PR
Freepage List
昨日死亡した愛猫マスクを埋葬。
一昨々日までよろめきながらも私の膝にやってきて安心したように眠っていた。頭を撫でてやっている私の手が休むと、私の顔を覗き込むように頭を上げて、撫でつづけるように催促していた-------
動物の死は、最後の最後まで力をふりしぼるようなところがある。死が近づいているのを承知しているのであろうが、人間のような諦め方はしない。人間の場合、それを「悟り」と言うこともできようが、もしかすると生命力を知性が押さえつけてしまっているのか。
子どもの頃私は、「死にたくない、死にたくないと言って死のう」と思っていた。誰にも言わない心の内の思いだったが、ヘンな子どもだったかもしれない。今は-------自分で自分の心の内が分からない。自分の死に、自分だけでない何らかの周囲の事情があることを承知しているからだ。私が、斯く斯くの如く死のうと考えていることが、斯く斯くの如くゆくとは限らないであろう、と。
昨日、研修でお世話になった老人介護施設で、介護職員になりたいという人が減少している実情を聞いた。介護施設数より職員になりたい希望者数が絶対的に少ないのだという。とくにそのアンバランス傾向は大都市部で顕著であることは、私たち民生委員もおおよそは承知している。--------ところで、その話のなかで、介護職員に応墓してくる若い人達が、それまでの人生で身近に死を看取る体験をする機会がなくなっていると聞かされた。
実は介護専門職種にとって、その人が死に接したことがあるかないかは重要な問題で、なぜなら老人介護施設はいわゆる看取り(臨終)の場でもあるからだ。死に臨んでいる人をいかに安らかに旅立たせるかは、看護職員にとって「覚悟」と「心の技術」が必要だ。臨終に立ち会うというのは少なからず恐ろしいものである。だからといって、あたふたするわけにはいかないであろう。
私は故湯浅泰雄博士の著作全集を企画・監修・編集をしたときに、湯浅先生とデス・エデュケーション(死についての教育)について話し合った。また同じく監修者だった大阪医大の心臓外科医の太田富雄博士からも、デス・エデュケーションについてお教えを賜った。すなわち、生前から死について学ぶことが死に臨んで平安であるためにいかに必要であるか、ということである。
動物の死と人間の死とをならべるとは何事だという人がいるかもしれない。まあ、そういう人はそういう考えで結構。私はあらゆる生命の終焉について考えているのだ。
根本仏教では、あらゆる生命に区別差別は無いとしている。後に仏教宗派も区別差別をもうけて愚かなふるまいをし、現代になって懺悔をしている。仏教のみならず私にはそのような愚かな宗教などどうでもいい。私は、愛猫クロやシロやグレ、ミミ、ヨモコ、チョンコ、チャーコ、ロロ、チャコ、ルル、アカ、ミケ、コタン、ロン、パンチ、クロ2世、マリ、そしてマスクたちの死に、学ぶことはあったのだ。みなクロを祖先とするその子孫たちで、私が出産を取り上げ、そして臨終を看取った猫達である。
さようなら、マスク!
Comments