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日陰にひっそりと咲く花が、ある時、陽を遮っていた障害物が取り除かれて明るい日差しの下に現れる。あるいは、苦節何十年を端役ばかりに生きてきた役者が、ある時、脚本や監督によって主役級に抜擢される。多々あるこんな事。大切なのは、間断なく連続性を持つ人生において、進む路を怠惰や自暴自棄、殴り書きする様に粗末に扱うならば、決してそれら結果に遭遇する事などないということ。縁も事象も、その都度、人生の中継地点に用意されたもの。だから、その意味ある結果を手にする為にも、歩みを止めてはいけない。道を逸れてはいけない。疎かにしてはいけない。誠実さを忘れてはいけない。間違いなく、我の現在地は昨日までの生き様によってもたらされ、誰見ようと誰知ろうと、未来の結果は、今日の我の在り方によって創られるのだ。
2015年03月01日
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人間は多くの人に支えられて生きています。昨夜、昔からの知人と会っていてその事に話しが及んで・・7年前、弊社が現在地に引越して来られたのも、数々人の援助による。当時のビルの所有母体が大手企業で不動産部門があるので不動産業者はダメ、それなりに名のある、あるいはしっかりした業歴が入居審査基準であった此のオフィスビル。その会社がどの程度のものか、当然調査能力もある管理者側が見れば、超零細企業の我が社などとてもテナントとして入居できるものではなかった。それが当時、管理部門の責任者とは仕事上で付き合いがあり、移転を考えていた私にたまたま空きが出た部屋を紹介してくれ、上層部にその旨推挙してくれたのです。長い付き合いの中で私というものを見ていてくれて、例外の取り計らいをしていただいた。その後世の移り変わりの中で、当時の管理者側は解体に及んで人もバラバラに。けれども今でもその世話になった人達は時々弊社に顔を出してくれます。人間はいかに日頃の行動が大切か。信用は一日にしてならず。連綿と続く日常において、誰見ようと誰知ろうと、誠実に仕事をし、生きること。天は見ていて、心ある人もまた観ている。いざという時に、それまでの生き様が効くのです。小さな事をないがしろにして、何ができようぞ。私は今日もまた、その小さきとも大切な一つひとつを誠実にこなしていくのです。結果は天に預けて。私は、縁あった人達への感謝の気持ちを永遠に忘れることはない。
2014年10月17日
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我も注意しなければならない。つくづくそう思う。慢心は、いつしか足下からほころびを生じさせる。1人の相手の後ろには、目に見えない隠れた多くの潜在顧客が存在する。ネットの場合特にそうだ。「いいね」やアクセスの背後には、その何倍もの人がいて見られているということ。ある日突然、見ず知らずの人から「何時も見ていますよ」そう言われたりもする事実。物事の選択。特に人の選択は重要。だから人材採用も誰でもいいというわけにはいかない。例え1人のパートさんでも、良い人を選べば、その人の周りもおよそ似た人柄の人間が存在していると思われるのだ。人間はいつしか初心を忘れる。不安と何もない初期。 一本の問合せ電話、一つの取引が、どれだけ嬉しく明日への希望の糸を繋いだことか。原点の客を忘れてはならない。その時の心を失くしてはならない。「なんだか最近違うな・・」気が付かぬ内に、人の心は離れていく。クレームもお叱りも失敗も、顕在しているうちはいい。しかし、物事は砂防の様に静かに崩れていく。料理人が「判る人間しか食わなくていい」などとのたまう。アホか。選択権は双方にあるということだ。いつものうどん店に行く。常にメニューが進化している。従業員さんもいつも変わらず元気がいい。今度こそあれこれ他のメニューを、と思いつつ、またつい、いつものかしわそばを注文してしまう。この店に行くのは勉強もなるからだ。うどん店であろうと、居酒屋であろうとケーキ屋であろうと、スーパーのレジ打ちであろうと、忙しい従業員の身でも、その場その場で、心を主人としなければならない。例え雇用主が、「その程度でいいよ」と軽々であっても、我は我の心で職務を全うしなければならない。であれば、肩書だけの責任者より余程に責任者となれるのだ。そんな貴方に出遭った私は、「我が社へどう?」つい誘いたくなるだろう。原点を忘れるな。初期の客を忘れるなかれ。例え日の目を見ないところに甘んじていようと、今日も我の心で誠実に生きよ。自戒を込めて。
2014年10月15日
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クラシック「運命」のベートーヴェン、現在においては盲目のピアニスト辻井伸行さん、数年前、奇跡の歌姫として脚光を浴びたスーザン・ボイルさん、あるいはイチロー。その他、過去から現在まで、世には、いわゆる天才と呼ばれる人達を数多く見ることができます。努力という言葉はあったとして、これら、人に天才というものはない。私はそう思うのです。幾ら才能に恵まれ、あるいは神童と注目され勉学に優れそれなりの地位、名声を得たとして、其処には少なからず「努力」というものが見え隠れしている。同時に、その才能に素養、人格というものが寄り添わなければ決して「天才」と称されることはないでしょう。又、これら多くの人とは別格の人達の存在が特別ということでもないのです。彼らは皆、そうあるべきとして此の世に生まれてきた。歌手は美声で人の心を幸せにし、スポーツ選手はスポーツ選手で、その姿で観るものを感動させてくれます。あるいは、不幸にも障害を持って此の世に生まれた人が、明るく懸命に立ち向かう人生に深く考えさせられます。人は誰しも大いなる役目を担って此の世に存在する。軽々に言うつもりはないけれど、であるならそれは、例え何も取り柄がないと思っている私や貴方も存在意義は十分にあるわけです。名もない小さなショップの店員さんが、飛びっきりの笑顔と優しさと思いやりを持った人なら、その笑顔は、接する人の心に幸せを与えているかもしれないのです。あるいは看護師さんの一声は患者さんに勇気を。其処においては、特別の人も普通の人も同じ位置での存在意義の中で生きているわけです。此の世に「天才」はいない。いるとすれば、必ず其処に後ろ盾としての「努力」「人格」が存在する。即ち、心に共鳴し感動を呼ばない「天才」というものはあり得ない。全ての人が持つ、此の世における存在意義。それは特別な人達とも同じということ。では、今日、その生き方で、小さな我の「天才」となろう。
2014年01月08日
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☆皆さんこんにちは。随分とご無沙汰していたブログです。アクセスいただいていた方には大変申し訳ありません。facebookで日々元気にしておりましたよ。しかし一年経つのは速いですね。皆さんの一年はどうでしたか?歳を重ねてきますと、年初における特別の感慨というものもなくなってきました。昔は、「今年こそ・・」なんてありましたが、やはり大切なのは日々流れていく中での身の在り方。惰性に流すか実のあるものにするか・・過ごし方捉え方は個々人の心の内にあるわけです。よって人は、一日一日をもっと愛おしさを持って大切にしなければならないと思うのです。過去ブログより・・2010年12月8日人生、そうそう トントン拍子にはいきません。失敗や挫折を数々経験しながらも、有難きかな、何度でもやり直す機会を与えられているのが人間。私も、未熟な部分で度々失敗を繰り返しながら、「これでは、もう天に見放されてもいた仕方ない」時に、あまりに情けない己を猛省すれば、ああ、天は何と寛大な。内心に見合った、チャンスというものが、再び眼前に、様々な形となって与えられるのですから。数々の失敗にも、天は、“やれやれ・・” (ーー;)と、苦笑しながらも、決して見捨てることはない。手取り足取りの、目に見えての直接的な手助けはないけれど、偉大なる包容力で、天は人間を、いつも優しく見守り続けている。もし、完全に見捨てられたと思うことがあるなら、それは、良心に立った復活の意思を、自らが放棄した時なのでしょう。若い内の失敗は、明らかに仕掛けられていた、人生途上の応援歌であり、体験における心の在り方によっては、その後の人生価値を大きく膨らませてくれます。であれば、気づきの機会に心より感謝しなければならない。先は、挽回するに余りある。人は何度でも、気が付いた端からやり直しができる、素晴らしい不変の法の下に活かされています。謙虚さを持って気づけるかどうか。天は真の平等の下に、それぞれの心の所在を、余すところなく見守っている。考えれば、この事は、如何なる逆境の時にも実に心強い。
2013年12月30日
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人生は如何に自己を確立していくかが肝心。確立された自己というものは、自分の人生を、あらゆる局面において支えることになるのですから。「そんなことを言ったって、自己を確立するなんて難しい」なんて言葉も聞きますが、そんなことはありません。私など、この歳になっても、いまだに未熟さ満々です。で、人は誰しも、現時点で既に自己というもので人生上に立っている。自己を確立するというのは、刀鍛冶が火床で熱した鉄の塊を、長さ、幅、厚さを整えながら鉄槌で打ち延ばしていく作業にほかならないのです。大槌も小槌も使い分けながら個人の想う方向へと形を持っていく。その過程にあれば、何時だって、その時々においては人生に立脚しているということになります。想う形にならなければ、また打ち直す。それは何度でも繰り返すことが可能なわけです。もし自己確立を先に進めることができないとすれば、それは火を止めた時。炎なければ、形は美しくも強靭にも仕上がることはないということ。即ち、火を熾し加熱させ、素延状態から想う形へと変化させていくことは、自己確立されていことと同じで、想い(炎を燃やす)を途絶えさすのも継続させるのも、主導権は個人の手許にあるということなのです。想いを込め、意志を持って鉄槌を打ち下ろす作業は、人生上における場面場面の「自己確立への打ち下ろし行為」とも言えるのではないでしょうか。トントンと打ち続ける行為は、やがて、自身のみ知れど心の支えとなり、後方にはしっかりと人生わだちが残っていることでしょう。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年07月25日
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世において、倫理観というものが益々広く薄らいでいっているような印象を受けます。魂のレベル差によってなかなか噛み合わないのは、個人も国家も同じ。しかしながら、これ程自己利優先が蔓延している日本をかって見なかったような気がします。善悪、良心の判断基準の針を真ん中にして、雪崩れ込む様に自己利に傾いたグレーゾーンを平気で生きている。ドラマや小説の中では、物事、そして人の是非が生きて、正しきことと善人は成立しても、現実はグレー的多勢の中に飲まれている様相を呈しています。人間には、表面を取り繕いながらの、冗舌と立ち回りの巧さの奥に潜む、狡猾さもしたたかさも多々あるわけです。正にあの「半沢直樹」的世界は何処にも存在しているわけです。人としての信頼は、やはり、良心に照らしたその人の善悪の判断基準がどうであるかを観るべきでしょう。心の大切な部分が観れる人は、その、人のずるさに憤りを抱き悶々とした感情に囚われもするのですが、人の心根というものはなかなか変わるものでもありません。又、同様の類似魂が集まる場では尚居心地悪くなるわけです。しかしながら周りが如何なる状況にあっても、自分の心の羅針盤の針は正しく触れるようでなければなりません。仕事も人との交わりも、美味い酒の席も、魂が落ち着く場所の選択が大切です。例え小さくとも、良心の総和に希望を繋ぐことです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年07月24日
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人間というのは愚かさと賢明さを持つ生き物だ。性善に立てば奢りとなり、性悪に立てば何も始まらない。さて人間は、長い歴史の中でどれほど進歩してきたのだろう。少なくともその精神においてはおよそ進歩などみられない。そもそも、たかだか七、八十年の人の生命では限りがある。しかるに此の地球と人間の存在は、修行をテーマとした場であるからして、理想の楽園は目指す所であり、人それぞれに与えられたこの世におけるその過程が意味あるものだから、課題がなくなれば地球そのものも不要となるかもしれない。ある時期ある場所にて、人間は、生と問題を共有してその時代を生きている。日常における、ほんの些細に見える小さな幸せこそが、本来気づかなければならない人類史上不変の要点だろうと考える。個人も国家も、自己利と保身の狭量世界が蔓延。国家が国家の体をなさず、世のリーダー、責任者の心など、市井の人よりはるか劣るのが現実だ。物質的金銭的財の多寡や肩書きも地位も、人の資質とは正比例しないのは今更でもない。地球誕生46億年前。恐竜時代1億万年前恐竜絶滅、霊長類誕生6550万年前700~600万年前、最古の人類化石370~100万年前、最初の人類約50万年前、北京原人約40万年前、マンンモス誕生約23万年前、ネンデルタール人出現約14万年前、氷河期現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年。7万年前、ヒトが衣服を着る紀元前3000年(5000年前)、古代エジプト文明、メソポタミア文明など文明出現同時に人為による環境破壊が少しずつ表面化。紀元前後 古代ローマ、漢などの古代帝国が出現。18世紀後半 - ヨーロッパで産業革命が起こり、エネルギーの大量消費時代がはじまる。縄文時代、約12000前ー約紀元前三世紀。弥生時代の終わり、約三世紀。平安時代、794-1985戦国時代、1493-1573江戸時代、1603-1868第一次世界大戦、1914-1918第二次世界大戦、1939-19451945年8月6日広島、人類最初の核使用。2011年3月11日、東北沖地震。原子炉破壊、収束目処と汚染影響の範囲未だ分からず。使用済み核燃料を地下300M以上の地層に埋めていきながら、その核が安全となるのは10万年かかるとも100万年とも言われている。生ゴミは堆肥になっても、当面を隠す核にやがて地球は喘ぎながら満杯の汚泥土と化す。様々な場面で目にする核に対する責任者達の言葉は実に嘆かわしい。今の責任者達が二十年後三十年後に生きているとは限らない。少子化のなかで、この問題解決の専門家も育てなければならない。労働人口の減少、国防の問題は。大変さの中に、大きな問題を子孫に残すことに及ばない想像力の貧困さ。地球も永遠ではない。いつか消滅する。自然消滅ならその始まりとともに受け入れられるだろうが、自らそれを早めてはいけないのだ。使用済み核が安全となるのが10万年から100万年。現代人の出現10万年前・・遠い先のこと。たいしたことないか・・てなことにはならないのだ!事の起こりが10万年先ではなく、日々積み増される問題と、その問題の一部が収束をみるだろう歳月に10万年も要するのだ。今だけ、自分だけ、自分の国だけ、でいいのか。何も持たない、他人を侵害しない、未開の地に裸で生きる人。貴方達の笑顔の方が、よほど、天より愛される人間なのだ。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年07月21日
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2013年07月18日
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先日TV番組で、『運命は自分の性格の中にある』という芥川龍之介の言葉を聞き、その翌日には、先般、アメリカで十年も監禁されていた女性のコメントを聞いた。『私は、事件に左右されない』『人生の主導権は私が持つ』感動すると共に勇気づけられる言葉ではないか。運命は、誰の所為でもない。性格(運命)も又、想念によって如何様にも導かれるのだ。誰の所為でもない。ましてや、悠久を行く魂にあって、先人がどうあれ、主は、此の世における自分なのだ。誰の所為でもない。運命というものは、何時だって我の手の中にあるのだ。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年07月14日
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人の若さとは何でしょう。言葉もどかしく、動作に緩慢な、明らかに年齢的に老いていく外見的に捉えられることとは別に、その瞳の奥底にある心の部分までが老いているとは限らないのです。思い出は今も瑞々しく満々として、野山を駆け巡らせることができているかもしれせん。物に満たされずとも、童謡に馴染み、その場面が容易に浮かぶ自然に育まれた心は、年老いてもなお養分として、その精神を支え続けることができるかもしれない。片や、溢れる利便性のなかに、過ぎた合理性と育まれぬ感動に精神までデジタル化した中を生きれば、やがて年老いた時、その心に何が財産として残り、我を支えることができるでしょう。真の若さとは、純粋さを持ち、枯渇しない好奇心と感性を持ち続けられること。年齢重ねてもいまだはつらつとしている人もあれば、若くして既に何ら魅力を持たない老人化した人もいます。魅力ある人とは、物も権威も外に着飾る人でなく、内に豊潤な心のオアシスを持つ人。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年07月02日
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長所短所は誰にでもありますね。私など、いまだに克服できない短所は数々あります。反省、猛省しながらも、ふとした時にまた出てしまったり。そんな時、つい自己嫌悪に陥ったりもするのです。しかしながら、長所短所を含めたところが、人の個性でもあるわけです。考えれば、短所の是正も必要ですが、そこばかりに気を取られるより、自分の長所や自負できるところを愛し、磨くことが肝心かと。人付き合いの苦手な人と社交的な人。例え内に籠ったたとして疎外感を持たないことです。いけないのは、つい周りと自分を対比するあまり、対外部分を遮断し、疎外感を持ったところの自分を肯定し、何となく主役にしてしまうこと。いつしかマイナスのエネルギーに安らぎさへ感じ、「されど私」と、悲劇の主人公にどっぷりとはまってしまう。あるいは、短所に悶々としながら負のスパイラルを生きていく。案外貴方自身が思っている短所は、さほどのものではなく、気をとられることによって折角の長所さへ打ち消してしまっている場合もまたあるということ。短所からの最も手早い脱却は、其処にエネルギーを集中するのではなく、唯一無二の分自身を愛し、自負する所に育てあげること。饒舌でなく寡黙で、世渡りも上手くなくぱっとしない人間だと自ら判断したとして、貴方が、誰より動物を愛し、その辺に遊ぶ犬や猫を手招きし、額を撫でてやる人であれば、申し分ない上等の個性を持った人に違いないのです。長所欠点を持つのが人間。人としての核心部分が善に立ったものなら、それは堂々の、誰とも違う個性として成り立つのです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年06月20日
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人生はロングランの舞台に立つようなものです。台本を渡され役回りを演じながら、人生舞台はあまりに長期に亘るので、舞台であることを忘れてしまいます。舞台上では、端役は端役でその立ち位置からするとれっきとした主役。誰もが精一杯の最高の舞台を目指さなければならないのに、つい、その役回りに立場に、投げやりに、そして放棄さえしてしまいます。夫婦、家族の役回りは、とりわけ親密性をもったものになります。俯瞰的に見れば舞台を、日々続く中では平面的に現実として捉えて生きている。同時に、予め知っていたはずの大まかなストーリーも忘れ、日々舞台における展開は、初経験となるのです。自ら選択、あるいは抜擢された個人の舞台というものがどの様なものであるのか。高速道路をスイスイ快適に走るものだったのか、いばら道をかき分け行くものなのか。家族を主にしたものか、仕事を主にしたものか。愛に生きる主人公だったのか傍若無人の役だったのか。人生(舞台)の後半にやっと絡む共演者であったとして、それは既に配された事であったに過ぎない。不思議など何ひとつない人生。では、ハッピーエンドに終わる主人公は、悪満々の主人公は、俳優が舞台を終えれば真の我があるように、我に気づき見失うことなく我を手元に置くことができるなら、舞台上の現実的悪人も良心を復活させることができるでしょう。善人は善人で、実のところをなお生きて行けばいいのです。どの役回りも、精一杯に舞台を生き、今日思い通りいかなければ明日また精一杯の誠実さでこなすことです。例え一瞬の通りがかりの人物でも、我を主にすれば、全ての関わに深く意味合いはあるのです。端役として決して自らを放棄しないこと。かけがえのない人生舞台における我という存在。共演者は、登場しては去りながら、成り行きによっては突如ストーリーの書き換えもあるのがこの此の人生舞台。その際においても、誰の所為でもなく我の舞台の在り方に因るものだと知っておこう。さすれば、俄然、ひとつの無駄もない舞台なのだと、勇気も希望も見えてくることでしょう。人間は、テレビや映画や小説における、善悪、物事の良し悪しは判りながら、実際は、黒やグレー、お代官様的狡猾さを平然と生き、恫喝も暴力も過ぎた自己利が蔓延しています。しかしながら、やがてロングランの舞台が終了する時、親密な家族、隣人は別れを惜しみ、それぞれの立ち位置から見た共演者に有難うを。拍手喝采のカーテンコールで終えるように。人として、人生の王道を歩いていこう。誰もが主役の人生舞台。「あなたとまた家族でいたい」「あなたとまた隣人でありたい」・・そんな人生舞台に、まだ此れから登場するやもしれぬ共演者に期待しながら・・ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年05月21日
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おじさんがもてようとして、若い男に競ったって勝てるはずがない。おじさんには、そんな所で競わずとももてる領域がある。それは人生経験というやつ。間合い、心の懐具合ってやつで、若い人にはない魅力を放つことができるものだ。此の様な事を作詞家の秋元康さんが言っていたと、何かの記事で目にしたことがあります。若い人にないもの。それは 人生経験の数、そして厚みかもしれない。ただのおっさんおじさんに見えても、実の所、接すれば引き出しの多さと懐の深さに、えも言われぬ人としての飽きない魅力を感じることがあります。此の所ばたばたと、名優と称される存在感のある役者が逝ってしまい、此の先、果たして良い映画は作れるのだろうかと危惧してしまいます。物に溢れ利便性に富んだ現代社会においては、人は、平均的で見るからに画一的、感動や多様な経験から果てしなく遠ざかっていっているようにも思えます。抑揚と厚みを持たないまま人生を過ぎていけば、それこそ、人皆老いていく中で、何ら奥行き感を持たないただのおっさん、おじさんになって、到底、年齢のリング上に勝るものもない。これは男でも女でも同じことが言えるでしょう。顔が売り物の女優やセレブでもない限り、主婦は日々美容にかまけているわけにはいきません。糠味噌に手を突っ込み、家族の為に料理洗濯に追われ、なお働いている。男なんぞは、「仕事に疲れた」と言って家に帰れば食事の支度がされそれを食べるだけでいい。時には外で一杯ひっかけ気晴らしもできます。まあ、昨今の主婦は昼間から結構外でお茶しながらそれなりに気晴らしできているようですが。女性も、真に人生を重ねてきた先に刻まれた顔の皺を、料理も掃除も苦手で、日々をきれい綺麗に集中しながらも薄っぺらに感じるものより余程美しいと思うのです。内面外見併せ持てば勿論誰しも良いに決まっている。しかし、内面の魅力は表面を超える。男も女も、夫も妻も、如何に、誠実で優しい心美女、心美男であるべきか。いずれにしても、人間は皆年取っていく。かけがえのない人生をいかに誠実に生きながら膨らみをもたせられるかは、やがて立ち止まり振り返る段になって分かるものがあるということ。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年05月19日
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不動産屋でありながら、昔から、およそ不動産屋には見られず、その匂いさえ感じさせないようです。お客さんからはよく「銀行員の方みたい」なんて言われていました。^_^今でも生き生き?していられるのは、儲かる儲からない、経営者として成功しているしていないは別にして、私の人生における軸足が、商売とは別のところに向いているからなのだと思います。生き方は人それぞれ。幸いにして現在の職に就き生活の糧をいただき、我れ少々の役立ちを周りに還元でき、日々を生かされています。人生の軸足は地に着いているから、事象の変化に翻弄されることもありません。街に林立するビル群を眺めながら、そのビルには全く興味がなく、その谷間の向こうに広がる青空と、其処に浮かぶ、今日も何事もないかの様に悠々と流れていく白い雲を見やる。スクランブル交差点を、信号が変わるとともに、人波に押し流れていく 光景。一度、立ち止まったままその信号をやり過ごしてみよう。喧騒と雑踏の中、人波を離れ、いつしか見失ってしまった自分を取り戻せるかもしれない。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年05月18日
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archive 2008年8月ブログより青春の生き方ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年05月07日
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過日、若者と話す機会があった時、その若い人に尋ねてみたのです。「貴方がこれまで生きてきたなかで記憶する一番感動したことは何ですか?」「最も感動し、印象に残っているのはなんだろう」その若者の口から返ってきた言葉をこうでした。「そうですね、アップルからiPadが登場した時ですかね」その言葉に拍子抜けした私は、彼に尋ね返した。「その他には?」「・・」間が開きながら、彼はいささか考えあぐねている風で次の言葉が出てこなかった。そうか、平成生まれで二十歳前の彼の場合、生まれた時には既に社会は利便性に富んでいたのだ。物心ついた時にはパソコンや携帯電話があり、やがて極自然にネット社会に身を置いて生きているのだ。何不自由ない社会に生きながら、感動や喜びに出遇うことなく気づく情操部分も育たず生まれ生きる人を可哀想にも思う。数多く誕生して水泡のように流れていく音楽やゲームの娯楽。何もかもが雑居的に氾濫する中では、例えば、昭和歌謡やビートルズの様に、継がれていくようなものは成り立たないようにも見える。ネオン煌めく歓楽街の翌朝、大量に積み出される残飯は何を物語るのだろう。私が子供時代に生きた三十年代。何十年も前から、私は、今生きている此の時代が、これまでの歴史の中でも格別なもので、最も充たされた頂点に位置するのではないかと思っていた。戦争を経験せず存在する平和の中で、やっと出てきた白黒テレビや炊飯器。調理の道具としてひと家庭に電子レンジが当然にある現代の利便性に比べれば、不足だらけだ。ビー玉、かくれんぼ、Sケン、相撲・・田んぼや畑を球場としながら日暮れまで遊び、向こうの家並みの煙突から立ち昇る炊煙を見ながら家に帰っていった時代。SONYのラジオもナショナルのポータブルレコードプレーヤーも、少しずつの家電の進歩に感動があった。決して懐古的に感傷的に浸るということではなく、私も含め、多くの人が、本来その辺に転がっているはずの真の幸福をいうものを、いつのまにやら見失い棄てているのだろう。人の心が主体の「生きる」を、進化はとっくに追い抜いてるのに、人々はそれに気づかず、実のところは、その進化に引きづられ喘ぎながら生きているのだ。私が生きた時代、物質的に不足するなかで、心はしっかり手元にあって生きるに主体性があった。充たされた世に生きながら、無限大の感動を知らない人達を可哀想にも思う。喧騒を離れ、一呼吸でもして、頭を少し上げて見よう。青空に浮かぶ白い雲は何事もないように悠々と浮かび、今日を流れている。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年04月09日
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赤い糸世界総人口70億人。日本人口1億2千万人。ジャンボ宝くじに当たる確立は、1400万人が買うとして7万分の1。夫婦、親子、家族親戚。同僚、部下上司、生徒と教師。友人知人、今日出逢う人、別れる人。実に、宝くじに当たる確立以上の稀有なる遭遇と言えます。考えれば、その確立の驚異性に、人生において遭遇する事象や人の縁は、全て必然的であって偶然はなく、不思議であって何ら不思議なことどない、と確信できるのです。人は、それぞれの生まれ出づる状況によって、幸運の面と不運の面で線引きした所を、自らの人生事情と位置づけ諦観してしまいがちです。・・・ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年03月26日
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人間というのは愚かさと賢明さを持つ生き物だ。性善に立てば奢りとなり、性悪に立てば何も始まらない。さて人間は、長い歴史の中でどれほど進歩してきたのだろう。少なくともその精神においてはおよそ進歩などみられない。そもそも、たかだか七、八十年の人の生命では限りがある。しかるに此の地球と人間の存在は、修行をテーマとした場であるからして、理想の楽園は目指す所であり、人それぞれに与えられたこの世におけるその過程が意味あるものだから、課題がなくなれば地球そのものも不要となるかもしれない。ある時期ある場所にて、人間は、生と問題を共有してその時代を生きている。日常における、ほんの些細に見える小さな幸せこそが、本来気づかなければならない人類史上不変の要点だろうと考える。個人も国家も、自己利と保身の狭量世界が蔓延。国家が国家の体をなさず、世のリーダー、責任者の心など、市井の人よりはるか劣るのが現実だ。物質的金銭的財の多寡や肩書きも地位も、人の資質とは正比例しないのは今更でもない。地球誕生46億年前。恐竜時代1億万年前恐竜絶滅、霊長類誕生6550万年前700~600万年前、最古の人類化石370~100万年前、最初の人類約50万年前、北京原人約40万年前、マンンモス誕生約23万年前、ネンデルタール人出現約14万年前、氷河期現代人の共通祖先の分岐年代は14万3000年前±1万8000年。7万年前、ヒトが衣服を着る紀元前3000年(5000年前)、古代エジプト文明、メソポタミア文明など文明出現同時に人為による環境破壊が少しずつ表面化。紀元前後 古代ローマ、漢などの古代帝国が出現。18世紀後半 - ヨーロッパで産業革命が起こり、エネルギーの大量消費時代がはじまる。縄文時代、約12000前ー約紀元前三世紀。弥生時代の終わり、約三世紀。平安時代、794-1985戦国時代、1493-1573江戸時代、1603-1868第一次世界大戦、1914-1918第二次世界大戦、1939-19451945年8月6日広島、人類最初の核使用。2011年3月11日、東北沖地震。原子炉破壊、収束目処と汚染影響の範囲未だ分からず。使用済み核燃料を地下300M以上の地層に埋めていきながら、その核が安全となるのは10万年かかるとも100万年とも言われている。生ゴミは堆肥になっても、当面を隠す核にやがて地球は喘ぎながら満杯の汚泥土と化す。様々な場面で目にする核に対する責任者達の言葉は実に嘆かわしい。今の責任者達が二十年後三十年後に生きているとは限らない。少子化のなかで、この問題解決の専門家も育てなければならない。労働人口の減少、国防の問題は。大変さの中に、大きな問題を子孫に残すことに及ばない想像力の貧困さ。地球も永遠ではない。いつか消滅する。自然消滅ならその始まりとともに受け入れられるだろうが、自らそれを早めてはいけないのだ。使用済み核が安全となるのが10万年から100万年。現代人の出現10万年前・・遠い先のこと。たいしたことないか・・てなことにはならないのだ!事の起こりが10万年先ではなく、日々積み増される問題と、その問題の一部が収束をみるだろう歳月に10万年も要するのだ。今だけ、自分だけ、自分の国だけ、でいいのか。何も持たない、他人を侵害しない、未開の地に裸で生きる人。貴方達の笑顔の方が、よほど、天より愛される人間なのだ。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年03月20日
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ありがとう美味しいね悪かったごめんおはようこんにちは時には青空を眺めて見よう花を愛で自然に親しみ 音楽を聴き感動してみようまぶた閉じれば、過ぎた日々、生きた日々にどれだけ輝くものがあるだろう悔いのないように 今日できることは今日しておこう言っておこう片道列車の人生は窓を開けて車窓を流れる風景が捉えられるようなものがいい気が向いたら あるいは止む無く途中下車したならそれはそれで其処を楽しもう疲れたら木陰で切り株に腰を下ろし、頬撫でる風を感じ取ってみようそしてまた 向日葵が太陽に向かうように 歩は前に踏み出そう利便性に溢れ なにもかもがデジタルな風潮に 決して惰性的に心を看過させてはならない人の寿命は天のみぞ知るありがとう美味しいね悪かったごめんおはようこんにちは悔いのないように 今日できることは今日しておこう言っておこうランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年03月04日
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夫婦で旅する人生も、組織で進む会社運営も、目的地に向かうバスには、大切な部分が共有される人と乗り合わせる方が宜しいでしょう。大切な部分が共有できなければ旅は愉しくない。人の精神など、後で修正は大変だ。最も大切な部分が共有されれば、ボンネットバスだってガタゴト道を行くもまた楽しい。全開の窓から吹き込み 頬なでる風も心地よく、車窓を流れる景色も愛でることができます。車内は笑い声に満たされ、途中、例えばぬかるみにタイヤがはまり込もうとなんのその。全員で困難を乗り越え確実に目的地へ近づけるのです。旅する乗合バス。だから出発に、人の選択は重要。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年02月22日
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人間は誰しも、それぞれに目的を持って此の世に生まれ出たと思うのです。それが自ら選択したものか与えられたものであるかは別にとして、それはさしずめ、異なるジグソーパズルの様なものでしょう。自分ははたして何を人生目標としたのか・・此の目に確かに捉えながら、記憶の端に追いやられた我が人生の完成形ジグソーパズルを辿る旅が人生なのかもしれません。であるなら、人生路にピースをひとつひとつ埋めながら、時に思うように埋まらずもどかしい時にも、決して投げ出してはいけないのです。やがて盤面が形作られ、「ああこうなんだ」と、はたと行く路が捉えられる人もそうでない人も、前向きに明るく人生を埋めていくべきです。丁寧に歩む人生は、例え未完成に終わったとしてそれはすでに花開いている。何より此の人生ジグソーパズルには、とっておきのピースが存在していることに気づかなければならない。どの箇所にも、何時でも何度でも使えるとっておきのピース。逆転と挽回のピース。例え昨日までが悪に染まった盤面でも、今日、この一手で花畑にも変えることができるのです。このとっておきのピースは『愛』や『勇気』や『希望』というやつかもしれません。誰の手にもあるこのとっておきのピースに気づくか気づかないか。ただそれだけのこと。世の権力者もこれに気づけばいい。ブルドーザーで隣の垣根まで壊して突き進むような人生などは、永遠に完成しないジグソーパズルなのです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年02月19日
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付き合う人は、個々人の性質に違いはあっても、精神は善に向いて誠実で明るく前向きな人がいいでしょう。言ったことや時間を守る。あるいは、善悪の判断境目を観れば、凡そ信頼に足るかどうかの判断はつくものです。ひとと交わるなら社員を採用するなら、明るくて善なるオーラに包まれた人がいいですね。否定的で後ろ向き、始終、それらを隠れ蓑的に安堵するマイナスのエネルギーに包まれている人に絡まれば、自分が後ろに引っ張られかねません。しっかり良心の羅針盤に従い、天の下に人生路を行くなら、自ら発する「気」に連鎖した良質の「気」によって、必ずや眼前に幸運が舞い降りることでしょう。足るを知らない個人のエゴ。個人のエゴの拡大されたところに存在する組織や国家のエゴ。肩書きも地位も、満々の財力も世の権力者も、何のことはない。足るを知り、今日一日を笑顔で誠実に過ごすあなたの方が、余程上等の格を持って真理に近く生きているかもしれないのです。誰しも、ある時ある場面で、ほんの些細な人の言葉にその日沈んだ心を救われた経験があるように、今日を誠実に生きるあなたの行動が、落ち込み折れそうになった誰かの心を立ち直らせているかもしれません。真の幸福とは、その様な些細な人間のやりとりの中に存在していることを、多くの人が、肥大するエゴの中に忘れ去っています。個人も権力者も、足下の幸福を見よ。小さくとも日々における人々の幸福の連鎖は、この地球上に生きる我々人間に謙虚さを取り戻させ、力とエゴでは解決することのない虚しさを気づかせ、かけがえのない人生における良き隣人との交わりは、あなたに真の幸福を更に身近なものとしてくれるでしょう。 ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年02月17日
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先生が江戸にて処刑の前日に記された、知友、門下生への遺言書とも言うべき「留魂録」。この遺書は最高です。時々読み返せば、心落ち着かせ、我を原点に戻してすっと腑に落ちます。母上肖像留魂録ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年02月02日
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それぞれの事情や考えに立つことですから全てを否定はしません。最近の傾向として、問題あるごとに、報道される責任者の答弁を観ていると、なんとも心許ない印象を受けるように、政治世界もそうですが、社会機構の随所において、役目の認識が甘く、志にも乏しい。精神は軽々にて平面さを感じるのです。教頭までが先んじる駆け込み退職。まさか、その時、国を守るところに駆け込み退職はないだろう。子には、指導者としての姿勢がどう映るのでしょう。はたまた物事の決定には政治側も含め、狭窄視野と配慮に欠けて俯瞰的に良心の想像が及ばないのが今の世。喚起の3.11は、その後を観ても、責任者に誰がどう思いあぐねている節も伝わらない。社会全般が、懸念の利己主義的現代風潮を見るにつけ残念至極。否、世界を見渡しても、終わらない争い、遅々として進化しない人の心。排他的宗教観に、神を正当化できる何にひとつない。使用済み核燃料を二十億年の地層に眠らせる作業が続いている。想像できない年月ならいいだろうか。小心者の私は気になる。人類史のなかで、進化と衰退の狭間をいく人間の魂は、実に狭小だと思えてきます。本来魂というものは、水の流れに添うように、そよ吹く風に乗るように、何事にも囚われず軽く、全てを優しく包み込むように限りを持たず渡っていけるようなもの。遠い原始の時代。陽昇り日落ちるまで、自分の家族と最小単位のコミュニティがその日一日を生きる為だけの狩をし、家族仲良く睦まじく、隣人と助け合い、倹しい中にも必要十分な地球の恵みを感じながら生きていました。人類の歴史は、やがて、多くを欲するままに手に入れられるところから必然的進化を遂げて来たのです。が、何時においても、其処には司る善なる良心が存在していなければならない。我欲とともに、本来重みなど持たない魂は、重石となって暗黒との境の地表に淀み続け、実に長い間、底辺での競い合いに終始することになるのです。今も未開の地にひっそりと暮らす少数民族。カメラが垣間見た、河のほとりに佇む仲睦まじい家族の光景は、裸同然の姿見とともに、魂も実に身軽に漂っている。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月28日
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子供が独立し結婚して家庭を持てば、如何に父母肉親とて、当然の成り行きで自分の家族が大切になり生活の中心となります。親はそれをしっかり理解しておかなければ、疎外感をもち親子の関係もぎくしゃくしてきます。いつまでも子離れ親離れできないのは人間だけ。子の巣立ちとともにひとつの核ができ、肉親は、親近感強い他人へと変移していくのだと理解した方がいいでしょう。互いを尊重しながらも決っして期待し過ぎることもしない。子を育て上げるまでが親の役目、子に迷惑をかけずに老後を過ごせばいいですね。良き連れ合いに恵まれて、子供夫婦が仲良く家庭を築いていくならこんな悦ばしいことはありません。人間だからこその、相手を慈しむ心は大切にしながらも、互いの自立心が肝心です。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月27日
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幕末時期のドラマを観て、今は遠く彼方に消えてしまった、会話や所作の中にあった日本人の節度を懐かしく思います。思えば私も、子供の頃は誰に教わることなく、少なからずそんな部分を持っていたような気がします。祝祭日には隣近所のあちこちで軒先に国旗が掲げられていました。年長者を敬うのは当然、小学生の頃から日常においては他人に交わる中で、敬語は極自然に使用していました。今から考えると、私は特別堅い人間だったかもしれません。友達の家に遊びに行くと出される、夏は当時定番のカルピス。家人の前で私は正座し、口数少なくも礼儀正しく受け答えし、出されたものに手を出すこともあまりありませんでした。友達のお母さんが、「◯◯君、何か召し上がりますか?」と優しく問いかけてきても、私はいつも、「いえ、結構です」って答えていたものです。お母さんからはいつも「◯◯君は遠慮屋さんね」なんて言われながら。体育館に全員集合の時は、いつも正座していました。誰に言われることなく、自分にとっては自然な振る舞い。小学生、中学生・・生きてきながら、社会人となっても随分と長くその様なものを引きずってきたかもしれません。お世話になっている会社の社長や先輩に、中元、歳暮を贈るのは当然のこととしてやってきました。独立するまで続けていました。決して保身ということでなく、だから例え旅先からの土産を先輩に渡すのも分け隔てはありません。部下も同僚も社長も、全員を我が家に招待し、妻の手料理を振る舞うこともしばしばありました。とにかく人を招くことをよくしました。礼節を尽くし、しかし譲れぬものは譲れぬ。で、後のことなど考えず七度も職を辞してしまった。時々周りからは堅物とも言われながら、しかし自分自身は楽な状態にあるのです。ただ、社会に即応していくのは結構大変でした。私にとっては当たり前な事と現実のギャップに紆余曲折したのも事実。今はすっかり心身もゆるゆるになってしまったけれども、精神支柱は変わらぬものがあるかもしれません。振り返れば、家で父がごろ寝していたのを見たことがありません。朝早く起き神棚に手を合わせ、黙々と仕事する父との会話はほとんどなく、誰にどう教わったわけでもなく、私は自然に堅物?となった。風鈴の音響く座敷で、遊びに行った友達の家でお母さんが出してくれた白いカルピスを、正座して遠慮がちに手に取る子供の私が、まるで画面を見るように懐かしく浮かんできます。大河ドラマを見ながら違和感のない光景。凛としたものに惹かれる風土に育って良かった。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月22日
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仕事を終えての帰途、抜ける商店街に占いの店があります。時々、店先の看板を見つめて立っている若い人を見ます。狭い道路をゆっくりと流れる車の中からその光景を見つつ・・その先には、安さの立ち食いうどん屋があります。そこでも時々、店先のメニューをしばらく眺めている女性の姿を見かけたりします。およそ若い女性が一人で入るようでもないと思いつつ・・街には様々な光景があります。単なる独りよがりの感傷というわけでなく、ひとつひとつの光景がずっと残ることがあります。ある時、とてつもなく恥ずかしい思いをしたことがあります。街の外れの広い通りにある、タクシーの運転手や営業マン達が車を横付けにしてさっと利用できるうどん屋があります。私はそこで、肉うどん+いなりを一皿注文したんです。その後直ぐに店に入ってきた若い男性。見れば、近くで土木工事でもしているのか、作業服姿で今時やや髪染まりボサボサ頭。その彼が頼んだのはかけうどんでした。間を開けずにカウンターに並んだ肉うどん+いなりとかけうどん。私はとてもとても恥ずかしかった。昔、私も随分と苦しい時があった。ファミリーレストランでは、人件費を抑えるために、若い子は一人何役もしながら慌ただしく動き回っています。けれどもパート扱いは、働きたくとも定まった時間以上は働けない。みんな皆、想いや悩みを持ちながら懸命に生きている。中には身寄りなく頑張っている人も多いでしょう。今の世の中、孤独と不安は計り知れない。み〜んな幸せにできたらほんにいい。急に強く雨降ってきた街路を足早に散る人達に、車に積んだ傘を貸したくなるけれど、全員に傘を貸すことはできない。ふと、私に才あれば、一人でも多く雇ってあげれるのに、とそう思う。それぞれの人生に、沢山の幸が舞い降りるならいいのに。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月18日
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日々、眼前を流れる事象や人に、ピンとくる人とこない人がいます。心の羅針盤が精度よく働けば、プラスもマイナスも真摯に捉えながら、腑に落とすことができます。精神支柱のしっかりした素直さと純粋さを持つこと。これは様々な場面において幸運を呼び込む機会を生むでしょう。。対して、常に斜に構えている人は、狭小な枠のなかで独りよがりの判断をしがちです。縁も事象も、自ら遮断して、其処に隠された幸運に気づくことなく遠ざけているのです。そしてその状況下にある自分をして周りを悪く言う。しかしながら、これらは誰の所為でもなく、自ら呼び込んでいるに過ぎない。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月15日
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昨日、墓参りに行くと、墓所の隅に何体もの墓が塊となって寄せ集められていました。察するに、これらは既に身内の誰も訪れることなく、檀家としての繋がりも途絶えて久しい状態にある墓なのでしょう。昔のように子が故郷に住み続ける環境ではなくなった時代にあって、遠く離れた者の墓守は確かに大変です。更に、少子化のなかでは子の負担も大きい。私の知人などは、子が娘一人の為に、将来の子の負担をなくそうと、宗教をキリスト教へ変えた人もいます。子が男であればまだしも、娘がやがて嫁げば尚更のこと自分の先祖の墓など世話をしていくのは厄介な問題。これはこれで、ひとつの思いやりの姿でしょう。これからはそのような問題が数多く出てくるでしょう。先祖を敬い墓を守り続けるのは、もちろん崇高なる心。しかし、これからはそれぞれの事情による形がとられてもいいのではないでしょうか。永代供養も共同墓なるものもあります。個々人においてとられる先祖祭りの在り方と、敬い想う心に違いはないのですから。既に遠い彼方に還った先人を、ふと心に振り返った時と場所が、自分の墓所であれば良しなのです。何年も前、只一人の身内もいなく、癌に冒された友人を友人仲間皆で見取ったことがあります。いつも笑顔で周りを元気付け勇気づけながら、身寄りなく清貧の生き様は、病床にあって金銭面でも大変でした。病院や皆の協力によった四ヶ月間。ある友人夫婦は、毎日病室に通って身の回りの世話をし、痩せ細った足をさすり続け、着替えの用意、しもの世話までしていました。 心だけで多くが集まった葬儀場もまた協力してくれました。参列者への挨拶はもちろんその友にしてもらいました。火葬場で骨を拾い、遺影と骨箱はその夫婦が持ち、我々が共有する縁あった場所に立ち寄った後、亡くなった友は四十九日を友人夫婦の家で過ごしたのです。やがてある雨の日、山の麓に仲間が集まり、 亡き友は友達の背中に背負われ、我々が見送る中を数人が山を登って行ったのです。亡くなった彼にはただの一人の家族も親戚もありませんでした。ですから墓なんぞもありません。しかし、彼に関わった多くの人間に、永遠の心の墓所を 残してくれたのです。大切なのは、想う心の部分なのです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月03日
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老いた親の病床を、子が見舞わないということは、どうやらよくある光景のようです。様々な要因の中で、それは、親としての、過去における子への関わり方に起因する場合もあります。例えば、父親が家庭を顧みず好き勝手に振舞ってきたことによって、母親が随分と苦労しながら育て上げた子供達は、それでも面倒を見る妻としての母親とは違い、母親に迷惑をかけた父親として、過程に生きてきた子供達にとっては、どうにも消せないわだかまりを残すようです。父親、母親、原因は逆の場合もあるでしょうが。又、子への関わり方は大変重要で、例え幼子であっても親の言葉や行動はよく見られていますから、子供だからといって決して侮ってはいけません。夫婦喧嘩等も、子供の目線で冷静に判断されていますし、状況によっては、時に小さな胸を随分と傷つけてしまう場合だってあるのです。いずれにしても、子供の時に受けた感情への影響は後々まで続くこともありますから、例え貧しくとも、縁ある夫婦と家族は、誠実な関係でなければなりません。親の誠実な生き方こそ、多くを語らずとも子の心に留まり、子がまた次の子にその心を継がせることのできる大切な後姿と言えるでしょう。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2013年01月02日
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2012年もいよいよ残り僅かな時間となりました。最近はfacebookの方ばかりで、これまでほぼ毎日更新していた此のブログも、ややおろそかになってしまっています。しかし、何と言っても、き連ねて丸八年になりもなるこの楽天ブログは、私のSNSにおける原点。多くの縁をこのサイトに因って得ることもできましたし、多くを育てていただいた感があります。で、やはりベースとしてこれからも大切にしていきたいと思います。此処の良さは、じっくり落ち着いて書けること。大晦日・・若い頃、卸売市場に勤めていた私は、師走は大忙しで、31日はまだ配達途中のトラックの中で紅白歌合戦を聴いていました。正月休みも2日しかなく、雨の時も炎天下の時も、真冬の時も、エアコンなどついていないトラックで、毎日、朝から晩まで配達の日々でした。それから比べれば、ほとんどが事務所の中での仕事、年末年始は1週間も休みをとれている今は実に有難いことです。いろいろな経験を経てきたお陰で、今も、様々な職種において頑張っている人の気持ちが多少なりとも理解できますし、回りまわって辿り着いた現在地の有難みも分かります。特に裏方的な存在の現場につい気持ちがいきます。そんな人達へ・・めげずに頑張って欲しいな。皆さんにとって新年が、希望に満ちて明るいものでありますように。では、良い年をお迎えください。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年12月31日
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他人と比べて何に憂い、何を悔やみますか?幾ら物質的財を持とうと、飛切りの頭脳や容姿に恵まれようと、全てが満たされるわけではありません。不完全なところにこそ、本人が気づかない魅力は多々存在するのです。それを、自ら欠点と決めつけ潰さないことです。何をもって幸せと思うのでしょう。もし、健康体でこれまで大病なく生きてこられたのなら、それはそれで、万々歳なる幸せをひとつ手にしているとも言えるでしょう。財あっても身体弱い者によって、当人は気づかぬ対面の価値を見い出されるのです。であれば、何は無くとも健康体に産んでくれた親に、感謝のひとつも持たなければならない。足ることを知らず、有り余る満たされた中に生き続ければ、感動する対象は薄れ、心は限りなくか細くなっていきます。しかしながら、物質と精神の満杯に余地を持つことこそ、未来への希望と、大切な事への喜びと感謝の念を持ち続けることもできます。自然の美しさや営み、音楽に感動し、なけなしの金をはたいて買う一冊の活字にも、多くの気づきを得ることでしょう。身体に障害を持つ人は、同じ立場の胸の内を理解できます。介護に大変な人は、例え肉親であっても時に煩わしさを感じ、そう思う我の心を責めます。が、責めることなどありません。それが人間なのですから。我を責め、我に問う段階で、貴方の心は既に善側に立っている。小心者であれば、体験なくとも戦争の悲惨さ、恐怖を身近に感じ取ることができます。他人の心の痛みを我が事のように推し量れるようであれば、如何なる飛び抜けた才能よりも、人として、先ずは生きるに十分な人間価値を持つことになるのです。満たされ過ぎた中で、ときめきや有難さのひとつも忘れ、絶えず空虚感を持ちながら生きるのと、手を伸ばし欲すればまだある事の嬉しさ。心勝れば、欲とのバランスを取りながら、人の縁も眼前に起る事象も、はたまた四季の移ろいも、肯定的に懐深く留めることができるのです。小さくともきらめく沢山の事に気づきながら、縁は円を描いて、発する心に、まるでブーメランのように手元に還って来るでしょう。それは直ぐなのか、それとも忘れた頃に突然やって来るのか。はたまた、時を隔てて遠き彼方に再び生きる我なのかもしれません。しかしそんなことを考える必要はありません。想念と行動の延長線上に今があり、誰の所為でもなく、今の在り方によって、我は未来へと運ばれるのですから。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年12月25日
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私の故郷は、人口五万程度の小さな城下町です。交通の便等々を含む地方という地域性により、戦後の高度成長時代にもおよそ無関係に、世の趨勢とは隔絶した中を辿ってきた感があります。しかし、私の中では、その変わらぬ子供時代からの風景は、まさに心象風景そのものまでを、壊さずに今日まで運んできたようです。白壁から顔を覗かせる黄色い夏みかん。静寂な日曜日の昼下がりを歩けば、何処からか流れ漏れてくるNHKのど自慢の鐘の音。時は緩やかに刻まれ、低い家並の向こうには澄んだ青空と浮かぶ白い雲。陽光に輝く軒高き寺の甍。ほぼ歩いて行き渡ることのできる小さな町。町の何処に居てもシンボル的に仰ぐことのできる小高い指月山が、まるで人影の様に寄り添いながら碁盤目状の路地を少しばかり歩けば、やがて目の前に松林、そして砂浜と海原が開けてきます。白砂に穏やかに寄せては引く波。水平線に浮かぶ島々。傍には、やはり変わらぬ姿で静かに優しく見守るように指月山が存在している。私の子供の頃、そして、遡る幕末においては、松陰先生も高杉晋作も木戸孝允(桂小五郎)達が見ただろう風景は、今もさして変わりはないのでしょう。観光名所である松陰神社も彼ら旧宅も、私が過ごした日々においては、他所と変わらぬ遊び場所であり風景の中のひとつに過ぎませんでした。私は今もって故郷を愛しています。隔絶されたかの様な町。それは幕末当時においてもそうであったのでしょう。遠く、想い描く江戸に高揚が喧騒している。情報も物も、すぐさま手に入れることのできる現代社会においては、情操は置き去りにされ、熱情も大志も、机上を超えることなどないほどの小ささになっているのではなかろうか。今の政治しかり。先人は、海の向こうに、空の彼方に想いを馳せ、人に会うために見聞を広めるために、江戸に京に長崎に、気の遠くなる距離を自らの脚で駆け抜けて行きました。想(念)いが困難を勝っていたのです。氾濫する情報と、過ぎた個人主義と充たされ過ぎた狭小世界に人間は埋没し、感動も想(念)も手放してしまったようです。溢れる利便性の中で作り上げられた、デジタル的で平面な感情と引換に、人は大切な多くを失ったことに気づかない。個人的利得の追求は際限をみません。暴風雨も、台風の目に入れば何事もないように静かです。混乱の坩堝の中を往左往し続ける人間達。穏やかなる海と広がる青い空。世の喧騒を離れれば、静かに見えてくるものがあります。想いは如何なる障壁を持たず、空間を越えていける。海や空や雲同様、心にも限度はないのです。故郷に限らず、私は、今も昔の名残りをもつ城下町が好きです。其処に佇めば、心は実に落ち着いてきて、先人と同じ様に彼方に想いを馳せることができるのです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年12月19日
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昨日は、息子夫婦がやって来て「ボーナスが出たから」と、出前の寿司を振る舞ってくれ、私と妻と、姉にもプレゼントをくれました。更にお歳暮ももらいました。誕生日、中元、歳暮・・と事あるごとに家族にしてくれます。学生時代は勉強嫌いで、どうなることやらと思っていましたが、自分でチャレンジしながら、お陰様で一応安心できるところに就職もでき、二十代で家を持ち・・まあ、しっかりやってくれています。私のこの頃は、コツコツを生きながらも生活は大変でした。私とはタイプは違いますが、人生、何がいいかわかりません。そして、学歴とは違うところに人生活路や幸運が存在するのも確かです。基本として必要なのは、やはり誠実さと向上心。昨今の傾向にあるように、就職しても半年ももたないようでは、人生における大切なものを見つけることなどできるわけがありません。気がつけば、何も見つからず何も進歩しないまま、あっという間に惰性の中に人生を流していくようになりますよ。妻が言います。「貴方達が家族仲良く暮らしてくれるのが、何よりの親孝行」親に心配かけず、金銭的にも自立してくれれば上等です。何よりの幸せです。私達夫婦は、私の親の借金を払い、仕送りをし続け・・自分の生活も大変だった時に、妻はとんだ災難でしたが・・その分、天はお返しをくれたんです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年12月17日
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人生は双六(すごろく)のようなものです。スキップするように軽やかに進んだかと思えば、停滞したり、後戻りしたり。時に障害物も迷路も用意されています。まあしかし、ゲームと違い人生の双六というのは、本来其処に競争はなく、自らの意志さえあれば、命尽きるまで、駒を前に進めることができるのです。しかしながら人は、とかく人生の盤面に他所の芝生を持ち込み、競いを生じさせ、羨み、比較して我の状況を嘆き、一喜一憂し、いつしか歩を進めることもせず、滞留の中になんとなくの居心地よい安堵と諦観の自分世界を作り上げてしまいがちです。一歩でも前に向いて歩けば、時どきにおける現在の居場所は、何時だってGOALに近い立ち位置にいるってことです。平面に捉えがちな人生双六。例えば塀に塞がれた迷路も、頭を少し起こせば、青空も見え、今日も、何事もなく悠々と流れる白い雲の存在も分かります。少し高みに心を遊ばせ鳥瞰すれば、視野に入る全体のなかで、いかに小さく狭い場所に自分が右往左往していたかに気づくでしょう。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年12月04日
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年賀状を書く時期となりました。私は昨日、今年頂いた賀状を全てシュレッダーにかけました。賀状は一年手元に置いておき、こうして全て消します。しかし、一枚一枚はしっかり心に留めています。これまでの取引した数々の全てを記憶しています。十年経ち二十年経って、ある日突然、昔のお客様から連絡をいただくことがあります。たった年に一度の年賀状が結ぶ縁によって。Facebookで友達登録している全ての人の、人なりが見えています。これまで歩いて来た、私の人生の軌跡全てが記憶に留まります。藪を抜け障害物を乗り越え、時に立ち止まり青空を仰ぎ浮かぶ白い雲を眺めながら、しっかり地につけて前に歩いて来ましたから。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年11月29日
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・・たらもう少し頭が良かったら、もう少し学歴があったらもう少し美人、イケメンだったら、もう少し金持ちの家に生まれることができたら、もう少し◯◯であれれば、◯◯であったなら・・人によっては、これら「もう少し○○だったら」を、頻繁に思い嘆きます。しかし、それは、まるで回し車を走り続けるゲージの中のハムスターの様に、自らの人生を堂々巡りさせ、進歩も希望も見えない中に滞留させることになるのです。過去を悔やみ現在を悔やむ心は、誰にも平等にあるはずの、未来の希望さへ、自ら遮断しているのです。どっぷりとその中にはまり、気づかぬうちに愚痴と否定的思考で心は埋め尽くされている。まるで怠惰なゴミ屋敷の住人の様に。手に持つスポンジに手加減を加えなければ、蛇口から落ちる水流を受け止めることはできません。タップリと含また水分は、やはり手加減によって必要分を手に取ることはできません。世間が悪い。もう少し○○だったら・・世間や環境の所為する人間は、この、自らを意志にって運ぼうとはしません。その気がなければ、気づきも吸収できません。手に持ったスポンジの吸収と押し戻し。人生路というものは、いつも自らの手元にあることを、人は忘れているようです。私は、落ちこぼれ的で頭が良くなくてよかった。で、志望校へ行けなくてよかった。一流大学に入り、一流やそこそこの企業に入らなくてよかった。実家が倒産してよかった。ラーメンを噛る生活を経験してよかった。失恋してよかった。イケメンでモテ過ぎて有頂天になることもなくてよかった。だから妻とも出逢えた。やや直情的で、反骨精神があって、正義感があって、後先考えず七度転職してよかった。ある日突然、固定給六十万と役職までもらっていた会社を、いろいろあって「今日で辞めた!」苦労の末、自力で掴み取り、やっと安定しかけた生活だったけれど。またまたゼロになった。で、考えてもみなかった独立する羽目になった。二十年前の事だ。人生マイナスをやっと取り返した中だったから、資金もゼロだった。八度目の転職が独立だった。いつもある日突然。「我慢ならぬ」が起きた。妻には一度も相談したことはない。だから随分と苦労させた。しかし、いつも一所懸命だった。勤めにおいて、ただの一度も手抜きしたことはない。陰日向なく働いた。短気でよかった。「人生金ではない」のところも良かった。その他まあ数々あって、紆余曲折だったけれど・・やがて世の中変わり、そこそこの会社で安泰の生活をしていた人間達が、ある日突然リストラに合うのを目にするようになった。のんのんと企業に生きて来た人間が、ある日突然、防波堤を外され右往左往していた。つぶしが効かない人間達を横目に、地を這って来た私は、いつも通り人生を踏みしめ歩いていた。何が良くて何が悪いのか。何が不運で何が幸運なのか。それは人生を終える時だ。で、もちろん今も続行中。華やかな人生を歩いてこなかったお陰で、今、こうしてブログやFacebookを趣味的に書きながら、多くの魅力ある人達と接することができた。エリート街道を行けば、決してこの喜びを味わうこともなかっただろう。そして生き様は、天は勿論のこと誰かが見ていいる。自らの意思なくて、誰が手を貸すだろう。幸福や希望というものは、いつだって自らの手元にあるものだ。全ては結果オーライといきたい。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年11月23日
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バスツアーは楽しい。もし、人生のバスツアーに参加するなら・・やはり気の合う人達と車中を共にしたいものです。芸能、著名人選抜・・ガッツ石松、具志堅用高、内藤大助、新庄、イチロー、藤岡弘、陛下御夫妻、笑福亭鶴瓶、流通経済ジャーナリスト故金子哲雄、張本勲、高倉健、関口知宏、田中邦衛、樹木希林、TBSサンデーモーニングコメンテーター面々、RKB毎日放送「探検九州」出演者、以上敬称略。私の合席は北のカナリアさん。しみじみと、「キューポラのある街」から現在までの変遷を話してみよう。爆 爆運転手はガッツ石松さんにお願いしよう。バスガイドは、もちろんテレビ東京アナ、森本智子さん。(^ ^)行く先は お任せ。車中はきっとワイワイ思いっきり楽しいに違いない。話し噛み合わなくとも、心は噛み合うはずだ。かの松下村塾も、あそこで面々が語らう日々はこんなものだったろう。人生は愉快に行きたいものだ。さあ、人生の楽園へ旅しよう。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年11月13日
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人生は、明るく希望を持って生きていきたいものです。明るい道を選ぶのも暗い道を選ぶのも本人次第。人との交わりも、否定的、後ろ向きの人間と付き合うとマイナスにエネルギーを奪われ、随分と精神的に疲れるし貴重な人生時間を浪費してしまいます。やはり、自らも成長できるプラスエネルギーを持った人と付き合うべきです。その人となりは、その人が付き合う人間を見れば判るといいます。正に相応しき縁が円を描いていくようです。類似魂というやつです。まるで磁石の様に引き寄せ合う。互いに堕ちていくより互いに発展していく方がいいに決まっていますね。此のSNSの世界を観ていると、堂々としたFacebookとは違い、ミニメールに暗いものがあるようです。というより、どの世界にもあるのでしょうか。ちまちまと誹謗中傷の温床に成り易い。時に陰湿極まりない。勿論、使う側に因るのですが多くの人にお叱りを受けるのを承知で言わせていただくと、人間性において低レベルも多い。精神の次元が低いのだ。その様な場所や人には近づくな。これが私の言いたい事。人は選ばなければならないし、また、選ばれもするということです。自負をもてる自己確立が肝心かと。この世界は、ある意味、ノーベル平和賞的に人間社会に貢献したと思っています。多くの、これまで知り合うこともなかった人達と出会うことができるのですから。才能を持ち、魅力的な人も数多く存在します。ある時は心救われ、ある時には誰かの心に勇気を与えているかもしれません。人間発見は多々あるSNSの世界の貢献度は数しれません。サイト運営者さんの軒先を借りているということを忘れず感謝しながら、正しき想念の下、人間的良い人と交わっていくのがよろしいかと。人生は短かい。陰にこもることのないプラス人間と付き合えば、自分の人生も豊にさせてくれるでしょう。SNS「趣味人倶楽部」への日記投稿を転記<コメント一覧>>しっかりとした考え方、、また、そうして今も生きている。朱に交われば、赤くなると言われますが、、ほんとにそうです。毒づくほどにも、程がある。愚痴などを聞いて貰っている人は、正直、敬遠です。今日も元気に過ごそうとしている人は、明るい心で生きているのが、手に取るように分かりますね。人間としての振る舞い、、裏表であっては、信用できません。信用されて初めて生きている価値があると言うものです。って今日は、熱く語ってしまいました。いいですねぇ~~!いつも前向きなnextさんです。>私も同感です>私も同感です。いい友を持つといい人生が広がります。世の中にはえたいの知れない人もいます。中傷や嫌がらせ・・・マイナスの時間は早く切り捨ててプラスの日々を過ごしたいです。きっぱりと言い切ったnextさんに拍手です。日記読んで元気がでました。>人との交流の無い人生 こんな寂しい事はない又自身を見てくれるひとがいなければ成長も望めず人生における真の友人とはそうた易くは見つかるものでもなくた易く近ずく者は要注意、当たりは 悪くても付き合ううちに味の出る人を大切にしたい良く言われるのは真の友人は悲しみを半減し喜びを倍増してくれる中々腹を割って話せる友は少ない一端心を開いた友は生涯大事にしたい此処趣味人はそもそもバアチャルの世界では有るが他では全く出会う事の無い者同士が何らかの機会に出会う全くの偶然のなせる技其れを無駄にはしたくない、良き友を得るチャンスなのだから其れを活かすも殺すも自身の選択次第>私も同感です。自分の人生 良くも悪くするのも人を選ぶこと大事なことですね!類は類を呼ぶと言いますね!>素晴らしい日記を読ませて頂きました。皆さんのコメントに元気ずけられます。また メールさせて下さい。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年11月09日
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人生というのは、運動会のライン引きの様に、消石灰が入った手押し車を前に進めて行くようなものです。路は凸凹道だからスイスイとはいきません。人それぞれでしょうが、私の場合、引く線上に障害となるいろんなことがあったとして、やっぱり前を向いて引いてきたのです。後ろを振り返れば、なんともジグザグで、スッと伸びた綺麗な線に比べ随分と汚く見えようと、石にぶつかり箱ごとひっくり返った跡があろうと、直に地を這った人生ですから、線状の振動は押す我の手元に伝わって、いずれも心に残るわけです。年に何度となく、私が触れた過去における事象を思い浮かべます。意識して思い起こそうとするわけではなく、ふとした折に、その時々の場面が蘇るのです。それは、出勤途中の車中であったり、寝床の中であったり。幼少時から、私の身の回りの世話をずっとしてくれた、血の繋がりのない祖母の事。不憫さを想いながら、ついぞ恩返しができなかった無念さ。四十年以上も前の高校生の時、バイト先でお世話になった人の何気ない優しさ。チキンラーメンをかじっていた大学時代。警察内にあった食堂の通い帳に滞った、定食百八十円の飯代。溜めた数千の、その金が払えず、私はそのまま気まずく足を遠のけてしまった。卒業前の夏休み、帰省先にその食堂から葉書が届いた。「久しくお会いしていませんが、お元気ですか・・」と書いてあったその暑中見舞いに、滞納した食代のことは一言も書いてなかった。あの時の食堂を経営していた家族は、明らかに私を見逃してくれたのだ。その後、ついに私は心に悔いを残した。四十年経った今でも、年に何度もその食堂の心を思い出す。七度転職、八度目にやむなく起業することになったけれど、私は、今日に至るまでの縁の全てに感謝を忘れない。大学時代の、ガス止められ風呂なし四千円の四畳半は、不思議に今振り返っても晴天の下のようだ。その状況下で妻に出逢うこともできた。紆余曲折の人生は実にハッピーなり。これからも私は変わらぬ人生のラインを愚直に引いていくのです。しっかり手に伝わる、地面に存在する人生の王道を。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年10月28日
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過ぎた個人主義、保身、甘えの構造・・が蔓延し、精神の低級化が進んでいるように見受けられる昨今の世の中。辛抱ができない努力せずして世の中や他人の所為にする・・あらゆる業界において、現場、そして採用する責任者の声としてよく耳にするところだ。企業によっては、誠実さとやる気の、外国人雇用の目を向けているともいう。使える使えない。生きるに様々な問題を解決しようとするなら、それは先ず以て、誰に依存することなく、個人の精神というところに帰結する。企業は、性別、パート、正社員に関係なく、定年を過ぎた人間でも、やる気のある人財をどんどん雇用していけばいい。世の中がどうあれ、家庭の事情うがどうあれ、いつの時代においても、自分次第なのだ。学歴、肩書き、地位名誉、物質的財の多寡、例えば、SNSを営業のツールとして利用しようと、詰まる所は本人で判断される。天の下に生きるものに、その判断は全くの平等だ。即ち、自己責任における堂々の個人を確立すればいい。先ずは、此の世における唯一無二の我を愛し大切にし、自らの善なる意志でその魂を牽引してやらねばならない。誰がどう言おうと思おうと。いかなる時においても対峙するのは我と天なり。自己確立された精神を持ってこそ、他人を思いやることもできる。便利なデジタル化と、ある面、無機質で使い捨てサイクルを持った白物家電のように、個人までが魅力を持たなくなった現代社会。机上の勉学より大切なの情操部分だ。情操は、懸念も心の痛みも、戦争の恐怖も、進化することとその側面に潜む破綻等、あらゆることに心及ぶだろう。同時に、真の幸福や喜びも感じ取れるだろう。「何で俺が出なければならんのだ」「もう少し若い人がしっかりしてくれよ」数々の憂いは、今年八十歳の石原氏の言葉に尽きる。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年10月26日
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現代の世は、過ぎた個人主義と、あまりに合理的であっさりとした人間関係が蔓延しているように感じられます。自分にとっての損得を物事の優先順位とする社会や他人との関わり方は、一見当たり障りなく良さそうであっても、実は平面的で無機質で、やはり、我を中心とした勘違いの平和的在り方の様にも窺えるのです。現代人は、有り余る物と利便性の波間を漂いながら、充足感や幸福感、そして感動することを忘れ、真の幸福を見出せないまま、人生海上をアップアップしながら漂流しているかのようにも映ります。全てに満たされなくとも希望と人の温もりがあった「三丁目の夕日」的光景は、人が人であったのです。人があって物がある。その時代を生きた人は、心を主人(あるじ)としてPCや先進的機械を使っています。が、今は、人の心は物に埋れて、まるで人と物の、その境界線を無くしたかのようです。如何に考えられた安全な原子力も、それを司るのは人心。TV画面に映された当時のやりとりに多くの人ががっかりとする世の中。生まれた時から満たされた甘えの構造は、成人してもなお、幼子が補助輪のある自転車に跨り、後ろに親の手を受けている。若い女性が、結婚願望を持ちながらも、敢えて共に苦労をしたいとまで思わせない男も多い。女性に体力仕事は無理でも、男は、がむしゃらに肉体労働でもできるのです。額に汗することもなく、たかだか一年の仕事辛抱もできなくて誰が一生を共にしようと思うだろう。それくらいなら、自分一人で生きた方が煩わしくなくて余程いい。如何なる困難な状況下においても、懸命に仕事に人生に対峙している男は、どこかきらりと輝いて、相応しきパートナーも現れるものです。平面的、画一的ではなく、そのひとならではの個性が光っている。これが大切。戦国時代に生きれば、多分に脆く危うくひとたまりもない吉田松陰。内面が丸見えのその性質は、しかし、とても魅力的だ。周りがハラハラさせられる様な直情さは、世渡りには非常にまずい。政治家などにはとてもなれないタイプだ。しかし裏表のないその、時に激情とも言える姿に熱き心が伝わって、こちらも心動かされるのです。先生は実に阿呆で大馬鹿ものだ。先急ぐことはなかったけど、あそこでThe Endだったからこそ、先生そのものだった。荒削りでも人には熱き心が必要だ。秋になるとつい読み起こしてみたくなる先生最期の言葉。「留魂録」。心落ち着き、沸々として思いが伝わってきます。留魂録ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年10月19日
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人が生きていく上では、生活基盤を支える金銭的等物質的部分が必要なのは勿論のことではあるけれど、やはり、何より大切なのは肉親、他人、人との関わりです。人間は独りでは生きていけません。いかに強靭な肉体と、強い精神を持った人間であっても、対人関係を遮断された中で独り生きていくのは困難です。人間関係にいろいろあったとして、社会という枠の中では、対人関係によって個人も成り立つのです。家族ということにおいては、世に一人で生きている人は多いけれど、これらの人が、何もかもの全てに孤独感を持って生きているとは限りません。戦争終結を知らずフィリピンルバング島の密林に部下と生きながらえ、最後には一人となって29年目に帰還を果たした日本国軍人小野田寛郎氏。同じく、太平洋戦争集結を知らず28年目にしてグアム島より帰還した横田庄一氏。全くの隔世に生きながら、彼らを支えたのは、御国の為という精神であったのですが、此の精神支柱は本人の良心に基づくものであったからこそ、想像を絶する孤独を支えることができたのでしょう。個人においては、此の「善」なる支柱というものの存在がなければ、如何なる孤独も耐えることは危ういかもしれません。地位名誉、学歴肩書き、優秀な知能や、余る程の金銭的物質的財産に恵まれようと、家族や部下との問題、組織の軋轢に頭悩ませる姿は多々見受けます。財産が絡んだ骨肉の争いは実におぞましく見るに耐えない。兄弟仲良くが親の願いであっても、其処に他人が入り新たな家族構成となれば途端に揉めて、果たして血の繋がりは何であったのか、と思わせるケースは山程存在します。事業を成功させ多くの不動産を所有した一見の成功者が、疑心暗鬼の坩堝の中で、孤独感いっぱいの裸の王様であることも多い。いくらこれら数々の財に囲まれて生きようとも、人との関係に孤独感を持てば、世を渡る不安に苛まれ、その不安は永遠に解消しないことになるのです。それこそが人生を重く引きずる孤独感であり、真の幸不幸は、それらと一線を画した位置で判断されるわけです。肉親の縁に薄くても、肉親以上の人の縁に恵まれた人もいます。苦難や困難にも、金なくしても人あれば、希望を持ち、越えて行く勇気もまた湧いてきます。逆に地位や権威や金をもってしても、人なくしては到底、真の幸せと成功を得るには難しい。今の世の中は、生きていくには大変難しい時代かもしれません。しかし、これはただ一人だけに課せられたものでもありません。世の中全体におけることなら、つべこべ言わず精一杯に生きて行きましょう。夫が歯を食いしばって家族の為に一日を頑張って来たらなら、「お帰りなさい」の優しき言葉をかけてあげましょう。夫は、日々家計をやりくりしながら主婦している妻に感謝の気持ちを持ちましょう。子供は子供で、学校という場でいろいろ葛藤があるかもしれません。誰にも言えず小さな胸を痛めているかもしれないのです。長い人生を見れば、子供を一時的は視野でその個性を奪ってはいけない。家族も会社も、縁あるその構成の中で、互いの信頼と人があれば、障害など乗り越え、幸せの訪れも十分期待できる気がしてくるものです。そして、明日をまた頑張れる。人なければ、全ては砂上の楼閣の様に虚しさに苛まれ続けるのです。善を精神支柱として人生を生きる人に、真の孤独はないでしょう。どの様な状況下においても、正道を歩むこと。さすれば、人生の応援者は数々我の前に出てくるものです。歩み、走るのは自分自身。良心のゼッケンを胸につけ、額に汗し走るその誠実で自立した姿に、沿道の他人は応援したくなるものです。縁もまた相応しくブーメランの様にまわり回って自分に還ってきます。人生は、決して投げずに走り切ること。其処に、大いなる人生価値が存在するのです。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年10月12日
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写真というのは、同一の被写体を何度撮ったとして、一つとして同じものを写すことができるわけではありません。微動だにしない被写体も、太陽の陰りや風の流れ等々によって、刻々とその表情を変化させています。又、撮る側においても、人の感情はその都度揺れ動いているわけで、被写体に対峙して場面場面に写し取られたものは、その時における心が、微妙に反映されるものです。人には、心動かされる瞬間というものがあります。その時を感じ取れるか取れないか。大切な瞬間に出遭う為には、心に純なるものを持ちあわせていなければならない。人生においても同じことが言えます。人生の岐路に立った時、我が良心の羅針盤持っていれば、紆余曲折の中にあっても、針は信頼の振れを見せ、迷路にはまることなく先に導かれることでしょう。積み上げていく人生の大切な一瞬一瞬の為にも、その心は澄んだものでなければなりません。物質偏重に囚われることなく、美しきものに見て触れ、沢山の感動体験を得ていく。生き方や他人との交わり方、師の選択、会社選び、社員採用、はたまた人生の苦楽を共にする伴侶選びも、人生における数々の選択場面には、個人のセンスが光るものです。日々流れていくかけがえのない一人ひとりの人生。如何なる能力を持つより、刻々と流れ行く大切な日常において、人情の機微を知り、大切な一瞬を心に掴み取る感性を持つなら、きっとその人の人生路は、写真の様に美しく切り取られていくことでしょう。巡る四季の様に、人生のアルバムも彩られたものでありたいと思います。白の彼岸花が好きです。数年前にたまたま道端に見つけ撮ったこの彼岸花。上手下手は別として。その後、此の時期になると白を求めてあちこち見るのですが、私の中ではま、だ此の白以上に出遭っていません。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年10月05日
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「いつもニコニコしていますね」「全く苦労していないみたいですね」・・昔からずっと言われてきました。そんなことはありません。それはそれはいろいろありました。泣きたいこともギブアップしたくなることも山ほど。リング上で仰向けにノックダウンして、そのまま白旗上げて逃げ出したい状況であっても、生きる為には自ら起き上がらなければなりません。誰が助けるでもなく、人生を助けていくのは自分自身なのです。やはり逃げてはならない。悩みや困難は、まるで人影そのものです。逃げればいつまでも追っかけてきます。前に立ちはだかる困難や障害、足踏みしたくなるような状況。大上段に構えられた太刀には思い切って懐に飛び込むことです。さすればまた、突破口も希望も見えてきます。自ら立ち上がって再び前を目指す姿勢あってはじめて、多くの援助者も出てこようというものです。人生路というものは、逆境下においても地に足をつけ、前を向いて堂々と歩いていくものでなければなりません。決して他人に迷惑をかけ、ぞんざいに毛散らかす様なものであってはならないのです。笑顔で歩む誠実で丁寧な人生に、幸福は寄り添うのです。土曜の朝、植物の水を入れ替えるのが私の役目です。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年09月29日
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早朝、はたとあれこれ想いが湧き上がり、床の中で一気にiPadに書き連ねていまう。これが私のブログパターン。今日もつい?が湧いてきました。そもそも此の世に於いては、苦しみや身体が感じ取る痛みなど存在しないのではないか。苦しみや悲しみ、人間間における憎悪、争い、そして身体的痛みは、超リアリティー性を持った仮想現実に過ぎないのではないか。但し、美しいものに触れて起こる感動や喜び、感じ取る悲しみ憂、良心側に立った心の傷みは全て真実であろう。舞台や映画の劇中においては、観る側には、感情移入されながらもまだ仮想と現実に立っている。The Endとともに暗い館内から外の明るみに出て、いつもの我の現実に還る。此の世においては、ロングランの舞台を生きるようなものかもしれない。人は全て、劇中の中に生きている。悲喜劇、家族、関わる人間、争い、問題提起、感動場面・・誰もが、その立ち位置からすれば主人公であり、どのような関わりであれ、特別な関係者となる。眼前に現れる必然的事象と必然的縁。ひとつ違うとすれば、台本は、監督から渡されたものではなく、自ら選択に関与できたものだということ。場面を観て、悲しみと喜びに涙する。この時、心の針が触れる良心側の観客席が現実なのだろう。超リアリティーな劇中においては、目的と強い想いをもって手にした我の台本(課題)に我を見失い翻弄されてはならない。劇中の悪に本当に塗れてはならない。なかなか解決しない人類の舞台劇。良心の観客席側を忘れてはならない。如何なる困難な時にも、良心の現実を放棄してはならない。私は全ての宗教に興味を持ちません。真理は、それらをいとも簡単に超えてしまうでしょう。2012.9.27ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年09月28日
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世の中益々混沌として、暫く平穏な時代を生きてきた我が国も、いよいよ不穏な中に曝されることになってきています。平和を維持するのは大変だ。江戸幕府260年がたいしたものだと思ったりします。足るを超えない穏やかなる人間は慎ましく平和な中に生き、足るを知らない人間は、ブルドーザーで隣家の垣根までなぎ倒して突き進み、多くを傷つけます。個人レベルから国家まで、他者を顧みない間違ったエネルギーによって翻弄されるのは、いつも平和に今日を生きる優しき人々なのです。多々憤りを覚える日常の人間関係も世の不条理も国家の愚かさも、遅々として進歩を見ない人類の魂の成長。果たして此の世には、どうにもならない数々の不条理と幸不幸の不公平が存在し続けるのでしょうか。人間、成長の為に課題としての不条理はあっても、真の不公平など此の世に存在しない。何故なら、こう考えなければ全てが解決しない。今日までにおける人類史を観ながら、そして世の現状を鑑み良心に照らして私の疑問を払拭してくれるのは、此の一点に尽きるのです。「此の世に真の不公平など存在しない」詰まるところ、どの様な状況下にあっても、希望を棄てず、心ある人達で、前を向いた良心の培養をしていくことです。良心の連鎖こそ、天は大いにほくそ笑んでくれるでしょう。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年09月26日
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暴動を見ても政治を見ても、人間は、その誕生から21世紀の現代に至るまで、文明の進歩に比して、その精神は何ら発展を見ないままのようです。その日一日を、家族を守って食うに足りた紀元前、文明の祖に生きた人間とどう違うのでしょう。21世紀を経て、人の心は尚この有様です。昨今の状況をみて、私は時々「ファミコン、ゲームが悪い」と、半分冗談、半分本気でいうことがあります。進歩と物質の氾濫は、精神を軽々なものにしてきたようにも思えるのです。テレビの液晶画面は綺麗です。しかしプラズマ方式の方が質感と深みがあります。それよりもあるのが実はブラウン管なのです。まだ言えば、鮮やかで綺麗だけれど平面的に映る液晶より心に残るのは、皆が驚いた白黒画面のテレビの登場でした。見る側は、白黒画面の中に色を読み取ることができたのです。数々の便利性とともに、驚きと感動を忘れた人間の心は益々平面的になり、心のひだを形成されることなく子は大人に成長し、人としての奥行き感を遠ざけてきたようにも感じます。人生の全てを我に終始する。生まれた時から平坦を歩き、誤った個人主義が蔓延する世の中。成人になってもゲームに夢中な世の中は、仮装と現実の狭間で自ら希望を見失い、大局観に立つこともできない。文明の発展と裏腹に、人類の精神はなんともお粗末です。まるでハムスターの回し車の様な人間社会。世界の権力者はもとより人は、一歩喧騒の外に離れ、この人間というものを見つめてみようではありませんか。なんと、木戸孝允(桂小五郎)幼年期七、八歳頃の書です。これは少年期十一歳の書。素晴しいですね。朱書きで「天晴見事見事(あっぱれみごとみごと)」と評価されています。故郷の先輩達に、あっぱれ!物質的便利さのない時代。しかし、そこに生きる人には、大人も子も「凛」とした部分がありました。大切なのは、世を想い人を想い、大局観に立った気高き精神か。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年09月18日
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世界的に見ても国というものは、紡ぐ歴史の中で戦争のない平和であった期間の方が少ない。我が国においても、第二次世界大戦終結後から今日までの平和というものは、たかだか七十年にも満たないのです。出口の見えない紛争地帯も、保って一世代限りの平和も、人類はなんともか細い善の中に生きていると思わせます。一個人の利己主義と我欲は、国家においても、権力集中のなかでまま増幅され、あらぬ方向へ流れていきます。家庭においても様々な組織においても国家においても、その運営はそれらを司る個人の心の資質に因るところが大。自己利のために、あわよくば他人の芝生をも侵害して我のものにする。市場経済における企業も個人レベルにおいても、過ぎた我欲は、法に抵触するかしないかの線上を行くことがしばしば見受けられます。バブル崩壊もまた、多くの人が我を忘れ、地につかぬ利得に夢中になった結果です。国家間においても、提起された問題は冷静に精査されるべきでしょうが、過ぎた我欲は一歩下がって立ち位置を変えてみることをしません。善も悪の心も持ったのが人間ですが、残念ながら、マザーテレサやガンジーの様に特別の魂は別として、広く一般には、自分の生活が担保されてはじめて、理性を保ち他人のことまでを考える心の余裕を持ちます。社会形成において決して独りでは成り立たない個人は、自らを確立させ、自他共栄を図りながら、成長と希望のある平和な世の中に生きることが理想でしょう。けれども、日常生活における小さな領域から国家間まで、利害は時に激しく蠢くのです。良いところも悪いところも、世を動かすエネルギーは個人の欲求から発せられるものであり、時代の成長と変化の歴史は、その時折のそれら強いエネルギーを持ったリーダー達によって牽引され、刻まれてきたのも事実なのです。そもそも穏やかな心を持った多くの民は、他人に対して 無理難題、力任せの傍若無人な振る舞いには至らない。どの国においても、時代を生きて来た市井の多くの人達は、いたって平和に生きる人々であるでしょう。歴史に名を残すものが偉いとは限らない。片田舎に生きる人の笑顔に溢れるばかりの幸せを感じるように、高貴な精神を持った人というのは、案外その辺にいる目だたぬ人なのです。強引で暴力的な光景に、善なる心が揺れることなく、違和感を抱かない人間と国家というのはどうだろう。これらを鑑みても、今更ながら、地位も肩書も育ちも財産の多寡も学歴も、国の権力者も、人の心の資質とは正比例しないことは明白なこととなります。良心に照らすことのできないそれらは、世の役に立つことはないのです。宗教においても、暴力的で排他的なものは真理から遠ざかるのです。世界における善なる人々は、争いなく他人の垣根を壊すこともなく、心穏やかに今日という日を慎ましく生きています。善なる良心と十分な想像力をもってすれば、悠久の人類史に立って、数々の反省や人間の愚かさも愛も、過去から現在を貫いて容易く是々非々の判断をできるでしょう。あるいは、遠く離れた宇宙空間からこの地球を見下ろしてみればいい。なんともちっぽけな、個人と国家が見えてくる。原発にしてもしかり。解決を見ないまま、三、四十年もすれば現在の責任者などいなくなる。専門的な人間も育てられないまま、この少子化の中で、目処のつかない大きな負担をしいられるのは何の責任もない子達。それでも、信じたいのは、騒々しさの陰に隠れて今日も笑顔で善に生きる、真理に近い世の人達。ランキング参加中です。清き一票をポチッと宜しくお願いいたします。2011.3.11(金)14:46
2012年09月16日
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