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中(12月30日まで)
うつ心あればうたるる世の中よ
うたぬ心のうたるるはなし
「二宮尊徳全集」
成田山の不動尊に参籠(おこもり)した時に開けた、やわらかな大きな心である。自分もひとも一つになって生かしあう心で「一円仁」の心ともいう。
分度・推譲は人間が至誠の心を以て
勤労する実生活の原則である
大江清一
【古いノートより】
書経 堯典 第一節堯
曰若稽古帝堯曰放勳欽明文思安安允恭克讓光被四表格於上下克明俊徳以親九族九族既睦平章百姓百姓昭明協和萬邦黎民於變時雍
曰古古を稽うるに帝堯曰く、放勳欽明、文思安安、允(まこと)に恭しく克く讓る。四表に光被し、上下に格れり。克く俊徳を明らかにし、以て九族を親しむ。九族既に睦まじく、百姓を平章す。百姓昭明にして万邦協和す。黎民変って、時れ雍らげり。
<二宮先生語録>
【4】草木春生じて秋実り、禽獣期年に一産す。これ気運の常道なり。しかしてその生活をなすや、ただ食を奪うのみ。大木横に枝葉を長じ、小木の長ずるあたわざるに管せず。小木、大木の枯槁(ココウ:草木がしぼみ枯れること)をまってもって長ず。禽獣のあい食む。強、弱を食み、大、小を食む。草木禽獣あい奪って譲るなし。それあい奪って譲るなし。ゆえにただ一幹一身を養うのみ。人もまた奪って譲らざれば、すなわち草木禽獣と異なるなし。天祖これを哀れみ、推譲の道を立つ。すなわち一粒粟を推しもってこれを播けば、すなわち百倍の利を生じ、一人耕せば、すなわち数口を養う。これにおいてか人道もって立ち、国家もって安し。
ああ、大なるかな、推譲の道たるや、書(経)にいわく、<まことに恭しく克(よ)く譲る>と。これ堯徳を賛するの語なり。その全章字眼、一譲字に在り。もし奪字をもってこれに易(か)えば、すなわち何の聖徳かこれ有らん。しからばすなわち人の道たる。あに推譲に過ぐる者有らんや。
【4】草木は春生じて秋実り、鳥獣は1年に1度繁殖する。これは気候のめぐり合せで、自然の道である。そしてそれらの生活するありさまを見るとただ食物を奪い合うだけだ。大木は思う存分枝葉をひろげて、小さい木が伸びられなくても頓着しないし、小さい木は大きい木が枯れ朽ちるのを待って伸びようとする鳥獣の食い合いも、強いものは弱いものを食い、大きいものは小さいものを食うというありさまだ。
草木も鳥獣も、こうして奪い合うばかりで譲るということがない。奪い合うばかりで譲ることがないから、ただ一幹一身を養うだけで終ってしまう、人もまた、奪って譲らなければ草木や鳥獣と異なるところがない。天照大神はこれを哀れんで、推譲の道を立てられた。すなわち一粒の米を推し譲ってそれをまけば百倍の利益を生ずるし、一人が力を譲って耕せば数人の口を養うことができる。この推譲ということによって、始めて人道が立ち国家が安らかになった。推譲の道というのはなんと偉大なものだろう。
書経に「允(まこと)に恭しく克く讓る」とあって、これは堯の徳をほめた言葉であるが、その章の全体の眼目は「譲」の一字にある。もしこれを「奪」の字と入れ替えたならば何の聖徳もありはしない。そうであれば人の道として推譲にまさるものはありえないのである。
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