史を経るのです。 それで先生がこの集団に行って6か月以上の間、何をしたでしょうか? 僕暮らしをしたのです。み旨はすべて知っているのですが、これを相続するために誰もできないような精誠をつくしたのです。この時に先生が流した涙は、皆さんは考えることもできません。皆さんが想像もできない懇切な心情で祈祷したのです。この時、先生が祈祷した床には涙が染み込んでいるのです。そこでは世の中のように工作してこっそり人を引き抜くことはできません。真は真ですから、真の価値が分かるときまで待って、神の復帰の内容を備えた人的資源を、この集団から発掘しなければならないのです。ですからその集団の中で、言葉にもならない僕暮らしをしたのです。 しかしながら先生は、彼が教える真理の内容を批判することもありました。このようなことを啓示を受けて、口さえ開けば彼らを完全に屈伏させることができたのですが、何も話さずに奉仕の生活を続けたのです。このようにしていると、神が共におられました。 その人々も霊的に冴えている人たちですから、天が彼らに命令を下すのです。3月の復活祭を迎えて、彼の食口たちを中心に天の役事が起ったのです。それで自分に従うすべての食口たちの前で、先生を祝福したのです。洗礼ヨハネが相続の継代を受けたような役事が起ったのです。白い衣服を着て、その祝福を行ったのです。どんな祝福をしたかというと、ソロモン王の祝福をしたのです。 先生にこのような祝福を与えたので、その集団で神霊なる恩恵の役事をする婦人たちや食口たちのすべてが、金先生に従わないで文先生に従え、という啓示を受けたのです。これは異常でしょう? 今まで精誠をつくして侍った金先生に従わないで、文先生に従えというのです。その時先生は、先生自身を表にだしたり弁明したりしないで、じっと待っていたのです。その時神は、前後をすべて備えておかれたのです。準備する基準がすべて出来ていたのです。しかし7か月が過ぎた時、その集団ではみ旨が果たせないことを知りました。また、既成教会の反対を受けるようになったのです。(「哀れな復帰の役軍たち」から)金百文のイスラエル・イエス教会、またはイスラエル修道院は、異端的ではあってもプロテスタント教会ですから、復活祭は最も重要な行事です。さて、1946年の復活祭は「3月」でしょうか?前年10月、11月、12月、同年1月、2月、3月と、6ヶ月暮らしたというのですから、確かに3月であるべきです。しかし、調べれば分かるように、この復活祭は4月21日(ニサン20日)でした。霊的に冴えていない私のような者には先生のお話は判りません。(爆
2006/08/22
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In his first year away from home, he attended services at the Pentecostal church in Heuksok dong. http://www.unification.org/ucbooks/earlyyears/Chap03.htmソウルでオスンジョル(ペンテコステ派)教会に通ったという公伝。日本語版があるのかどうか分からないが、萩原氏が入手した韓国語資料にはあったので、20数年前に読んだ。日本人信者は、そういう細かいことまで聞いていないようだ。知らせたくないのかもしれないが・・・?
2006/08/21
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約束を守ることは大事である。たとえ、米国、韓国や財界がなんといおうと、である。「いかなる批判があろうとも」ということは、聞く耳を持たない独裁者でもある。たしかに、遺族会の歓心を買うための、総裁選公約ではあった。そんな下衆な公約に自分の「心の問題」や「信教の自由」を賭けてしまったのは、どうかしているし、総裁になれなければ参拝するとは限らないという人物を選んだ党員も情けない、のではあるが。外交的利益は大事な国益であるが、しかし、国益よりも大事なものがある。国体であり愛国心である。一家にとって、所得や財産は大事だが、家族愛のほうが大事なのだ。そのうえ、天皇がなんといおうと、とにかく参拝した。革命的である。祭神の圧倒的大多数は戦死者である。特に、多数の犠牲を出した南方戦線は餓死が多いのではあるが、とにかく戦争指導部など数えるに足りない。数の問題で無視できるのは、大したセンスだ。一般庶民が靖国に参拝する、その心情と同じなのだ。首相としての自覚や、その歴史的責任感は無いのだろう。すなわち、、首相は国内的には行政府の長であり、特定の神社に参拝することによって、その神社と国家神道の宣伝に努めるようなことは慎まなければならないが、総裁選の公約にしてしまったのだから、国民の信教の自由を公平に守るべき特別の立場にある、という自覚は無いに違いない。村山首相は伊勢神宮に参拝したが、国家神道の復活を意図したとは疑われず、騒ぎにはならなかった。国会答弁で、統一教会は単なる宗教法人と認識している、と、当たり障り無い答えで逃げ切ったが、信教の自由を尊重したのだろう。小泉内閣を支持した多数の非神道系宗教団体にとって、信教の自由とは何なのだろう。「極東国際軍事法廷による戦争犯罪人」であることを理由に、宮中の反対を押し切って祭神を選んだ神社が靖国だ。首相は国際的には一国を代表しており、それを参拝したら、一国の姿勢が疑われる。とはいえ、古い国会決議によって、全ての戦犯が復権している。当時、これに異を唱えた国は無かった。その後、中韓両国は日本との国交樹立に当たって、戦後処理の問題を条約本文に明記すべきだった。米下院が昨年になって東京裁判支持を決議したが、米国と日本とは歴史観を共有できていない。それが「同盟」の内情なのだが、日韓間の歴史観の対立は、もとより深刻であるから、「日米韓一体化」を唱えてきた人達の努力、すなわち、怠慢を、ここで改めて問い直すことも必要だろう。韓国の「世界平和連合」と、日本の世界日報・勝共連合の歴史観は一致していないだろうと思うが。世界の統一を唱えるには、早すぎると思う。共有しなければならないと私(左翼もどき)が思っている点を挙げておこう。あれは、植民地と経済圏の争奪を巡る大国間の戦争であった。民主主義対全体主義の戦争だった。植民地独立運動が勝利した戦争であった。米ソ両軍が欧州と東アジアへ進出する機会であった。ゲリラと総力戦と空爆と核兵器の戦争だった。さらに挙げると切りが無いが、・日中戦争は、戦時国際法に則った正規の戦争ではなく、「宣戦布告」を欠き、敵側との外交交渉自体を認めなかった。・皇軍内部は窃盗と上官による暴力が常態だった。・軍部中枢では階級闘争が激しく、下部の暴走が先行し上部の意思決定は諦めと黙認だった。・相手国で要人暗殺事件などを起こして、際限なく戦線拡大に進んだ。・戦争の拡大に関して、大元帥の事前の裁可を経なかった。・中国の都市に対する空爆を実行した。・中国側は、ゲリラ戦、テロ活動を展開した。・当方は、敵と住民の識別が出来ず、総じて、自国兵士の捕虜を敵側捕虜と交換する意思が無かった。・日本は総力戦に突入し、大東亜共栄、亜細亜解放の大義を唱える一方で、国民総動員を強制し、朝鮮半島を「戦力基地」と位置付けた。・内地のほか、朝鮮、満州などでも神社参拝が強要された。・広島、長崎への原爆投下及び都市への焼夷弾投下は、非戦闘員多数を無差別に殺戮する意図があった。など。
2006/08/21
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米国の全国紙USAトゥデーが靖国特集を組んだのは去年6月。 前後してNYタイムズと仏ルモンドが取り上げ、英サンデー・タイムズも翌月これに続いた。 翌月には米下院が東京裁判の再正当化を決議。 10月に首相参拝。 報道に加わる新聞は、ロサンゼルス・タイムズ、クリスチャン・サイエンス・モニターと増え続ける。 米下院外交委員長から駐米日本大使宛に「遺憾」表明の手紙。 今年2月には中国韓国に加えてシンガポール前首相も、首相参拝をやめるよう提言。 6月、米国防総省元日本部長は「歴史の愚かな書き換えは米国に対する直接的な挑戦」と警告。 ここまで来ると保守派の団結は保てない。 奥の手も出ようというものだ。
2006/08/10
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http://www.maharishi.co.jp/mri/media/mumnews.htmマハリシ経営大学教授によると、反帝国主義、反植民地主義を掲げるとともに、何度も暗殺の危機を越えてきたキューバの最高指導者、カストロ議長を「無敵」であるとして讃えています。独自の農業開発計画については、貨幣理論の観点から検討する必要がありますが、通貨との兌換性は避けて通れない問題です。有効期限が迫る地域通貨には、高率の金利と高率のインフレが自然発生するはずですから、特に注意を払うべきです。クーポン貸付(発行)⇒生活資材⇒農産物⇒外貨という流れは、さらに、外貨⇒輸入品⇒クーポン回収または、農産物⇒クーポン受取⇒クーポン返済(回収)という循環を必要とします。有効期限と返済期限が同時に守れる仕組みかどうかが鍵ですね。ここが常に安定している必要があります。返済完了まで有効期限を延長することになるでしょう。通常の通貨供給の場合も需給バランスと金利とによって操縦していますが、通貨管理の困難さにおいて、差はなく、クーポンと国内通貨とが競合するため、複雑さが増します。具体的な問題について有効策を編み出そうと、知恵を絞る姿勢には敬意を払いたいと思います。
2006/08/09
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手帳の真贋について。遺族は本物かどうか。これには疑義が無いらしいので、検証していない。これを前提とすれば、一連の常用手帳も本物で、その中の昭和末期の手帳も本物であることは、検証を要しない。天皇誕生日「Press会見」に関するメモについて。ペンは手帳本体で使われたものと差はなく(モンブランのファインだろう)、筆跡は手帳本体と同じである。線質は伸びやかさを保ちつつすこぶる安定しており、結体(結構)も滑らかさを保ちながら一貫している。傾きも大きくなく、逸脱が無く、安定。円満、穏和な教養人の手であり、警察官僚とはいうものの、文人の風格すら感じさせる。加齢、体調などによる変遷も認められず、同一時期のものである。(私は素人ながら、書家、石○渓○の門下生でもあり、狭山事件の問題化から、筆跡鑑定には関心を払ってきたつもりだ。)紙質は手帳本体と異なっており、純白に近く、紙の黄ばみや青インクの褪色も少なく、鮮明である。紙質だけでなく保管状態にも差があったものと推測する。メモ用紙はおそらく和紙(またはボンド紙など、印刷用ではない抄紙。罫線が無い。これらはもともと印刷インキの定着とは関係なく、中性であって、酸性紙問題の対象ではない)で作られた上質の便箋、またはメモ用箋ではなかろうか。湿気や光に曝しながら日々持ち歩く手帳とは別に、このメモを保管し、この間に褪色などに差が開いたと考えられる。(モンブランのブルーブラックやロイヤルブルーは、赤い光だけを浴びるとより鮮明な青に変わり、白い光を浴びると青が早く消えて黒く変色する。)いつ常用の手帳に貼り付けたのかは分からない。この手帳を長期保管する場所に移した時、または、それらを整理した時だろう。(一般に役所の技術として、糊はアラビックヤマトを使う。使い慣れていれば仕上がりが美しく、耐久性に不安が無い。)内容的に時期を特定する材料は事欠かない。「吐瀉」した次の年で、(奥野国土庁長官発言と)後日罷免騒ぎになった「藤尾文相」の意見表明の後のことで、「嫌」な思い出として戦争を上げた会見の前後である。メモには、誰の会見なのか明記されていないが、あえて申すまでもない。メモの誤字脱字について。イタリア大使白鳥氏の「鳥」を特急白取の「取」と誤っている。古くは大和武の尊が死んで魂が白鳥の姿で飛んで行ったという伝説があり、文芸や神道の関係者なら間違えようがないところだ。一方、「白鳥事件」(共産党地方組織によって犯行声明?が出された警部補射殺事件)は(物証捏造が問題化したことから)公安警察史の汚点である。警察官僚にとって忘れたい事件であったことが、むしろ深層心理として働いたのであろうか。「そうですがかおおい」の濁点が欠けている。「『そうですが・・・』が多い」であるはず。これらの杜撰さは、用意周到に偽造された物、という見方を支持しない。箇条書き番号について。1から4までの番号が書き出しに振られているが、3が欠けている。ここに変造の余地、すなわち、番号3のメモが抜き去られたのではないか、という疑問もあろう。とはいえ、内容的には連続しており、不自然さはない。また、メモには通し番号が振られており、その筆跡にも特に疑問はない。通し番号を振るという几帳面さと、箇条書き番号4を3に書き直さない杜撰さ(大らかさ)とが混在する。警察官僚としては、宮内庁長官は名誉ある閑職であって、敏腕、切れ者であることよりも、教養があり、バランス感覚に長けた温順な人柄が買われるという一面はあるだろう。「私」とは誰か。メモの主がメモの中の「私」だろうか。第一に考えるべき人物は富田氏である。しかし、自分の参拝途絶や自分の心を天皇誕生日Press会見のメモとして手帳に貼り付ける意味は無い。徳川侍従長はメモの中の「私」だろうか。この人物はメモには登場しないが、回顧録の内容と一致することから取り沙汰されている。二人の外交官は侍従職にとって遠い存在であるから、あえて二人の外交官の名前を名指しする理由はない。退職する侍従長が「私の参拝」や「私の心」を語ったとしても、富田長官がメモしたり、Press会見に関するメモとして保管する理由はない。聖上がご親拝あそばされれば侍従も同道するし、お止めになれば私的にも参拝しないだろう。敢えて語るとすれば、「私たちの心」とならざるをえない。徳川侍従長回顧録との整合性から言えることだ。ただし、富田長官は天皇と誰か、たとえば侍従長、との会話を何らかの方法で聴き取り、メモした可能性はある。畏れ多いことではあるが、むしろ警察官僚の職務の常だろう。当時既に昭和天皇のご余命1~2年ということは公然の秘密であったから、次代のために記録する必要があった。「そうですが」が多い、とは。誰かがあの戦争について「私」と議論し、「私」が「そうですが」と繰り返し反論している、と読むことができる。この議論の結果、A級のうち、特に二人の外交官が含まれるあの「昭和殉難者」を祀ることで、靖国が靖国ではなくなってしまった、という核心部分に到達したわけだ。(冒頭「press会見」から一貫して昭和天皇を主役として書かれたメモである。会見時の体調、戦争を嫌な想い出と言ったこと、そのようにわざわざ「嫌」と言った意図は日中戦争は侵略の意図は無かったという奥野発言への反発があること、それに比べて、日韓併合は韓国側にも事情があったという藤尾発言は単なる復古趣味ではなく肯定的に評価できること、続いて、靖国神社宮司のA級合祀への対応を論じ、前の宮司は慎重に対処したが、新しい宮司が易々と合祀してしまったのは、親である最後の宮内大臣の平和への勁い考えを知らないものと嘆き、それに対する本人の意思が決め台詞として書かれている。切れ目が無い一連の議論であり、途中で主役が交替した形跡は無い。)源氏物語を読み解くような展開だが、背景を予め知っている学者ならば数日で結論を出せるだろう。私としては報道すべき価値ある情報として十分検証されていると、納得している。新聞の見出しは「不快感」とお茶を濁してはいるが、真相は「宸怒」ではないか。万一、誤報であれば、今上陛下におかせられては宜しくご処断あそばされることと拝察申し上げる。徳川侍従長の回顧録を無視し続け、どこまでも自分好みの御製解釈に拘るのは、終戦前夜に宮中で玉音盤奪取を図った謀反人と同様の「天皇カルト」ではなかろうか。
2006/08/07
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腕力のみによる衝動的な強姦事件と、組織的に宗教を利用した、強制猥褻事件とを比較して、どちらが罪が重いか、ということ。地上の法では、手段の差は軽視され、教祖が信者の体に「手で触っただけ」という結果しか見ない。しかし、初めから宗教心、教祖への信頼を利用している点に着目し、天の法と良識に照らせば、「信仰心をも冒涜」したのであって、より軽い罪とはいえません。教祖に絶対的に帰依する信者同士を、本人が意に染まないまま「結婚させただけ」という結果しか見ないのも、似たような心霊無視の価値観でしょう。さて、統一教は性犯罪と関係ないのでしょうか。「40年荒野路程」とされた時期には、多くの女子学生が世間に被害を訴え、捜査・報道されましたが、起訴されずに終わったことがあります。統一教を叩いた新聞社は不審火で焼けました。摂理教と統一教の違いは、時代背景だけだと思いますね。
2006/08/04
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ごく一部に、富田長官メモ贋物説があるようです。読んでみて違和感がある、というわけです。とはいえ、藤尾氏が二人の外交官の合祀に反対していたとか、参拝しなくなったとかの事実も無い。陛下があえてご親拝をおやめになったのに、侍従長らが参拝を続けるわけもない。「去年」の会見は吐しゃする前で、体調が悪かったこと、とか、「辛い」というメモを読まず、「嫌」な思い出、と会見で語った真意、とか、別人のことを書いたとは、考えられないわけですが。ただ単純に、自分達が想像していた昭和天皇像なるものと、メモに映された実像とが違う、ということではないでしょうか。確かに、皇道派青年将校は虚像にすがって、無残に裏切られました。あの事件から、昭和天皇は、君臨すれども統治せず、立憲主義、すなわち、天皇機関説をより徹底的に実践されました。その結果、むしろ、それにつけこむ勢力が台頭し、天皇機関説否定、国体明徴運動が一人歩きし、軍部などの暴走が止まらなくなり、陛下ご自身も和平を促す機会を失ってしまいました。今回の騒動も、御製を手前勝手に解釈して、首相参拝を推進することが「大御心」であるご親拝を実現する忠君、勤皇の働きであるかのように振る舞い、天皇の寡黙さに乗じ、猪突猛進してきたことが問題を引き起こしたのです。側近中の側近、徳川侍従長は明確に警告を発していたのに、宮司や運動家たちが構わずに暴走したわけです。東京裁判にとどまらず、ヤルタ・ポツダム・サンフランシスコ体制に弓を引きながら、ことさら愛国者の仮面を被っている反体制派(いわゆる共産系新右翼や韓国系カルト)に、煽られているのではありませんか。富田長官のご遺族を指弾する向きもありますが、御製に対する曲解を正すため、やむをえざる非常の措置であったと考えます。この戦後体制を転覆することが、自らの望みなのか、日本の将来にとって良いことなのかどうか、よく考え直して頂きたいと、お願いする次第であります。
2006/08/02
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