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山茶花会は十二月の八日、毎日ホールで日舞界屈指の名家が、競って舞披露しました。花柳の××さんは、鮮やかな山茶花模様の着流しで、「秋の草」を、藤間××師匠は、「保名」を、うちのお師匠さんの「藤娘」も、一つも見劣りしませんでした。舞踊界の大物といわれるお人らの中で、私ら一門の踊りが初めの方に廻されるのは、前から分かってたンですが、それでも、お師匠さんの気を察したら、気の毒で仕方ありませんでした。派が違う事や、まだ若過ぎるという事ですやろ。文句の一つも云えへんほど私らの力の弱い事がよう分かったンです。お師匠さんはそんなこと顔にも出さず、花柳さんや藤間さんとこへ挨拶しに廻らはって、楽屋に帰って来はると、後ろに草部さんの顔が見えました。さっきから名家に対するコンプレックスで一杯やったンで、ここに草部さんが一人増えたというのは、私ら弟子にとって、お金だけの形式的な後援会の人より、ずっと有り難う、頼もしう見えました。ひさ江さんを除いた私ら五人の弟子は、草部さんとそない歳も違えへんし、皆、晴れの舞台の後やというので興奮してましたンで、草部さんと冷やかし合いして、キャーキャー騒いでいました。なんだか、ひさ江さんだけはえらい皮肉めいたことばっかり言わはって、時々、座が白けるということもありましたけど、冗談で言うたバーへ行こうなンていうことが本当になって、お師匠さんと草部さん囲んでOS劇場の方まで行って、健全そうなとこ探しましたが、意見がバラバラで、お師匠さんに聞いたら、「あたしより皆の方がよう知ってるンと違うか」なンて、わざと隠さはるンです。結局、草部さんの案内しはった店に入りました。そこでは、草部さんがえらい持てはって、私ら皆、驚いてしまいました。お勘定の事で、お師匠さんと草部さんが、僕が、いえあたしがと面白い合戦をしはって、ほんなら、半分だけ出しとうくれやすという落ちになりました。なんでも、草部さんは一万円札を何枚か持ってはったて、春子ちゃんが教えてくれました。
2008.01.31
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小説「勇み足」その7南禅寺はちょうど紅葉が見頃で、思ったほど人出も多くなく好都合でした。五右衛門の山門から下界を見たら、上京、中京が手に取るように見えて、京都に住みたいなぁと思いました。それから勝持院のお住職さんから能面を見せて貰て、その前の爪先上がりの道を十分も登らんうちに、小松の多い、見晴らしの好えとこへ出ました。「平安神宮、岡崎公園、都ホテル、ちょっと靄で見にくいけど、あれが二条城です」といちいち指差して説明してくれはります。「あすこの木の多いとこは、何ですの?」「えっ?・・・・あぁ、あれは御所です」「まぁ!あれが御所?やっぱり大きいねンねぇ・・・・」私らの立ってるとこから、ずっと右の方にこんもりとした森があるンですけど、その大きさに驚いてしまいました。少し落ち着いてから、私は草部さんのこと、いろいろ尋ねてみたンです。「草部さんはどこの大学行ったはンの?」「どこて言うほどのこともありません」と逸らさはるンです。「お家は?」「高槻です」と、こんな調子で、何聞いてもはっきり答えてくれはりませんでした。山を下りたとこ、確かぁ日の出食堂という名やったと思います。そこで鉄火巻をおごって貰いました。銀閣寺は建物は良かったンですけど、来たはる人が多て、すぐ法然院まで戻ってしまいました。盛砂の上に心と彫ってあったのが、妙に頭の中にこびりついてます。大阪へ帰って来たら京都と違て、空がえらい汚れているし、自動車の排気ガスで大阪の人は皆、肺の奥まで汚れてるンやないかと思いました。私は親しい春子ちゃんにも、草部さんと会て来たと言う代わり、叔父さんとこで子供をあやして来たと言ってしもたンです。心の中には、何や二人して草部さんのことで争うのかも知れへんという予感があったのやないかと思います。
2008.01.30
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小説「勇み足」その6皆の前では、それは厳しいお師匠さんやけど、こういう時はもう、私らと同じようにしてくれはりますので涙が出るほど嬉しうなって、「どうぞお願いします」と、思わずおでこが冷たい床についてしまいました。二時過ぎまでかかりましたけど、二人とも興奮してしもうて、一緒に寝ようということになり、二階で寝る筈の春子ちゃんが私の蒲団の中に入って来はり、あとはもう言う必要もないンやけど、女同志の長話で、かれこれ四時半までしゃべってたンです。朝起きたら急に疲れが出てきて「昨日、もっと早寝たら良かったなぁ」なンて言いもってお稽古場まで行ったンやけど、お師匠さんは昨日のことなど忘れてしもたみたいな、またきつうい顔になったはるので、偉いお人やなぁと、つくづくそない思いました。 そのうち、一日お休みがでけて、私は豊中の叔父さんとこへ行こうと思て阪急に乗ったら、向うの車両の扉のとこに草部さんによう似た人がいはるので、その人ばかり見てました。草部さんは初めて来はった時から流行遅れの服ばっかし着たはるし、あの人はパリっとした背広着たはるし、別の人やろと思いましたけど、見れば見るほどよう似てはるので、ちょっと近づいて行ったンです。そしたら、その人がこっち見て、あれっというよな顔したかと思うと、やぁーと大きな声で出さはったので、座ってる人が皆、私の方を見ました。傍へ行きますと、「千鶴子さん、どこ行かはるンですか?」と聞かはります。「あら、よう名、知ったはンねンねぇ」「もう、皆知ってます。春子さんと一緒に鶴・亀踊らはるンでしょう?」「あら、誰から聞かはったン?」「先生からです。今日どこ行くの?」と聞かはるよって、「別にあてなんかありません」と答えてしまいました。なんで、親戚の家、行くと言えへんかったンか、自分でもよう解りませんのです。おそらくいつもと違って、今日はスマートな恰好したはるし、草部さんのお蔭でこの頃は前ほどきつう叱られへんようになったし、それに女ばかりの黒一点というンですか?皆より先に、こうして草部さんと話できるという優越感でもあったンでしょう。「どこ行きはるの?」と尋ねましたら、「いや、僕もあてがないンです。もし良かったら、今から一緒に京都へ出ませんか?」と顔を覗きこまはるンです。はっきり返事せえへんうちに、とうとう河原町まで出て、祇園の辺に来てしまいました。「清水へ行こうか?---いや、あすこは修学旅行生で一杯やから、そうやなぁ、南禅寺から山を登って銀閣の方へ出よう」と言わはるので、ついて行きました。
2008.01.29
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小説「勇み足」その5草部さんはいよいよ紅なって、大げさに深呼吸などして、「踊りの美しさは、静から動、動から静への動きにあります。それは兎も角、踊りの三要素には、反動、大きさ、ポーズがあって、反動というのは、ちょうど立ち幅跳びをする時、身体を一旦弓なりに反ってから、その勢いで遠くに跳ぼうとしますが、それと同じ理屈で、右から左に身体を廻すような場合、左から右へ廻すようなかげんで、右から左に廻すと、観客には廻るという動作の始点がはっきりし、また静止、或いは廻る以前のポーズとの比較が容易で、案外、印象的に見えるもんです」草部さんは自分の手を前に出す仕草を繰返しながら、「このように、実際に手を後ろに引き過ぎると、表現がオーバーになって踊りの品位を失いますから、その辺が難しいンです」お師匠さんも同じように手本を見せはります。「それから黒田節で槍を突き出す動作がありますが、これには腕の付け根から発した力が、まるで目に見えるかのように腕を渡り、手先を越えて槍の胴に伝わり、槍先を越えて空間に突進して行くくらいに、踊りに魂が入っていなければなりません」お師匠さんは、扇を閉じて、槍を突き出す恰好を何遍もしはります。「先生のは、その点、申し分ありません。身体のバランス、力の動きがどこから出発しているか、また踊る人の重心が身体のどの部分にあるかということに注意して観て下さい」こういう風な調子で、その日は草部さんの専門めいた話が七時頃まで続けられ、それにお師匠さんの身振り・手本が必ず入りました。草部さんが帰らはると、皆の話は草部さんのことで持ちきりでした。中には、ひさ江さんのように、何か他に目的があるのに決まってると言う人も居ましたが、初め、私もそんな気持ちがあったンやけど、前々からあんまり踊りに進歩の跡も見えへんかったので、その晩、皆に隠れて草部さんの言わはったことを実際に試してみたンです。それが功を奏したのか、次の日、お師匠さんに「千鶴子ちゃん、あんたえらい踊りが変わったなぁ」て、褒められました。浮き浮きして寝る部屋の掃除をしてると、春子ちゃんが来て、「あんた今日はえらい褒めてもうたなぁ、うちらあかへんねん」と言わはるさかい、「あんなぁ、うち昨日、皆に隠れて草部さんの言わはったこと、試してン」と言うたら、「へぇ、そうか?・・・・ほんならうちもそないしょ!ねぇ、今からお稽古場へ行って教えてくれへん?」と言わはるので、もう、皆蒲団の上へ寝転んで、山茶花会のことばかり話していましたけど、鶴・亀踊るのは、この春子ちゃんとやし、二人の呼吸が合うほど、踊りも良うなると思いましたので、またお稽古場に電気点けて踊ってましたら、いつの間にかお師匠さんが来たはって、「あんたら、やっとやる気出してくれてンなぁ、ほんならあたしも仲間に入れて」と優しい顔して言わはるンです。
2008.01.28
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小説「勇み足」その4 それから草部さんは二、三日おきに、ひょっこり顔出さはるようになって、だいぶお師匠さんとも親しう話さはるようになり、だんだん私らの踊りを観る目付も厚かましうなってーーーそない言うたら草部さんをえらい悪う思てるみたいですが、ほんまに、その頃はそう思てました。けど、その目付というても、草部さんにしたら一生懸命私らの踊りを観察してる積りやったンやろうし、今となっては、あの人はあんな目付しはって当り前やと思てますーーー一人一人、じぃっと見比べたはるのです。 山茶花会もあと十日余りになった頃やったと思います。昼過ぎのお稽古の時、窓側にお師匠さんと草部さんは座らはって、「草部さんが来はるようになってから、もう一月になるなぁ。今日はこの人からあんたらに為になること言って貰おと思うねん。もう皆も解ってるやろうけど、この人は好えかげんな人やない。あんたらより、ずっと踊りのこと知ったはるさかい」そない言うて、お師匠さんは横目で合図しはりました。やっぱし紅うなりながら「皆さんの前でしゃべるのは、今日が初めてです。僕は今まで一回も踊ったことがないし、自分の思う通りには踊れないと思います。中には、もう踊りのコツをちゃーんと身につけた人も大勢いはるのに、生意気なようで・・・・」すると私らの中で一番年上のひさ江さんーーー本当の歳言わはらへんので幾つか解らへんのですけど、お師匠さんより五つぐらい下の二十七、八と思います。この山茶花会が済んだら名取の踊りを踊らはることになってますーーーが、冷やかすように「そんなモジモジしてんと、早言うて下さい」とけしかけはると、お師匠さんも笑いを含んだ目で「これッ!」とたしなめはります。
2008.01.27
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小説「勇み足」その3「あのぉ、草部という若い男の人です」「何の用や?」「何でも是非ともお稽古してるとこが見たいと言うてはりますけど・・・?」お師匠さんは、最初、断るつもりのようでしたけど、急に「まぁ好えわ、お通しして」と言わはりました。背の高い、目の大きい、彫りの深い顔の人でした。「あの、この間、枚方で見せていただいたンですけど、大変感激しまして、一日中、あの踊りが頭から離れませんでした。それで、一回、どうしてもお稽古したはるとこが見たいと思てまして・・・」お師匠さんは濃い眉毛をぴくり動かしただけで、表情一つ変ってません。私らはこの風変りな人の風采を見るのに懸命でした。「先生の踊りには魂が入っています。何というか、踊りの厳しさが気品として現れ、踊りを踊ってるというよりも、踊りの心を踊ってる・・・・余り巧いこと言えませんけで、兎に角、あの日はなかなか興奮が収まらなかったンです」アイロンの効いてないYシャツに、アイロンをかけ過ぎた赤いネクタイを垂らして、二重の折り目のついたズボンが床の上にだぶついています。「それで、あんたは何したはるの?」「何って・・・・学生ですけど?」「あゝ、そうですか、ほんならそこの隅でーーーちょっと、この人にお座蒲団持って来てあげてーーーそこで見とおくれやす」草部という人は慇懃にお辞儀しはると、窓際の、ほんまに隅の方に顔中紅うして座らはりました。「さぁ~皆、もっかいさっきのとこ踊って」お師匠さんの方見て踊るのやけど、何やら草部という人の視線が来てるような気がして、えらい流行遅れの人やなぁ、こんな女ばかりのとこへよう来れたもんや、そやけど、お師匠さんもよう中に入れはったなぁとか、そんなことばっかり考えもって踊ってたンです。一時間ほどして一休みすると、「どうも有難う御座いました」と、また丁寧なお辞儀して男の人は帰らはりました。
2008.01.26
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小説「勇み足」その2 時々壊しとうなる録音機を皆(ミナ)まるで仇のように見てますと、「昨日(キノウ)振付けたとこ、もう一遍やってみぃ」これでお師匠さんは私らの進退をその鋭い目で見分けはるンです。獲物を狙うような目が自分に当ってンのやないかと気が気やありません。「あんた!あたしの言うてること聴いてンのか?直されへんほど阿呆かいな」来たぁ~と思たら隣の雅子ちゃんやったりして、それでもひとごとという気もせえへんし、次は自分やーと思わず手に力が入ると、案の定「あんたもや、ちょっと皆やめて!この人らの踊りよう見とおみ」で、お師匠さんの口三味線に合わして踊らないけません。「皆、なんであたしが注意したか解ってるか?この人らの踊りやったら、それこそバラバラ事件やがな。ちゃーんと胴につながってなあかへん」そう言われては、皆よけい手を気にして何遍もやり直されるンです。そうこうして踊ってる時でした。何や玄関(オモテ)の方で大きな声がしているみたいやので、皆の顔を盗むようにして見ていたら、どうも気付いているようでした。すると春子ちゃんが「あのぉ、誰か来たはるようですけど・・・・?」恐々、二、三遍言うて呉れはりました。「へぇそうか、ほな往って来」お師匠さんは初めから知ったはったのかも知れませんし、そうでないような気もします。会う人ごとに「お稽古中は来ンといて下さい」とか言ったはるのやないかと思います。
2008.01.25
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小説「勇み足」その1 お稽古場の窓越しに見える木の葉の揺れる様子から、秋が深(フコ)なったなぁと感じます。師走の山茶花会を控えて、お師匠さんの顔は険しうなってきました。今日もちょっと辛い目の味噌汁のお膳で朝食(アサ)をいただきますと、二班に分かれてお掃除と洗濯。お師匠さんと私ら住み込みの弟子の下着は夏場が過ぎて薄物から厚物になってきましたンで、なかなか馬鹿にはならしません。お師匠さんは固いお人やので洗濯機は要らへんと言わはるし、今はどないかやって行けますけど、真冬のこと思たらぞうっとします。それで今は今、冬は冬やと割り切って考えンと損やし、そない思てやってます。お稽古場の掃除もーーー近所の子がようけ習てますし、ほんでよう汚れますーーー綺麗好きのお師匠さんのお目玉が恐て、好えかげんには済まされしません。十時の鐘を合図にお稽古場に正座します。それも、お師匠さんより遅れてきたら只事では済ましません。「明日あんた独りで掃除しとき」がまだ軽い方で、虫の居所の悪い時は、「独りで洗濯すンのやで」になります。少のうても大変やのに洗濯物の多い時なんか、余っぽど早う起きてせなあきません。
2008.01.24
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寒椿落ちて水盤てふ余生 働き盛りの男もいつか定年退職の日を迎えます。大手の会社の役職員だった人は退職した途端に肩書きの無い人生を歩むことになります。多くの部下に傅(カシズ)かれて居た人ほど、この落差に戸惑うことでしょう。ゴルフ以外に趣味の無い人は、毎日が休日状態という事態に弱り切ってしまいます。いよいよ団塊の世代がリタイヤする時節ですが、生き甲斐を何処に求めるかが勝負の分れ道。幸いなことに、おりくはボランティア・ガイドと句作という二本立てで第二の人生を歩んで参りました。ガイドはお客さんに笑顔を見せて貰えるという喜び、俳句は句座に集まる仲間の方々のお作品に接したり、自分の作品を拾っていただいたり、喫茶店での談話などの和みは勿論、奥深いものを探る喜びもあります。 さて、上の句は尼寺の庭に咲いていた椿がぽたっと地面に落ちました。その花を尼僧が拾い上げ、水盤に活けます。木の枝で隠れるように咲いていた椿の花が、今度は天を向きながらその身を晒しています。今度はむしろ誇らしく堂々と咲いているのです。蹲(ツクバイ)に落ちる椿よりも、水盤に運んで貰った椿を詠みたかったのでした。
2008.01.23
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大山崎の観音寺には聖天さんが祀られています。ご利益と違反者への罰の話の他に、わたし達ガイドは、聖天(ガネーシャ)さんが元は乱暴者で困っていたところ、十一面観音さまが女性に姿を変え、一目惚れした彼が乱暴狼藉をしないと約束して夫婦になったと生い立ちについてはまぁ~、ざくっと説明しています。ところが、本場のインドでは、ガネーシャの誕生には幾つもの話が残されているようです。(1)シヴァ神の妻パールヴァティが自分専用の召使が欲しくなり、自らの垢に香油を混ぜて作った人形にガンジス河の水を注いで命を吹き込んで生まれたのがガネーシャ。入浴中に夫シヴァ神が覗きに来るのを嫌った彼女がガネーシャを門番にして見張らせました。父シヴァ神の侵入を拒んだ息子に腹を立て一刀のもとに首を刎ねてしまいました。それを悲しんだ妻の訴えに応えて一番先に見た動物の首を据えつけるという約束のもと、象の首が据付られたという話や、(2)見られた者はすべて灰になるという悪魔に生まれたてのガネーシャが祝福された瞬間、首から上が灰に帰した。そこでヴィシュヌ神が空を飛び河畔で寝ている象の首を運んできて据えたという話。(3)シヴァ神が妻パールヴァティを見つめていると、その美しさに感動したシヴァ神の頭からまばゆく輝いたガネーシャが生まれ出た。自分よりも美しい者を認めない妻は、その子に呪いをかけ、象の首そして醜い出っ腹にしてしまったという話も。この他にもいろんな説があるガネーシャはインドでは人気抜群の神様ですが、日本では歓喜天という男女合体の秘仏も多く、なかなかその実態、お姿を見ることができず、残念に思っています。
2008.01.22
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おりくは京鹿子社生みの親である鈴鹿野風呂翁名付五百人の一人であることを誇りに思っています。野風呂翁は随分多くの短冊や揮毫を遺しておられます。夥多であるが故、書としての稀少価値が低いのは残念に思いますが、それは野風呂翁の宥なるご気風の証でもありましょう。わが家には野風呂翁の手になる短冊や額、手拭其の他和紙に書かれた句を多く賜っているのですが、此処に昭和二十八年発刊の「白露」という直筆で綴られた参百句集があります。 江戸後期の粋人大田蜀山人 が遺した百首の狂歌集には「此一帖吾家狂歌髄脳也、其他一時漫興、宜属皮毛云々」と書いてあって彼の自信作であったことが伺い知れるのですが、野風呂翁もこの画帖に興味を持っておられた折りしも、京鹿子社に縁の深い松本三余氏からのたっての要望に根負けされ、五、六百の自選から更に絞った参百句を丁寧に筆書きされたものを一冊の本に纏められ、松本氏の三余舎出版部から発刊されている豪華本です。俳句を嗜まれる西山翠嶂画伯の「秋の虫図」の表紙も立派であれば、短冊同様の金粉を振りかけた紙面に野風呂翁の座りの良い草書体の句が二句づつ載せてある立派さで、俳句詠みには欲しくて堪らない名著の一つです。
2008.01.21
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父は大阪帝塚山の社宅時代でも天王寺や道頓堀界隈の古本屋を漁っていました。アベノ橋の天海堂書店で購入した「日本の郷土玩具」永田久光著(創元社)は昭和31年の発刊だから新品同様のものを買ったものと思われます。「のろま人形」(新潟県) 凡そ300年前の寛文、延宝の頃に江戸の和泉大夫座に野呂松勘兵衛という人形使があって、色の青黒い、おどけた人形を使って浄瑠璃をやっていた。それが佐渡に渡り、おどけた所作からのろま人形として愛されて来ているようです。新潟には他に、三角だるまやわら馬、六角凧が有名。「あうんの虎」(京都府) 鞍馬寺のあうんの虎はユーモラスな虎の対。初寅の大祭のときに授与されるのだそうな。もっと有名なのが「祇園祭の山鉾」。この他、清水附近の「京都人形」(歌舞伎狂言や風俗もの)。そして京みやげの一番人気が「伏見人形」で深草の土師部が作り始めたようです。その後、月輪東福寺の傍らで幸右衛門が徳川初期にいろんな人形を作り出して人気を呼び、それから100年後が最盛期であったようです。饅頭喰や福禄寿、寝牛などが落語に出て来ます。
2008.01.20
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俳句は季語を軸として作者の人生観、心模様や哲学、感動、対象物の正確な描写などを僅か十七文字に織り込む文芸です。底の浅い出来だと平凡過ぎて、読者の心の襞に入り込めません。そういうことが百も解っていながら、佳句に恵まれないまま、今日に至っていますが、自分で秀作と思ったものは案外受けがそれ程でもなく、素直に詠んだものが受け入れられるなど、多く詠んだ句の中からどの作品を出句するのかという判断も俳句詠みのレベルを計る物差しになることでしょう。 今月は特に句会に臨む機会が多く、六日の例会、翌七日の琴の橋句会、九日水曜日の大山崎句会、十一日のたかんな句会。十九日水曜日の四温句会、翌日第三木曜の新古今注解並びに勉強句会、昨日の鱗華句会、来週火曜日の向陽俳句会そして最後に第四日曜の吟行句会を考慮すれば、合計九つもの句会に参加する勘定になります。 裏白や妻と女の狭間にて 江戸時代は勿論、明治・大正そして昭和の二十年代までは、女性は結婚すれば総て夫に従い家を守る者として一家の主を支えることに終始するという「妻(嫁)」(母の部分もあるが)だけの一面しかありませんでした。しかし高度成長期そしてテレビを通じて世の中の動き、流行がつぶさに解り、流通経済の発展から物資が豊かに、またコンピューター導入後のインターネットという至便な別世界を見るに従い、妻という金縛りから少し解され、女としての自由も急速に増えつつある今日、それでも妻の立場はどうしようもなく、妻と女としての開放感との狭間を揺らぎ泳ぐという日々を世の奥様方は過しておられることでしょう。それを裏白という植物に喩えてみました。
2008.01.19
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昨日から俳句に関する集いが一つ増えました。新古今集の注解を主宰から教えて戴く勉強会です。俳句には古語表現が必要ですから何かと学ぶ点もあります。万葉集の大らかさを、さらに美しく叙情的に表現したものが古今集の世界、それを更に技巧的な智恵比べをしているのが新古今の世界なのかも知れません。同じような事が合唱の曲にも言えるように思います。パレストリーナーの時代の宗教曲、グレゴリーミサ曲などの素朴さがモッツァルト時代に至って重厚で美しい曲への変化を遂げました。おりくがグリークラブ(男だけの無伴奏)の一員として初めてコンクールに参加した時でも、課題曲はかなり軽妙な音楽になっていました。音楽(芸術)大学という専門的なところで卒業論文の代わりに曲として作品を発表するとなると、どうしても斬新さが求められることでしょう。こうして日本人の作曲家の手になる曲は、ハーモニィーもリズムも難度を極めていきます。昔覚えた唱歌は、装いも新たな複雑なリズム表現の曲に変貌していきます。3連音符の一番最後の♪と四分音符とをタイで結んだり、3連音符の三つのうち、真ん中だけが休符だったり・・・いろんな組み合わせ。東京混声合唱団の皆さんと一緒に舞台に立った時の曲も難解を極める曲で、リズムも音程の幅も歌う側の予測を裏切る手法がまかり通っている曲でしたが、彼らは見事に歌いこなしていました。 そういう近代的な曲も宜しいが、もう一度原点に立ち返り、平易で、聴く人の体内にある「音楽の池」に流れるせせらぎのような曲にアレンジし直して欲しいものです。ポップス系は漸くカントリーやフォークソングに近いものになってきているような・・・・。
2008.01.18
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旧約聖書を読むとイエズス様が手を差し延べると病気が治ったとか極端な例では盲人の視力が一瞬にして回復したとか記述されていますが、反論に糸目をつけない大学の教授陣は別室に待機いただくとして、そう言った超常現象であっても、先入観さえ払拭すれば、有り得そうだなと思えなくもありません。凡そ天才とか麒麟児とか称せられた人々は神々から選ばれた特異な人物で、名曲を作ったり、前例のない建物を拵えたり、千年後にも伝わる物語を創作したり、不朽の絵画を残したり、英雄と崇められる戦さ上手だったり・・・。 一方では、数百年前の故人の魂に乗り移って宣託を伝えたり、数十年前の事故死の霊になって恨みつらみを述べたり、動物霊を駆除するなどと言う霊媒と自称する特殊技能者は信じることはできませんが、特殊なパワーを発することが出来る人々は「有って然るべし」と70%程度の信頼を託すこともケースバイケースでは肯定出来そうにに思います。その人々は皮膚から地味にして強烈な磁力を発することの出来る人種なのでありましょう。己を神格化しないで、只管(ヒタスラ)日々迷える人々の救済に勤しむ特殊技能を持つ人の存在は肯定できるように思います。
2008.01.17
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京都は永い間、日本の都として政治・文化の中心にありました。明治維新のあと、皇居が東京に移されると聞かされた都の人々の落胆ぶりは想像を絶するほどでした。そこで賑やかさを取り戻そうといろんなイベントが催されました。京都大博覧会、平安神宮、時代祭などがそれです。 京都と言えば古色豊かで、いかにも雅びの総本家のように称されますが、只単純に古い伝統だけを守り通して来ただけなのではありません。一見排他的に見える京都人の気質はプライドと謙虚さを巧く配合することに長けていて、新しい流行や文化を一旦謙虚に受け入れながら、その研ぎ澄まされた美的感覚で、都のあった処として相応しいものかどうかをプライドという秤(ハカリ)にかけながら良いもの選別し、その良いものを京都色にアレンジしながら残して来たのだと思います。京都人に謙虚さが無かったら、単に旧いものだけを守る”デッド・タウン”と化した京都でしかあり得なかったと思われます。京都は謙虚さを以って、新しいもの、新しい血を受け入れ、常に住みよい、心癒される町として悠久の歴史を伝えて来ているのだと思います。 わたし達もできるだけ謙虚な姿勢を忘れないで、ここに集まる仲間の斬新的なものの考え方や感覚の優れた部分、自分の琴線に合う部分を吸収し、更に自分という”原石”を磨いて参りましょう。奥域を極めた剣豪は、相手の構えを見るだけでその力量が推測できた筈でしょう。謙虚さは自分を大きく育てる大切な身の置き所でしょうね。
2008.01.16
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<此頃都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頸還俗自由出家、俄大名迷者、安堵恩賞虚軍、本領ハナルゝ訴訟人、文書入リタル細葛・・・>二条河原の落首は落書の傑作といわれ、1334年建武元年8月、つまり後醍醐天皇が京都へ戻り、凄まじい勢いで大改革政治を始めて1年数ヶ月、新政の綻びが出てきた頃のものです。命令書はよく吟味もなしに発布され、裁判の誤りや賄賂の横行など社会不安は高まるばかり。こうして中興の新政は失敗に終り、南北朝の対立という動乱期に入ってしまったようです。 政治のことは難しくてよく解りませんが温故知新を基礎としながら、底溜りになっている古い慣習を一旦打破して、180度ほど角度を変えた物差しで新しい政治を行う時期が来ているような気がしますね。
2008.01.15
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父は殊の外竹久夢二というロマン画家、詩人を好んでいたようで、夢二にまつわる書物は数え切れないほど残しています。今ここに龍星閣の「風のやうに」という書がありますが、昭和37年の第2版もので、大阪桜橋の高尾書林という古本屋で購入しています。その本にハガキが二枚挟んであって、41.3.12の消印の新刊書案内で、昭和8年創業の同社が2年がかりで出版に漕ぎ付けた背景が切々と記述され、「歌の絵草紙」普通版では予約価3800円、限定百部のものは10000円。後者は朱染総皮表紙。天金。本金箔押装画。特織布函入。前者は本絹多色刷表紙。菊大型アート374頁。多色刷12図。写真版268図。英文解題。となっています。 翌年42.3.25付消印のハガキの文面には「歌の絵草紙」がびっくりするほどの注文で、発売日には影も形もなくなり、古本市場で高値になったとの苦情が後を絶たなかったと。<「思い出ぐさ」には夢二全盛時代の作品群、明治大正を目でみる情緒史とあって、夢二が明治末から大正にかけての10年間に「月刊夢二絵はがき」として描いた326図の収録もの。これら一つ一つには遠い日の思い出につながり、しかも風刺あり、諧謔あり、浪漫あり女人の美しさにただよう侘しさ、やるせなさは夢二ならではの「浮世絵」である。夢二の絵は、いつも身ぢかなものの楽しさや愛しさで人をつつむ。人生は、つきることのない哀詩であることを記録する。特に肉筆原画から製版した60図は、夢二の線描の繊細さ、鋭さ、奔放さなど夢二の息づかいまでも伝えて、圧巻である。>この夢二評はこの本の解説を請けた長田幹雄氏の文章なのでしょうか。こちらの特装版は250部の限定。 夢二の描くような和製美人は影を潜めてしまったのでしょうか?遠くなってしまった昭和時代と共に消滅したのでしょうか?・・・・・おりくは、こころから彼女らの再来を願う愚か者です。
2008.01.14
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毎夜、わたし達夫婦は洋間のソファに坐りテレビ番組を楽しんで居るのですが、いつの間にか「バブルへGO!!」という映画へ家内がチャンネルを替えたようで、ついつられ観てしまいました。その中で「ヤバイ」という言葉が新旧両方の意味で使われていました。古語でも「なかなか」という語は、中途半端、なまはんか、かえって、とうてい、かなり、その通りという具合に時代によって意味が変化しています。全然という単語もつい最近までは否定的な意味を持つ言葉を誘引する使い方が主流であったものが、程度を表わす用法となって肯定の言葉を伴うようになりつつあります。 平成10年3月第3版発行の鈴木棠三著「日常語語源辞典」(東京堂出版)は父が亡くなる1、2年前に購入したと思われますが、俳句を嗜む者として言葉の語源を知っておくべきと父も考えていたのでしょうか。鈴木棠三氏は中世から近世の庶民生活風俗研究家のようで諺や語源に明るい人。興味あるジャンルの書を沢山書いておられます。太古の頃に生まれた言葉が万葉、平安、鎌倉・・・と時代を経て表現が直されたり、或いは埋もれてしまったり、逆に新語として根付き現代に及んでいるなど、言葉の歴史が日本歴史の一面を物語っているようです。幸い、この本は五十音順にならべてあり、愛敬、相槌、敢えて、青、あかぎれ・・・と続き、田舎、稲妻など、どれ一つをとっても面白そうな内容です。俳句という十七文字の芸術・文学に身を置く者として、日本古来の言葉を知ることは、いわゆる温故知新を地で行くものと思われます。毎日少しずつ(づつ)味わってみる積りです。
2008.01.13
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いよいよ13日の日曜日は全国都道府県女子駅伝が開催されますね。おりくにとって一年を通して好きな行事の一つになっていますが、下記は3年前の日記文です。午前中に読んでいただけると興が湧くのでは? < 記 > 今朝と言っても遅がけに雨戸を開ければ青空の好天気。一部の北国では豪雪で停電もあったようですが、都大路は絶好のマラソン日和。新聞紙上でいろんな予備知識を入れながら女子駅伝の号砲を待っていました。京都生まれのおりくは、どうしても京都を一番に応援してしまいます。震災の新潟や、その10年目の兵庫の活躍も、岡山や大阪、佐賀(少し住んだことがあるので)にも熱いエールを送ります。第一区は、高校女子駅伝で好タイムを出した岡山:新谷さんの動向、記録保持者である大阪:山中さんの脅威に注目しながらレース展開を見守っていました。スタート前にリラックスしていた京都:小崎さんがスパートをかけ、前評判通り京都が優位に立ちました。佐賀県の小川さんの力走ぶりも立派でした。第二区は山形の熊坂さんの頑張りに感動しました。三区の中学生では群馬の絹川さん、四区は兵庫の脇田さん、東京の平田さん、五区は愛知の笹田さん、六区は兵庫や埼玉、茨城、岡山の選手が活躍したのでしょう。七区は福岡の森川さん。中学生の八区は将来性のある選手が目白押しでしたね。最終九区は大阪:大越、兵庫:加納、岡山:坂本、熊本:風間さん辺りが順位を上げていました。優勝の京都は大会記録に迫りながら追い越せなかったのは残念でした。 この全国都道府県女子駅伝が日本の長距離界のエースを次々育ててきたことは周知の通りですが、二時間余りのリレーは何度拝見しても飽きることがありませんね。結果はどうであれ、この晴れ舞台の裏には、いろんなドラマがあったことでしょうね。選手の皆さん、関係各位の皆さん、素敵な元気をありがとう♪
2008.01.12
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夢というものは全然見ない時節もあれば、毎日のように見てしまう場合もあります。目が覚めて意識がはっきりし出すと、何故あんな夢を見たのかなと原因を探ることもあります。この日の夢の中のおりくは噺家であったようで、大きなホールの舞台前に並びながら、先ずは後輩がアドリブを効かせたショートで会場を笑わせ、目の合図ではおりくの順でしたが、良い話が浮かばず逃げの合図を返しました。で、気を利かせた別の若手が、また短い噺で会場の空気を温めなおし、いよいよ先輩のおりくの番です。大きな身振りで会場を鎮め、シ~ンとさせました。 夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われて見たのは いつの日かこの歌を裏声の、しかもソプラノと同じような発声の仕方で朗々と謡い上げました。しばらく会場は鎮まりかえった侭でしたが、誰かの一つ目の拍手につられ、そこかしこから拍手が沸きあがりました。ウォ~という声の大反響の中、目を覚ませたわけであります。市岡支店に配属されていた頃、何かの機会にファルセットが出来ることに気がつきました。そして銀行人事部主催の文化祭でも、ブロックの選手の一人として「夕焼け」をソロしました。 朝も早から起こされて、女房子供に送られて バスに地下鉄乗り継いで やっと着いたよ 梅田駅 ・・・・ 乗った電車は満員で 坐りたい気持ちを我慢して 日本経済夢心地 弁天町の駅に着きましたといった具合のギター伴奏つきのオリジナル「外交ソング」の中に夕暮れの中、ノルマ達成の重圧に苦しむ一外交員の胸中を表わすシーンとして、この「夕焼け」のオペラっぽいソロが入るのでした。 おりくは度々見る夢の中で、歌って聴かせている場面がちょくちょくあります。その出来映えも鮮明に覚えているのですが、不思議なことですね。
2008.01.11
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3年前の日記をここに複製しています。今週は日、月、水曜そして本日と4回も句会が続いています。準備もあり、手抜きで申し訳ありませんが・・・・。 新年来、色鮮やかなものを日記の題材にして来ましたが、源氏物語絵巻こそ、絢爛豪華な美術品でしょうね。12世紀から江戸時代に至るまで、いろんな画家が描いて来ています。おりくがこのような美術書を漁るのは、目を肥やしたいからです。観光地や寺社、資料館、美術館そして展示会に接する機会が多々あることも予想されますので、その目を養っておく必要があることと、単純に、このようなものが好きだから・・・。 この書に”顔の表現”という特集があって、国宝絵巻、土佐派 扇面、土佐光吉 屏風、土佐光吉 画帖、土佐光則 画帖、土佐光起 屏風・画帖、住吉如慶・貝慶 画帖・絵巻、狩野派 屏風、宗達派 屏風、又兵衛派 屏風など分類、拡大して載せてあり、その表情などに興味をそそられます。わが次姉の義母の居宅から小型ながら屏風絵が見つかり一度見せて貰いましたが、おりくの目から、それは江戸後期か明治初期の素人さんの手になるものと思っているのですが、定かではありません。将来、おりくとの関わりの中で、何方(どなた)かの蔵の中から、このような逸品が現れるかもわかりませんので、本物を観る目を養っておきたいのです。 いずれにせよ、身分の低い庶民の犠牲に支えられた平安時代の貴族の生活は、遊んでばかりの優雅な暮らしであった様がつぶさに伝わって来ますが、一見のんびりとした雅の世界の裏面には、叔父・従妹といった親戚での陰惨な政争が繰り広げられていたのですね。
2008.01.10
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ガイドの会の幹事会を午前中に開催して欲しいという昨年からの根回しが奏功して、大山崎の句会に十ヶ月ぶりに参加することができました。 初風呂や嬰のふぐりのさくら色 三千子必ず一度は目にしているだろう光景。赤ちゃんの小さい男の印がほんのり桜色に染まっている様をめでたさに溶け込ませていますね。 初産と囃して売りぬ寒卵 裕江俳歴浅く、しかも月一度のこの句会だけが修練の場とおっしゃる裕江さんは天才的なものを持っておられます。地元で見られたものを句になさいました。大先輩のS氏が京都の錦市場では初商いとして、「初産」の表示をしていると教えて下さいました。 むっくりと山ほっかりと冬木の芽 皓一郎この句は<むっくりと山><ほっかりと冬木の芽>という二つのフレーズに分けて鑑賞すると俄然に、昔の週刊新潮の表紙のような里山の光景になります。 黙々と咀嚼聖夜の患者食 桂クリスマスはどんちゃんするのが本来の趣旨ではないでしょう。綺麗なイルミネーションやジングル・ベルなど都市圏の賑わいとは別の世界。病棟での老人や病人たちの姿を絵にしておられます。 若さ欲しくてユニクロの福袋 三千子ユニクロの福袋を題材にしたのは手柄。 悴みて手より落ちたる志 桃子ものものしい文体。 蝋梅のへつらひもせず媚もなく 星子一般住宅の垣根越しの立派な蝋梅がモデルではなく、寺院などの広い庭園の一角にある目立たない蝋梅のイメージを詠みました。結社に関係なく、来る者拒まず、自由平等を主旨として発足して早、大山崎の句会は十年以上も続けられています。作者の名乗りは一番後に行い、それまで賛否両論の感想が行き交う楽しい句会です。
2008.01.09
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ボランティア・ガイドに関する記述が連続して恐縮ですが、本日は京都府大山崎町歴史資料館での当番でしたので、新たに仲間に入っていただいたM氏と一緒に詰めていますと、見た目はそれほどの御歳と思えないお爺さんが資料館の見学に来られ、何処から(右京区桂)か、お幾つ(92歳)かなどふんわりお聞きしていると、先日270メートルもある急峻な天王山山頂まで一人で登られ、おまけに幾つかの古瓦の破片をゲットされ、その真偽を尋ねる目的もあって、この資料館に来られたのでした。生憎、学芸委員のF氏がお休みの日でしたので、またのお越しを願ったのですが、山頂で拾われた瓦の破片を見せて貰ったところ、二つは新しい感じですが、一つは薄汚れた白濁色を呈していて、年代物と思えました。今はこういうものは持ち帰ってはいけない時代なのですが、高齢のお爺さんゆえ、目を瞑ることにしました。それにしても、92歳ながら足取りも頭脳もしっかりなさった方でした。
2008.01.08
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亡父の2冊目の日記の冒頭には昭和12年1月1日現在、祖父54歳、祖母46歳、祖祖母73歳、父25歳、妹23歳、妹19歳、留吉、東吉、昌吉という丁稚、下女の千恵そして番頭さんと記述されています。この年に父は社会人となり勤めてから日記が大雑把になっています。ところが 10月15日 山口誓子氏と、三浦零子氏の紹介で、挨拶を交し名刺を交換す。誓子氏は神経の尖った人。 10月18日 日野草城氏、水野白川氏とガスビルにて昼食を共にす。草城氏は女性的な鋭さを秘めた人。句に寄する考へは正常。それが一寸意外。 10月20日 観崖居で(新居祝と病気全快祝を兼ね)句会。9月のよき夜、平野神社を逍遥、句はすべて低調、素経氏を最高の作者とみる。 わが家には高浜虚子の短冊数枚、日野草城、山口誓子の短冊もあります。ホトトギスにも100句以上選んでいただいているので虚子に絡む葉書などが多いことは頷けるのですが、草城の手紙、誓子の賀状も残されているのもありがたいことです。亡父の「夢の跡」の片付けをじっくり行ったので、こういう「お宝」に気がついたものと思っています。
2008.01.06
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孤島に生きるわけでもないわたし達は人という字の形の通り、他人に寄りかかりながら生きています。相互が助け合ったり、何らかの係わり合いを持ちながら生活しています。そして自分のこころを伝える為には、見てきたもの、感じたこと、不服なことも含めて言葉や動作で表現しなければ、相手や第三者には届かない筈です。その場合、相手側の視点に立って表現しなければ、伝えるべきことが浸透したとは言えなくもありません。工夫を凝らして表現したり、言葉と言葉に間を置いてみたり、抑揚をつけたり、強弱を試みたり・・・。役者さんは、或る程度役柄を研究し、自分なりに描いた人物像に自分が成りきってしまう手法を採ることでしょう。能や京舞のように簡素化する場合もあるでしょう。 従来から文章を論じる時、起承転結が基本的構成とされて来ましたが、正に至言です。結婚式のスピーチも然り、簡潔にして耳目を惹き付けることが肝要です。このように書いて来て、ハタっと気付くことは、果たしてこの文章、論法は読者に届いているのかということ。本日は頭脳の働きが思わしく無く、文章を綴る難儀に戸惑うばかりです。
2008.01.05
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離れ小島に独り生活する人は別として、現代人は一日に幾たび時計を見るのでしょう。・・・おりくが経済社会の渦の中で生活していた時分、それも銀行という職場で働いていた頃は、現在の数倍、いや数十倍もの頻度で時計を確認していたものと思われます。映画「時を追いかける少女」とは逆の、時に追いかけられる生活は多くの職業にあります。主婦業然り、真昼時の飲食業、無数の人を安全に送り迎えする鉄道関係の職業、締め切りの迫った作家・・・それは数え切れないことでしょう。銀行はシャッターを下ろした三時過ぎ以降が、まるで砂時計の世界。数秒、数分単位で時に追いかけられる仕事場でした。小切手類の持出し準備、税金等の持出し準備、窓口(キャッシャー)や出納元締の現金ご名算など。 それらの指針となるのが時計。子供の頃に見た大きな柱時計。数日に一度はネジを廻さないと止まってしまいますが、映画のシーンでも大きくクローズ・アップされ、待つ人の心理を描き出していました。社会人になったお祝いに義兄から、過去に見たことのないような薄手の巻き腕時計を戴きました。羽のような軽さやワイシャツの袖口を傷めない利点や、四角い形をしたスマートさに愛着を感じる逸品ものでした。間もなく腕を振ることによって自動的に巻くことの出来る自動巻き腕時計も市販されました。・・・それが今じゃ殆ど電池によるデジタル腕時計。装飾三昧の高級時計。金持ち、成功者の証のように買い求められる高級品。一般家庭の中に、昔懐かしいアナログ時計は残されているのでしょうか?おそらく鎖のある懐中時計が辛うじて手巻きとして残っている位に違いありません。時計はその人にとって、人生の年表となる存在だと思っています。今刻んでいる時間は二度と戻ることもなく、セピア色した自分史の一コマに過ぎないけれど、かけがえのない、大切なものであったことは言う迄もないような・・・・。
2008.01.04
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NHK大河ドラマ「風林火山」で由布姫役で出演されていた柴本幸さんがこの度「源氏物語千年記念」のイメージキャラクターに選ばれました。源氏物語は世界に誇る長編小説ですが、紫式部という平安期の女流作家により綴られた偉業は、掲題の「土左日記(この表記が正しい)」の作者である紀貫之の手柄に因る事とは余り知られていないようです。それは<男もすなる日記を女もしてみんとて・・・>という具合に、従来漢文形式で綴られていた男性主流の日記文学に対して「ひらがな」を用いて綴った彼の功績によって、女流の日記文学や源氏物語が開花する布石になったのでした。 さて「土左日記」の以下の件りは舟に依る長旅の不安な道中にようやく石清水八幡(男山)に差し掛かった時の感動の様が如実に綴られています。大山崎歴史資料館にも日記のこの部分を展示しています。旧暦二月十一日の部分から載せてみます。十一日、雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。こゝに相應寺のほとりに、しばし船をとゞめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。ある人この柳のかげの川の底にうつれるを見てよめる歌、「さゞれ浪よするあやをば青柳のかげのいとして織るかとぞ見る」十二日、山崎にとまれり。十三日、なほ山崎に。十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。この人の家よろこべるやうにてあるじしたり。このあるじの又あるじのよきを見るに、うたておもほゆ。いろいろにかへりごとす。家の人のいで入りにくげならずゐやゝかなり。十六日、けふのようさりつかた京へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃の繪もまがりのおほちの形もかはらざりけり。「賣る人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。かくて京へ行くに島坂にて人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりはくる時ぞ人はとかくありける。これにも(それにもイ有)かへりごとす。よるになして京にはいらむと思へば、急ぎしもせぬ程に月いでぬ。桂川月あかきにぞわたる。人々のいはく「この川飛鳥川にあらねば、淵瀬更にかはらざりけり」といひてある人のよめる歌、「ひさかたの月におひたるかつら川そこなる影もかはらざりけり」。又ある人のいへる、「あまぐものはるかなりつる桂川そでをひでゝもわたりぬるかな」。又ある人よめる、「桂川わがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり」。みやこのうれしきあまりに歌もあまりぞおほかる。夜更けてくれば所々も見えず。京に入り立ちてうれし。・・・・(略)少なくとも大山崎に四泊している勘定になります。向日町の石塔寺のある島坂で饗応を受けていることが分ります。僅かこれだけの文章でも、流暢な古文の香りを堪能できますね。
2008.01.03
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時間を掛けて書いた日記が公開ボタンを押した瞬間、ページが表示されませんと表示されてがっくりしました。新年度になって二日目での失敗、コピー保存してから作業を進めなくては・・・。 此処に「京都市郷土地理歴史」という名の明治34年発行の教科書があります。おそらく祖母が高等小学校で学んだ教科書に相違ありません。付録にはいかにも古地図といった色合い、つまり深緑色を淡く塗った山麓図のようなもので、滋賀・京都・大阪を示したものと山城の国に絞ったものと二つあります。付録には皇紀を中心に天皇家に縁りのある、勤皇派に近い歴史上の人物が挙げてあり、素盞鳴尊、神武天皇、道鏡、和気清麿、坂上田村麿、空海、菅原道真、藤原時平、牛若丸、清盛、一休、細川勝元山名宗全、信長、秀吉、伊藤仁斎、新島襄、レオンジュリー、北垣国道知事などの名前が時系列に並べてあります。地図に巨椋池が大きく記してあるのが特徴です。説明文は御所から始まり蛤門の変にも触れています。護王神社の清麿が道鏡という悪僧を追い出したことや、同志社を始めた新島襄が苦学から立ち上がったことを手本にしなさいとか、山名宗全が陣を置いたことから西陣の名がついたことや北野神社では藤原時平によって左遷された忠君の道真にも言及しています。船岡山の建勲神社を祀る信長が荒れ放題の御所を再興させた徳を褒めています。また大徳寺の一休さんの歌「胸の火のもえたつ時のあるならばこころの水をせきとめて消せ」を紹介しています。賀茂茄子や酸茎などの名産、若狭街道、大津街道や粟田焼、七宝焼など。興味深いのは当時、省線・国鉄という表現が無く、東海道鉄道或いは奈良鉄道、京都鉄道と称してあって鉄道歴史の一端を覗いたような気がしました。
2008.01.02
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明けましてお芽出とうございます♪ 本年も宜しくお願い申し上げます。 さて、この日記に度々綴ってきたことの中に、一年で一番好きな季節はと言えば、若葉が艶やかに光り、陽光が眩しく交差する五月頃、他方、哀しくも怖くも感じる季節が寒くて暗い冬への橋渡し役をする秋という季節感の話。一年で一番日の射す時間の短い冬至へまっしぐらに向かう秋は、美しく凌ぎやすい季節でありながら、背後に黒い塊を隠しているから好まないと述べて参りました。某新聞の新年号に<地球が太陽のまわりを公転する時間の流れの中で、本来ならば、どの時点を「新年」としても良かったはずである。春の命の芽吹きに合わせても、夏の暑い盛りでも、秋、木の葉が色付く頃としても良かった。・・・厳しい寒さの中に新年を迎える・・・日本をはじめ多くの国で採用されている現行のグレゴリオ暦では、日が最も短くなる冬至から間もなく新年を迎える。・・・・>と脳科学者:茂木健一郎氏の一文が掲載してありました。それは厳しい中にも温和な気候への希望の節目として新年を捉える考え方なんでしょうね。とは言うものの、俳句を詠む身には太陽暦よりも旧陰暦の方が相応しいと感じる面がないでもありません。 ところで、新年から大晦日までの一年は人生に似ているし、置き換えれば42.195キロの長丁場を競い合うマラソンにも喩えることが出来そうです。そのマラソンで思い出すのが土佐礼子さんの後半からの追い上げシーンでした。有名人になるよりも動きが取り易い凡人に甘んじたいおりくですが、長い人生というトラックの中で、最終章まで如何に演出するかという術(スベ)は各人の人生観に因ると思われます。そう言う意味で年初から春・夏・秋を経て再び寒く、厳しい冬の章へのまとめを一年ごとの区切りで大切にして参りたいと愚考しています。
2008.01.01
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