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例によって物置小屋の片付けをしていると昭和21年11月頃の新聞の切抜きが見つかりました。戦後の民主化に伴い、この年度から春秋2回、京都御所を一般公開することになった関連記事がそれです。公開前の対談には宮内庁の飛鳥井氏、京都市史編纂の鈴鹿氏、京大教授の棚橋氏たち司会は京都新聞社高谷氏。見出しには「偲ぶ君民和楽」などと。文学的にも貴重な清凉殿と櫛窓、紫宸殿の額其の他幾つかの写真が掲載されています。第1回目の公開日となった28日の記事は、夕刊京都「民主の世を謳歌」、朝日新聞「禁門きょうから開く」や「開かれた九重の奥」という見出し。翌29日の京都日々新聞「静かなる大群衆、簡素美に陶酔のひととき」、京都新聞「この日の入場者3萬」徳川侍従談話<陛下は民主主義を体得せられ且つ率先御実行になってをられますので、今度の公開についても従来国民と隔絶してゐた皇室の真の姿が国民の目に触れることが出来るなら御所でも離宮でも公開するようにとの思召しであったと承ってをります。>大阪新聞「眼うばう桜の間の襖絵」など。京都日々新聞は「神秘の扉いま開かれてー京都御所拝観の群集」という説明と大きな写真が掲載されています。今の新聞のポイント数とは比較にならないほど小さな字体で書かれているし、もうセピア色に変色している記事ですから非常に読みづらいものですが、大切に残して置きたいなぁと思いました。
2008.04.30
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「アサヒビール大山崎山荘」は平均リピート回数6回を超える人気スポットですから、わたし達「大山崎ふるさとガイドの会(OFG)」のメンバーも度々ガイドします。建築に個性的な意匠を凝らせた加賀正太郎は、少年期には日本の蝶144種を全部採集した人物でしたから、植物にも詳しかったものと思われます。大正4年夏目漱石が訪れた頃は桜中心の庭園だったようですが、昭和期から現在に至っては数え切れないほどの植物が植えられています。新年度OFG第1回の学習会として2班のI氏、Sさんの両名がこれらの植物について説明をして下さいました。先ずは入り口附近の花海棠(ハナカイドウ)や百合の木(半纏木とも軍配の木とも)、或いは翼(ヨク)が特徴である錦木など。門を潜って左側のうねる粘土質のところにある鋭い針のある「蟻通し」は一両とも呼ばれ、万両、千両、百両(別名唐橘)、十両(別名藪柑子)と一緒に覚えると便利。古人は縁起を担ぎ、千両、万両、有りどおし(蟻通し)を並べて植えたようです。また藪肉桂(ニッキ)の葉を裏返せば、葉脈が三つに分かれているのが鮮やかに見えます、之即ち「三川合流」と覚えると面白かろ。花盛りに根元の葉が無くなる→歯の無い姥→姥百合は夏に水平に咲く可憐な花。白山吹は四片の花びら、黄色一重の山吹は五片でどちらも実ができますが、八重の山吹は太田道灌の実の一つだに無きぞかなしきと覚えまひょ。馬酔木や鈴蘭のような花をつける灯台躑躅(ドウダンツツジ)。やっとこさ見つかった冬の花蕨。家屋の入り口に植えるトベラ(=扉から)は葉も実も臭いとか、また花梨も家の前に植えます。金を借りん、そして家の裏には(金を)貸しから樫の木を植える縁起担ぎも。岩八つ手、吉祥草(11月頃ススキの葉+紫色の花が筒状態)、骨折や打撲の治療に用いることから接骨木(ニワトコ)。 頂戴した資料には道順を追って植物の名がいっぱい書かれています。まだまだ全体の三分の一程度ですが、本日は歴史資料館の当番ですので、この辺で。(追伸、大山崎山荘の借景にあたる天王山の斜面には、桐の大木が藤色の花を咲かせ始めました。目に鮮やかに飛び込んで来る桐の花を是非ご覧下さい。)
2008.04.29
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新年度(20年度)初めての小学3年生のガイドをしてきました。去年はガイド部門の責任者として、スタート間近かでまだ馴れていないのに、小学校からの依頼が4件もあって大変緊張した立場でしたが、今年は楽ちん。それでも、もしものことを考えて早めに家を出ましたが、急ぐ余り、うっかりして昼用の弁当を買うのを忘れたまま、集合場所近くまで来ていました。どうも順調すぎるほど早めに進んだらしく、子供たちの行列が目前にありました。集合時間が10時15分なのに9時半頃には現場に到着しそうな勢いでした。慌てて30メートルほど下の西国街道まで出てコンビニを探しましたが、恃みの一軒は休み。仕方無く駅前まで急ぎ「稲荷と巻き寿司」の詰め合わせ弁当を買って、観音寺近くの公園に駆けつけました。間に合いました。45分ほどの余裕を見ていたのに15分ほど削減という結果。ガイドが全員揃うまで待って、それでも予定より早めに出発。一ト組5~7人の隊を全部で12組、生徒72人先生ら4人、ガイドは14人。歩きながら自己紹介をしつつ観音寺の急な階段を登りました。聖天さんのお話では「腕白で乱暴な人でもうまく諭せば善人になって役に立つ人になるんだよ」と覚えやすいように説明しました。山荘近くへ出て宝積寺では閻魔堂の閻魔さん5体とご対面。16人ほど一まとめにして閻魔さんの表の恐い顔と裏の優しい顔を写真を使いながら説明、「先生も生徒に注意したり怒ったりしはるけど、本当は心の中では泣いてはるのだよ」と説明すると先生は嬉しそうなお顔をしておられました。山頂では全員が集まるまで待って、生徒も先生もガイドも一緒に仲良く昼食。食後15分ほど子供たちは山頂でお遊びなど。それから小倉神社へと行進。途中で山を切り開いたところがあって、生徒たちの学校が眺望できました。記念写真も班毎に撮って貰いました。怪我人もなく無事小倉神社まで辿ることができました。おりくの班は楽しそうに歌を歌いながら進みました。3年生は本当に愛らしい、良い子達でした。最後は一人一人握手して別れました。
2008.04.28
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山と渓谷社の「鳥のことわざ うそほんと」(国松俊英著)のページをパラパラ捲ってみると、80もの諺のあることに驚いてしまいます。「雀百まで踊り忘れず」、「鳩に豆鉄砲」、「梅に鶯」、「目白押し」、「烏合の衆」、「烏の行水」、「鳶に油揚げ」「掃き溜めに鶴」、「鶴の一声」、「おしどり夫婦」、「千鳥足」、「一富士、二鷹、三なすび」、「雉も鳴かずば撃たれまい」、「閑古鳥が鳴く」など。 ところで「鶴は千年、亀は万年」という言い伝えから、鶴は千年も生きるのかなと誰しも思いますよね。内田清之助の本「鳥」では、セグロカモメ:36年、ダイシャクシギ:31年、イヌワシ:25年、ガン:25年、カラス:14年、ハト:10年、スズメ:8年、そして鶴は30年~60年も生きるのだから、あながち諺は間違っているとは言えません。地球の環境は年々悪化を辿っていますが、私たち人間は身近に目にすることのできる「鳥」たちとも仲良く暮らして行きたいものですね。
2008.04.27
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「大鏡」には村上天皇の中宮芳子が輿入れの日、その垂れ髪が床上を五メートルも引き摺っていたと記されていますが、直毛黒髪の日本女性には、命の次に大切なもの。奈良時代には鳥毛立美女屏風に見られるように、唐髷に束ねていまいたが、平安時代には垂れ髪の長い人が美の対象になっていたようです。女児が生まれると翌日産毛と言われる胎毛を剃り、四歳まで毎日剃って毛根を刺激していたようです。ヨードを含む海藻を食事に摂り、髪油の代わりにサネカヅラを煮出し液汁を髪に擦りこみ、また養毛作用のあるツゲの櫛を使うなど、科学的な方法を採り入れていたようです。男子の元服に匹敵する儀式、六月十六日、十四~六歳の成女式の折、両頬で一握りの髪を顎の下で切り落とします。所謂鬢除(ビンソギ)を済ませてからは残りの髪はずっと背中に伸ばし、二カ所で結わえます。これはね、顔の両側が髪に包まれ額縁の役目を果たし、顔の白さを惹き立て外界との隔離的効果を生む手法だったのだそうです。王朝時代の黒髪は、後ろ姿のたおやかさと、顔を浮き立たせる大きな役割があったといえましょう。 訳あって仏門に入る折には、先ず肩の部分で切り揃え、それを後ろに結わえる「茶筅髷」、一定の修行を経て漸く剃刀をあて「剃り尼」になったようです。女性の髪の毛に寄せる気持ちを世の男は理解しておかないとねぇ~。(参考図書、図書名不詳、NTT出版、樋口清之著)
2008.04.26
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ロシア語通訳協会の重鎮でエッセイストの米原万里さんの書かれた「パンツの面目ふんどしの沽券」と題する研究書は実に幅広い文献を基に下着について言及されています。原始時代を通じて人類の衣服の祖型は1)紐衣型、2)腰衣型、3)巻き衣型、4)貫頭衣型、5)前開き型、そして6)ズボン型に分類され、下半身部位はズボン型以外はすべて股を覆わないスカート型なのだそうな。日本書記には女相撲のことが触れてあり、采女たちは裸体にフンドシをつけて相撲を取ったと書かれているし、江戸時代には大奥で婢女たちに相撲を取らせ上臈たちが愉しんでいた記述も、今なお温泉地では客寄せに催されているとか。ロシア人は用を足した後、紙を使用する習慣が無かったので捕虜になった日本兵が大層苦労された話もあります。夏祭なんぞで日頃そっけなく扱われている亭主族も法被にふんどし姿で神輿を担げば、この日ばかりは漢(オトコ)を取り戻せるようです。
2008.04.25
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高橋千劔破(チハヤ)著「花鳥風月の日本史」(黙出版)の頁を繰っていると、掲題の見出しに惹き込まれました。鰯は古来より下等な魚とされていて、いやしい魚→いやしが訛って「いわし」或いは弱い魚なので「よわし」→「いわし」に転じたとも。昔から大量に水揚げされるので軽んじられがちですが、その味の良さはみんな知っていて、江戸時代の「和訓栞」には、或る時紫式部は鰯を食し、その美味を忘れかねていた。当時の貴族社会では卑しい魚をされていたので大っぴらに食べられない。夫の藤原宣孝が外出した隙にこっそり焼いて食べたところ、帰宅した夫から鰯の匂いを指摘され、 日の本にはやらせ給ふいはしみず まゐらぬ人はあらじとぞ思ふ日本人なら誰でも、人気のある岩清水八幡宮にお参りするように、鰯を食べない人なんて居ませんよと詠みました。実に頓知の利いた一首ですね。以来、鰯のことを女房言葉で「むらさき」というようになったとか、「猿源氏草紙」では式部ではなく和泉式部の逸話として登場するとか。また、鰯を「紫」と称するのは「藍に勝る」=「鮎に勝る」との洒落から出た語とも言われています。
2008.04.24
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わが家の庭、洋間の正面に牡丹が三株並んでいます。去年はリフォームの後遺症で今一つでしたが、今年は右端の紅色が咲きました。真ん中が白、左がピンク色のようです。生前の母が楽しみにしていた記憶があります。 牡丹花は咲き定まりて静かなり 花の占めたる 位置のたしかさ高校生の教科書で学んだ懐かしい木下利玄の歌。俳句なら 牡丹散ってうち重なりぬ二三片 蕪村 一輪の牡丹かがやく病間かな 子規 白牡丹といふといえども紅ほのか 虚子三つ目の虚子の句はホトトギスに百句以上選んでいただいた亡父が短冊として頂戴しています。虚子の他の短冊などを含め、わが家の宝ものです。 牡丹は中国の国花で新年を祝う花とされています。また島根県の県花でもあって、花言葉は「風格ある振る舞い」。母の嫁入り写真を見ると、少しイメージが重なりました。牡丹に似た花、芍薬は死者の国の王の病をも治すほどの味の良い万能薬と言われています。花言葉は「素質」。花の宰相とも呼ばれていますが、牡丹が枝の広がる木であるのに対し、真っ直ぐに伸びる草が芍薬。 芍薬のはなびらおつるもろさかな 万太郎今、鶯の声を聞きながら綴っていますが、長岡には乙訓寺があって、おりくが独身の頃には素朴な「萩の寺」でしたが、現在は、この時節500円の有料で「ぼたん寺」と化しています。
2008.04.23
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大山崎ふるさとガイドの会の有志10数名と資料館関係の皆さんの一行は資料館学芸委員Fさんの引率のもと、近鉄線向島駅に集合。先ずは目川地区の太閤堤の名残のある道を確認しました。樹齢250年の大木が歴史を感じさせてくれます。この堤は京の大きな甕であった巨椋池の堤も兼ていたようです。わたし達は伏見城の存在は知っていましたが、宇治川を挟んで反対側に向島城があったことなど知りませんでした。琵琶湖から瀬田川となり宇治を経てきた河は従来は巨椋池に注がれていましたが、秀吉が淀へと流れるように分流させ、河を挟んで城を構えました。この伏見城も4期にわたり建て換えられたと言われています。大阪城は豊臣家の居城として使い、天下に号する公の場所として伏見城の意義があったようです。また徳川政権を江戸幕府と言いますが、征夷大将軍の宣下も此処で受けて居り、3代将軍家光までは徳川家もこの伏見城が主体であったと言われています。土木工事に長けていた秀吉は洛中を取り囲んだお土居同様、この伏見地区をも土塁で囲んでいました。その一部が残っている曹洞宗の栄春寺の墓地に入らせて戴きました。向島駅から丹波橋駅、桃山御陵駅、そして伏見駅までの長い距離をFさんの詳しい説明を拝聴しながら歩きました。夕方は黄桜にて地ビールなどで喉を潤しながら歓談しました。
2008.04.22
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本日も晴天。歴史資料館の学芸委員Fさんの引率で京都の酒どころ伏見界隈を散策する為、間もなく家を出ますが、年々都市化の進む中、こちら長岡辺りは市街の様相を呈する場所と田畦の残るところが仲良く混在する人口凡そ8万人の街でもあります。阪急長岡天神駅の東出口から50メートルも行かない場所には田圃が残って居て、昔のようには多くないものの、蓮華の花が愛らしく見えます。秋には曼珠沙華(彼岸花)も生え揃います。駅前から長岡天満宮に至るいろんな箇所では朝掘りの筍を1盛300~500円ぐらいで販売する小屋が幾つもあります。京都乙訓地区は言わずと知れた筍の名産地。長岡天満宮の八条ケ池を渡る中央の太鼓橋道はまだ通れませんが、霧島ツツジの帯が連なる下旬になると解禁されます。数十年前此処に越して来て、余りの豪華さに圧倒されたことを思い出します。
2008.04.21
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綺麗に晴れ渡った日曜、家内と松尾神社の神幸祭を観に行きました。先ほどの特急に乗れなかったので阪急京都線桂駅では20分ほどの嵐山線待ちでホームは溢れんばかりの人だかりでした。丹の色もめでたい大鳥居を潜って間もなく肩をポンと叩かれました。其処には本日総取締り役をなさっている京鹿子例会、吟行句会でお馴染みの智之さんの笑顔がありました。祭の見所のアドヴァイスを戴いたあと、山吹の八重咲きを眩しく感じながら本殿に向かいました。本殿前で神事が終わると、最初に月読社の唐櫃が出て、その後に神輿6基(四之社・衣手社・三宮社・宗像社・櫟谷社・大宮社)が拝殿を3周した後に楼門から出ていきます。神輿の担ぎ手の中で前3人、後ろ3人が独特の飛び跳ねるような、蹴り上げるような足捌きをするのも見所の1つ。拝殿を周回する時には、白い法被を着た各神社の氏子衆が「ホイット・ホイット」と言いながら神輿を揺らし鉦を鳴らします。さて3基の神輿を目に納めたあとは、桂川の堤防を桂離宮まで先回りしました。松尾神社から上桂を経て桂離宮に到着した神輿は、土手道から桂川の岸に降り、船渡御に向かいます。神輿は、1~3トンの重量です。その神輿を船に乗せ、対岸(東)に神輿と人を運びます。神輿を乗せた船は、手漕ぎ船です。担ぎ手などの人を乗せた船はモーター付きの船です。桂川(西岸)から船に神輿を乗せます。担ぎ手が川に入り、神輿を上げている間に船が入ります。この場面が一番の見もので勇壮な神輿担ぎだなあと感心しました。桂川の向こう岸に全てが渡り終えると再び神事があり各お旅所まで運ばれます。本日の模様は、後日俳句でご披露したいと思っています。
2008.04.20
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京都の家から持ち帰って来た書の中に、昭和7年大鳳閣書房発刊(坂戸弥一郎編集)の浮世絵大家集成第2巻「清信・清倍・政信篇」がありました。定価4円50銭とは時代を感じます。鳥居家の始祖は近藤庄七と称した大坂の女形役者清元で役者兼芝居の絵看板を書いていましたが、貞享4(1687)年、一家を挙げて江戸に移り、市村座の絵看板の仕事を専業にしました。その子清信が家業を継ぎ、絵看板と役者絵とを描くようになりました。もう一人清信と称する者が居て、その子とも甥とも言われています。享保14(1729)年に没した初代の豪放さに比べ宝暦2(1752)年に没っした後者の筆致は優しいとされています。漆絵・紅摺絵を通して錦絵の創始に至る過程に於いて、大きな仕事を残した一人に奥村政信が居て、彼は画家であり版元でもありましたが、奥村屋絵草紙店を開き、雅号は文角、梅翁、芳月堂、丹鳥斉、親妙を使っていました。政信の絵は人気が有り偽物も多く出回ったので、「正名、正筆」「紅絵絵草紙卸し、赤き瓢箪目印仕候」「私方の絵を直に張、跡方もなき絵かきの名印まぎらはしく付にせるい重版彫出し候、御しらせ申し候、正名奥村絵御召可被下候以上」などと注意書きをしていました。 「なんでも鑑定所」という番組を観ていると大金をはたいて偽物や最近の作品を購入している方々が多いのですが、絵に限って言えば、筆遣い、筆の勢い、構図の在り方を知って居れば騙されることも無かろうにとか、茶碗や壺其の他の名品は、表面的な美しさよりも内面的な力が観る者の魂を揺さぶるように語りかけて来るように思っています。なお参考までにこちらなど如何?http://www.cac-net.ne.jp/~syaraku/ryakudenn.htm
2008.04.18
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パソコンに「ささやく」を入力し変換キーを押したところ、ささやく、囁く、佐々訳、笹訳、ササヤクの五通りが表わされました。鈴木棠三著「日常語語源辞典」のささやく(囁く)の項をそのまま参考にすれば、 <ないしょ話・こそこそ話・ひそひそ話・耳うちなどをいう。いずれにしても小さな声で話すこと。ササヤク・サザナミのササは小さいの意だが、形容詞の狭(さ)しの語源をかさねた語だというのは、いささか理に落ちている。小さな声で話すのも、小波の音もササと聞えたとする擬音語説の方が自然だ。 小竹・細竹をササというのも、「ササ(ちいさい)竹」の下部を省略したとするよりは、竹の枝がササで、それが小竹・細竹の名になったのだろう。万葉集巻20に「ササが葉のさやぐ霜夜に」の歌があるが、竹の葉が風に吹かれて立てる音は、ササと聞くのがいちばんぴったりしている。 なお笹という字は日本製の漢字で、竹の節をヨともいうところから、竹の下に世の字をつけたものと思われる。少しばかり・些少を意味するイササカは、イトササヤカだとする説もあるが、さてどんなものだろう。イササ(細小)に形状をいう語のカがついた形であるという説もいただけない。イは発語で、語源がササ(細小)、これに形状をいうカが付いた形とする説などが無難といえそう。> 日本語の起源を研究する仕事を選択していたなら、もっと俳句の表現が豊かになっていたのかも知れないなぁと思わないでもありませんが、これら全て人生の縁、運命、道の選択肢の結果の所以でもありますね。
2008.04.17
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四条の橋から灯が一つ見ゆる あれは二軒茶屋の灯か円山の灯か そうじゃえええそうじゃいなこの小唄を先代?吉衛門が由良之助を演じたとき、上手に謡ったとか。 此処に祇園甲部組合が年四回発行していた「ぎをん」という小冊子の第八号(昭和三十六年一月)があります。次号の紹介に「吉井勇先生」の追悼と「都をどり」を中心に・・・とありますので、祇園を愛した詩人吉井勇はこの前の年に亡くなったのでしょう。事始に際して舞妓・芸妓たちに挨拶を返して居られる四世井上八千代の姿もまだまだお若い。本号の記事に市川寿海翁が一文を寄せられていますので抜粋してみましょう。 正月、かんざしに稲穂を挿し、黒地の着物姿の返し衿について、<私の存じてゐる範囲では、返し衿は京都だけに現存してゐるらしいのですが、助六の中では揚巻が衿を返してゐますから、もともと吉原にもあった風俗かも知れません。(略)次に髷ですが、島田も東京の島田とはちがって、たぼをふっくらと作り、何とも云へぬ優しさが感じられます。(略)私は戦後しばらく、新門前の井上八千代師匠の近所に住んだことがありまして、・・・(略)私が初めて、ぎをんに参りましたのが、二十三才の時で、白川の畔の「吉松」といふお茶屋で遊んだと記憶していますが、そこで初めて見た舞妓の舞と共に、やはらかにうるほいある京ことばを聞いたことを、今もって忘れることが出来ません。(略) 亡父が残して呉れたこれらの小冊子は今ではなかなか手に入らないものでしょう。亡くなった当初は足の踏み場もないほど物だらけでしたので、一部のものはそこそこ急いで処分しましたが、しばらくは封印。五年後に後追いで母が亡くなり、一年据え置いてから全面リフォームする時は、ある程度ゆっくり時間をかけて「亡父の夢の跡」の産物を取捨選択しながら整理(まだまだ不十分)した結果、こういう宝ものを残すことが出来て良かったなと胸を撫で下ろしています。
2008.04.16
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日本古来の芸能が復活され日の目を見る事もあれば、そのまま埋もれて行く運命にありそうなものもあります。子供の頃に見ていたテレビ寄席の中で、しっくり行かないのが「どどいつ」でした。落語の考え落ちにも似た洒落。小・中学生にはぴんと来ませんでしたが、今父が残した古いテープなどを聴いていると、いかにも日本情緒たっぷり、良き時代の産物だなと思われます。朝日麦酒の小冊子「ホロニガ 第七号」の「ア・ラ・カルト」の中に「どどいつ」に触れている項があったので拝借して要約しますと、熱田は明治四十年に合併されるまで名古屋の城下町とは別個に独立した町で宮ノ宿と呼ばれ遊女も多く居たそうな(そう言えば、信長は今川義元を討つ前、熱田神宮に詣でた史実を思い起こします)。寛政年間に1軒のトリ飯屋があって、お亀なる女が潮来節に似た節回しを見事な声で歌ったそうな。その終章には「どいつじゃ、どいつじゃ」というフレーズが繰り返されていたそうな。「お亀買うやつ 頭で知れる。油つけずの二つ折れ、そいつはどいつじゃ どいつじゃ」という唄まで流行ったそうな。その「どいつじゃ」が次第に詰まって「どどいつ」となり、江戸に移入されて更に発展したそうな。(注)「油つけずの二つ折れ」とは、当時流行した髪型で、油をつけず、まげを二つ折りにしたものとのこと。
2008.04.15
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当地での句会はお蔭様で盛況で、部屋の制限人数を少し超えた状態で借りています。兼題が桜餅、沈丁花そして席題が紫木蓮。 贅沢も節約もせず桜餅 Y子さん さくら餅古里ぶりに荷をふやす Sさん 釣書を斜に見る息子(コ)や桜もち Kさん 桜餅男が食べて了ひけり Fさん 沈丁や妣の部屋椅子つくねんと K子さん 弔問のさざめく闇に沈丁花 Y子さん 沈丁花匂ふここより私道なり Y子さん 沈丁花想い出だけで生きられる Sさん 山墓の空を支えて紫木蓮 H子さん 一山の寺格は高し紫木蓮 Miさん 蔀戸が一片噛みし紫木蓮 Maさん 母里の涸井手水や沈丁花 星子 春雨や祇園の露地はこむらさき 星子
2008.04.14
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大山崎、いいえ、厳格に言えば大阪府三島郡だから山崎にある「隣保館の桜まつり」に行くついでに、山崎宗鑑句碑の傍にオープンした「五風十雨」という自家焼パンレストランにて昼食。席に着いたのは11時半頃でしたが、あっと言う間に2、3人連れの他のグループが数組来られました。わたし達夫婦の席は窓際奥の一番見晴らしの良い場所で、斜面を埋めるシャガの花や名も知らぬ緑草、天を支える大樹を見ながら焼きたてのパンとトマトベースの食べものを味わいました。今まで通ってはいけないとされて来た「聴竹居」のあるだろう道を登ってみました。山道特有の蛇行路の先、雰囲気の良い住宅地の一角に人気(ヒトケ)の無い古めかしい館がありました。幾たびか写真で見た藤井厚二の建てた「聴竹居」そのものです。壁土がかなり堕ちていて修復にはそこそこの費用がかかりそうです。5月には賃借人が代り今後一般者の見学も検討されている聴竹居をあとに、山道を下り保育園横の細道を再び登り詰めった所に隣保館がありました。本日の目的は花鉢を買うことでした。幾つかの鉢植えを買い、野村義照画伯の聖母マリア像(懐妊姿)に逢いたくて教会に入り、大阪市岡時代からの水上隣保館の歴史や野村画伯の事などを鑑賞しました。隣保館を下った椎尾神社の境内には著莪の花が満開。サントリー蒸留所には大勢の見学者が満ちていました。
2008.04.13
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昭和6年5月1日に初版が発刊され、戦後その復刻版が再発刊された郷土研究月刊誌「上方」の第5号を開けてみると、大阪落語保存会の「昔ばなし」欄があって、年々廃れ行く大阪落語に喝を入れようと清水町の北むらで九里丸の漫談、笑福亭枝鶴の「植木屋娘」、三木助の「あみ船」などが演じられ好評だったことが書かれています。また大阪唯一の講談定席が松島町(旧松島遊郭近辺)にあって、木戸銭15銭、小人5銭、火鉢5銭、敷物3銭、土瓶茶4銭と書かれた張り紙があったそうな。定員116名の札が煤けていたそうな。講談華やかなりし頃を言えば、法善寺おたふくの野村席、弥生席、生玉の玉旅軒、堀江宇和島の玉龍席、阿波橋南詰の玉英席、新町に1軒、北浜3丁目に1軒、桜橋の藤井席、空堀の沢井席、上本町2丁目の梯亭、下大和橋の端正亭、日本橋3丁目の太田亭、御霊神社に1軒、松島天神にも1軒と14席もあったそうな。大阪芸苑で最も特色あるものと言えば、聴くものでは義太夫、観るものでは「俄(にわか)」。大阪俄の起源は堺の二羽屋嘉平次という人で、二羽(にわ)と嘉を取り合わせ略したことから「俄」と呼ばれ出したそうな。明治44年11月落語日曜会百回記念に発行された大阪演題見立落語番付表によれば、大関格の「百年目」「千両みかん」、「立切せんこ」「古手買」「三枚起証」「猫の忠信」「どうらん幸助」などは解りますが、もう演じられなくなって久しいものが可なりあるように思われます。桂米朝師匠は随分掘り起こされ復活しましたが、関西人には大阪落語の方がフィーリングがぴったり。現在活躍中の落語家にも面白そうな演目を復活して欲しいと思っています。
2008.04.12
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最近テレビ番組の司会者もゲストも、或いは街頭でマイクに向かって話す言葉には敬語も無ければ丁寧語も使われて居ないように感じます。隣国の国家放送の物々しい語り口の耳障りなこと。その点日本語は語彙が多くあるので光景の描写や意見・感情の表現に不自由しないという利点があります。とは言うものの、言葉を無理に切り詰める若い人達の表現力の乏しさに哀しみを覚えませんか? 他人との付き合いの中で相手を大切にする気持ちは、尊敬語・謙譲語・丁寧語を使い分けることによって伝わることでしょう。そしてそれは自分の存在を燻し銀のように印象づける効果もあります。また敬語を使えば相手との軋轢は生じることも無さそうであるし、居心地の良い雰囲気の中に相手を置くという相乗効果もありそうです。 親からきちんと敬語を教えて貰っていない人々が教壇に立っているこんにち、教師に限らず、敬語の正しい使い方を再度身に着け、次世代の者に引き継いで行くのがわたし達の務めではないでしょうか。
2008.04.11
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毎年4月の第2水曜日は「大山崎ふるさとガイドの会」の総会が開催されます。本年も、ガイドの会旧会長の良く洗練された挨拶を皮切りに総会が粛々と行われました。来賓は町長、議会議長、教育委員長、商工会長ほか町政関係者数名。毎年これら来賓の中にインパクトのある話し方をされる方が最低1名必ずと言って良いほど居られますが、議長さんの話しっぷりはメリハリがあって巧いなぁと感心しました。来賓者にご退場願った後、議長を選出し議事に入ります。事業報告、会計報告、新役員選出、事業計画、会計予算など経て、旧幹事の挨拶(礼のみ)、新幹事の挨拶(礼と新会長の方針など)。 続いて第2部食事会に移り、アトラクションは4つの班毎にメンバー紹介。我等1班は各々が少しづつ、しかも元気に挨拶されました。入会した当時の覇気の無い1班とは雲泥の差に変っていました。2班はリボンや蝶ネクタイを色紙で拵え、歌2曲を披露されました。更に現在スポットを浴びている「メタボリック症候群」だと昨秋指摘されたF氏が野菜中心の食事療法且つ毎日1万歩の散歩の成果で町から表彰された話題も大受けしました。3班は昨年12月時点ではほぼ同数の構成数でしたが春休みの間に退会者が多くあり、また家族への介護などの理由で休会の方もあって少人数でした。メンバー各位の結束を願い、心から応援したい気持ちです。4班は長話しそうなタイプとたった一言で済ませようと工夫された方々など元来、安定感のある班ですが、生憎、新入の5期生5人が全員欠席でした。 食事会が2時半に終了。4つの班全てが4つのグループに分かれて、それぞれ第1回目の班会議を行いました。わが1班もこれからの行事や予約済みのガイドに関する担当者がスムーズに自主的に決定しました。人間一人にできることはたかが知れていますが、お互いの個性を尊重しながら協力し合って事に対処する力は無限と言って良いほど膨れ上がります。これからの1年の活動に際し、結束を固め合ったたひと時でした。
2008.04.10
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新村出さんの「出」は山形県参事と山口県令を歴任した厳父隆吉が考えたようで山が2つ、そしてのちに出さんが「重山」と号したのも其処にあるのだそうです。16歳で高等中学校に進み、同級生には柳田国男が居たというのも興味ある話です。東京帝大を優等生で卒業、「恩賜の銀時計」を貰い、東京高等師範、東京帝大助教授、京都帝大助教授、文化大学教授に。欧米出張の時にオックスフォード英語大辞典の12巻目の編纂の現場に接し、日本でも大規模な辞典作りに着手する基礎ができたようです。息子の猛にも仕事を手伝わせ膨大な資料集めに奔走。昭和21年の内閣告示によって当用漢字1850字が定められ、旧仮名づかいから現代仮名づかいに一変しました。俳句でもよく使い分けしますが、をとこ・をんな→おとこ・おんな、ゐなか→いなか、てふてふ→ちょうちょう、ぐわいこく→がいこく、りうかう→りゅうこう、たふす→たおすなどに変えられました。東京空襲や幾多の障害を越え、当時の流行語や外来語も含め、日本語の大事典「広辞苑」が親子2代で完成されました。最近また新しい言葉を採りいれた改訂版が発行されたニュースに接し、買うか買うまいかと、ときめいているおりくです。
2008.04.09
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散り初めて桜の幹の細りけり青空を覆い隠していた無数の花びらが散り初めると、齢い五十の桜大樹さえ気のせいか、スリムになっていくような気持ちになります。さくらは優しさを教えてくれますが、どうも国の政治を預かる人々は謝り方をご存知でないような・・・。「おわび申し上げなければならない」や「ばら色の夢を与えたことを謝罪しなければならない」これらに共通する部分、もし~~ならば謝ら「なければならない」という言い回しです。謝る気持ちがあるのなら、もっと素直に「~~しまして申し訳ありませんでした。ここに謹んでお詫び申し上げます」で反省の気持ちが言葉として伝わる筈であるのに・・・。感謝の言葉やお詫びの言葉は、朝夕の挨拶同様、世の中で暮していく上での必須の言葉ではないでしょうか。彼らは謝りたくないから「おわび申し上げなければならない」と逸らせているように聞こえます。散り際の潔いさくらに寄せる日本人本来のこころを施政者がないがしろにするようでは「やさしい平和日本」を世界に発信できないように思うのです。
2008.04.08
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花の雨。雨脚の強い日の自転車運転は大変面倒です。鞄はビニールの袋で覆い、レインコートで身を包み、駅への道程の半分は坂道。ブレーキを適宜効かせながら、透明の百円ビニール傘越しに・・・。 散る桜載せて屋形の川下り 八百一平凡な内容ながら語調が良いので舟足も速かろ。 伝言の足りない言葉さくら散る 我羊子最高点のついた句でした。さくら散るを試験に不合格と解した人やリレー的に伝言するのに一部伝え漏れがあったと解する人も居られたが、これは一年間楽しみに待ちわびた桜の開花が、あまりにもあっけなく散ってしまう無情を足りない言葉と表現したと解釈したいものですね。 辛夷咲く築五十年坂の家 明美百年ぐらいのしっかり建てられた家をモデルにしたい処ですが、自分の家を詠むにしても下5の坂の家→坂の上とした方が、青空に浮かぶ辛夷の花が生き生きと伝わるのでは? (改) 辛夷咲く築五十年坂の上 しまい湯や余す一刻春の月 浅子一刻をひとときと読ませていますが、余すひとときが春の月にぴったりですね。 野遊びの風を盗んでいるマリア 貴代美マリアさんがピンと来ないのですが、女神では如何でしょう? 穂高指し高山祭の街抜けて としお高山のからくり人形祭りの賑わいを摺り抜けて、穂高へと挑む。 貝寄風(カイヨセ)に委ね一周浮御堂 浅子作者は浮御堂を一周したことを詠まれたに過ぎませんが、勢いのある風に抵抗することなく浮御堂辺りまで船で廻ったと解釈したいなぁ。 さくら東風制服の児ら帰りくる 明目にされた光景を詠んだ方が鮮やかなのかも。 (改) さくら東風紺地の服に縞ズボンさて拙句は 料亭の夜桜灯りに膝あかり 星子料亭の座敷越しに夜桜を楽しんでるグループ。そこには若い女性のつるつる光る膝小僧。 手水鉢利休ねずみに沈丁花 星子これは少々無理があるのかな。手水鉢の石の色が、利休好みの緑+灰色。
2008.04.07
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事前の打ち合わせでも観音寺から山荘を経て、宝積寺から天王山への逆ルートを固執されるリーダーさん。本来は山荘→宝積寺→天王山登頂・下山→聖天・観音寺の方がエコノミックに登山と観光を楽しめるのですが・・・。JR駅前で最初の挨拶をしていた時、偶々某ボランティアグループの方々が拡声器で署名など依頼しておられるのを、そのリーダーさんがやかましいと関係者に苦情を言われた様子で、ボランティアの皆さんが謝っておられました。わたし達ボランティアは我慢する積りでしたが一方的に行動され、ボランティアさんの胸の中を思う時、残念な気持ちがしました。 観音寺は折り良く、花祭りの最中で紙製のカラフルな羽をつけた子供数名があどけない姿で舞披露していました。本殿の油皿に入ったお灯明を見ていただこうとしましたが、靴を脱ぐのが面倒との断り文句。出来るだけ動いている間を見つけてはガイドしましたが、リーダーさんはガイドの中身に興味なしの雰囲気(他のメンバーは聞きたいとされたいた様ですが)、で簡単なガイドに終始しました。観音寺は昔から桜の名所。まるで義経千本桜の舞台のような華やかさ。天王山山頂でお食事を戴き、その際、味噌汁まで振舞っていただいたのは初めての経験でした。リーダーは食事前からビールなどをちびりちびり。これからゆっくり考えますのでガイドの方どうぞお引取り下さいと・・・どうも不完全燃焼のガイドでした。やはりリーダーさんは人格が大切だなぁと勉強させていただきました。
2008.04.06
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先日家内宛の名で届いたものはセブン・イレブンさんのコーヒー原液2個入りセット。散歩の始めに近くの店に寄ってみました。ネスカフェ ドルチェグスト本体にカプセルを固定し、スイッチをONにしてカップの傍線辺りでストップすれば、簡単にコーヒーが出来上がります。その味はドトール・コーヒーさんの味そっくりでした。エスプレッソ、カフェ ルンゴ、カプチーノ、ラッテ マキアートという4つの味の原液を販売しているようです。本体器具は14800円します。まぁ現在の手作業で淹れる方法でも楽ちんですから、改めて欲しいとまでは・・・・・。 家内が先日頼んでいた眼鏡を回収しに高島屋へ。折から北海道うまいもん展。晩飯を炊かないでと携帯電話を入れたそうですが、おりくはこっくり、他の家族も携帯では無視。電話に息子がようやく応対。そこで孤軍、延々並んでカニ丼を夕飯として4つ購入。さてさてお味は・・・・→・・・美味で御座いますぅ~~♪
2008.04.05
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亡父すばると懇意にして居られた中浜菌芽さんを京都府立大勤務の頃から敬愛して居られた高橋千美さんが急逝されて半年ほど経ちましたが、この程その遺句集を贈って頂きました。隠岐出身の彼女は松江で勉強し、京都、滋賀に移って居られましたが、青春を過した穴道湖畔で永眠されました。野菊がことのほかお好きだったようで、句集の貼箱は野菊色。大山崎のガイドをしているおりくにとって後鳥羽院について語る機会もあり、隠岐を望郷され、こよなく愛された故人の句に触れることに興味深いものを感じます。 断崖を蹴つて隼巣立ちけり時に荒波打ちつける断崖の大構図が目に浮かびます。 黒牛の鼻の先より蝶たてり二つの生き物の共生の中に平和で長閑けさを感じます。 島四つかけもちといふ盆の僧いかにも鄙びた島国の生活感あふれる句です。千美さんは著名な方でしたからインターネットで検索して頂いても彼女の代表句に触れることが出来ましょう。一昨年の総会や大祭の折、にこやかに笑って居られた千美さんのお顔を偲びながら・・・。
2008.04.04
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最近の政界は大揺れに揺れ、半年先の見通しの予測も立たず、特に高齢者には黄砂の中で暮すような不安が拭いきれないように感じます。また日常茶飯事の如く殺傷事件が相次ぎ、世界に誇れる警察の力量も随分地に落ちたようにも思われます。京都新聞社が平成5年4月から12月まで155回にわたって夕刊に連載した「都のべからず物語」(三浦隆夫著、挿絵:藤原みてい)を読んでいると、江戸時代の幕府の対応は素早かったし、町民の暮らしも悪くなかったような印象を深くしました。「暗殺の横行」の件(クダリ)を読むと今の御時世にも似ているような・・・。 <幕末から明治維新にかけて京都は勤王、佐幕入り乱れて暗殺と流血の巷となった。文久3(1863)年5月の京都町触れがある。「近年、レンコク(天皇のお膝元)のもとにおいてひそかに殺傷の儀あり。お上をはばからぬもっての外の所業だ。市中にても警戒し旅籠渡世の者は怪しい者が立ち入ったら訴え出よ。隠し置き、あとで発覚したら処罰する」前年7月には九条家の家臣・島田左近。文久3年5月、姉小路公路。元治元年7月、佐久間象山。慶応3年11月、坂本龍馬、中岡慎太郎。明治2年、横井小南、大村益次郎。・・・・。>(このあとにお触書がありますが省略します)お触書を読んでいると当時の社会的背景が如実に伝わって来ます。施政者は正しい方向を向きながら、一つ一つめりはりをつけて統制して戴きたいものだなぁと思っています。
2008.04.03
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庭の東南には樹齢40余年の染井吉野がほぼ満開に近い状態ですが、その根元近くにはスノードロップ(鈴蘭水仙)が咲いています。それがトイレにも2輪ほど飾ってあって、ふと、想い出したことがあります。昭和23年か4年ごろ、妹の誕生前後だったと思われますが、小学4年生ぐらいだった長姉が「すずらん姫」の役柄で踊ることになりました。物資の乏しい中、母が幾夜か夜なべしてバレエの衣装を拵えました。薄手のギャザーの白地に緑色の縁取りを施した幾つかの「鈴蘭」紋様。母の子への愛が伝わる作品で、今もその柄を鮮明に覚えています。当時の主婦にとってお裁縫は必須科目。子供の洋服やブラウスなどは自分で作る時代でした。 値上げのラッシュは、乏しい額の年金が唯一の収入源であるお年寄りの皆さんには厳しい環境にありますが、食べもの、娯楽、被服などを戦後などと比べたら、贅沢にどっぷり浸かって居ないでもない家庭が相当多いようにも思います。贅沢を覚えた後の、生活レベルが一旦上ってしまった後の貧乏生活には辛いものがありますが、金をかけないでも楽しむことは一杯あると思われます。清貧の中でも心豊かに暮らし健康を守ることが出来れば、これに越したことはありませんね。
2008.04.02
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昨日は某国総理の対応のような、晴天、時雨を繰り返す奇妙な天候の中、大山崎ふるさとガイドの会1期生K氏の案内のもと、京都は東山の有名観光地区での見過ごしスポットを体験するウォーキングに参加してきました。総勢21名。午前10時きっかり先ずは祇園さんの四条通に面した石段からスタート。最近丹の色も鮮やかに塗り替えられたこの門のことを「籠門」と称するらしくその理由は・・・・どうか実際に門までお御足をお運び下さって、門の左、或いは右から仰ぎ見て下さい。なるほどとご納得いただけます。平家が勢力を持つ起点となったのが忠盛の豪胆さ。それを語る灯篭。足を南に向けると中村楼を少し行った処には関東武士が信仰する「秋葉山三尺坊大権現」の石碑が東興寺門前にあります。京の愛宕信仰とは対照的ですね。維新史蹟の一つ「翠紅館址」(現在は料亭)、時宗の六阿弥坊の名残り段差の大きい石段を上れば「正法寺」の境内に至り、京都市内、西山連峰を一望できます。八坂(法観寺)塔や八坂庚申堂の本来の謂れを学び、ホテル・オークラ創始者が築いた「祇園閣」。此処には信長・信忠らの墓、磯田多佳の墓、石川五右衛門の墓も。円山公園にあった「也阿弥ホテル」や「吉水温泉」を偲びつつ、安養寺まで。知恩院では折良く、法然さんの遺骨を祀る御廟の修理完成法要の最中で、勢至堂には1500名もの僧侶が遷座法要されていました。此処には詳しく書けませんが、K氏からいろんな知識を譲って戴きました。今後同じように他の方々にガイドできたらと思いました。
2008.04.01
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