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木昌1777 @ Re:荒れ放題の我が家の「雑草園」 先ずは植木鉢の整理(04/02) こんばんは。これだけの鉢を出した整理も…
かずまる@ @ Re:荒れ放題の我が家の「雑草園」 先ずは植木鉢の整理(04/02) クマタツさんお疲れ様です! 野菜の苗を植…
かずまる@ @ Re:おはぎ(03/27) クマタツさんお久しぶりです! ワタシの持…

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2011.12.19
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カテゴリ: 鹿児島の歴史
 (12月16日の上巻から続く)
 藩主島津重年が江戸へ向かったのは7月はじめ...。それからわずか70日ほどの間に御手伝い方(薩摩藩)から30人もの自殺者がでた。

 村請けの百姓の若者たちの中からも、“とっつあん”達の働きに対する不信が出てきはじめた。また薩摩の侍衆への同情もでてくる。そして彼らの中からも町請け得心を言い出すものもあらわれ始めた。この際将来のためにも丈夫な堤を築いてもらった方が良いとの思いも背景にはある。御手伝い方の想いとは裏腹にそれほどサボったり杜撰な工事をする手合いもいたということだ。
また接待や表契約と裏契約の差額が郡代役所に入ることなども知るところとなる。

 一方、地元薩摩では工事費捻出のため、使用人を減らし、城中でも空き地を菜園にするなどしたが、藩全体が重税と年貢で押しつぶされる寸前であった。

そういう中での薩摩藩の必死の村方の切り崩しと公儀高官への働きかけが功を奏し「村方得心ならば難場の町請を許可する」というところまできた。
そこで早速残りの32箇所の難場の見積もりを町方に依頼する一方、村方にも再見積もりを依頼する。そうすれば10箇所くらいの難場は町方に切り換えられるのではないかとの考えがあった。結果町方業者の見積もりは仮に10箇所をとっても、10万両安くなるものだった。

 そしてついに郡代役所から新しく12箇所の町請け許可がおりる。先の許可分と併せて18箇所となった。
そうなると町方業者が次々と挨拶に訪れる。そしてその者たちから知ったこと。


 9月24日、第二期工事は、四工区いっせいに開始された。
第二期「水行普請」には難工事が多かった。その中でもニ箇所、四の手「油島新田地先の川分け堤」三の手「大くれ川のしめ切り」などで難渋した。
御手伝い方本小屋の算用部屋でもちょっとした手違いから支払い手形八百両の二重切り問題が発生し、自責の念にかられた藩士等4人の犠牲者を出す。

 「工事をおこなうのは幕吏であり、請負人であり、計画の変更や普請の出来栄えに一喜一憂するのは土地の農民である。他人が他人のためにする工事へ、資金と労力をそそぎ込む・・・お手伝い方の役目は、一口で言えばこれに尽きた」「だが少しでも手がすくと、さすがの平田も大難場『油島千間堤』へは、時おり工事の進み具合を見に出かけた」

 ある日、朝拝ヶ峰に向かう「いきなり視界が展けて枯れ萱の斜面へ抜け、やがて七州見晴らしの絶頂に出た。・・・・愛甲は崖の突端へ出た。そして人々に背を向けたまま、『足元に広がるこの濃尾の野・・・』と、手をあげてぐるっと空間へ弧を描いた。『この野に生まれ継ぎ、生まれ継いでゆく幾十万の民が、我々の辛酸と犠牲によって百年二百年ののちまでも水の害から救われ、悪田変じて青田となるならば・・・・これはこれで、立派に意義のある仕事ではないでしょうか』・・・・・こう、平田は愛甲へ言うのだった『農民の救い、国利の大計ー。それを申すなら薩摩の民はどうなったか。・・・舟を持つ漁師は帆の一反、網の日とひと張り、百姓は牛馬はおろか鋤鍬にまでこれまでの数倍、数十倍に及ぶ重税を課せられ稗粥さえすすりかねている有様ではないか。・・・・・』・・・平田は腰をあげた。枯草を踏み、崖のふちにへ向かってよっくり歩みながら、『ここには、死を怖れている者は一人もいない』」
このように総奉行の平田は感情におぼれることなく、またきれいごととして考えるでもなく冷徹に現実を見据えていた。上に立つものとして当然のこととはいえ、立派というほかない。

「と、気の毒そうに佐吉は背後から話しかける・・・・・。『薩摩の衆にはこたえるでしょう。濃尾の冬は』『この野の風には牙があるよ』と、弥九郎はかこった」
薩摩の御手伝い方はこれまで経験したことのない厳しい冬を迎えていた。
だがそんな中に一つの光明が見えてきた。二の手の現場が12月17、8にちごろには工事が完成するというのだ。「(故郷へ帰れる!)つぶやいただけでも、動悸が高まってくるほど嬉しい」(ああ、だが-』みるみる静馬の眼はうるんだ。(兄を置き去りにしてゆくのか?)伊織を・・・・死んだたくさんの同僚たちを・・・・」
このようにあまりにも犠牲が大きく工事を終えてあの懐かしい桜島の見える故郷に帰れることを喜ぶほど単純ではなかった。

 12月26日から休み、正月は4日から仕事初始め。宝暦5年ー。濃尾の野で迎えるはじめての正月。それでも雑煮の膳に地酒が添えられた。

その間にも幕吏のなかから二人目の切腹者、難工事の出水による犠牲者がでた。

 四の手 大難場「油島千間堤」3月27日完成
 三の手 大難場「大くれ川洗い堰工事」3月28日完成
前年の師走完成の二の手をのぞいて、一の手、三の手、四の手すべての工区が完成したのである。四の手の藩士らは黒松の記念植樹をした。
「この苗木が根張りたくましい老松に生い立つころ・・・・われわれは此の世に生きていまい。が、松籟は千間堤あるかぎり、薩摩藩士一千名の悲泣を奏でつづけるのだ」という気持ちだった。



 屠腹したもの50名、病死者202名。
香をたきながら平田は国許への報告書をしたためた。
翌朝、切腹した平田が見つかった。

薩摩藩の御手伝いは、このように悲劇的な結果に終わってしまった。
巷間この悲劇が薩摩藩士を、このあとの倒幕に向かわせるエネルギーになったとの見方もあるが、そこは私にはまだ分らない。
ただ救われるのは現在、岐阜と鹿児島が“宝暦治水”が縁となり、交流が盛んになっていることだ。お互いの慰霊祭への参加や先生の交換などもあり、ますます交流が深まっている。

















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Last updated  2012.01.09 10:16:08
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杉本苑子「孤愁の岸」を読むを拝読して  
クマタツさん、こんにちは、やまももです。

クマタツさんが杉本苑子の『孤秋の岸』の要点をとてもお上手に分かりやすくまとめておられ、「薩摩義士」による木曽三川に対する「宝暦治水」の苦難の工事の状況がよく分かりました。幕府が薩摩藩の力を削ぐために同藩に木曽三川の難工事を命じ、現地に派遣された薩摩藩士は現場の実情もほとんど分からないような状況で幕府側の堤方役人の協力を得られず、それどころか非協力、妨害、汚職等に苦しめながら木曽三川の治水工事に取り組んだのですね。工事現場の薩摩藩士も大変だったでしょうが、「薩摩藩の二年間の全収入を上回る巨額」を費やした工事の資金捻出のために銀師(金貸し)からの借入等の金策に当たった藩役人も大変な苦労をしたことと思います。

ところで、薩摩義士の苦難の宝暦治水は「工事の主要な目的は網目状につながった三川を分流して水難を防ぐことであり,最大の難工事は油島新田の地先を締め切り,木曾川を分離するものであった」(平凡社世界大百科事典の「宝暦治水事件」より)とのことです。では宝暦治水により木曽三川の氾濫は基本的に治まったのかといいますと、残念ながらその後も反乱は繰り返されたそうで、明治になってオランダの技術者ヨハネス・デ・レーケの近代工法によって「完全に三川は単独の川となって現在に至る」とのことです。しかし、薩摩義士による木曽三川治水の取り組みで「ただ救われるのは現在、岐阜と鹿児島が“宝暦治水”が縁となり、交流が盛んになっていること」ですね。

      ↓
 「薩摩義士、艱難辛苦の宝暦治水」
  http://www.finvic.com/syumi-18.html

 「木曽三川資料室 木曽三川治水の歩み 明治改修1 明治時代中期(約100年前)」
  http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/chisui/05meiji_1.html
(2012.01.09 16:02:47)

Re:杉本苑子「孤愁の岸」を読むを拝読して(12/19)  
やまもも2968さん

早速のコメントとご教示ありがとうございます。
正直言いまして、これをまとめるのにはそれこそ薩摩義士には大きく及ばないまでも「艱難辛苦」しました。
読むのも辛かったのですが、まとめるのも途中で何回かやめようと思ったくらいです。そして出来上がりがこれくらいのことですから・・・。

 宝暦治水も薩摩の御手伝い方の奮闘だけでは100%満足にはいかなかったということですね。「孤愁の岸」を読んだことを出発点にまた勉強してみたいと思います。
ありがとうございました。

  (2012.01.09 16:59:32)

こんにちわ^^  
やっと全文読ませて頂きました。
大変重い内容で、薄っぺらい感想を述べるのは恥ずかしい思いがします。
今も昔も権力を持った人間の傲慢さ・・今私たちが感じている何倍もの思いを、当時の薩摩藩士の方々は感じていたんでしょうね・・・
機会があれば、私も「孤愁の岸」読んでみたいと思います。
ただ、この園で岐阜との交流が続けられてるとの事、人の縁は捨てたものじゃないなぁ~と嬉しく思います。 (2012.01.17 10:18:17)

Re:こんにちわ^^(12/19)  
春の陽だまりさん

 こんなに重いものを読んでいただきありがとうございます。私も文章に書いている通り、大変重たい気持ちになりました。しかし本当のことを知ろうという思い出読破しました。機会があったら読んでみてください。
(2012.01.17 18:20:14)

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