つまり、事は、鰻のことではなく、国語文法の助詞「は」の用例。「僕は鰻だ」は、「僕は天丼だ」でも同じなのだが、そこは別の用例「吾輩は猫である」の「猫」に合わせている。 この格助詞「は」は、主語「僕」あるいは「吾輩」と、「鰻・天丼」あるいは「猫」とをイコールで結び付けるものではない。英語のbe動詞やフランス語のetre動詞とはまったく意味が異なる。 「僕は鰻だ」という文章は、じつは述部が、目的語を明示する格助詞「を」を省略し、さらに動詞が省略されていると考えられる。それらを補えば、「僕は鰻だ」は、「僕は鰻を食べるのだ」もしくは「僕は鰻を注文するのだ」等々となろう。これをイコールとみなして英語のbe動詞で表わすと、「I am an eel」ということになって、怪奇小説のような事態となる。
私が例示した「あの鳥は人間なのよ」は、「吾輩は猫である」の主語がひっくり返ったような文章である。しかし「吾輩・・・」の場合は先に見たように「擬人化」ということが、この文章の成立を許しているのだった。「あの鳥は・・・」も、「吾輩・・・」も、ともに英語で書き直すことができる。私は、むしろ、「あの鳥は人間なのよ」という例文を「The bird is a man」として考え、その文法的論理性と現実との齟齬の消息に、幻想が立ちのぼる機縁を見たわけだ。