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〇高橋治氏の『春夏秋冬 ひと歌こころ』(新潮社)の頁を繰ると北原白秋の「城ヶ島の雨」の歌詞が載せてあって、子供の頃から利休鼠はどんなネズミかなとずうっとそう思い込んで居たと書いてありました。その本を読むまでは私も全く同様で、詩全体のバランスからはみ出てしまうネズミを不思議に思って居たのでした。これは色地のことで、鼠が勝つと途轍もなく地味で、緑に寄ると派手になってしまうという粋な色地のことでした。茶系の利休茶なら着こなし易いようですが、利休鼠色はその点難しいという話です。”利休鼠”についてはネットの世界で多々紹介されていますので、検索して御覧下さい。 以前、”紅(ベニ)”本来の色について、この日記で採り上げたことがありましたが、銀色した、むしろ黒っぽい緑で、それを伸ばせば深紅色になるとのことでしたが、正に”利休鼠”は昔の紅の色に近いのかも知れません。わたし達がたしなむ俳句というものも、一つの道を究めることですから、深みというものを大切にしたいと思います。
2025.10.17
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〇詩吟との出遇いは今から凡そ四十年前、市岡支店で法人担当になった時のことで、某自動車整備会社の社長が詩吟の愛好者。前任のS君が断りもなく、私が詩吟に興味を持っていると触れ込んだことに端を発しています。止む無く仕事の終了した夕刻からその整備会社へ出向き、数名の従業員の練習される中、先ずは渓月流の詩吟を覚えました。この折はコンクールには参加する間もなく転勤。次は京都の千本支店に配属され近隣外交、法人外交を経て再び千丸から北東の地区を担当、出水東のN染工場さんに出会った縁で、新たに国風流の吟を習いました。この時は京都府のコンクールに出場、一次予選を無事通過、二次予選に際しては、自分の順番の前がご婦人で八本という高いキーで歌われたので、自分の滑り出しの音程を失い、高いキーから歌い始め、しんどくて歌いっぷりに余裕が無くなってしまい次なる段階には踏めませんでした。 定年近くなると肩叩きが始まり、大阪は阿波座のポンプ卸商に出向勤務しました。この会社にも詩吟のコーチが出向いて来られ、関心流日本興道吟詩会の詩吟を習うことになりました。流派によって節回しが異なりますので、前に覚えたメロディを払拭しないと進めない点がネックになりましたが、ついに大阪でもコンクールに出場。大阪は音程を取って歌いだせるのですが、キーの選択を誤ってしまい、今回は低めから始めましたので盛り上がりに欠け、二次に進むことができませんでした。結局、詩吟との相性は余り宜しく無いのですが、数年前、滋賀の坊村に俳句の先師ご夫妻の句碑が建立され、その除幕式後の宴席で、当該俳句をぶっつけ本番で詩吟口調で吟じました。 今も時折、風呂の中で「中庸」(元田東野)や「白帝城」(李白)、「九月十三夜陣中の作」(上杉謙信)などを吟じています。
2025.10.16
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〇70数万(現在は41万)件の結婚に対して、離婚は3分の1程度と言うのが相場のようです。婚姻関係と言うものは、夫婦相互が或る程度妥協することによって維持されて行くのでしょう。25年目の銀婚式、50年の金婚式の宝石は、その名の通り、銀と金であることは知っていますが、35年は?40年目は何だろうと考え、講談社の古い雑誌の中の「冠婚葬祭事典」から得た情報にによれば、1年目→紙婚式→紙製品 2年目→綿婚式→木綿製品3年目→革婚式→皮革製品4年目→書籍婚式→書籍類5年目→木婚式→木製品6年目→鉄婚式→鉄製品7年目→銅婚式→銅製品・手織物以下、8:電気器具、9:陶器、10年錫・アルミ製品11:鋼鉄、12:絹・麻、13:レース、14:象牙15年目→水晶婚式→クリスタル製品20年目→磁器婚式→陶磁器類30年目→真珠婚式→真珠35年目→翡翠・珊瑚婚式→翡翠、珊瑚40年目→ルビー婚式→ルビー45年目→サファイア婚式→サファイア55年目→エメラルド婚式→エメラルド60及び75年目→ダイアモンド婚式→ダイアモンド宝石の王様はやはりダイアモンド、金の上に位置するようですね。わが家は来春エメラルド婚です。
2025.10.15
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〇奈良の薬師寺に安座して在す神功皇后。意志の強そうな女丈夫はきりっとした目、しっかり伸びた眉などから推し量れます。押しも押されもせぬ恐妻の元祖、古い時代なので断言はできませんが、どうやら実在の人物。祇園祭では船鉾に鎮座まします。 しかし、三韓征伐(ここで持ち出しますと国際問題)なる武勇伝は作り話、日本書紀の創作であるという見解が今の定説。皇后の人気は鎌倉時代や江戸時代の八幡信仰と結びついて発展、明治以降は政府の侵略主義の材料にもなっていたようです。西暦250年ごろ、日本書紀に書かれたような朝鮮侵略はなく、その120年ほど後の4世紀半~5世紀にかけて、かなり根強い倭(日本)の侵略があって、そのボスを神功皇后という一偉人に仕立て上げたようです。もう一点、中国の魏志によれば、邪馬台国に卑弥呼という女王がいたと伝えられていますが、日本書紀にはこの卑弥呼こそ神功皇后としています。(新聞記事を参考に書きました)
2025.10.14
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〇林直道氏著『百人一首の世界』では百首を、縦(1~10)横(a~j)それぞれ十づつ並べた歌織物が提示され、1のaは順徳院の百敷や~2のaは文屋康秀の吹くからに~1のbは紀友則の久方の~、1の8は小野小町の花の色は~と言った具合に並べて居られます。6のa僧正遍照の天つ風~、6bの小式部の大江山~、7b安倍仲麻呂の天の原~と続き、これが天王山を暗示している説かれ、また右端3列分の2段目から6段目に大山崎・山崎の名所が配列されていると指摘されています。 友則の<久方の光のどけき>→さか+(光)+どけ=酒解神社小町の<わが身世にふるながめ>→ふるのる光孝天皇の御名と<雪はふりつつ>→ふりのりこれらが近くの瑠璃光山を匂わせているし、 1d紀貫之の<花ぞ昔の香に匂ひける>の香2d持統天皇<白たへの・・・天の香具山>→た+香3d公任の<滝の音はたへて>のた1eの行尊の<あはれと思へ山ざくら→山+ら2e三條右大臣<逢坂山のさねかづら>→や+ら3e清少納言<鳥のそら音・・・逢坂の関>と+あふ+ら+関 これらから宝積寺コト宝寺と油屋(定家の定宿)や油の神様である河陽離宮コト離宮八幡が織り込まれ、1f伊勢大輔<八重ざくらけふ九重に>や+ら2f恵慶法師<八重むぐら>や+ら3f源兼昌<かよふ千鳥・・・関守>とりのと +関> 九重は御所を指す言葉であるから離宮、関+と(戸)で摂津と山城の境目の関戸院も絵図として描かれていると言われてます。まとめますと、酒解神社、瑠璃光山(勝幡寺)、宝寺(宝積寺)、河陽離宮(離宮八幡)、関戸院(関大明神)が織られた歌織物という訳です。
2025.10.13
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この穴に1つずつ指輪等入れ、半紙で覆ってしまう。〇いつだったか?もう20年も経っています。向日市に住んで居た某日、改築前の生家(長岡京市)からいろんなグッズを持ち運びました。この年は店だしの人が例年より6組少なく、どんよりの雲空でしたが、まずまずの売れ行きでした。母の残した布製のバッグ(新品)、中ヒールの婦人靴(新品に近いもの三足)、洋服(ほぼ新品)等。懸賞で当てた阪神タイガーグッズや色紙、同じく洗剤・入浴剤やジャンパー(新品)、父の残した檜製のパズル、ダイアモンドの形に仕上げるパズル、椿の柄の湯呑、ガラス細工、小物財布、・・・子供たちはキラキラ光る装飾品や、特殊な万華鏡、ペンダント類に目を輝かせていました。2002年ワールドカップ日韓共催の記念ボールに何度も見に来ては財布を覗く少年の意気を斟酌、安い価格で値下げした時の、喜びに充ちた表情が忘れられません。また仕切られて幾つも穴のあるチョコレートの空き箱。子供用の指輪や小さなブローチ等、女の子の喜びそうなものを入れて、半紙で覆い隠し、5円でチャレンジできる当て物も、人気集中していました。平和な一日を過ごせました。
2025.10.12
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〇わが国の九九算の歴史は驚くほど古く、平安時代の九七〇年、源為憲の『口遊kutizusami』に書かれたのが最初だとか。当時の貴族の子弟教育の教科書として使われたもので、九九八十一、八九七十二、七九六十三といった具合に今とは逆順、だから九九と称したのかも知れません。 和算という算術が庶民に広がったのは、江戸時代まで下り、その功労者は京都の人。大堰川や高瀬川の開削で知られる角倉了以の叔父のひ孫にあたる吉田光由がその人で、著書は『塵劫記』。角倉というのは屋号であって、角倉一族の姓は吉田で、了以の子・素庵は土木建築事業に数学は欠かせないと思い、従兄弟の光由の研究をフォローし、共に研究した結果、一六二七年(寛永四)、実用的な『塵劫記』が誕生したと伝えられています。そろばんの使い方、九九の暗唱法、ねずみ算の例題なども鼠の絵入りで書かれているようです。右京区梅ケ畑の菖蒲谷池と、岩をくりぬいた凡そ二百メートルの水道は、光由と兄・光長の尽力によります。傾斜を数学的に考慮しているので、池の最期の一滴まで使えるとか。
2025.10.11
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〇父すばるが亡くなって、25年半ば。すばるから直接の指導は受けていませんが、遺してくれた次なる二つの作品は、写生俳句の素晴らしさを教えてくれているように思います。 露草や露をこぼして青残る すばる<露草の咲く墓なれば死んで良い 星子>という位に私も露草が大好きなのですが、何と言っても、あの清楚な青い色に心洗われる清涼感が堪りません。 掲句は、露草の花に大粒の露が溜まり、ほろりと落ちた。露の玉がレンズとなって、その青い色まで落としたかに見えたけれど、すぐさま、無色透明の水滴となって地面に吸い取られ、露草には元通りの青色が残っている。露玉がレンズの役割をして、花の青い色を拡大した刹那の妙が詠われています。 如露の水金登りくる金盞花 すばる 人は総じて花が好き。喩え猫の額ほどの庭であっても、花の種を蒔いて小花を咲かせます。金盞花という花は、太目の茎の先端に濃い橙色の花を着けます。水遣りの如露の先から数条の水糸が流れ落ちる時、細い糸を逆さまに花の金色が登って来ます。濃い金盞花の金色が伝い登って来るのです。単なる水撒きの中にも鋭い観察力以って臨むのが句詠みの宿命なのでしょう。
2025.10.10
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〇最近目につく働く女性と言えば、私鉄・市バス・タクシーの運転手、婦人警官、婦人自衛官、議員等が挙げられますが、平安時代の女性の職場環境について藤川桂介著『暮らしの歴史散歩』を参考にすれば、次のような事が言えそうです。 律令制では官僚数が総数12,506人、うち男性が11,712人、女性は6%の794人に過ぎない男社会でした。それでも藤原道長の時代には、娘彰子が宮中に入った折には40名もの女性が従い、 ライバル中宮定子にも40名の女房共が支えていた事から、時の帝、一条天皇に従う女房の数は200人、天皇の妃でない人に仕える者を考慮すれば、300人ほどの女性の働き口が別途あったとも言えそうです。 このほか例えば和泉式部のように、上流の男性貴族に仕えた女房も多くあったし、その女房に仕える女性も居たので、所謂、官僚としての女性(勤続28年、80余才で没した従三位・内侍司など)の数に匹敵し、併せて1600人ほどの女性が働いていたものと思われます。中央部では最下級位の父の許に生まれた紫式部は、同じ身分の宣孝と結婚し賢子を授かったものの、夫を早く亡くし、中宮彰子の後宮に勤め、後に上東門院に出仕して生計を立てていたし、人生探索の目的で女房となった清少納言や、社交界に出さえすれば婚活となると願った『人生探索の目的で女房となった清少納言や、社交界に出さえすれば婚活となると願った『更級日記』の作者・孝標の娘など、様々な彩の宮廷なのでした。
2025.10.09
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〇捜していたものが見つかりました。それは一通の振込金受領書。かなり薄れたものながら、昭和52(1977)年3月9日とあるから、約半世紀前のもの。受取人が”山崎山荘”、振込人が母、取扱い銀行が第一勧業銀行で、長岡支店から高槻支店への仕向。 ところでこの振込み金は何の費用かと言えば、当時、大山崎山荘で料理を提供していたレストランへの年会費か、料理の前払い金と推測します。 大山崎山荘を建てた加賀正太郎が喉頭癌で亡くなった後しばらくの間は、千代子夫人が彩月庵にて故人の菩提を弔っていましたが、やがて他人の手に売却されました。いろんな業者に所有権が移りましたが、昭和52年頃は、レストランを営む業者があったという事実を証する領収書と言えます。亡き母はチューダー王朝様式の山荘と庭園や三川合流の景色、それにこのレストランをとても気にいっていましたが、いつしか不動産会社の手に移り、やれ建売住宅にするとか、やれマンションを建てるとかいう噂に立ち向かった住民や心ある人々の尽力で、現在のような恰好、つまりアサヒビールと府、そして大山崎町が所有することで、立派な屋敷と景観を保つことが出来たのでした。一旦無くしかけたこの領収書は、高浜虚子(6枚)や星野立子、水野男爵(白川)、田中王城などの葉書と一緒に保管する事に致しました。
2025.10.08
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〇一年の中で一番過ごし易いのが麗かな秋の季節でしょうね。高校三年の夏に当地に越して来ましたが、阪急電車の車窓から見たこの辺一帯は竹薮の多い、実に田舎田舎した所でした。住宅ブームの魁、昭和三十六年にこの新興住宅地の第三期工事が完了し、当時数百万円で購入したものと思われます。どのお家も粘土質の庭土には芝生を植え、則面には石組を積み、植木で囲っただけの生まれ立てほやほやの住宅街でした。 わが家の庭には鶴石、亀石、蓬莱山をもじった石組を父自身が配置させたのはいかにも父らしい主張でした。各戸の庭木はメタセコイヤ、桜、槙など種類は均一で、どれもが背の低い状態でした。 父の愛したわが家の庭は、椿で囲まれた垣根、松や梅、その他椿を中心に楓、酔芙蓉などいろんな植木が四十数年の時の流れのままに繁茂してるのが今の姿です。 秋うららの数日をムクドリの夫婦が何度も訪れ声高らかに歌います。鵙やほかの野鳥の休憩地点として、わが家の庭、ご近所の庭にも小鳥が集まって来ています。
2025.10.07
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〇寝室の出窓から眺める天王山の稜線に、ひときわ抜きん出る大樹が見えます。むかし、ガイドの折、天王山山頂近くの酒解神社本殿前にあるこの樅(モミ)の樹は30メートルほどありますと説明していましたが、関西新空港に甚大な被害をもたらせた台風9号の威力に、今やクリスマス・ツリーとは言えない不細工な姿に。 天王山に限らず、京都へと向かう西山山系の頂きにも大きな樹木がところどころ抜きん出ているのを目にします。大山崎近辺よりも、少し離れた長岡京地区から眺めた遠景の方がより鮮明に見えるのです。もう2度と均整のとれた美しいツリーには出会えことが残念でたまりません。(画像無し)
2025.10.06
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〇古い日記を再掲載させていただきます。話題の新聞は何処へ行ったのかな? 古い新聞が出て来ました。その紙面には「京都商工業創業年代番付」と題して多くの老舗の名前が東西に分けて列挙していました。上から順に、横綱、張出横綱、大関、関脇、関脇、小結、張出小結、以下前頭です。(東方) (西方)本家尾張屋541 一久529平八茶屋429 ゑり善422呉服 *長五郎餅419 道楽378料理常信375刀剣 常久375刃物中山人形店349 鳩居堂343薫香 *神聖329清酒 安田念珠店324聖護院八ツ橋317 元禄畳316 *辻倉316傘・提灯 福田金属箔粉306半兵衛麩302 松栄堂301香松島屋本店298 食品 瓢亭295懐石美濃吉290 料理 佐竹伊兵衛254畳 *魚三楼242料理 市原平兵衛商店242箸山崎屋233仏壇 萬珠堂225陶器田中長漬物店217 メガネのタツミ216日出盛215清酒 松室タンス210 *祇園饅頭187 めんや 川島174人形紙又169 熊谷158古着西陣魚新151料理 岡野貴金属店150三法堂142仏具 西村萬仏堂141ぎぼし138吹きよせ 万市131美術道具店名の後ろの数字は平成18年度の現在に置き換えた創業年数です。東の横綱:尾張屋さんは菓子・麺類製造で寛正年間、西方の一久さんは大徳寺の精進料理屋さんで文明年間です。 *我が家が利用させて頂いている仏具店の西村萬仏堂さんも老舗格だったので、新たな気持ちになりました。しっかりご先祖さんを守って参りたいと思っています。
2025.10.05
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〇NHK紅白歌合戦について古い資料を繙けば、第1回目は今から67年前の昭和26年で、東海林太郎の「国境の町」や暁テル子の「ミネソタの卵売り」14名の歌手が出場しています。第10回では雪村いづみ・江利チエミ・美空ひばりの三人娘、新派女優の水谷良重、そして第1回レコード大賞水原弘の「黒い花びら」がニュースでした。第14~23回まで連続で美空ひばりが女性陣のトリを務めました。真摯な歌いっぷりで女心を掴んだ森進一の衝撃デビュー曲「年上の女」がヒットした年の選曲は「花と蝶」。翌年から3回連続でトリを務めました。その2年後に森昌子の「せんせい」。永遠の憧れ山口百恵は49年の25回目に「ひと夏の経験」を歌い、「夏ひらく青春」「横須賀ストーリー」「イミテーション・ゴールド」と続き、52年ピンクレッディーの「ウオンテッド」は一度限りの出演でした。山口百恵は53年トリで「プレイバックPART2」54年「しなやかに歌って」で紅白歌合戦の出場が最後になりました。女性のトリは島倉千代子、都はるみ、八代亜紀が常連さん。男性は五木ひろし、北島三郎、森進一らの激しい争いでした。また24回目ころからジュリーこと沢田研二が毎年見せ場を作ってくれました。千昌夫は3年連続して「北国の春」を選曲していました。美川憲一は19回(43年)の「釧路の夜」から連続、「はしゃぎすぎたのね」の25回以来長いブランクに入りました。 一流芸能人というのは必ずしもトップでなくてもいい、嫌われていてもよい、ずう~っとテレビ画面や舞台で活躍している人たちが本当の実力者だという見方もあります。人気商売は世渡り上手、いやはや大変な仕事ですねぇ~。
2025.10.04
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〇米国のカルフォニアにて自然発生した山火事の猛威、大変な事態が再々報道されますね。 一方、コアラの好きなユーカリの林が火事になった時には、何週間もかけて燃え続くようです。あのユーカリは油を多く含んでいるので、実は大変燃えやすい木。南半球のオーストラリアでは1~3月にかけての夏場に吹く風は威力があり、空気も乾いているので樹木同士が擦れることで自然発火します。それ故、異常乾燥期には戸外での一切の火の使用を禁じています。トータル・ファイア・バンという法律が発動され、放送されます。タバコのポイ捨てやバーベキュウ、ゴミの焼却など一切駄目で、違反したら2年の禁固刑。 ところが、火事をお蔭で、ユーカリ林に混在するアカシアは子孫を残して行くのだそうです。種子はインゲン豆のような形の固いサヤに入っていて、少々の事では種子が外へ出られないのですが、大火事のお蔭で、火に炙られて種子が弾け、地上に落下。大火事が雨や消火によって消えたあと一斉に発芽する仕組みになっているようです。一方、地下にしっかり根を張るユーカリは、幹が黒焦げになっても平気の平左で新芽を出し、燃えカスを栄養分として育ちます。(参考図書・上前淳一郎著『読むクスリ(20巻)』)
2025.10.03
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〇今も京の歓楽地として賑わっている新京極は、もともと誓願寺や金蓮寺などの境内だったところ。境内では古くから参拝客相手の茶店や見世物小屋で賑わっていたようです。 明治初期の京都大参事であった槇村正直氏が、ここに娯楽場を設け、商店を誘致し、首都時代の活気を取り戻そうとしたのが明治5年(1872)年のこと。昭和28(1953)年4月30日の京都新聞によると、新京極連合会の依頼に基き府能研が調べたアンケートの結果が纏められています。(客層の住居地) 市内70% 府外10% 府下20%(目的) 買物20数% 遊び約50% ぶら歩12% (店の応対) 京都にしては不満が多数 親切20%(時間の過し方) 映画、娯楽場、飲食店利用 60%(利用時間帯) 午後4時半~6時が最も雑踏し、時間当り 片側通行者千人に達す(印象) 低俗さを減らし、もっと上品な通りにとの意 見も少なくない。 老年層は昔の方がもっと落ち着いていたとも。アンケートの年には連合会ではアーケード建設の 準備をしていたが、 その必要性を希望する意見が圧倒的に多かっ たとも。 看板・張り出しテントや2階のスダレが埃で 黒ずんでいたことや、 道路に落ちている紙クズも印象が悪いようで した。
2025.10.02
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〇匂い、香りについて綴るなら生キャベツを咬んだとき、不意に襲うあの匂い キャベツ畑から一部頂戴して飼い、それが紋白蝶に生まれ変わるまでの独特の臭さ 早春の庭から摘んだ蕗の薹父から食べて御覧と口に含んだときのあの強烈な生草の臭い もう今は味わえない昭和二十年代のトマトは半分真っ赤枝元に近い部分は緑いろ、その生臭さ 西瓜の匂い、通り過ぎた頃に気づく木犀の香り煮込んでも薄れない菊菜の個性 愛しい二人の孫たちよ、もう既にいろんな匂いに遭遇し、これから先もいろんな匂いに出遭うだろう
2025.10.01
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〇豊田都峰「京鹿子」前主宰が大阪俳人クラブの代表の任にあった当時、その機関俳誌(年四回発刊)の話題として、シリーズ「かんさいの変った町名」と銘打って、第130号の淳和院町を皮切りに、弁慶石町、俊成町、道修町(大阪)、京の紹巴町、本塩竃町、二畳半町、黒谷町、垂水町(大阪)、蛸薬師町、兎我野町(大阪)、天使突抜町など、4年間掲載させていただきました。京都市内の街角にある木製やホーロー製の細長縦看板は明治四十三年に郵便配達員が困らないように設置したのが起りで、中でも有名なものが仁丹提供のものですが、上友禅町、或いは虎石町や八瀬かまぶろ温泉の養安町、など多種多様です。 今年、再び京鹿子が運営を任される事となり、S編集長が事務局長、小生がサブになっています。
2025.09.30
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〇金田一春彦著『ことばの歳時記』の9月16日相当頁のテーマは”大きい小さい”でした。先ずは太公望に触れ、 <よく釣り落とした魚ほど大きいなどといって「こんなでかいやつがかかったんですがねえ」と、両手をオーバーにひろげてみせる人がいるが、土地によっては大きい小さいの表現が逆になることもあるから、面白い。>三重県尾鷲の郊外の三木里では、小さい魚がかかれば、「大きんがとれたノウ」と言い、大きい魚の場合はこの逆だとか。この用法は、夏に裸同然の恰好をしている時に突然の客があった場合には、「ええ恰好しておりまして・・・」と照れますし、悪いを好いと言ったり・・・私など、学校の成績の悪い私のことを人前で、ほんとうに良く出来る子ですので・・・と母に言われた口なんです。
2025.09.28
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〇最近目につく働く女性と言えば、私鉄・市バス・タクシーの運転手、婦人警官、婦人自衛官、議員等が挙げられますが、平安時代の女性の職場環境について藤川桂介著『暮らしの歴史散歩』を参考にすれば、次のような事が言えそうです。 律令制では官僚数が総数12506人、うち男性が11712人、女性は6%の794人に過ぎない男社会でした。それでも藤原道長の時代には、娘彰子が宮中に入った折には40名もの女性が従い、 ライバル中宮定子にも40名の女房共が支えていた事から、時の帝、一条天皇に従う女房の数は200人、天皇の妃でない人に仕える者を考慮すれば、300人ほどの女性の働き口が別途あったとも言えそうです。 このほか例えば和泉式部のように、上流の男性貴族に仕えた女房も多くあったし、その女房に仕える女性も居たので、所謂、官僚としての女性(勤続28年、80余才で没した従三位・内侍司など)の数に匹敵し、併せて1600人ほどの女性が働いていたものと思われます。中央部では最下級位の父の許に生まれた紫式部は、同じ身分の宣孝と結婚し賢子を授かったものの、夫を早く亡くし、中宮彰子の後宮に勤め、後に上東門院に出仕して生計を立てていたし、人生探索の目的で女房となった清少納言や、社交界に出さえすれば婚活となると願った『更級日記』の作者・孝標の娘など、様々な彩の宮廷なのでした。
2025.09.27
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〇保護猫シリーズでテレビ画面に登場される元巨人軍のラミネス氏が2年連続で、セ・リーグの最優秀選手に選ばれた記事の切抜、2009年11月19日分。パ・リーグは誰か?日本ハム在籍のダルビッシュ選手。でもこちらは裏面記事で、<足利義昭や家康が指した将棋駒>「水無瀬駒を初公開」21日から島本町歴史文化資料館」或いは、<端正な形「優雅な筆跡魅力」>等の見出しがあって、<安土桃山時代の公家で将棋駒制作の第一人者・水無瀬兼成が作った将棋駒が、21日から・・・> <能筆家として知られる兼成は737組の将棋駒「水無瀬駒」を制作した。気品のある筆跡やツゲ製の端正な駒形が特徴だ。先が細く薄く、手前が肉厚で幅が広い形は現在の高級将棋駒のルーツとされる。そのうち53組を徳川家康が注文したほか、後陽成天皇や豊臣秀次、足利義昭からも発注があったことが兼成自筆の日記で明らかになっている。>ざっとこんな記事です。
2025.09.26
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〇某年某日、寝室兼書斎の出窓から垣根の方をみると秋の陽を受けて、時には金色に、また銀色に輝く芒がさようならの手を振るかに揺れています。金田一春彦さんの『ことばの歳時記』から拾いますと、<ススキは昔から日本では屋根を葺く材料として重用され、また炭俵などの材料としても使われた。日本人にもっとも親しまれる草の一つで、「芒」という正しい字では足りず、「薄」という中国では全く別の意味に使われる文字まで、いつの間にか当てて使っている。>とあります。また<ススキというのは元来雅語で、口頭語はカヤである。>つまり茅葺の茅、萱のことです。 子供の頃大阪は住吉・帝塚山の社宅は20坪ほどの狭い住まいでしたが、黒塀の隅っこにススキ群れ生い、梅雨には俄かに延び始め、秋の穂が済むと、丈夫な茎をチャンバラごっこの刀として隣の子供たちと遊んでいました。また茎を使って、庭の片隅に秘密基地の小屋を作ったりなどしていました。私にとってススキは少年期を想い起こすものでもあります。
2025.09.25
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〇京都の観光地としての人気スポットの一つは清水寺。大きな覚悟で以て事に当たるとき、「清水の舞台から飛び降りる」と言いますが、最初に飛び降りたのは誰でしょう? 八幡和郎さんの『京都のナゾ?意外な真実!』に依れば、それは『宇治拾遺物語』にある由。 平安時代には千手観音のお膝下で僧侶たちの読経を聞き、仮眠をとりながら一夜を過ごすと、朦朧とした意識のなかで見る夢は実現するという謂れがありました。宇治拾遺では、そんな風雅なものではなく、或る若者が数人相手に喧嘩沙汰を起し、多勢に無勢で清水寺に逃げ込みましたが、とうとう舞台に追い詰められました。 万事に窮した彼は、やおら傍らにあった蔀戸を両脇に抱えて、清水の舞台から向こうへと飛び出し、あっけにとられている追っ手を後ろ目に、しばらく滑空して首尾よく麓に着地した、日本人としては”鳥人間第1号”だったという話です。
2025.09.24
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〇新型コロナウイルス禍のため、予定表が以前より少なくなり、物置小屋や自分の書斎(兼寝室)の整頓に励んでいます。先日、背後にある桐の箪笥の隙間にあった色紙包みから、永年探していた掲題の手紙を発見しました。封筒の消印は昭和28年11月7日。住吉区帝塚山に住んで居た頃のもので、<御清祥賀し上げます。9月15日付の御手紙を手にしながら、これを書取ってもらってゐます。すぐにも御返事を差上げるつもりでゐながら2月ほど経ってしまひました。病人の無精お許し下さい。久しぶりにお手紙頂き、うれしく拝見いたしました。だんだん御栄進およろこび申上げます。御社では高田取締役を知ってゐます。終戦の頃、神戸で同じ建物に居り、支店長仲間でした。よろしくおつたへ下さい。(中略) 私の句集、お読み下さったさうでありがたう。高著な春燈頂き、謝し上げます。この程、拝読を終りました。御参考までに、私の好きな句を挙げてみます。>とあって、一句目から適宜、31句を抄出、上5と掲載んだん御栄進およろこび申上げます。で結ばれています。11月7日 草城(代筆)すばる様 「京鹿子」誌11月号は草城句集『人生の午後』の序を請け負われた野風呂先師の玉章を掲載します。お互いの道を歩むことになった野風呂師と日野草城、或いは五十嵐播水らとの交友は、その後もずっと温められていたことが文面から読み取れます。それは己よりも相手を尊び、広いこころを持つ者同士だったからでしょうね。
2025.09.23
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〇掲題の『京都ことわざ散歩』は寺町仏光寺下るの「三密堂書店」で、二千年年十二月の初版だから、亡父ではなく私が買った古書。<あかん三切れ>は身を切るだから縁起悪い?<朝観音に夕薬師>信心深い京人の普段の姿かも。<京都三条愛宕道 露の命の捨てどころ><京によきもの三つ><京はお口のべっぴん><外面如菩薩 内心如夜叉><建仁寺のだらり鐘><四神相応><醍醐味><近くて遠きもの 鞍馬のつづら折り><辻褄が合わない><鼻の下が京間><掘り出しもの><病弘法 欲稲荷><呂律が回らない>など総計百五十九ものことわざに簡単な説明とカット絵が付してあります。
2025.09.22
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〇古来から髪は女性にとって、それは命に等しいほど大切なもので、吉田兼好も「女の髪のめでたからんこそ、人のめだつべかんめれ」と徒然草に書き残しています。その頃の美容法では、黒胡麻を9度蒸し9度水にさらし、粉にしてなつめのにくとまぜて丸め、日に20粒ずつ朝夕飲めば黒髪になれるという記録もあるようです。短い髪の女性を助ける法として”おちやない”という商売つまり落ち髪はないか?と言って買い歩き、それをかもじ(加文字)つまり鬘にして売り歩く商売があったようです。源氏物語や枕草子、栄華物語にも表記されていて、髪の短い女性に鬘が利用され、表着(ウワギ)の裾から1尺2寸(呉服屋の物差し)ほど出るのが良いとされていた由。 鬘の種類、舞妓、芸妓、花魁などの髪の種類や装飾品については「日本髪の世界」を検索願います。
2025.09.21
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〇いまから10数年前の記事より雨に痛めつけられた印象の八月でした。◎正眼に構へ西瓜は峰打ちに◎犇めくは此岸(シガン)のゆゑか流燈会 八朔や烏お髪といふ色香〇山陵にをんな一人の晩夏なる 酔芙蓉あんななりして誰に逢ふ〇ぎんやんま修業僧の青つむり◎秋めくや父の遺せし星座表 台風に一歩先んじ僧ご着〇向日葵のなにはともあれプラス思考 カンナ燃ゆけふ胃カメラを呑むことに (創作上の詠み)
2025.09.20
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〇真夏日日数のトップを占めた京都ですが、今朝は涼しさを感じます。湿気が抜ければ、なお秋めくことでしょう。 子供の頃、野原で遊んでいて、頬を撫で髪を梳く風の変化には敏感だったような・・・。漢字として並べてみると、追風、逆風、風光、風景、風雅、風流、風聞、風刺、風化、風紀、風采、風貌、風情、風格・・・など、実に細やかな世界が広がります。雨や雪は目に見えますが、風は透明人間のよう・・・。枝が揺れ、葉がそよぎ、髪がなびき、紙がぱらぱらめくれたりする時に、その存在がはっきりしてきます。秋は正に、この風を感じる季節で、それが空の澄んだ色と、暮れ行く黄昏と、光の陰影などと相俟って、人の心にいろんな影響を与えます。頑張って、泣いて、笑って、怒って、打ちひしがれて、落ち込んで・・・・いろんな行い・経験を重ねていくことによって、人の風貌も風格も作られていきます。言葉は一文字違いでいろんなニュアンスの差を生み出しますが、秋の風のように、人の心の隙間から慰めていくような言葉を選んでいきたいものです。
2025.09.19
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〇朝日新聞社出版局写真部の田中真知郎、奈良国立博物館美術室の上原昭一共著『かんのんみち』は昭和51年11月30日発刊定価3000円。仏教伝来から暫くの間は、貴族の信仰の対称でした観音様が、後年、大衆からの支持が圧倒的に増え、愛されて来ています。観音菩薩は33の姿に化身して、人間の苦しみや悩みに救いの手を差し伸べて下さっています。この書を上梓するにつけ、撮影に携われた田中氏が思いを新たにされた事は、戦国乱世に、庶民たちの手で戦火の中から救い出されたという伝説の殆どが近江の国という事実。一歩足を踏み出される姿の観音菩薩、滑らかなお姿に、私たちは癒されますね。でも、渡岸寺の十一面観音さまは、御名のとおり優面から怒面、真裏の気味悪い「大笑」面もあり、その点ご留意下さい。本書には103体もの様々な観音様が紹介されています。
2025.09.18
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〇 真っ白な大きな画布に 先ず最初に僕が一本の樹木を描いた それは大好きなイチョウの古木 黄緑色に陽が射し込んで 金粉を散りばめているような 若葉が天使を呼び寄せているような そんな樹木を描いたんだ それが二本になり三本になり 何時の間にか ハイネの詩に出てくるような 写実的な西洋絵画のような 森を形づくっていた 或る日突然 一匹の白兎の絵が描き加えられて きっと君が描いたんだね 僕は嬉しくなって 画布の左に白樺の樹を植えた すると君が青く澄み渡った 楕円形の湖を描き入れた 僕の手で右上方に太陽を輝かせると 湖畔には優しい小花をいっぱい 赤、黄、紫、黄色、ピンクの彩りを 君が描き入れた 僕はすかさず湖面に つの字の首をした白鳥を浮かばせた すると画布の左方から右へと 七色の虹の架け橋を君が描き足した こうして僕たちの風景画が 誕生した
2025.09.17
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〇土岐信吉著『西行花明り』(河出書房新社)。人生の大半を旅で過ごした西行の、若き時代の激しい恋を王朝絵巻のような、それでいて、武家政治の黎明をも匂わせながら綴ってあります。白河法皇縁りの女院との大人の愛を絢爛たる文章で読者を惹き込んでしまいます。 元来、日本には一般に地下文庫を呼ばれる艶本がありますが、一流の大家が名を伏せ(別名)て、粋な読み物を遺しているのも事実です。流行作家になる以前に生活の為、こう言ったジャンルの作品を書いていた作家も多々あるようです。そりゃ~、大家の手になる作品は、古典と等しく、流麗な美文、格調の高い美文で綴られていて、読者をして恍惚の世界へと誘うのです。
2025.09.16
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〇かぐや姫がいよいよ天に昇ろうとする時、その置き土産として残したのが「不死の薬」で、かぐや姫自身も壺の液体をひと舐めしています。お世話になったお爺さん、お婆さんにも舐めさせてあげれば良いのに、天人の命令で止む無く帝に薬を渡しています。京楽滋賀大教授の説明をお借りすると、<帝(天皇)と「不死の薬」というと、史料に出てくる薬が思い起こされます。それは淳和天皇(768~840)や仁明天皇(810~850)が飲んだ「金液丹」です。これはヒ素や水銀を含むもので、現代人の感覚では劇薬です。が、当時は、不老不死をもたらす仙薬だと考えられていました。体の弱かった仁明は、淳和に勧められて飲み始めた、といいます。>医者の制止を振り切ってでも淳和帝は服用され、病気を平癒されましたが、その副作用に苦しまれたとも。淳和帝、仁明帝ともに長生きではありませんでしたので、「金液丹」は不老不死の妙薬ではなかったのではと思われます。 さてかぐや姫の残した「不死の薬」は燃やされてしまったようです。嗚呼、勿体な~。 (参考文献・京都新聞掲載の京楽真帆子のエッセー「竹取物語の世界」)
2025.09.15
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〇学生時代から家族ぐるみで宝塚歌劇を愛して来た父の影響で、長姉は高校生の折に「宝塚ふぁんコンテスト」というラジオ番組に出ました。風邪をひいていたのに歌は上々、初めて使われた狂言劇も上手く対応できて、黄金賞を貰いました。 父は生命保険会社を定年で退社、折よく昔の劇団員の紹介で京のノートルダム女学院中高等学校の教鞭をとらせて戴きました。その教え子3人同時に宝塚音楽学校に入学、74期生として晴れの初舞台に立たれました。 成績1番の加茂うららさん(雪組)、月組の花園ゆかりさん、そして花組の嵯峨野ゆりさん。3人とも娘役。父はノートルダム女学院のお母さんPTAに俳句の指導をしていました。2度目の発癌で病床に居た父に、加茂うららさんには、遥々アメリカから実家経由で見舞いに来て戴きました。その美しさったら、オーラー輝く御姿でした。
2025.09.14
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〇何某日図書館から借出した毎日新聞社編「タカラヅカ」の初めの方に、劇画のルーツはタカラヅカと明記してありました。 実はこうなんです。大正末期生まれの漫画家・手塚治虫は宝塚育ち。しかも隣人はと言えば、宝塚の象徴とも言える天津乙女その人で、「オサムちゃん」と呼ばれ可愛がられていたそうな。昭和一桁の「パリゼット」「花詩集」のレビュー全盛時代にオサム少年は宝塚風の美意識を育まれたのでしょう。日本敗戦時、彼の纏めた原稿は十五編、三千枚にも及んでいたようです。治虫は歌劇編集部にも籍を置いた時期もあり、「リボンの騎士」の主人公、男装の麗人・サファイア王女のモデルは淡島千景と言われています。 後年、池田理代子作の「ベルサイユの薔薇」の舞台化によって、宝塚が再び脚光を浴びる契機になったことは不思議な縁と言えましょう。
2025.09.13
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〇堀田善衛著「定家明月記私抄」続編(新潮社)の頁を繰っていると、現代にも通じる様々な出来事が網羅されていて、興味が尽きません。以前には歯の治療の件りを述べたのですが、続いてこんな奇妙な記述がありました。建暦2(1212)年、<吉富広宿傀儡ノ輩ト、忠弘ノ下人等闘諍ノ由、夜前、使ノ者来タリテ告グト云々。(略)・・・今日、吉富広宿ノ傀儡等来タリテ訴訟ヲ成ス。(10月5日)・・・子細ヲ含メ、下向セシム。・・・明らかに身分が上である定家が、彼らの訴訟に下手から対応しお引取り願ったという。しかも、筋の通らぬ話であるけれど、一歩譲って張り合わなかったようです。その背景には、後白河院の時代から天皇家が白拍子や傀儡師の芸に惚れ込まれ、こういう下層の芸人たちに身分保証を与えたり、全国出入り自由の証を与えて居られたことや、公卿たちの中にも遊女・舞女・白拍子を母にしている人が多くなり、これらの女性を母とする皇子もあったようなのです。天皇の権威が落ちてゆくに従い、これらの遊芸集団が賎民視されて来たようです。そして定家を可愛がって下さった後鳥羽院も、白拍子や猿楽の人々を優待していて仮設の舞台などを設営させていました。この贅沢さには定家は上皇との根本的な価値観の違いを感じていたようです。
2025.09.12
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〇某年某月、祇園町常連O氏のお手配にて、「湖藤美」の二階座敷に、昨年末に舞妓から芸妓になられた小愛さんのお酌を頂きました。まるで地毛のような自然な鬘の御髪は黒く、艶やかに。程良い化粧のお顔には、どんぐり瞳の愛らしい姐さんでした。芸妓さんを招いてのお茶屋遊びは初めての経験。贅を尽くしたお品の数々。ビールも美味し!冷酒も格別。小愛さんは勝気な中に、頭の回転も素晴らしく、現代っ子の健康な色香の中に、将来の良い人(白馬の王子)を夢見る乙女。 私たちが俳句を嗜むと聞いて大喜び。実は彼女も数人で句を楽しむ文学芸妓なのでした。毎月、彼女が季題を決め、寸暇を割いて”今日的な句”を見せ合っているそうな。小愛ちゃんへの献句は 来ぬ人に朝の座敷のいとど哉by星子いとどはコオロギのこと。来ぬのコ 朝のア いとどのイ つまり小愛さんの名を織り込んで詠みました。小愛姐さんはふところに挿していた女物の扇子を取り出し、此処に書いておくれやすとのたまいました。さて彼女も一句ひねり出し、 弾む下駄君の姿に良夜かなかわゆい娘心を詠いこみました。愉しい宴が終わる前に、私は歌舞伎の声色を遣いました。 <ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ、いやさお富、久ぶりだなあ・・・しがねえ恋の情が仇・・・死んだとお富たあ お釈迦様でも気がつくめぇ、よくもお主は達者で居た>昔春日八郎が歌った流行歌でお馴染みの源氏店 きられ輿三の「輿話情浮名横櫛」の一節です。小愛姐さんのアンコールに応えて、「三人吉三廓初買」の<月も朧に白魚の、かがりも霞む春の空、・・・>も小愛さんと一緒に披露しました。お座敷遊びは、周りの同胞を持ち上げる気配りと、好かれる客像を胸に、座を盛り上げることが大切なのかも知れませんね。
2025.09.11
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〇中世から戦国期の女性の名前についてひとこと触れますと、太閤秀吉の正妻・北政所の幼名は”ねね”、ライバルの淀君のそれは”ちゃちゃ”。足利義政時代に流行ったをさな名が”ちゃちゃ”で、当時を記した『大上臈御名之事』に拠れば、貴族層のをさな名として人気のあった名が、あちゃ、かか、よよ、ちゃちゃなどが挙げてあります。やがてそれらが武家にも広がったようです。”ねね”も割りと流行った幼名で、秀吉の”ねね”宛の手紙には”おね””ね文字””おねね”等があります。北政所として出す公的な文書には貴人の正妻らしく”吉子”と記していたようですが、ねね自身が近親者に与えた手紙に”ね”と一字だけ記されたものがありますが、これは遠慮の要らない相手への用法だったとか。
2025.09.10
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〇いつまでも衰えを見せない猛暑ですが、健気にも幽かに届く虫の声。平安時代の虫の名前と今とでは、逆転しているものがあります。リンリンと鳴く方を松虫と言っていたものが、唱歌「虫のこえ」を参考にすれば”あれ松虫が鳴いている チンチロチンチロチンチロリン”と変っています。またキリギリスとコオロギも同様に、後京極摂政太政大臣・藤原良経公の”きりぎりす鳴くや霜夜のさ筵に 衣かたしきひとりかも寝む”こおろぎが軒近く鳴いている霜夜の寒い筵の上でわたしは自分の衣だけ敷いて、たった独りで寝るのであろうか、わびしいことだなぁ。これにヒントを得て詠んでみました。 良経卿かた敷の夜のぎすのこゑ さて、第3日曜23日は、御所に隣接する梨木神社にて”萩まつり”句会が開催されます。既に多くの短冊が本部に寄せられています。神社の方方で、萩に吊り下げていただきます。その優雅な日本の香りをお確かめ下さい。お待ちしております。
2025.09.09
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〇昨日は本部の例会(句会)を不在投句にして、関西大学グリークラブOBで構成される千里エコーの創団50周年記念、第13回定期演奏会(於・いずみホール)に臨みました。821席、そしてパイプオルガン設備をようする素敵な会場がほぼ満席状態でした。第一ステージ 「草野心平の詩から・第三」 原子、地球、猛烈な天、宇宙線驟雨のなかで、 夜の海宇宙の中の小さな星・地球、そこに生きる人間たちの不可思議を、見事なハーモニーで歌いあげた。第二ステージ 「信長貴富作品集~うた・ウタ・ 歌~」 うた、父の唄、ボクはウタ、Hab'Sonne im Herzen、くちびるに歌を指揮者、伴奏者、そしてコーラスが三位一体の塊となって聴衆の一人一人に迫り、抱擁してくれた素晴らしい演奏。千里エコーを引率して戴いた塔筋氏の完成に近いソロも拝聴できて大満足。第三ステージ 中国短期大学フラウェンコールOG 合唱団フラウェンコールシャマントゥ 「女性合唱曲集「うたを うたうとき」 第21回、第22回全日本合唱コンクールにて連続一位の偉業を遂げられた合唱団のOGたち。当時の華やかさと美声には届かなかったけれど、数人の美声が快く耳もとに。 第四ステージ 本山秀毅客演指揮 「今でも…ローセキは魔法の杖」柴野利彦・詩、遠藤雅夫・曲 溢れる泉は日々を巡りほか5つの詩。 音域の幅、ハーモニーの妙を織り込んだ作品でしたが、本山先生との練習がもう少したっぷりあったとしたら、素晴らしいステージになっていた筈。日進月歩という熟語がありますが、私が参加していた当時から数段違いの実力を蓄えたチームになっておられ、団員皆様の意気込みと一つの芸術品を成し遂げるという情熱、真剣味、心の和が脈々と伝わりました。その証拠は、威風堂々の入・退場に惜しみなく注がれた会場でも大拍手。
2025.09.08
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〇台風下にあっても、日本全土のファンたちが掌に汗握りながら応援した世界バレー選手権。ベスト4に上り詰め、メダル確定、決勝進出という大看板にチャレンジしました。キャプテンの石川真佑さんのリーダーシップ、要所要所の活躍は無論の事、捨て身でボールを拾い続ける児島満菜美さん、驚愕の活躍を見せた島村春世さんキレのいいスパイクやブロックを決めながら平然とした表情の宮部藍梨さん、名刀に切れ味と敵陣の穴を即座に発見対応するバンコク会場での人気を攫った和田由紀子さん、大切な戦力の一人という事を認識させるに十分な活躍を見せた佐藤淑乃さん、将来を託せる北窓、秋本両選手。そして大事な場面でサーブポイントを決めた山田二千華さんの晴れやかな表情、一生彼女の宝物として輝くことでしょう。
2025.09.07
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〇三十五歳にして辞世の一首を残した吉川経家。 君が名をあだになさじと思ふゆゑ 末の世までと残し置くかな中国攻めの大軍二万余に包囲され、鳥取城主山名豊国は前年九月に投降していたものの、秀吉が一旦姫路に下ったすきに、残った家臣らが毛利方へ新たな城将派遣を願い、やってきたのが経家で、標高二六四米の久松山の要害を頼りに籠城。しかし、秀吉方が法外も無い高値で米を購入、城内には兵糧米が底をつき始めていた。城内の兵千四百余のうち、半分近くが逃げ込んできた農民、兵力にもならず・・・。 当初定期的に柵近くの草木を取らせていたが、それもなくなってしまうと、牛馬、それが尽きると・・・恐ろしい光景が。二百日間の飢餓地獄は漸く幕を閉じることになった。戦国史上、最も悲惨な戦であったと思われる。
2025.09.06
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〇昭和21年からスタートした『サザエさん』(全68巻・別冊3巻)は途中から愛読し始めました。最初の舞台が福岡になっているのは、佐賀県生れの長谷川町子さんが幼年、青春時代を福岡で過された影響なのでしょう。 磯野家のトイレは71冊のうち、11カット登場し、古い家に4つ、新しい家に3カ所もあります。推定によれば、波平54歳、フネ48歳、サザエ27歳で、フネさんは後妻だったと思われるなど、この本では肌理細やかに調査しています。独身時代のサザエは典型的なアプレ・ゲール(放恣・退廃主義)、男女同権を主張していたものの、男っ気は皆無。波平の趣味は釣り、囲碁、清元、盆栽、骨董。フネは長谷川一夫のファンで時代劇映画大好き。 サザエは推理小説、カツオは俳句・短歌、ワカメは算術には弱いけれど、童話を書くことに秀でています。戦後の貧しい暮らしから次第に豊かな日本へと成長してゆく世相を会話や服装、調度品などから読み取れるのがサザエさんの魅力でしょうか。 波平は出世主義でなく、人間として心豊かに暮らすことを重んじた人物像として見えますが、ステテコ姿の、あの禿げ茶鬢と亡父とが、私の中では重なりあうのです。 (参考書・東京サザエさん学会編『磯野家の謎 ”サザエさん”に隠された69の驚き』)
2025.09.05
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〇最近は矢鱈に人身事故が多くって、時間内に目的地に着けるかとやきもきすることも。良い政治体制下にあるとは言い切れないですね。さて田辺聖子さんの『古川柳おちぼひろい』の心中から拾ってみると、 心中はほめてやるのが手向なり失敗すれば大ごと!三日間、日本橋の橋詰に生き恥を晒され、生き延びても元の市民社会に戻れませんでした。 死にきつて嬉しさうなる顔二つ「どうだえ、あの嬉しそうな顔は」「二人とも、あの世では一つ蓮に仲良く並んで夫婦だわな。かわいそうに」「なんまいだぶ、なんまいだぶ。成仏しろよ」「なあに死んで花実が咲くものか、というじゃねえか。若い盛りに死ぬことはねえ」等と野次馬が騒いでいる所へ、検死の役人登場。 歌舞伎では「曽根崎心中」。これは大阪旧歌舞伎座で当時の鴈治郎親子を何度も観ました。「冥途の飛脚」は俗に言う封印切。花魁や女郎大勢居る中で、御十両の封印を切り、畳へ散りばめるシーンは、子供には印象的でした。他に「心中天網島」等。
2025.09.04
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〇1974年12月発刊の季刊誌「銀花」(第20号)には「らんぷの美」という特集が載せられています。 いつも睨むランプに飽きて三日ばかり 蝋燭の火にしたしめるかな 石川啄木観光地での土産物屋のちゃちなランプと違って、明治の御世を照らしてくれたランプには言葉で表わせない風情というか重みがありますね。 そこにはあらゆる才知と努力が塗り籠められた燈火の道具。ライオンが飛びつこうとしているシルエットの赤地のランプうす青地に薄い白地の横線の並んだランプ金魚鉢そっくりの形をしたランプ黄土色地に龍や花模様のランプ昔懐かしい電灯の笠を逆さにしたような緑美しいランプ白地に草模様を彫り込んだランプ切れ込みがあって所々隙間のある華奢なランプ実にいろんなランプがあるものですね。秋の夜長はランプで演出するのも一考かと・・・・。
2025.09.03
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〇いつか果たしてみようと思いながら、何らかの事情で未遂のまま繰越していることが多々ありますね。10数年前には、一つ果たせたことがありました。50年ぶりに佐賀市を訪れ、幼年期の1年半過した家に辿り着けたことでした。一方、果たせそうで果たせていないのが”風の盆”の見物です。高橋治氏の小説と亡父すばるの俳句によって、伝統的な田舎の盆行事、影絵のような男舞い・女舞い、空の暗さと奔流する水音・・・などが既に脳裏にインプットされているのですが。 風誘ふ手振りとも見ゆ風の盆 風の盆権現立ちの男振り 風の盆反り身で決まる女振り 暮れんとす空濃く濃く濃く風の盆 天界に風の盆あり戻りバス平成5年にすばるが詠んだ”風の盆”30数句の一部です。
2025.09.02
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〇某日、物置小屋から手巻き蓄音機を運び入れ、SP盤のレコードをかけてみました。少々雑音のあること、ボリュームを落とせない難点がありますが、なかなか古風で芳しい。泪の乾杯:竹山逸郎、 港の見える丘:平野愛子、すずらんの咲く頃:奈良光枝、 東京の夜:藤山一郎・渡邉はま子昔の流行歌手は音楽学校でみっちり勉強し、基本を積んできた人がなるべくして歌手になったのだから一定のレベルがあります。カラオケはエコーという魔法を使いますので、アラが目立たないだけで、これらの歌手とは比較できません。次に「唄の旅」と題したレコード盤はお江戸日本橋:勝太郎、 箱根八里:福村貴美子、伊勢音頭:筆香、 安木節:市丸関の五本松:筆香、 福知山音頭:小二三金毘羅船々:筆香、 ぶらぶら節:福村貴美子串本節:市丸小学5年生の頃、家にテレビが初めて置かれた年の紅白歌合戦では勝太郎姐さんも、市丸姐さんもお元気でした。このレコードは戦前か戦後すぐに録音されたものだから、お二人とも迫力満点の歌いっぷりです。小二三姐さんは小唄では日本を代表する名人だったのでしょう。さらにパワーのある歌でした。このように考えますと、録音状態が充分とは言えないけれど、昔の人々の生き様や息吹が、そっくり伝わってきます。SPレコードは重いので保存が大変ですが、残しておきたいなと思いました。
2025.09.01
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〇昔作った曲の歌詞を綴っておきます。1)純で素直で 可愛い娘(コ)だと そっと両手で 包んでくれた 歳は離れて いるけれど 深い優しさ 持った人 もう一度会いたい 大人の私 2)君は真面目な 男に惚れろ そっと諭して 目を見つめてた あとは黙って 肩たたく 渋い魅力を 持った人 今なら抱いてよ 大人の私 3)酒も煙草も 覚えた私 きっと会わぬが 良いとは思う だけどあげたい 捧げたい 惚れる情けを 知ったから 出湯に根づいた 大人の私譜面が残っていないので、なす術もありませんが、ギター伴奏曲。ぼんやりイメージが残っています。作品としては製作年度が新しい部類で、平成11年頃でしょうか。
2025.08.31
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〇京の町家で生まれた私ですが、町家の暮らしを知りません。余りにも幼かったので記憶にないのです。しかし、父方の祖父・祖母に会いに行く時は、京都銀行本店真裏にある借家まで出向き、春休み、夏休み、冬休みには寝泊りしました。借家は心なしか右側に傾いているように見えましたが、造りそのものは頑丈に出来ていてビクともしません。道路に面する部屋は”店”と言って、木綿製品や見本帳を並べたり、客の応対をする場所でしたが、戦時中に廃業していましたので、今は祖父夫婦の居間でした。奥には二階へ上る階段、食事をする居間があって、その正面は台所で井戸もあれば水甕もありました。階段の下は富山の薬箪笥のような物容れになっていました。その又奥の部屋は寝室兼仏間で日中は暗い部屋でした。縁側の向こうには小庭と厠(便所)などがありました。台所が比較的明るいのは天窓があったからでしょう。布袋さんが並んだ荒神棚もありました。店の真上に当たる二階は屋根裏部屋で、殆ど物置き場になっていましたが、後年、叔母の手で綺麗な部屋になっていました。犬矢来、虫籠窓、紅殻格子、ばったん床几等ある懐かしい造りでしたが、今はありません。 近頃はこの京風の町家がリフォームされ、画廊や喫茶店や和装小物の店などに再利用されていることは喜ばしいことですが、出来るだけ”本物”の京ものを販売して欲しいなぁと思っています。光の明暗がくっきり浮かぶのは空気の澄んだ秋。入日どきは風情があるし、ほんのり橙色の灯火の入った町家も心を落ち着かせることでしょう。
2025.08.30
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〇発足23年目の「大山崎ふるさとガイドの会」は数年前では4つの班、60数名の会員が在籍し、ファックスにて頂戴した指定日に、資料館当番週の班から適宜数名のガイドがご案内しています。 初夏と秋の「天王山ウォーキング」の他、早春の「写経」や3月の「水辺の散策」というイベント。また掲題「出前ガイド」も年々依頼が増えて来つつあります。燈明守の娘、天王山のカエル、飛び倉、閻魔さまと極楽・地獄、山崎の合戦、大山崎油神人、行基さんと山崎橋、大山崎町の史跡案内、大山崎の野鳥、大山崎山荘の花木、聖天さんとどろぼう、十七烈士と新選組、きつねの渡しと淀川の三渡し、鬼くすべ1、鬼くすべ2、大将とマッサンの16演目。私達の手になった脚本、造形芸術大さんの画のスクリーン画面に声優としての演技を行うのです。ガイドを引退した近年は、カラオケ曲のセリフの言い回しに役立っています。
2025.08.29
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〇数年前に見つけた「陣中日記」。縦12.5センチ、横8.5センチ、厚み2センチ足らずの掌中サイズ。装丁はしっかりとした絹地だから丈夫そうです。頁数は本文224.但し各月あたり10頁の白地日記欄付き。付録には、事変一年史、簡易東洋史年表、簡易支那地理、支那地名の読方、歌謡索引、年数早見表、氏名録、備忘録が31頁ほど。出征兵士に配られたこの陣中日記は昭和14年製なので処々に載せられている歌謡は、敗戦色の濃い時代とは大いに異なり、艶っぽいものも多々。陣中に詠まれた短歌や、古来の俳句・川柳や詩吟もある中に、以下のような都々逸も。恋にこがれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身をこがす留めてよかつたあのまま帰しや 何処かで濡れてる通り雨星の数ほど男はあれど 月と見るのは主ばかり (抜粋)或いは、 お声はすれども姿が見えぬ ぬしは草葉のきりぎりす山で伐る木は数多けれど 思ひきる木は更にない (抜粋)歌謡には最上洋の「忘れちやいやよ」など、結構軟弱な内容の歌詞さえ掲載されていますが、富士山、子供たち、女優、芸者さんなどの写真もあってこころの慰みになったことでしょう。
2025.08.28
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