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Q ソンナ素人(しろうと)信者がアンナ大伝道をしたということが不思議です。
A たしかに不思議です。
第一、内村自身が不思議がっています。彼はアメリカへ留学してアマスト大学へ入学したとき、すぐにクラークを訪れましたが、そのときの印象=初対面です=を次のように太田(新渡戸)稲造(当時、ジョン・ホプキンス大あて学に留学中)あてに書き送っています。
先日、W・S・クラーク氏に会った。
彼は病気だと言っていたが、元気で、陽気だった。
いろいろ面白い話をしてくれた。
氏は宗教家というよりは、むしろ軍人だ。
握手をすませるやいなや、僕に向かって魚やその他について講義を始めた。
グラント将軍に関する思い出は話は実に興味深かった。(5-179)
これが自分にアンナ立派なキリスト経を伝えてくれた先生かと、内村が少なからず面食らった様子がよく表れています。
内村だけでありません。アメリカ人でさえ、クラークの伝道などということは、頭から信用しませんでした。
初対面後間もなく、クラークが死んだことを耳にした内村は、直ちにペンを取って、クラークの偉大さとその功績とを讃える一編の称徳分をつづって〔アウトルック〕誌へ投稿しました。
しかしその文は、アメリカ人のごうごうたる非難を浴びただけでした。
そのかげには、クラークが札幌から帰米後、海上大学なるものを計画し、その資金調達のため南米の銀鉱開発事業に手を染め、それが失敗して多数の人に迷惑をかけていたという事情もあったようですが、そもそもアメリカ人の目から見れば、クラークのような人に、しかもそんな素人に、ソンナ伝道をすることはもちろん、ソンナ立派な、偉い伝道の成果を挙げ得るなどとは、考えることもできなかったのです。
「宮部金吾」宮部金吾博士記念出版刊行会(昭和28年6月10日発行)
P40-55

3 ウィリアム・エス・クラーク
札幌農学校創立者であるドクトル・ウィリアム・エス・クラーク(William Smith Clark)の名は、北海道大学が存在する限り、また日本にキリスト教が宣伝される限り、永遠に敬慕の念をもって記憶されるであろう。クラーク先生は、1826年(文政6年)7月31日北米マサチューセッツ州アッシフィールドに生まれ、1848年(嘉永元年)22歳の時アマスト大学を卒業し、次いでドイツ・ゲンッチンゲン大学に留学、専ら鉱物学及び化学を修め、1852年(嘉永5年)26歳で哲学博士の学位を得た。帰米後、母校アマスト大学に15年間化学の教授として勤続された。その間に当時米国において最も完備した化学実験室をつくり、そのため再度ヨーロッパに渡った。1860年(万延元年)南北戦争が起ったため、志願士官として2年間、北軍の兵役に服し、抜群の武勇を現して大佐にまで昇進した。
1863年(文久3年)にモーリル法令という議案が国会を通過した。その法令により、米国各州に州立農科大学を設定することになった。マサチューセッツ州では、ボストンに建つことになったが、州立の農科の位置問題に関しては非常な競争が各地に起った。その際先生はアマストをもって最も適当なる地であることを盛んに唱道したばかりでなく、アマスト市民をして、これがために特に5万ドルの市債を起させ、遂に同地に州立農科大学を設定せしめた。これは全く先生の努力の結果である。そして1867年(慶応3年)10月2日開校の際には、先生はその学長として、創立経営の任に当たられたのである。
これより11年間、校長としてその職に尽瘁されたが、この期間内、すなわち1876年(明治9年)に日本政府の招聘に応じ、1年間の賜暇を得、在職のまま来朝し、新開の地である北海道に、本邦における最初の農学機関たる札幌農学校創設の大任を見事に果たされ、その基礎を築いたのである。札幌に滞在した期間は、わずかに8ヶ月、しかもその間に遺した所の感化、及び新設された農学校の大方針というものは、今なお先生の面影を止めている。そして先生は州立農科大学を1878年(明治11年)に辞職し、Floating College(浮遊大学、すなわち汽船内において大学の設備をなし、講座と研究をなしつつ、世界を巡洋航海し、各重要地点では上陸し、その国の風物物産を始め、動植物その他の天然資源に至るまで実地に生きた学問をなすを目的とする)を設立する事を発起したのであるが、不幸にして、資金その他の事情によって中断された。かくて1886年(明治19年)3月9日にアマストの邸宅において死去された。先生の一生を顧みるに、先生は卓越せる教育家であり、また非凡な経世家であった。そして経営の才能にとみ、その計画を実行する力量を豊富に有しておられたのである。
一 性質と人格
私は札幌農学校の第二期生として明治10年に入学したので、クラーク先生に直接師事したことはないが、多年欽慕する先生の性質、人格、その他逸事等について、あらゆる方面から収集した材料により、その人となりを考えてますます尊敬の念を深からしめたのである。先生が自ら好んで後輩学生などに語られた所によれば、少年の頃から負け嫌いで、非常に勝ち気であった。例えば競技においても必勝を期するため非常な努力と練習とを重ね、常に負けた事がない。またケンカをしても負けた事がなかったというておる。この性質が終生の行動に現われ、何事に対しても成功するまで忍耐し、これを貫き、徹底的に処理されたのである。競争場裡に勝ちを占めんとするその精神が、全生涯を通じて最も重要な部分であった。かかる性質があったために、南北戦争の際には一隊を指揮し、すべての困難に打ち勝ち、武名を高からしめ、戦功を立てたのであろう。またこの精神があったために日本政府の依頼に快く応じて、文化を離れはるばる異郷に来たって永遠朽ちざる功績を遺して行かれた訳である。かかる不撓、奮闘的精神はまたその体格にも現われ、中背でもあるけれども筋骨たくましく、一種冒すべからざる威厳があった。それと同時に親しみやすい温かみと人をひきつける魅力を備えていた故に、教育家としても、士官としても、その学生や部下に及ぼす感化は顕著なるものがあった。最もよく先生のこの性質を現わしたものは垂下せる黒く太き眉の下に輝く碧眼である。時には鋭い眼光は人を射るがごとく、また時には柔
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