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今月の16日と17日に、第二次世界大戦の悲劇を扱ったドキュメンタリーが放送されていた。17日は、鹿児島の知覧より飛び立った特攻隊員の妹さんが、もしかしたら「お兄さん」は生存しているのではないか、と母親の遺志を継いで、今でも捜し続けている姿を追ったもの。前日の16日は、戦時中最強部隊と謳われた『菊兵団』の激戦地ビルマ(現在のミャンマー)での悲劇的な戦いを追ったものだった。『菊兵団』は、皇室の紋章である『菊』を名乗ったことでも分かるように、勇猛果敢な精鋭部隊だったようだ。「証言記録 密林に倒れた最強部隊~福岡県・陸軍第十八師団~」 太平洋戦争から60年余り、元兵士たちは長く自分の戦争体験について口を閉ざしてきた。しかし近年、このままでは自分たちの体験が忘れられてしまうと、ようやく重い口を開き始めた。福岡県久留米市にあった陸軍第十八師団、通称“菊兵団”。日中戦争のぼっ発以降、中国、シンガポールを転戦、常勝の部隊として勇名を馳せた。昭和17年菊兵団が転戦を命じられたのは、ビルマ、現在のミャンマーだった。しかし、菊兵団のビルマでの戦いは戦略も戦術もなきに等しいものだった。ジャングルの泥沼で野砲が運べない、砲弾も医療品も足りない・・・逆に連合軍は飛行機と戦車を駆使した戦術で圧倒。密林にこもる菊兵団を追い詰めていく。終戦間近の昭和20年、すでに野砲も失った部隊は小銃と短刀だけで捨て身の戦闘に走る。番組では、陸軍第十八師団に所属し、過酷な戦場体験をくぐり抜けた人たちの証言をつづり、その生々しい証言から戦争の悲惨さと極限における人間の姿を浮き彫りにする。実は、今は亡き父は『菊兵団』ではないが、同じく久留米の56師団に所属し、やはりビルマで戦っている。否、もしかしたら間違っているかもしれないが、戦車に乗っていたこと、56連隊に所属していたことを聞いた記憶があるので、おそらく56師団だと思われる。『ビルマの戦い ( Wikipedia)』そんなわけで、部隊は違っていても、同じビルマで戦っておられた方々の証言を、食い入るように見てしまった。父は、生前過酷な戦場体験の話は殆どしなかった。酒を飲んで酔えば、真偽は定かでない手柄を立てた話などを聞かせてくれたが、これも今となっては良い思い出となった。番組の中で、八十代後半から九十代前半の方が、正に遺言のように重い口を開き、あまりにも過酷、あまりにも無惨な体験を語っておられた。生きながらウジがわいているような戦友を助けることも出来ず、ただ前に進むのみ。父は、こんな体験を胸の奥に仕舞ったままだったのだろうか。そう言えば、こんなことがあった。姪が小学校の時だったと思うが、たまたま我が家で軍服を着た父の写真を見た時、「えっ、おじいちゃんは戦争に行ったと?」と怖い顔になった。そして、あろうことか姉がその写真を隠そうとするではないか。聞けば、学校で戦争に参加したもの全てが犯罪者のように教えられているとか。それを聞いてショックだったが、強い憤りも感じた。尋常小学校しか出ておらず無学な父だったが、御国のために命を賭して戦ったことを誇りにしていたはず。学歴など無いに等しい父などは、番組で証言されておられた方々同様に、最前線に行かされ戦ったのではないか。それが、まさか加害者、犯罪者とは。幸いと言うか、父はこの時既に他界していたので、娘や孫のこの様子を見ることはなかった。その後、姪はバランス感覚を持って成長してくれたので、それだけは救いかもしれない。被害者としての『平和の語部』はいらっしゃるが、最前線で戦った名も無き兵士の『語部』など殆ど聞いたことがない。況してや、戦地で亡くなった方々の『声無き声』など聞こうともしない。著名人の平和へのメッセージを聞いて感動するのもいいが、名も無き人たちの声をもっともっと聞くべきではなかったか。しかし、よく考えてみると、新聞の字も半分も読めなかった父が、自らの体験を文章に、或いは人前で『語る』など出来るはずもなく、父ほど無学ではないにしろ、名も無き兵士たちに、それをやれと言うのも、余りにも酷なことかもしれない。そういう意味では、この番組での証言は貴重だったと思う。それにしても、当時の一部の軍指導者、指揮官たちの無能、そして非道ぶりには目を覆うばかりだ。補給路を断たれ、最後は武器も食料もない状況で、ただただ前に進め、そして死ぬまで戦え。『13人の小隊に6挺の小銃しかなく、それでも戦った』という証言には言葉もなかった。番組の中では語られなかったが、そもそも作戦そのものが無謀極まりないもので、敗色濃厚と知るや多くの部下を見捨てて敵前逃亡し、あろうことか戦後も生き抜き余生を言い訳で全うした指揮官もいたようだ。『インパール作戦』そんな中にあって、こういう指揮官もおられたことは唯一の救いか?。私が何故こんなことを書こうと思ったか、と問われれば、元菊兵団の証言番組を見たためと言うより、終戦の日に「靖国神社に行くか行かないかは言わない」という言語明瞭意味不明なことを言う首相がいたこと。そして、その首相が任命した防衛大臣は、部下を見捨てて敵前逃亡し、戦後も生き抜き言い訳に終始した指揮官とダブって見えたこと。携帯電話が繋がらなかったとか、大臣になって1ヶ月足らずで私は辞める宣言?、この人物に自衛隊20数万人の運命が託されていた、と考えるだけでゾッとするではないか。本来私ごときが、こんなことを書く資格はないのだろうけど、ちょっと酷すぎる気がする。まだ読んではいないが『幼児化する日本社会』というタイトルの本が出ているらしい。幼児化?とは何を意味するのだろう?。テレビでは、怖い顔をした占い師のおばさんやニタニタ笑っている霊能者が幅を利かせているが、もしそんな能力があるのなら、戦地で未だに彷徨っているであろう英霊を慰めていただきたいものだ。戦場に散った名も無き兵士の皆様、安らかに御眠りください。それではまた。父は10数年前に亡くなったが、あの防衛大臣を見たら何と言っただろう?・・・クリックよろしく!。『敗者復活戦』の物語を初めから読みたい方は⇒こちらへジャ~ンプ!会社のサイトです。こんな仕事をやっています。コメントの返事がなかなかできませんので、しばらくの間書くだけの一方通行とさせていただきます。どうかお許しください。
2007/08/25
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このお盆休みも社員は入れ替わりで出勤している。県内の食品メーカの工場、熊本の印刷会社の工場とこの猛暑のなか頑張っている。そんななか、私は昨日は一日休んで昼間は親戚の法事に行き、そして夜は中学時代の同窓会に出席した。田舎でおまけに校区の関係で同学年は57人だった思うが、30人を超える人数が集まり、先生も二人出席していただいた。今年50歳になる節目ということもあり、参加者も多かったのだろう。男は時々会うのもいるし、10年程前の同窓会以来というくらいなのだが、女性のなかには30数年振りという出席者もいて、誰やったかいな?と一目では分からないくらいだった(笑)。なかでも、マドンナ的な存在だったS子ちゃんに30年以上の時を越えて会えたのは、嬉しい限りだった。会場では、S子ちゃんの方から私の席に寄ってきて「鍛冶屋くんお久しぶり・・・」と手を出してきて、思わずその手に???などはすることもなく、ただ握手のみだったが、皆もいない会場の外で運よく二人きりで話せたのは、嬉しいを飛び越えて感激した次第(笑)。聞けば、彼女は義理の父母、更に義理の祖父母と同居しながら4人の子を儲け、一家の主婦として奮闘してきたようで、この間の同窓会に参加するなど、とても口に出来なかったとか。そして、ここに来て漸く余裕が出てきて、思い切って出席したとのこと。話すと言うより、捲くし立てるような感じだったが、昔と変わらない体型と所帯やつれなど全くない表情を見ていると、日々奮闘しながらも彼女は幸せな結婚生活を送っていることが想像できた。あ~~~、旦那さんが羨ましい(笑)。他の同級生たちとも時間が足らないほど話が弾んだが、恩師のA先生との再会は、和解?と言っていいものだった。和解、と言えば誤解を招くかもしれない。一言で言えば、思想・信条の違いから、特に私が社会人になってからは、何かにつけてぶつかることが多かった。恩師の言うことなので、たとえおしきせがましくとも黙って聞いていればいいものを、それが出来ない若い頃の私がいて、いつの間にか疎遠になっていた。体育の先生だったA先生が、驚いたことに会場でマイクの前まで歩かれる足もとがおぼつかず、聞けば頚椎の疾患の後遺症だとか。その病名を聞いて、なんで手術が必要で、それでも直らず後遺症が残るのか、それを理解できるのは会場では私だけだったかもしれない。病名は違うが、同じ頚椎の疾患で手術して、軽いとは言え後遺症が残っている私から見れば、重篤であったろうその疾患とリハビリでここまで回復されたことが容易に想像できた。先生に「実は私も手術を・・・」とお互いの手術痕を見せ合い、「なんでお前のような頑丈な奴が」と逆に言われる始末(笑)。体育の先生になるくらいだから運動神経は抜群だったA先生が、今でもリハビリをされる毎日で、田舎の学校とは言え、キャプテンで4番でキャッチャーだった私が、町内のソフトボール大会にも参加できない、というこの状況を誰が想像できただろうか。誰が?と言うより、当人たちが一番驚いている(笑)。話をしている時思ったのは、病気のせいなのか、年齢のせいなのか、痛いほど尖っていたトゲは無くなり、先生の話を素直に聞ける自分が嬉しかったこと。お互いトゲが無くなったと言えば、先生に失礼ですかね(笑)。先生には、普段人には見せない弱い私のことを告白した。病気した後、金も無くなり、どうしようもなくなった時、先生を始め同級生には会いたくなかった時期があったこと。誇り高き?鍛冶屋の息子は、惨めで情けないところを人に悟られるのが耐えられなかったこと。そんな時に、営業譲渡の話があり、残されたのはこれしかないと思い、なんとか頑張っていること。それを聞いて、先生からこんなことを言っていただいた。「それは偶然ではなく、おまえがやってきたことがそうさせたんじゃないか」出来の悪い子ほどかわいい?ではないだろうが、私を激励するために言っていただいたと分かっていても、有り難い言葉だった。会が終わって2階の会場から1階まで先生に手をお貸しして、数人でエレベーターで降りたが、先生が階段を降りるのが難しいことを周りは分からなかったかもしれない。先生、近いうちに先生の御自宅に押し掛けますので、その時はゆっくり飲ませてください。2次会に行くためマイクロバスに乗り込んだ時、そこで帰るS子ちゃんを息子(娘?)夫婦が迎えに来ていた。その奥さんの腕の中には赤ちゃんがいた。どひゃっ~~~~~、S子ちゃんは、いつの間にかおばあちゃんになってたんだね。50歳になる前日の同窓会で、こんなにも心が癒されるものかと、ただただ先生や同窓生に感謝しかありません。ちょっと嫌だった50歳となった今日も、今からが人生の本番!とスッキリした気持ちです。しかし、盆に生まれた宿命なのか、仕事してその合間にこんなブログを書いているのですから、ちょっとばかし寂しいですね(笑)。それから、誕生日おめでとう、とか鳥肌が立つようなコメントはご遠慮ください(笑)。それではまた。おいっ、同級生の○○○。「あらっ~~~鍛冶屋くんかわいそう~」と言いながら、薄くなった俺の頭を撫でるのはやめろっ(笑)。・・・クリックよろしく!。『敗者復活戦』の物語を初めから読みたい方は⇒こちらへジャ~ンプ!会社のサイトです。こんな仕事をやっています。
2007/08/13
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一昨日、夜には台風が接近すると予報が出ていたその日の朝、聞き覚えのあるちょっと甲高い声で電話があった。「○○ですけど、今福岡に来てるんですよ・・・」最初は誰か分からず言葉に詰まったが、聞き覚えのあるその声に、あの『青年よ!百姓を目指せ!』のスーパー投資家さんだと分かった。彼はベンチャー企業を20代で辞め、何を思ったか?百姓になった青年だ。彼自身がメルマガ『青年よ 百姓を目指せ! 脱サラ百姓の経験記』を以前発行し、百姓と名乗っていたので、ここでは百姓と書かせていただこう。スーパー投資家さんのことは、実は3年程前にこのブログで書いている。2004/07/17『青年よ!百姓を目指せ!!!』リンク先繋がりで彼の存在を知り、それから卵を送ってもらったり、電話でも話をしたことがあり、一度会いたいと思っていた。スーパー投資家さんの凄いところは、ただ脱サラして田舎暮らしがしたかった、とかそんなことではなく、夫婦で出来るビジネスとして百姓になり、現在有精卵を直売する養鶏場を経営し、見事に専業農家として黒字経営を続けていることだ。東京でのサラリーマン生活は、朝早く出て帰宅するのが深夜という状況だったので、奥さんのために一緒に出来るビジネスを、ということで百姓を目指したと言うのだから、もう言葉がない(笑)。私は田舎育ちで、今も田舎暮らしなので、農業だけで食べていくことの難しさを子供の時から見たり聞いたりしている。それを、ベンチャー企業に勤めていたようなキレモノが、冷徹に分析しビジネスとして選んだのだ。人がやりたがらない仕事には、もしかしたら盲点としてのビジネスチャンスがあるのかもしれない。しかし、東京から島根に移り住み、それから5年以上一日の休みもなく働き続け、漸くここに来てパートさんたちに任せて2日間だけでの休みを取り、奥さんの実家がある福岡に里帰りを兼ねてやって来れたらしい。起業したばかりで、やたら口実を作ってオフ会などに参加している諸君よ、これが起業の現実というものだ。成功したかったら、見習い給え!。私も、彼の年には独立していたし、稼いだ金を貯金して・・・せずに飲み歩いていた(泣)。今更ながら、かなり反省しております(笑)。今や卵の数が足りないほど売れている有精卵専門の『空の幸』(↑クリックしてジャ~ンプ!)そんなスーパー投資家さんが、福岡に来ていると知り、これは是非会いたいと思い、私の都合で会社まで来てもらった次第。電話で話したことがあるせいか、ブログを読んでいるせいか、初めて会ったとは思えず、投資家さんが持参してくれた御寿司の弁当を食べながら、男二人なのにとにかく話が弾みました(笑)。話を聞いてみて、彼だったら他のことをやっても成功するな、と感じました。理屈だけ立派なことを言うのは、ゴロゴロどこにでもいますが、彼は理屈を形にして実践できる知恵と、そして何よりも折れない心を持っているようです。一言で言えば、根性がありますね。古い言い方かもしれませんが、これは事業をやり続ける以上、必要条件だと思います。ここで忘れてならないのは、リンク先繋がりで私と投資家さんを結びつけた当人をお呼びせねばなりません。そのお方は、我が社のロゴマークを作ってくれたパワールックMIWAKOさん。私の強引なお誘いにもかかわらず、お忙しいなかご主人と長男のT君も一緒に来てもらいました。MIWAKOさんも、まさか島根のスーパー投資家さんと会えるなどとは考えていなかったようで、ご主人共々喜んでいただいて、私にとっても嬉しく楽しい一時となりました。一回り以上年下のスーパー投資家さんのエネルギーに圧倒されそうでしたが、とても有意義な時間を共有できた気がして、印象深い一日となりました。スーパー投資家さん、ご訪問ありがとうございました。パワールックMIWAKOさんご夫妻も、お忙しいなか来ていただいて、ありがとうございました。思いがけずスーパー投資家さんに会えたので、まだお会い出来ていない方たちにも、会えそうな気がしています。それではまた。スーパー投資家さんの奥さんは5年以上休みもせず、そして今ではホームページの運営もしているとか。エライッ!!!、この奥さんあってのスーパー投資家さんだ。今回会えなかったけど次回はお会いしたいですね。それにしても、こんな奥さんがいるスーパー投資家さんが羨ましい???・・・クリックよろしく!。『敗者復活戦』の物語を初めから読みたい方は⇒こちらへジャ~ンプ!会社のサイトです。こんな仕事をやっています。
2007/08/04
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