全9件 (9件中 1-9件目)
1

結構忙しい訪問となっていましたが、「安土城跡」、「彦根城」、「佐和山城跡」と巡り、次の訪問地である「長浜城(歴史博物館)」に向かいました。この辺から傘の必要となる雨が降り始めました。「長浜城」は城郭や城郭跡はありませんが城のかたちをした「長浜歴史博物館」を見学し、観光地の「黒壁スクエア」を観て、1日目の宿泊先「己高庵」(ここうあん)(長浜市木之本町)に向かいました。宿泊地に着いたときには、両足のふくらはぎは筋肉痛となっていました。「安土城跡」見学がききました。 <長浜城と黒壁スクエア>(出典:wikipedia)戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されたようです。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和58年(1983)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。(出典:wikipedia、模擬天守(長浜城歴史博物館))内部は歴史博物館として公開されています。展示室は2階と3階に分かれており、期間ごとに特別展や企画展が開催されています。2階では、さまざまなテーマに沿って湖北・長浜ゆかりの資料が展示されています。3階では、「秀吉と長浜」をメインテーマに秀吉の他、浅井長政、石田三成といった長浜と関わりの深い人物達の足跡や人物像を紹介した常設展示を行っています。湖北を一望する5階の展望台では、ナレーションや効果音によって、戦国時代における長浜の重要性を実感することができます。この後、長浜市内の一部ですが「黒壁スクエア」地区を散策しました。「黒壁ガラス館」は好きな施設のひとつです。ここには「工房」があり、ガラス作品づくりの実際の様子も見学できました。※黒壁ガラス館前身は明治33年に建てられた旧第百三十国立銀行長浜支店。平成元年に長浜市と民間によりガラス館としてよみがえりました。国登録有形文化財。<2日目、小谷城跡を訪ねる>朝、宿泊先の「己高庵」を8:00に出発。残念ながら天気予報通りの激しい雨模様のスタートでした。小谷城まではスマホのMAP機能でみると、それほど遠いところでなさそうだ。小谷城に向かう途中の「道の駅・浅井三姉妹の郷」で、マスクをした「お市と浅井三姉妹」の銅像を見つけましたので寄ってみました。わたしは残念ながらこの大河ドラマはみていませんでしたが、2011年の大河ドラマで上野樹里さんが「江」役で出演した「江(ごう)~姫たちの戦国~」を記念して建てられたようです。淀・初・江の三姉妹(浅井三姉妹)の末っ子・江は、徳川二代将軍・秀忠の正室となり、息子は三代将軍・家光となる。戦国時代を力強く生きた三姉妹の愛と波乱と苦難の人生を描いた作品でした。「新型コロナ」の関係でどなたかが、みなにマスクをしたものと思われます。 (撮影:筆者、お市の方と浅井三姉妹)小谷城には30分程度にて到着しましたが、着くなり感じたのは「彦根城」と比べるとなんとわびしく、さみしい感じがするものかということでした。[小谷城](出典:wikipedia)小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井(あざい)家が3代にわたって居城としていました。築城は大永5年(1525年)ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政、戦国一の美女といわれた織田信長の妹、お市の方や、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。(撮影:筆者、小谷城戦国歴史資料館前木柵に立てられた幟、長男万福丸の幟も)小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられています。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になった。落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。(出典:wikipedia小谷城跡の曲輪分布図)織田信長との戦いで浅井家が滅んだ(1573年)後、羽柴(豊臣)秀吉に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と3人の娘たちの生涯に思いをはせることができます。自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく)(495m)にも土塁が残っています。清水谷(きよみずだに)には、平時における浅井氏と家臣たちの館跡があります。昭和12年(1937)、国の史跡に指定されています。 浅井長政とお市の子供として「茶々、初、江の三姉妹」が歴史上にその記録を残しています。ところが、浅井長政の子供に男子が二人いたとは知りませんでした。お市の方は、 戦国大名・織田信長の妹(または従妹)で、信長とは13歳離れています。婚姻時期については諸説あるようですが、通説では、永禄10年(1567年)9月または永禄11年(1568年)早々の1月から3月ごろ、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされています。小谷城落城後、織田信長の命により、長政の嫡男・万福丸は、関ヶ原で秀吉の手によって殺されました。次男の万寿丸は、まだ赤児だったので命を助けられ、後に出家させられたとも言われています。 ※『信長公記』には、関ヶ原にて磔の刑(一説には「串刺しの刑」)に処せられた「十歳の嫡男」との表記がありますので、やはり、お市の方の子では無いのでしょう(長政とお市の方の結婚は永禄十年=1567年かその翌年と考えられています)そして、次男とおぼしき万寿丸・・・彼も、落城寸前に脱出して身を隠しますが、幸いな事に処刑される事なく仏門に入って正芸と号し、後に、近江国坂田(滋賀県米原市)の福田寺(ふくでんじ)の住職になったと伝えられていますが、彼の誕生は江と同じ天正元年(1573年)とされるので、やはり、彼も、お市の方の子供では無いようです。 ~あとがき~ いつの時代も「戦争」は悲惨で、数多くの兵士や武将が命を落としています。家族を含めたら、どれだけの悲しみがあったかと思うと辛いものがあります。歴史の個々の年表の裏側にはいかほどの悲劇が埋もれているのでしょうか。浅井家の滅亡や嫡男で10歳といわれる万福丸の「磔」での死去など胸が痛くなりますね。そのひとの「死」とはその後の本来であったら続く人生を断ち切ってしまう本当に残酷なことです。いったん戦争になると、命の取り合いとなり負けると死が待っているという切迫感は今の時代では感じることができません。本当に幸せな時代に生きていることへの感謝と時が経つと戦争の不幸を忘れて、また戦争を繰り返す人類の歴史には嘆かざるをえません。みんなが「仲良くしなくてはいけない」、「世界的には国際協調が求められている」と頭では分かっているのに、なぜできないのでしょうか。以上
2020.10.30
コメント(0)

今回の旅は、琵琶湖東岸の「城・城跡」を訪れることも目的の一つでした。琵琶湖東岸は東山道(中山道)、北国街道等のある要衝の地でもあり、当時の日本の中心でもあった「京都」や「大阪」などとも近く戦国時代の戦略的な拠点ともいわれています。織田信長が「安土城」を築城したのが1576年で、その築城には3年かかったと言われていますので、1573年には工事が始まっていたと思われます。 <当時の歴史年表を紐解くと>当時の状況を振り返ってみると、信長→秀吉→家康と移り行く様子が感じられます。1570年 浅井長政、信長攻防戦、姉川の戦い1571年 信長、比叡山延暦寺焼き討ち1572年 室町幕府滅亡(信長、足利義昭追放)1573年 浅井長政自刃、浅井家滅亡→羽柴秀吉、信長より浅井氏の旧領を拝領秀吉、長浜城築城開始※最後の城主は羽柴秀吉であるが、居城としていた期間も短く、小谷城は浅井氏の発展と共に築城し、浅井氏の滅亡と共に廃城となった。1575年 長篠の戦い(信長VS武田勝頼)1576年 信長、安土城築城1577年 信長、安土に「楽市」の制を敷く1582年 本能寺の変(信長自刃)/山崎の戦い(秀吉、光秀やぶる)1583年 秀吉が大坂城を築く1590年 秀吉が全国統一1592年 秀吉が朝鮮出兵を命じる(文禄の役)1597年 秀吉再び朝鮮に出兵する(慶長の役)1598年 秀吉が死去1600年 関ケ原の戦い、東軍勝利。家康、小早川秀秋を先鋒とし佐和山城攻撃西軍の敗将、石田三成(40歳)、小西行長(45歳)、安国寺恵瓊(61歳)、が11月6日に京都六条河原で梟首(きょうしゅ)される。このとき豊臣秀頼(8歳)。井伊直政、家康よりこの地を封ぜられ、一時佐和山城に入城。彦根城の完成をみず死去。1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く1606年 彦根城築城(佐和山城、小谷城など築材利用)と共に佐和山城廃城1614年 大坂冬の陣1615年 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。豊臣秀頼自決。1616年 徳川家康が死去 ※年齢等は諸説あります(暦の違い、生誕がはっきりしないなど)※梟首(きょうしゅ)斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰。晒し首ともいう。付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。※六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。<彦根城、佐和山城跡の訪れ>安土城から彦根城までは琵琶湖の東岸の一般道を北に走り、約40分で彦根に着きました。彦根城に向かう直近の復元した当時の街並みを左右に眺めながら、お堀にそって車を走らせ城郭公園奥にある駐車場に止めました。 (出典:彦根観光ガイド)[彦根城の築城]彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長9年(1604)より着工されました。 当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、20年の歳月をかけて築城されました。 [彦根城の紹介]水をたたえた掘りも城郭もよく整備されており長野県の松本城などと同じ国宝の城のひとつであり、「世界遺産」登録を目指しているのも納得が出来ます。天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡で、年間を通じて多くの人々が訪れているようです。(出典筆者 天秤櫓)彦根城のお堀を遊覧する屋形船が運航しています。四季折々の彦根城を船の上からゆったりと楽しむことが出来そうです。(出典筆者 お堀を遊覧する屋形船)天守も昇ってみましたが、彦根城はすべての点でよく整備され、素晴らしい感動を与えてくれました。<佐和山城跡の哀愁>次の、目的地は近くの「佐和山城跡」でしたが、ここはかっての石田三成の居城で絶対に見たいところでした。歩いていけないところではないようですが、時間の関係もあり車で向かいました。(出典筆者 さみしく揺れる「佐和山城跡」麓のたった1枚の三成の幟)[佐和山城の推移]戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の1つとなった。天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに石田三成が入城したとされる。入城時期については、伊藤真昭氏の研究により、天正19年(1591年)4月であることが確定した(ただし、伊藤氏は天正19年の入城は城代・蔵入地代官としての入城で、三成が正式に佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは文禄4年7月であったことも立証している)。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている時間の関係や天気の関係で山城を歩くことはできませんでしたが、廃墟となった城跡を又の機会に歩いてみたいと思いました。[「関ケ原の戦い」後の佐和山城] 「関ヶ原の戦い」における西軍の敗退後、あまり歴史の中で取り上げられることはありませんが、実は「佐和山城の戦い」がありました。慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃しました。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)。[徹底的な破壊・転用され荒れた佐和山城]石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができないことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和8年(1622年)のことである。佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。(出典:Wikipedia)~あとがき~安土城につづいての訪問地は「彦根城」と「佐和山城跡」でした。余りにもこの2城は関ケ原の戦いの勝者側と敗者側の異なる表情を見せていました。佐和山城は三成の改築により城の落書に「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめたほどの近世城郭でもあったようです。その佐和山城も、彦根城の築造で徹底的に破壊、転用されたため、ほとんど何も残っていないのは残念なことでもあります。佐和山城跡の麓にたった1本の「三成の大一大万大吉」の幟が立っていました。どなたが建てたのかわかりませんが、なぜか三成に情けを禁じ得ない心情がつのりました。引き続き訪れた「長浜城」、「小谷城」、「関ヶ原」、「岐阜城」について記述したいと思っています。以上
2020.10.27
コメント(0)

今回の「戦国めぐり(自称)」のドライブ旅行は10月22日(木)~24日(土)の2泊3日で行ってきました。最初の訪問地は「安土城跡」でした。早朝5:00に自宅を出発し、近くの「東名磐田IC(静岡県)」から高速にのり、東名、名神と乗り継いで間違って手前の「彦根IC」で下りてしまい、少し余分な時間を使ってしまいましたが、一般道を通り目的地の安土城跡には8:30に到着しました。途中、養老PAで朝食をとって30分くらい休みましたので実質3時間程度のドライブでした。 安土城のシンボル的な「大手道」の麓に大きな駐車場はありそこに停めましたが朝が早かったこと、天気が雨予想でもあったのでわたしの車だけでした。実際気になっていたのは「天気」で、雨が降る中ではまっすぐの「大手道」やさらに上ったところの天主まで、あの階段を上るのはかなりの困難がありそうでした。何とか雨も幸いにも降らずに目的を果たすことができました。到着してまず目を見張ったのは裾野から見ることのできる壮大な石垣です。特に、まっすぐ上に向かう「大手道」は壮観です。この安土城は絶対に訪問されることをお勧めします。「期待を超える感動」があります。ただ、足腰、ひざの弱い方はちょっと無理かもしれません。(撮影:筆者、大手道) <安土城とは>ちょっと歴史を振り返ると、安土城の築城主はあの「織田信長」です。石材を使った城づくりの初めは信長の「小牧城」といわれています。素人なりに信長の築城を考えてみると、①山城である、②石材を使った、③山の頂上が好み、など特徴があるようです。次に居城にした岐阜城は信長の築城ではないものの、あの金華山の頂上にみえる城はさすが壮観です。その後の城が安土城で築城が1576年ですが当時の面影を肌で感じさせます。まさに当時の原風景を彷彿させます。遺構としては天守台、曲輪、石垣、堀などがあり、国の特別史跡になっています。もう少し調べると、「安土城は1576年織田信長が築城。大型の天守を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は城郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6石階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。1582年明智光秀の謀反の後、何らかの原因で焼失、その後廃城となった。」たった、6年で廃城となったのはもったいなく、現在の姿はまさしく「夏草や兵どもの夢の跡」でした。(撮影:筆者、天主跡) 「大手道」を上ると、すぐに「豊臣秀吉館跡」「前田利家館跡」と名だたる武将の館が伝えられています。遺構の説明には「伝○○○」と「伝」の字がついています。その意味では、歴史的に確定されてものではないものの、建物が建っていた当時のCGなどをみるとその威容さが感じられます。天主台まで上り、そこからの風景はまさにパノラマでした。帰りは別の道を抜けて戻りました。ふくらはぎの痛さはあり、呼吸もしんどいときがありましたが心地よい満足感がありました。「大手道」や天主に向けて歩いていると、当時の相当たる武将や賓客、懇意だったポルトガルの「ルイス・フロイス」一行もこの道を上りながらの会話や一行の喧騒などが感じられそうでした。あの、秀吉や家康、利家もそばにいそうですし、光秀もこの時期にはすでに家臣団のひとりにいたはずですが、その痕跡を安土城跡に見ることはできませんでした、「本能寺の変」で信長が死去し、その後すぐに原因不明の火災で焼失したようですが、だれが、なぜ、またはどうして火災が発生したのかなど、歴史探訪の興味がどんどん深堀されていくようです。 (撮影:筆者、天主跡から望む)<ルイス・フロイス「日本史」>(出典Wikipedia)ポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』に、天主に関して次のように記しています。天主復元のために参考にされる史料でもあるようです。 『中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている』(出典:筆者、天主の信長台座「信長の館」) <安土城プロフィール>城郭構造 :山城天守構造 :望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)築城主 :織田信長築城年 :1576年(天正4年)主な改修者 :羽柴秀吉主な城主 :織田氏、明智氏廃城年 :1585年(天正13年)遺構 :天守台、曲輪、石垣、堀指定文化財 :国特別史跡再建造物 :一部の石垣・大手道石階段・門跡 ~あとがき~ 今回の旅の目玉は「安土城」と「関ヶ原」でした。関ケ原のことはまたこの後にまとめますが、念願だった「安土城」がなぜここに築城されたのかと思っていました。安土城築城は「浅井長政」を滅ぼし、秀吉に長浜城を築城させ浅井家の領国であった北近江を支配させる一方で、天下布武を進める上でここに城を築いたようです。資料など振り返ると、当時の琵琶湖の湖水が現在とは異なり、城のすぐ近くまであったことで、海上物流の拠点でもあり、信長が「武力」と「経済」を共に考えられる戦国大名の優れたひとりでもあったことが感じられます。新型コロナ感染にはwifeとかなりの神経を払って行ってきました。とにかく、マスク、手洗い,蜜とならいないように注意しました。どこの観光地、宿泊施設もかなりの人がみられました。家に「こもる」ことから「万全な注意をして打ってでる」ことで実施しましたが、これで感染したら周りの方々からいろいろといわれてしまいますので、感染していませんようにと祈ります。以上
2020.10.25
コメント(0)

新型コロナウィルスの流行と共に、旅行を自粛していましたが「GOTOトラベル」の全国的な実施の中で久しぶりにwifeとドライブ旅行をしてみます。コロナの関係がまだ収まっているわけではないので慎重であるほうが良いと思いますが、最近の人々の移動増と感染の推移をみて、マスク、手洗い、蜜を避けるなどを意識して、今回あえて旅行に踏み切ってみました。油断はできませんが、「こもる」だけでなく打って出ようという事です。(出典:wikipedia 織田信長)最終的な予定は決まっていませんが、具体的に旅行のスケジュールを考えてみました。今回は「戦国めぐり」と自分でかってに名付けてみました。1日目は琵琶湖東岸の①安土城跡他(大手道から天守跡まで登る)(安土城 大手道 wikipedia)②彦根城と佐和山城跡、彦根の町散策、③長浜城他、小谷城、賤ヶ岳合戦跡なども見てきます。長浜泊。(出典:彦根観光ガイド「彦根城マップ」2日目は関ケ原合戦地めぐりです。史跡、碑、古戦場記念館(予約が必要)、歴史民俗資料館などの見学他、またゆっくりと評判の自転車を借りてwifeと2人で史跡めぐりをしたいですね。ただ自転車は二人とも数十年のったことがないので細心の注意が必要です。午後は金華山の岐阜城へ登ってみます(ロープウェイが楽しみで頂上からの景色を堪能)、長良川温泉泊も楽しみです。岐阜泊(出典:関ケ原観光ガイド 「決戦地」)3日目は岐阜市歴史博物館(特別展+大河ドラマ館予約が必要)、川原町、楽市楽座などを見学したいですね。趣味でTVの歴史番組を録画しています。10年超撮り続けていますのでかなりの番組数になります。今回の関係する安土城、彦根城、関ヶ原、岐阜城などを検索したら10本以上ありましので、事前に鑑賞して、ちょっとイメージを膨らませて行こうと思います。
2020.10.19
コメント(0)

ガラ携から現在の「富士通arrows F-05j」に替えて約3年弱ですが、今月思い切ってSonyの「Xperia10Ⅱ」に「機種変更」してみました。理由は①ROMの空き容量が少なくなった、②バッテリーの利用時間が短くなってきた、③画面表示やサクサク感がなくなったなどです。「機種変更」で一番の気がかりは、「機種変更」に伴う移行処理をお店でどこまでやってくれるのかでした。インストールしている個々のアプリの移行までやってくれるのか、やってくれなかったら自分でできるのか不安でした。結論からいいますと、お店の移行処理はdocomoの電話帳(連絡先)くらいで、画像・映像、アプリ、ドキュメントなどほとんどは自分が移行処理をすることになりましたが、大変ですが絶対に「機種変更の移行処理は自分でやるべき」だと思います。「為せば成る」です。自分でやることでいろいろなことが分かりましたし、自信にもつながりました。今回のわたしの機種変更はdocomo-docomo、富士通-sony、OSはandroid-androidです。キャリアが異なったり、android-iOSですと、また違った方法なりが必要とされるようです。(出典:「Dr.Home.Net」 https://www.4900.co.jp/smarticle/10550※よくまとまっているサイトです)<機種変更をした背景>今の富士通「arrows」もコンパクトで大きさも手軽で、使いやすく大変気に入っていました。ところが、この「arrows」の位置づけがエントリーモデルのようでして、たまたまキャンペーンをやっていたのであまりよくわからない中で勧められるままに購入しましたが使いやすく気に入っていました。やはり使ってくると「ROM16GB、RAM2GB」ですと、システムとアプリの容量をみていると、これだけでROMを12~13GBとなり、新しいアプリをあまり入れられなくなってきました。欲しいアプリがあると、既存のアプリを減らしたり、幸いにもマイクロSDカードが装着できるタイプでしたので12GB のカードを入れて対応してきました。写真や映像、ドキュメントファイルなどはどきSDカードに保存するようにしました。このように、分散して保存をしても、新しいアプリを入れていくと使っているファイルマネージャーアプリで「メインストレージが一杯です」の表示が毎回出てきたので思い切って、中位モデルといえる「Sony Xperia10Ⅱ」に機種変更をしてみました。※OMRONや血圧ノート、H BANDなど健康管理アプリなどは実際どこに保存されているのかわからなかったのですが、いまはほとんど「googleドライブ」や「ONE Drive」などの外部のクラウドといわれるサーバーに保存しています。健康管理データなどは日々のデータが積み重ねられること、スマホだけでなくパソコンでもみれて、自動でバックアップが取ることができるためです。 <機種変更はどれにしようか、迷いました>どこの、どのスマホにするかはなかなか決まりませんでした。要するによくわからないという事でした。近くの「ららぽーと磐田」内のドコモショップに何回か通って、実際に各社のスマホを手の取ってみましたが、それでも正直よくわからなかったので実情です。そこで、①OSは今のアンドロイドにする、②中位モデルの5万円程度のものにする、③国産のスマホとする、④ROMは64GB以上、RAMは4GB以上という基準を決めました。スマホの性能は個別にはいろいろと特徴はあると思いますが、結局あまり変わらないと信じて、最終、国産のスマホから選びました。今のスマホの物足りないところはROMの容量で、アプリをいろいろ入れて使うのであれば64GB以上欲しいところです。作業のサクサク感が欲しければ、RAMも4GB以上が必要な感じがします。わたしは最終的に中位モデルのSONYの「Xperia10Ⅱ」にしました。どこのどの機種にするかは本当に悩ましいですね。最近の機種はカメラ機能、画質など各社その性能を競っているようです。また、最新の5Gにするかどうかなどがありますが、値段が10万円以上になります。中位モデルでは5万円から8万円クラスですので今回は見送りしました。OSをiOSかアンドロイドかどちらにするかがあります。わたしはアンドロイドの富士通製の『arrows』を使っていましたのでアンドロイドのスマホを探しました。ソニー以外では、アクオス(シャープ)、ギャラクシー、ファーウェイなどです。今購入してから分かったことは、YOUTUBEで数多くの方々が最新のスマホや機種変更について比較や内容の投稿がなされていまので、購入前に、各機種の情報を仕入れるともう少し具体的に検討が可能になるような気がしました。 [5Gはすごいけど、今回は見送りました]5Gはもう少し待ったほうがいいかもしれません。ショップの方に伺ったら5Gはまだ都市部が中心であること、出て間もないこともあるのでもう少し待った方が良さそうとの感じでした。また、価格のこともあり、今回は見合わせをしました。(調べると、いわゆる高速性・大容量が特徴で、直線的な電波なので障害物を避けるために、細かく中継点などの小型のアンテナの設置が必要のようです。また4G環境の中で5Gと言っていることもあり、通信スピードなどは変わらないという情報もありました。どうも、今現在の5Gの実態が今一つ分からないところがあります。 [iPhoneとアンドロイドスマホは?]iPhoneはやはり完成度が高いようですし、iPhoneユーザーはちょっと使いこなしている方が多いと感じています。iPhone11、iPhone SEはユーチューバ―の方々の意見では大変完成度が高く、好評な機種であるとのことでした。自分は現在、アンドロイドスマホなので同じアンドロイドで選んで最終的に「Ⅹperia10Ⅱ」にしました。どこのメーカーの機種も完成度が高そうですのでわたしには、正直よくわからなのが実情です。ポイントは、なにを重視するかではないでしょうか。スマホの選定には、電話機能、通信スピード、カメラ機能、画面の鮮明さ、ROM・RAMの大きさ、スマホサイズ(大中小)、重さ、などがあります。わたしは中位モデルでROM、RAM優先で選びました。 <移行処理の過程でわかったこと>スマホを新しくする際に何を選ぶかは結構悩まされます。一番面食らったのは、他社からの乗り換えはかなりの割引があるのですが、ドコモのユーザーが機種変更をすると全く特典がないどころか、かなりの割高感があるところです。キャリア間でシェアー争いが熾烈なのわかりますが、現在の自社顧客に対する配慮があるとは言えない現状はどこかおかしい感じがします。オンラインショッピングで購入する方法は安くなることは分かっていましたが、ちょっと自信がありませんでした。今度「Xperia10Ⅱ」はROM64GB、RAM4GBのものです。写真機能はユーザー意見では今ひとつのようですが、軽量なこと、マイクロSDカードスロットがついていること、ROM、RAMの容量から、モデルとしては中位モデルではありますが、機種を最新のものに変更するのは何かわくわくします。スマホは本当に便利で、この時代に生きていて本当に幸せを実感しています。元来気が小さいので、ちょっと大きな買い物をするときにはドキドキしてしまいます。スマホもこの次の機種は、5Gモデルにしたいと夢みていますが、そこまで元気でいられるよう頑張りたいものです。スマホはわたしにとって最高のツールですし、個人秘書のようにいろいろ助けてくれて感謝感激ですし、またどこまで便利なのかを追求する楽しみもあり、日々時間が足りないくらいで飽きることがありませんね。 <スマホの機種変更時に必要な準備とその方法>以下は「Dr.Home.Net」 https://www.4900.co.jp/smarticle/10550/をご紹介させていただきます(転載です)スマホは、昔ながらのガラケーとは違って「手のひらサイズのパソコン」のようなものであるため、機種変更するときはそれなりの準備が必要です。特に、スマホに入っているデータを新機種に引っ越しさせる準備は、機種変更前に済ませておかなければなりません。では、機種変更前に行う、具体的な準備を見ていきましょう。 [電話帳のバックアップ]今まで使用していた携帯に登録しているすべての電話番号やメールアドレスを、機種変更後新しい携帯に手動で移し替えるのは大変な作業です。そこで、電話帳のバックアップを行い、新機種への移行が簡単に実施できるように準備しておきましょう。お使いの機種によってPCへのバックアップ方法が異なりますが、iPhoneの場合はPCに入っているiTunesというソフトウエアを立ち上げ、そこで電話帳やメールなどのデータを同期させます。新たなスマホに以降する際は、そこから復元するのが1番簡単な方法となるようです。ほかにも、電話帳データの移行が可能なアプリや、スマホを購入した店舗でデータ移行を受けつけてくれる場合もありますので、いずれかの方法で必ずバックアップを取るようにしましょう。[アプリの引き継ぎ準備]カレンダー機能に動画、SNSなど、あらゆるタイプのアプリをご使用かと思いますが、その中でも使用頻度が高いアプリの引き継ぎ準備も大切です。多くの方が連絡手段として使っているSNS・メッセージアプリは、旧機種のLINE情報のバックアップを取り、新機種にアプリをダウンロードした後、バックアップデータを反映させるという作業が必要となりますので、必ず事前に対応しておきましょう。また、新機種でアプリを改めてダウンロードして利用する際、アカウント登録している場合は再度ログインが必要となるため、IDやパスワードも忘れないよう注意しましょう。[写真・動画・音楽のバックアップ]大切な思い出を重ねた写真や動画、音楽データも必ずバックアップ・保存しておきましょう。PCに接続してバックアップ専用ソフトに保存する、インターネット上のデータ保存サービスを利用する、外付けHDDと呼ばれる外部記憶装置を接続して別途保管するなどの方法があります。 [おサイフケータイ]おサイフケータイの場合は、旧スマホでデータの預け入れを実施し、新しいスマホで受け取るのが一般的です。しかし、利用している電子マネー会社によりデータ移行の方法も異なるため、一度問い合わせを行うことをおすすめします。また、Androidの場合、スマホ本体内部に付属されている「SDカード」と呼ばれる、小さなICチップにさまざまなデータを収めることが可能です。SDカードを利用すれば、新しいスマホに差すだけでデータの移行が完了します。万が一、SDカードだけではデータ保存ができているか不安なときは、上記でもご紹介した外付けHDDやクラウド上のデータ保管サービスの利用がおすすめです。 <機種変更の移行処理は自分でできるか不安でした>スマホの機種変更をSonyの「Xperia10Ⅱ」にしたのですが、ラインのトーク移行の仕方をミスし、最近のラインした内容を保存しないで機種変更処理したのですべて消えてしまいました。残しておきたいものは、都度バックアップしておくことが必要ですね。機種変更時の移行対応は結構注意が必要です。とくに、paypayなどお金に係る移行は慎重にやりました。スマホを新機種にするときは、大きく幾つかに分かれると思います。挙げてみると、① カレンダー、連絡帳など基本的なアプリ(キャリアのものかgoogleにするか)② 自分がいれたアプリ(前の機種に入れたるアプリ)③ お金にからむ銀行、クレジット会社、通販などのアプリ④ 時系列データを有するアプリ(体組成計、血圧など)⑤ Lineアプリ(過去経緯、旧新スマホのやる順番)などがありました。初級レベルのわたしには、ちょっとやりがいがありすぎましたが、自信になりました。[各IDとパスワードなどの再確認]上記でも少し記載しましたが、スマホで使用するアプリやGoogle、Appleなどの 各IDやパスワードは機種変更する前に必ず再確認、整理しておくことが必要だと思います。。利用していたネットサイトやアプリに新機種でログインするとき、IDやパスワードの入力を求められるケースが多いため、忘れてしまうと利用できなくなってしまいます。やっと、以前のスマホから新スマホにほとんど全て移行完了できました。スマホのアプリ毎に、旧、新の順に手続きが必要そうなものはネットで「機種変更」と入れ調べながらやりました。ID,アカウント、パスワードなど、アプリごとに記したメモが助かりました。アプリごとに機種変更の内容をそれぞれ調べることになるので、結果的にかなり全体的にレベルアップができました。途中からアプリなど思うように操作できたり、移行できたりし始めました。久しぶりに根を詰めてやりました。やり終えて、実に爽快な気分となりました。 ~あとがき~スマホは今や私たちの生活に欠かせないアイテムの1つとなっています。毎年技術も性能も大きく進歩していますので、新機種はどのように変わったのか知るのも楽しみです。スマホは使い方によっては、さまざまな場面で活躍してくれる分、より高機能な機種が欲しくなりますね。わたしもできたら最新鋭の5Gなどとも思いましたが、少しづつ、機種をステップアップしていくのも楽しいかと考えて今回の「Xperia 10Ⅱ」にしました。従って、今後もたびたび、スマホの機種変更があるわけですので、ある程度自分が機種変更の移行処理を自力でやってみることがいいですね。大変ですが、自分でできたときの満足感は大きなものがありました。以上
2020.10.14
コメント(0)

庭の土いじりをしていると、土に交じって小石、こぶし大の石と出会います。土にも粘土というものや泥といわれるものなど世界が広がります。また、近くの河川敷や海岸や砂丘(中田島砂丘など)には砂があり、ウォーキング途中には大きな石(岩石)などもあります。さらに、鉱物といわれるものなど地中、地表に散見されることがあります。 ところで、それぞれよくわかっているかというと、なかなか説明ができません。そこで、ちょっと深堀して調べてみました。正確な定義や説明はなかなか難解ですが、わかりやすいサイトを見つけてご紹介しようと思います。どうしても、自分が理解できるサイトを集めた形となっており、わかりやすさ、専門性などにばらつきがあることをご容赦ください。調べた項目は、下記の通りとなります。① 土② 砂③ 粘土、磁器、陶器④ 石、岩石⑤ 泥⑥ 鉱石、鉱物 <まずは“土”です>出典:キッズネットhttps://kids.gakken.co.jp/kagaku/kagaku110/science0298/(出典:キッズネット)土は岩と生き物からできています。岩は、長い年月の間に自然の力でくだかれたり、けずられたりして、細かくなっていきます。砂場(すなば)の砂なども、このようにもともと岩だったものがけずられてできたものです。しかし、岩がどんなに細かくなっても、それだけでは土にはなりません。土になるためには細かくなった岩に、生き物の力が必要なのです。細かくくだけた岩に、バクテリアがすみついたり、こけが生えたり、動物や植物の死がいがたまったりします。すると、だんだんと砂が土に変わっていくというわけなのです。こうしてできた土には栄養(えいよう)があります。花や木は、この栄養で育つのです。※岩石から削られた砂は、純粋に鉱物から構成されています。そこにバクテリア、地衣類、コケ類などが定住します。次に死んだ生物の分解によって、有機物と腐植物がたまってきます。その後、水や空気などの働きによって、鉱物質と有機物の複雑な混合物ができます。これが土壌、つまり土なのです。→ものすごい年月を経たうえで“土”がつくられているのですね。<次は“砂”をみてみましょう>(出典:JAMSTEC/Wikipedia)https://www.jamstec.go.jp/cdex/j/educators/sand/textbook/text02.html [砂と礫の分類]まず「砂」とは何かを説明しましょう。「そんなこと説明されなくても知っているよ。」と思われるかもしれませんが、地質学にはちゃんとした「砂」の定義があるのです。地質学の分類では、直径が2mmから1/16(0.0625)mmの堆積粒子を砂と呼ぶことになっています。これより粗いものは礫(れき)と呼ばれ、これより細かいものはシルトと呼ばれます。 ※シルトシルト(英: silt)あるいは日本語で沈泥(ちんでい)とは、砂より小さく粘土より粗い砕屑物のこと。地質学では、泥(粒径が1/16mm以下のもの)の中で、粘土(粒径が1/256mm以下)より粒が大きく粗いもの(粒径1/16mm - 1/256mm)をシルトと呼ぶ。シルトが続成作用によって堆積岩になったものをシルト岩という。 [砂とは何か?]砂を含めた多くの堆積粒子は、岩石が風雨にさらされて壊れた(風化作用)「かけら」からできています。一般には、はじめ大きな「かけら」(礫:れき)だっ たものが、河川によって下流に運ばれる途中でさらに細かく砕かれ、細かいものほどより遠くまで運ばれます。つまり、上流の河原では大きな礫(れき)が多 く、中流、下流と下るにつれて、細かい礫(れき)から砂へと変化していくのです。 砂粒は多くの場合、鉱物結晶1個(鉱物単結晶)からできています。岩石はさまざまな鉱物の集合体ですが、これが壊れて運ばれる過程で鉱物単位に分離され、 砂サイズになるとほぼ1個の鉱物から成る粒子になります。しかし中には(特にやや粗い砂には)、まだ完全に単結晶にまで分離しきれていない複合粒子もあり、これを岩片と呼んでいます。また、原岩が非結晶質の岩石(泥岩やチャートなど)の場合にも、壊れたかけらは鉱物ではなく岩片になります。それから、鉱 物ではありませんが、火山ガラスのかけらなども同様に壊れて砂粒になることがあります。また、海岸では炭酸塩や珪酸塩の殻を持った生物の死骸(化石)が砂 として溜まっているものがあります。有名な「星砂」はこの例です。→ちょっと専門的になってきましたが、もう少し頑張って深堀してみます。※チャートチャート(英: chert)あるいは角岩(かくがん)は、堆積岩の一種。主成分は二酸化ケイ素(SiO2、石英)で、この成分を持つ放散虫・海綿動物などの動物の殻や骨片(微化石)が海底に堆積してできた岩石(無生物起源のものがあるという説もある)。断面をルーペで見ると放散虫の殻が点状に見えるものもある。非常に硬い岩石で、層状をなすことが多い。釘などで削ってもほとんど傷がつかない。 チャートには赤色、緑色、淡緑灰色、淡青灰色、灰色、黒色など様々な色のものがある。暖色系のものは、酸化鉄鉱物に起因し、暗色系のものは硫化鉄や炭素化合物に起因する。緑色のものは、緑色の粘土鉱物を含むためである。これらは、堆積した環境によって変わると考えられている。 (出典:wikipedia チャート/角岩)[砂による地形のいろいろ]砂が広がり植物が極端に少ない地形を「砂漠」と呼ぶ。世界的に見れば砂より岩石や礫が多い。砂の堆積する海岸を「砂浜」と呼ぶ。珊瑚礁などに見られる砂浜などは珊瑚の破砕物である。砂が丘状に堆積する地形を「砂丘」と呼ぶ。砂が海に堆積してできる、くちばし型の地形を「砂嘴」と呼ぶ。砂が海に細長く堆積して出来る地形を「砂州」と呼ぶ。 <粘土とは、磁器、陶器との関係は>(出典:コトバンク)https://kotobank.jp/word/%E7%B2%98%E5%9C%9F-111710一般語としては、きわめて微細な風化物の粒からなる可塑性と粘性に富んだ物質のことで、砂粒との違いが容易に認識されやすい。岩石の風化物として地質学的に定義すれば、粒径256分の1(2-8)ミリメートル以下の土状沈殿物(海底または湖底の)をいい、地層の間では粘土層あるいは礫(れき)や砂と混在した状態をなしている。粘土の属性として共通の特性は、その化学組成が岩石の風化過程で生成したケイ酸アルミニウムの結晶構造を主体としていることである。※この構造は100ナノメートル~1マイクロメートルの単位で測られるようなコロイド粒子であって、電子顕微鏡で明らかにされた。化学組成の違いによって何種類もの粘土が分類されるが、代表的なものはカオリナイトである。その結晶構造はケイ素四面体(ケイ素原子を中心に置き、四つの酸素原子をその周りに配した立体)が前後左右に連結した結晶板と、アルミニウム八面体(アルミニウム原子の周りに6個の酸素原子を配したもの)が1対1の基本構造をもって連結した結晶板が、上下に何枚も重なり合って1粒の粘土粒子をつくっていると解釈されている。またケイ素四面体とアルミニウム八面体が2対1で重なり合うタイプにはバーミキュライトなどがある。これら粘土の表面や結晶板構造の内面にマイナス荷電が生じ、これにプラスのイオン(カリウムやカルシウム、ときには水素)が吸着されて安定する。また水の分子も吸着されるので、粘土は吸湿性をもつ。さらに粘土粒子どうし、あるいは粗粒の砂やシルト粒子を結合させる力があり、土壌粒子全体に集合体(団粒など)を形成させる効果を現す。粘土にはほかにモンモリロナイト、イライト、ハロイサイト、ベントナイトなどの種類があり、吸湿性の強さには違いがみられる。アロフェンとよばれる粘土鉱物は火山灰の風化過程で生ずるもので、粘土としては例外的に結晶構造をもたない、いわゆる非晶質粘土である。これは有機質コロイド粒子である腐植と結合しやすいという特性をもっている。粘土を土壌の生成過程でみると、風化作用に伴って生ずる二次的生成物であるから、その鉱物成分を二次鉱物といい、あるいは粘土鉱物ともよんで、土壌の生成論、分類論の展開のうえに重要な役割を与えている。[浅海重夫氏・渡邊眞紀子氏][磁器・陶器](出典:相馬焼)http://soma-yaki.com/news/ygceramics.html日本の焼き物ですと陶器には大堀相馬焼や信楽焼が、磁器には有田焼や九谷焼がありますね。国内外問わず、現在使われている食器類は磁器のものが比較的多いようです。さて、この二つの大きな違いを一言でいえば原材料の違いです。 陶器も磁器も珪石と長石という鉱物を含んだ粘土を使うのですが、磁器の方がより長石の割合が高い特別な粘土を使い、焼く時も磁器の方がより高温です。陶器のほうが重厚感を感じる、とか、磁器のほうが透明感を感じる、のようなイメージを持っている方も多いかと思いますが、実はこれらのイメージも原材料と焼成、つまり焼く時の温度の違いによるものです。そもそも陶磁器が焼くことによって固まるのは熱によって粘土内に含まれる長石が溶け、珪石と土をつなぐ接着剤のような役目を果たすからです。 陶器の場合、900度程度で焼くのが一般的とのことですが、この状態だと吸水性が極めて高く、水が染みてしまうため、ガラス質の釉薬をかけてもう一度焼くことで表面がつるつるしたものになります。また、低温で焼いているため土と珪石の結び付きが磁器より弱く、器としての硬さも磁器よりは脆いため、割れにくいよう比較的厚めに作られているものが多いです。 <石・岩石とは>(出典:キッズネット)https://kids.gakken.co.jp/kagaku/kagaku110/science0257/岩というのは、大きな石のことですから、岩も石も大きさがちがうだけで同じものであるといえます。そこで、理科の勉強では、岩や石のことをまとめて「岩石」といいます。[岩石の3つの分類]この岩石は、そのでき方から大きく3つに分類されています。まず第1番目は「火成岩(かせいがん)」とよばれる岩石です。火成岩は、火山が作った岩石、と考えればいいでしょう。地面の下には、熱くてドロドロにとけたマグマというものがあるところがあります。これがふき出してくるところが火山です。火成岩は、このマグマが火山からふき出したあと、地表でかたまったり、また、ふき出す前に地下でゆっくりとかたまったりしてできた岩石のことです。 2番目は、「堆積岩(たいせきがん)」とよばれる岩石です。堆積岩というのは、何百万年、何千万年、何億年というはるか大昔に、海や湖の底にたまったどろや砂、小石などが長い年月の間に上からの重みなどにおされて、かたまってできた岩石です。 3番目は、「変成岩(へんせいがん)」とよばれる岩石です。変成岩というのは、火成岩や堆積岩が、地下のマグマの熱や、地面の中ではたらくおしつぶす力などによって、すがたや性質が変わってしまった岩石のことです。火成岩や堆積岩が熱や圧力で変身したものといえるでしょう。 <“泥”という存在>地質学における泥とは、岩石が風化・浸食・運搬され生じた陸源の砕屑物のうち、礫や砂よりも細かいものをいう。その分類は粒子の粒径によって決められており、1/16mm以下のものを泥と呼ぶ。 泥は必要に応じてさらに細かく分類され、1/16mm(62.5µm)〜1/256mm(4µm)のものをシルト、それ以下のものを粘土と呼ぶ。 泥が続成作用により固結してできた堆積岩を、泥岩あるいは泥質岩といい、これには構成粒子のサイズや構造の違いによって、シルト岩と粘土岩、頁岩などと呼ばれるものが含まれる。 <“”鉱石“鉱物”とは>(出典:wikipedia)①鉱物 - その組成がほぼ単一なもので、なおかつ単結晶であるもの。組成が単一であっても複数の結晶を含む場合は岩石として扱われる。大理石は方解石の結晶により構成されるが、その組成は単結晶ではなく複数の結晶の集合体であるため鉱物ではなく岩石である。②岩石 - 組成が非均質であり、鉱物の集合によって構成されているもの。花崗岩は石英、長石、雲母などの鉱物の集合からなっているため、鉱物ではなく岩石である。③鉱石 - 鉱物や岩石を資源として扱う場合に用いられる通称である。鉄鉱石、硫化鉄鉱、ろう石、石灰石など。 [地質学の鉱物とは]https://www.geolab.jp/science/2003/04/science-007.php地質学の鉱物とは、以下の条件を全て満たさなければなりません。1.結晶質の固体であること。2.自然に生成されること。3.無機物であること。4.ある特定の化学組成を持つこと。5.特有の物理的性質を持つこと。 ~あとがき~ 最初は”土”を調べたかったのですが、砂、石・岩石、粘土、磁器・陶器、鉱物・鉱石などと広範囲になってしましました。やはり、個々の定義はなかなか難解で結果的によく理解できずに、恐縮ですがそのまま紹介するだけに終わってしまいました。今回感じたのは。”土”は大変貴重なもので、想像できないくらい長い間をへて作られ、存在する物資であること、まさに「歴史的産物」とも言えますね。”土”がないと、人間にとって必要な野菜もお米も麦もできません。さらにいえば、植物も木々も育ちません。まさに、いきものが生きていくための必要不可避なもののひとつであると認識を新たにしました。以上
2020.10.11
コメント(0)

北海道の「富良野」に移り住んで、役者や脚本家を要請する「富良野塾」主宰されたり、代表作のひとつである「北の国から」など多数の代表作のある日本を代表する脚本家でもある「倉本聰」さんの「点描画展」が地元の有志の尽力で「磐田市」で開催されることになりました。時期は10月3日(土)から2021年1月17日まで「磐田市香りの博物館」で開催されています。(倉本聰氏 点描画展より)倉本さんは脚本家ですが、十数年にわたり、富良野のアトリエや旅先で周辺の樹々をみつめ、その一本一本にドラマを見出して「樹」を描き続けています。作品はいずれもスケッチブックに細いペン先で無数の点を打つという繊細な点描画の手法によって制作されており、その総数は1000点を超えています。本展では現在進行形で描き続けている点描画から約60点を厳選して紹介しています。大変貴重な機会でもありますので、ぜひ皆様もお出かけになられたらどうでしょうか。<倉本聰・点描画展>[開催日]令和2年10月3日(土)~令和3年1月17日(日)[会 場]磐田市香りの博物館(JR豊田町駅から北へ徒歩5分)〒静岡県磐田市立野2019-15 TEL:0538-36-8891[入館料]一般:800円(670円)学生:200円(160円)(カッコ内は20名様以上の団体割引料金) 本件の問い合わせ先「倉本聰」点描画展 磐田実行委員会 事務局 田之上康成〒438-0086 磐田市見付1729-45 自宅電話:0538-35-8873 ~あとがき~ 正直いって倉本聰さんがこんなに緻密で素晴らしい「点描画」を書かれているとは恥ずかしなが知りませんでした。やはり、倉本聰さんというと『北の国から』です。『北の国から』(きたのくにから)は、フジテレビ系で放送された日本のテレビドラマのシリーズで原作・脚本は倉本聰。主演は田中邦衛さんでした。 連続ドラマとして「金曜劇場」枠で1981年10月9日から1982年3月26日まで毎週金曜日22:00 - 22:54に放送された後、ドラマスペシャルとしてシリーズ化され、8編のドラマスペシャルが1983年から2002年まで放送されました。北海道富良野市(主に麓郷地区)を舞台に、北海道の雄大な自然の中で田中演じる主人公・黒板五郎と2人の子どもの成長を21年間にわたって描く長編ドラマです。(Wikipediaより一部引用)家族のきずなや北海道の雄大だが厳しい自然を感じながらも、当時自分たちの小さなこどもを育てながら、すべてに必死で余裕のなかった人生の時代に、つかの間の時間に夫婦二人で見たこのドラマに感動をした記憶が残っています。以上
2020.10.07
コメント(1)

スマホの中の内部ストレージやマイクロSDカードの「フォルダ」についてよくわからないので、整理してみました。スマホの「設定」画面から内部共有ストレージ、SDカード(スマホ装着)をみると、①内部共有ストレージは日本語での表示となっていますが、②それでもそのうちの「ファイルフォルダ」の下の階層やSDカード内のフォルダおよび③アプリ「ファイルマネージャー」で表示されるメインストレージ、SDカードのフォルダ名は全部横文字で、ちょっとなじみにくいものです。自分の好きなように並び順や日本語でのフォルダ作りなどカスタマイズしたいのですが、どうも「スマホ=既存フォルダ名」で関連付けされているようですので、どうも注意が必要なようです。 (① ・②Xperiaスマホ内「設定」画面)(③ファイルマネージャのフォルダ一覧)以下は「あっとはっく」さんのサイトを紹介させていただきます。(転載です)https://sp7pc.com/google/android/29515<Androidのフォルダ構成とは? >iPhoneとは異なり、Androidは内部ストレージに保存されたファイルの移動/削除を自由にできるメリットがあります。だからこそ、各フォルダの役割を理解していないと、大切なデータを消してしまったり、思い通りにファイルを保存できず失敗することもあります。そこで本記事では、Androidのフォルダ構成の基本的な意味について紹介します。内部ストレージやSDカードにある各ディレクトリの役割を理解しておくと、もっとAndroidを使いこなすことができます。(資料をもとに筆者が作表しました)~あとがき~ 意外に知っているようで正しく理解が出来ているかと自問するとあやふやなことが多々あります。今回もスマホのフォルダ名・構成(ディレクトリー)使っていて、なんかしっくりこない感じがしていました。「DCIM」は写真とぼんやり理解していますが、「Picture」どこが違うのかなど、どこまわかっていて、どこが分かっていないのか分かるように整理してみました。xperia独特のファイルがあることがわかりました(100ANDRO)。今回は全体ではなくほんの一部ですが、少しづつ深堀したいと思っています。少しわかって収穫でした。以上
2020.10.05
コメント(0)

わたしは車での旅行が大好きですが、最近は新型コロナの流行もありちょっと遠くにはなかなか行けずに残念です。そこで、近場の名所旧跡などを「ふるさとの散歩道」と勝手に名付けてときどき「スマホ」を片手に訪問しています。今日は、周智郡森町にある「小國神社」に行ってきました。この遠江国一宮「小國神社」が鎮座する「森町」は「遠州の小京都」とも呼ばれ、永い歴史が刻まれた神社・仏閣が今に残ります。常に神々を敬う心を持ちながら伝承される舞楽や祭りは、森町独自の文化を築いてきました。また、「清水次郎長」一家の「森の石松」の出身地であり、祀られている「大洞院」というお寺もあります。(撮影筆者 大国主命) 出典:以下の文献を参考にさせていただきました。 ① ご参拝案内|遠江國一宮 小國神社http://www.okunijinja.or.jp/guide/② 大国主:wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB③ やおよろずの日本 https://yaoyorozunihon.com/kojiki0002-1630/ <小国神社とは>遠江国一宮小國神社は静岡県の西部、遠州地方の森町一宮、本宮山の山麓より湧きいずる清流宮川のほとりに鎮座しています。御祭神、大己貴命(おおなむちのみこと)は別名大国様(だいこくさま)とも呼ばれ、神話の中でも「因幡の白うさぎ」を助けられた「心の優しい神さま」として親しまれています。(撮影:筆者 参道から本殿をのぞむ)創建から1400余年、悠久の時の中で徳川家康をはじめとする数々の武将からの篤い信仰を受けるとともに、人々から「遠江国の守護神」として国土開発・諸業繁栄・商売繁昌・家内安全など古くから篤い信仰を集めてきました。 (撮影:筆者)[ことのままのかみやしろ]近年では、「願い事が意のままに叶う神社」事任神社(ことのままのかみやしろ)としても広く知られ、縁結び、厄除け、心願成就、交通安全の御神徳が高い神様としても崇敬されています。 [古代の森]約30万坪(東京ドーム21個分)の広大なご神域は古より息づく杉檜の大樹の森に包まれ、四季折々に花々が咲き誇ります。特に宮川沿いに大小約1000本林立するモミジは青葉輝く新緑の季節から深紅に染まる紅葉の季節まで美しく、極上の色彩に目を奪われます。また、毎年6月には「一宮花菖蒲園」が開園し梅雨の季節に彩りを添えます。古代の森に包まれながら、日々の煩雑さから解放され、自然の息吹きそして尊さを感じて下さい。 境内にそびえ立つ縁結びのご神木「ひょうの木」や、清らかな水で満たされた願い待ちの池「事待池」には、今も昔も変わらない人々の「祈り」があります(撮影:筆者)(撮影:筆者)<場所ほか>縁結び・厄除け・心願成就〒437-0226 静岡県周智郡森町一宮 3956-1TEL/0538-89-7302FAX/0538-89-7367 初詣・安産祈願・初宮詣・七五三詣・神前結婚式・交通安全・厄除祈願・家内安全・良縁成就<大国主命>『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけており、記紀・『先代旧事本紀』・『出雲国風土記』に記載されている他、各地の神社社伝にも名がある。子供の数は『古事記』には180柱、『日本書紀』には181柱と書かれている。(出典:やおよろずの日本)<大国主命祀る神社>大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。 出雲大社(島根県出雲市)物部神社 境内 稲荷神社、一宮祖霊社(島根県大田市)大洗磯前神社(茨城県大洗町)神田明神 (東京都千代田区)大國魂神社(東京都府中市)氷川神社(埼玉県さいたま市)一之宮貫前神社 境内 咲前神社(群馬県富岡市)二荒山神社(栃木県宇都宮市)日光二荒山神社(栃木県日光市)大前神社(栃木県真岡市)高瀬神社(富山県南砺市)気多大社(石川県羽咋市)気多本宮(石川県七尾市)小国神社(静岡県周智郡)富士山本宮浅間大社 境内 久須志神社(静岡県富士宮市)諏訪大社 境内 大国主社、秋宮恵比寿社(長野県諏訪市、諏訪郡)南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)建部大社(滋賀県大津市)砥鹿神社(愛知県豊川市)出雲大神宮(京都府亀岡市)愛宕神社(京都府亀岡市)一宮神社(京都府福知山市)地主神社(京都府京都市)大国主神社(大阪府大阪市)道明寺天満宮 境内 元宮土師社(大阪府藤井寺市)大神神社(奈良県桜井市)高砂神社(兵庫県高砂市)伊和神社(兵庫県宍粟市)中山神社 境内 国司社(岡山県津山市)飛瀧神社(和歌山県那智勝浦町)金刀比羅宮(香川県仲多度郡)八桙神社(徳島県阿南市)薬師神社 – 全国各地 ほか、全国の出雲神社で祀られている。また北海道神宮(北海道札幌市)をはじめ北海道内のいくつかの神社では、「開拓三神」として大国魂神・少彦名神と共に祀られている ~あとがき~ 地元の近隣の名所旧跡などは意識すると結構たくさんあります。この近辺で言えば、さまざまな古墳がありますが、前方後円墳もたくさん見ることができます。古墳時代で県内最大の前方後円墳もこの磐田市にあります。また奈良時代の遠江国分寺、国分尼寺跡、見付(東海道53次)付近の鎌倉時代の重層墳墓跡、その後の神社、仏教各宗派が揃うお寺、日本最古の木造建築の校舎、奇祭といわれる「裸まつり」など次々と磐田しかない「オンリーワン」がでてきます。時間のある時に「ふるさとの散歩道」を体験されたらどうでしょうか。以上
2020.10.02
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1


