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心はまだ、不安定なんだけど体は少しづつ元気になって痛みも減って行くのが不思議グウタラな生活環境でいられるからだと思うけど何となく、父が私の体を癒してくれてる気がして父が私の痛い場所をあの世に持って行ってくれたのかな (*^^*)ゞナーンチャッテーッ!!実は先日、足元をよく見ないで左足が溝に嵌ってコケながら足を挫いたのだけど夜の道端で通行する車もなく姉と一緒だったので体も震えないでそ、のまま一人で運転して家まで帰って来られたその日も入浴したりコタツで足を温めたのに翌日もそれほど痛くないし上手い具合にコケタコケ慣れしたってことかなぁ(苦笑)
2007年02月28日
旦那の出勤時間が明日は早出になってしまい結局、必要な買物をして用事を足しただけで実家へ行けなかったのはちょっと残念━━p(●`Д´●)q━━━!!!!生きてる人の生活を重視するのは仕方ない事だと納得して諦めました来月からは、父に会うためにお墓へ行くんだね時が流れて現実を受け止めて納得して父の存在に私達は癒されていくんだろうなぁ
2007年02月28日
父のお棚上げは、まだだけど・・・・今日は月命日になる今夜、旦那と一緒に実家へ行こう数日前に結婚以来、何回目かの旦那と意見の相違は積もり積もって気まずい雰囲気を味わい夫婦の危機だった旦那が仏頂面でテレビを見てても感情もなくひと言も会話をしないなんて・・・あんなに口も利かなかったのは初めてかもしれない父を偲ぶ気持ちと母を労わる行動をおこせば噛み合わない事も多々ある現実に周囲は振り回される傲慢な心で自分勝手な行動で・・・・と自分たちまで実家の事に巻き込まれていくそんな不満の気持ちを感じてきた頃にもう旦那は耐えられなかったのに私は理解してあげようとしてなかった私の言葉は旦那に対して労わりが欠けていたあれ程、悲しみの中の私を労わって寄り添っていてくれてた旦那の心遣いが、いつの間にか見えなくなってることに反省したそんな行動も旦那が疲れたのか、三日目には普通に会話もしてくれて元の鞘に収まったけどもう、あんな仏頂面で無言の生活など嫌だいつもだって大した会話なんて無いけど私が勝手に喋っても、ただ頷いてくれるだけで良い耳の聞こえが良くないから旦那の話の返事が出来ない事もあるけどそれでも一緒に生活するって、何も細かい事を言わなくてもお互いを労わり合う事だと思った。
2007年02月28日
楽天のアクセス記録を見ると『*.dion.ne.jp』とかこういうのが残るけど、それらが何処から見に来たのかを調べるサイトがたくさんあって、それをTOPページに貼っておけば少しだけなら解るけど、それには引っかからない奴らもいるのが、何故か悔しいと思うこの頃の不満。。で、国名にオランダとかアメリカとかもあって面白い単に通り過ぎただけだろうケド・・・。こういう記事を書くのは、気になる奴らが多すぎるからで自動的に巡回ソフトで手当たり次第に数秒毎に来て貰っても有り難迷惑な気がする・・・と、以前書いたところ、「それを使って見てくれてる人が居る」というマジ?ホントに??って信じがたい意見の方がいてその記事を削除した事があったような、無かったような。。私は、そういう自動巡回ソフトで足跡付けられるのって凄く嫌なんだよなぁーだから楽天さんでもトラックバックやリンクもされない様にしてるつもりだけど。少しでも私とメールやチャットや何か縁があった人だったら別の言葉を残して欲しいと、真に願ってしまいます常連さんじゃなくても『縁』だと思いたい。って事は、自動巡回ソフトも縁なのかい???
2007年02月27日
久々に自分で運転して実家まで出かけた少し買い物をして行ったら母が嬉しそうな顔で私が来るのを待っていてくれて凄く嬉しかった一人でテレビを付けて何処へも出かけずに誰とも会話をしない一日だったらと思うと不安になるが毎日歩きで腰痛治療に通院しつつ帰り道のスーパーで買い物をして来るだけでも外へ出て行く気持ちがあるだけ私よりも数段、健康的な生活を送ってて安心してる・・・とは言え、父の話をする時、涙ぐむ母を見て私は母の前で泣かないように我慢する父の発作で入院する前の晩に「今年は何処へも旅行に行けなかったから『来年暖かくなったら、みんなで南房総に行こうね』ってお父さんと話していんだよ」と言う。。みんな同じ気持ちで暖かくなる日を楽しみにしていた父の回復を望んでいたのだ80歳という高齢になってからの町内の仕事は父の体調にはきつくて何度も辞任したいと伝えてきていたのに後継者選びが難しいと言い逃れをされてきた責任感の強い父には、そこを押して辞任も出来ず結果的には心労が祟っていたとしか言えない何か、父の死因を人の責任に置き換えてると思われるかもしれないが家族だったらそう思うのは普通の考えだと思う他人事で読んでる人にはこれは絶対に解らない話だ感情移入しすぎてると思いたければどうぞ、あなたの勝手ですから・・・せっかく猫の日の外出だったけど他所の猫に会えなくて寂しかったでも、うちのげんきが珍しく猫っぽい声で『にゃ~』と可愛く鳴いたので許そうだけど、毎晩げんきの要望を聞きつつ寝るまで待ってるなんてこっちは寝るのが夜中の二時ってのは勘弁して欲しいなーと、書いたら、げんきの言い分もあるらしいので猫だからへどうぞ・・。
2007年02月22日
両親と離れて暮らしていても生きてる時は、いつでも会えると思ってしまうもので私は旦那に気を使うのも億劫で体調が悪いと聞いてた両親と何処かへ一緒に出かけることが去年は減ってた私は心の何処かで親不孝をしているという罪悪感の中で旦那と気兼ねなく出来る時間を選んでしまった一昨年の夏の猛暑頃から父の笑い顔も見られなくて去年の父は4月の入院・手術後の副作用で食欲が激減してから体調がようやく回復しまた家族で温泉でも行ければ父のあの笑顔を見られるだろうと思っていただから、12月の緊急入院の事態からも少しずつ回復してくれてた矢先にそのまま生涯の幕を閉じる事などまさか、まさか体調が急変するなど家族にとっては諦めきれない事ばかりあの日、あの時、、、という後悔の言葉が何度も私の口を吐く日々が続き耐え切れずに涙は枯れる事がないいつまで泣けば涙が止まるのだろう周りの人とは普通に会話が出来ても突然襲い掛かる悲しい気持ちを抑えられずに泣き始めた時、旦那から電話が来て驚く・・・「何で泣いてる?」「急に思い出して涙が止まらなくなったの」そりゃ驚くのは旦那の方だけど私には何も言わずに自分の用件だけ話して旦那は黙って(私は泣きながら)言い分を聞いてくれた昼間、私が一人で泣いていることを旦那は、あまり知らないだろうな・・・
2007年02月21日
父の病室へは毎度「○○○が来たよ~♪」と言って入っていくと父が私の方を振り向くそれまでも私の耳が聞こえにくいので年を取って耳の遠くなった父と私の会話は、いつも大きな声になってただから、病室で父に話しかけてるときに廊下まで聞こえていた事があったのじゃないかと思うしナースが突然入ってきて照れ笑いした事もあった父の体調は二、三日毎に変化していて良くなったり悪くなったりしてて毎日行けなかった頃は不安で仕方なかったそれなのに、家族の疲労が募り始めた事を言葉で意思表示が出来なくなった父が家族の言葉や態度から察してしまったのか母も毎日病室に行くのが辛くなり始めていて迷うと私達に電話で愚痴を溢していたそれとも父の寿命があと僅かまで来ていてまさか家族へ最後まで迷惑を掛けまいと気を使おうとしていたのだろうか医師らが「油断は出来ないが回復してる」と言ってくれていた矢先の心停止の知らせに今でも、やるせなさで一杯になって涙が溢れてしまうのは どうにもならないそれでも、父がだんだん衰弱していくのを母には、なんとなく感じていたらしいとはいえ、悔やみ切れない事ばかり残ってしまうあの時、私が父に会えた時に心からそう思って伝えた言葉が「大好きだよ お父さん」だった子供の頃のように父の顔に自分の顔を近づけて頬ずりしながら「お父さん」に何度も言い、色んな話をしてた。だから私が父をどんなにも好きだって事を旦那はチョッピリ羨ましそうに その姿をいつも黙って見守っていてくれた帰る時に旦那が手を振ると父も手を振ってくれたから「また来るね、待っててくれる?」とそう言うと「うん」と頷いてくれるのを見届けてから帰ってただから、今も実家に行って父の遺骨の前で「お父さん、来たよ」から始まって「お父さん、ヾ(*'-'*)マタネー♪」と言って帰ってくる四十九日の法要が済んだら父は一人でお墓に入っちゃうんだね仏壇から話しかけても聞こえるのかな・・・・
2007年02月19日
軽度・中度難聴者のページというのを見つけた私の耳は左側がよく聞こえない小さい頃から聞こえ難くて耳鼻科へ行って耳垢を取ったら聞こえるようになったから(まるで笑わい話みたいだけど)難聴ではないと言われてたのにやっぱり聞こえないようになったいつも耳の中で雑音が聞こえたかと思うと突然、膜が張ったみたいになったりする事が多くなってから左の方の聞こえが悪くなってきた小さい頃に行った耳鼻科の恐怖の体験から大人になっても耳鼻科へは一度しか行けなかったしかし、そんな事を言ってる場合じゃない評判の良い耳鼻科があると聞いたので今度旦那が休みの日に連れて行ってもらおうもう聞こえないのなら、それなりに対処しないと人の会話も聞き取れなくてコミニュケーションが取れなくなる補聴器は高いだけでも良くないらしいけど何としてでも自分に合うものを見つけたいと思ってるメガネだって色々あるのにさ、補聴器ってどうしてあんなにダサいデザインのしかないんだろうネェ??
2007年02月16日
父が母や兄と最後に出かけた日の写真を貰った私は父と一緒に出かける機会が減ってしまって父の写真が少なくなってて、寂しかった去年の4月に食道のポリープの内視鏡手術で入院した時に携帯で一緒に写した父は表情が暗くて削除してしまったし何でも父の姿を残して置けばよかった・・・・奇しくも父の入院する前日に私が買ったプリンターはまだ箱を開ける事すらしていない父の入院中は、そんな事をする気持ちの余裕がなかったけど今になっても覚えようとする気持ちになれずに困ってるそれなら、父の姿をプリントアウトしてみようかと・・・一緒に写ってる写真をアレコレ探してるとまた、涙が溢れてしまって一向に作業が進まない
2007年02月15日
出会いがあるからこそ別れは付き物想いを寄せあった者同士の別れは尚、辛いお互い生き別れなら尚更、辛さが募る愛しい人と別れや切なさがどんなに辛くて寂しくてもいつか、別れの苦しみから解放されてまた元気になろうと思えるようになって寂しさや悲しい気持ちも安らぐ時が来るに違いない父との死別の悲しみと寂しさに泣き暮れていても毎日、食事を取り生きていく為の生活をしなければ自分まで衰弱してしまうし笑顔も出来なくなる心配してくれる旦那の為にも私は早く元気にならなければいけないそして夫婦の別れの時。。。いつか私にも来るであろう共に生きてきた時間の長さよりも数倍の寂しさをどう受け止めて行けるようになるのだろうか想い出は楽しい時だけを残したい苦しみや辛さや悔しさは記憶から薄れていけばいい苦労を共に生きてきた人との人生の辛さでも、いい思い出だったと思えるようになれれば生まれてきた甲斐があったと言えようそんな風に懐かしい想い出話の出来る日がいつか来るのだろうきっと、時間は掛かっても皆んなそうやって生きていくんだろう
2007年02月15日
毎年、バレンタインデーの当日じゃないけど実家へ手作りチョコケーキや買ったりして持って行ってた最初は父と兄だけに持って行ってたら何故か母がひがんでた母こそ父にチョコをあげないのか、それが不思議で仕方なかった「お父さん達は、チョコを自分の部屋で食べてるんだよぅ」と父たちが貰ったチョコを見ながら欲しそうにしてるのでそれを聞いてから毎年、三種類のチョコを持って行って母にもあげると凄く嬉しそうに食べてた私から父には元気で長生きしてねという気持ちを込めて、本当の感謝チョコであり愛情チョコだけど彼女も居ない兄には義理チョコだった(* ̄m ̄)ノぷっ!!もちろん、旦那には愛情タップリお返し期待付チョコですそれ以外の義理の父や義理の兄にはキッパリ義理だし金銭的理由もあり買う気がなかった今年は二個用意してから他でまた買おうと思ってたのに寂しいけど父の遺骨の前に赤い包み紙のチョコを置いてきた父が亡くなってから家族で箱入りチョコを食べていて私が子供の頃、まだ高価な箱入りチョコを父が出張のお土産に買って来てくれたことを思い出したクリスマスや誕生日にだって買って貰えないようなチョコの詰め合わせセットは、食べるのも勿体無くてその箱を開けて甘い匂いだけクンクンと嗅いでたでも食べたくて、みんなが居ない時にコッソリ食べるとチョコが減るから犯人が誰だか、すぐにばれてしまう大人になっても箱入りチョコはバレンタインデーが近づく度に高いな~と思うし食べた事のないどんな味だか解らない外国産のチョコは優柔不断な私には、なかなか選べなかった結局いつも食べてる国産のお手頃価格の美味しいチョコを買って自分でラッピングしてリボンも曲がって下手くそだったけど愛情込めて一番好きな人にあげていた最近は、、、お菓子メーカーの戦略に乗っかり私の好きな美味しいチョコを選んで旦那と一緒に食べてますお返しは私の欲しい好きなものを買って貰うことになって旦那は選ぶ手間が無くて良いみたいだけど旦那が姪から貰った義理チョコのお返しを考えて選ぶのが大変な年頃になってきたなぁ
2007年02月14日
寝る前に日記を書いて起きてるうちに泣くと少し気持ちが落ち着くこれをしないでベットに入ってしまうと余計な事が浮かんできて涙が止まらなくなるそれでも昼間は、なんとか普通にそれなりに体を動かせば、いくらか気が紛れるせいか昼間は毎日泣かなくなったでも四十九日までは、たくさん泣こうと思ってる時々、大声をあげて泣く悲しい気持ちを吐き出してしまいたいからキチガイのように、おなかの底から声を出して泣くこんな時に限ってドラマでお葬式のシーンが出てきて泣きすがる、あのシーンの気持ちが切実に胸に迫って余計に泣きたい気分が増殖してるみたいだ
2007年02月13日
過去に戻れるとしたら何処に戻ろうか・・・・父に会いたいと思ってた時に行けなかったあの日、倒れる前日に戻ろうかそれじゃ遅いなら、もっともっと前がいい!!随分前から好きだったお酒も飲まなくなり半年くらい前から父の笑う顔も見ることが減り体力に余裕がなくなってきてたそんな父の不調に気付いて気遣った言葉を掛けても無愛想な顔で「大丈夫」としか答えてくれない父の辛さを察して少しでも横になってる様にと何度も何度も言ってきたけど少し落ち着くと散歩したり車の運転をしてた父を見て私達は不安で仕方が無かった身近な家族の優しさに、すがれなかったのは父の性格なのか、頑固さなのか無理をしてでも弱音を吐きたがらない意地だったのかあの時、無理にでも止めさせれば良かったことを今更言っても仕方がない事だと重々承知でも年末に掛けての忙しさと体力低下のつらさの中で父の嬉しそうな顔を見られなくなってた矢先の心臓発作だったから・・・・・悔しくて悔しくて悲しい気持ちが無くせない
2007年02月13日
父が使っていた部屋は、二階の洋間で私と姉が結婚するまで過ごした部屋だった その当時の父の部屋は向かい側の和室だったが 娘の居なくなった日当たりのよい明るい部屋に移った二階に居る時の父は随分前からアマチュア無線をやっていて昔は車にも無線機とアンテナを付けてどこか遠くへ出掛けた時てはその土地の人達と交信して道路状況などを聞いていた パソコンは退職後に「60の手習いで覚えるんだ」と 言いながらwordやExcelも私達が知らない頃からプリンターも簡単にやってくれて頼もしかった 地域の民生委員などを始めとして色々な職種の人に関わるような仕事をするのが好きだったのだろう二階の父の部屋は、いつも無線機のスイッチが入ってて誰かの交信音が聞こえてた 父の匂いのする父の思い出の詰まってる二階へ私はまだ上がれず、入れない…寂しくて切なくて誰も言えなかったことを「もし漏電したら大変だから…」と旦那が言い出した主の居なくなった部屋の電源を切らなければいけない時が来た…「電気が付かないのが寂しいね」と父の部屋を知ってる近所の人にさえ切なさは募る様で私達家族が父の居ない生活を当たり前と受け入れるまでにはまだまだ時間が掛かりそうです
2007年02月11日
毎週、土曜日が七日目だから 父のお線香をあげに実家へ行くようにしたい 平日の昼間は母も歩きで腰痛治療院まで行き来して 知り合いと話す事もあるらしく 自宅にも人が来てくれてるみたいだけど 夜は、兄が帰宅し夕食後は 早々と部屋に行って横になってしまうらしい とはいえ、まだ7時前後の時間に身内が寄ったら 「やっと寝付いたところだ」と言われたらしい となると、それ程早い時間には誰も家族は行けない事になる 人の来ない昼間の時間は何をしてるのか聞いてみたら 「何もする気がしないから花の水やりしたりテレビを見てる」とか 「一人では昼食も食べる気がしない」と言うし そんな事を聞いてしまうと家族は心配で仕方がなくなる 年を取ってから話す相手が急にいなくなると 不安や取り残された気がして張り合いがないだろうし… 私だって、自分がひとりになった時の事を考えただけで キチガイみたいに泣いてしまうのだから… 以前は私に電話して「今度いつくる?」とか、よく聞かれたけど 最近はそれもないから、たまには私が電話した方が良いのかもしれない しかし、気が張りつめて興奮して話してるときは 誰に対しても非常識な事を言ったりして困る このギャップに私たち家族はどう対応したらいいのだろうか 母の精神的な異変として治療を受ける心配をした方が良いのか、 父がいなくなって寂しさが癒えれば安定してくるのか、まだ判らない。
2007年02月10日
生前の父に私が話しかける時にいつもこんな風な言葉で話しが始まってた私ね、お父さんみたいに優しくていつも私を守ってくれる旦那さんだから「お父さんと同じくらい大好きな人と喧嘩したり我儘ばかりしないように仲良くします」って結婚する時に約束したでしょだから、これからはもっと頑張らないと駄目だよね・・・同じ事をあの日も祭壇の写真を見つめて心の中で誓ったのよちゃんとお父さんに聞こえたかなぁでも私が行くまで忘れずにいてくれる?私の変形した手を見たら、どんなに離れていてもお父さんなら きっと思い出してくれるよね?だから・・・曲がって醜い指が今までは嫌いだったけどこのまま大事に使って生きて行こうと思ったの父の指先は細くて優しい手をしていて私を優しく包み込んでくれていつも安心させてくれた父は折り紙とか細かい手仕事も器用にこなし私たち子供には勉強机を作ってくれた(勉強は好きじゃなかったけど)従姉妹たちにまで竹馬を作ってくれたり何でも作れちゃう魔法の手だったその温もりを私は忘れたり出来ない入院中は父の指先をマッサージして私の事を思い出して貰おうと必死だった曲がった指先で父の記憶を呼び戻したかったきっと家族の事は解ってたよねみんなの声も言葉も聞こえてたよね声が出せなくて悔しかったろうねみんな、もう一度、お父さんの声が聞きたかったよ母は毎日、父に「この人、誰だか解る?」って父に聞きながら「○○○って呼んで、お母さんでもいいよ」と何度も繰り返していたよね父は一度だけ やっと絞り出すような声で母に言ってくれた「お父さんが『おかあさん』って呼んでくれたよ!」と母はとても嬉しそうな声で話してくれたよ私の時は声が出せなかったけど名前を口元で言ってくれたもんねちゃんと解ったよ嬉しかった・・・ありがとう声の変わりに文字を書ける様にしてあげたくて書きかたの練習用にノートと鉛筆を持って行ったり一瞬だったけど鉛筆もちゃんと持てたんだよねそれから、父がよく指を組む動作を母と一緒に見た時は、嬉しかったよ無意識に一度だけ指を組んで手を上に挙げてたもう、見ることは出来ないけど忘れられないお父さんの声も顔も文字も全部、ぜ~~~んぶ一生覚えておくね今度、父の声が聞こえて話が出来るのはいつかな・・・お父さんの子供に生まれてきた私の事をいつか会えたらたくさん聞かせてあげるね
2007年02月07日
母は何をよりどころに生きていくのだろう父以外に母の不満を聞き流しつつ受け止めて解決へ導いてくれた人はもう居ないという事を母は、まだ自覚していないのだろうかそれとも子供たちの前では弱った心の声や言葉を吐き出す事さえ出来ないのだろうか父の入院中から気丈に立ち振る舞う母の姿に異常とさえ感じてしまう事がある思った事だけを言葉として使う事が多くなった人様への心配りや世間の常識さえ無視した発言に私たちの胸の中のザワザワとしたこの不安は一体何なのか父とのお別れの後の私は、家に心配してきてくれた友人や近所の親しい人と生前の父の事を話していても普段通りに話が出来るのに昼間の一人の時の ふとした時や夜、真っ暗な部屋の中で目を閉じると無性に涙が溢れ止まらなくなって隣で疲れた旦那が眠っていても泣き声が抑えきれないほど切なさや不安でどうしようもなくなってしまういつまでも こんな風じゃいけないけど私ってのは感傷的になりやすいそれは父が生きていた頃も考えると眠れないほど涙が溢れてた母を支えてあげる前に私が悲しみ心が沈んでばかりで前に進めない
2007年02月07日
実家では初めての仏様が父だから四十九日までに間に合う様にと初七日に家族で墓地を決めて・・・そこは生前の父が毎日の日課に登ってた吾妻山のすそ野で、父を見守ってくれてる様な場所の墓地が見つかったこれでまた、元気に毎日歩いて行けるね 私たちの声や母の様子が解るかように実家にちゃんと仏壇を用意してお父さんがいつでも来られるように居間に置くんだよ母を見守ってあげてねでもテレビのボリュームが大き過ぎてお客様が来たのが解るのか心配だよね~ だけど生前の父の愛した人の住む家だから許してくれるかなぁ・・・
2007年02月07日
あっという間の一週間だった 先週の土曜日に父の顔を見に行かなかった事が 今更ながら悔やまれて涙が溢れ出る 何度も過ぎた日の出来なかった事を 悔やむまいと決めたのに… 心の中に終い込もうと決めていても 父が一人で寂しかったろうと思ってしまう 最期の死因は心不全で亡くなったけど 何かのショックで亡くなったのではないと 医師から父の状態の説明を聞いた時にそう思った 老衰のように静かに寿命が来たのではないだろうか …そう思えば父が安らかに旅立てる。 父は私たちに心の準備をさせる時間を ちゃんと残しせたからこの世を去ったのだと… 四十九日まではこの世をさ迷って 父があの世へ迷わず行けるように遺された家族は 父を偲び、争い事や災いの気持ちを無くし 亡き父の為に供養をして自らの心も浄化させて 穏やかに生きていけるようになりたいと願う
2007年02月03日
父の生涯の幕が降りて お骨になって小さくなった父を骨壺に入れながら、 これが父に触れる最期でこれからは思い出という形でしか 父を感じることは出来なくなると分かっていても 父を思いながら何度も涙が出てしまう… 旦那と毎日お線香をあげに実家に行き 初七日までに色々とやらなければならない事がたくさんあり 兄や母の気が回らない事を旦那とチェックして 少しだけど私たちにも父への恩返しが出来たらいいなと思ってる
2007年02月01日
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