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〇一中、三高、京大を経て父は住友生命に奉職、仕事と趣味と家庭を大切にした人物でした。定年を機に、京都のミッションスクールに知人の紹介にて教鞭をとりました。最初は数学、国語、英語などチャレンジしていましたが時間的に無理があって、国語専門に。70才まで延長させていただき、生徒たちからいろんなものを贈って貰いました。幾つかの手紙に共通して書かれていることは、70才に至るまで、父が一日一日を大切に生きて来た体験談や、古文の文法助詞・助動詞の活用形を歌にして暗記させたことや、昼からの眠い授業時間には、宝塚の主題歌などを歌ってあげた話や古典の面白さに納得がいったことなど。先日テレビでお馴染みの林先生が、超一流大学を卒業しながらも就職しないで自宅にこもる若者相手に納得のいくまで説明、彼らの瞳に輝きが生じたシーンと重なりました。
2026.05.23
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〇加齢と共に頭脳の劣化に拍車がかかりますが、少年の眸のように、新しいものに目を向けることが大切。テレビにくぎ付けだったり、パソコンや携帯電話に頼るばかりでは、前頭葉に涼風を送り込めません。で、一種の煌めき、直観力を活かして、テレビ番組表から適宜、選んで予約入力しておきます。 某日は畳の普及に奮闘する老舗のベテラン職人と四代目息子という畳職の希望に満ちたノンフィクション番組。屋根だけ残し、2006年にリフォームしたわが家には、仏間に6畳の畳部屋が六畳残っています。子供の頃、畳にごろ寝すれば、それは平和で至福のひととき。概して畳の部屋は、乳幼児に対しても危険なものがない安心の部屋で、丈夫に工夫された白障子も和風でよろしい。 話をテレビ番組に戻せば、四代目は祖父母が棲んでいた隣家を畳敷きの寛ぎの間として喫茶をオープン。再び増えだしたインバウンドに大受けし始めました。その勢いで、畳み半畳分を肩から下げる敷物にして、河原で寛ぐ試みや、B5程度の大きさに工夫したキャンバスとして売り出し。或いは、畳に焦げ目を入れ、見事な龍を組み合わせた壁掛けを呈示、TARTAMIというアート作品に。彼の創作意欲は無限に。畳業界の生き残り兼将来を牽引できるレベルまで高めつつあります。
2026.05.22
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〇古くは内衣、明衣、湯帷子と書いてゆかたびらと称していましたが、後年にゆかたと言うようになりました。湯気を拭いとるのに用いた湯帷子が起源とされ、延喜式に「曝布湯帷二條、浴衣一領」などと載っていることから平安期には既に用いられていたと思われます。 伊勢貞丈の記に「天子御湯を召すとき、上臈一人、典侍一人御湯めさするに、裳の衣の上に白き生絹の衣を着て御湯をあびせ奉る也、その白き生絹の衣を湯巻ともいまきともいふ也、これは湯の滴の飛びて衣を濡らすを防ぐための衣なり」とあります。初期は文字通り湯上りに用いられたものであり、江戸時代の末ごろまで、婦女は浴衣での外出は勿論、店先でさえ禁じられていました。やがて真岡木綿地の浴衣が染め上がりもよく、お洒落な浴衣が流行りだしました。 好きな人すきな浴衣で逢ふ夜店 獣庵 振り向いた訳は浴衣が同じ柄 正澄 豊満な肉そのままに見る浴衣 和樽(参考図書・「もの知り辞典」)
2026.05.21
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〇『小倉百人一首』上巻に<人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける> が採用されていますが、紀貫之の和歌について語れば大和の長谷寺の十一観音サンは平安時代の人々から熱い信仰をよせられていました。『源氏物語』でも玉鬘の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開け始め、霊験たちまち、あらたかであった訳でありました。『枕草子』にも初瀬へまいった記事があって、清少納言は椿市の粗末な宿に泊まったとか。貫之は、お寺の近くの知人の家に泊めてもらったようで、参詣のたびに泊まったというから、心安い人の家だったのでしょう。これが男性の知人なのか、否、女性だったのかというような野暮な話は致しません。貫之の母は朝廷内の舞踏音楽研究所の150人ほどの妓女の一人だったようで、彼の和歌にある語調の良さ、リズム感はそんな環境で育った所為かも知れないと一部の学説も。
2026.05.20
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〇某年某日、NHK「生活ほっとモーニング」では作曲家の遠藤実氏を招いて、作曲にからむ秘話を採り上げていました。五千曲もある遠藤氏の有名な曲と言えば、 高校三年生(舟木一夫)・困っちゃうな(山本リンダ)・からたち日記(島倉千代子)・くちなしの花(渡哲也)・すきま風(杉良太郎)・雪椿(小林幸子)・せんせい、おかあさん(森昌子)・北国の春、星影のワルツ(千昌夫)等々。遠藤氏の名刺には五線譜が何本か引いてあって、アナウンサーがその理由を尋ねると、「メロディは不意にやって来る。手控えしておかないと二度と会えない、そういうものです」と話しておられた。俳句の場合も全く同じで、すぐ手控えしないと折角生まれて呉れた秀句を失ってしまいます。俳句を詠むことも、曲を生み出すのも、絵筆を動かすことも全て感動のなせる業ですから、日々、感動を貰えるようにしておく工夫が必要です。素敵な演奏会を聴くとか、ドラマの演技などに興奮するとかいった類ですが、お金をかけなくても、わたし達の気持ちの持ち方次第で、感動させて貰うことは万とありますので、心を白紙状態にしておくことが創作の秘訣とも言えるのではないでしょうか。
2026.05.19
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〇京の木綿問屋の倅に生れた父は、鉾町界隈の育ちでしたから祇園祭の季節になると、そわそわし始めていました。祇園祭に関する資料も多々あり、小さな本でも、古書価格のないものが殆どですが、昭和32年7月発刊の『祇園会余聞』田中緑紅著(京を語る会)は丁度50ページの冊子ですが、2,200円の価値があるようです。しかし「祇園会懸装図鑑」や「京都祇園会図絵」「祇園ねりもの」の方が、はるかに立派で、カラーもあって価値をかんじるのに・・・不思議です。
2026.05.18
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〇18世紀末イギリスのワットが発明した蒸気機関が島国日本に敷設されるには二百猶余年の月日を要しました。日本人で最初に蒸気機関車に乗った人物は土佐の中浜万次郎、次いで新見豊前守ら咸臨丸の人々。鉄道敷設には陸軍を含む反対論者が多く、紆余曲折を経たのち、明治5(1872)年、新橋~横浜間で開通しました。当時の天皇は直衣に冠、供の者も直垂に烏帽子姿だったのですが、5年後、京都~神戸間の開業式に臨まれた御姿は大礼服になっていました。で、初代の京都駅は旧七条郵便局、現在のタワー・ビルの場所に、左右対称の切妻屋根、赤煉瓦造り、瀟洒な洋風2階建。明治10年の京都駅附近の地図には大阪へ向かう線路の表示や御土居が点線で描かれています。千年の昔から牛の引っ張る御所車しか見たことのない京都の民は、東寺の塔を覆い隠すほどの陸(オカ)蒸気の煙や地響き、威圧感に驚きながら「1時間40分で大阪に着くんやて」と囁きあっていたことでしょう。(参考図書「京都駅物語」荒川清彦)
2026.05.17
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〇思い返せば小学二年の夏から四年生の夏までの二年間は佐賀県佐賀市に居ました。社宅を二度変り、初めの社宅の庭には枇杷の大木があって、竹篭に三杯ほど大きな枇杷の実が獲れました。三ケ月後に移った社宅にはいろんな実の成る樹木が沢山ありました。蜜柑の木二本→これは黄色に熟す前から兄弟よじ登って食べ始めていました。桑の木→長姉(故人)が蚕を百匹ほど飼いました。脱皮する都度、食欲旺盛となり、蚕の葉をついばむ音が三畳の間から茶の間まで聞えて来ました。桑の実を食べるとアフリカ人のような口びる色になりました。柿の木→これは渋柿でしたから米びつに入れて熟したものを食べました。栗の木→わが家ではなく、お年寄り独り住いのお隣さんのものでしたが、せり出して居た為、殆どわが家で戴きました。無花果の木→世話をしなくても沢山実りました。グミの木→門の傍にあって沢山実が成りました。あの真っ赤な色あいと、素朴な甘酸っぱさが大好きでした。小さな畑にはジャガ芋やトウモロコシなども植えたので、そういう獲れたての味を、半世紀後の今も舌が覚えているのでした。
2026.05.16
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○江戸後期まで権威並びない天下の征夷大将軍として豪華な生活を送った徳川歴代の将軍たちも、ことタバコにかけては至って不自由していたようです。というのも、日光東照宮コト初代将軍家康公が治政を通じて<禁煙令>を繰り返し出し、喫煙という異国伝来の風習をガンとして認めなかったからで、いくら市中がタバコブームに湧き、江戸城大奥の女性たちでさえ煙を吸っている姿を目前にしても将軍だけは神君家康公の手前、同調するわけにはいかなかったようです。 ではこの禁を最初に破ったのは誰かと言えば、8代将軍の家重でありましたが、外聞を気遣って側近たちが将軍の喫煙をひた隠しに隠し続けた結果、一切外部には漏れなかった。 ところがその後の9代将軍の家治が根っからの愛煙家。ところ構わずタバコを吸うものだから、ついに隠しきれなくなり、家康公以来の伝統も瓦解するに至った。この間、凡そ150年間。それにしても将軍にとっては長い耐乏の禁煙期間であったことですな。(参考資料:専売公社「続・たばこたちばなし」)
2026.05.15
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〇インターネットの世界では、何処の誰とも明らかにしなまま、言葉のアクションを起すことが多いので、虚構の世界、仮想の世界と言ってしまえば、正にその通りで危険と背中合わせにあるとも言えましょう。しかしながら、いろんな方のブログを拝見していますと、たった一行ほどの言葉の中に、その人の人格が見えて来るものです。短期間に判断してしまうから、予想だにしなかった被害を被ったりするのでしょう。 日本は世界に誇れるほどの語彙の豊かな国ですから、一つのものを指すにもいろんな表現法がありますし、それを形容する言葉を織り交ぜると幾種類もの言葉の帯が連なることになります。〇 「単語」というものは「画布における絵の具」のようなもの。語彙の連なりは線や模様・形のようなもの。そして言葉は多くを語れば良いというものでなく、できるだけ簡明なものこそ、相手に伝わり易いものなのでしょうね。
2026.05.14
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○森光子さんが「放浪記」を2000回も演じられたことは周知の通りですが、彼女が言われた言葉の中に「公演が終るとセリフはすっかり忘れ、他の出し物に集中。次の放浪記には新たな気持ちで再びセリフを覚えます」というものがありました。なるほどなと思いました。 この年齢になると暗記物が苦手になりますが、ガイドに関しては新たな知識を覚えなければなりません。上前淳一郎著『読むクスリ 37巻』に「二十七士の忠臣蔵」と題してこんな内容が記されています。講談師の旭堂南海さん曰く、「講談とは所詮作り話ですが、場面ごとに人名や地名などの固有名詞を出すことで、話に真実味を持たせることができます。故に忠臣蔵を語る場合には、四十七士全ての名前を覚えなきゃなりません」『石高(収入)による順列や好きな人物の順に並べるなど、各自創意工夫をこらすのだそうな。旭堂南陵師匠は高座での度忘れへの備えとして、昔懸命に暗記した原稿用紙を懐に忍ばせておけば、御守になったとか。また兵庫・岡山・広島での高座では熱烈な赤穂義士ファンの年寄り客が多いので、最初に四十七士の名の全てを立て板に水を流す名調子でぶちかますと、やんやの喝采を受け、高座が盛り上がり後がやり易くなると言う話です。
2026.05.13
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〇テレビの娯楽番組では、豹柄のぼってりしたおばはん達をして、さも大阪の代表であるかのように定番化していますが、とんでもない誤りです。私は京生まれの大阪育ちですから、京都と同等ほどの愛着を大阪にも持っているのです。「ええ天気になって、ほんまによろしおますなあ」となり、「ええ天気になって、よかったなあ」へと変遷。香村菊雄さんの、大阪慕情「船場ものがたり」という名著には船場言葉の主なものに抑揚の符合までつけて説明してあったり、船場慕情として風景や習俗などにも及んいるので興味深い読物となっています。 商業地としての大阪の町の最初の発祥が船場であり、秀吉公によって計画的に市街が造成建設された上に、伏見、堺などからエリート商人を移住させことによって、当初は格式高い船場の言葉が自然的にできました。 豊臣滅亡後、徳川幕府は、政治の都江戸に対して、経済の都として大阪を重視し、徳川家に怨念を持つ大阪人への懐柔策として大阪復興の為の善政を施しました。 江戸幕府以前は歴史ある京の言葉が日本の標準語であったと推察され、皇居や公家へのご用達商人でもあった伏見商人の言葉に、その他の地域から来た商人達も習ったものと思われます。明治・大正時代の船場の言葉には御所の女房言葉の名残があったようです。「お日直りやして、とうないよろしござりやすなあ」とか、更に「ええお天気になりやして、ほんまによろしごわんなぁ」と変遷、香村菊雄さんの、大阪慕情『船場ものがたり』という名著には船場言葉の主なものに抑揚の符合までつけて説明してあったり、船場慕情として風景や習俗などにも及んでいるので興味深い読物となっています。
2026.05.12
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〇みなさんは祇園というところをどないに思てはるンどすやろ。何処ぞの遊郭と同じように思てはるンどすやろな。 祇園甲部は藩の取り潰しをはじめ、廃藩置県、四民平等、爵位返上、財閥解体などの憂き目に遭わはった武家や名家の子女の受け皿どしたんどす。祇園甲部で舞妓、芸妓と呼ばれるのンは、祇園甲部の舞の流儀が京舞井上流で、能、人形振り、篠塚流を基礎として、300年もの精進を重ねた近衛家のお抱え流派で、御所にも指南役として上がってました格式の高い技芸集団どすねん。舞と踊りとが根本的には違てるということを覚えておいておくやす。 舞妓の店出しの日は朝の6時から起きて、まずお風呂に入り、髪結いさんに行きますねん。朝食はお赤飯と鯛で、できるだけおトイレに行かんで済むように、水やお茶などは殆ど摂らへんのどす。髪を整え、鬢つけ油で下地を作ります。初めに練り白粉(オシロイ)の白を首から2、3度引き、次に頬、鼻筋と引き、桃色の生臙脂または砥の粉で鼻筋、眉毛をかたどり、白を重ねていきます。もう一度、生臙脂で眉を描き、その上に黒の眉墨を重ねます。さし物は、ちりかんと呼ばれる鼈甲の簪、鹿の子留、よしちょう、橘、前ざし、両ビラ(家紋入り)。衣装は下から順に、木綿のさらしの腰巻(白)、胸当て、もう一枚腰巻の長めのもの、袴、木綿の肌襦袢に襟は赤、長襦袢は綸子地赤、扇面のいろいろな花の縫い取り、襟は別になっていて縮緬の赤地に金、銀の源氏車、本衣装は綸子黒地に御所解、帯は青金、赤金の松、帯揚げは縮緬赤地家紋入り相良繍(ヌイ)。本衣装の時は帯留はせえへんのどす。持ち物は扇、手拭、紅、櫛、それに鏡台前の鏡掛け、お座布団、籠、櫛入れ、扇袋など、結構多いどっしゃろ。 うち等、祇園の舞妓は芸事に磨きを掛け教養を身につけることに精進してますよって、水揚げと言うてもお客さんと同衾するんとは違います。ステップ・アップのために儀式することどすさかい、髷を割れしのぶから「やっこ」や「おふく」に変えるンどす。祇園祭の間だけは「勝山」という髷にします。また赤地の襟から白地に替えるンどす。もう可愛いということだけで許されないことになりますねん。(参考資料:「芸妓峰子の花いくさ」岩崎峰子著<講談社>)
2026.05.11
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○解りやすいニュース解説でお馴染みの池上彰さんの『新聞勉強術』から適宜拾ってみました。一番最初に強調しておられるのは、<どの数字を使うかで、事実は正反対になる?>ということ。「吉野家、8月売上高27.8%”新定番”効果いまひとつ」(日経新聞)「吉野家の売上高 前月比7.4ポイント改善8月、来客数も」(朝日新聞)同じ日の新聞ながら、吉野家が発表した数値には、対前年同月比と対前月比のふたつがあって、日経は前者の数値を捉え、アメリカ産牛肉輸入禁止の影響の翳を強調、朝日は後者の数値を拾い、改善見込みに注力した記事になっています。できれば1つの新聞に頼らず読み比べたり、新聞を素材に、別角度から考える訓練をして欲しいとも。 また「成り行きが注目される」という表現は、業界では<ナリチュー>と言って、プロとして見通しの出来ない記事として蔑まれがちだとか、「いずれにしても」これは論旨を一貫させた記事を完成させる能力がないことを表明しているので、こんな記事は無視しも良ろしいと。 他方、「話などでわかった」とあるのは、<単に関係者の意見を聞いただけでなく、それ以外の独自取材した結果、導き出した結論>と、胸を張る記者の自負が込められているとも記しておられます。
2026.05.08
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〇青く澄み切った初夏の空、風は美味しい若葉風。12時過ぎに実家を愛馬(自転車)に跨り、目指すは大山崎。お昼どきは山荘の無料送迎バスが休憩時間で運行しませんので、そのまま愛馬で山荘門前まで。琅玕洞という立派な門を潜り胸の高鳴りを感じながら樹木に覆われた坂道を登り玄関口に到着しました。時は12時40分頃。受付にてガイドとしての名乗りをしますと、はい、お名前は伺っていますとのこと。数名で午後の部を担当すると思いきや、午前中も先輩お一人。事務長がその方を探して下さいました。腕章を引き継ぎ、いよいよ独りで館内を案内する運びと相成りました。自分で作ったメモ用紙やガイド・ブックを唯一の頼りに、ぶっつけ本番です。さりげなくお客さんに近づき、主に一階の各部屋の特徴などを説明します。私は館内を徘徊しながら、数名のお客さんに説明を始めます。しつこくならないように心がけながら、お客さんのご存知でないような事柄を説明しますと、皆さん、丁重にお礼を言って下さいました。建物の構造や壁の特殊なもの、照明器具の数々、金を含んだ窓ガラスは光に当たると夕照のように真っ赤に燃えて見えること、船室をイメージしているから壁に漁網を貼り付けてあること・・・・。美術工芸品は民芸運動の代表作ばかりで、志賀直哉・武者小路実篤ら白樺派の人々とも繋がりのあったことなども。次第に口も滑らかに回り出し、お客さんとの距離も程よい加減になって来ました。本日が初ガイドだと申しますと、頑張って下さいと優しいエールを頂戴しました。二階にも度々上がり説明をしました。豪華で繊細な建物や美術品にお客さんは満足気な様子でした。二階の喫茶室やテラスからの眺望は、正にウインザー城から眺めるティムズ河を彷彿させるかの風情。若葉の艶やかさに有意義な一日を過ごしている実感がしました。ドキドキすることもなく楽しくガイドが出来ましたので、私も満足のいく初舞台でした。今後も何千人ものお客さんに接して行ける幸を感じた一日でした。
2026.05.07
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○連休の5月4日(月)は長女一家が、柏餅と粽(白2,茶1)を土産に来て呉れました。いろんな玩具で遊んだり、庭でシャボン玉吹いたり、砂遊び・・・家屋一廻り、三廻り・・・。家内の拵えた筍ご飯や筍入りのおでん、たけのこ入りのうどん等等。一家は近くの川近くを泳ぐ鯉のぼりを観に出かけました。お土産持参の柏餅、粽、苺・キウイのお八つ。或る程度のお片付けを済ませ、にこやかに帰って行きました。
2026.05.06
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〇広告印刷を生業にして居られる方々には申し訳ない話ですが、朝刊に挟まれている艶光りする広告紙にうんざりします。ましてや金曜・土曜日の量になると不安感さえ覚えます。鼻をかむにしても日本人は紙を使うし、ホテルのトイレや飲食店のトイレにも手拭用の紙が備えてあって、備えてあれば使うのは人情なのだから、これも贅沢の限りと言えましょう。本当にこんなにふんだんに紙を使って良いのでしょうか?前世代から受け継いだ自然環境をわたし達の世代も、良い状態で継いで行くべきであるし、森林や野獣、綺麗な山河・海を次世代にバトンタッチして行く使命を持っているように思います。日本の森林の多くは経済性の無い理由から多くの山に於いては伐採されることもなく、原生林化、荒廃の一途を辿っているようです。此処に労働力を集められないのでしょうか。海に囲まれた日本なら、絶え間なく海岸に押し寄せる波の力をエネルギーに替えられないものでしょうか?宇宙に飛び出る技術を持つ時代の今日、雷のエネルギーを貯め込むことが不可能なのでしょうか?行政の在り方次第では、太陽電池の驚異的な進歩も期待できそうです。国支援の下、地方自治体ごとに大規模な農地を開墾し民営化し、其処へ溢れた労働力を集約できないものでしょうか。魚貝の養殖・漁業の体制にも目を注ぐ必要性もありましょう。 律令時代から江戸幕府・明治初期に於いては、将来を見据える大きな展望から政治を行ってきた事実があります。ご苦労とは思いますが、国の施政を担う方々には、是非とも大きな構想から論じ合い、具体的にそれらを実現化して戴きたいと願っています。
2026.05.05
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〇藤田浩著『万葉ロマン紀行』をパラパラめくり読みしていると、万葉時代の女性の機智に富んだ歌の面白さに、ついつい惹かれてしまいます。男女の愛や嫉妬心を物に例えて、言葉という道具を使っている健気な心に、その頃の太陽の照り方が、現在よりも大らかだったのかなと思ってしまいます。 「烏とふ 大をそ鳥の まさでにも 来まさぬ君を 子ろ来とぞ鳴く」・・・万葉人には烏の鳴き声がコロクと聞こえたようで、<あのカラス、ほんとに大 うそつきなんだから…貴方が来る、あなたが来る、なんて鳴くから、ずうっと待っていたのに!!>という文意らしいのです。 嫉妬への憂さ晴らしを、ヤケ食いヤケ酒、ヤケ買い、ヤケ旅行に求める現代女性よりも、可愛らしいと著者が述べていらっしゃいます。男女は惚れたり、拗ねたり、また惚れ直したり…その繰り返しで、より近しい間柄になれるのかなと思っています。
2026.05.04
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〇牛乳の歴史はエジプト、メソポタミアなど古代文明から始まったようですが、東洋文明ではインドが一番最初だったとされ、「酪」とか「醍醐」の文字が、インドの古い仏教関係の文献に出ているんだそうな。 * お釈迦様は苦行者の集まる苦行林に入って難行苦行に耐えておられましたが、なかなか悟りを開けませんでした。今度はジョウバンザという岩の上に座して心の平和を求められました。しかし、肉体が衰弱しきっていました折、ひとりの少女が一杯の醍醐を差し上げると、お釈迦様は忽ち元気を取り戻され、世の中にこんな美味なものがあったのかと驚かれたようです。 *醍醐とは乳酸飲料、今でいうヨーグルトのようなものでのちのち、大量に摂取されたお釈迦さまは腸カタルに罹られ、お亡くなり(お釈迦)になったとも?
2026.05.03
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〇当地、乙訓の筍の季に父がこの家に、野風呂先師や十七星さんらを御招きして小句会を催した時の印象が強かったことから俳句と接し、社会人になった翌年に休職するほどの病を得たのをきっかけに、数十年、俳句から遠ざかっていましたが、父の死の翌年ごろから再び句作を始めました。ここに並べあるのは、20年前、松尾大社での吟行句会等のものです。 手触りの「陰翳礼讃」春障子 バス時刻改変ありて山笑ふ 利休忌や石見半紙の句集繰る〇利休忌や国宝茶室ただ昏き 菅公の御霊呼び寄せ薄紅梅 逃げ水や善玉悪玉おもて裏 わかさぎの銀鱗美しき数珠上ぐる 沈丁や媚薬はなべて甘きもの 少女らに妖精見ゆらし草霞〇浅床のみそそぎ川の水温む〇へばりつく二村を分かつ雪解川〇春燈や井上流の指づかひ◎女神(ニョシン)像面あげ召さる桜ごち 出番待つ駕輿丁(カヨチョウ)船や桜東風 御供樽の百ほど積まれ風光る 初花や花肆(カシ)の気(ケ)もなし酒祖の宮 花肆(カシ)=遊女などいる色里・花街
2026.05.02
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〇耶馬台国の女王・卑弥呼でも判るように、古来から巫女は尊敬されて来ましたが、時代の流れの中には幾多の例外もあるようです。東大寺の大仏建立の折、はるばる宇佐八幡から杜女が祝意と神の協力を伝えに来ました。 *孝謙天皇、聖武上皇、光明皇太后は大喜びで出迎え、宇佐八幡を昇格させましたが、その数年後、八幡宮の神主が呪詛を行った罪で、杜女は日向の国へ流刑されました。どうやら杜女=禰宜尼たちは政治的な魂胆を胸底に秘めつつ奈良に赴いたと推測されるのです。 *平安期になると怪しげな巫女が横行し、博打とも関わりを持つようになったとする文献があまた散見されています。(参考:永井路子著『歴史をさわがせた女たち』)
2026.05.01
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〇世の中には綺麗に着飾った女性が居られ、またそれなりに化粧を施して居られるゆえ、街を歩いて居ても、電車に乗っても気分が華やぎます。化粧の側面を覗いて見れば、 シュニ先ずは魏志倭人伝の太古、「朱丹をもって、その身体に塗る」とあるように、古墳の埴輪には男女ともに顔面に朱が塗りこめていました。時代は下って、紫式部がお仕えした太皇太后彰子が田植えの様子をご覧になった折の早乙女と言えば、「若くきたなげなき女ども5、60人ばかりに、裳袴というもの白く着せて、白き笠ども着せて、歯ぐろめ黒らかに、紅赤こう化粧させて続けたり」とあって、これらを命じた道長の時代には化粧は日常茶飯事のことだったようだし、平安時代の女性たちの化粧は、眉と歯がポイントだったように思われます。毛抜きでげじげじ眉の手入れを怠らず、平安末期から鎌倉時代には、額の生え際と目の間に、大きく眉を描くようになっていたようです。ここ20年ほど前にも、太い眉がファッションとして流行りましたし、今では半弧の細い眉と舞台用のつけ睫毛ばかりが電車内に大勢居られますね。
2026.04.30
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〇山と渓谷社の『鳥のことわざ うそほんと』(国松俊英著)のページをパラパラ捲ってみると、80もの諺のあることに驚いてしまいます。「雀百まで踊り忘れず」、「鳩に豆鉄砲」、「梅に鶯」、「目白押し」、「烏合の衆」、「烏の行水」、「鳶に油揚げ」 「掃き溜めに鶴」、「鶴の一声」、「おしどり夫婦」、「千鳥足」、「一富士、二鷹、三なすび」、「雉も鳴かずば撃たれまい」、「閑古鳥が鳴く」など。ところで「鶴は千年、亀は万年」という言い伝えから鶴は千年も生きるのかなと誰しも思いますよね。 内田清之助の『鳥』では、セグロカモメ:36年、ダイシャクシギ:31年、イヌワシ:25年、ガン:25年、カラス:14年、ハト:10年、スズメ:8年。そして鶴は30年~60年も生きるのだから、あながち諺は間違っているとは言えません。地球の環境は年々悪化を辿っていますが、私たち人間は身近に目にすることのできる鳥たちとも仲良く暮らして行きたいものですね。
2026.04.29
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〇明治5年と言えば、東京大阪間電信開通、僧侶の妻帯・肉食・蓄髪許可、修験宗を天台・真言の2宗に帰属、新橋・横浜間鉄道開業、太陰暦から太陽暦に変更、神武天皇即位の年を以って紀元元年(因みに、この年は紀元2532年)とした年ですが、マリア・ルーズ号が奴隷を大勢積んで日本に立ち寄りました。これが国際問題となり、寄港地の日本が意見を求められ、「人道にもとる」と公言したところ、「日本には廓という奴隷組織がある」と指摘され、止む無く発したのが”開放令”、つまり「娼妓・芸妓は一切解放せよ」というお墨付きで、娼妓・芸妓側との貸借関係もパーにせよとのお達しで、島原の”角屋”が養鶏場に、”輪違屋”が糸屋に変ろうかという正に危うき土壇場に。年季奉公ではなく本人たちの自発的な申し出による養女、親戚などの形なら元のままの鑑札を認めるという<骨抜き>の法令で元の鞘に納まりました。 *これは芸妓を解放しても、困窮している田舎の暮らしが立ち行かないので、返って心中・自殺者を増やすことこそ人道に反するという植村参事の意見が罷り通ったという次第。 *更に芸妓たちが後年手に職が持てるよう教育を施す趣旨から、養蚕・製茶・染色・裁縫・算術などの教練場、つまり明治7年には「祇園女紅場」ができました。 *<参考文献:「更訂国史研究年表」黒板勝美編(岩波書店)、「鴨川」毎日新聞社編>
2026.04.28
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〇父の転勤で2年間居た佐賀市から大阪市住吉小学校に移り、4年生から苦手なローマ字を習いました。簡略字は別として、中国で使われる漢字は5万字以上、その1割を日本で通常使うなら5千字。小学校では2千字余りを教える程度ですが、2千字にもそれぞれ音があり、訓読みがあり、音の中にも漢音や呉音があるばかりでなく、日本風な使い方や読み方が夥しいので、大変難しく、その欠点を補う為に考えられたのが仮名ですが、漢字と組み合わせて読むとまるでクイズのようになります。 そこで新たに考えられたのがローマ字で、明治初頭か重用され、更に「ローマ字日本語運動」も繰り広げられました。世界共通の表現法ですから、日本語もローマ字表記で世界に知られることになりました。しかし、今ではローマ字は余り使われていませんね。
2026.04.27
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〇テレビ等で活躍しておられる天海祐希さんの凛々しい姿、光源氏の表紙の配役一覧。平成元年五月三十日、午後六時開演とのこと。私の知らない生徒ばかり。もう一つの情報は、同年6月下旬販売と銘打って、75周年記念、「宝塚歌劇舞台写真集」のカラフルな広告。定価千二百円、申込窓口は宝塚歌劇団出版課。このパンフレットの裏側には、宝塚歌劇<月組公演>デザインカード LagareCARDその他いろいろの広告が掲載されています。
2026.04.26
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〇丁度20年前は、親元であるこの家の屋根だけ残こし、改築寸前の時期でした。 ショルダー・バッグに大切な書類等を詰め込み、手提げ袋にもいろんなものを押し込み、自転車で西向日の自宅に戻りました。前日の句会の記録ノートまで西向日に移動させたので、ここ生家では句会の模様を書き込みできません。で、自宅では息子にも手伝って貰い、家内の大きな整理ダンスを床の間へ移動させ、除けた場所に生家からの荷物(衣装ケース5本、段ボール箱30個程度)を受け入れできるように模様替えしました。居間ですから、そこそこ余裕を作っておかないと、居間=倉庫では3~4カ月間、人間的な生活ができませんから・・・。それにしても、家内はの3倍以上働いてくれるので、感謝、感謝の連日でした。また工事中、ご迷惑をかけるので、並びの左右4軒、向かい側の4軒、裏手の3軒、11軒のお宅にご挨拶。
2026.04.25
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〇生協で購入した木製のベッドはダブルとシングルの中間ほどの幅があるので落ちませんが、若き日、9カ月ほど入院していた北野病院では、女の人でもベッドから落下した話がありました。であるのに、雀や小鳥たちは枝に止まってこっくり寝入っても落ちません。仮に落ちたとしても羽があるから安心です。その不思議さを話題の達人倶楽部編の『天下無双の大人の雑学』にて解明すると、鳥がもつ足指の腱の構造が独特だから。つまり鳥の腱は足の上部の筋肉とつながっていて、それを引っ張ると指が自動的に曲がる仕組みになっているから、枝に止まって寝るとき、鳥は足を曲げてうずくまるのですが、その姿勢なら自然に腱は引っ張られ、足指はしっかりと枝をつかんで離さないようにできているようです。
2026.04.24
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〇一度facebookの記事として出したようには思いますが、広島県三次工業高等学校の河本正治さんの手になる童謡唱歌集6冊。黄色地に若葉模様をこらし「一寸法師」と題した第1巻。緑地の「茶つみ」、うす青色の「浜千鳥」、紺地の「我は海の子」、赤地の「花かげ」等6冊。ほかに思い出の歌シリーズうす茶の「ああ草枕」、黄緑の「汽笛一声」。どれも大正・昭和ロマンの図柄に歌詞を綴った愛すべき本です。
2026.04.23
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〇天正十年五月廿四日 於愛宕山威徳院 ときは今あめが下しる五月哉 光秀 水上まさる庭の夏山 行祐 花落つる池の流れをせきとめて 紹巴 風に霞を吹き送るくれ 宥源 春も猶鐘のひびきや冴えぬらん 昌叱 かたしく袖は有明の霜 心前という具合に、あの歴史的な連歌会は続いていましたが、あめが→天が下なるという風に解釈されたのは、秀吉の時代に下ってからのことでした。ここに登場する紹巴は古今伝授を受けた歌人、茶人でした。或る学者は山上憶良が古今伝授を始めた歌人としていて、足利末期、戦国期になって来ると、三条西実隆、その子公条・実枝に至ると継嗣が幼かったので「返し伝授」を約束させた上で、細川藤孝(幽斎)に伝授しました。 その藤孝も丹後田辺城において敵軍(石田)に囲まれ劣勢になりましたが、弟子八条宮智仁親王の働きで、後陽成天皇の勅命によって古今伝授が保たれました。 (参考図書・筒井紘一著『茶の湯百人一首』)
2026.04.21
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〇発祥は南フランスのリヴィェラ或いはトルコなど諸説がありますが、要はどこかの酔狂な女性がオレンジジュースにウオッカを足したのが掲題のカクテル。わが国で流行って来たのは、朝鮮戦争時代。戦線で国連の将兵たちが痛飲していた影響を受けた由。カクテルの名称などに触れますと、純心を表すホワイトレディ、華麗という意味のコスモポリタン棘ある意味のマティーニお気に入りのバレンシァ振り向いて下さいのアプリコットフィズ恋する胸の痛みのカカオフィズ心の渇きを癒してを意味するモヒート無言の愛を示すマルガリータ―等々、ちょっと大人ムードですね。
2026.04.20
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〇暇な時間のつぶし方と言えば、いろいろあるのでしょうけれど、これら回文を貴方ご自身が、あれこれ考え、創作されることも、そのひとつですね。医者暮しはよくなる。泣くよ、わしらくやしい。色、白い。<こんな長い会話風の作品もあります>「言って!知りたいなア」「よそうよ・・・」「そう!私も、つい関係した度、男の子とおびただしい喧嘩、いつもしたわ・・・嘘よ、 嘘よ!ア!泣いたりして?」 「・・・つい・・・」<以上、驚きですね。短い作品もありますよ。>意外や意外。いたちの痴態。今、ここは日本だ。田圃には古古米。伊勢の母親離婚、こりゃオババの所為?いい!若い先生可愛い。遺体が眠る、胸が痛い。<こんなんもありますえ>愛しい娘(コ)、汝(ナ)は清き花、恋い慕い。 馬ジンクスにすくんじまう。魚座を追うカナダ天体観測にニクソンが居たんで、田中、右往左往。嘘つき松野氏、国会でイーカッコ。氏の妻、きつそう。 うどん噛む。無感動。 EKI E IKE (駅え行け) 「え、恋仲?」と問うも、もう届かない。起きて!ひろみ。見ろ!秀樹を。 遅いな”こだま”は。まだ来ないぞ。 踊って歓喜!夜の駅に消え、乗るよ銀河鉄道。随分ありますね。本日はここまで。
2026.04.19
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〇日本の童謡には、日本人の原風景が詠われており、現代人が失いつつあるものが幻のように見え隠れします。佐野靖著の『心に響く童謡・唱歌』は、これらを9つのジャンルに分け、紹介しています。第1節では子供の生活感覚や素朴な心情を表したものとして 春よ来い、背くらべ、アメフリ、しゃぼん玉、夕焼小焼、あの町この町、サッちゃん、お正月、うれしいひなまつり「雨降り」は現在もわが家に残る手巻き蓄音器を巻かずに速度を緩めたり、早くしたりして遊んだ思い出があって、ランダムに乱れる雰囲気を音痴さんのように真似て歌うのが得意です。第2節のファンタジー部類では 七つの子、月の沙漠、赤い靴、青い眼の人形、ペチカ、オウマ、かなりや 「月の沙漠」は、予備校時代の思い出があってて通学時に見初めた女の子を爾来密かに慕っていました。アラビアの衣裳を纏い、顔を隠した眼の大きな彼女の夢を未だに鮮明に覚えていて、ロマンティックなこの歌が大好き。「かなりや」は混声合唱で歌った曲。いずれの想い出も素敵です。
2026.04.18
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〇未だ果たせていない夢は、宝塚歌劇の脚本と主題歌等を作ること。テーマは決まっています。それは姉たちの少女文庫にあったジョルジュ・サンドの「愛の妖精」。歌とダンスと芝居をミックスさせたショーものは観客に息も出来ないほどの強烈なパワーを投げかけることが出来ます。ミ会場いっぱいに響き渡る生演奏、赤、紫、青、黄色、緑の照明の冴え、きらびやかな衣装をまとった出演者たちの全身から繰り出すダンス・・・。 裕福な農園の双子兄弟に、罵声をあげたり悪戯を繰り返す少女ファデットは、村人から「こおろぎ」だの「鬼火娘」だのと毛嫌いされていました。それが村祭りの中で、村一番の上手なダンスを披露。その夜しくしくしのび泣く少女ファデットとランドリーの夢の時間・・・。少女の神髄に触れたランドリーが勇気をもって彼女との愛を育て、双子の兄やファデットの弟と未来を見据えて頑張る物語。
2026.04.17
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〇鈴木棠三著『日本のなぞなぞ』は万葉から江戸時代までのなぞかけが掲載されています。 *これは中国の故事や古歌を知っていないと解けないようなものが多くて困りものですが、少し引用させて貰います。 *宸翰本のなぞなぞでは1)上は上にあり下は下にあり さて何という字なンでしょう? *上という字では横一の上にあって、下という字の場合には下にある → 卜 *2)嵐は山を去って軒のへんにあり *??嵐の山を去る ふむ 風という字になりますね。軒の偏とは車 → 風車 *3)竹生島(嶋)には山鳥もなし *竹生嶋の山鳥を省き、残った竹生を一つの字にすれば → 笙(楽器) *4)道風(トウフウ)が陸奥(ミチノク)紙に山という字を置く *小野道風はとうふうともみちかぜとも。道風の道を除けて、紙=上に山を置く → 嵐 *5)泉に水無うして竜帰る *泉から水を取って、竜(りう)の逆さ読みしたら? → 白瓜 *6)廿人(ニジュウニン)木に登る *草冠=廾+人 その下に木を → 茶これらはまるで とんち教室ですね♪
2026.04.16
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〇某年某日、日記を綴っていると、家内が大月さんが写っていると洋間から呼びかけました。人気番組「よ~いドン」の放映中で、なるほど、画面には元同僚の先輩、大月透さんが歌手円広志さんのインタビュウーを受られていました。 私が千本支店の頃一緒に働いて居られたのですが突然、健康上の都合から早期退職されました。実情は、奥様に相談もせず、命よりも大事な剪画に没頭したいが為のご退職だったことを、テレビ画面を通して初めて知りました。年賀状は勿論、剪画を頂戴していました。大月さんとお弟子さんの作品展には何度となく足を運びました。また古巣の銀行のロビーにも再々出品なさっています。日本剪画協会の副会長を務められ蛸ともあり、聞き手の円さんも樹木などの絵画がお好きなようで、話が盛り上がっていました。そして「よ~いドン」の人間国宝認定証を受賞されていました。
2026.04.15
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〇某日「チコちゃんに叱られる」で採り上げられた「さようなら」。さらばに直すと解り易い、さ(そのように)あらばの詰まったかたちがさらば。 対馬ではザットヤー・オイザトナー、壱岐ではオイザト、五島ではダッチョ、甑島ではダーチーというそうで、平戸では葬式の夜、或いは数日後に親戚近隣一同が金品を出し合って、仏前にご馳走を供え、遺族を慰める行事のことをイザトウと言うようです。平戸島近くの生月島では婚礼翌日の里帰りをイザトと言い、慰里、慰座祷、或いは湯茶湯などの当て字。寝聡(いざと)くあれ、ぐっすり眠ってしまってはダメよの意味合いらしいです。これら全て思い遣りの心遣いなのです。(参考図書・『日常語語源辞典』鈴木棠三著)
2026.04.14
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〇信長公の妹お市の方ほか、戦国時代の女性は政略結婚の道具として扱われ、悲劇のヒーローだったと従来思い込んでいましたが、永井路子さんと杉本苑子さんとの対談集では、お二人とも異なった見解を持って居られて、目から鱗が落ちたような気分です。女性はその家系(一族)を代表する外交官の役割を担当していた訳で、頭脳明晰な機微に敏い者でなければ務まらなかった、言わばエリートだったと言うことのようです。それが証拠に、その域に達しない姫は家臣などに与えるのが一般的なことだったようです。但し辞世は「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の夢路をさそふ郭公かな」何と冷静な心境を保ちながら亡くなられたとは、ご立派な方だったとしか言えませんね。 私事ながら私の「IMAGINATION Ⅱ」という曲の歌詞は、若干、修正する必要がありそうです。2番 戦国時代に 生まれてたら お市の方のように 幸薄き女 妹は哀れ 兄は鬼 平和の為の 生け贄 さくら花影 昨日の夢と 一に覚悟の 女を演じたかもね
2026.04.13
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〇今から21年前、母も鬼籍の人になりましたので、古びた桐箪笥を整理していました。そこから夥しい数の古手紙・ハガキが出て来ました。 昭和17年”東京市”牛込区の消印にて、早稲田大学在学中の叔父から本籍地である京都市高辻通の住所あてに、 同じく祖母からの葉書(昭和18年6月)、同じ住所へ叔父からの葉書(朝鮮の軍駐屯地から)、神戸市灘区の住所あてに母の二番目の弟からの葉書(昭和18年)、 昭和21年祖父から京大病院入院中の父あてに・・・葉書の切手代は、2銭、3銭、5銭と変化していました。それでも戦後は物価が急上昇していたのでしょう、昭和25年には2円に上っていました。 葉書の中身は、二番目の姉の命名のことや、私の弟が亡くなったことへの悔みの文言、勿論記憶にないことばかりでした。また母の父が大阪市の第三助役に抜擢された内容の大阪市政ニュース(昭和10年6月)のコピーや、この祖父の葬式の刷り物が残されていました。当時の助役の方々が葬儀委員をして下さり中馬市長や大島市長、佐藤義詮知事など、錚錚たる方々が焼香して下さる段取りが印刷されていました。このように、捨てきれないものが出てきますので、整理には慎重を期さざるを得ないのです。
2026.04.12
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『江戸の道楽』の筆者・棚橋正博氏は序の部分で江戸の歴史を簡潔に書かれ、三代将軍家光公が没した辺りから水利・交通、町づくり整い始め、江戸市民の生活にゆとりが出始めたと略記しています。各章の中から解りやすい小題を列挙すると、 大江戸キク事情、大名庭園、観梅と花見 釣り指南、釣りと女、隠居の道楽 伊能忠敬の五十からの出発、狂歌の時代 品川の凪に女の釣り小舟中には釣りとの名目で深川遊里へ行く旦那も・・・。
2026.04.11
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〇これは上前淳一郎さんの『読むクスリ37巻』から拝借しています。 ジェトロに勤めておられた豊田氏がチェコ外国投資庁に赴任早々の歓迎会の席で、 「あなたは、ビールを何メートル飲めますか?」と聞かれて仰天、量を長さで聞かれるなんて・・・。 これはきっと聞き間違え、ビールを何本?と聞かれていると思い、3本指を示されたそうな。 すると今度は相手がびっくり。「すごい!おぅい、ミスター・トヨダはビール3m飲むそうだよ」 あちらでは大ジョッキを3口で飲み干すのが流儀だそうで、その豪快なこと甚だしい。 またあちらでは、大ジョッキは底の直径が約10センチ。そこで空ジョッキが10個並ぶと1メートル飲んだという按配。今や中国、アメリカ、ブラジル、メキシコ、ロシア、ドイツ・・・。日本は11位?
2026.04.10
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〇現りそな(旧大和)銀行の千本支店(現在は元協和銀行)に配属されていた頃、輪番制だったと思われますが、支店の一泊旅行の幹事だったので、担当している観光会社に候補地を頼みました。奈良方面、新薬師寺、そして掲題の吉田寺など。実施前は、平均年齢それほどでもないのに、何故ぽっくり寺なんていう年寄りめいた観光コースなのと不評でしたが、いざ、吉田寺に入ると本堂には小座布団が碁盤の目の様に敷かれ、極小の木魚と叩き棒がそれぞれきちんと置かれていました。初めは誰もが巫山戯(ふざけ)ながら叩いていましたが、その内、一つの音になって来たのが不思議。その折を見て、住職が来られ、真打の落語家に勝るとも劣らない名調子でいろいろ語られた。要は、年寄りになれば、みんなから愛される「可愛いお年寄り」を目指して下さい。そうすれば、迷惑もかけずに「ぽっくり死ね」ますよという話でした。
2026.04.09
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〇もうかれこれ半世紀以上、庭の王女に君臨している老櫻。二度にわたる降雨にも耐え、辛うじてかなりの花びらをつけ、緑の新芽とコラボする色合いを見せています。 先日触れましたように4つ年上の姉が急逝しました。今年90歳になる義兄には、正しく晴天の霹靂と言える大事件。一昨日電話しましたが、何とか寂しさを凌いでいるようで、一安心。式典では姉に因んだグッズが展示されていましたが、絵入りの日記帳を暫くお借りすることができました。住吉中学2年4組の折、夏休みの宿題代わりに記した7月21日~8月末日の記録と挿絵。この絵が懐かしい昭和の時代に戻して呉れるようで、取り敢えずコピーしました。
2026.04.08
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〇学生時代、男声合唱クラブとして当時米国の統制下にあった沖縄へ演奏旅行した折、事前に覚えた言葉は、「わんね~ うんじゅ いっぺい しちゅん」(わたしはあなたをすごく愛しています)。これなんざぁ~もう日本語の域をはみ出しているように思いました。 杉本つとむ著『方言風土記』(雄山閣)を北から順に読んでいくと通常なら怒ってしまうような言葉が、実は褒め言葉だったりしていて興味が尽きません。父の転勤で佐賀県に2年居ましたが、関西に戻るとき中学1年の姉が親友と佐賀弁を使った劇をドーナツ版に録音しました。 あんたどこさ行きよばんた。玉屋さエレベーター見にいきよばんた。あらほんにや・・・・く~えすかぁ(=凄く怖いなど)。お陰で今でも佐賀弁は忘れんばってん。この姉は先日深夜、急逝しました。大阪へ戻った住吉中学2年4組当時の夏休みの宿題「日記」ひと月分、軽いタッチの絵が描かれて居て、才能のあった人だと思い返しました。
2026.04.07
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〇初めてタコを喰ったのは、海で遭難し海岸へ漂流した人で、空腹のあまりグロテスクなタコを掴んで口に入れたのです。それを見て驚いたのは土地の人々で、「一体あれは何や?」「あれは土地の人間とは違う、他国の人や」「たこくの人」「たこ喰う人」、段々それが訛って「タコ」になっていったそうな。その内、親しみのある存在として扱われ、「タコには足が8本あると言うけど、あれは嘘で、正確には足は6本、手が2本なんや」「本当かぁ?」「本当やとも、6本の足で泳いだり、歩いたりし、2本の手で魚や獲物を掴んで食べよんねん」「ほんなら、どれが手?どれが足?どう見分けんねん」「何でもあれへん。タコの油断を見すまして、あの頭をポンと一つ殴んねん。タコはびっくりして”あっ痛っ!”言うて慌てて両手で頭を押さえよる。それが2本の手や、すぐ分る。」嘘か本当か、面白い話でっしゃろ?(参考図書:秋田実編「ユーモア辞典」)
2026.04.06
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〇「日本の老舗」第339号にある鈴木康久氏の「京都の滝めぐり」を参考に綴ってみます。京都の滝は?と聞かれて、つい、清水寺の「音羽の滝」と答えてしまいそうですが、鈴木産大教授は先ず3枚の古い絵葉書から京の滝を紹介しておられます。鴨川源流、弘法大師再興の志明院の「飛龍の滝」(大正7~昭和8年)、更に古い明治40~昭和6年に発行された月ヶ瀬梅ケ谷の「不動之滝」それに 宮津市滝馬「金引の滝」(大正7~昭和8年)は子供も伸び伸びと楽しそう。他に大原来迎院奥の「音無滝」、清滝の「空也の滝」を補足され、100年前の江戸期なら「都名水視競相撲」番付から西岩倉三段の滝、笠置千手ケ滝、若王寺那智ノ滝、山科牛尾ノ滝、鷲峯山頭光ノ滝、同都卒ノ滝、貴船龍王ケ滝、洛北音無ノ滝、嵯峨戸難瀬ノ滝、鷹峯菩提ノ滝、月ノ輪高野ノ滝、同晩ノ滝など。最後に、南丹市美山町の「洞の滝」を挙げられ、もっと他にある筈と滝探訪を奨められています。
2026.04.05
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〇井沢元彦著『逆説の日本史』別巻3の「ニッポン三大紀行」の観光・旧跡編には日本三大古湯として有馬・道後・白浜の各温泉を挙げておられます。 有馬温泉と言えば、私の場合、小林一三→宝塚歌劇という具合に思考が進みます。勿論太閤秀吉の愛した温泉、鉄分豊富な赤錆いろの湯や炭酸煎餅、毛筆の名産地でも知られていますね。 次に道後温泉と言えば、漱石の坊ちゃん→正岡子規→俳句のメッカと進み、テレビでお馴染みの夏井いつき氏の活躍される場でもありますね。 最期に白浜温泉と言えば、夏休み→家族旅行→白浜海岸及び会社の保養所。外回りだった頃はお盆直前の週から、盆に当たる週を選んで外交担当者全員が休暇を取りました。一児の母となっている長女は浅い岩礁辺りでナマコを数匹獲っていました。自分の顔が海面に写っている先を通して、小魚や小海老などの生き物を狙っていました。
2026.04.04
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〇小学館の「西洋絵画の巨匠」シリーズの第2巻「モネ」には大山崎ふるさとガイドのメンバーとしては当然知っておかなければならないモネの情報が満載されています。 大山崎町には選挙の都度持ち出される「天下分け目の天王山を初め、千利久に因む国宝の待庵、重要文化財の多い宝積寺、秘仏の山崎聖天など。このほか、風光明媚で人気のあるアサヒビール大山崎山荘美術館は加賀正太郎の手に成る瀟洒な英国調の建物と河井寛次郎を筆頭に民芸作家たちの陶器類、 そして安藤忠男が建てた「地中の宝石箱」と言う名の美術館には、このモネを中心に印象派作家の作品が展示されています。僅か580円の本ながら印象派というネーミングになったモネの作品「印象 日の出」を初め、愛妻カミーユをモデルにした作品や一連の睡蓮の画も多々あります。 陽だまりの中、裏地が緑の洋傘を持ったロングドレスのカミーユ像、あまり見たことのない少年時代の鉛筆戯画や浮世絵に心酔した彼の作品などが挙げられています。
2026.04.03
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〇京生まれの青もん(野菜)は、聖護院だいこん、中堂寺だいこん(くきだいこん)、九条ねぎ、壬生菜、すぐき菜、伏見とうがらし、聖護院きゅうり、山科なす、加茂なす、そして堀川ごぼう。 秀吉公の死後、聚楽第も次第にさびれて、お堀へは近所の人が、芥(ごもく)をほかすようになりました。ところが或る日、気がつくと、そこに、ごんぼ(牛蒡)が生えて居たんやそうな。太うて、真ん中がほんがら(空洞)のごんぼ。地名を冠して堀川ごぼう、またの名を聚楽ごぼうともいうそうな。 堀川ごぼうは、炊いて食べます。ごんぼの合いもんは、かしわ(鶏肉)。真ん中の空洞へ、かしわを詰め込んで、長いまま煮ふくめます。輪切りにすれば見栄えもええ。 (注・ここまでは大村しげさんの文章をアレンジ) 牛蒡は縄文時代から平安期にかけて日本に伝わったようで、食用になったのは江戸時代から明治にかけての頃。きんぴらや掻き揚げや煮物が主流。ポリフェノールを多く含んでいるので健康食材としても重宝されています。 根っ子部分を野菜として食べるのは日本と朝鮮半島だけのようです。牛蒡を煮炊きした茶色の液は防臭剤として効き目があります。母が亡くなる数年前、野良猫のフンの匂い消しにこの液を使いました。
2026.04.02
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〇一冊のカタログがあって、「ベルエポックの巴里展」と題して19世紀末のフランスにおけるポスター作品を集めたもので、1982年京都は高島屋の6階ホールにて、読売新聞大阪発刊30周年を記念した催し物で、カタログ製作者は株式会社アート・ライフでした。父が残した京都新聞の切り抜きでは、<パリに集まっていた芸術家たちが、産業や興業界の要請に呼応してC・M分野に独自の美を築いたものだ。・・・いかにも爛熟した甘美の情緒と装飾性を備え、ベル・エポック(最も良き時代)の雰囲気を今に伝える。ミューシャ、グラッセ、ティリらアール・ヌーボーの画家、ポスターの父とされるシェレ、ロートレック、ドニー、ボナールらナビ派の画家、ウイレットらモンマルトルに生きた画家らの作品約90点である。> 日本にも竹久夢二を初めポスターなどに秀逸な作品を残した作家が多く居て、某年、テレビの「お宝鑑定団」では、大正ロマン漂う麦酒のポスターやその他の作品が一点當り数万円の値がついていました。
2026.04.01
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