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2025.11.16
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その5

 永嘉大師の『証道歌』の中に「一超直入如来地」という言葉がある。一足飛びに仏様になることができるということである。いわゆるわたしどもの身心の向けようひとつで「一超直入如来地」になるのだ。この身このままの向け方ひとつでほかに何にも助けがいらぬということになると、どえらいもののよであるが、これがあたりまえである。
 ちょっと人の物を盗めば「一超直入五右衛門地」である。げんこつふりあげて喧嘩でもすれば 「一超直入修羅道地」である。ウンと坐れば「一超直入坐禅地」ちょっとつまみ食いをすれば「一超直入餓鬼道地」だ。
 この坐禅はだれが坐っても坐禅である。だれが坐っても仏である。そういうことを『正法眼蔵』三昧王三昧の巻に、道元禅師が
「驀然(まくねん)として尽界を超越して仏祖の屋裏に大尊貴生なるに結跏趺坐なり」
 とお示しになっておる。また
「結跏趺坐は、直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり、直頂[寧+頁]なり、直命脈なり」
 ともお説きになった。

 かくのごとくなったいま、仏になる法があると同時にわれわれの生活態度、形によってたったいま盗人になる法もある。昼のうちによく邸宅をうかがっておいて、夜になってから顔にべったり墨をぬり、玩具のピストルを持って忍びいる。そうすると「一超直入ギャング地」である。
 お釈迦様が樹の下で坐禅しておられるのを見て、通りがかった隊商の者が発心したという話がお経にあるが、いかに仏様でも、坐禅のかわりに、鼻から提灯出して、居眠りしていたのでは、ありがたくない。チャンとして坐っておられる相にこそ、みなをして発心させるものがあったのである。
 このようにわれわれには、自分で気のつかぬ人間の価値がある。
 本当に修行そのものが悟りそのものである。形そのものが精神そのものである。態度そのものが道そのものである。
自分が寝転んでおって、人だけ修行させようと思っても人は承知しない。自分が救われる時には人も救われる。そこに微妙の道理がある。(『禅談』p.233-234)





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最終更新日  2025.11.16 10:50:04
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