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冬の寒い朝、一年一度は思い出す遠い昔の学校行事「兎狩り」。全校生徒160人ほどの小さな小学校、4年から5年生は勢子隊で兎を追う役、6年生は勢子隊より先に出かけて網を張る網隊であったように記憶している。 残念ながら小学校のときは一羽の兎も捕獲されることはなかった。でも、兎狩りを終え学校に帰ると母親達が作った温かい豚汁が冷え切った身体を温めてくれた。 古き懐かしき時代の想いでだが、まだ日本社会全体が豊かでなかった昭和30年代、それでも現代より心豊かな時代ではなかったかなと思っている。 退職後は幼い頃の心豊かな時代の体験を引き戻し、自然とともに生きる暮らしをしてみたいと思う今日この頃である。
2008.01.31
今月は5本の映画を観た。・椿三十郎・earth・北辰斜にさすところ・若草物語・私は告白する 上の3本は映画館で、あとの2本はDVDを借りて観た。 心の残った映画は「earth」と「私は告白する」であった。earthは北極から南極まで白熊、鯨などを追って随所によくぞ撮ったなと思わせる壮大な映画であった。幸運な惑星「地球」の環境汚染について訴えるものがあった。子供にも是非見せたい映画である。 「私は告白する」はアルフレッド・ヒッチコック監督の1953年の作品。あらすじは、ある教会で働く男が、神父に強盗殺人をしたことを告白。容疑者として、その神父が疑われるのだが、懺悔中に告白されたことは他言してはならないという戒律のため、神父は真犯人の名を明かすことができずにさらに疑われていくという映画であった。 裁判の中で陪審員がどのような判断を下すかというシーンも見応えがあった。
2008.01.29
中学一年の秋のある日曜日、近くの小中学生たちと山に棲家(すみか)(潅木、竹や笹などを使った芝小屋)作りをしようということになり、朝から山に入った。 昼になり、いったん我が家へ帰宅。よほどお腹がすいたのか昼ご飯を5杯食べたことを記憶している。確か、オカズは冷奴であった。 翌日、目が覚めると身体がふらつき、お腹がやや張ったような感じがした。それでも学校へ行った。 当時、毎週月曜日には全校生徒が校庭に出て朝礼が行われていた。暑い日の朝礼では、倒れる人が毎回のように数人出て保健室に運ばれていた。倒れるのは男子より女子のほうが多かったと記憶している。 さて、その日の朝礼の途中から、プーッ、プーッと私のお尻からオナラが出始めたのである。止めようとしても私の意に反してお尻からはオナラの連発であった。 前日の昼の食べ過ぎがいけなかったのだ。反省、時すでに遅し。 先生がマイクで話しているときには、私のオナラの音は若干かき消されたが、少しだけでも静かになると数メートル四方の生徒には聴こえるくらいのオナラの音量であった。 朝礼が終わり教室へ引き上げる途中、「いやぁねえ、誰だったの」と、私のことを言った女生徒がいたが、誰一人、○○君だよと告げる人はいなかった。(影では私の名前を挙げて笑っていたかも知れないが・・・・) 私は一日中、恥ずかしかった。でも翌日、昨日のことは月日が経てば、いつの日かみんな忘れてくれるだろうと思い登校した。思ったとおりに私が気にするほどのことはなく、幸いに、その後も話題となることはなかった。 でも、今の時代は、ひょっとしたらオナラッペくらいの仇名が付けられイジメの対象となっているかも知れない。 オリンピック開催の年に行われる中学時代の同窓会、誰一人私の朝礼放屁連発事件を記憶している者がなく楽しく参加させてもらっている。 この事件のことを姪ほどに年の離れた同じ職場の女性に話したところ思いきり笑ってくれました。
2008.01.28
熊本城の鯱は台風や落雷、そして経年劣化には勝てず、ひびが確認されたため、今、取替工事中である。 取り付け前の鯱が27日まで熊本城内に展示されていると聞いて昨日の昼休み、昼食もとらずにカメラ片手に出かけてみた。 明治初期に撮影された写真(大天守から小天守を撮影)などを参考に復元したとのこと。大きい方の鯱で高さは140センチ程度であった。以外と小さい。 工事中の大天守と小天守 地元の人はいつでも行ける熊本城へめったに足を運ばない。昨年はケニアの方を甥が案内するのに同行し、何年ぶりかも忘れて天守閣へ上った。 暫くすると新築なった本丸御殿が観れる、是だけは出来映えを今から楽しみにしている。
2008.01.26
********************** はじめまして。 美味しそうな鍋ですね。 完全に私ごのみです。 去年まで熊本に住んでいましたのでとてもなつかしくブログを拝見させていただきました。 いわゆる転勤族であちこち住みましたが、熊本が一番 素敵な土地でした。 またおじゃまします(^.^)************************************************** 昨年の暮れに私のブログに頂いた一通のコメントである。 このコメントを機に知ることとなったご夫婦。ご主人が亡くなったことを奥様のブログで昨夜遅く知った。 まだ33歳と半年という若さで逝かれたご主人、熊本の地で病いがわかったという。 狭い熊本市、このご夫婦が熊本にいらっしゃった頃、どこかで通りすがりにきっと会っていたかも知れないという思いの縁も感じていた。 ブログを通じて奥様のご主人への献身的なケア、優しさと思いやりにぐっとくるものを感じていた。 ご主人のご冥福を心からお祈りいたします。
2008.01.26
ドアを開けると三人しか座ることができないカウンターの一番奥の椅子に老眼鏡を鼻にちょこっとかけて彼女がいつものように座っている。「いらっしゃい、今日は何軒目?」「今日は残業の帰りだから一軒目だよ」との言葉を交わし、私に肴を出すためにカウンターの中に入る。カウンター三人、畳席は畳3枚分ほどで詰めれば8人、ややゆったりと座るとすれば6人ほどしか座れないけっして広いとは言えないお店である。 彼女の顔立ちは杉本彩にそっくりで話かたもよく似ている。40代半ばの彼女だが、若い頃はモデルをしていたというだけあって170センチ近い身長とスラリとした体型は年齢よりはるかに若く見える。昼間は洋服のお店を持ち、夜は一見さんお断りのお店で別の顔を見せてくれる。 語らずとも出てくる肴 このお店に私が行けるようになったのはタウン誌の編集をしている人と角打ち店(立ち飲み店)で知り合って、連れていってもらったことに始まる。 客層は彼女の笑顔を見ながら交わす会話を皆楽しみに通っている50代以上の男性一人客が圧倒的に多い。 彼女は、「男性にもいろんな人がいる、いろんな考えを持っている、それを聞けることが、夜、働いていて楽しい」と言う。 彼女は独身だが二十歳を越えたばかりの娘さんが一人いるという。なぜ、離婚したか、その理由も教えてくれた。 「結婚するまで全くわからなかった、その素振りさえ一度も見せなかった、まさか暴力をふるう男だとは」と。 機嫌よく笑顔を絶やさない彼女だが、辛かったであろう過ぎ去りし日のことも何事も無かったかのような態度でいつも接客してくれている。 ドアが開く、「あらぁ、いらっしゃい。お久しぶりですね」と彼女が笑顔で、迎える。振り向くといつものKさんであった。私は「じゃぁ、また来るね」と言って千円札1枚を支払って店を後にした。Kさんに彼女との会話を楽しんでもらうために。
2008.01.24
昨夜は残業で我が家に着いたのが9時半頃。食事を終えたのは10時半過ぎ。暫く新聞に目を通していたが、なぜか先日、初挑戦して失敗したパウンドケーキ作りにチャレンジしてみたくなった。 小麦粉と砂糖を計量器でレシピどおりに計り、バターをハンドミキサーで練り、砂糖を何回かに分けてさらに混ぜてと・・・・レシピに素直に従って生地ができ焼き始めたのが11時20分。焼きあがったのが午前0時10分過ぎ。午前0時を跨いだので二日がかりのパウンドケーキという次第。 今回はどうにかうまくいった。味もまあまあであった。 ドライフルーツはレーズンだけ。レーズンの量が少なかったせいもあるが位置も悪い。 ケーキ、クッキーそしてパウンドケーキと、作るのは楽しいことがわかった。だが、砂糖の量に驚いた。バターの量も凄い。そして卵も使う、カロリーが高く食べすぎは禁物ということもよくわかった。 太っている私には、こういう類のお菓子は大敵である。食べるのは少しにして、作ることの方を楽しむことにしよう。
2008.01.23
仕事先へは毎朝バスで通っている。昨日の熊本の朝は雨だった。雨の日の通勤は、普段、自転車通勤通学の人たちがバスに乗ってくるために混む、そしてまた濡れた傘で服が濡れるときがあり嫌である。 その雨の日の昨日のバス車内で、もう一つ嫌な光景に出くわした。車内はもの凄く混んでいた。それでも一人の男子高校生は野球部の生徒が使うと思われるグラブなどを入れる大きなバッグを手前に置き、奥に座って二人掛けの椅子を独占していた。 誰一人として荷物を膝の上に置いて座らせてと声をかける人はいなかった。私は斜め後ろの席から彼を見ていた。彼は野球の練習で疲れていたのか窓に寄りかかって寝ていた。 大きなバッグには高校名、そして彼の名前が記されていた。バスに乗るときにはマナーも携えて乗って欲しいなと思った、昨日の通勤であった。
2008.01.23
先週の金曜日に久々にスザンヌのお母さんが経営しているキャサリンズ・バーへ立ち寄ってみた。スザンヌ人気で20名ほど入れる店内は満員であった。 キャサリンズ・バーは九州で言う、角打ち店(立ち飲み)である。 私は4年ほど前からの常連客なのだが大勢の人たちが来店するようになるとは想像できなかった。 スザンヌのお母さんは一人で大忙し、嬉しい悲鳴だろう。 ところで、毎年、常連客10数名が集まって店内で開かれていた忘年会が昨年末はなかった。その理由はお客さんが多くなったためらしい。 今、常連客たちは初めて訪れたお客さんたちに埋もれて静かにグラスを傾けている。 一昨年の忘年会のときの料理は2006年12月にスモークパーティーというタイトルで掲載しています・・
2008.01.22
竹内まりやさんが作った曲の中に「シンクロニシティ・・・素敵な偶然」というのがある。軽快なテンポの歌で大好きでカラオケで毎回のように歌っている。 19日の毎日新聞朝刊のコラム欄では、このシンクロニシティという言葉を引き合いにして「NHK記者のインサイダー取引疑惑は果たして偶然か」と問うていた。 素敵な偶然・・・いつも懇意にしている友人へ電話をかけようと思っていたら相手から電話がかかってきた。近頃、あの人はどうしているのだろうか、随分会っていないなと思いながら街中を歩いていたら、ビルの角からその人が突然現れて話が弾んだ。 私にとっての「素敵な偶然」は、こんなことくらいしか思いつかないのだが、是くらいのことでも「素敵な偶然」に入れていいものだろうか。 気がかりな「素敵な偶然」は、カミさんと中学一年生のとき初めて出会い(その頃、カミさんは私の存在を知らなかった)、そして大人になり初めて言葉を交わし、デートを重ね結婚に至ったことを「素敵な偶然」とカミさんが思っているかである。でも、その答えはわかっている。 「俺と出会えたことは素敵な偶然と思える?」か、なんてとても恐ろしくて聞けない、それはなぜか、私の今までの暮らしぶりからして、私と会えた偶然を「素敵な偶然」とカミさんが微塵にも思っていないという確信が持てるからである。
2008.01.20
今日の昼と夜の食材の買い物にスーパーに出かけ自宅マンションの駐車場に着き車から降りると鳥たちの囀りが耳に入った。 メジロがいるわいるわ、柿の木に。残された柿を食べに来ていたのだ。ざっと数えて20羽以上いたのではないだろうか。 私が住んでいるマンションは熊本市中心街から4キロ近く、一戸建て住宅地の中にマンションが点在する所なのだがこんなにメジロがたくさん飛んきていることにびっくりした。 さて、このメジロ、熊本県では1世帯に一羽だけ飼っていいとのこと。但し、捕獲期間は4月1日から7月31日を除く一ヶ月以内と限られているようである。 最後に画像の中には何羽のメジロを確認できるでしょう?
2008.01.19
私の知人に花屋を営んでいるご夫婦がいる。その奥様から聞いた話である。 ある日、花屋の店先に若い外国人男性が現れ、カタコトの日本語で「リンダへ花束を贈りたいので届けて欲しい」と言ってお金を払って店を出ていった。 外国人男性が帰ったあと、店の奥に居たご主人は、「リンダか、きっと可愛い外国人女性に違いない、俺が配達に行く」と言って喜んで車で配達に出かけたそうである。 帰ってきたご主人の口から出た言葉は「おい、リンダというのは林田さんのお宅だったよ」と。 ご主人のとんだ思い込みが生んだ話でした。
2008.01.19
2年ほど前までは月に2回ほど帰省していた。目的は草刈のためである。その昔、実家はミカンを栽培していた。そのミカンは私の転勤などで手入れをするものが居なくなり自然と枯れ、更地と化し草ボウボウの地となった。 草刈だけの帰省は面白くないということで見よう見まねで始めた野菜づくり、やがて2年目を迎える。今は、野菜の手入れと成長を見るのが楽しみで毎週のように帰省している。 今、栽培しているのは、サラダ玉葱、芽キャベツ、そら豆、グリーンピース、さやえんどうである。ブロッコリー、廿日大根は収穫を終えようとしている。 先日、サラダ玉葱とそら豆の間の草取りをしていて、振り向くと私の仕事ぶりをじっと見つめている猫がいた。 丸々と太っていて何も着ていなくてもとても温かそうな猫。猫仲間ではメタボと言われているかも知れない。 この猫、実家のペットではない。どうも隣のお宅の猫らしいのだが所属している家がはっきりとしていない。 月に4回しか野菜の手入れができない私だが、この猫は私の畑にいつでも入れる。できれば、猫の手で草取りでもやってくれればあり難いなと、寒風が吹き付ける畑で手を休め思ったところである。
2008.01.18
昨日の検査は胃カメラの検査のみで、そのあと医師から検査結果に基づく説明があった。「そうですね、昨年とあまり変化がないですね、血圧がちょっと高いですね。あと、血糖値とコレステロールも高いですね」と言われた。 二ヶ月ほど、外で飲む回数を激しく減らした成果がこの状況であるから、本当はもっと悪い数値だったことだろう。 周囲から「ドックの前にだけお酒を控えるのはいかんですよ、ありのままを見せないと」と言われても今回ばかりはお酒を殆ど飲まなかった。 人間ドックでは待ち時間が結構ある。特に、血糖値の検査ではとても甘い飲み物を飲まされ、1時間後、2時間後に採血がある。その間は本を読む、TVを観る、眠っている人と様々である。 今回は25年ほど前の上司と会った。60歳半ばを過ぎた元上司と、採血の間に話が弾んだ。「今、お金は生きているうちに使わないとと思って海外旅行を楽しんでいる、イタリアには3回行った」と語る元上司の目は活き活きとしていた。 元上司とたっぷり話せた人間ドックであった。
2008.01.17
松を育み点在する小島、その島々を浮かべている碧い海。そして、五つの橋。 天草五橋近辺の晴れた日は特に心を癒される。 4号橋 東大維橋(ひがしおおいばし)・・・天草上島と維和島にかかる全長380メートルの橋。 大矢野高校を過ぎて左折するとこの橋が見えてくる。もう10年以上も前になると思うが、天草パールラインマラソンで20キロを走ったとき、この橋を渡った。橋からの眺めはとても雄大であったと記憶している。 橋脚のすぐ近くにあった居酒屋。橋の下にあるお店だから「橋のした」。単純明快なところがよろしいのでは。どんな居酒屋か一度は訪れてみたいものである。 久しぶりに訪れた好天の中の天草はいつものように穏やかで心と眼を和ませてくれた。でも気がかりだったのは、三角から宇土にかけての道沿いではシャッターを降ろしてお店を閉じてしまったところがたくさんあったことである。 観光客の減少による影響だろうか、寂しいかぎりである。
2008.01.16
今日と明日は身体の定期点検、人間ドックである。毎年言われることは同じである。高脂血症、糖尿病と高血圧の境界域。是を毎年改善できないでいる。そのうち、パタッと倒れる日がくるのではないかと不安な毎日を過ごしている。 昨日の天草でのランチの帰り道にJR三角線緑川駅から入ったところにある粟嶋神社に立ち寄ってみた。 粟嶋神社には大きい鳥居と小さな鳥居が三つある。小さな鳥居をくぐり抜けると婦人病にご利益があると言われており、大祭には県内外から多くの女性参拝客が集まり大変賑わうとのこと。男性はご遠慮下さいとの注意もなかったので男もくぐってもいいだろうと鳥居くぐりにトライしてみた。 左側の鳥居は右側よりやや小さい。右側の鳥居はくぐり抜けることができたのだが・・・ 最も小さかった鳥居を懸命にくぐり抜けようとしている私。撮影はカミさん。 左側の小さな鳥居は肩が引っかかり、先に進めなかった。よし、今年は痩せてこの一番小さな鳥居を必ずくぐり抜けるぞと密かに誓った次第。その暁には人間ドックの検査項目の各種数値もきっと改善していることだろう。←甘い期待。
2008.01.14
昨年、熊本市内の下通りにある行きつけの小料理屋の女将さんと常連のお客さんと、熊本県内では、どの物産館のレストランのランチが一番旨いかという話題となり盛り上がった。その二人からのお薦めトップのランチは上天草物産館「さんぱーる」の海鮮丼であった。今日、やや遅めの12時30分に自宅を出発。やっと念願が叶った。 これで1,200円(右側はかんちょそばの大) かんちょソバとはサツマイモの粉を練り込んで作られた地元産の麺。ツルツルで喉ごしのいい 食べやすい麺であった。 ここの海鮮丼は天草の新鮮な魚、このしろ、鯛、鰤、イカを使い、そしてイクラをトッピングした丼。わさびをタレに溶かしてかけて食べる。推奨された一品だけあってとても旨かった。 右手に青い海と対岸には雲仙の山々、そしてあこがれのランチ。幸せな一日であった。ただ、物産館さんぱーるは熊本市内から片道1時間半くらいかかる。もっと近ければ言うことなしなのだが・・・・
2008.01.14
普通のブロッコリーとは違うということで苗を購入し育ていたブロッコリーが収穫時期を迎えた。 普通のブロッコリー 今年初めて栽培したブロッコリー 左側のブロッコリーは熊本市内の店頭では、まだ見かけたことがない。同じ茹で時間では右側の昔ながらのブロッコリーが柔らかかった。でも、左側は切り分けるのが便利で料理がしやすい。 ブロッコリーの我が家での食べ方は、シチューに入れる、茹で立てをマヨネーズで頂く、そして鰹節に醤油をかけてまぶし、ひねり胡麻をたっぷりかけて食べるという三種類くらいである。 茹でて、味噌とみりんに一晩漬けて食べてみたらどうだろうかと思ったりしている。
2008.01.14
今年の春はいつもの年より春の訪れが早いのではないかと思っている。というのは実家の桃の木の下に生えているフキノトウがもう顔を覗かせていたのである。 見つけた、ふきのとうは大小6個。このふきのとうは大きい方。 実家から持ち帰った野菜たち。左上から、菜の花、葱(わけぎ)、椎茸、ブロッコリー、ふきのとう、野蒜(のびる)→是は畑の土手に自生しているもの、廿日大根。このほかにジャガイモであった。 持ち帰った野菜で何を作ろうかと考えた結果の昨夜のメニュー。カミさんは洗濯ものを取り入れたりしていたので私の出番。 ○ 菜の花の胡麻和え □ ポテトサラダ(ブロッコリーの一塩茹で) △ 一文字のぐるぐる(熊本の三大名物料理の一つ) ★ 天ぷらは ☆ハモ、イカのすり身(ゴボウのささがき、人参の千切りが入っている) ☆さより ☆菜の花 ☆ふきのとう ☆野蒜(是も結構旨い) ふきのとうの天ぷらは、ものすごく灰汁があるという感じでしたが、口の中で春を感じとることができました。子供たちは、好きではないようです。
2008.01.14
今から40年以上も前のその昔、私が小学校の門を出ると一匹の昆虫がいました。その昆虫と一緒に砂利道を家路に着いたときの想いをベースにして書いたたものです。こんなものは童話とはいえないかも知れませんが・・・・・・ 「三つの面倒」 啓太はいつもの授業が終わり一人で小学校の正門を出ました。すると突然「おい、そこの君、啓太君だったかな、今、帰るところかい」と声をかけられました。啓太は辺りを見回しましたが誰も居ません。おかしいな、声はするけど誰一人として姿が見えないのです。 しばらくすると、今度は「ここだよ、ここだよ」と地面の方から声がします。地面をよく見ると小さな昆虫が一匹いました。なんとそれは、ハンミョウだったのです。 啓太はずいぶん前に、偶然、啓太が歩く前をどこかに案内するかのように一緒に行動をする不思議な昆虫と出会いました。啓太にとっては、その昆虫の行動がとてもおもしろかったので、図鑑で調べたことがあったのでした。別名、「道教えの虫」とも言うハンミョウでした。 啓太は「なんだ、ハンミョウか、だけど君は人間の言葉を話せるんだね」「ああ、君とは特別さ、啓太君と話したくて」と、ハンミョウが言いました。さらに、ハンミョウは「啓太君、今日は君を特別に案内したいところがあるのだけどいいかな」と、尋ねてきました。啓太は「今日は塾に行く日ではないからいいよ」と、ハンミョウに応えました。 ハンミョウ・・・・・2006年8月 実家の庭先にて撮影 ハンミョウは啓太だけに対する特別な動きではない、いつものとおりの歩く人の数メートル先を地面に止まってはまた数メートル先に飛び、また地面に止まるという動きを繰り返し、啓太をどこかに連れて行こうとしています。 啓太は、それにしてもハンミョウの動きっておもしろいな、今度いつか、なぜ人の前を決まった動きでどこかに連れていくようなことをするのか尋ねてみようと思ったのでした。 啓太は数メートル前を行くハンミョウに「僕の名前を啓太ってなぜ知っているの」と尋ねて見ました。すると「ああ、それは君の学校での行動をいつも観察しているからなんだ。そこで、君の名前を知ったのさ、もちろん啓太君の授業態度もよく知っているよ。君の授業参観はしょっちゅうしているからね」と返ってきました。 ハンミョウの動きが突然止まりました。「ここだよ」とハンミョウが言った場所は広い道路に面し高さが十メートルくらいの土手でした。そしてその土手は小さな竹の笹で一面が覆われていました。「さぁ、ここから」と、ハンミョウは突然、竹の笹の向こうに消えてしまいました。 啓太も竹の笹の中に入っていきました。竹の笹の中にはトンネルがありました。トンネルは子供が立って歩けるほどの高さで長さは啓太の足で二十歩くらいありました。そのトンネルの先には広い部屋がありました。そしてテーブルと椅子があり、テーブルの上には、なぜかモヤシがカゴにたくさん盛られて置いてありました。 ハンミョウが「啓太君、今日はこのモヤシのヒゲ根を取ってもらおう。モヤシの根の方はヒゲみたいに細くて長くなっているだろう、それを取って欲しい」。啓太は「これを全部ですか」「ああ、そうだよ」とハンミョウは当たり前のように答えたのでした。啓太は、お母さんがモヤシを料理するとき「ヒゲ根をとると美味しいよ」と言って取っていたのを思い出しました。 啓太はモヤシのヒゲ根を一つ一つとりながら、なんて面倒な細かい作業だろうと思いました。そしてウンザリしました。それは、啓太のお母さんが料理で使うモヤシの量とは比べられないほどたくさんあったからでした。 モヤシのヒゲ根を一時間くらい取ったところで「今日はもういいよ。だけど今日のこのこと、それから、この場所のことは絶対に秘密だよ。誰にもしゃべってはいけないよ」とハンミョウから口止めをされました。 翌日、小学校の正門のところにハンミョウがまた待っていました。 「啓太君、今日も僕に付き合ってくれないかな。ねえ、いいだろう」と言ってきました。「今日は塾に行く日なんだけど」と啓太が言うと「いいじゃないか、学校でしっかり勉強すれば」と、ハンミョウはしつこく誘ってきました。啓太は仕方なく「いいよ」と、軽く会釈をしてハンミョウについて行きました。 竹の笹の葉を抜けて部屋に入ると、今度はタマネギがたくさん置いてありました。ハンミョウが「今日はこのタマネギの皮を剥いてもらおう」と言いました。タマネギは百個ほどありました。タマネギの薄い皮はなかなかうまく剥けません。昨日のモヤシのヒゲ根とりもたいへんだったけど、タマネギの皮を一枚ずつ剥いていくのもとても面倒でした。それでも啓太は黙々とタマネギの皮を剥きました。一時間くらいたって「今日はここまで、もう帰っていいよ」とハンミョウから言われ、我が家への道をトボトボと帰りました。その帰り道、ハンミョウから、なぜ、モヤシのヒゲ根とりとかタマネギの皮剥きとかさせられるのだろうかと思ったのでした。 また、その翌日、正門のところでハンミョウが待っていました。「ねえ啓太君、今日が最後だからまた付き合ってくれないかな」「えっ、僕もういいよ。おとといはモヤシのヒゲ根とり、昨日はタマネギの皮剥き、なんで僕にあんな面倒なことばかりさせるの」と啓太は少し怒った口ぶりで言ったのでした。「その答えは今日、教えるから。ねっ、お願い」と言われ、啓太はまたハンミョウに付き合うことになったのでした。 竹の笹の葉の向こうのハンミョウの部屋には大きなボウルに水が張られ、その横にたくさんのゴボウがありました。ハンミョウが包丁を指差して「この包丁で今日はこのゴボウのささがきをやってもらおう。ささいだゴボウはそのボウルに入れて」と言いました。「ゴボウのささがきってどのようにするの」と尋ねるとハンミョウは「鉛筆を削る要領でいいのだけどゴボウを回転させながらするとうまくいく」と教えてくれました。啓太はナイフで鉛筆を数回削ったことがありましたが得意ではありませんでした。 ゴボウのささがきが「モヤシのヒゲ根とり」と「タマネギの皮剥き」と違うところは小刻みに手を動かさなければならず、包丁で怪我をしないように気をつけることでした。 慣れない手つきで、ゴボウのささがき始をめてどうにか一時間くらい経ち、啓太がウンザリしているところで「啓太君、今日はありがとう。そしてまた三日間も付き合ってくれてありがとう。実は啓太君の授業態度を見ていて何か集中していないというか、粘りのようなものがないというか、そのように見えたものだから、君に根気、粘り強さを持ってもらおうと思って誘ったんだ。モヤシのヒゲ根とり、タマネギの皮剥き、ゴボウのささがき、どれも面倒だったと思う。しかし、おいしい料理を食べるためには何でも下ごしらえという準備が必要なんだ。三日間でやってもらったことは面倒で退屈なものだったかも知れない、しかし、このことがひじょうに大切で重要なんだ。とても面倒で繰り返ししなければならないことでも最後まで心を込めてやり遂げる、決して放り出してはいけない。その粘り強さを啓太君にわかってもらいたかったのさ」と、ハンミョウの長い話が終わったのでした。 翌日、学校の正門を出るとハンミョウはいませんでした。帰り道、三日間、あんなに面倒なことをさせたハンミョウだけど、会えないと寂しいなと思いました。そして、大事なことを忘れていることに気づきました。それは、「なぜ人の前に来て道先を案内するような不思議な動きをするのか」という、一番、知りたかったことをハンミョウに尋ねることでした。 そのまた翌日、家に帰るとお母さんが夕食の支度をしていました。何とゴボウのささがきをしていたのです。啓太は「お母さん、僕にもやらせて」と、お母さんの横に立ちました。 「啓太はどこかでゴボウのささがきをやったことがあるのかい」と、お母さんが尋ねました。啓太は「い、いや初めてだよ」と応えました。
2008.01.12
自称、元祖ヒトカラ(一人カラオケは5年以上前から楽しんでいる)の私が、今、カラオケで練習している曲は、竹内まりやの「人生の扉」です。 私は彼女のあの声が大好きで彼女の大ファンなのです。作詞も作曲も彼女自身、「人生の扉」の歌詞は 春がまた来るたび ひとつ年を重ね 目に映る景色も すこしずつ変わるよ 陽気にはしゃいでいた 幼い日は遠く 気がつげば五十路を 越えた私がいる 信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ I say it's fun to be 20 You say it's great to be 30 And they say it's lovely to be 40 But I feel it's nice to be 50 満開の桜や 色づく山の紅葉を この先いったい何度 見ることになるだろう ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ I say it's fine to be 60 You say it's alright to be 70 And they say still good to be 80 But I'll maybe live over 90 君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように 長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ I say it's sad to get weak You say it's hard to get older And they say that life has no meaning But I still believe it's worth living But I still believe it's worth living というものです。英文のところはネットの翻訳サービスで日本語に直してどのような内容か理解したうえで歌っています。そして、この歌詞の中で気に入っているところはアンダーライン部分です。 今朝も11時から近くのSHIDAXで1時間、12曲ほど歌ってきました。もちろん「人生の扉」は3回歌いました。(余談) なぜ、ヒトカラになったか、それはカミさんを誘っても「一人で行ってらっしゃい」と 付き合ってくれなくなったのです。それから、カラオケはずっと一人で行くはめに。 なぜ、付き合ってくれなくなったかそのワケは・・・・
2008.01.12
昨夜、熊本市内のある角打ち店でJENGAをして大いに盛り上がりました。JENGAを楽しむのは初めてでした。 積み上げられたピンクと白の長方体のスティック。是を数人で交替して途中を抜いていくという遊び。崩した人には崩す原因をつくったスティックに書かれた罰ゲームが待っている。 崩してしまったのはKさん。罰ゲームは「何か芸をしなさい」とのこと。その芸とは何と フルートを聴かせてもらった。よかった、崩さなくて。私には何の芸もないから。 (お酒を控えたいと言った翌々日には外で飲んでしまった。やはり、優柔不断な私である)
2008.01.12
お酒は昨年の9月頃までは週に2~3回程度、外で飲んでいた。だが、忘年会があった12月は4回、今年にいたっては元日に缶ビールを少し飲んだだけで外ではまだ飲んでいず、自宅でも飲んでいない。 セーブしている理由は肝機能、血糖値、血圧など、すべてが病気寸前の境界域にあるからである。 多分、一生分のアルコールは飲み干したのではないかと思うので肝臓を初めとした他の臓器も休ませないと死期を早めるのではないかと思ったからである。でも、もう手遅れかも知れない。 アルコールを一週間絶っただけでも身体の調子がいいのだが、このままお酒を控えることを続けることができるか、それは自身の中にある優柔不断さを抑えることができるかにかかっっている。 「継続は力なり!」と言うが・・・・
2008.01.10
今日は休暇をとった。その理由は、もう10年近くになるだろうか、熊本県民運動公園でフルマラソン大会へ出場するためジョギングをしていたところ、右ふくらはぎにバシッというような衝撃が走った。そのあと、静脈瘤が発生したのである。その静脈瘤を治療するためである。 静脈瘤は女性、立ち仕事をする人に多いとのこと。また、女性は妊娠、分娩をきっかけに発生しやすいそうである。私の場合は立ち仕事というわけでもないので太り過ぎが影響しているのではないか(太りすぎなのに走って足に負荷をかけ過ぎた)と思われる。 今日の治療方法は硬化療法といい、静脈瘤に硬化剤という薬を注射して静脈瘤をつぶしてしまう方法である。実は、6年前に長崎に単身赴任をしていた頃、長崎原爆病院でこの治療を受けたことがある。足に針を何本も刺されたことを記憶している。 そのときに完治していないので再度おなじ治療をしても治るかはわからない。そこで手術をお願いしたが、手術するほどの症状ではないとのことで硬化療法となった次第である。 ほかに症状の根本的な治療方法ではないが、足のむくみ、だるさを軽減するために弾力ストッキングを履くという方法がある。このストッキング(価格は3,500円ほど)を購入し持っているが、とても履きにくい代物である。 まじめに履き続ければ効果があったと思われるが履いたり履かなかったりで顕著な改善が見られない。
2008.01.09
寒い夜は豚汁。我が家の豚汁は豚肉のほか、ゴボウ、人参、里芋、大根、コンニャク、アゲ、葱が入っています。豚汁は野菜もたくさん食べられるので大好きなメニューの一つです。 食べるときは小さなお椀ではなく丼で、そして唐辛子をいっぱい振りかける。この食べ方が気に入っています。
2008.01.08
今回の年末ジャンボ宝くじ、当たったらどう使おうかと皮算用をしていたのだが残念、7等の3千円と末等が当たっただけだった。一等の1枚あたりの確率は一千万分の1というから当たるなんて夢また夢なのだが、ひよっとしたらとちょっぴりの期待をいつも込めている。 もし、当たったらどのように使おうかと考えるのは楽しいものである。もし、3億円が当たったら、私の場合は、まず、実家の家を建て替える、そして博多にマンションを買い、そして阿蘇に別荘を建てる。これで〆て使用予定額は1億円。待てよ、税率千分の14の固定資産税を負担しなければならない、それからマンションは共益費も必要だと、当たってもいないのに維持管理費まで計算が及ぶ。 それでも使いきれない。1億円は老後生活資金に当て、残りは旅行と自己投資(楽器(ピアノ・サックス)をマスターする)に使用する。でも、その前に宝くじ当たったと周囲にいかに悟られないかである。私の場合は多分、態度に出る。そして自ら周囲に漏らすという危険性が高い。当たってから考えればいいことだが、そんなことまで考えている。 ちなみに今回買った枚数は39枚。10枚1組の連番2組、バラ1組、3枚連番3組であった。回収額は4,200円。
2008.01.08
栽培していたブロッコリーとカリフラワーが収穫できるようになり、冷蔵庫からなかなか減らない。そこで、ベーコンを炒め、そしてジャガイモ、人参も加えてグラタンを作ってみた。 ホワイトソースは以前、作ったことがあり記憶を辿りながらトライ。 今回は息子たちからも、まずいとは言われなかった。焦げている部分はチーズである。好評だったのは茹でたジャガイモであった。 昨夜は、クッキーも焼いてみた。「クッキーの作り方」とネットで検索したレシピで作った。レシピは出力せず、パソコンの画面を見ながら生地を作った。便利な世の中になったものである。
2008.01.07
今日は私の5*歳のbirthdayである。今、この年齢になって誕生日は嬉しくも何とも思わなくなった。でも、カミさんと博多の友人から「誕生日おめでとう」の言葉を頂いた。問題は、息子二人が、私の誕生日を覚えているかである。今朝、顔を合わせたときには何も言ってくれなかった。あまり期待はしていないが「おめでとう」の一言でも言ってくれるだろうか。 もちろんケーキを買ってくるなんて気が利いたことに全く期待はしていない。今から自分のためにクッキーでも焼くことにしよう。
2008.01.06
昨年の暮れの29日、既に退職した会社の先輩二人と生まれ故郷で忘年会という名目で親交を深めた。年長の先輩が一杯やらないかと携帯に電話をしてきたのである。 二人とも同じ会社で働いていたが、数年前に定年までそれぞれ10年と2年を残して退職してしまった。 退職してどうですかと訪ねると「全社員販売のプレッシャーが無いのはいいな」とも語った。 私が生まれ育った街の海(2007.11.11) 二人の共通点は独身で年老いた親と同居し、親の面倒を見ているということである。早く、会社を辞め、親の面倒を見てくれる。これは親としてはあり難いたいことだろう。だが、退職した二人についてはどうなのだろう。二人のことについて細部までは知らないが、日常生活、家事全般について困ることはないのだろうかと思う。 もう一つ、二人から感じたことは社会との繋がりであった。社会との関係はやや希薄に思われた。だが、二人がそれでいいと思えば、私がどうこう言うことではない。 毎年、12月29日を三人だけの忘年会にしようということが満場一致で可決成立、そして別れた。
2008.01.06
1962年公開の三船敏郎主演のモノクロの椿三十郎を熊本名画劇場で11月に観たばかりだが、昨日、織田裕二主演のリメイク版の椿三十郎を観た。 両方とも観た人はそんなにたくさんいないのではないかと思うのだが、今、公開中の映画を観て、1962年の作品を観てみるのも面白いのではないかと思う。 1962年の作品はカラーでも映画を作れたと思うのだが、なぜモノクロだったのだろうか。でも、椿三十郎の場合はモノクロの方が時代を演出するのに良かったのかも知れないと思ったりもする。 リメイク版の椿三十郎は1962年作品と比較すると、全体的に明るいイメージがした。そう思うのは私だけかも知れない。是も、モノクロとカラーの違いがちょっぴり影響しているのかも知れない。
2008.01.05
今年も年賀状をたくさん頂きました。その中の一人の方から頂いたものは私の名前をどうして間違えたのか幸寅様となっていました。是には家族一同から笑われました。特にカミさんからは「飲んだくれにぴったりの名前だ」と嘲笑された次第。確かに幸○の○は寅の字にもにているかも知れませんが私は幸寅ではない。 こういう名前の方、ひょっとしらた全国にはいらっしゃるかも・・・・ 人の名前は間違えたら失礼だと思うのだが、私自身も今年の年賀状で佐藤さんという方に出すべきところを「左藤」となっていたようで、ご本人から「にんべんがないようです。よろしく」という年賀状が来た。 でも、住所録はパソコンにあり何年も使っている。ということは「左藤さん」でずっと出していたことになる。たいへん失礼なことを何年も続けていたのか。申し訳ない。
2008.01.05
寝て食べての正月三が日。元日は体調が悪いカミさんをおいて息子二人と実家へ日帰り。私は帰省しないことにしていたのだが・・・・。 20数年前、実家へガヤガヤと遊びに来ていた甥や姪も今や立派な親となり、甥夫婦も子供を連れて来てくれた。 生まれた頃から知っている甥や姪に子供ができ、成長し、歳をとったなと実感する今日この頃である。 賑やかさを取り戻した実家の玄関の元日 (甥がカメラを貸してと言ったので貸したら保存されていた画像) 昨日、長男は阿蘇に泊りがけで遊びに行ってくると言って午前中に出かけた。家に居た、二男とビリヤードをすることになり、近くのビリヤード、卓球などができるバッティングセンターへ。 ビリヤードをするのは2回目で、なかなかうまく行かない。一方、息子は何度も通っているのか私より格段に上手い。 近くの台では小学生の男の子とお父さん、ご夫婦と思われるカップル、小学生の女の子と思われる子供連れの親子三人。ビリヤードに行こうかとなり偶然居合わせた人たち。新たな年を迎え、それぞれに幸せな2008年が訪れて欲しいものである。
2008.01.03
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。 元旦の夜を迎えるとどうしても一つのことを思い出してしまいます。 それは、今から30年近く前、私がまだ独身だった頃、友人のS君が元日の夜10時頃、私の家を訪ねてきたのです。 偶然、私の父はS君と同じ会社に勤めていた時期もあり家族中がS君のことをよく知っていました。 それにしても、元日の夜の10時頃、我が家を訪ねてくるとは何事かと思いましたが、何気なく訪ねてきたのだろうと気に止めまず、その夜は雑談に終始しました。 それから一ヶ月半後、S君が妻と子供を残し、職場の女性と居なくなったとの情報が、もう一人の友人、K君から入ったのです。K君はS君が居なくなる前にゴルフクラブを買ってくれないかと相談に来たとも教えてくれました。 そうか、元日の夜遅くに我が家に来たのは家庭のことで相談したかったのだが、切り出せずに帰ったのではないかと、あとで思ったのでした。 それから月日は流れ、今から数年前のS君にとってはとても辛い悲しい出来事が彼と再会させてくれました。 殆ど白髪で、他にもどこかしら、我々同級生より老けて見えました。傍らには小学校高学年と低学年と思われる二人の子供が寄り添っていました。
2008.01.01
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