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友人とかねてから楽しみにしていた北斎展を見に行った。気持ちのいい秋晴れの日だったので、上野公園の紅葉を楽しみながら、国立博物館へと向かう。着いてみるとさすがに行列。30分待ちだったけど、まあそれくらいは覚悟の上・・・並んで待つ間、期待がふくらんで、天気のいいのも手伝って、秋の豊かな日差しのもと、むしろ上機嫌で入館を待つことができた。さてさて、中に入ってみると、第1展示室はかなりの混みよう。300点の展示作品すべて見てたら絶対疲れきってしまうから、ポイントだけ押さえようと思ってたので、あまりに混んでいる初期のころの作品群は、大方捨ててしまった。それでも圧倒的な量の作品郡から、雰囲気にのまれてしまうほどパワーをびしびし感じられた。あらゆるものを描いたというが、改めて目で見て実感した。友人はあまりの多作に、「モーツァルトみたい!」と言い、私はあらゆるものを観察したという点で、先日のダ・ヴィンチと引き比べていた。ひとりの画家のエネルギーに包まれる体験としても、似たものを感じる。あらゆるものを、手法も変え、雰囲気も変え、描いた。これでもかこれでもかというくらい。70年もの間、描き続けた。そのエネルギーはどこから来るのだろう?美人画のなんともやわらかな流暢なライン。老人や中国の賢人などを描くときの、強弱のコントラストの強いライン。漫画の闊達さ。鳥や魚の絵に如実にあらわれる凄みのある描写力。地図画のため息の出るような細かさ。武者絵の前面にあふれ出る充実感。龍の墨絵の、けむるような墨の使い方、黒の迫力。あまりに自在なので、ほんとにひとりの絵師の作品か、と感嘆の思いでいっぱいになる。うなってしまう。描くのが楽しくてしょうがないんだろうなあ。絵に、万物にまみれて、狂遊しているように感じられる。ざっと見た中でも、私がいいな、と思ったのは肉筆画が多かった。まず三連一組の「日月龍図」。太陽と月と龍がそれぞれ一幅の掛け軸に描かれ、3枚が絶妙な心地よいバランスを見せている。太陽の晴れがましい、でもなぜか懐かしいようなじっと見ていると気持ちの凪いでくるような朱赤が印象的。それから、がさがさっとした簡潔な筆さばきながら、柳と女の、風情ただよう「夜鷹図」。流暢なラインで描かれた、あでやかな錦をまとった美女図なども魅力的だけど・・さらっと柳が上部からたれ、風にゆれ、その下で男を待つ、その日暮らしの夜鷹の後ろ姿、ほとんど墨色ばかりの、そんな絵のほうに私は惹かれた。絶筆とされる「富士越龍図」もよかった!すっきりした潔い白富士のはるか上空へのぼりゆく龍は、決して大きく描かれていない。龍を小さく描くことで、かえってはるかな情感を感じることができる。それは北斎自身の魂のようにも思える。腹の底から人生を悦びながら、ついには重さも多様性もパワーも脱ぎ去って軽い透明な龍になり、天へとのぼっていってしまったのかな・・・肉筆画も素晴らしかったけれど、やはり圧巻は「富嶽三十六景」。もうあの構図に見慣れてしまってる方も多いのかもしれないが、私の目にはまだまだ新鮮にうつる。その一連の作品の前は、一番人気もあり人だかりしているが、何度も戻ってみてしまう。藍の美しさ!「甲州石班沢」の、富士の省略の、あまりのセンスの良さ。「凱風快晴」の、富士のぼかしの心にしみるような優しさ。人の動きの面白さ。構図の巧みさ。建物の配置のリズム感。これまで私は浮世絵では広重が一番好きだったけれど、北斎の人気、世界的な評価の高さも、今回まったくこうべをたれるような思いで実感させられた。広重も叙情性があり、構図も非常に巧みで、じゅうぶん奇抜で素晴らしいのだが、北斎はそこに、ゴムまりの弾力、とでもいうようなものが付け加わり、非常に生き生きした、ある意味キュートな味がある。見ていて本当に楽しい。心がいつも弾んでいないと、こんなに大量に生き生きした絵を描くことはできないだろう。こんな日本人がいたなんて!!数年前から日本の文化、日本の精神がとても好きになっていたけれどあらためて北斎から、より豊かな衝撃を受けた。そう、まさに北斎というグレート・ウェーブ(「神奈川沖浪裏」の大波)にざっぶーーん!とのみこまれ、すっかり洗われたような感じだ。こんな心の弾力をもって生きていけたら、いいなあ。日本人の感性の土壌をもっともっと知りたい欲求にかられつつ、光あふれ、紅葉散る上野公園を、夢の中を歩くようにぼーっとしながらあとにした。
2005.11.29
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さてさて、龍子展パート2です!細長い会場の中央に腰の高さの長い仕切りがあるなあ、と思ってたら、仕切りじゃなくて、それも作品の展示用ケースだった!いったい何メートルあるんだろう?長い絵巻物のような作品で、タイトルは「逆説 生々流転」。これは何度見ても面白いので、何度もたどって見入ってしまった。昔、伊豆を襲った大きな台風があり、それを題材に取ったらしい。しかしそこでも思いもよらないことに、日本の伊豆を襲った台風を、龍子は、ポリネシアの島から描き始め、復興までを描ききるのだ。画面右端に、ヤップ島の日輪の象徴であるマークが激しく回転するところから、物語がはじまりはじまり、といった感じ。南方ポリネシアの暮らしぶり、海洋民族らしい反りあがった舟、舟乗りである男たち、腰みのをつけた女たち。大きな草葺屋根の家、高床式の建物、まわりにはシュロの木、ヤシの木などが茂る。子供の歓声の聞こえてきそうなのどかな南の島の風景に、低気圧の雨が降り出す。風が吹き、ヤシの葉をひきちぎっていく。ワニが必死で石か何かにつかまっているユーモラスな姿。低気圧は太平洋をわたり、台風に発展する。荒れた海、波の表現・・太平洋をトビウオが飛び、サメ、エイ、ウミガメが左へと泳いでいく。みなわたわたと泳いでいるようで、ほほえましい。そうして左へ左へ物語を運んでいく。やがて画面は黒い雲におおわれ、台風の目があらわれる。日本に上陸し、富士山を吹き荒れる嵐となる。岩間を濁流が走る。黄土色の濁流は、田畑を流れ、家を橋の欄干を押し流していく。人々の暮らしを翻弄する。根元からなぎ倒された木、流されていく家屋。丸太につかまり、あるいは屋根にはいのぼり、木にのぼり、生き延びる人々。ひしゃげた線路、電柱、流されていく家財道具、陸に打ち上げられた家畜の死骸。しかしそれらは決して悲惨ではなく、ひょうひょうとユーモラスに描かれている。さらに左へ見進めていくと、やがて台風はおさまり、復興の場面になる。ブルドーザ、クレーン車が活発に動き、整地し、建築を進める人々。三脚の上の小さな測量器をのぞくおじさんは、ほほえんでいるように見える。その先には白い空間が広がり、上空には淡い虹。鷺だろうか?白い鳥が二羽、虹をかすめて飛んでいる。平和な、すっかり洗い流された世界。建設された新しい橋が遠景に見えて、はるか南方から始まった、生と死、破壊と再生の物語が終わる。ユーモラスな絵で、発想もすごい。途切れることなく書き連ねる力量もすごい。と同時に、龍子のひどくお茶目な面を見たようで、ほほえましかった。その他にも「怒る富士」「木菟(みみずく)」などの作品がよかった。「怒る富士」は黒煙と、富士の白肌と、火口の血のような紅のほぼ3色だけで描かれ、タイトルともあいまって静かな迫力をかもし出していた。さすが横山操の師匠だなあ、あの黒は。「木菟(みみずく)」は、欲しい~~~!と思ってしまった作品だ。会場芸術を提唱していた龍子にしては珍しく掛け軸の形で展示された小品。木にとまっているみみずくの、かわいらしいこと!墨のぼかしもとてもやわらかく、味があって心にしみる。こんな愛らしい、懐かしいような絵も描くんだな~とあらためて龍子の絵の幅広さを思い知らされた。今回の龍子展、作品のおおらかさが、いい"気"を発しているのか、とても心地いい時間を過ごせた。会場にはソファもあり、ゆったり作品を眺めることができる。何しろ、大作品ばかりだし。心身ともにリラックスして見ることができて、幸せだったな・・・「生誕120年~川端龍子展」は、両国の江戸東京博物館にて12月11日(日)まで。ところで・・・以前、ペアチケットプレゼントに当選したコレ↓「スコットランド国立美術館展」一緒に行くはずだった友人が行けないことになり、1人分あまります・・・誰かにチケットあげちゃおうかな~と思ってたところ、これは引換券をもっていったら、2名入れる、というシステム。ってことは、事前に誰かに「好きなときに行ってね♪」ってあげるわけにも行かないじゃん!もったいないから(貧乏性なもんで・・)、どなたか一緒に見に行きませんか~?できれば来週の土曜10日の夜(21時までやってます)行こうかと思ってます。mashenkaとアートを語る夕べ・・・ってほどおしゃれじゃない~(^▽^;)でも、2005年を振り返って、今年出会った絵のお話をするのも楽しそうだな~。勝手にわくわく。
2005.11.23
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両国の江戸東京博物館へ「生誕120年~川端龍子展」を見に行った。昨年の「RIMPA展」で初めて見て、龍子に興味を持っていたが本格的に龍子展が開かれて、とても嬉しい。江戸東京博物館も初めて行ってみた。両国の駅前なのに、なぜかぐるっと遠回りしてしまった~。普通の美術館とはまた違った雰囲気にどきどきしながら入ってみると、意外なことに「画人生涯筆一管」という書がお出迎えしてくれる。力強く"たっとう"とした(←勝手につくった擬態語(^^;))書だ。思わず指で宙に筆跡を追ってみる。いいなあ、こんな字を私も書いてみたい。少年時代の早熟な絵もいくつか展示され、それからデザインの仕事、院展時代の大作品、と進んでいく。当時の"床の間芸術"に反発して、「会場芸術」を提唱した龍子だが、さすがにプロローグ的展示物のあとは、ほんとに会場でしか見られないような大きな迫力ある作品ばかり。院展時代の作品より、やはりそれ以降の、青龍社設立以降の作品のほうが断然いい。目の覚めるようなたっぷりとした潤いのある青と、波頭の白がきりっと美しい「鳴門」。同じテイストでも「潮騒」のほうは、画面左手に青い海を飛ぶかもめの白が映え、シンボリックでもあり、より現代的で、口当たりのいい作品。そして中央の大きな茶褐色の岩を隔てて画面右はエメラルド色の浅瀬へとグラデーションしていく。こちらはかもめも岩で数羽はねを休めていて、左手の"動"に対し、安息感を感じ取ることができる。胸をすくような心地いい作品だ。そして「草の実」。「草の実」RINPA展でがつんとやられた「草炎」の姉妹作品らしく、そっくり同じテイスト。紺絹地にほぼ金泥のみのシンプルながら迫力ある作品だ。ちらしの絵とタイトルから、「草の実」は「草炎」よりはおとなしめな作品かな、と思っていたが、やはり目の前にすると、見ほれてしまうほどのできばえの作品だ。あんなに草や葉がおびただしく描かれているのに、どれひとつ取っても、どのラインひとつ取っても無駄がなくうるさくもなく、迷いもなく、完璧なのだ。書き直しもなければ、恐らく直接的な下書きもない。下書きが仮にあったとしても、なぞった線ではない。全部が生き、はかなく、力強く存在している。草ののびやかなこと、葉のはかなげなこと。金泥に混ぜてあるのか、微妙に黄緑と黄を使い分け、秋の白茶けた草の乾いた感じ、実がなり充実しているけどやがて枯れゆく予感を表現していると思う。この作品の前では、緊張感と、のびやかに解放された感じ、双方を驚嘆の思いで見つめてしまう。さて、今回ちらしやポスターになっている「南飛図」。「南飛図」誰がこんな構図を彼の心に吹き込んだのだろうか?宇宙的なアングルだ。月夜に、渡り鳥の飛来を見上げている図かと思っていたら、上から鳥や月を見ている図なのだ。背景の群青、鳥の茶、白などのコントラストが美しい。鳥と月の配置の妙もなんともいえない。それからとても気に入った作品「龍巻」。これも最初は「?」と思いながら眺め、やがてその面白みにはまってしまう作品だ。竜巻により吸い上げられた海水がうねりのぼって、空中から落ちようとしている。逆巻く波の造形の面白さ、曲線が生き生きしている。そんな大胆な激しい波を背景に、海洋生物たち、くらげが、イカが、細い魚が、熱帯魚のような色鮮やかな魚が、竜巻にのまれ、吐き出されたのか、逆さまになって下へ下へ落ちていく図が前面に描かれている。まるで激しいうねりの波と対照的に、スローモーションの映像のようだ。非常時なのに、魚の表情もみなぽーっとしている。そんな中で、中央のサメだけが、下へと落ちながらも半身を起こし、上空を見据えている。竜巻に負けまいとしている。反り返った体はまるで、嵐の中で世界をつなぎとめようとする錨のようだ。ぽーっと無感動な周囲の魚たちの中で、サメだけがぐわっと気概を発散させる表情で上を見上げている。非常に見ていて飽きない、面白い作品。「花摘雲」、これも意表をつかれる。中国大陸のおおらかな草原の雲を、飛天に見立てたそうだ。横に大きな作品で、地の緑と花に、空かける天女が4体、圧倒的な存在感だ。天女の肌には金泥を下塗りしてあり、またさまざまに色を織り込んであり、白といってもやわやわと明るく、翳りもある白だ。その微妙な濃淡だけで横たわるような姿勢の、4体もの巨大な天女を、やさしく生き生き描いている。天女たちは地に咲く草花を摘み、花かごに盛ってかかげ、左へとなだらかに流れていく図である。豪快で大胆な絵が多い龍子だが、もちろんこの作品も非常に大胆だが、繊細な、優美な感覚もいかんなく発揮していると思った。こうした感受性はどこから来るのだろう?大陸の風を感じた。来年行く予定の、モンゴルの平原のことを想った。こんなに穏やかでおおらかで優しい風土なのだろうか・・・「爆弾散華」「爆弾散華」ちらしで見たときは、爆弾のように勢いよく成長し、咲き誇る草花の絵かと思っていたが、違った。実際に終戦直前に、龍子の家が空襲を受け、散ってしまった庭のトマトや草花の絵だった。爆弾にやられてしまったのに、この華やかさ、美しさ、そして強さ。暴力を受けながらもそれに負けていない生命の姿。緑が濃く、背景の金箔と対照的。これを描いた龍子の心もちはどんなだっただろうか。家は倒壊し、庭には7メートルの穴があき、今では池になっていると言う。使用人も死に、アトリエと家族はかろうじて無事で、終戦直後の生きるのさえ必死な時期に、これを描いた。優美な作品を。驚くべき画家としての魂だと感じ入った。<つづく>
2005.11.23
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100km大会のレポートをアップしました。長~くて読みにくいところもあるかと思いますが、ぜひブログの中だけでも、一緒に100kmの旅に出てみませんか?100kmを歩いて~その1 再挑戦~40km地点まで100kmを歩いて~その2 40km~63km地点まで100kmを歩いて~その3 63km~81km地点まで100kmを歩いて~その4 81km~90km地点まで100kmを歩いて~その5 90km~ゴールまで100kmを歩いて~その後 終わってから感じること今日はほんとは素晴らしい「川端龍子展」を見て、それも書きたかったんだけど、力つきました・・・先週土曜の上野の「プーシキン展」の感想もアップしなくっちゃ!100kmの次は、美術の旅にお連れしましょう♪
2005.11.23
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プーシキン美術館展を見に上野へ行った。土曜の午後だから覚悟はしてたけど、入館が20分待ちで中も大変混雑していて、絵を見ることがこんなに疲れるなんて久々だったなあ・・・【ピカソ、カリエール】私にとって一番よかったのはピカソの「アルルカンと女友達」。ピカソはこれまであまり好きではなかったが、先日のブリジストン美術館常設展の作品に続き、今回のは好きだと感じられた作品だった。青の時代の名残だろうか、(それともこの作品自体、青の時代のものなのかな?)憂鬱な青と青緑が印象的だ。女の服のオレンジ色や、背景のローズ、肌の色の下まで青が塗られている。ぴったり寄り添う2人、それぞれの手の組み方、グラスの配置、顔の向きなどすべてが見事なほど画面におさまっている。おさまりすぎるほど。女の青い視線にとらわれる。目が合う。人生に疲れているのか、けだるく、媚も覇気もない表情。アルルカンのほうは横を向き、怒ったように眉を寄せ、どこかを見つめている。社会や、ままにならない人生に対する憤りだろうか。2人の人物は、顔はそれぞれの方向を向いていても体はやわらかくぴったり寄り添い、よるべなき時を共に過ごしているのがわかる。美しさと、ひきちぎれないようなもどかしさのある強さを感じさせる作品だ。カリエールという画家は、オルセー美術館の図録で見ていいな、と思っていたが、今回初めて実際の作品を見ることができた。「母の接吻」という作品がよかった。暗い背景に、背景にとけこむような暗い色の衣服をまとった、母と2人の娘の抱擁の場面が描かれている。顔の表情もぼやけてはっきりしていない。単色画に近い感じなのに、ドラマティックな雰囲気があふれている。筆跡に大きなうねり、流れが見られるが、それはちょっとムンクを思わせる。今度、上野でロダンとカリエール展をやるそうだ。ロダンと親交があったり、共通項があるとまで知らなかったが、興味深い。【ゴッホとゴーギャン】閉館15分前になると、ようやくがらんとしてきて、ゴッホの「刑務所の中庭」をじっくり見ることができた。狭い壁に囲まれた刑務所の中庭で、監視員に監視されながら囚人たちがうなだれてひとつの円をつくって歩いている。人がいたときは深く感じられなかったが、ひとりでしんとした中で見ていると、囚人たちの足音が聞こえてくるようだった。それは静かで、丈高い壁に囲まれた中庭に音が閉じ込められているように感じられる。石畳の石、壁に積まれている石を一筆ずつ淡々と丹念に塗っているので、それらの石、絵の具の一筆ずつで、音を塗りこめているような印象だ。抜け出せない円環は、人生の象徴だろうか?しかし、みなうなだれている中で、中央の囚人はひとりこちらを向いている。こちらに足を踏み出そうとしているようにも見える。しかし、それは決して希望の一歩とはいえないかもしれない。この囚人は、ゴッホの自画像だと言われているそうだが、囚人の円環が生そのものだとすると、こちらへ踏み出すことは、自由への一歩というよりは死への一歩かもしれない。ゴッホの死、5ヶ月前に描かれた作品。ゴーギャンは、「浅瀬(逃走)」という作品がよかった。浅瀬を、馬にのって逃走していく2人の人物の絵。あの色の使い方、あたたかく、密度の濃い色。彼の組み合わせは、私には考え付かないもので、新鮮に感じる。以前私は、ゴーギャンの良さはあまりわかっていなかったが、N.Y.のMOMAで初めて、タヒチの女の小さな絵を見て、肌のオレンジ色があまりに美しく輝き、生き生きしていて驚いたものだ。私の中ではゴーギャンは、実際本物を見ないと良さがわからない画家、となっている。【印象派の作品群】ルノワールは、今回数種あるポスターの一枚にもなっている、「黒い服の娘たち」より「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」のほうが私はいいなあ、と思った。「黒い服・・」は線で描こうとした作品らしく、でもかえってそれにより、中央の娘の目がかわいくない!横にいるぼやけて色で描かれている娘のほうが魅力的に見える。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で」のほうは、線はあいまいではっきりしないが、緑の中に集う人々の雰囲気が出ている。光を感じさせる。奥の小さな木立の抜け道の出口が明るい黄緑になっていて、そこが消失点なのか、そこを頂点とする安定した三角形の構図に見える。その三角形により、人々が顔を寄せ合っているのが強調され、親密感をかもし出している。あたたかな温度を感じさせる。一転して、ドガの「写真スタジオでポーズする踊り子」は、のびやかな感じはしない。ひんやりした室内と、かたいポアントの緊張を感じる。一種不健康な青白い室内。しかしそんな室内は私には親しみ深く、共感を覚える。窓ガラスの外に向かいの建物が立ち並んでいるのが見えるが、外界からは隔てられた踊り子の世界が存在している。スタジオ内にかかっている青いカーテンの発色の美しいこと!モネの「白い睡蓮」。新鮮な野菜のように、しゃきっとして目においしい作品。蓮の池にかかっている太鼓橋の絵だが、緑と白が清冽な感じ。ちらしにも取り上げられているが、印刷ではまったくその感じは伝わらない。モネの作品は、とろとろとけてアイスクリームのようだと評されたことがあるらしいけれど、確かに、こんなにしゃきっとした印象の作品は、珍しいかもしれない。私もこれまで見たことない。ずっと見ていても、新鮮な感覚がわきつづける作品だ。セザンヌは、20世紀美術の祖?なのか、すごいらしいが、いつまでたっても私にはその良さはわからない。いろんな画家の、いろんな作品は、それぞれ見たり知ったりしていくうちにその良さ、面白さ、すごさなどが少しずつわかったり好きになったりしていくのに、セザンヌは何度見ても、いまいち興味がわかない。いつかその良さがわかるときがくるのだろうか?【フランス近代版画】今回は、これまであまり見たことのない、フランス近代版画も多数出品されていた。19世紀終わり~20世紀初頭の版画といえば、ゴッホのジャポニスム的な作品や、ロートレックの強烈な風俗版画、ミュシャのアールヌーボー作品などしか思いつかない。ルノワールやゴーギャンの版画なんて、初めて知った。やはり油彩画とはずいぶん違う。ルノワールもゴーギャンも色や面での表現が素晴らしいので・・ゴーギャンなどは、よりプリミティブな雰囲気が濃厚になり、黒と、オレンジに近い朱赤の2色で、独特な土俗的な世界を見せてくれる。モーリス・ドニ「エマオの晩餐」が美しく目をひく。昔ながらのキリスト教の場面を描きながらも、抑えた色調で、現代的にも感じられる品のいい作品。ヴュイヤールやボナールなども、都会的なセンスのいい版画をつくっていて、空間や空白、微妙な色のずれなど生かしたセンスある、これら一連の版画は収穫だった。【フォーヴィスム】マティスの「金魚」は、今回の最大の目玉だったにも関わらず、正直なところ、あまり感じられなかった。見る目ないのかなあ・・?彼の切り絵作品や、力強い単純なラインだけの作品のほうが好みだなあ。フォーヴィスムの画家の作品では、マルケの「オンフルール港」がかわいくてよかった。海と、舟と、港を彩る各国の旗。ぺたっとした感触の絵だが、不思議な心地よさが感じられる。レオン・レーマンという画家の「山脈」は、フォーヴィスムの作品郡の中にあって、ちょっと抽象的で趣が異なっている。暗い蒼い空と、キュビスムまで行かないけど面で構築された青灰色の山肌。フォーヴィスム運動から抜け、故郷にこもって独自の世界を追求したという。その作品は「フォーヴの画家であったとは思われないくらいである」とキャプションにある。フォーヴといえば、強烈な原色と、それら色の対比の猛々しいものの印象が強いが、彼のように青とグレーのバリエーションだけで描かれた暗い画面をもはやフォーヴとはみなせないのだろう。空のあまりの重苦しさ、雲の流れもどんよりと重い。しかし、私にはじゅうぶん青が猛々しく感じられる。その方向へ彼の獣性が突き進んだように思え、やはり私にはフォーヴに見える。20分入館待ちだったせいか、終了の案内はあったけれど、閉館時間過ぎても15分くらいは追い出されなかった。だから最後の30分はやっと思う存分、がらんとした館内で絵と向き合うことができて、よかった。上野へは、今度北斎展を見に来る予定だが、ものすごく混んでるらしくてちょっとうんざり・・せっかくだから、すいてるときにじっくり見たいなあ。北斎展のために、会社休みをとろうかと思案中♪
2005.11.19
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100km大会後、初めてのジャズとバレエのレッスン。ジャズはまだこの先生の振りに慣れてないのもあり、振り自体は難しくないのに、速さについていけない。でもやっぱりジャズは楽しい。ひさびさにジャズの懐かしい楽しさを味わっている。バレエは、100kmでの左足の腫れがまだ残っており、ピケやジャンプはできないかもしれないなあ、事前に先生にそう伝えようと思ってたら、今日は先生は休みで、代行の先生だった。いつもより細かくきっちりした説明とアドバイスがあり、ストレッチやバーレッスンが、体にしみるようによかった。その分、フロアでの踊りは少なかったが、久しぶりに基礎をしっかりやれた気がする。4年前まで通っていたバレエスタジオのK先生のもとでは、細かいところまで、実際かなり体を触って指導してくださった。それまで何人かの先生のところに通ったけれどバレエの体の使い方は、K先生によって一番わかり、のびたと実感している。小さな街での発表会ではあるけれど、バレエの舞台に立たせていただいたのも大きいことだった。自分がバレエの舞台に立つなんて、後にも先にもあの数年の間だけだろう。事情があり私は引っ越してしまったので、K先生には教われなくなってしまった。ジムのレッスンに通うようになってからは、気楽だけどバレエスタジオのようには、細かく教われないのが物足りなかった。立ち方ひとつ取っても、足の筋が浮き立つかどうか指摘され、必ず体のラインの出る格好で鏡に向かい、美しく体のひきしまった仲間の方たちに囲まれ、とても前向きにバレエに取り組んでいた日々。でも今日の代行の先生には、数年前の緊張感を思い出させてもらった。最近の課題でもある、苦手なシャンジュマン(ジャンプの一種)も、左足の痛みが気にはなったが、体全体と足の裏を気をつけつつ、無心でやってみたら、ほんの少しだけうまくいった。感覚がつかめた気がする。足が治ったら、もっとこの感覚を試してみよう。100km大会後休んでいた、マシンでの筋力トレーニングも再開した。こつこつやったことが、今年の100km大会を支えてくれた。自分が自分を支えた。それが大きな喜びとなって、またこれからもがんばろうと思った。
2005.11.18
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レオナルド・ダ・ヴィンチ展~直筆ノート「レスター手稿」日本初公開六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリー何回も見に行く予定を立て、そのたびにぽしゃっていたダ・ヴィンチ展。さすがに終了も近いので最後のチャンス!と思い、定時で上がらせてもらってダッシュで六本木へ向かう。ヒルズワーカーのコヨーテさんと待ち合わせしてたけど本日またもや急な残業でダ・ヴィンチ展は見れないと言う。え~~~っ、残念(T_T)でもわざわざ仕事を抜け出してお出迎えしてくれ、美術展の入り口まで案内してくれた。そして閉館が8時だからと私は焦り気味だったけど、コヨーテさんが、夜10時まで延長になったと教えてくれた。知らなかった・・・でも展示品はボリューム少ないそうだし(by一村雨さん)絵画の展示ならともかく、設計図とか読めない文字とからしいからさらっと見るだけかな、1時間でも十分かも、と思ってた。ところがところが。かなり混んでいたというのもあるけど、全部をページ順に丹念に見て回って、頭がぼーっとするくらい展示室にいた。照明は暗くて決して見やすい環境ではないし、1枚1枚の紙葉はよく近づいて見ないと見えないので目も姿勢も、人との距離も、疲れるような鑑賞の仕方になるし、一般の美術展より気楽なのかお客さんがべちゃくちゃ周りでしゃべってるしそれだけでいやになってしまう人もいるだろう。でも一生懸命見るに値すると感じた。というのも私の、レオナルド・ダ・ヴィンチへの見方(偏見?)を見事、打ち砕いてくれたからだ。パリのルーブルで彼の絵を見て、正直、思ったほど感動できなかった。天才で卓越しすぎて、少し冷徹で、尊大なところもある人ではないかと思ってしまっていたというのもある。軍事面で能力を発揮できると、自分を売り込んだという逸話もあるし。絵はなかなか完成させないし。(いろんな不幸な事情もあるにしろ)しかしそれは大きな間違いだった。さまざまな考察を図を添えながら手書きで書き連ねた、500年前の黄ばんだノートの1枚1枚を見ていくと、まず、彼は天才だけど、一個の人間だということを実感した。希望が持てる。一個の人間にあんなすごいことができるということに。圧倒はされるけれど、人間の持つ可能性に、叡智に、心打たれる。自然を観察しぬいて、それにとどまらず実験を行い、新しく創造していく。しかも人の生活に役立つもの、自然災害から守るもの、効率よく仕事を行えるもの、自然の力を増幅させてエネルギーを得るもの、そうしたものを数多く発想していった。特に水に関しての研究は多岐にわたり、水の観察や実験の絵が多く描き込まれていた。どうやったら川を堰き止めたり、流れを変えたりできるか、障害物に対する流れの変化のしかた、階段状の堰、橋の設計図、水圧、深さ、濁り具合、水泡のできかた、同心円に広がる波、水滴の落ち方、水蒸気の威力、水の混じり方、etc.彼の水のとらえ方ひとつ触れただけでも、こんな豊かで広く、有機的な心の広がりが、あれらの絵の背後にあるのかと思うと、また彼の描いた絵も、まったく違って感じられる。モナリザの背景も、左側はうねり曲がる大河、右側は階段状の湖や川だったと思い出し、どんな思いをこめてそれらの風景を描いたのだろう、とむしょうにモナリザの絵を見たくなった。どんなにか自然のひとつひとつに関心を寄せ、その声を聞き、その大きさ、不思議さに畏敬しつつも、真正面から取り組んだことだろう。そんな自然に抱かれている人間存在の豊かさ、貴重な生命の美しさを内側から描きたかったことだろう。そんな思いがどっと流れこんできて息苦しいほどだった。「何物も自力で、自分自身の創造の源となることはありえない。また何物も、自力で永遠の存在となることはありえない」「大気の色は、大気に溶け込んでいる水による。反対側から当たる太陽の光を受けて、大気を明るく見せているのだ。大気が青く見えるのは、背後に隠されている闇による」これらは自然を観察して、自然現象についての言及だが、(メモしたわけではないので、ちょっと言葉が違っているだろうけど)何と含蓄のある深い言葉だろう!暗い展示室で、しばし想像の世界に引き込まれた。月が自力ではなく、太陽の光をあびて光っていることや、大気の水分に太陽の光が当たって明るいこと、宇宙の闇がその向こうにあることなど現代では当たり前といえば当たり前だが、その時代にそのような科学的分析を行っていたことも驚きだし、なおかつ、それが哲学的にも、詩的にも、何か他のことを象徴しているようにも読み取れることもすばらしかった。青空の美しさを感じるとき、その向こうの闇のことなど考えたことはなかった。闇と光と、太陽と水の重なり、そしてそれを見ている私という存在が青空の美しさを生み出している。そのすべてのつながりを感じ取りながら、明日あらためて空の美しさを眺めることができるというのは、なんという輝かしい悦びだろう!文字については、最初は細かく小さく揃っていて、しょうしょうとしている。10紙葉目くらいになると驚くほど、きめが揃っており、刺繍か編み物の目のようだ。17紙葉目くらいになると少しダイナミックになり、特に大文字が幾何学的に描かれていたり、大きくデフォルメされ、絵のようだ。全体的にも踊るようなラインが見られ、生き生きして美しい。線の太さも均一ではなく、力の強弱が見られる。17~20紙葉目くらいが一番、文字は見ていて楽しい。その後はまたしょうしょうとした文字に戻っていく。30紙葉台になると、こまねずみの教科書みたいに小さい小さい文字。太さも均一で神経質な感じだ。このころは疲れて、だんだん頭がくらくらしてくる。潮の満ち干きに関して、ノートの半ばでは太陽か、月か、地球自身によるものか考えあぐねているが、後半になると、はっきりと月と地球の関係によるものとして図解している。ノートを書きながら考察が進んでいる証拠だ。びっしりページの下まで書き込まれているのを見ると、紙が貴重だということもあるだろうけど、考えていることを書き切ってしまいたい、という強い衝動を感じる。私もいつもノートに日記というか思うことを書いていて欄外にもつい思いつきや詩やイラストを書いてしまったりするので、少しその気持ちがわかるような気がして嬉しかった。彼はどちらかと言えば描くことよりも、考えることのほうに、さらに言えば、見ている対象物そのもののみに興味があり、絵として完成させたり人に見せたりすることは二の次だったのかと思っていた。絵を描くより、事物を知ることが大事でそう考えると、天才ではあっても、絵はすばらしくても、本質的に画家ではないような気さえしていた。(それが決して悪いのではなく、ただ性質として)しかし彼は、知りたい、解きたい、だけではなかった。「画家は科学者であり哲学者でなければならない」という言葉も印象深い。まさにそれを体現したのが彼だろう。科学的考察も哲学的思考も、彼の絵画空間にそれこそ大気に溶け込んでいる水のように、溶け込んでいるのだろう。職業画家ではなく、もっと高みへ行くために、それを認めてもらうためにずいぶん当時の社会とも闘ったのではないだろうか。彼は川の表面を見て、深さや水底の様子などわかるという。物事を観察し、中身を見、表面から中身を推察する術も身につけたことと思う。また、ものの力、動き、リアクション、その流れを注意深く追い、論理立て、その動きや力を合理的に、変えたり利用したりする術を教えてくれる。それも人の生活に役立つようにと。やはり「創造」することが、彼の人生の悦び、使命であると感じていたのだろうと思う。彼は、地球を人間の体になぞらえて、大地は肉、河川は血脈、などと表現したという。地球には水がまるで血脈のように張り巡らされている、そして海洋は心臓だと。まさに海のような人だ、ダ・ヴィンチは。豊かに風に波打っている。太陽に照らされ光っている。生物を育み、深く広く、常に変化し、しかし恒常的である。尽きることがない。大きな力を持ち、しかし地球の一部である。まるでそんな大きな森羅万象の中に溶け込んでいる、彼というゆりかごにゆられて大勢の人がこの展覧会をさまよっているように感じられた。みな何を求めてきたのだろう。みなどこへ向かっているのだろう。みなまるで地上の迷子のようにも見える。しかし彼の大きな見えない手に、一緒くたに包まれて安心してさまよっているのかもしれない。資料コーナーをざっと見、生涯の年表をじっくり読み、最後に大きなプロジェクターで、主な絵画作品が紹介される映像に浸る。預言者聖ヨハネの謎めいた微笑とまなざし、そしてあの象徴的な天を指差す指先、今まで魅力的だけど不思議な絵だなあと思っていたが「高みを目指し、飛翔せん───」そうまなざしが語りかけ、いざなっていると突然実感した。心があたたかく凍った。戦慄的な感動。彼という奇跡を初めて実感できた貴重な時間だった。
2005.11.11
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以前書いた知り合いの小さな出版社のお仕事、ただいま朝に夜中に急な依頼の分をやっつけております・・久々にIllustrator&Photoshop使ったぞ~。でもなんだか昔使ってたバージョンに比べてPhotoshopってフォントがきれいに出なくなってる~!便利になった部分もあるけど、フォントの表示きたないなあ!ボタンやバナーの作成に困ったよ。とりあえずさっき一応終わってホッ。ね、ねむい・・もうお風呂はいって寝なきゃ。明日も普通に会社あるし・・夜はおでかけするし。明日、やっとぎりぎりでダ・ヴィンチ展見に行くのだ~。もう終了まぎわだから混むだろうなあ。あっ、さっきとっても嬉しいことがあったよ♪以前ギュスターブ・モロー展を渋谷BUNKAMURAに見に行ったときアンケートに答えて次回展覧会のチケットプレゼントに応募してたの。それが当選してました!!やったーーー!!「スコットランド国立美術展」のチケットがペアで当たりました★このアンケート&チケットプレゼントは2回目の応募だけど2回目で当たればラッキーなほうじゃない?100組200名さまに当選するんだけど、みんなあんまり応募しないのかなあ?今年はがんばってたくさん美術展見に行ったから、アートの神さまか、それともミューズがにっこりほほえんでごほうびをくださったのかしら~(*^-^*)うーれしーなっ!それとも100km歩いたごほうび??100kmのレポートは日々思い出しながらノートに書き付けております。会社の昼休みとか、帰りの電車の中とか・・ほんと、近いうちにレポートアップしますので、ぜひ読みにお立ち寄りくださいね。あ~、もっともっと時間が欲しいなあ。とりあえず今日はもうお風呂入ってねまーす。おやすみなさい★いい夢を見てくださいね~。
2005.11.10
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ただいまで~~~~~す!10月29・30日に愛知県で開催された100km大会後、初ブログですね★その間、心配して訪問してくださった方、ありがとうございます。ご挨拶&報告が遅くなり、すみませんでした。昨年の大会では、夜の雨風の中、ひとりでただただつらさに泣きながら歩き、制限時間を大幅に超えて50kmでリタイヤ・・忘れたくても忘れられないような挫折の光景をくっきり脳裏に焼き付けてしまったので恐怖もあったけど、その50kmの突破と、そして100km完歩しないとその恐怖や挫折を乗り越えられないと感じてました。今年再チャレンジし、そして完歩しました!おかげさまでリベンジを果たせました!うれし~~っ!土曜朝7時にスタートし、途中休みながらも夜中も歩き続け日曜朝10:50に念願のゴール!ゴールで泣くかと思ったけど、晴れ晴れとして笑ってました。むしろ、サポートでいろいろお世話し応援してくださった方のほうが「よくがんばった、一番がんばってた」と泣いてしまってその姿も感動的でした。歩いているとき、そして終わってからもいろいろ感じること、学んだこと、気づいたことなどいっぱいあります!とてもいい体験になりました。そうしたこといっぱい書きたいけど、まだまとめるのに時間がかかりそうです。とりあえず、翌日は筋肉熱っていうのか、微熱を出して一日寝込んでました。寝返り打てないほど脚ははれ上がって痛いし。翌々日からは仕事に行ったけど、普通には歩けてなかったな・・でも昨年に比べると回復は早いです。何より、気持ちがすごく元気!!そして穏やかでゆったりしてます。楽しいなあ。これから何しよう。とってもとっても気持ちが穏やかで活力にみちてます。まずはほんとに脚の痛みや体のだるさがなくなるまでは少しおとなしめにしてます。いつも読んでくださって、そして見守ってくださってありがとうございます!いろんな人に感謝でいっぱい。
2005.11.03
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【 100km完歩 その後 】ゴールしたあと、泣くかと思ったけど、泣かなかった。晴れ晴れと笑っていた。土曜朝7時にスタートし、日曜朝10時48分ゴール、約28時間歩いた。つらさは吹き飛んで、楽しかったこと、嬉しいことばかりわいてくる。むしろサポートのK子さんのほうが泣いていた。「サポートのほうが泣けるんだよ」とOさんが教えてくれた。そうなのかあ・・私も来年は、念願のサポートだ。その日が待ち遠しい。翌日は、寝返りが打てないほど脚がはれていた。全身の筋肉が熱をもっているのか、風邪でもないのに、微熱を出して寝ていた。仕事には翌々日から出た。通勤のとき、大会ではほとんど使わなかった杖が役に立った。杖をついて、痛みのある脚でゆっくり駅の乗り換えをした。みな一秒を争い、我先にと歩き、走っている。みな私を追い越していく。私の周りだけ、別な空間がある。何とせわしなく闘争的なのだろう。私もいつもはあの流れの中にいて、殺人的にせっぱつまった通勤時間を過ごしていた。けれどその日の朝は違った。杖をついてゆったり歩いた。呼吸は楽だった。やわらかい光を感じていた。これからはゆったり行こう、と思った。しばらくは、普段歩くときも"さんげさんげ"のリズムが流れていた。楽に呼吸しながら、腕の力を抜いて振る。電話や普段話すときもゆったり話すようにしている、そして丁寧に。田舎の母に、100km完歩の報告と、母の好きな豊橋のちくわをおみやげに送った。今年は腰のことも多少無理するかもしれない、と覚悟し、腰痛のことで心配かけるといけないので、100km参加のことは内緒にしていたのだ。すると、いつもは荷物が届くとすぐ電話してくるのに、なかなか電話はなかった。数日後、はがきが届いた。「百キロ完歩おめでとう。 目標を達成するのはすばらしい。 いつか富士山に登ろう。」そんな簡潔な言葉が書かれていた。昔から厳しく、できて当たり前、という感じであまりほめられることはなかった。そんな母に反発していた時期も長かった。でもそのはがきを読んだとき、母の喜んでいる気持ちが伝わってきた。そして、70歳近くなってもなお、富士山に登ろう、と言ってくる気概に、逆に感動させられ、泣けてきた。母にとっても道はまだまだ続き、私にとってもまだまだ道は続いている。勉強会の日を含め、たった3日の間に、果てしなく長い旅をしたような気がしている。多くのことを学ばせていただいた。たくさんの人の深い思い、あたたかい思いを感じた。リベンジできて本当に嬉しかった。来年は、サポートで、少しでも多くの方に何かを感じ取っていただくためのお手伝いをし、自分もまたサポートする中から、たくさんのことを得たいと思っている。関係者のみなさま、本当にありがとうございました。<改めて・・・100kmを歩いて学んだこと>・素直になること、オープンでいること・準備をすること、でも不安ばかりにならずに「そのときはそのとき!」と開き直ること・プラス思考を持つこと・自然を味方につけること、自然のリズムに耳を傾けること・力を抜いて楽に動くこと、ゆったりすること・体があたたまるまではむやみに焦らないこと・自分が輝くとまわりもすべて輝いて見えるということ(主催会社社長のお話より)・想魂練磨(I川先生のお話より)・ゆったりした呼吸は脳を安らかにし、瞑想にいいということ・無心に打ち込むこと、”静の無心状態””動の無心状態” ・余裕を持つと、楽にものごとを成せるということ・感謝を形にあらわすということ<おわり>
2005.11.01
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