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【 動の無心状態 】昨日の雨とは打って変わって、渥美半島は晴れ、あたたかいくらいだった。K坂さんは「ここだけは春みたいだな~、モンシロチョウが飛んでる」ときついはずの90km~97.5km区間なのに、ほがらかにしていた。そんな様子に私も気持ちが助けられた。気持ちははやるが、最後のチェックポイント、97.5km地点のコンビニにはなかなかつかない。やがて少し町らしい地域に入ると、その付近にコンビニがあるのかと期待してしまう。しかし、ない。軽いアップダウンがあったり、一本道がうねってカーブしてたりして、この坂の向こう、このカーブの向こうにチェックポイントがあるのではないかと期待しては裏切られ、焦燥感を感じ始めた。だんだん日差しも強くなってきて昨夜着込んだ服が暑く感じられてきた。荷物をおろして服を脱いだりするのは避けたかったので、そのまま黙々と歩いた。やがてK坂さんがとてもきびきびと歩いているのに気づいた。ものすごい健脚だなあ、と感心しているうちに、引き離されてしまう。必死でペースをあげ、食らいついていった。脚がきついからとゆっくり歩いていたが、ゆっくりだとその分、足首などに体重のかかっている時間が長くなる。むしろテンポよくしたほうが、痛みも忘れて、歩けてしまう。M上さんに先に行ってもらってから、あのペースをうまくつくれなかったが97.5kmチェックポイントの手前数kmで突然K坂さんが、目覚めた虎のようにぐんぐん力強くペースを刻み始めた。無言でひっぱっていってくれた。私は本当についていくだけで精一杯だったけど、やがて夜中に体験した"無の境地"のようなものにまたいつしか入っていった。ペースは速めで、姿勢は昨夜のような楽な姿勢ではなかったかもしれない。背の高いK坂さんの歩幅とは同じリズムでは歩けないので、M上さんのようにリズムを合わせるのではなく、ペースだけを合わせ、自分のリズムに集中して歩いた。昨夜のが"静の無心状態"だとすると、この区間のは"動の無心状態"という感じだった。とくとくと全身が脈打ち、小走りぐらいのペースで歩き続けていると、一気に気分はハイになった。爽快感に貫かれた。途中、左手の丘陵地帯に、巨大な白い風車が突如現れた。3本のスマートなプロペラがゆっくりゆっくり旋回していた。昨夜も、風力発電のための近代的な風車が山の上などにいくつか見えてはいたが、こんなに間近に突然現れたのでちょっとびっくりした。集中してハイな状態になっているせいか、よけいに風車が不思議なものに見えた。デ・キリコの形而上絵画の中に迷い込んだようだ。大きなプロペラが動くと、フォン....フォン....と空気を切る音がする。他には何の音もない。その影が地に落ち、巡っている。朝の光を浴び、緑の丘、青い空をバックに、白い風車は突然私の前に現れた何かの啓示のようだった。前を通り過ぎながら、見上げる。風車は徐々に後方へ遠ざかっていく。そのこと自体も不思議な感覚だった。私はやはり何かの境地にさまよいこんでいたのだろうか。K坂さんはときどきちらと振り返るので、無言で飛ばしながらも気にかけてくださっているのがわかった。ほとんど小走りのように歩きながら、この地点でまだこんなに歩けるということに驚きつつも、集中して歩くのが楽しかった。K坂さんも一度もマッサージを受けず、一度も座り込むことなく、歩きとおしてきたのが、すごい。先ほど抜かされた人たちに声をかけつつ、次々抜かしていった。やがてK坂さんが何か叫んでいるので、辺りを見回すと右手に海が見えた。海の見えるところまで来た嬉しさで、わー海だ海だと喜んでいたら、そうではなかった。前方のカーブの先に、97.5kmのチェックポイントのコンビニがあったのだ。喜びに叫びつつ、転がり込むようにチェックポイントに到着した。 97.5km地点も突破した。長い長い7.5kmだった。しかし後半心地よくてハイになって心地いい区間だった。無心に歩くことをもう一度思い出させてくれた。あとは、最後の最後の2.5kmを残すのみ。高揚し、喜びが体をかけめぐっている。「そのまま行けーっ!」とけしかけるサポートの方たち、「このまま行くぞーーっ!」とハイになっているK坂さん、でも私は「ちょっと待ってー!!」とお手洗いに駆け込んだ。笑い声を背に聞きながら・・ラスト2.5kmは左手に三河湾を見ながらの道だった。途中、A野さんに追いついた。つらそうにひとり、歩いている。K坂さんはペースを落とし、A野さんと一緒に歩き出した。さっきの勢いでゴールまで行ってしまうのかと思っていたけど、もう時間は関係ない。私もほっと気力を抜いて、この2.5kmを楽しむことにした。【 ゴールへの道 】あんなゆったりと生き生きした海岸の情景を見たことがない。自転車の競技者たちが色とりどりのヘルメットをつけ、右側の道路を行き過ぎる。左側には深い青をたたえた三河湾に、水上バイクがうなりをあげる。空は明るくすみ、道はまっすぐのび、優しいベージュがかった白が、私の心を照らす。遠く向かい岸に広がる街。右手の遠くにヤシの木をはじめ、緑がおだやかに枝葉を広げている。すべてがゆったりしている。何もこわいものがない。何も憂えるものがない。時間のくくりも感じられない。散歩するように脚を前へ運べば、そのままゴールへ道は続いているのだ。突然、Sさんが目に入った。夢を見ているような錯覚を覚える。そして近づいてきて、あの思い描いていた通りの笑顔で声をかけてくれる。もちろん、ビールかけというのは、冗談だったけど 夢見た通りの明るい海辺でのSさんの笑顔に、待ち焦がれた瞬間が訪れたことに驚く。あまりにイメージそのままなので。それからOさん夫妻もやってきた。気持ち的にずいぶん支えていただいた。そして、当たり前のようにゆったりと一緒に歩いてくれる。笑いさざめき、数人が一団となって海岸沿いを呼吸するようにゆったり進む。こんな幸福な心地いい海辺での散歩を、想像しようもなかった。やがてOさんが道路のほうを指さす。海岸沿いを離れるのが惜しい。もう少しこのまま歩きたいくらい。しかしゴールはあちらだ。ひとりずつガードレールを超える。脚をひきずってつらそうなA野さんが、片手でポールにつかまり、ガードレールを超えようとすると、四方から手がさしのべられる。A野さんの手は片方しか空いてないのに。私も思わず手を出しながら、幸福な苦笑をもらす。晴れ晴れした気持ちでカーブした道路のアスファルトを踏みしめていく。道の向こうに、今度はY本さんが見える。いつもの柔和な笑顔で、やはり道を指し示す。冗談を言い合ったりしながら、みなと一緒に進んでいくと駐車場の向こうに、一年前に見た、懐かしい、しかし初めて見るゴールのアーチが目に飛び込んできた。昨年私は、あちら側にいて、奇跡のようにゴールしてくる人たちを出迎えながら「すごいなあ、すごいなあ」としか言えなかった。今年はたくさんの人がこちらに向かって手を振っているのが見える。信じられないような思いで、両腕を大きく広げ、叫んでいた。「私にもこんな日が来るなんて!!!」と。<つづく>
2005.10.30
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【 星空のもとでのカニ汁 】やがてあたたかい喧噪が聞こえてきた。夜中4時。81km、カニ汁のチェックポイントだ。声もなく万歳する。ここまで辿り着けるなんて、昨年からすると夢のようだ。本当にここまで自分の脚で歩いてきたなんて!そこには懐かしい顔がいくつもあった。サポートのKさんやK谷さんがいた。先に行ってもらっていたM上さんが、Bさんがいた。初挑戦のM浦さんがいた、63kmからジャンプアップしてきたY本さんがいた。なんと、とっくに100kmゴールしてサポートに回っているHさんまでいてびっくりした。前の晩、勉強会の2次会の帰りに一緒にホテルに戻りながらHさんは今回の目標を語っていた。ゴールするのが目標じゃない、ゴールして戻ってきてみんなをサポートし、また一緒に歩くのが目標だ、と。それを実現させていることが、すごい。みなさまざまな関わり方で、自分の100kmを手にいれようとしているんだと感じた。私はリベンジするだけで正直精一杯で、M上さんやK坂さんにも、その他の方たちにも、今はお返しできるものは何もない。とにかく食らいついて力を貸していただいて、ゴールするだけで精一杯だし、それが今回の私のなすべきことだから、思い切りみなさんのお世話になってしまった。Hさんに陸上部仕込みだというマッサージをして頂いた。大きな体に似合わず、たふたふとやさしい繊細なマッサージにふくらはぎがほぐされた。その後、サポートのKさんが、よれよれの靴下の上からあたたかくマッサージしてくださった。これまで何度も100km歩かれて、ツボを得た的確なマッサージだった。そして夢見たとおり、星空のもとでのカニ汁をいただき、心身ともにあたたまった。ここはひとつの通過点でもあるけれど、私にとってはひとつのゴールでもあった。【 長い夜を越えて朝を歩く 】81km地点では、40分くらいと、一番長く休憩した。5時前くらいに出発した。K坂さんと私はかなりペースが落ちていたのでM上さん&Bさんコンビにすぐ抜かされたけれど、気にせずゆっくり歩いた。やがて空が明るんできた。朝が一番冷え込んだ。視界が明るくなり、右手に海が見えるようになってきた。その辺りは漁村らしい風景だった。朝早くからおばあちゃんたちが、沖アミだか何かかごでたくさんの小さな魚をさばいていた。そんな風景を眺めていると、長い夜を歩き続けて、朝を迎えたことが不思議な気がした。ゴールに着いたらお風呂であたたまるのが望みだった。Sさんのビールかけも楽しみだった。(冗談なんだろうけど・・)朝になり、明るくなり、体も頭もぼーっとしてたけど気持ちはずいぶん元気だった。地球緑化クラブのHさんとまたすれ違った。ずっとあの脚の固まってしまった歩き方で、でも同じペースでひとりで歩き続けている。主催会社の社長さんにとてもお世話になった関係で今回参加されたのだが、 その後姿を見て、K坂さんが「プレッシャーがあるだろうに、すごいガッツがあるよなあ・・」とつぶやいていた。全く同感だった。85kmチェックポイントについた。まだ開店していないヤマザキのコンビニ。Oさんご夫妻やSさんが懐かしい笑顔で迎えてくださった。とりあえず、裏の公園のトイレに行った。先についていたBさんとまた会えた。「休憩していくんですか?」と聞かれたので、「う~ん、K坂さんと相談してみないと・・」と答えると隣の男子トイレから「休まずこのまま行くぞーっ!」とわめくような即答が返ってきて思わずBさんと笑ってしまった。なんて楽しいのだろう。脚ははれて、トイレで座るのもひと苦労だし、腰痛ベルトも締めなおしたりして、痛みをかばっているのに。前向きな方たちに囲まれて、ほんとうに私は恵まれている。驚いたことに、ここでもHさんは先回りしてマッサージしていて「マッサージしていかないの~?」と声をかけてくださったがこんなに見知った懐かしい顔ばかりいるところに座り込んだら、もうあったかすぎて次へ歩き出せなくなりそうで、早々に出発した。85km地点からしばらくは、脚や腰の負担を軽減するためにも、初めて杖を使ってみた。しかし案外腰に変な力を入れてしまうので、結局杖の使用はやめてしまった。やはりまっすぐ立ち、一定のリズムで歩くのが、結局は足腰に負担が少ないみたい。腰痛ベルトがずり上がってしまうので、何度も引き下げながら歩いた。けっこうきつかったのか、黙々と歩いた。またもやM上さんたちにも、またその他たくさんの人に抜かされたが、焦りはなかった。90kmチェックポイントについたのは、朝8時ころ。K坂さんがここで「気持ち的に満足するまで、ゆっくり休んでから出発しよう」と言って下さった。K坂さん自身はあまり休まず行きたいだろうことがわかっていたから、その心使いがありがたくて、涙が出そうだった。この大会の主催会社の方だと思うが、椅子に座ってマッサージしていただいた。2人にやっていただいたが、2人ともプロかと思うほどうまく、寝てないのもあって、あまりの心地よさに恍惚となってしまった。K坂さんに「寝るなーーー!」と言われながらも、一瞬意識が空の彼方に飛んでいた。でもそのおかげで心が満たされた。K坂さんの好意に甘えすぎずに、20分の休憩のみで出発した。このあとは左に山の風景、遠く右手にずっと防風林が連なって見える、畑の中ののどかな1本道が続いた。半島を歩いているんだな、と感じた。完歩した方はみな、最後の90~97.5kmとその後の2.5kmが何しろ長い、ほんとはもっと距離があるんじゃないか、と口々に言う。それでK坂さんは、最後の10kmは15kmのつもりで歩く、と言い、それは私も覚悟して歩いていた。しかし、さっきの90kmチェックポイントでマッサージに恍惚となって飲み物や食べ物を補給しなかったことを少し失敗だったと思った。これまで割と適切に、あたたかい飲み物、スポーツドリンク、あたためたおにぎり、ゆで卵、疲れを感じると時々甘いもの、食べるのもきついときはウィダーインゼリー、とお腹も荷物も重くなりすぎないように、少しずつ、 空腹を感じる前に補給してきた。けれどこのとき初めて空腹状態になってしまった。のどかな村には延々と、コンビニも自販機も見当たらない。そのとき初めて、体力に不安がよぎった。数年前に異常にやせたとき、脱水症状で2回病院に運ばれたことがある。気持ちは前向きで元気とは言え、体はかなり消耗しているこの状態で、飲み物も食べ物もすぐ手に入らないのはヤバい、と感じた。だいぶ歩いてから、天の助けのように、畑ばかりのところに小さなプレハブ小屋のお弁当屋さんが見えた。朝早すぎるのか、日曜は休みなのか閉まっているが、その隣に自販機があった。救われた!と思った。しかもこんな田舎の自販機なのに、飲み物だけでなく箱入りのカロリーメイトまで売っていた。ラッキーすぎる!スポーツドリンクとカロリーメイトを買い込んで、栄養補給をした。<つづく>
2005.10.30
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【 プラス思考を学びつつ歩く 】63kmチェックポイントについたのは、夜10時ころだった。このころにはだんだん応援メールをくれる友人へのメールも 余裕がなくなってくる。休憩のたびに脚が冷え、固まり、歩き出しの1kmくらいがけっこうペースも落ち、きつい。しかし体があたたまると、また"さんげさんげ"のリズムに戻れることを知っているので、焦ることはなかった。ただ休憩はなるべく短かめに、を心がけた。63kmチェックポイントを出ようとすると、突然冷たい強風が吹いた。防寒のための身支度を整えた。ここでもK坂さんのプラス思考に救われた。K坂さんは初挑戦の大胆さなのか、ひょうひょうとして力みのない感じに見えた。後で100kmレポートの中で、普段はマイナス思考でこのときはカラ元気だったとおっしゃっていたが、とてもそうは見えないほどだった。K坂さんは、昼間の強い雨のときは、「大き目の靴を買ったから、雨で靴下がふくらんでちょうどいいサイズになった」と言い、「雨がやんで乾いたら、そのころには足がむくむからまた靴のサイズがぴったりになる」と言う。夕方、雨はやんだけど、今度は風が吹くらしい、という話になると前方の雲を指差して「雲があっちへ流れているから、きっとあの辺を歩くころには追い風になるよ、ラッキー!」と言う。脚がつって痛そうなときもどうなることかと心配したが、そのことさえ「あれでストレッチのやり方を変えれたからよかったよ」と言う。63kmポイントで冷たい強風が吹いたことも、少し歩いてから「さっき風が吹いてよかったよ。歩き出しは体がなかなか温まらないから着込んでおいて正解だよ」と言う。確かに暗い道端で荷物を降ろして着替えたりするより、チェックポイントで防寒の準備ができ、その後集中して歩けたからよかった。プラス思考なだけでなく、自然まで味方につけてしまうようなK坂さんの一連の発言には、ほんとに目からうろこが落ちる思いで学ばせていただいた。気分的にもずいぶん救われた。するとだんだん私にもK坂式プラス思考がうつってきて、「●●でよかったですよね!」と自然といいほうへ考え、言葉に出せるようになるから不思議だったし、面白かった。普段、自分がどんなにネガティブか、自覚している以上に痛感した。夜中12時少し前に70km地点に到達した。また万歳が出た。70km行ければ絶対100km行けると信じていたから。ここのローソンで、私はよれてしまったテーピングはみな外し、まめのできたところにテーピングをしたが、手も少しかじかんで手間取ってしまい、2人を待たせてしまった。ふたりとも、私の足や腰の状態を気にかけてくださってるのがわかる。おふたりから前向きなパワーをもらいながら歩いてきて、私からは何もお返しできていなかったけれど、せめて心配をかけないよう、足をひっぱらないよう、気をつけた。「お待たせしました!大丈夫です、行きましょう!」と元気に言うとき、最強チームに属しているような気がして、誇らしかった。【 無の境地 】70~77km付近の山中では空も晴れてきた。しかし辺りはまっくら。ひとりだったらとてもこわくて歩けないような道だった。ときどき、「あ、誰かが縁石に座り込んでる」と思うとそれは草や葉っぱだったりして、幻覚にドキドキした。そんな山の中に、ぽつーんぽつーんとこの大会のために立っている警備員のおじさんの存在に本当にほっとし、感謝した。私たちはポイントへゴールへ向かっているけれど、あんなまっくらな中に寒さにふるえながらじっと立っているなんて、仕事とは言え、本当にありがたいことだった。しかも「がんばって」「もうすぐだよ」などと声をかけて下さる。警備服についたV字の赤い灯は、まさに灯台の灯のようだった。夜の闇に閉じ込められて、小さなライトを頼りに進んでいくと、不思議と白い丸いライトの光が、魂か何かの導きのように感じられてきた。暗くて周囲が気にならないのもいい。集中できる。やがて先頭を行くM上さんのナイロンパンツがシャッシャッシャッシャッと一定のリズムで鳴る音に、自分も歩調を合わせ、心の中で"さんげさんげ"を唄っていた。体重や脚の痛みを肚(はら)から下へすとんと落とし、歩くようになった。先ほどのように見えないひもを前へひっぱる動作も、腕を強く振ることも必要なくなった。上半身は力が抜け、とても楽になった。脚も振り子のように動く。そうすると痛いのに、痛くない。肉体の痛みと精神とが、分裂した。非常に楽だった。やがて私の中で、唄さえも消え、リズムだけになり、そこへ自分の呼吸を合わせてみた。4拍吸って4拍吐いたり、2拍吸って6拍吐いてみたり試してみた。結局、2拍吸って2拍吐くのに落ち着いた。そうして深い呼吸をしていると、これは寝息のようだと思った。思えばI川先生のおっしゃっていたメトロノームの120~126の早さで、というのは2拍ずつ呼吸すると、ちょうど安静時の心拍数と一緒ではないだろうか。そのリズムで単純に脚を振り子のように前に出し、呼吸を続けていると半覚半夢の状態になり、脳が非常にやすまった。苦痛はあるのに、精神を苦しめない。そしてこのまま行けば、どこまででも行けるんだ、と力むことなく悟った。森の中から聞こえてくる虫の声さえ、同じリズムだった。森羅万象に包まれている安らかさを感じた。そしてなぜか地球緑化クラブのHさんの話された、はるかモンゴルの砂漠のことを想った。暗い足元にはじゅうぶん気をつけていたが、この状態でいると、足の裏はソフトに地をとらえ、多少の石を踏んでも衝撃を吸収してしまって、気にならない。重力に逆らわない歩き方、自然に逆らわない歩き方、そして無心で集中して歩く。修行僧の心もちが少しわかった気がする。"無の境地"を垣間見たような気がする。【 夜中の奇跡と出会い 】夜中2時、77kmポイントに到着。小さく暗くさびしいところにあった。しかし、H川さんの笑顔と明るい親しげな声に心がうるおされた。初めてマッサージしていただいた。でも横たわることはせず、座ってふくらはぎをマッサージしてもらうだけにとどめた。M上さんも初めてマッサージを受け、K坂さんは独自の方法でストレッチをしていた。このチェックポイントでは、奇跡があった。 反射たすきを注文して、受け渡してもらうことにしていたBさんと会えたのだ!同じ勉強会に所属しているものの、まだ顔をあわせたことがなく、メールでのやりとりで、今回の持ち物のことなどでお世話になっていた。 スタート前でも30km地点でも、Bさんの番号を探したけれど見つからず、ゴールで会うしかないのかなあ、と思っていたのがこんなところで初対面し、無事反射たすきを受け取ることができた。大会側の用意してくれたたすきをすでにつけていたけれど、ずっとここまで持ってきてくれたBさんの気持ちとパワーを一緒に身に着けたかったので、ありがたく着けさせていただいた。Bさんは一緒に歩いてきた人は途中でリタイヤして、ひとりで歩いたり、見知らぬ方と一緒に歩いたりしていたらしい。ずいぶん強い人だなあ、と思った。そしてBさんが加わり、一緒に歩くことになった。不思議な縁だなあ。気さくでかわらしい女性だし、出会えて嬉しかったし、何より心強かった。77kmの地点を出発し、しばらく4人で連なって歩いていたけれど、K坂さんと私は、徐々にM上さんのペースについていけなくなってきた。そこでM上さんと、しなやかに歩けているBさんに先に行ってもらうことにし、二手に分かれた。しかしその後のチェックポイントごとに顔を合わせたので時間的にはそんなに差はひらいていなかったのだろう。腰の痛みも気になっていたので、77kmチェックポイントで腰痛ベルトを着けていた。昨年は腰痛が出たところでリタイヤしたけれど、今年はその先へ行く、と最初から決めていたのだ。とにかくここまで来れば次はカニ汁の待っている81kmポイントなので絶対ゴールできると思った。だから腰痛も不安にはならなかった。M上さんが前にいないので、自分でより足元の危険に注意しなければならない。先ほどの半覚半夢の状態ではいられない。あの心地いいほどの無心状態も、M上さんが先頭にいたからこそ入れた境地だったのだ。しみじみM上さんの力を思い返した。とにかくここまで来て足を痛めないように、気をつけて歩いた。だいぶペースは落ちたけれど、淡々と81kmのチェックポイントを目指し歩いた。冷たい強い風が吹いてきても、うまく体がかわしてしまうのか、不思議と衝撃も冷たさも感じなかった。K坂さんも全く同じことを感じたらしく、そのことを口にした。風に抵抗しない歩き方をしていたのだと思う。昨年の、雨風に泣き叫び、恨み、抵抗していた自分からは考えられないことだった。時間的余裕があったので、この後時速3kmで歩いても歩き続けていればゴールに着く、ということだけが見えていて、脚の筋肉の痛みも、足裏のまめや水ぶくれも、腰痛も苦痛ではあっても精神は穏やかだった。麻痺していたのかもしれないけれど・・<つづく>
2005.10.30
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【 試練の区間 】40kmから50km地点までが、私にとっては一番の恐怖の場所だった。特に、まっすぐのびた23号線が。昨年突然脚が動かなくなり、体全体を使ってコンパスのように一歩一歩歩いた道。コンビニもほんのわずか点在するだけで、街灯もなく、前にも後ろにも誰もおらず、真っ暗でどしゃぶりだった23号。ここまで順調に来たけれど、この場所はさすがに黙りこくって黙々と歩いた。昨年は雨風に向かって、泣いたりわめいたりしながら歩いたことが頭にこびりついている。しかし今年は段違いに楽だった。一緒にリズムをつくって歩く仲間がいて、時間的にも余裕があり、そして雨もやんだ。相変わらず暗くて、交通の激しいぶっきらぼうな感じの23号だが、左ひざの痛みさえのぞけば、まったく穏やかに楽に歩ける。マイナスのイメージも私を侵さない。それでも早くこの恐怖の区間を乗り切りたくて、本当に口数少なく歩き続けた。やがて、長い長い一直線の23号がT字につきあたる信号に出た。昨年、縁石に座り込んで途方にくれた場所だ。携帯はぬれて使えない。公衆電話もない。MDを聞いて元気を出そうとしたけれど、機械が動かない。もう次の50kmチェックポイントの撤収時間をとうに過ぎている。伴走車も見えない。関係者とはまったく会えず、どういう状況になっているのか皆目わからない。そんな中、ひとりで縁石に座り込んで、30km地点でいただいたみかんをのろのろと食べた。(今思うと、われながらヒサンだ・・・(^^;))行くことも戻ることもできないとはこういう状況のことだ、まるで遭難者のようだ、とぼんやり思っていた。それでも、コンビニまで行けばなんとかなる、と思いなおし、のろのろと腰をあげ、再び寒さにふるえながら歩き出した。そうして撤収時間を延長してくださっていた50kmチェックポイントまではなんとかたどり着き、腰の痛みも始まっていたのでそこでリタイヤしてしまった。今年はそのT字交差点へたどり着いたとき、私は笑っていた。この先もまだ50kmチェックポイントまで2~3kmあるけれどそれでも暗い一直線の23号をなんとか乗り切ったことで私は第2の万歳をし、やったー!とまた叫んだ。私にとってはすでにここで50kmポイントを通過した気がした。一番の恐怖の場、試練の場をクリアしたからだ。また、昨年は警備員のおじさんはいなかったけれど今年は次の角に立っていて、声をかけ、案内してくれた。M上さんに「一番ラストの人ってどうなんだろう?去年どうだった?」と聞かれたので、「おじさんなんていませんでしたよ、警備員が立ってるなんて初めて知りました」と答えると「そっか~、おじさんも撤収されちゃってるんだ!」と笑われてしまった。すると、警備員のおじさんもいない中でひとり歩いた自分が、けなげでいじらしいなと思えてきて、「去年の自分がいとおしい・・・」と言うと、M上さんに本気で笑われてしまった。しかし、そのとき、昨年の挫折した自分を初めて受け入れることができた。昨年の自分がいたから、今の自分がいる。一挙に気持ちが軽くなった。あと気になるのは、M上さんのことだ。M上さんは48km地点のコンビニから50kmチェックポイントまでが試練の区間だと私は知っている。私と違って、いやな記憶をすでに払拭できているのかもしれないが少しは緊張しているかもしれない。私は、私が23号の試練を乗り越えた、と感じているようにおこがましくも、M上さんもこの区間を乗り切れるのを見守ろう、と思いつつ歩いた。しかし、そんな矢先、M上さんの携帯にご家族から電話が入った。ご家族もちゃーんとわかってるんだなあ・・そして4歳の娘さんからこんなときに「ぱぱぁ、はちみつってなにでできてるの~?」という力の抜けるようなかわいらしい質問があり、一気に気分がほぐれた。そのあとはM上さんとK坂さん、それぞれのお子さんの話に花が咲き、試練の区間のはずが、楽しく和やかに歩けてしまった。おふたりとも、いいパパらしくて、お話を伺ってほんわか気分になれた。50kmチェックポイント前の橋の上で、Y本さんとすれ違った。脚の痛みがつらそうだった。ひとりだとよけい痛みを感じるし、精神的にきついかもしれない。一緒にがんばって歩きませんか?と言おうか迷ったが、ペースがまるで違っていたので、結局そこでお別れしてまた3人で50kmへ着々と向かった。すでに豊橋市に入っていた。50kmチェックポイント前で、M上さんと私を気遣ってか、K坂さんは「ここはさらっと通り過ぎて、次のコンビニで休もう」と提案してくださった。そしてその通り、50kmチェックポイントには長居はせず、すぐ出発した。【 第2のスタート 】夜7時だった。歩き始めてちょうど12時間。私は本当のスタートを切った。少しテンションも上がっていたけど、これからは未知の領域。しかも昨年、この50km過ぎの区間は、道を間違えてリタイヤが続出したり、歩道橋でHさんが転んでリタイヤの原因にもなったりと何かと人を惑わす"魔の区間"なのかも・・と警戒する気持ちもあり、慎重に進んだ。愛知大学付近から、前日の勉強会でのI川先生のアドバイスを生かし、より歩くリズムを気にするようになった。"さんげさんげ"の唄はずっと私の中に流れていたが、(懺悔懺悔六根清浄・・修行者が富士などの山をのぼるときに唱える言葉だそうです) 脚がつらく感じると、「きっと肚(はら)で歩けてないんだ」と思い、腰に見えないひもがついていて、それを自分の手で前へ前へひっぱるような動作をすると、少し腰から歩けるようになるのか、楽になる。脚がきつくなるたびにその動作を繰り返し、姿勢を保つようにした。あるいは、M上さんのリズムについていけなそうに感じると、腕を強く振ってリズムについていった。道が広く平坦だったので、歩き方に注意することができた。そのころは、とにかく70km地点までがんばって行こう!と3人で言い合っていた。70kmまで行ければ、絶対81kmのカニ汁を配ってくれるチェックポイントまで行ける、そして81kmまで行ければ、絶対100km行ける、と確信していた。そしてM上さんが天気予報を調べ、夜中になると晴れると教えてくださった。M上さんのデータや準備などにずいぶん助けられていた。夜中に晴れると聞くと「じゃあ、星空の下でカニ汁ですね!!」と嬉しくなり、そこでまた1つ、くっきりした現実のイメージが形作られた。実は、前日の懇親会のときに、Sさんが「ゴール前の海岸のところでビールかけしてあげる~」と約束してくださったり、Oさんの奥様のK子さんが「絶対85kmまで来てくださいね!!」と言われたりして、そんなふうにサポートの方たちに会うことをとても楽しみにして、現実的にイメージしてきたのだ。50kmクリアしたら、次は70km、そして77kmでは、元気なH川さんに会って、81kmでは、星空の下でKさんのカニ汁を食べる。85kmではK子さんやOさんの笑顔を見て、ゴール手前の海岸でSさんにビールかけをしてもらう。ささいなことだけど、すべてくっきりとイメージできた。そこへ向かっていて、何の不安もなかった。順調に56kmチェックポイントに到着した。しかし気持ちは70km地点へ向かっていたので、そこも長居しなかった。マッサージは一度もしてもらわず、それぞれ自分でストレッチをし、あたたかい飲み物と食べ物を買って、歩きながら食べる。その繰り返しだった。それが合っていた。コンビニでは見知らぬ地元の方が、「がんばってくださいね!」と励ましの言葉をかけてくださったりして、とてもあたたかい気持ちになった。56kmから63kmのチェックポイントまでは田畑の中の農道のような道だった。平坦で歩きやすく、だんだん歩くのに集中できるようになってきた。脚は痛くても「痛い」とは言わず、K坂さんの表現を見習って「脚がはる」と言うようにしていた。腰も、笑ったりくしゃみしたりすると痛みがあったけれどそれも「痛い」とは言わず、「笑うと腰に響きます~」と言っていた。でもそれでも一緒に歩く方と笑ったりできることは何てありがたいことだろう。その区間では、途中、K坂さんの脚がつった。私は信号待ちのときに足の裏や甲の部分で、違和感あるテーピングを切り取って外した。少しでもストレスなく歩くことを心がけていた。やめたいとか、どうなるんだろうとか、全く思わなかった。とにかくなるべくいい状態を保ち、このまま歩き続けることだけ考えていた。M上さんとK坂さんも同じだったのか、マイナスな言葉は一切聞かなかった。それは大きいことだったと思う。途中、地球緑化クラブのHさんと何度かすれ違った。もう脚は開き切り、昨年の私のリタイヤ前のような状態できつそうだった。しかしまったくたゆむことなく、ひとり黙々と歩いている。強い精神力を感じた。<つづく>
2005.10.30
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【 100kmに再挑戦! 】「今年のリベンジ組はすごい!」と何度か言われていた。そんなに意識していなかったけれど、そう見えたのだろうか。仕事の関係で参加している勉強会の、有志が毎年参加している、愛知県での100km歩け大会で、昨年私はリタイヤしてしまった。昨年の大雨の中でのリタイヤを、忘れたくても忘れられない、逃れたくても逃れられない記憶としてくっきり心に焼き付けてしまっているからかもしれない。恐怖と、それ以上に執念も強かったのかもしれない。昨年の苦しみを思うと、100kmを歩き通すには、昨年以上の苦難が待ち受けているかと想像していた。激情と、激痛と。それらを乗り越え、より苦しみに耐えないと達成できないことかと思っていた。ところが、実際はそうではなかった。とても不思議な気がしている。もちろんつらいときもあったし、脚や腰の痛みもあった。不安や恐怖も。それでもそれでも、楽しさ、楽さ、嬉しさのほうが大きかった。そして人のあたたかさ、人に会える嬉しさ、人が喜んでくれる嬉しさ、人が応援してくれる嬉しさ、人を励ます嬉しさ、そうしたものにとても包まれて歩いたように感じた。【 奇跡的な巡り合わせ 】土曜朝7時、碧南市のグラウンドから出発した。今年は400名以上の参加者、100名以上のサポートの方と、大規模だった。小雨が降っていた。その後10km地点までは、前日の勉強会と、ホテルが一緒だったYさんという女性の方と2人でのんびりおしゃべりを楽しみながら歩いた。10km付近のコンビニで休憩しているとき、N本さんが私の足の指に、肌を保護してくれるムースを塗り、さらに指の1本1本にテーピングをしてくださった。足首より上は、脚をサポートしてくれるトレッキングタイツをはいていたけど足首から下は対策が薄くてちょっと不安だったので、とてもありがたかった。N本さんのところの社員さんの、昨年の同じリタイヤ組のK保さんとも「がんばりましょう!」と挨拶できて嬉しかった。K太郎さんが回ってきて、その場で休んでいる人みんなにトマトを下さった。「こんなところで長く休んでいるようじゃ、だめだなー」と苦笑され、私もリベンジを狙っているのに、10km地点ですでに去年より遅い時間だったのでひそかに焦っており、その後は淡々と歩いた。5日前にぎっくり腰を患ったYさんがだんだん遅れ気味になり、「先に行って」と何度か言われた。腰痛もちの私は、Yさんの腰のことも気がかりで、せっかくここまで一緒に来たから、20km30kmくらいまでは一緒に行こう、ついていてあげよう、とも思っていたけれど私は私なりの乗り越えるべき壁や目標もあったので、謝って10km過ぎでお別れした。30km地点に去年よりいいタイムでつくこと、そのためには昨年脚の痛みの始まった、20kmのアップダウンを無事歩き抜くこと、そして休み過ぎないことが、まずは完歩のための第一関門と見定めていたので、少し焦りつつ、しばらくはピッチを上げて歩いた。不安はぬぐえなかった。 途中、勉強会で面識のある、M上さん&K坂さんという男性コンビと何度か抜いたり抜かされたりしたのでこれはちょうどいいペースで歩けるのかもしれないし、それに昨年同じ50kmリタイヤ組のM上さん、前日の勉強会で隣の席だったK坂さん、そのおふたりだったので、これも縁かもしれないと思い、ご一緒させていただくよう、思い切ってお願いした。昨年の私だったら、足手まといになるかも・・とかペースが違ったらお互い気を使うんじゃないかとかいろいろ考えてしまってたけど、今年は何とか人についていってでも、ゴールしたいと思っていたのだ。一緒に歩いてみると、おふたりも、とにかくなるべく休まず一定のペースで歩くことを心がけてるようなので、とても歩きやすかった。このめぐり合わせがなかったら、私は100km歩ききれなかっただろう。おふたりには本当に感謝の念がたえない。その後実感することになるが、M上さんはしっかりリズムとペースをつくりひっぱってくれる「ペースメーカー」、K坂さんは初挑戦ながらプラス思考でいい雰囲気をつくってくれる「ムードメーカー」、そんなお二人と早い時期からご一緒させていただけたのは私の今年の100kmにかけがえのない、奇跡的ないいめぐり合わせだった。【 20kmから40kmまで 】この1年、ジムで脚を少しずつ鍛えたり、最近では、駅のエスカレーターを使わず、階段の昇り降りを心がけたりしたおかげか、第一関門の、20kmのアップダウンでもほとんど痛みは出ず、3人で仕事の話などしながら楽しく歩いた。そのころは昨年よりも雨が強いくらいだった。脚がだいぶ濡れ、ちらっと不安はよぎったけれど、予報では夜はやむとわかっていたので、あまり悲観的にならずに進んだ。昨年50kmでリタイヤした私にとっては、今年は50km地点が本当のスタート地点なのだから、悲観的になっている暇はなかったのかもしれない。20km付近を無事クリアし、30kmチェックポイントが見えたとき、思わず最初の万歳をし、やったーと叫んだ。昨年より1時間早く2時過ぎに、脚にほとんどダメージなしに到着できた。信じられないくらいだ。とても嬉しかった。まずは最初の関門を突破できた。昨年の教訓から、休みすぎると脚も体も冷えて固まってしまうから、今年はあまり休まず行こうと決めていた。サポートの方がマッサージしてくれるスペースを横目で見ながらも 服をととのえ、軽くお菓子やくだものをいただき、すぐ出発した。昨年とは大違いに脚も軽い。この1年間、地道に脚の筋トレを続けた甲斐があったと実感できた瞬間だった。しかし、40km付近では左ひざに痛みが出てきた。でもおふたりと一緒に歩いているので、そのことは一切口に出さなかった。ひとりで歩いていると痛みにばかり気をとられてしまうが、人といると足をひっぱらないように、心配をかけないように気を使う。何とか前向きに歩こうと努める。それはとてもプラスなことだとあらためて実感した。M上さんが一定のリズムをつくって下さり、それにのってスムーズに進むことができた。M上さんの目の覚めるようなリーダーシップぶりには昨年のリタイヤから、本当にこの一年苦闘してきたんだろうな、と感嘆の思いだった。40kmチェックポイント手前で、Mさんと一緒になった。かなりつらそうで、道端で脚のテーピングをはりまくっている。K坂さんは気がかりなようでMさんについていて、あとから追いつくから先に行って、と言った。M上さんと私は後ろ髪ひかれながらも、少し先を歩いた。しかしM上さんはリズムは変えずに歩幅を狭くすることによって、ペースを落とした。この工夫と心配りはちょっとしたことだけれど、とても感心した。また、40km手前で突然知らない番号から携帯に電話がかかってきていぶかしがりながらも出てみると、それはN本さんからだった。N本さんは社員の方たちをゴールさせるために自分も歩いていて、昨年、社員のK保さんがリタイヤした蒲郡駅付近にいると言う。私がそこでK保さんとすれ違い、励まして一緒に歩こうかどうか迷った場所でもある。私に限らず、昨年リタイヤした者にとっては、さまざまな場所につらくも懐かしい思い出が染み付いているだろうと思う。そんな場所から、K保さんが昨年の限界を超えたことを知らせ、私のことも励まそうとしてくれるなんてN本さんの精神力、気配りなど頭が下がる思いだった。でも私のほうが先へ進んでいたので、N本さんは驚いていた。K保さんにもがんばってください!と伝えてもらった。それぞれの地点にいながら、支えたり支えられたりしながら進んでいることを実感した。40kmチェックポイントの、遊園地やお店などのある、海辺の複合施設、ラグーナ付近は、昨年はすっかり夜だった。今回は午後4時25分と、まだ明るいうちに着いた。不思議な感じ。風景もまったく違って見える。昨年泣いて歩いて、制限時間6時にビリで到着した地点とは同じ場所とは思えない。勢いにのって、ここも休まず、わずか2~3分の滞在で通り過ぎた。まだまだ座り込みたくなかった。50kmまでは休まない。50km地点が私の本当のスタートだから。<つづく>
2005.10.30
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100km大会のための準備してます~ドタバタ。今年もまた歩く地方は降水確率70%!あ”~~~、去年の苦しみの記憶が湧き上がってくる~。でもそういえば私自身が雨女だった・・・私のせいね♪他の参加者のみなさん、ごめんなさい(^^;)リュックになるべく最小限の荷物をつめようとしてるけど傘もレインコートも持ちたくないけど持たざるを得ない・・腰痛ベルトもこっそり持った。でも、さすがに2回目なので、ほんとに最小限にしてあとは行った先で何とかする!心配性で、普段から荷物が多い。物も捨てられない。でも、きっと物を捨てることから自分が変わる。これまでも何度かそういうことがあった。ひたすら部屋を整理し、物を捨てる時期・・・それは自分が変わる予兆のようなもので、その時期を過ぎると、きっと自分に大きな変化がある。もっとシンプルに潔く。あいかわらず部屋はなかなか片付かなく、物も捨てられてないが、100km大会に関わり、その準備をしていると今その予兆のまっただなかにいるような気がする。
2005.10.27
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今日の昼食後、店から街路に出て不思議な感覚にとらわれた。いつもの街角なのに、異次元に迷い込んだように。静かだ。午後の日差し。晴れやかな店の、白壁に紅いランタン。ゆれる柳の木の緑。私のまわりに音がなく、無限の安らぎ、無限の幸福、のようなものが訪れ、しばし路上に佇んだ。何か見ているわけでも、何か考えているわけでもないのに、何だろう?何か、世界が私を呼び止めたかのようにその街角、その場を離れられなかった。何かがやってきた。目に入るすべてのものが美しかった。頭からごちゃごちゃしたものをみな追い出して世界の一瞬の美しさに、自分を思い切り浸した。
2005.10.25
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今週末、昨年に引き続き100km歩け大会に出ま~す。近くなってきて、ちょっとビビってます。昨年は初めてのこわさもあったけど、正直ナメてたところがありました。今年は昨年の大変さ、つらさ、足の痛みなどを知ってるだけに、こわく感じますね・・・。しかも昨年は半分の50kmでリタイヤしたから、その先の50kmに今年は挑戦しますが、そちらは未知の世界・・・知ってるこわさと、知らないこわさの両方が・・でも、今年はいろんな人のアドバイスを聞き、昨年の失敗を教訓に、工夫して歩き、不屈の精神でなんとか最低でも70km、そしてやっぱり目指すは100km完歩!↓こんなの買っちゃいました!↓マウンテンステッキ今日届きました。今までは杖なんて・・と思ってたけど、100km経験者は杖は必需品!とアドバイスされたので、素直に用意してみました。すごく軽くてびっくり!これなら、使わないときは短くなるし負担にならない。もっと安いのもいっぱいあったけど、耐久性や大きさの調節などをじっくり考え、これにしました。取り寄せてみて、これにしてよかったな~と思いました。実際、使ってみないとわからないですけどね・・トレッキングなどしなくなってもやがて母に譲ってもいいし・・(^^;)↓こんなのも買っちゃいました!(>_
2005.10.24
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まだ病み上がりなので、ジムでのバレエもジャズもあきらめて早めに帰宅・・・するはずもなく、久しぶりに本屋さんに寄ってきた(^^ゞそして「ダヴィンチ・コード」でも探そうかな、と思ってたのにするすると2冊の本に吸い寄せられて、買ってしまった。ときどきこういうことがある・・1冊はアンドレ・コント・スポンヴィル著/木田元訳「哲学はこんなふうに」、もう1冊は津本陽の「武蔵と五輪書」。「哲学はこんなふうに」はあんまりタイトルは好きじゃないけどフランスで哲学ブームをわき起こした、入門書らしい。思ってたよりずっと平易な言葉で、わかりやすく「哲学する」ことの入り口へと導いてくれる。訳者の木田元先生は、日本の哲学界では割と有名な教授で私もはるか昔講義を取っていた・・と言うと恥ずかしい・・芝居やダンスに夢中で学問はちっとも熱心じゃなかったから・・(>_
2005.10.21
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おととい月曜の晩、のどが痛くなり、昨日の朝から熱出して寝込んでます。2日会社を休んでしまった~。思えば数日前からちょっとヘンだったけど、あまり気にしてなかった。最近のこの気温差に体がついていってないみたい。しかも日曜にブログ更新中に突然ネットがつながらなくなり、ブログの更新やお返事書きもしばらくできていなかった。書き込みしてくださった方、お返事遅くてごめんなさい。やっと壊れたモデムを変え、ネットもつながるようになったし、熱も少し下がったし、ひと安心。明日からはまた仕事いけるかな?みなさんもお気をつけてくださいね~。
2005.10.19
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横山操という画家のことを「美の巨人たち」を見て初めて知った。日本画に興味をもったのは最近のことなので、ほんと知識が薄いが彼の絵はすごい!!と思った。川端龍子を師と仰いでいたとのこと、川端龍子と言えば昨年「RINPA展」で初めて知り、衝撃を受けた画家だ。やはり自分の好みで、同じ系統に惹かれるんだろうなあ。取り上げられていた桜島の絵ももちろんすごいけど、私が興味をもったのは、黒い街と川の絵で、これを見て震えがきた。そのあと一瞬ずつ紹介された工場やウォール街の絵も心に引っかき傷を残す。また、故郷新潟の風景画も「故郷と和解した」と紹介されていたけど、むしろ痛切な心象風景のように感じられた。晩年右半身不随になり、左手で失敗を繰り返しながら描いたという小さな風景画も、心にしみるほどの繊細さ、やさしさを感じさせる。横山操の桜島などの大作は、お風呂やさんから墨の灰をわけてもらい、刷毛で一気に黒々とした風景をカンバスにぶつけたという。私もこの1年、新しいスタイルの書画「そうぼく」をやってきて、墨で描くこと、に共感したのかもしれない。今日は横山操の作品や人生を知り、墨で描くことや、その情熱、日本人であることの何ものかをがーーんと打ち付けられた気がした。パワーを分けてもらった気がした。機会があったらぜひ彼の絵をじかに見てみたい。こんな画家がいるなんて、私は日本のいいところをまだまだ知らない。
2005.10.15
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今月からジムのタイムテーブルに変更があり、金曜日の楽しみのバレエが時間が削られてしまった!ショック!でも、その代わりに、これまで時間的に出れなかったジャズがバレエの直前の時間に移ってきて、これならちょっと残業しても、参加できる♪久々に、ファンクじゃないスタンダードなジャズとバレエのレッスンのWレッスンを受けた。スタンダードなジャズと言っても、さすがに今の時代、ポップやロックなどの要素も入っている振付だった。でもいかにもジャズの、と言った感じのストレッチは、非常に私の体には親しみ深く、懐かしいくらいに感じ、楽しかった。振りが速くてなかなかついていけなくてちょっとショックだったな・・でもこの先生の振付に慣れるまで、しばらくがんばってみよう。それにしてもこの先生、おそらく50代だと思うけどものすごく若く、体もぴしっとしていて、もしかしたら肉体年齢30代くらいなんじゃないかしら・・久々のジャズにちょっと消耗したのか、そのあとすぐのバレエでは、後半ぼーっとしていた。でも前半のバーでは、課題である背中の伸びや足裏のシャッセを意識してレッスンしてみた。バレエのレッスンは1時間半でも短く感じていたのに、たったの1時間に減らされてしまって、疲れていたとは言え、かなり物足りない。さわりだけやっておしまいっていう感じ。流行りのヨガやピラティスのクラスがいきなり増え、その分、他のレッスンにしわ寄せが来てる。ヨガやピラティスももちろんいいんだけど、ちょっと極端なスケジュールになってしまってるから次回の変更のとき、少し改善されるといいのにな。ジムではなく、またスタジオに通うことも考えたりしている。また、それ以外にも、ダンス全体今後どうしていこうか思案中・・
2005.10.14
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ユトリロ展だけではちょっと物足りなく感じ、急遽、東京駅につながる大丸ミュージアムで開催中の「巨匠 デ・キリコ展~異次元の森へ迷い込む時」も見に行ってみた。私は残念ながらオーソドックスな人間でユトリロもキリコも初期の評価の高い時期の作品が好きで独自に良さを見出す目がないのかな~とちょっぴり悲しく思ったりして。キリコも初期の広場のシリーズが好きなので今回、行ってみたら中期から後期の作品が中心だということでしかも最初からパネルには難しげな解説が長々と書いてあり一瞬ひるむ。もう少しわかりやすく説明してくれればいいのに~、あのパネルを読んでどれほどの人が理解できただろうか?疑問である。ドイツ哲学から彼の絵は始まったというから、仕方ないのだろうか・・・初期の形而上絵画に立ち返った、晩年の新形而上絵画に興味深い作品がいくつかあった。「夏の夢~アリアドネとイタリア広場」や「噴水のあるイタリア広場」などやはりイタリア広場のシリーズ。強烈な日差し、キリコ独特のマスタード・イエローの地面に、長い黒い影、ライムのような深い緑から黄色へとグラデーションがかる空、遠くの機関車、空に唐突につきだす赤い煙突、人影のない白いアーケード、風のそよとも吹いている気配もないのに、たなびいている小さな旗。不気味とも言える静けさと、不条理な雰囲気をかもしだすアイテムの組み合わせが居心地悪そうな情景を形作っているにもかかわらず、見る人はなぜかその空間に郷愁を感じ、そこに身をおきたくなるのだから不思議だ。その静けさと強烈な日差しを全身に感じてみたい。緑の空を振り仰いでみたい。そんな不可解な欲求を起こさせる。彼の目指した哲学や形而上絵画というのはよく理解できていないが、形而上というと私は観念的なもの、人間の頭の中で形成されるもの、と大まかにとらえている。つまりそれまで西洋の美術が追いかけてきた、自然や身の回りの物を正確に写し取ること、人の姿やその内面を写し取ること、ではなく、頭の中にある情景や思念を、思う通りの(思い入れのある)物や色に託して表現すること、なんだろうなあと感じた。だから決してありえない情景、どこでもない風景、だったりするけれどありえない風景に、人々が共感するのは、多くの人の頭脳に、直接訴えかける力を持っている情景なんだろうな・・具体的な思い出の場所、ではなく憧れる観念的情景。私もその情景に魅了されてしまっているひとりだ。人は案外、何もない空間に憧れるものだと実感したりする。ジョルジョ・デ・キリコ「不安を与えるミューズたち」1974年版同じような広場でも、ミューズシリーズになると空間よりも、ミューズたちの不条理な姿のほうが主題になる。ミューズといえば古代から、芸術的霊感を与える若く美しい女性の姿に決まっているのに、彼の描くミューズはまったくもって不可解な姿だ。ではミューズとは何か、ミューズから霊感を得ようとする我々とは何か、と考えさせられる。美の概念さえ、わからなくなる。どこかの星に住む宇宙人だったら、このミューズこそ美の化身に見えるかもしれないし。それとも彼の傾倒したニーチェの「神は死んだ」という言葉にも共通して、これまで美の霊感を与えてきたミューズ、西洋の美の基準、美の観念もが「死んだ」と暗に示しているのかもしれない。何かが暴かれている絵のような感じがしてならない。しかしそれは過去の世界や価値観の崩壊、不安であるとともに新しい価値の創生、自由の創生につながっていくのであろう。卵型の頭をもち、三角定規や金属の組み合わせで体をつくられている人物像などの絵も数多くあったが、あれらはやはりちょっと苦手。でもキリコの活躍した20世紀は「個」の自由がどんどん進められたのにあえて無個性な人物像を打ちたてたのは、理由があるんだろうな・・・物質と精神の二元論、とかなんとかキャプションもあったが、肉体の物質的な面を強調したかったのだろうか?また、室内やものが主題の作品も多かった。「ニューヨークの形而上的光景」や「ふさぎこんでいる太陽と形而上的室内」などが興味深かった。室内の絵は、たいていがまるで芝居の書割のような雰囲気だ。ちょっと滑稽でもあり、何かが演ぜられているような感じ。部屋に池があってボートに乗っていたり、部屋でローマ人だかギリシャ人だか闘っていたり、なんともふざけている。不条理劇みたいだ。実際、彼は舞台美術を多く手がけていたというから、確信犯とも言える。太陽の絵は図版などで見たことがあり、あまり好きではなかったが今回「ふさぎこんでいる太陽と形而上的室内」を見て、好きになった。外ではさんさんと輝いている太陽が、室内では真っ黒でへた~っとしていて、ユーモアがあってかわいい。また、鉛筆でのデッサンなどもたくさん展示されていて興味深かった。「ケンタウロスの家族」などふざけていて、くすっと笑ってしまう。「天使」や「不死」などのデッサンを見ると、人が飛んでいて、ああ、彼も自由を求め続けたんだろうな・・・と感じた。東洋と西洋、古典的手法とシュールレアリズム、身体と精神、神話と現代、おそらくそうした2つのものの間を行ったり来たりまた融合したりして、彼独特の世界を生み出した。パネルでは東洋の影響のことが強調されていたが、あの強い日差しの表現はどう見てもイタリアやギリシャのものだ。また身体と精神の二元論も西洋のもの。東洋の影響があるとしたら、説明にもあったが、「空間」を描いた、ということ。確かに・・日本画などは空間をどう描くか、に腐心する。日本人だからこそ、あのイタリア広場のがらんとした空間の絵を親しみやすく感じるのかもしれない。最初心配していたより、ずっと楽しめ、離れがたい気持ちで閉館ぎりぎりまでうろうろしていた。イタリア広場の絵葉書を1枚買い求めた。しばらくはこれを眺めて、あの不思議な空間に遊びに行こう。
2005.10.08
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日本橋高島屋で開催されてる「ユトリロ展」を見てきた。一村雨さんのブログで紹介されてて、ユトリロ見たくなって。まずざっと見て、モンマルトルの風景にとても甘い懐かしさを感じた。7年前パリで、憧れのモンマルトルを歩き、目にした風景や建物。白亜のサクレ・クール寺院、モン=スニ通り、ラパン・アジル、ムーラン・ド・ラ・ギャレット、小さな葡萄畑・・etc.不思議な高揚感と懐かしさが鮮やかによみがえってくる。またこの界隈をゆっくり歩きたくなった!ユトリロの絵は、「白の時代」の展示室がやはり一番落ち着くかなあ。哀愁ただよう白壁の建物ばかり描いて、評価の高い初期の作品群だ。ラパン・アジル(はねうさぎ)という酒場の概観を描いた作品がよかった。でも期待しすぎたのか、白壁の絵は案外少なく感じた。その後の直線の際立つ作品時代、さらに色彩の時代、それから「白の時代」の焼き直しの時代、と変遷していくが、「白の時代」を超えることは難しかったようだ。好きだなあ、と感じられる作品を私には見つけることはできなかった。たくさんのパネルに彼と母親の人生や、さまざまなエピソードが掲げられ、みな熱心に読んでいる。紹介ビデオコーナーも毎回立ち見がいるくらい、とても混み合っていた。私も以前彼と母親シュザンヌ・ヴァラドンについて本を読み、ある程度知ってはいたが、あらためて考えさせられた。後半はしっかりした自覚があったのかもしれないが、これほどまで画家としての自覚や野心のない画家も珍しいだろう。また、そうであるが故に、母、母と結婚し義理の父となる友人、それから年上の妻、そんな一番身近な人々に売れる絵を描かされ続け、ユトリロ自身も一杯の赤ワインのために絵を安売りしてしまう・・あまり主体的に絵を描いていたとは言いがたいような・・彼は本当に絵が描きたかったのだろうか、と思ってしまう。「白の時代」の作品群には、母親の愛情が欲しいという一心と、やるせない孤独が結実し、深さと重厚感が感じられるけれど大量生産させられた作品群に、彼は情熱や意欲などはあったのだろうか。それが読めない。通常、「情熱」があっても「アーティスト」や「プロ」になれない人が絶対的に多いと思う。「アーティスト」であっても「プロ」でない人、「プロ」であっても「アーティスト」でない人、そういう人たちもたくさんいると思う。でもユトリロは資質的には恵まれ、優れた「アーティスト」であってしかも「売れる」という観点からすれば立派な「プロ」でもあるのにそれに見合う、絵や芸術に対する「情熱」が薄かったのではないかと疑ってしまう。「白の時代」に関しては白壁のマティエールの追究などに情熱を傾けたけれど、それは母親への愛情の希求の強さゆえであったのか、短い「白の時代」後は、その追究は深まることはなかった。売れる絵を大量生産したのも、母のためだったのだろうし、ひどく年上の妻と結婚したのも、母の代わりと言っては乱暴だけど・・・母ヴァラドンによって画家ユトリロは生み出され、母ヴァラドンによって画家ユトリロは葬られた。そんな言葉がふと浮かび、母性のおそろしさをちょっと感じた。そういえばパネルには、屈折したエディプス・コンプレックスだったのでは、という説があった。確かに母親を慕い、父親を退けようという単なるエディプス・コンプレックスとは違うだろう、退けるべき父親は最初から不在なのだから。一般には自分より強い父親や、絶対的な強さの存在を乗り越えることで男性は大人になっていく過程があるのに彼には父親もいない、絵の師もいない、しかしここでヴァラドンのような強烈な母親がいたらどうだろう。画家であるヴァラドンは、ある意味ユトリロにとっては母性だけでなく、父性も持ち合わせた存在だったかもしれない。愛情を希求するだけでなく、乗り越えるべき存在だったかもしれない。つれなくされ、立ちはだかり、憎んだかもしれない。と同時にそんな絶対的存在に縛られていたい、という複雑な欲求もあっただろうと思う。ひどく年上の女性と結婚したのもそのあらわれではないだろうか?また、彼はジャンヌ・ダルクを崇拝していたと言うが、そういった両性的な強い存在にひかれるのも母ヴァラドンとの関係が影響しているのではないかと思う。色彩の時代からは、お尻の大きな女性をたくさん絵に描きこんでいる。母親を神聖化するあまり、他の女性への嫌悪感が強いのでは、とパネルの説明にはあったがむしろあれは母親の姿そのもののような気がした。白壁に想いを塗りこめるのはやめ、母親の姿を直接描きこむようになったのではないだろうか。思慕と嫌悪。愛しながらも憎んでいる、そのあらわれ。乗り越えたいけれど、縛られていたい。色鮮やかに彼の絵に点々と描かれるお尻の大きな女性の姿。あれらはまるで、亡霊のようだ。果たして彼は母を乗り越えることはできたのだろうか。後期の作品はあまり評価できないなあ、と思いつつもビデオで紹介されていた最晩年の作品には興味をもった。エッフェル塔の見えるパリの雪の街路の絵だが、実際には存在しない場所だという。希望がわく。母がなくなってからの彼の人生は意欲もなく、生活にも困ったらしいけれど最後の作品には何かいいものを感じる。彼なりに不遇の時代を超え、たどり着いたものがそこに見えるかもしれない。「情熱」に代わる何かが、母への執着に代わる何かが、そこにあらわされているかもしれない。実際、見てみたいと思った。なんだか作品自体よりも、他のことをたくさん考えさせられる展覧会だった。
2005.10.08
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今日はジムでHIPHOPの日。おとといの月曜はファンクだったが、重めのビートが気持ちいい振付だったなあ。今日のHIPHOPは、やっと最近インストラクターの振りに慣れてきたところだけど、どうも体の使い方がヘン。ブザマだ~~。ファンクでも一緒になる、20歳くらいの小柄な女の子で、最初のころは「それじゃあ力みすぎだよ・・」と眺めていた子がいるんだけど最近めっきりうまくなって、HIPHOPにしろファンクにしろ、ブラックテイストっていうのかなあ、そういうのが身についてきてて、力みもむしろ力強さのほうへ消化されつつあるのが感じられた。今日はちょっと本気で悔しかった・・若いエネルギーにジェラシー。(私にもそんな時代があったんだろうけどね)私は無意識にもバランスや体の使い方を気にかけてしまう、もっと壊さないと、面白みのないダンスになってるみたい。創って、統制して、壊す、そしてまた創る。その繰り返しだよね、何でも。先日のモダンダンス公演を見て、より刺激されたのもあるし、ダンスについていろいろ考えてることがある。まだ考えや方向性はまとまらないけど今、にわかにいろんなことが頭をめぐってて、変わるときなのかも。
2005.10.05
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秋だし、これまで涼しげなブルー系のページだったのをイメチェンしてみました。昨夜からいろいろやってみて、ほんとは黒と茶のシックな感じにしたかったんだけどきつくなりすぎて、ボツ。結局見やすく、疲れない配色、そしてオリジナリティ出そうとしたらやっぱりこれまでの絵を入れることになって、なんだかまた昔のほわほわムードに・・憧れのシャープでシックでかっこいいデザインはなかなかできないなあ・・センスないよ~(;_;)いつもの楽なところに落ち着いてしまった。自分の楽な向いているところと、憧れる方向にギャップがありすぎ!
2005.10.04
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