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I'm thinking of coming back here.How's it?by Suguru
Jan 4, 2010
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私ひとりで更新したところで、少しもおもしろくありませんので、テリーの復帰を待ちつつ、しばし休載したいと思います。 スグル
Sep 14, 2006
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精一杯の努力をしても報われないこと、ありますよね。がんばったのに結果がついてこないこと、ありますよね。そんなとき、あなたならどうしますか。早々に諦めて投げ出してしまいますか。来る当てもない幸運を待ち続けますか。パートナーのテリーが不在のため、先週に引き続き、スグルがお届けします。今回のお題は「待ちぼうけ」です。【ま】 待っていたって仕方がないし【ち】 ちっともいいことなんてない【ぼ】 僕だって弱い人間だから【う】 「憂き世は夢」と嘆きもするけど【け】 決して望みを捨てたくはない まだまだがんばれるんだ。
Sep 6, 2006
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パートナーが戻ってきません。今回は、スグルからのメッセージとして綴ります。きっと届いてくれよ…さて、お題は「尋ね人」です。【た】 旅に出たまま行方が知れず【ず】 ずっと探しているのだが【ね】 猫の手借りても見つからぬ【び】 微力ながらもお役に立ちたい【と】 友よ、帰りを待っている テリー、カムバック。
Aug 30, 2006
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テリーがまたもや旅に出てしまったようです。今日は週に1度の更新日だというのに…見かけられた方おられましたらご連絡ください。そんなわけで、今日の更新は延期させていただきます。まことに申し訳ないかぎりでございます。今後も、ザ・マシンガンズをよろしくお願いいたします。 スグル
Aug 23, 2006
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『凄まじい日光の直射』とかけまして、『激しく燃える灼熱の恋』とときます。そのこころは。どちらも『身を焦がす』でしょう。今回のお題は「日焼け止め」です。【ひ】 昼間の暑さに耐えかねて (テリー)【や】 やるべきことを投げ出して (スグル)【け】 今朝からひねもす家の中 (テリー)【ど】 どんなにお日さま照りつけようと (スグル)【め】 めったなことでは焼けはせぬ (テリー・スグル) おあとがよろしいようで。
Aug 16, 2006
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昼間は当然のことながら、寝苦しい夜が続きます。最低気温が25度より下がらない夜を熱帯夜といいます。しかし、暑いばかりが寝苦しさの原因ではありません。さて、今回のお題は「熱帯夜」です。【ね】 眠られないのは暑さのせいか (スグル)【つ】 疲れているのに目が冴える (テリー)【た】 高鳴る胸のときめくのには (スグル)【い】 医者も薬も役には立たぬ (テリー)【や】 焼けぼっくいに火がついた (スグル) おあとがよろしいようで。
Aug 9, 2006
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長い梅雨がようやく明けたと思えば連日の猛暑。ただでさえボーっとしがちな頭に容赦なく照りつける陽射し。「現在の日本は亜熱帯気候である」という一説もありますが、そんな中でも古来から残る風流なイベントがいくつか。てなわけで、今回のお題はその一つである「夕涼み」で行ってみましょう。【ゆ】 夢とうつつを行きかいながら (テリー)【う】 空蝉の声、炎天下 (スグル)【す】 姿形もおぼろにかすむ (テリー)【ず】 ずっとこうして歩いてきたが (スグル)【み】 道草ついでにビールでほろり (テリー) 飲みすぎ注意。
Aug 2, 2006
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夏といえば、海。海といえば、砂浜。砂浜には、まぶしいビキニとスイカ割り。こんな連想は、安直すぎるでしょうか。さて、今回のお題は「スイカ割り」です。【す】 素足を焦がす白い砂 (スグル)【い】 イイとこあの娘に見せようと (テリー)【か】 構えて狙うは青い玉 (スグル)【わ】 鷲の目をして踏み出せば (テリー)【り】 力んで打ちし我の足 (スグル) おあとがよろしいようで。
Jul 26, 2006
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いよいよ夏本番。各地では夏祭が催されています。夏祭といえば露店、露店といえばかき氷。冷たい氷を食べると、暑さも吹き飛びます。さて、今回のお題は「かき氷」です。【か】 からりと晴れた夏の空 (テリー)【き】 清らに咲いた野の花に (スグル)【ご】 五本の指を添えたまま (テリー)【お】 往来などは気にもせず (スグル)【り】 理由はいわずにもの思い (テリー) おあとがよろしいようで。
Jul 19, 2006
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毎日毎日、暑い日が続きます。子どももおとなも待ち遠しいのが、夏休み。そこで、今回のお題は「夏休み」です。【な】 無いものねだりはわかっているが (スグル)【つ】 つらい仕打ちに耐えかねて (テリー)【や】 ややともすれば白日夢 (スグル)【す】 素敵な出会いを夢見てみても (テリー)【み】 身のほど知らず蝉時雨 (スグル) おあとがよろしいようで。
Jul 12, 2006
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【あ】 雨がしとしと降っている【め】 滅入って少しへこみがち【も】 もうたくさんだと声をあげ【よ】 夜の街へと繰り出せば【う】 憂さは晴れるも空晴れぬ おあとがよろしいようで。
Jul 4, 2006
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さて、今週も「番外編」として、スグルの独り言をお届けする。上記はヘラクレイトスのことばである。ヘラクレイトスといえば、紀元前500年前後に生きたギリシアの哲学者である。彼は、万物は流転し、自然界は絶えず変化していると考え、一方で、その背後に変化しないもの、ロゴスを見ていたという。のちに、多くの哲学者の思想に多大なる影響を与えたが、その著作の難解さと厭世観から「泣く哲学者」と呼ばれる。異常なほどプライドが高かったようで、親友のヘルモドロスが追放されたことに激昂し、自らも政治から手を引いたのだという。彼ほどでないにしても、私にも厭世観とプライドがつきまとう。笑わせるに越したことはない。しかし、笑わせられないのなら笑われよ。
Jun 28, 2006
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今回も「番外編」として、スグルの独り言をお届けしよう。これまではどちらかというと、堅苦しい格言・名言が続いていたので、少し趣向を変えて、平易なものを取り上げることにしたのだが、上記が誰のことばであるかをご存知だろうか。ご存知だという方は、相当な映画好きではなかろうか。これは、映画評論家の淀川長治のことばである。淀川長治といえば、その独特の語り口から「サヨナラおじさん」として親しまれ、某映画番組の解説者を32年間も務めた映画評論のパイオニアである。喜劇王チャールズ・チャップリンを始め、数多くのスターと会談し、その人柄は、国内に留まらず世界中で愛された。そんな彼だから、なおさらことばに重みがある。生前、彼はこう語ったという。「どんなひとにも魅力はあるものです。 それを見つければ、嫌いになりません。 ひとの長所を探すには、自分の心がとげとげしていてはできません」私の心は、常にとげとげしているようだ。ひいては、自分自身にすら嫌悪感を禁じえない。私の魅力は何だろうか…私の長所はどこだろうか…
Jun 21, 2006
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久方ぶりに「番外編」として、スグルの独り言をお届けする。さて、上記は上杉鷹山のことばである。上杉鷹山といえば、江戸時代中期の大名で、米沢藩第9代の藩主である。江戸時代屈指の名君として知られており、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディやビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として彼を挙げている。身にしみることばに、ぐうの音も出ぬところだが、自戒の念も込めていおう。嘆かわしや、現代人。著しく努力を怠りながら、不平不満だけをこぼす愚か者。行動を起こしもせず、早々に諦める小心者。自らの過ちを、他人や世間に責任転嫁する卑怯者。上杉鷹山は、さらに続ける。「何事も、成らぬは人の、為さぬなりけり」
Jun 16, 2006
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先週の水曜日も更新できず、誠に申し訳ない限りです。現在は、よりよいブログの作成のため、止むを得ず休息をいただいております。なにとぞご理解くださいますよう、お願い申し上げます。みなさんに楽しんでいただける記事を更新できるよう、さらなる努力を心がける所存ですので、今後とも「タッグの鉄則」をよろしくお願いいたします。また、併設ブログ「ザ・マシンガンズの必殺技」につきましても、お時間のあるときにお訪ねくださいますよう、重ねてお願い申し上げます。ザ・マシンガンズ
Jun 2, 2006
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今回の連載「ザ・マシンガンズの批評眼」は、テリーのノイローゼが悪化したため休載とさせていただきます。誠に申し訳ございません。 ザ・マシンガンズ
May 24, 2006
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テリーの都合により、今回は「番外編」として、スグルの独り言をお届けする。さて、上記は孔子のことばである。孔子といえば、紀元前500~400年代、日本では縄文時代の晩期であったときに生きた思想家で、日本人にもなじみの深い『論語』で知られる。当時の中国は、春秋戦国時代。それまで代々仕えてきた長年の家臣であっても、その君主を討つということが珍しくない、いわゆる「下克上」の世の中。親兄弟さえも含めて、誰も信用できないという風潮が流れていたわけである。したがって、思想家たちは、人間関係の再構築を説いたのである。人間は人間である以上、ことの大小にかかわらず、必ず過ちを犯す。これは、紛れもない事実であり、生きる上での大前提となる。大切なことは、過ちを犯したあと、自らの身をどのように処するかである。近ごろは、内部告発などによって、企業の不祥事が次々に明るみに出ている。すでにそれ自体が、決して許されることではないわけだが、まして許されざることは、自戒の念は愚か、謝罪の念さえ持たず、ひたすら申し開きを立てることに終始する傲慢である。ひたすら黙って遣り過ごそうとする無神経である。『論語』には、こうもある。「過ちを観て、ここに仁を知る」
May 17, 2006
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テリー◆今回は和モノだな。福沢諭吉のことばだが、最近はますます「格差の開き」とか「勝ち組」などといわれている気がしないか。スグル●確かに。あとには「人の下に人を創らず」と続くけれど、現代は、上昇志向ではなく、誰かを自分の下に置くことで満足を得ている場合が多いね。テリー◆あくまで幸福というものが相対化されてるということだな。やはり金の有無については避けて通れない要素だと思うが。スグル●そう考えると、諭吉が貨幣の肖像画に用いられているのは皮肉そのもの。ところで、西洋思想の起源といえるキリスト教の平等論とは同一視できるのだろうか。テリー◆当然それはそうだろう。明治時代の当初は、ドイツを参考にしていたと聞くし、やはりヨーロッパはキリスト教的考えが強い。そこから来ているのではないだろうか。さらに、その前の江戸時代は、「士農工商」という明らかな身分社会だったわけだし。スグル●そうなると、諭吉は単に西洋の思想を紹介したにすぎないということになってしまうよね。私は『學問ノスゝメ』他、諭吉の著作を何ひとつ読んだことがないけれど、彼は、単なる受け売りではなく、もっと違う何かを見出そうとしていたように思うのだけど。テリー◆繰り返しになるが、やはりそれまであった古い価値基準の否定ではないのか。実際にいま我々の暮らす現代が幕末時代と類似しているというひともいるしね。スグル●視点を変えれば、現在は単純な否定ではなく、原点回帰を試みようと模索しているとも考えられるよね。テリー◆やはり何事も混沌を極めると、基本に立ちかえるようだ。そういう意味では、まだ「20世紀末」であるとも言えるかもしれないな。スグル●なるほど。的確な表現ですな。未だ「権利の世紀」は迎えられず。まさに「学問のすすめ」が必要か。
May 10, 2006
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スグル●「我思う、ゆえに我あり」我らのもうひとつの聖典『コブラ』の『シドの女神』でも用いられたフレーズだね。テリー◆まず、「人間という存在は考える生き物だ」との前提なんだけど、俺は学生時代にサルトル以下実存主義の影響で、どうしても古臭く聞こえるんだが。スグル●といっても、実存主義の起源は、パスカルにまで遡るけれど。テリー◆まあ、大雑把に言えば、哲学の基本理念として「人間はなぜ存在するのか」というのがあるからねえ。もともと西洋は、キリスト教が考えのベースだしねえ。しかたないのか。スグル●あくまで出発点の話。同一の事象に端を発していても、経路や着地点が異なる場合はいくらでもあるから。テリー◆例えばどんな感じかな。スグル●カソリックとプロテスタントなんかもそうでしょ。テリー◆なるほど、動機づけは後からいくらでも付加できるのか。あまり言ったもん勝ちというのは好きでないのだが。仕方がないかな。スグル●結構、結構。そろそろ話を本題へ戻そう。テリー◆一般に、デカルトの“コギト”って自己同一性に関して用いられることが多い印象があるな。スグル●我、私、俺……自分の本質を一直線上に見ようとするのは、無理があるし、無意味だと思うね。テリー◆他人からみた評価が本質の一部であることは確かにあるしな。それが全てになるとまた問題ではあるが。唯我論によると、「この世界は5分前に出来たものである」という論理が真だとなるらしいな。もはや屁理屈にしか聞こえんが。スグル●そうなると、自己同一性、つまりアイデンティティの追求に躍起になるあまり、足かせを増やしてしまっていることに気がつかず、身動きがとれなくなって、必要以上に苦しんでいる感が強いね。テリー◆アイデンティティの確立は確かに重要だが、柔軟にバランスをとっていきたいものだな。スグル●そもそもアイデンティティなんて、誰にも、どこにも存在しないんだよ。ユートピアの思想に同じだと思うね。
May 3, 2006
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テリー◆中学生くらいのときに誰もが耳にすることばだと思うけど。スグル●名言としては定番だね。テリー◆しかし、なぜ「葦」なんだろうか。スグル●葦には、竹のように節目があって、それを人生の「節目」にたとえているらしいけど。テリー◆なるほど。ひ弱ながらも成長していくってことか。スグル●確かに、ひとの一生にはいくつかの「節目」があって、そのたびに強くなっていくからね。テリー◆絶対に「転機」というのはあると思うけど、君はどうだい。スグル●これまでを振り返って、最初に訪れた「転機」って何だろう。テリー◆一般的には、受験や就職がひとつの「転機」になると思うけど。スグル●やっぱり、高校受験になるかなあ。そういえば、初めて「胃が痛む」感覚を知ったね。テリー◆当たり前だけど、未知の経験だからね。私も夜眠れなかった記憶があるよ。それこそ、考えすぎて参ってしまう子もいたしね。スグル●初めて人生について考えるときなんだろうけど、いまになって思えば、何を悩んでいたのか。中学生だから仕方がないけれど、やっぱり何もわかっちゃいなかったね。テリー◆いわゆる「内申書」かな。授業態度とか素行なんかが評価の対象になっていて、当時は学校と家の二元しか世界がなかったから、つまらないことに過敏になっていて、それがある意味嫌だったね。といいつつ、気になるものだから、体育の授業なんかでラジオ体操を柄になくはりきってやったりもしたね。スグル●どこで誰が見ているかわからないっていう強迫観念もあった。テリー◆普段から真面目に取り組んでいる子は気にしないと思うけど。それだけ自分が素行がよくなかったってことでしょ。さっきのラジオ体操にしても、がんばったつもりが、体育の先生に「ふざけるな」って怒られたからね。スグル●きっと中学生ながら試行錯誤してたんだよね。テリー◆くだらないことで悩んでいたけど、結局は何がくだらなくて、何がくだるのか、明確な定義はないからね。スグル●本当に大切なことっていうのは、世の中の1割もなくて、残りの9割ほどは、何の役にも立たないくだらないことで、そこにどれだけの価値を見出せるかが、人生を豊かに楽しくするエッセンスだと思うね。テリー◆我々マシンガンズにとっては、景気回復よりも「キン肉マン」「阪神タイガース」「ひねりっこちゃん」なんかの方が気になって仕方がないね。スグル●くだらないことを突き詰めることで、よりおもしろい世界が拓けるような気もするしね。テリー◆なにしろ我々は「考える葦」だからね。
Apr 25, 2006
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「終わり良ければ全て良し」の言葉とともに、有名な小話から始めることにする。エジプトの遺跡にてパピルスが発見された。調査の結果、軽く4千年以上は前のモノだと断定され、さっそく書かれている内容についての検討が行われた。もちろん用いられているのは古代アラビア語、言語学者がまず第一行目に取りかかったところ、非常に平明なセンテンスから始まっていたという。いわく、「最近の若者は礼儀を知らない。なんとも嘆かわしい云々・・・」とまあ、またもヨタを飛ばしているわけだが、おそらく実際にエジプトでも中国でも言われていたのではないか。若者、つまり未熟な人間とある一つの権威の対立、という図式は有史以来不変のテーマである。「世間知らず」というコトバが多分に蔑みのニュアンスを含むように、とかく社会一般におけるルール、いわゆるマナーやエチケットに関して無知な人間はからかいの対象とされやすい。しばしば「常識」というコトバにおいて。それに対して若者は反抗を繰り返す。本ブログ内で何度も触れたパンク・ロックしかり、江戸時代における「かぶき者」などもそうだろう。彼らは奇妙な服装をして、大人には理解不能な言語を喋る。「王様は裸だ」と叫ぶことによって、社会の権威を失墜させる。いわゆる良識ある人々をしかめさせるのだ。そしてやがて若者は歳をとってゆき大人になる、すると下の世代の行動が理解できず・・・・。と、これで納得していただけるだろうか?そして筆者、少なくとも”非”若者であることは間違いない私個人の意見を一言で述べるのならば、どうも人間自体が退化していっているような気がしてならないのだけれど。うわあ、やっぱりグダグダかあ。 テリーBGM:"Love Song"/The Damned from the album"MACHINEGUN ETIQUETTE"(1979)
Apr 19, 2006
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地球上には、数十億といわれる人間が生きていて、老いも若きも、その一人ひとりが、大小さまざまな歯車となって世界を回している。世界は、精密機械である。非常に複雑で、高性能であるがゆえに、たとえ微弱な衝撃であっても、些細な破損であっても、不具合があると、その機能が著しく低下する。いま、この瞬間、この世界を動かすためには、どの歯車もひとつとして欠くことはできないのだ。しかし、残念なことに、近年は錆びかけている、あるいは、錆びついてしまった歯車が少なくない。よって、世界はギシギシと不協和音を発しながら回っている。そして、その回転は急激に失速し、止まりつつある。これを阻止するためには、何をすればよいのか。世界をかどだたず回すには、何が必要なのか。何かの品物を製造するだけの工場の機械なら、錆びた歯車だけを取り替えれば問題は解決する。ところが、世界を動かすための歯車だけは、いかなる理由であっても、容易に交換することはできないのだ。エチケットとは、これらの歯車ひとつひとつを、円滑に回すための潤滑油なのである。by Suguru
Apr 19, 2006
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よく他人からされる質問の一つに、「テリーさんって、家でもそんな風なんですか?」というのがある。そんな風とはもちろん、そんなによく喋るのかというコト。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。おそらくは家で石鹸を相手にして、「また痩せたんちゃうかあ?」とか言っているとするならば、これは明らかにそっち系ではないだろうか。あ、でも特技はノイローゼだったっけ。ならばヨシとする。話は変わるがマジシャンにとって最高の恥というものを皆さんはご存知だろうか。普通に考えれば、手品のタネが見破られたときと考えがちだがそうではない。一番情けないのは「タネの説明をしなければいけないとき」だそうである。確かにミラクルの前においては言葉など全く意味を持たない。むしろ邪魔である。それならば私たちがこの3ヶ月間に続けてきたことの意味は?ただの中年手前の悪あがきなのだろうか?まだモラトリアム期間を続けたいのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・・・。分からない。ほんとうに分からない。ただ一つだけ言えることは、「私はこれからも話しつづけるだろう」この一言だけだ。それがたとえ、他人からの借り物の言葉だとしても。少なくとも細部にこそ宿る真実もあるだろうから。 テリー「起承転結なんか守らなくてかまわない。転から始まったとしても全く問題はないんだよ」中島らもの未完となった小説からの引用。なあ、そうだよなあスグルよ?BGM:"おしゃべり!おしゃべり!"/小島麻由美 From the album「セシルのブルース」(1995)
Apr 12, 2006
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「話し上手の聞き下手」という言い回しがある。自分は話し上手であるが、他人の話はよく聞かないことを指す。とてもうなずけないことである。話し上手は、聞き上手でもある。言い換えれば、聞き上手でないなら、話し上手でもないのだ。話すことと聞くことは表裏一体なのである。どちらか一方のみに秀でるということは考えにくい。ひとの話を聞かない者は、ひとに話を聞かせられないのだ。どちらの技巧も備えているか、どちらも備えていないか、いずれかしかない。ひとと上手に話すのは難しい。したがって、ひとの話を上手に聞くのはもっと難しい。会話は、話し手ではなく聞き手から始まると考えられるからだ。出し抜けに、何のきっかけもなく会話は始まらない。たとえば、あるひとが「目」について話しているとしよう。このひとは、なぜ「目」について話しているのか。視覚器官、目のはたらき、目に映る姿や形、ものの重さ、ものの接点…論点がどこに置かれていたとしても、そこには必ず聞き手がいる。そして、他でもないこの聞き手こそが会話の発端となる。聞かれぬことを答えるものか。ともすれば、聞くことは受動的であると考えられがちである。しかし、聞き巧者ともなれば、聞くことはまさに能動的だといえる。つまり話術とは、話すことはもちろん、聞くことも能動的に行なうことである。by Suguru
Apr 12, 2006
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先に断っておくが、今回はただの日記だ。以前に触れたが持病である腰痛の治療のため、週に一度、鍼灸師のところへ通っている。が、その場所というのが某歓楽街のド真ん中。それも新宿や中洲、ミナミといった「盛り場」然としたところではなく、ややわびしいカンジがする一帯。東京なら錦糸町のような雰囲気とでも言えば伝わるだろうか。おっと失礼。当然、そういった商売に関連している人間が非常に多く、治療が終わった後に入った某ファストフード店で優雅に茶をしばいて(!)いたところ、隣からきこえてくる会話はどうやら何かの面接らしい。驚いたのは採用担当者とおぼしき30代半ばの男、完璧な敬語。完璧な物腰。逆に「仕事」を意識させすぎないソフトな対応。ハナシはトントン拍子にまとまり、採用に決まったようだった。当然ながらさすがにプロ。平凡な感想ながら単純に感心させられた。よく「仕事は教わるものではない、盗むものだ」と言われるがまさにそのとおりだろう。だからこそ、私自身は電車の中吊りなどで「勝ち組への道」「ビジネスチャンスのつかみ方」といった見出しを目にするたび、ついニヤニヤしてしまうのだが。まあいいか、負け組だとしても。しかし、大ボスがいなくなってもまだネットは宝の山なのだろうか? テリーBGM:"Always look on the bright side of life"~"Lumberjack song" /MONTY PYTHON 祝!未発表ボックス発売!!
Apr 5, 2006
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ビジネスとは、プロフェッショナルによる仕事である。そのすぐれた技量に対してペイが発生するわけであるので、ビジネスにおいて、一切の妥協は許されないし、また許すべきではない。たとえアルバイトやパートタイムであっても、それは同様である。昨今は、職務を放棄してしまった労働者があまりに多い。労働そのものを放棄している人間も少なくない。彼らに共通しているのは、自身の怠慢を棚に上げて、不景気と世知辛い世の中の被害者として振舞うことである。おかしな平等論を高らかに唱えるのはやめていただきたい。ときに「腐った」と形容される社会ではあるものの、努力せぬ人間が報われるほど、世の中は病んではいないのだ。極論をいえば、完璧な仕事が提供できないのなら、自ら辞するべきである。しかしながら、人間は、肉体的にも精神的にも、存外もろい生きものである。常に完璧な仕事を提供し続けることなど不可能であるし、失敗も含め、「遊び」があるからこそ世界が円滑に回るともいえる。誰しも最初から高い技術を持っているはずがない。それは、様々な経験を通して身につけていくものだからだ。易々と、一朝一夕で成し遂げられるはずもない。それは、忍耐と疲労、あるいは、屈辱や後悔。あらゆる苦痛に耐えてのみ修得されるものだからだ。自らに課せられた問題を、いかにして乗り越えていくのか。また、いかなる問題を自らに課するのか。仕事に対する真摯な姿勢を持ち続けられるかどうか。これが、プロフェッショナルといわれるにたる条件である。重ねて述べる。労働者たるもの、プロフェッショナルたれ。by Suguru
Apr 5, 2006
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フランス語はうろ覚え。念のため。3月の末になるといつも思い出すエピソードを。ほら、やっぱりプロ野球のハナシになってしまうのだけども。詳しい経緯は忘れたが10年ほど前、学生時代にオープン戦のチケットを手に入れた。対戦するどちらのチームにもさして興味がなく、ただ純粋に野球が見たかっただけなのだろうか、あるいは「ムダにするよりは」との単なるセコさかもしれないがとりあえず見には行った。当然一人で。大した愛着もないので当然すぐに飽きた。5回の表あたりで。季節は春だというのに、まだまだ寒い。おまけに屋外の球場ならなおさらだった。ひたすらブルブルと震えていると、ふとした声、「温かいホットコーヒーいかがですか~」改めて考えてみるとホットコーヒーが冷たいわけはないのだが。当然、売り子のお兄さんを呼び止め注文してみた。「コーヒー下さい」「ハイ、300円です」代金を支払った後、目にした光景といえば、某社の缶コーヒーを紙コップに移し変え。笑顔で「どうぞ」とか言われても困るのだ。プレーする側だけでなく、観戦する人たちそれぞれにドラマは存在する。そんなことに気づいた瞬間だったかもしれない。たとえそれがたった180円の価値しかないとしても。それ以来、野球場ではコーヒーを飲んでいない。 テリーBGM:「恋のフットボール・ジャズ」/カヒミ・カリィ(1992)
Mar 29, 2006
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スポーツは、英語の“sports”(sportの複数形)のカタカナ表記である。“sport”は、同じ英語の“disport”から派生、頭音消失した語であるといわれる。これは「楽しむ、気晴らしをする、遊び戯れる」という意味の語で、その語源は、古フランス語の“desport”「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」からラテン語の“deportare”「ある物を別の場所に運び去る」転じて「憂いを持ち去る」と遡る。スポーツには、その「遊ぶ」という原義が現在も保持されてはいるものの、意味するものは時代とともに変化している。17世紀~18世紀には、特権的遊びである狐狩りなどの狩猟を第一に指したという。しかし、19世紀に入ると、イギリスを中心に、筋肉的キリスト教徒によるスポーツの民主化運動が起こり、運動競技による人格形成論が台頭し始めたことによって、スポーツ専門組織の整備したルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする近代スポーツが誕生した。つまり、現在のスポーツは、かつてのそれとは程遠いのだ。多感な成長期をスポーツに費やされる子どもたち。何にも優先して、朝から晩までひたすらに練習。真剣勝負の「醍醐味」に群がるおとなたち。奇怪な「スポーツ専門組織」の傍若無人な運営。プロ・スポーツや「スポ魂マンガ」などに見られる異様な世界。しかも、これらは決して対岸の火事ではない。その中で特別に育成された人間と良好な関係を構築するのは、その外で通常に育った人間にとっては極めて困難なのである。適度な運動が、それなりに健康の促進につながるというのはうなずける。しかし、スポーツによって健全な人格が形成されるとは到底考えられない。歴史的に、また本質的に遊戯である以上、スポーツに熱中しすぎることは、ギャンブルに打ち込むのと同様である。by Suguru
Mar 29, 2006
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どういうわけだか、音楽に殆ど興味のない女性に恋することが多い。いやホントのハナシ。毎週このコーナーを見てくださっている皆さんはお気づきだろうが、私自身この"12 Lessons"においてはBGMを明記させてもらっており、趣味の欄にも「レコード収集」と書いているとおりのポップ中毒だ。ちなみに今回のタイトルは最近素晴らしいアルバムが出たばかりのスライ&ザ・ファミリー・ストーンから拝借。当然のごとくそんな女性とは接点を持ちにくい。ならば一体どうすれば良いか?まずは自分自身のことをわかってもらうためには?で、思いついたのがミックス・テープの作成、おっと最近ではCD-Rか。つまり自分でオムニバス・アルバムを選曲・編集してプレゼントする。たまにポップスのことを「3分間の奇跡」と言ったりするが、その中で歌われる(主に十代の)恋愛や生活のこと、ひいては怒りや理不尽さ、悲しみや切なさといったものを時に映画や小説以上に感じさせてくれるものが幾つもある。そういった不安定な感情の数々、それを感じ取ることのできる自らの感受性をアピールしようとして、曲の順番やメリハリ(ここはバラードで盛り上げる、とかね)を考え、歌詞の内容に祈りをこめる。そんな方法で何人かの女性にアプローチを行ってきた。まあしかし、結論を言うならば、そんな回りくどい方法で伝わったためしは無いのだけれども。十代のころ読んだスタンダールの「恋愛論」において、”恋愛の初期段階においては、相手のことをより深く知りたくなる”というフレーズをはき違えたまま成長したことにたった今気づいた。あらまあ、何も変わってはいなかったのか。というわけで、明日何の前触れもなくCD-Rをもらった女性はくれぐれもご注意いただくように。たとえそれが「遅くなったけど、これホワイト・デーのお返し」といったようなそっけない渡し方だったとしても。「ポップスを聴くから、センチメンタルになるのか? センチメンタルな性格だからポップスに惹かれるのか? まさにそれが僕の問題なんだ」 Nick Hornby テリーBGM:"Motion Pictures"/Neil Young from the album「On The Beach」(1974)スライ&ザ・ファミリー・ストーン
Mar 22, 2006
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音楽は、本質によってのみ評価されるものではない。音楽が語られる際には、作り手の意図や演者の経歴、さらには、それが作られた背景や経緯が何にも増して重要となる。聴き手にも、それらを知識として貪るばかりで、音楽には耳を傾けない、矛盾を内包した愛好家が多い。いつかニューヨークの地下鉄の駅で聞いた歌。見ず知らずの黒人のじいさまが歌っていた。私は思わず足を止めて聞き入ってしまった。このことを文化的背景や民族の歴史と結びつけるのは、まったくもってナンセンスだといいたいのだ。 人は涙なしでは生きていけない生き物だから そんなに弱さ隠さずにどうか好きなだけ泣いて下さい その涙はきっといつの日か誰かを守る強さに変わるでしょう そう今は痛みを知るためにどうか好きなだけ泣いて下さい私は、この歌のタイトルはかろうじて知っているものの、作り手も歌い手も誰なのかまったく知らない。また、これが優れた楽曲だとも思わないし、演者の技術が高いとも思わない。正直なところ、この歌には何の思い入れもないのだ。ところが、この歌を耳にすると、自ずと涙がこぼれ落ちる。私の記憶に焼きついた、あるイメージが呼び起こされるからだ。それは、顔に浮かぶ哀しみと優しさ。音楽は、ときとして、演者の技量も聴き手の好き嫌いも超越して、ひとを楽しませたり、励ましたりする力を持つことがある。しかし、それはいったい何なのか。もしかすると、音楽そのものがひとの心を打つことなど、本来あり得ないのではないだろうか。音楽が、自分自身と他の誰かをつなぐ媒体となるとき、深い感動を呼ぶように感じられてならない。by Suguru
Mar 22, 2006
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今さら改めてになるが、沖縄アクターズスクールの卒業生だ。来る日も来る日もレッスンに明け暮れ、たまの休日にも新しい振り付けの練習。ときにはライバルに靴の中にピンを入れらりたりもしたっけ。そんな日々を経て、ようやく勝ちとった知念里奈さんのバックダンサー、あのライブの興奮を今でも思い出す。ヨタ話はこの辺で止めとくとして、本題へ入ろう。デヴィッド・ボウイの古いヒット曲の中にこんなフレーズがある。「赤い靴を履いてブルースを踊れ」そう、ここにおけるブルースとはあくまでダンスのステップの一つに過ぎないのだ。「憂鬱」という語源からも明らかだが、もともとブルースとは奴隷制下における南部アメリカの黒人たちが苦悩を表現する手段として生み出された音楽表現であった。広大な畑で綿花を摘みながら日々のつらいことを歌にする。基本的には三行詩のスタイルを取りつつ、最初の二行にはリフレインが用いられる。例えばこうだ。朝、女の部屋にいったら知らない男と寝ていやがった朝、女の部屋にいったら知らない男と寝ていやがったそして最終行でオチがつけられる。ああ神様、それでも俺は彼女を愛してるその他、音楽的な定義なども多分に含むがスペースの都合上割愛させていただく。つまり、そういった土俗的表現が流行に取り込まれたうえにステップの名前として定着する。さらにアメリカ全体を意味する文化となるのは非常に興味深いことと言える。それは「~ブルース」といった地名や職業を織り込んだスタンダードの数を考えてもらえればくだくだしい説明は不要だろう。まあ、それがはるか太平洋を挟んだ東洋の島国において、「窓を開ければ~」と解釈されてしまうのもナンだけれども。そのことはまた別の機会に。”俺の葬式には赤い服を着ておいで 俺の葬式にはみんな赤い服でやって来なよ この世じゃロクなことがなかったから、死ぬときくらいはハデにさせてくれ” テリー BGM:"Sho Nuff I Do"/Elmore James(1956)
Mar 15, 2006
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「ダンス」と名前がついていても、とてもそうは呼べないものが多い。すなわち、音にあわせて体を動かすことと「ダンス」とは異なるのだ。ダンスの歴史は古い。その起源は、現代に残る世界各地のダンスや、古代遺跡・遺物などから、本能的な身体動作、求愛行為、呪術的行為などではないかといわれている。ダンスとは、音楽にあわせた足の動き。それに伴う手や腰の動き。そして、それらはすべて心のリズムに支配される。したがって、ダンスは心を動かす音楽から生まれるのだ。ダンス・ミュージックとかいうジャンルがある。ダンス用の音楽だというのだが、これは本末転倒である。そもそもダンスのために作られたものが、心を打つことなどなかろう。また、音楽がダンスを強いるなど不自然なことである。ダンスが不得手な方。あるいは、ダンスの経験のない方。音楽にあわせようと、無理に体を動かしても意味がない。あらゆるリズムが一致したとき、自ずと体が動くのだ。老夫婦が、ロックがかかっている間はテーブルについて歓談しており、曲がタンゴに替わると、すっと立ち上がってダンスを始める。そんな光景がほほえましい。by Suguru
Mar 15, 2006
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それを裏づけるように、主要とされる国々で『セックスの回数』について調査したところ、フランス人は週3~4回、年間150回を超えるという。仮に、このすべてを「愛し合う」のだとすると、彼らの「愛」は枯れることのない泉のごとし。ちなみに、日本人は、週1回をも下回るそうだ。これで何かが証明できるとは到底思えないが参考までに。by Suguru
Mar 8, 2006
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まずはフランスの小話から始めよう。ナンシーとセシルは小学2年生。ある日ナンシーが自慢げにこう言った。「あたし、どうやったら子供ができるか知ってるわ」それを聞いたセシルは、「あら、あたしなんかどうすれば子供ができないか 知ってるわよ」どれだけ情報化や国際交流が進もうとも、やはり外国人に関しての知識はパブリック・イメージが先行した状態が続いているような気がする。例えば、人種ひとつにせよ、黒人は全員運動神経が発達している。白人は全員ブロンドで足が長い。そんなわけはない、とアタマで理解していてもつい、漠然とした印象を抱きがちである。いや、待てよ。先日あったボビー・オロゴンの暴行に関する釈明会見において、ムルアカ氏(ムネオハウス!)は「アフリカではよくあることです」と3回くらい言ってた気がするけれども。あれ?よく分からん?ボタンのかけ違い?閑話休題。どうも脱線が多くて困る。人種でさえそうなのだから、「民族」という枠になるとより偏見が強くなる。ドイツ人はマジメで頑固。ユダヤ人は利にさとい商売人。スコットランド人はケチ。そう言ってる日本人がいまだにハリウッド映画では、メガネで出っ歯姿、カメラを下げて、"Shopping!Shopping!"しか話せない「ミスター・ヤマ」だったりもするのだが。でまあ、フランス人=助平という印象が定着してしまっている感は否定できない。アメリカ人もそう考えるらしく、以前、別項で取り上げたジョニ・ミッチェル(正確にはカナダ出身)の歌に、「フランスではだれもが大通りでキスしている」というのが確かあったはずだ。同じくラテン民族であるイタリア人と並び、一日中異性のことばかり考えているイメージが強いのではないだろうか。ジローラモな感じで。チョイ悪な感じで。ところが、これが全く無根拠かといえば意外とそうでもなかったりするのである。フランス並びにイタリアにおける「愛」の概念、つまり"amour(amore)"という言葉には性的なニュアンスが強い、というのだ。振り返って考えてみると、17~18世紀の仏・伊両国の文学作品において、「そして彼らは愛を交わしあった」という表現が散見される。これがどういうことかといえばすなわち、日本語でいうところの「私はあなたを愛している」という言い回しとフランス語における"Je t'aime"という言葉では全くニュアンスが変わってしまうのだ。平たく言えば、フランスにおける愛情表現には「君と性的なつながりを持ちたい」という意味あいを多分に含んでしまうのである。まあ、筆者としては多少言語の壁があろうとも、人間の異性に受け入れてもらえれば不満はないのだけれども。「愛してるわ」「俺も、そうじゃないよ」 テリー BGM:「肉体関係」/クレイジーケンバンド~"The Look Of Love"/Tony Joe White~”Sexual Healing(Part1&2)/Marvin Gaye
Mar 8, 2006
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セックスは、奉仕である。それは、互いに相手を思い遣る気持ちがあってこそ初めて成立する。もし、セックスに物足りなさを感じるなら、それはあなたの思い遣りが欠乏しているからである。セックスにおいて、一方だけが不満を覚えたり、一方だけが快楽を得たりすることなどありえないからだ。あなたがオルガスムスを得たいと望むのなら、まずは相手をそれへと誘うよう努めるべきである。ひたすら受け身では、行き詰まる。ひたすら働きかけても、立ちいかない。オルガスムスは、相乗作用によって成し遂げられるのだ。もしや、押しつけがましいセックスや、求めるだけのセックスに満足してしまってはいないだろうか。ひとりよがりなセックスで得られる快楽は、したがって本来のオルガスムスとはほど遠いのだ。まして、そんなものはセックスとは呼べない。それは、マスターベーションの域を出ない。世の男性のみなさん。あなたの彼女・彼は、あなたとのセックスに満足しているだろうか。世の女性のみなさん。あなたの彼・彼女は、あなたとのセックスに満足しているだろうか。あなた方には、それがよくわかるはずだ。相手の得る快楽は、あなたが得る快楽に等しいからだ。セックスは、愛を確認し、深めていくための過程だという。しかし、それは奉仕によってのみ、その大願が成就するのだ。by Suguru
Mar 8, 2006
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自動車に興味がない。むしろ苦手でさえある。いや全くないわけではない。街中で興味を引く車に出会って「おや」と驚くことはある。ただ、それにしても「色が良い」「かっこいい」、あるいは「ヘン」といった感想を抱くだけのことなのだ。「イカツい」とか。仕事柄もあって普段クルマの運転はしない。したがって、免許もゴールドカードだ。この時点で既にプレイボーイたる資格は無い、か。以前していた仕事では舞鶴から和歌山まで丸一日かけて走ったこともあったけれど。コンプレックスを克服しようと夜中に一人で練習したこともあったけれども。現在全く身に着いていないということはやはり執着がないのだろう。とはいえ、「車」についてのポップ音楽は大好きだ。例えば古いロックン・ロールのいくつか、あるいはクレイジーケンバンド(イイネ!!)のレパートリーにおいても自動車をテーマにした名曲は多い。おそらく、恋愛~デート~ドライブという古くからの構図のせいか。おかげで、「65年のムスタング」や「57年のプリマス」、もしくは「ベレG」といった歌の中における知識しか持たない。やっぱり私が頭でっかちの性格だからだろう。これから私が自動車にハマるかどうかは分からない。ただ一つ言えることは、「女の子とドライブに出かける」ことよりも車そのものについての偏愛を歌にするような人間性、タイトルに挙げた曲の作者のような性格によりシンパシーを感じる。それだけは確かだ。「86レビンくらい知ってるよバカヤロー」(北野武”ブラザー”風に) BGM:「冬のオルカ」/キリンジ from the album "ペイパードライヴァーズミュージック"(1998) テリー
Mar 1, 2006
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車は、資本主義経済社会の象徴である。それゆえに車は、ステータスシンボルにも反映される。どう乗るかではなく、何に乗るか。手段と目的が摩り替えられ、巨大な市場が形成されてきた。ひとは車に群がり、羨望の眼差しを投げかける。自分のためではなく、人目を引くための衣服を選ぶように、用途に合わせるのではなく、都会の雑踏を走るためだけに、オフロード車を選ばせてしまうのだ。ルパン三世なら “アルファロメオ6C1750”ジェームズ・ボンド(007)なら “アストン・マーティン”コロンボ警部は “プジョー403コンバーチブル(1959年式)”ときに車は、そのオーナーの形象となる。メルセデス、ホンダ、ボルボ…車は、ひとの主観さえも支配してしまうのだ。もはや車は、移動手段にとどまらない。車は、セックスやパワーの誇示に転用されるわけである。「愛車」ということばを見聞きする。いささか間の抜けた響きである。車を愛するというのなら、それと同様に、あるいはそれ以上に、この青き星のことも想っていただきたい。by Suguru
Feb 28, 2006
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よく、「歴史は繰り返す」といわれる。流行もまた然り。昨日までイケてたものが一晩でダサくなる。と、そこまで極端ではないとしても、最近ウルフヘアーにローライズパンツ姿の女子って見かけるだろうか?まだたまに居るか。いや、何が言いたいのかと言えば、結局服装や髪型の流行など非常に玉虫色のものだということである。今さらwalt.の2万円もするスウェットを買う人間などいない。もとよりwalt.というブランド自体がもはや存在しない。このように、旬を過ぎたものには悲しさを越えた一抹のおかしみさえ漂うことになる。現に私は学生時代、散髪のため入った床屋(美容院ではない。念のため)において初老の理容師に「で、もみあげは?テクノ?」と聞かれ苦笑した経験がある。閑話休題。最近でいうと「キテる」「終わってる」という表現で表されるもの。この言い回しが既に「終わってる」か。「生理かよ!」と突っ込んだ某ドラマはさすがだった。・・・・・・・・。また脱線しそうなので話を戻す。音楽から始まった波を受けて服飾業界に伝播しつつあった1980年代再評価の動きもようやくひと段落した印象を個人的には感じてしまうのだが。おそらく明日は誰かが「Back to the 90`s」と言い出すのだろう。それから私はアニエス.bのボーダーシャツとベレーを買いなおしに出かけることにしよう。そしてたぶんホワイト・ジーンズも 「今度生まれ変わるのなら18世紀の貴族になりたい。20世紀は野蛮すぎるから」ヴィヴィアン・ウエストウッド テリー BGM:"Dedicated Followers Of the Fashion"/The Kinks from the album "PYE singles collection"(compilation)
Feb 22, 2006
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ちなみに、流行色などは、どこやらの国に誰それが集まって、勝手に決められる。それを競って手に入れんとすることが、いかに無意味であるかは言わずもがなであろう。by Suguru
Feb 22, 2006
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【ファッション】 はやり。流行。特に、服装・髪型などについていう。【流行(はやり)】 (1) はやること。もてはやされること。りゅうこう。 (2) 時めくこと。 (3) その時代の人の好み。また、風潮。【流行(りゅうこう)】 (1) 流れ行くこと。 (2) 急にある現象が世間一般にゆきわたり広がること。 (3) 衣服・化粧・思想などの様式が一時的に広く行われること。上記はすべて「広辞苑」に拠る。どうにもしっくりこないのはなぜか。どうやら、ファッションは能動的であるという考え方は、放棄しなければならないようだ。昨今の市場においては、「はやる」のではなく「はやらされる」からである。論より証拠、「今年の春は○○系色」などという文字が、雑誌や店先の広告で、真冬のうちから横行するのだ。特に我が国は、こういった滑稽な光景で溢れかえっている。日本人の受動的な国民性が、単純な日常生活の取捨選択にまで悪影響を及ぼしてしまっているのである。ずいぶん前だが、簡単な操作で、「いまは天気予報がブーム」というような異常な状況ですら作り出すことが可能だと聞いたことがあるが、決して過言ではないだろう。マイノリティ恐怖症の感染力は凄まじく、その猛威は留まるところを知らない。実体のないものを追いかけようもないし、事実、追いかけられているのは人間の方である。立ち止まって、やり過ごせ。by Suguru
Feb 21, 2006
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私を知る人間には意外に聞こえるかもしれないが、私自身は酒を「うまい」と思って飲むことは非常に稀である。ならば何故飲むのかと聞かれれば、幼稚だが酔いたいからだと答えざるをえない。高校生で大人の真似をして煙草とともに覚え大学時代に本格化、卒業とともに恒常化するというお決まりのコースを辿ったことも恥ずかしさに拍車をかける。また古臭い喩えで恐縮だがフロイトによると、飲酒・喫煙は口唇的性欲の象徴および幼児期への退行を意味するという。つまり赤ちゃんが母親のお乳を吸うという行為の延長、つまりは「子供のすること」だと気づいたときには既に習慣となってしまっていた。あるいは前回でも述べたが、やはり私がカタチから入るタイプだからだろうか。たしかに杜甫やトム・ウェイツ、吉田健一といった愛すべき酔っぱらいたちに惹かれることもまた事実なのだが。わたしは酒をまるで害悪のように言うひとは好きでない、ただし、「酒が無くては生きてる意味がない」などとやたらに美化するひとも苦手である。数年前、あるエッセイで目にした一節だが非常に印象的だった。その後に「あまりに当たり前すぎるではないか」と続くのだが、なるほど、文章の書き手(もちろん酒飲み)のメンタリティが色濃く出ている。やはり大事なのは平衡感覚を持ち続けることなのだろう。酒は悪魔でも神様でもない。あくまで飲む側のスタンスによって、表情を変えるだけに過ぎないのだ。さて、一杯ひっかけて寝るか。 BGM:"Alcoholiday"/Teenage Fanclub~"日本酒を飲んでいる"/The ピーズfrom the album "BANDWAGONESQUE”(1991)&"とどめをハデにくれ"(1993) テリー
Feb 15, 2006
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「酒は憂いの玉ばはき」日本では「御神酒」などといって、酒は古来より神聖化されてきた。そのせいか、現在でも美化される傾向が強い。ありがたがりすぎてはいないだろうか。ただの嗜好品ではないか。「上戸と下戸」酒は、ステータスにも反映される。盲目的に、酒が「善」であることを前提にして、これを受け容れぬ者をマイノリティとする。そのため、ひとは「偽善」の群れとなるのだが、それは何に依拠している優越感なのか。「酒の席」ひとは酒に寛容でもある。理性の枠組みは、取り除き、取り除かれ、あるまじき狂気の沙汰までも許される。「無礼講」という名のルール。私は酒を必要としない。呑まずとも酔うことができるからだ。私は酒を呑まない。酒の扱いは苦手だからだ。しかし、酒に酔った人間の扱いは得意である。by Suguru
Feb 14, 2006
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ギャンブルで少なからぬ金を得た経験がある者は、そのとき身体を支配した「脳内麻薬」の中毒患者である。残念ながら、これを治療する医者はいない。また、質の悪いことに、自覚症状がない。まったく気の毒なことである。by Suguru
Feb 9, 2006
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"You might as well throw your money away as use it for gambling."この英文をご覧になって受験生のころを懐かしく思い出された方も多いだろう。might as well ... as ― 「―するくらいなら ... した方がましだ」上記の英文は型どおりに「ギャンブルに金を使うくらいなら捨ててしまった方がましだ」と訳すことができる。ギャンブルの起源は、占いだといわれている。未来を予見し、神と交信する手段であった占いが、やがて広く人々に広まったのだそうだ。したがって、人類に文明が生まれたころには、すでにギャンブルは存在していたということになる。ギャンブルに興ずるのは、生きることを半ば放棄したのと同じである。なぜなら、元来「生きる」とは「命を賭ける」ことであるからだ。だからこそ、生きることに熱中できるのかもしれない。それは人間に限らず、すべての生物に通ずるはずだ。しかし、人間は、その文明力によって命懸けで生きることの危険性から免れた。そのため、生きることに熱中できない者は、ギャンブルに熱中する。ギャンブルに興ずる者は、命と金をすり替えるのだ。金は、刺激になりうるだけのリスクをはらんでいる。ギャンブルにロマンを求めるなど言語道断。夢と希望を買うなどは陳腐な口実に過ぎない。そこには作為的なすり替えが存在するだけである。ギャンブルにつぎ込むだけの金を持て余しているのなら、その金を捨てよ。生きていくために必要な金すら持たないのなら、その金のために勤めよ。命を賭けるだけの価値がある何かを、見つけて生きよ。by Suguru
Feb 7, 2006
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フランスの思想家ロジェ・カイヨワによると、人間の「遊び」は4種類に分類されるという。1、模倣2、競争3、眩暈4、偶然1を例にとれば、有名人が身に着けていた洋服を買う、あるいは雑誌で話題のレストランに行くといったいわゆる流行を追うという行為に象徴されている。次に2だが、これはあまりくわしい説明は不要だろう。人間に限らずあらゆる生き物に本能として必要不可欠なものなのだから。流行にはこちらの要素も多分に含まれているかもしれない。3に関しては、ここ十年ほどで言うならば遊園地の絶叫マシーンが適切かと思われる。私たちはお金を払ってスリルを買うのだ。そして4、これの最も端的なものがギャンブルであろう。競馬で大穴を当てた経験のある知人に、「性的エクスタシーに近いものを感じた」という感想を聞いたことがあるが、なるほど半ば予期しないうえにもたらされた幸運とはそんなものかもしれない。一口にギャンブルとはいっても、先に挙げた競馬や競輪のみならず、バカラやポーカー、ブラックジャックといったテーブルゲーム。麻雀など一種の社交術の要素を含むもの。はてはミニロトや宝くじといった、単に運試しの道具として機能する存在など多岐にわたるわけだが、そのなかで一番理解できないものといえば、そう、「パチンコ」である。何度か挑戦してみたが全く面白さを感じなかった記憶しかないのだ。以前、年下の友人に「急に2時間予定が空いたらどうする?」と質問したところ「それならパチンコ」と即答され、その理由を尋ねたところ、「それしか思いつかない」との返事。より掘り下げて聞いてみると、やはり以前に大当たりで十万円近くを稼ぎだした体験が忘れられないということ。先に述べた競馬の友人同様に、興奮した状態を再経験したいということだろうが、やはり複雑な気持ちになったものだった。考えるに、上で列挙したギャンブル各種に比べてパチンコには、スタイリッシュさやスマートさが欠如しているからではないか。いや勿論、パチプロやゴト師といった、それで生活している人のある種「道」ともいうべきストイックさは承知の上だが。やはり「北斗の拳」や「安田美沙子」ではどうにも食指が動かない。つまりは私自身が形から入りたがるタイプの人種だからだろう。それだけに、昔のドラマでよく見られる「景品を山のように抱えて帰ってくる」シーンには少し憧れるのだけれど。 テリー BGM:”パチンコ”/憂歌団 from the album:「生聞59分」(1977)
Feb 7, 2006
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何度も繰り返すが、私は男性優位論者ではないし、ある程度はフェミニズムに関しての知識及び理解もあるつもりだ。ただ、急進的になるあまり言葉尻を捕え、単なる揚げ足とりに終始することが一部の論者にまま見受けられる部分を危惧しているだけだ。「立ち行かない」としたのもそれに関連してである。もう一点、「妊娠・出産」を神聖化しすぎたきらいは素直に認めよう。やはり男性という立場から「女性」について考えた際に無意識にすべてを男根的思想に還元してしまったことに関しては私自身、性のくびきから逃れられない偏狭な人間だと述べることで反省の意を表したい。 テリー
Feb 7, 2006
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プロフィールの編集・追加をお願いします。by Suguru
Feb 3, 2006
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先に記した通り、ここは意見を戦わせる場ではない。端的に例えるなら、投げっぱなしジャーマン・スープレックスである。にもかかわらず、早速これを破ることをお許し願いたい。全くもって気は進まないのだが、私の性質上、黙って見過ごすこともできないので、やむなく私見を述べる。まず、「歴史上証明されている」とあるが、誰がどのように証明したのか。男女の創造性の優越を証明することは、死後の世界の存在を証明するかのごとく、限りなく不可能に近い。それが絶対数によるものとなれば、暴論と言わざるを得ない。女性の社会進出の機会をことごとく奪い、陽の当たらぬ場所へと追いやったのは、他ならぬ男性だからである。さらに、それでも果敢に社会進出を果たした女性を、今度はセクシャル・ハラスメントを含む性暴力によって排除し、その責任すらも女性に帰すという始末だ。この問題では、統計学は成立しない。次に、妊娠・出産についてだが、これこそ男根主義者の切り札である。妊娠・出産を神聖化することで、女性にあらゆる禁欲を強いる。そして、これを冒す女は徹底的に糾弾され、社会から抹殺される。最後に、ディランの引用だが、これも男性による女性の再生産性の搾取を隠蔽するための常套手段である。男性による取捨選択のすべてが、実は女性のためだったとする卑劣なまでの責任転嫁には、驚嘆するばかりである。女とは、男ではないもの。男とは、女ではないもの。それ以上でも、それ以下でもないのだ。by Suguru
Feb 3, 2006
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まあ、人口比率から見ても画家や音楽家、作家や詩人、哲学者に映画監督、はては料理人に至るまでいわゆる創造性が必要とされる分野において男性比の方が圧倒的に多いのは歴史上証明されているわけだが、それを男根主義の反映、すなわち男中心の社会ゆえと切り捨ててしまっては話が立ち行かなくなってしまうのではないだろうか。初回からやや重い話題となってしまったが、最後に念を押しておきたいのは、私は「女性には創造性がない」と言っているわけではない。なによりも大多数の女性が妊娠・出産という最高の創造行為を行うわけであり、ボブ・ディランの言葉を借りるなら男というものは「女性が許可してくれることや、励ましてくれること以外は何もしたことがない」生き物なのだから。 テリー
Feb 2, 2006
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