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2024.11.28
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カテゴリ: 報徳記を読む
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二宮翁夜話巻の1
【11】 儒学者があって尊徳先生に言った。

「孟子はやさしいが、中庸(*)は難かしい」と。

尊徳先生はこうおっしゃった。

「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸は易しい。
なぜかといえば、孟子の時代には、道は行れず、異端の説が盛んであった。
だからその弁明をするため、道を開いたのだ。
したがって仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。

君らが学問をするの心は、仁義を行おうために学んでいるのではない、
道を実践するために修行しているのではない。
ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。

議論が達者で、人を言いまかせさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。
聖人の道というものが、どうしてそのようなものであろうか。
聖人の道は仁を勤めることにある。
五倫五常を行うにある。
どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。
人を言いまかすことをもって勤めとしようか。
孟子はすなわちこれである。
このようなことを聖人の道とする時ははなはだ難道である。
容易に実行しがたい。
だから孟子は難しいというのだ。

中庸は通常平易の道であって、
一歩より二歩、三歩と行くように、
近きより遠きに及んで、
低いとことから高いところに登り、
小より大に至る道であって、
誠に行いやすい。

たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。
愚夫愚婦にもできない事はない。

神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。
いたって行いやすい道である。
だから中庸というのだ。

私が人に教えるに、

私の道は分限を守るをもって本となし、分内を譲るをもって仁となす  と教えている。



*「中庸」は儒教において、「四書」の一つ。
『論語』のなかで、「中庸の徳たるや、それ至れるかな」と孔子に賛嘆され、儒学の伝統的な中心概念として尊重されてきた。しかし孔子は「民に少なくなって久しい」とこの「過不足なく偏りのない」徳は修得者が少ないといった。

天命之謂性。率性之謂道。脩道之謂敎。道也者不可須臾離也。可離非道也。是故君子戒愼乎其所不睹。恐懼乎其所不聞。莫見乎隱。莫顯乎微。故君子愼其獨也。喜怒哀樂之未發謂之中。發而皆中節謂之和。中也者天下之大本也。和也者天下之達道也。致中和天地位焉萬物育焉。

天命これを性と謂ひ、性に率(したが)ふこれを道と謂ひ、道を修むるをこれを教と謂ふ。
道なるものは須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道にあらざるなり。
是の故に君子は其の睹(み)えざる所に戒慎し、其の聞こえざる所に恐懼す。

仲尼曰。君子中庸。小人反中庸。君子之中庸也。君子而時中。小人之反中庸也。小人而無忌憚也。

仲尼(ちゅうじ:孔子)曰く、君子は中庸す。小人は中庸に反す。
君子の中庸は、君子にして時に中す。
小人の中庸は、小人にして忌憚(きたん)無きなり。

子曰。中庸其至矣乎。民鮮能久矣。

子曰く、中庸は其れ至れるかな。民能(よ)くする鮮(すくな)きこと久し。





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最終更新日  2024.11.28 12:00:14


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