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一昨日より仕事(小さな国際会議に参加・講演)で京都を訪問しました。このところしばらく京都に縁がなく、市内に入るのは久しぶり。夕方に四条烏丸の東側にあるホテルに到着後、近くをぶらついていると妙に京町屋風のファサード(もちろん本物の建物も含めて)が目につきました。この界隈は京都のど真ん中、ということもありますが、京都全体が近年特に観光客を意識した街並み作りに取り組んでいる(いまや観光は最も有望な日本の成長産業)とのことで、その表れかもしれません。昨夜は国際会議の主催者先生の行きつけのお店(祇園にある)に皆で押しかけてリフレッシュ。舞妓さん、芸妓さんと初めてお話をする機会にも恵まれました。ちなみに、関西への出張は今月これが3回目。前の2回は京都を素通りして大阪でした。特に2回目は宿が梅田のホテルだったこともあり、東京と同じくエネルギッシュな大都会に浸かっている感じでした。(用事があったのは阪急電車沿いにある大学でしたが。)ところで、以前目にしたバラエティー番組で、京都・大阪・奈良の3県の人たちがお互いに他の府県に抱いている感情について取り上げられたことがあり、その中で奈良県民が大阪に対して憧れのような感情を持っている、という話を興味深く拝聴。同番組によると、大阪府民は奈良について「田舎(あるのはお寺と鹿だけ?)」と冷たい認識のようです。これに京都を加えて県民の意識を比べてみると、その関係が18世紀ヨーロッパの経済・文化におけるフランス・イタリア・ドイツの関係に似ていることに気づいてひとり悦に入ることしばし。フランス人は、おそらくカロリング・ルネッサンスの時代に遡る自らの伝統・文化に大いなる自負を抱いており、一時は音楽も含めて文化的な「先進国」だったイタリアにはおおいに対抗心を燃やしていたようです。(とはいえ、「フランス音楽」の伝統の主要な創始者のひとりがイタリア人リュリだったのは皮肉ですが。)一方、ドイツ人はアルプスの向こう側に対して大いなる憧憬を抱き、音楽家たちも17世紀以降、連綿としてイタリア詣でをしています。(独仏が犬猿の間柄であることは言わずと知れたこと。)これに加えて、開けっぴろげで陽気なイタリア人気質が大阪人のそれに似ていることを考えると、何とはなしにフランス=京都、イタリア=大阪、ドイツ=奈良という対応が浮かび上がってきますが、このような類似は単なる偶然でしょうか?実は、この3府県の地理的関係を眺めると、それがちょうど独仏伊の関係に対応しているようにも見えます。大阪が瀬戸内海の主要な港町として経済的な繁栄と自由を享受していた点は、地中海世界におけるイタリアの立場に似ています。そのような大阪からみると、京都、奈良はいずれも内陸にあり、農耕を基盤にした中央集権的な体制の中心地でした。奈良から京都への遷都が引き起こした事態は、神聖ローマ帝国の崩壊による東欧世界の地盤沈下にも似たものがあったとも想像されます。このような歴史のアナロジーを推し進めると、もしかすると奈良県がいつかドイツのように経済・文化的に大いなる復権を果たす日が来るのかも?ドイツが後年発展を遂げる基礎になった大きな要因のひとつは、やはりルター派の信仰(家父長制+ある種の現世主義)とそれに基づく勤勉さでした。さて、これに対応する奈良県人の拠りどころは何でしょう…
2015.09.27
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イマヌエル・カントは1724年生まれ。音楽史家チャールズ・バーニーとほぼ同時代人です。亭主の世代あたりまでは「デカンショ」のひとりとして名前ぐらいは知っていましたが、いまやバーニーと同じく歴史上の人物となってしまった感があります。1685年組が活躍する18世紀は、最後の宗教戦争と呼ばれる30年戦争が終わって半世紀(1700年はおよそ戦後50年)、この間ヨーロッパは相対的に平和だったおかげで経済が発展し、富を蓄積した市民(商人)階級が没落し始めた貴族や教会に代わって音楽の新たなパトロンとなりゆく時代です。(バーニーの父親が音楽家兼絵描きという職人だったように、カントの父親も馬具職人だったとか。商才に長けた職人はやはり商人として財をなしたに違いありません。)ところで、もうあまりに昔のことで記憶が定かでありませんが、以下は亭主が高校の倫理・社会の時間に教科書で読んだと思しきエピソードです。あるとき、哲学者カントのところにひとりの女性が相談に訪れました。(相談の内容は失念しましたが、それは知人の言説についてそれが正しいかどうかの判断を仰ぐものだったと記憶します。)するとカントは、その言説の内容には立ち入らず、以下のように助言しました。「ものごとが正しいかどうかは、その目的が正しいかどうかではなく、それを実現しようとする手段が正しいかどうかで判断しなさい。」十代の純真無垢な亭主には、この助言が全く腑に落ちませんでしたが、ある程度年を重ねるうちにこの助言の意味が身に沁みてよくわかるようになりました。この世の中、善悪・正邪といったものは所詮相対的なもので、ある立場での正義は、他の立場からは不正義ともなり、善かれと考えて行ったことが罪悪を生むこともあります。では何をもって判断するか?上記の不確かなエピソードからは、カントは「正義という目的そのものではなく、それを実現しようとする手段が正しいかどうかで判断せよ」と諭しているように思えます。昨今の世の中の動きを見聞きするにつけ、250年前のカントの知恵が光輪を増しているように感じられるのは亭主だけでしょうか。
2015.09.20
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セバスティアン・バッハといえば、まず念頭に浮かぶのが教会音楽家としてのバッハです。とはいえ、宮廷に仕えていた時代には世俗音楽も数多く手がけており、その作品リストを眺めていると大変幅広いジャンルに渡っていることがわかります。が、何故か手がけていないジャンルが一つあります。それが「オペラ」です。17世紀末-18世紀初頭といえば、いわゆるイタリアオペラが大きく花開く時代。バッハの同時代人では同じ1685年組であるヘンデル、スカルラッティに加え、テレマン、マッテゾン(1681年生まれ)、ラモー(1683年生まれ)という後期バロックを代表する音楽家いずれもがオペラに手を染めている(このうちヘンデルとラモーは後にオペラ作曲家として名を成す)わけですから、この点でバッハのキャリアは他の5人とは際立った対照を見せています。フォルケルをはじめ、後代の音楽史家はこれをルター派の信仰、あるいは音楽様式に対する好悪といった個人的動機に帰して事足れりとしているようですが、ガーディナー先生は「天空の城の音楽」の中でこの謎に正面から挑んでいます。実際、リューネブルクの宮廷ではオペラ上演も行われており、近くのハンブルクにも歌劇場があるなど、10歳代のバッハは当然オペラを鑑賞する機会がいくらでもあったとも想像されますが、結局手を出さなかったようです。ガーディナー先生は、この問題を理解する鍵として当時の「オペラ」が一体どういうものであったか、という背景に焦点を当てています。曰く、従来の音楽史家は、オペラの誕生が歴史的に比較的明快(フィレンツェのカメラータによる1600年の古代ギリシャ劇の復興イベント)であることから、そこを起点として1世紀にわたり「オペラは徐々によくなった」という直線的な進歩史観を採っているが、実際にはそういう単純な話では全くないとのこと。「オペラ」とえいば、我々は「音楽と劇を組み合わせた表現様式」を漠然と思い浮かべますが、そのような組み合わせの中身は実に多種多様であり得ます。例えば今日「ミュージカル」と呼ばれているものも、広い意味では立派なオペラ。要は、そのような形式に囚われると分類学に気を取られて本質を見失うということのようです。それでは「オペラ」的なものの本質とは何か?ガーディナー先生によれば、それは「人間の情念」を表現したいという欲求です。音楽と劇の組み合わせ=music-drama(音楽劇)は、そのような欲求を満たす劇的な表現手法として、17世紀を通して繰り返し現れた様々なヴァリエーションを含むもので、そのひとつの極がメタスタージオの台本に基づくイタリアオペラであった、ということになります。我々はえてして、協奏曲や交響曲というように、「オペラ」というジャンルがいきなり17世紀に確立されて徐々に発展した、と想像しがちですが、実際にはモノディー様式を端緒にした「情念の表現」を核とする音楽劇の様々な試行錯誤が行われた結果、ひとつの種として「オペラ」なるものが現れたわけです。面白いことに、ガーディナー先生はこのような音楽劇を、遺伝子(DNA)の前駆体のような概念としてリチャード・ドーキンスが言い始めた「自己複製子(レプリケーター)」に例えています。音楽劇という自己複製子が後に様々な表現様式(=種)へと進化し、そのひとつとして(立派なDNAを持つ)オペラが確立され始めたのが17世紀末だったというわけです。そして、多分他のそのような種のひとつとしてバッハの「受難曲」があるとすれば、実はバッハも立派な自己複製子の継承者と言えるのかも。
2015.09.13
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先週、ご近所さんである「バッハの森」から秋のシーズンのイベント案内が郵送されてきました。9月には教会音楽ワークショップ「ドイツ語とラテン語で歌う『クリスマスの喜び』」、10月には「メサイア第一部を2倍楽しむワークショップ」といった参加・体験型のイベントが並んでします。とはいえ、この案内の一番の注目は、1985年の創立以来、今年で30周年となるこのユニークなコミュニティーセンター(私塾)の歴史を写真で綴るアーカイブビデオがホームページに掲載されたというお知らせでした。1985年といえば、もちろん言わずと知れたバッハ、ヘンデル、スカルラッティの生誕300年という大きな記念の年で、「バッハの森」の創設もある程度このタイミングを意識してのものだったことと思われます。(創立前後の詳しい経緯は、「旧サイト」というリンクを辿ると読むことが出来ます。)くだんのビデオを眺めていると、米国在住の著名なハープシコード奏者である橋本英二先生がメインホールに立っている映像が現れました。何でも橋本先生と石田先生は高校時代(!)の同級生だとかで、「バッハの森」創立間もないころに友情出演された、という話を以前に伺ったことがありましたが、この写真は紛れもなくその折のもの。橋本先生が教鞭を執られていたシンシナチ大学のアンサンブル共々来日されていたことがこの写真からわかります。橋本先生といえば、もちろんスカルラッティの研究者にして演奏家として知られていますが、この時にはきっとバッハを演奏されたことでしょう。(演奏の録音も残っているかも?)何れにしても、石田友雄先生・和子さんご夫妻はじめ30年前の写真に登場する姿は皆さん若々しく、また「バッハの森」にも数多くの人々が集って活気に溢れていた様子が伺われます。(ちなみに、1985年は亭主にとっても記憶に残る年で、大学院の途中でいきなり助手に採用されて、研究渡世に足を踏み入れたのがこの年の暮れでした。)さて、このアーカイブ表題にもあるように、創立から30年を経た今、「バッハの森」の推進力であったオルガニストの和子さんは既に他界し、石田先生ご自身もかなりのご高齢となられ、そろそろ「私塾」としての今後の姿を考えなければならない時期に至っているようです。諸行無常。とはいえ亭主は、かつて読んだ分子生物学者E.シャルガフがどこかで引用していた箴言を思い出す今日この頃です。「汝が創造し得ぬものを、破壊してはならぬ。」
2015.09.06
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