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さきほどまで BS-TBS の「にっぽん歴史鑑定 忠臣蔵」を観ていた(22時~23時)。きょう12月14日(正確には元禄15年(1702年)15日未明)は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした日である。番組は、人形浄瑠璃や講談、あるいは歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」----いわばフィクション-----と史実とを史料によって比較するというもの。
❶ 大石内蔵助良雄がどういう人物であったか? ❷ 大石の祇園一力茶屋遊興は事実か? ❸ 垣見五郎兵衛を名のって江戸を目指した大石が東海道宿で本物の垣見五郎兵衛に出会ったのは事実か? ❹ 岡野金衛門が吉良邸の女中を恋人として吉良邸図面を入手したのは事実か? ❺ 赤埴源蔵の徳利の分かれは事実か? ❻ 討ち入り当日に大石が内匠頭未亡人に会い、秘かに四十七士の血判状を渡したのは事実か?
以上のことを検証していた。私は2、5以外は史実を知っていたが、しかし面白い番組だった。
私は、「忠臣蔵」に特に強い関心があったわけではない。それでも、高輪の泉岳寺を訪ねて小さな博物館を見ている。また、箱根の関所跡の博物館で、赤穂城に向かう受城正使の播磨龍野藩主 ・ 脇坂淡路守安照が関所を通過したことを記した帳簿も見ている。
あるいは、赤穂浪士大高源吾とは知らぬまま俳友であった宝井其角(きかく)は、討ち入りの日の夕刻、歳末の煤払用の煤竹売りに身をやつした源吾に両国橋で偶然出会い、その落ちぶれように隅田川の流れにたとえながら、「年の瀬や水の流れと人の身は」と一句。すると源吾(子葉という俳号を名のっていた)は、付け句「明日またるるその宝船」と詠んで別れる。宝井其角がこの子葉が赤穂四十七士の一人大高源吾だと知ったのは討ち入り後のことであった。-----前置が長くなったが、私はその宝井其角の供養塔にも詣でている。世田谷区北烏山の称往寺にそれはある。それと気づかないほどの小さな供養塔だ。
ちなみに、北烏山は寺町で、多くの寺院が隣り合って在るが、明暦の大火後に江戸市中の墓地がこの地に多く改葬されたのである。寺々を巡れば、浮世絵師喜多川歌麿の墓や、『江戸名所図絵』の作者長谷川雪旦の墓、『春色梅児誉美』の作者為永春水の墓、あるいは明治時代の生人形師の初代安本亀八の立派すぎるほど立派な墓に出会う。
「忠臣蔵」のなかで語られることはないが、吉良上野介義央(よしなか/よしひさ:後註)が討ち入りを警戒して、たびたび本所の屋敷から江戸城近くの米沢藩第四代藩主上杉綱憲(つなのり)邸を訪ねて滞在している。
上杉綱憲は実は吉良上野介の長子三郎で、三郎の母は米沢藩第二代藩主定勝の娘。定勝の継嗣・第三代藩主綱勝にとって吉良三郎は甥にあたる。
ではなぜ吉良上野介の長子・三郎が米沢藩第四代藩主となり綱憲を名のるようになったのか。第三代藩主綱勝が急死してしまったのだ。しかも綱勝には子がなかった。家督を継ぐ者を幕府に申請する間もなかったのである。上杉家は取潰しになること必定であった。
------ここに登場するのが、会津松平藩祖の保科正之である。正之の長女・媛姫(はるひめ)は第三代藩主綱勝に嫁いで徳姫と名を変えていたが、子をもうけぬうちに事故で急死していた。そしてつづく綱勝の急死。名家上杉家を断絶から救ったのが保科正之だった。将軍家綱の絶大な信頼を得ていた正之は、綱勝が死ぬ前に甥である吉良三郎を養子縁組して上杉家の家督相続をするという遺言をしていた、としたのである。
幕末、戊辰戦争で会津藩が官軍に包囲されたとき、山形米沢藩が最後まで会津藩援護したのには上述のような160年ほど昔の恩義を感じてのことだった。
「忠臣蔵」から話が逸れてしまったが、吉良家と上杉家の関係を知っておくのはムダではあるまい。我が会津がおおきく関わっていた!
保科正之が死んだのが1672年。その丁度30年後の1702年に、赤穂浪士の吉良邸討ち入りであった。徳川時代の並みいる大名のなかで最高の頭脳と有徳を評価される保科正之だが、もし生きて浅野内匠頭刃傷事件が出(しゅったい)していたなら、どのように対処したであろう。
【註】吉良義央の読みは、明確には分からず、従来「よしなか」と読まれてきたが、現・愛知県吉良町の吉良家菩提寺古文書から「よしひさ」と読めることが分かり、近年になって「よしひさ」という読みが定着しつつある。
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