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今朝子供を学校に送っていくと朝日が昇る直前で、まん丸で真っ白い大きな月が 山の少し上にあって、見事だった。澄み切った秋の夜明けに 娘と見る満月も今年が最後かとちょっと寂しい。さて、今日 日本のニュースで外国為替取引業者の破産について記事が載っていた。FXは本当に難しい。投資の中でも一番難しい方なんじゃないかなと思っていた。たったの440人の顧客から20億円を越す資金を集めていたと言う会社は、何も知らない高齢者から、詐欺のような手口で資金集めをしたのではないかと思う。酷いことをするものだ、、株もFXも他人任せは本当に恐いが、何もしなければ資金は物価上昇で減るばかりだから こういった手口に引っかかってしまうのだろう、、他人事ではないなぁ~~
2007.09.27
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昨晩リハーサルがありました。今朝は疲れて ふんにゃ~としています~夏休み前まで 週に2回、時々3回夜のリハーサルがあり娘の学校の送り迎えをして、日曜日朝は、7時半頃までに教会へ礼服で行って演奏しという生活をしていたら、燃え尽きたようです。2週間前 久しぶりに夜のリハーサルに出たら、翌日は死んでました。先週は少し体が慣れたような気がしましたが、それでも気力に欠けてました。これではいけないと、昨晩はリハーサル中も頑張ったら少しいいですが、まだ夏休み前の緊張が帰って来てません。友達は もう子供の学校送迎は終わり のんびりしていて、羨ましかったりします。でもなぁ、私それをしたらアッというまに老け込むなぁ、どうやって友達はあの若さを保っているのかしら???と思いました。
2007.09.20
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公式に我が教会と もう少し大きくて会員が若い教会の合併が 大パーティと共に先週末始まった。合併は上手く行かないと共倒れになるので、心配だったけど、教会や会社の合併を専門にしているプロが周到に用意してあり 表面上は穏やかに、しかし細部まで行き届いたプログラムで唸ってしまった。礼拝は3回、両シニア牧師がメッセージを順番にユーモアを交えて行い、バンドもお互いを尊重しつつ両方が演奏した。ピクニックは外部からの生バンドが2つ入り、一つは高校生の学校のジャズバンド、(レベル高かった!)もう一つは Touched by An Angelという人気テレビ番組だったドラマの曲を担当した、Wayne Watsonというクリスチャン シンガーだった。(代表作the Grammy-nominated Watercolor Poniesなど) ジャズバンドは教会の裏にある広い芝をひいたBBQエリアであり、ワトソンのコンサートは前庭で駐車場にステージを作り、観客は雛壇上に高くなっている芝生に腰掛けて聞けるようになっていた。ピクニックエリアには 綿飴、ポップコーン、カキ氷を作る人がいて、幼児用大型ゴム滑り台のある移動用プール、もう少し大きい子供用にも大型ジャンプ遊技場(?)が用意されてあった。コンサート中は、音楽が好きでない人のために、ホールの大スクリーンにアメフトの試合、両側の壁には、PCゲームが2台つづ、計4台用意され、中スクリーンにゲームの様子が映って、沢山の子供達がゲームをしたり見たり出来るようになっていた。ピクニックのクライマックスは コンサート終わり頃にあった、くじ引きで、賞品は来年夏の中学生、高校生用のキャンプ費用、それから、話題のアップル社i phone、 最後にウィルと言う流行っているソフト(?)だった。コンサートも素晴らしく2000人が充分楽しめ午後4時頃終わった。写真があれば 様子がよく判ったのに、私は礼拝奏楽で楽譜のない部分ソロがあった為 そちらに気を取られて、カメラを持たないで行ってしまった。残念!!
2007.09.19
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前日の訳の続きですので、まだお読みでない方はそちらから どうぞ、、、ーーーー友達は皆良くしてくれた。特にFry教授は私に何が必要なのかを判っているようで、次の土曜日に近所のMalone's Pro Collegeという音楽学校へ連れて行ってくれた。学校は静寂に包まれ、夕日がカーテン越しに差し込んでいた。ピアノの前に座り、指が鍵盤をなぞると、何かが起こった気がした。まるで、主に触れる事が出来たかのような深い慈愛と平穏に満たされた。そしてメロディーが湧き上がりあふれ出て、ピアノを奏でていた。我が尊き主よ、どうぞ私の手をとり、私を導いて下さい。私は疲れ切って、弱って、ボロボロです。どうぞ、私を嵐や真っ暗な闇から光の中へお導き下さい。私の手を取り、尊き主の御許へお導き下さいーーーーーーーーーー主は私に この歌詞とメロディーを与え 私の心を癒した。そして私は、我々が深く傷つき悲嘆にくれ、主から最も遠ざかってしまった時、主は我々の最も近くにおり、回復の手を差し伸べている事を学んだ。そして私は、主の元に返る日まで主を受け入れ、喜びと共に過ごした。注:彼はその後、千曲を越す賛美歌を作曲し、1993年 一月23日に亡くなっています。彼の代表作品は Say Amen, Someboday, Take My Hand, Peace in the Valley などがあります。また、このトミードロシーは 有名なビックバンドのトロンボーンを担当した人ではありません。☆ ☆下手な訳で、途中で嫌になりました~
2007.09.17
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有名なゴスペル、PRECIOUS LORDを知っている方も多いと思いますが、この歌の背景にはこのような出来事が あったんですねぇ~(半分だけ訳が下にあります)THE BIRTH OF THE SONG ''PRECIOUS LORD"Back in 1932, I was 32 years old and a fairly new husband. My wife,Nettie and I were living in a little apartment on Chicago'sSouthside. One hot August afternoon I had to go to St. Louis , whereI was to be the featured soloist at a large revival meeting. I didn'twant to go. Nettie was in the last month of pregnancy with our firstchild. But a lot of people were expecting me in St. Louis. I kissedNettie good-bye, clattered downstairs to our Model A and, in a freshLake Michigan breeze, chugged out of Chicago on Route 66. However,outside the city, I discovered that in my anxiety at leaving, I hadforgotten my music case. I wheeled around and headed back. I foundNettie sleeping peacefully. I hesitated by her bed; something wasstrongly telling me to stay. But eager to get on my way, and notwanting to disturb Nettie, I shrugged off the feeling and quietlyslipped out of the room with my music.The next night, in the steaming St. Louis heat, the crowd called onme to sing again and again. When I finally sat down, a messenger boyran up with a Western Union telegram. I ripped open the envelope.Pasted on the yellow sheet were the words: YOUR WIFE JUSTDIED. People were happily singing and clapping around me, but I couldhardly keep from crying out. I rushed to a phone and called home.All I could hear on the other end was "Nettie is dead. Nettie isdead."When I got back, I learned that Nettie had given birth to a boy. Iswung between grief and joy. Yet that night, the baby died. I buriedNettie and our little boy together, in the same casket. Then fellapart. For days I closeted myself. I felt that God had done me aninjustice. I didn't want to serve Him any more or write gospel songs.I just wanted to go back to that jazz world I once knew so well. Butthen, as I hunched alone in that dark apartment those first sad days,I thought back to the afternoon I went to St. Louis. Something kepttelling me to stay with Nettie. Was that something God? Oh, if I hadpaid more attention to Him that day, I would have stayed and beenwith Nettie when she died.From that moment on I vowed to listen more closely to Him. But stillI was lost in grief. Everyone was kind to me, especially a friend,Professor Fry, who seemed to know what I needed. On the followingSaturday evening he took me up to Malone's Poro College, aneighborhood music school. It was quiet; the late evening sun creptthrough the curtained windows. I sat down at the piano, and my handsbegan to browse over the keys. Something happened to me then. I feltat peace. I felt as though I could reach out and touch God. I foundmyself playing a melody, once into my head they just seemed to fallinto place:Precious Lord, take my hand, lead me on, let me stand!I am tired, I am weak, I am worn,Through the storm, through the night lead me on to the light,Take my hand, precious Lord, Lead me home.The Lord gave me these words and melody, He also healed my spirit. Ilearned that when we are in our deepest grief, when we feel farthestfrom God, this is when He is closest, and when we are most open toHis restoring power. And so I go on living for God willingly andjoyfully, until that day comes when He will take me andgently lead me home.-Tommy Dorsey超簡単に訳すと 作者がまだ結婚して間もない32歳の時、妻の二ティとシカゴの南にあるアパートに住んでいた。8月の暑い午後 彼はセントルイスの伝道集会でソロリストとして行かなくてはならなかった。彼の妻は初めての妊娠で臨月だった為 行きたくなかったが沢山の人々が彼の歌を楽しみしている事を考え家を後にした。後ろ髪を引かれる思いで、出たためか楽譜を忘れた事を、町外れで思い出した。家に再び帰ると二ティは 静かに眠っていた。眠りの邪魔をしないようベッド脇に行く事をためらったが、何故かその時強く家に留まる様に言われたような気がした。翌晩、暑さの中群集は彼にアンコールを何度も叫び、彼はそれに答えていた。やっと彼が席に戻れた時、電報が彼の手に届いた。そこには‘貴方様の奥様が たった今亡くなりました’とあった。動転しすぐに電話をかけたが 二ティが死んでしまった、と言う声を聞くばかりであった。家に着くと 二ティは男の子を誕生した事を知らされた。悲しみと喜びが渦巻く中、その子も その晩に亡くなってしまった。彼は二ティと赤ん坊を同じ棺に納め埋葬した。その後、長い間彼は心を閉ざし、主が彼に科した事を恨んだ。主に仕えることもゴスペルを作曲することもしたくなく、ただ、ただ、昔馴染んだジャズに世界に帰りたかった。しかし、ひとりぼっちでアパートの暗い部屋で セントルイスへ行った日の事を考えていた時、誰かが二ティの側に留まるように言ったようだった事を思い出した。主の御言葉だったのだろうか? あぁ、もし私が主の御言葉に耳を傾け 従っていたならば、二ティの死の床に付き添う事が出来たであろう。以来、彼は主の御言葉にもっと注意を払う事を誓ったものの、まだ深く悲嘆にくれていた。ーーーーーーー長くなってしまったので、後は御希望があれば訳します、、
2007.09.14
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