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2024.03.31
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カテゴリ: イマジン
「大法輪まんだら:創刊60周年秀作選」

大石順教尼
大石 順教|ARTIST・ギャラリー|口と足で描く芸術家出版
順教尼は本名大石米子という。
4つで踊りを習い、12歳のとき名取の舞の師匠となるほどの才能を示した。
14歳のとき、その舞振りを認められて大阪堀江の青楼山梅楼に貰われた。
半玉として妻吉の生活が数年続いた。
明治38年6月20日、妻吉18歳のとき、「堀江の6人斬事件」が起こった。
これは山梅楼の主人中川萬次郎が二度目の妻のお愛と萬次郎の甥の明次郎が一緒に家出をしたのを怒って逆上して一家皆殺しをはかった事件だという。
妻吉は両手を切られ、高安病院で治療を受け、命はとりとめた。


「今私がここに申し上げたいのは、人を恨むとか憎むとかいうことをすべきではない、それはその人自身を苦しめるものだということです。」

萬次郎は、6人を斬ると、すぐ自首した。
妻吉は高安病院へかつぎこまれ、わずかにつながっていた右手を切り離された。左手は萬次郎が一刀のもとに切り離していた。
警察からの取調べの最後に「お前は萬次郎を憎んでいるか」
妻吉は、萬次郎が自分を憎んで行ったことではないと知り、萬次郎が死刑になる身であること、これは自分の因縁があったと考えて、
「私は恨んでいない、萬次郎の骨を拾い法事もする」と申し出た。両親は気でもちがったのではないか、相手を切り刻んでもあきたりないのにと驚いたという。
そしてその後の人生を振り返ると、もしあの時、萬次郎を憎み、お愛を憎んでいたらこうした安らかな生活は開かれていなかっただろうと語る。

萬次郎から「最後の願いだ、会ってくれ」という手紙が来て、旅芸人をしていた妻吉は堀川の監獄へ面会に行った。
萬次郎は暫く沈黙していたが、「立派な舞踏の師匠にしたいと思っていたのに、両方の手を切り落としてしまい、すまないというだけでは死んでも死ねぬ。死後はあんたの霊となって守り、決して不自由させぬ」と言った。
「お父さんが護ってくださるなら、立派な人になりましょう。」といって別れたという。
その後いろんな艱難辛苦のたびに萬次郎の戒名をよみ、南無阿弥陀仏を唱えると「人に見えない大きな幸せが待っている、決して不幸せにならない」という信念が生まれたという。
 妻吉は後に高野山に登り、尼となった。真言宗の藤村僧正のもとで国文学や歌を習っていたが、その師匠がなくなって17回忌に得度した。


「身障者であることを悲しまずに、感謝するような心持にさすことが、私の一番しなければならない肝心な仕事です。」

仏様は平等に慈悲のみ手を垂れてくださる。
 人を呪わず、憎まず、人を愛し己を愛し、すべてを感謝して行えば、必ず仏様の力によって精神的に救われ、心が安らかになり、物質は必ずそれに伴ってくるものです。



「悲しいことがあったら、笑いなさい。つらいことがあったら、笑顔を人に差し上げなさい。それによってしか、私たちの笑顔はつくれないんだ」

「しないことと、できないことは違う」

「何事も成せばなるてふ言の葉を胸にきざみて 生きて来し我れ」


( 「致知」 2008年5月号 特集・工夫用力、p56 )
南正文(みなみまさのり)さんの展覧会。 | 灰色の真珠 ...
  日本画家・南正文さんは小学3年生の時に事故で両腕を失った。
  悶々とした毎日を過ごしていた中学生の頃、
  人生の師となる大石順教尼に弟子入り。
  この尼僧もまた少女時代にある事件に巻き込まれて両腕を失った人物だった。
  南さんは順教尼の生き方に接して人生に開眼、後ろ向きだった心が大きく転換していく。
  「禍福一如」の師の教えを心に刻み、口で筆を操る口筆画の世界に生きる南さんの工夫用力の人生
  について伺う。

私が初めてお会いしたのは亡くなる2年前、先生78歳の時でした。小柄で、笑顔の美しさが大変印象的でした。ハンディを微塵(みじん)も感じさせず、どのような辛(つら)い出来事もカラカラッと笑い飛ばしてしまう明るさと強さを感じさせる、いかにも明治女らしい方でした。

先生は笑顔で私たちの話にじっと耳を傾けられた後、「あんたは絵を描きなさい。よかったら私の弟子になるか」と誘ってくださいました。ただし、それには条件がありました。堺から京都まで一人で来ること、絵を描くこと、それも足ではなく口で描くこと。この三つが守れなくては弟子にはできないとおっしゃるのです。

少年時代の私は絵が大の苦手でしたが、このままでは自分が駄目になってしまう気がして、その場で弟子にしていただきました。

初めて一人で先生をお訪ねする前の晩、私はまんじりともせずに夜を明かしました。堺から京都まで5回乗り換え、片道3時間の道程を本当に一人で行けるのか、肩にかけた鞄(かばん)を途中で落とすことはないだろうか。あれこれ考えていると不安で仕方なかったのです。

トイレのことは前日から飲食を控えれば解決できると考えました。問題は切符です。靴にお金を入れ、切符売り場の駅員さんに足で差し出す方法も考えましたが、物理的に難しいと分かりました。残る方法は、ポケットにお金を入れ、改札口の乗客を呼び止めて切符を買っていただくことです。

事故以来、すっかり引きこもりがちになった私ですが、順教先生の顔を思い浮かべては気持ちを奮い立たせ、見ず知らずの人に声をかける決心をしました。反応は様々でした。気持ち悪いと逃げ去る人、怒り出す人、逆に親切に切符を買ってくださる人、中には行き先は反対方向なのにわざわざ次の乗り換えの駅まで付き添ってくれる人もいました。

やっとの思いで京都に着き、順教先生の顔を見るや、「あんなこともありました」「こんなこともありました」と堰(せき)を切ったように道中の出来事を話しました。先生は 「いろいろな人に出会えてよかったな」 と笑顔でおっしゃった上で次のように話を続けられたのです。

世の中に出たら、黙って手を差し伸べてくれる人ばかりではない。いろいろな人がいることを、神仏はその人を通してあんたに教えてくれているのだよ」
と。





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最終更新日  2024.03.31 20:39:03


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