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【123】 或
問
ふ、 地獄
極楽
と 云
ふ 物
実
にありや、 翁
曰
く、 仏者
はありといへども、 取
り 出
して 人
に 示
す 事
は 出来
ず、 儒者
はなしといへども、 又
往
きて 見
きはめたるにはあらず、ありと 云
ふもなしと 云
ふも、 共
に 空論
のみ、 然
りといへども、 人
の 死後
に 生前
の 果報
はなくて、 叶
はざる 道理
也、 儒者
のなしと 云
ふは、三 世
を 説
かざるに 依
る、 仏
は三 世
を 説
く 也
、一つは 説
かず一は 説
くも、三 世
は 必
ずあり、されば 地獄
極楽
なしと 云
ふべからず、 見
る 事
ならざればとて、なしと 極
むべからず、 扨
て 地獄
極楽
はありといへども、 念仏宗
にては、 念仏
を 唱
ふる 者
は 極楽
へゆき、 唱
へざる 者
は 地獄
へおつと、 法華宗
にては、 妙法
を 唱
ふる 者
は 浮
み、 唱
へざる 者
は 沈
むと、 又
甚
しきは 寺
へ 金穀
を 納
むる 者
は 極楽
へゆき、 納
めざる 者
は 地獄
におつと、 斯
の 如
き 道理
は 決
してあるべからず、 夫
れ 元
地獄
は 悪事
をなしたる 者
の、 死
してやらるゝ 処
、 極楽
は 善事
をなしたる 者
の、 死
してゆく 処
なる 事
疑
ひなし、 夫
れ 地獄
極楽
は 勧善懲悪
の 為
にある 物
にして、 宗旨
の 信
不信
の 為
にある 物
にあらざる 事
明
らか 也
、 迷
ふべからず 疑
ふべからず。
【123】ある人が問うた。「地獄・極楽というものは実際にありましょうか」尊徳先生はおっしゃった。
「仏者はあるというが、取り出して人に示す事はできない。儒者はないというが、また往って見きわめたのではない。あるというのも、ないというのも、ともに空論に過ぎない。しかしながら、人の死後に生前の果報はなくてなならぬ道理である。儒者がないというのは三世を説かないからである。仏は三世を説く。一つは説かず、一つは説くが、三世は必ずある。だから地獄・極楽がないとはいえない。見る事ができないからといって、ないとはきめられない。さて地獄・極楽はあるといっても、念仏宗では、念仏を唱える者は極楽に行き、唱えない者は地獄へ落ちるという。法華宗では、妙法を唱える者は浮かび、唱えない者は沈むという。また甚しいのは、寺へ金や穀物を納める者は極楽へ行き、納めない者は地獄に落ちるという。このような道理が決してあるわけはない。本来、地獄は悪事を行った者が死んでやられる所、極楽は善事を行った者が死んでいく所である事は疑いない。いったい地獄・極楽は勧善懲悪のためにあるもので、宗旨の信・不信のためにあるものではない事は明らかである。迷ってはならない。疑ってはならない。」
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