2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()
人びとはなぜ満州へ渡ったのか 長野県の社会運動と移民 私:関東軍の武力を背景に日本が中国東北部で建国を宣言した「満州国」。 版図内に一時は百万人を超える日本人が暮らしていた。 本書はその約三分の一を占める開拓団員、青少年義勇軍ら、「農業移民」を研究対象としている。 A氏:「貧しさゆえに」の移民かね。 私:ところが、移民たちは「貧しいがゆえに、新天地を求めて自ら満州に渡った」とされてきたが、全国最多の農業移民を送出した長野県各地域の経済状態と移民数を詳細に検討した著者は、両者の間に因果関係は存在しないと考え、「貧しさゆえに」の移民像を覆すね。 そして2つの仮説を検証している。 1つは、「あの村が行くのなら自分の村でも」と移民送出を競い合う「バスに乗り遅れるな」という構図だ。実際、高送出地域は県道等で繋がり、競争心理が連鎖的に広がっていった事情をうかがわせる。 2つめは、多くの教員が社会活動で検挙された「二・四事件」(長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された事件)が1933年に起きた後、長野県の教員組織「信濃教育会」は身の潔白を証し立てるかのように国策追従色を強める。 教師たちは次男、三男のいる農家を回って「一人ぐらいは行ってくれ」と家族を説得した。 A氏:反社会運動の反動だね。 私:このように農業移民が国境を越えたのは「貧しさ」のせいではなく、「自発的」な選択でもなかった。 それを実証的に示した意義は専門的な研究領域に留まらない。 競争心を駆り立てたり、教育を媒介に動員を図ったりするメカニズムは戦時下長野県に限られず、どこにでも発動しうる。 開拓移民の前例が広く知られれば、それに対して注意深い検証の構えが取れようと評者は言う。 A氏:農業移民は残留邦人問題に通じ、帰国定住や就業上の困難は今も消えていないね。 私:図書館で検索したが、未購入らしくひっかからなかった。 そのうちに図書館は購入するだろう。
2015.05.31
コメント(0)
私:今月は、池上彰氏は、警察の発表を、新聞にそのまま書くか、それとも発表内容を仔細に検討してみるか、記者の問題意識によって、記事には大きな違いが出てくるとして、東京・浅草の三社祭で小型無人機「ドローン」を飛ばすことを示唆する動画をインターネット上に配信したとして、警視庁が21日、横浜市の無職少年(15)を威力業務妨害容疑で逮捕した報道をとりあげている。 A氏:読売新聞では少年は、ドローンを飛ばす「予告」と受け取れる動画を自宅からネット配信。「三社祭の主催者に警備を強化させ、主催者の業務を妨害した疑い」と報じている。 私:これが、威力業務妨害に当たるのか、池上氏は釈然としなかった。朝日新聞の21日夕刊の記事も似たようなものだった。 ところが、朝日新聞の22日付朝刊の社会面トップでは続報を書き、警視庁の発表内容を検討した。記者は「ドローン規制のルール作りが追いつかない中、警視庁は今回、威力業務妨害容疑をムリに適用した」と問題意識を持つたようだ。 A氏:警視庁の取材で、警視庁は再三注意をしても少年がドローンを飛ばそうとすることをやめなかったことや、逃走の恐れ、があることなどから「難しい判断だった」(捜査幹部)としながらもこの容疑での逮捕に踏み切った、と説明したという。 さらに、警視庁の捜査幹部も「難しい判断だった」と認めているという。 つまり、この容疑での逮捕は、果たして正当と言えるのか、警察内部にも懐疑的な意見があったことをうかがわせる。 また、警視庁刑事部の幹部は「業務妨害罪の適用は最後の手段。別の容疑がない場合、「広い意味で何らかの被害を受けた」として立件するケースがあり、「カバー範囲は広い」と説明しているという。 私:「別の容疑がない場合」、この容疑で立件することがあり、「カバー範囲は広い」、つまり、いくらでも別件逮捕できると認めているというわけだ。 警察は、「最後の手段」を用いれば、何とでもなると思っていることが明らかになってしまった。 記者が、警察の発表をそのまま漫然と書くのではなく、容疑が適切かどうか問題意識を持って検証したことで、新たな問題が浮かび上がったと、池上氏はこの記者の取材を評価しているね。
2015.05.30
コメント(2)
![]()
夜の床屋 私:推理小説ファンとして、このところかたい本ばかり読んでいたので、若手の推理小説作家のものを読みたいと思い、書評にあったこの本を図書館で借りて読んでみた。 新刊なのでちょっと順番待ちが長かったがね。 A氏:作者は1967年生まれというから、50歳近いね。若手という年でもないか。 中学生の時に横溝正史の「本陣殺人事件」で本格ミステリの面白さに開眼して、ついに執筆を開始したのは30歳を過ぎた頃からだという。 私:借りた本の題名は「夜の床屋」だが、6つの短篇集だね。「夜の床屋」はその中の一つだね。2007年の第4回ミステリーズ新人賞の受賞作だという。 「夜の床屋」の出だしは、晩秋の山中で、道に迷った主人公と友人が、やっと線路をみつけて線路伝いに歩いて無人駅を見つけるところからだ。しかし、駅の周辺はシャッターをおろした店ばかりで闇の世界。 駅の待合室で寝ようと思ったら、夜中、トイレに起きたら、夜の11時頃なのに、さっきは閉まっていた廃屋のような理髪店が灯りをつけて営業しているのを目撃するというわけだ。 A氏:それで「夜の床屋」か。興味が湧くね。 私:そこで2人はその床屋を訪れるというわけだ。そしてストーリーは展開する。 一応、興味深く読んだが、出だしはよかったが、結末は感銘するほどもなかったね。 次に2作目の「空飛ぶ絨毯」も読んだが、このほうが面白かったね。 最後にどんでん返しがある。 3作目の「ドッペルゲンガーを捜しにいこう」はあまり面白くなかったね。 後、残り3作あったが、興味が薄れて終わりにしたよ。 俺が興味が持つにはちょっと規模が小さい気がしたね。 もっと広い社会的な状況を背景にしたほうがスケールの大きいミステリになるのではないかね。
2015.05.29
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:著者は昭和の陽明学として、山川菊栄と三島由紀夫をあげている。 この2人の出所が水戸であることから、「水戸学」に結びつけた著者の発想であろう。 山川菊栄は戦後、社会党で活躍し、昭和22年、片山内閣のもとで労働省の初代婦人少年局長に就任している。1974年『覚書 幕末の水戸藩』で大佛次郎賞を受賞している。 しかし、2人には深いつながりがないので、ここでは三島由紀夫と陽明学の関係に絞ってまとめておこう。 昭和43年(1968)、三島は安岡正篤の著書を知人に贈られたので、その礼状を安岡正篤に書いている。安岡正篤は明治31年(1898)生まれの陽明学者であり、思想家である。 その礼状の中で、三島は陽明学をゆっくり時間をかけて勉強し、「知行合一」の陽明学の何たるかを証明したいとしている。 A氏:彼は、江藤淳が朱子学にこっており、また、丸山真男が荻生徂徠ばかりをとりあげ、陽明学を軽視しているのを批判しているね。 私:三島が「事件」の2ヶ月前の昭和45年(1970)に雑誌に書いた「革命哲学としての陽明学」には、次のように書いている。 「行動哲学としての陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られる本になった。(中略)2,3の学者の家に伝承されるばかりで、政治家や現実的な行動家のよって立つべき基本的な哲学としてのメリットはおおよそ失われたと言ってよい」 A氏:三島は、陽明学衰退の原因を「大正教養主義」に求める。「陽明学的知的環境」は乃木希典の殉死とともに終わったという。 私:森鴎外の小説「大塩平八郎」があるが、平八郎は陽明学派だと言われている。 三島は、この小説での平八郎の描き方に批判的であった。 朱子学的な鴎外に、陽明学的な志士タイプの平八郎の心情は描けなかったのだろう。 三島は、平八郎の後継者として西郷隆盛と吉田松陰を紹介し、陽明学がその中に持っている論理性と思想的な骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを用意するかもしれないとしている。 最後に著者は、三島の陽明学的心性は平八郎や吉田松陰と違い、高畠素之に近いのではないかという。朱子学的な大蔵官僚・平岡公威(三島の本名)はそうした自分を嫌って、陽明学的な志士タイプの文学者・三島由紀夫になったのだと評している。 現代の陽明学は、国会答弁で吉田松陰の「知行合一」を引用した安部首相、それに「明治日本の産業革命遺産」に松下村塾があることで、細々と引き継がれているのかね。
2015.05.28
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:大正時代には日本にはマルクス主義の影響が広がる。 高畠素之は明治19年(1886)に群馬に生まれるが、ここはプロテスタント系キリスト教徒を多く生んでいる。高畠も少年時代に教会に通っていた。 高畠は日本ではじめてマルクスの「資本論」を完訳した。 A氏:大正6年(1917)、ロシア革命が起きる。日本の社会主義者に影響を与えるね。 私:しかし、高畠は「資本論」を精読し、やがて資本主義経済体制が崩壊して社会主義に移行するという楽観的な見解は持てなかった。 マルクス主義者たちの人間観は革命の主体として彼らが期待する無産階級が、そのままで善なる人間性を実現する理想郷の存在に見えていた。 A氏:性善説だね。陽明学も性善説だね。 私:しかし、高畠は性悪説で、理想郷は夢想の産物だとする。マルクスと違い、革命で国家は消滅せず、国家は必要で「国家社会主義」を唱える。しかし、彼は昭和3年(1928)急逝する。 高畠と同じ年に生まれた大川周明は山形県庄内地方に生まれる。彼が尊敬する人物は西郷隆盛と横井小楠だった。横井小楠は熊本藩の儒学者で、陽明学に近い立場だった。 大川は「儒教のポーロ孟子」という表現をよく用いるが、ポーロはパウロのことだ。 A氏:キリスト教の布教に活躍したパウロのことか。 私:孟子という思想家は儒教においてそのパウロと同じ役割をした人だという意味だね。 彼は日本精神を強調する書物を相次いで発行する。 その「日本精神研究」で次のように述べている。 「維新とともに軍人と政治家が分化した。軍人の方は戦術兵略以外に、精神的鍛錬を重んじ、武士道の本領をあくまでも護持するに非常なる苦心を払った。 しかし、政治家の場合は軍人の如くでなかった。彼らは維新以前の武士が必ず心掛けた為政者としての人格的修養を放棄してしまった」 彼は西洋における法治に対して、東洋では人治こそが重要なのだという。 A氏:人格者支配だね。 私:明日は、三島由紀夫の昭和の陽明学に移ろう。
2015.05.27
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:日清戦争で東アジアの大国である清に勝利したことで、従来から「開化」か「国粋」かという二項対立で語られていた路線問題が「伝統精神を保存しながらの文明化」に一本化される。 それにともなって、陽明学も変化し、吉田松陰や西郷隆盛は陽明学とする分類が、明治の代表的な思想家井上哲次郎によって確立する。 A氏:過去の中国文化は、武士道を支える精神的支柱として作用してきた。 日本古来の武士道を儒教道徳の旗のもとに定着させたのは徳川幕府の功績だという人もでる。 「忠孝、節義、勇武、廉恥」だね。 私:独立自尊が武士の本性であるが、ドイツの哲学者カントが道徳の大本は自主自治、独立自尊にあると言っているということから、明治時代の哲学研究にはカントが好まれるようになる。 A氏:カントと武士道の邂逅だね。 私:同時に陽明学も復権し、明治41年(1908)、陽明学会が組織される。 この頃には、日清・日露の戦争を経てキリスト教を危険思想として見るのでなく、日本の国体を支える1つの宗教として認めていた。 A氏:明治43年(1910)、大逆事件が起こる。幸徳秋水ら12名が死刑となる。問題は幸徳が中江兆民の弟子であり、中江兆民は「二松学舎」で儒学を修め、孟子や王陽明に心酔していたことだね。 私:大逆事件で反体制思想の烙印を押された社会主義が陽明学に通じるという嫌疑を持たれる危険性が生じた。直後に明治天皇が崩御し、乃木大将が殉死する。 明治政府の体制を維持しようとする者には、過去の「勤王の志士」は正義の人だが、現在の「社会主義者」は犯罪者だ。吉田松陰や西郷隆盛と幸徳秋水とは「革命的」として実態が異なるものではない。生きた時代が陽明学解釈の枠組みにあわなかっただけだね。 「カント・武士道・陽明学」は井上哲次郎の頭の中では連続していた。 「自分の頭で考えた末の国体護持主義」、いわば「白い陽明学」が井上の描く陽明学であった。それに対して、幕末以来の伝統をある意味で正しく受け継いで、革命の理想に燃える人士も陽明学に惹かれていった。「赤い陽明学」だ。両者は思想的に同類だね。 明日は、大正の陽明学にうつろう。
2015.05.26
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:吉田松陰と同じ年の三島毅(号は中洲)は、明治5年(1872)に中央政府から召し出され、司法官僚として大審院判事まで務めるが、明治10年に退職し、私塾「二松学舎」を東京九段に設立。「二松学舎」は陽明学を教育した。 A氏:中江兆民、夏目漱石、犬養毅、牧野伸顕らがここで学んでいるね。 私:中洲は東大教授、帝国大学講師をつとめた後、東宮侍講に就任し、大正天皇に陽明学を講じ、宮中に陽明学が入る。 ところで、内村鑑三は明治27年(1894)に「日本及び日本人」という英語の本を出版していて、「代表的日本人」として西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮聖人の五人をあげている。この本は外国向けに書かれ、日本は野蛮な国でなく、キリスト教国でないのにかかわらず、立派な人物が輩出していることを示すことにあった。 西郷隆盛が正義のために近代国家樹立運動に邁進できたのは、キリスト教に代わる精神的支柱として陽明学があったとしている。 A氏:内村による陽明学の顕彰だね。彼は、札幌農学校で学んでキリスト教に入信しているが、幼年時代には儒教の教育を受けている。 私:真摯な儒教徒ほど、熱心なキリスト教徒になっていく。 内村の同窓生であった新渡戸稲造もその一人で、彼は英文で「武士道」を著し、武士道を支えるものとして、神道・仏教(特に禅)儒教をあげ、孔子の正統的な後継者として朱子でなく、王陽明をあげている。 A氏:明治24年に「教育勅語」が宣布されるね。 私:当時、内村は第1高等中学校の嘱託教授であった。講堂で勅語の奉戴式があったとき、内村の敬礼が会釈程度であったことが問題になる。「内村鑑三不敬事件」だね。 彼には、悪意はなく、最敬礼という慣れない動作を咄嗟にできなかったに過ぎない。 しかし、これは政治的に利用され、やがてキリスト教そのものの危険性へとすり替えられていく。 ともかく、王陽明を投影したものとしてイエスがあり、西洋人に向かって、彼らが知らないでいる陽明学のすばらしさを、そして、その陽明学の精神が育んだ西郷隆盛という人物を語ることを通じて、宣伝しようとしたのである。アメリカ人は内村や新渡戸の功績により「陽明学のすばらしさ」をはじめて知ったわけだ。 明日は、その後の明治の思想にふれよう。
2015.05.25
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:明治維新の思想的な中心となった「水戸学」の開祖は徳川光圀であり、彼が主宰して始まった「大日本史」の編纂が「水戸学」を生み育てた。 光圀は「大日本史」編纂の3大方針を定めている。 第1は朱子学の大義名分論から神功皇后を天皇とせず皇后とすることだ。これは、裏に聖徳太子の排斥がある。朱子学のなかの過激派たる「水戸学」は、断固仏教を排斥する。 A氏:第2が大友皇子の即位を「弘文天皇」として認めたこと。これによりその存在を強調することによって、天武天皇を神格化してきた旧来の歴史観と断絶し、新たに天皇家相続の父系性を重視する大義名分論を打ち立てる。 私:第3は南朝正統史観だね。南北朝時代の原因は皇室内の分裂だが、吉野に逃げた南朝と足利尊氏が擁立して京に居座る北朝が対立したが、足利義満のとき「南北朝合一」の美名のもとに南朝を併合し、北朝のDNAを持つ者を天皇として現在に至る。 これを光圀は、大義名分論から南朝を正統とした。これは当時、南朝に好意的な軍記物語「太平記」の影響と考えられる。光圀は南朝の忠臣・楠木正成に心酔していた。 A氏:「大日本史」は編纂に時間がかかり、次第に中味が変質するようだね。 私:日本の「国体」、すなわち、中国より優れた「万世一系の天皇をいただく、王朝交替(革命)の存在しない国柄」という考えが強調される。江戸時代、日本は仏教国だったが、水戸藩は例外で仏教は弾圧され、儒教と神道の混合形式であった。 A氏:そして吉田松陰が登場し、陽明学を学び、「水戸学」の影響も受けるね。 私:松蔭の国体論はさらに純粋に天皇中心主義で、国体の理想像は天皇親政である。そして、「日本は他に比類無きすぐれた選ばれた国だ」という神国論と結合する。 彼は、その変革の担い手として上流階級でなく身分的に下の者、下級武士や豪農層に天皇親政の変革を期待した。「草莽崛起」論だね。 長州や、薩摩のように経済的に豊かな地でそうした担い手が育っていたということだろう。水戸藩は貧しく、本場の「水戸学」は最後まで選良主義を抜け切れなかった。 明日は明治の陽明学に移ろう。
2015.05.24
コメント(0)
![]()
近代日本の陽明学 私:「靖国史観」、「李卓吾・正道を歩む異端:吉田松蔭と李卓吾」に次ぐ小島毅・知的街道の第4弾だ。 天保8年(1837)、大阪に「大塩平八郎の乱」が起きる。平八郎は引退した東町奉行与力で、隠居後、「洗心洞」という塾で儒教を教えていた。 平八郎は朱子学を学ぶが、彼を陽明学に引き込み、決起までに至らせたのは、大塩の考えが陽明学に変わったのでなく、そういう考え方(苦しんでいる民衆を救う)をする人だったから陽明学に惹かれたのだと著者は言う。これは陽明学者の多くに当てはまるという。 A氏:陽明学者は陽明学を師匠から伝授される必要がないというね。自分独自の考えを練ることが師匠で、これにより陽明学者になる。 だから、集団にならない。 私:朱子学から陽明学に至るプロセスは次の通りだ。 朱子学の教義に疑問を感じる→煩悶する→自分独自の考えを練る→陽明学について知る→「これだ!」と思う このプロセスが東アジアの各地で反復されていく。 自分自身の良心(=良知)への信頼は、近代西洋思想の「個人の主体性が確立した、何物にも囚われない自由で批判的な精神」と言える。 このため、敗戦以降の民主主義賛美の風潮のなかで平八郎が英雄・偶像となる理由がここにある。がんじがらめの「封建時代」にこうしてみずからの信念を貫いた人もいる。 A氏:平八郎は頼山陽と深い知己だね。 山陽の父、頼春水は広島藩の儒者で生粋の朱子学者で、松平定信の朱子学以外の儒学を禁止する「寛成異学の禁」を発案・支持した中心人物である。 頼山陽も朱子学を学ぶが、同じく「煩悶」し、広島藩を脱藩し、父親の「朱子学正統派」になることなく、水戸藩の「大日本史」を閲読して感動し、若くして「日本外史」を発行する。 「水戸学的朱子学者」だね。 私:平八郎は多くの著書を刊行する。 能吏であった平八郎は町奉行をやめたあと、大阪で間近に貧民層の窮状を見てしまう。「義を見てせざるは勇無きなり」(孔子)、「知行合一」、「事上摩錬」を掲げる陽明学を信奉する以上、彼は他には逃げることはできなかった。 世直しのため、彼はテロの計画と決行へと突き進んだ。 明日は水戸から長州へと展開する「国体論」の誕生に移ろう。
2015.05.23
コメント(0)
私:イギリスは2大政党の伝統が崩れつつあるというが、米国の民主・共和の2大政党制はガッチリしているね。 クルーグマン氏(米プリンストン大教授・2008年にノーベル経済学賞受賞)は、民主党寄りで、いつもこのコラムでは共和党批判だね。 A氏:今回は、米大統領選の共和党有力候補とされるジェブ・ブッシュ氏の批判からだね。 私:2003年のイラク侵攻を支持したかと問われたとき、ブッシュ氏は、支持しただろうと答えたが、その後、彼は発言を取り消そうとし、「質問を誤解した」と語り、「仮定の話」につきあうことに興味はないと言い、「過去にさかのぼる」ことは、従軍した人々に対して「ひどい仕打ちだ」と述べたという。 A氏:ブッシュ氏は受動態のごまかしに頼り、「過ちがおかされた」とだけ認めた。「その通り。誰によって?」とクルーグマン氏はさらに追及する。 受動態だから主語がない。 主語は政治指導者、特に兄である最高司令官(イラク侵攻当時のジョージ・ブッシュ米大統領)だからだね。 ところで今年に入ってブッシュ氏は、外交政策の上級顧問のリストを発表した。イラクでの惨事をはじめとする大失敗で、極めて重要な役割を果たした人たちの紳士録だったという。 私:経験から学ぶことを拒否する姿勢、また極めて重要な問題で間違った人だけが受け入れられるような類いの政治的姿勢は、最近の共和党に広く浸透しているとクルーグマン氏は指摘する。 A氏: 経済政策でも同様で、大統領選候補を含めた共和党指導者に大きな影響を与えているエコノミストのリストを見ると、ほぼ全員がリーマン・ショック以前の経済を賞賛し、バブルがはじけて生じた経済危機と闘うFRBの取り組みは、深刻なインフレを引き起こす、と予想していたが、結果はインフレは起きなかった。 私:さらに、ほぼ全員が、2014年に全面施行されたオバマケアが雇用に大きなとどめを刺す、とも予言していた。しかし、事実は反対となった。 この非を認めないのは、一種の失敗の兄弟愛で、すべてを間違え、過ちを認めないという共通の過去によって結びつけられた人たちだ。「彼らは、過ちによる統治に、次の章を加える機会を得るのだろうか?」とクルーグマン氏は、厳しく共和党を批判しているね。
2015.05.22
コメント(0)
私:見田氏は「成長から脱するのは、決して原始に帰るのではない。近代の成果を十分に踏まえた上で、高められた地平を安定して持続する『高原(プラトー)』というコンセプトだ」という。 自由と贅沢な消費とを何よりも愛した思想家バタイユは、至高の贅沢として「奇跡のように街の光景を一変させる、朝の太陽の燦然たる輝き」の体験を語っているという。 生きる歓びは、必ずしも大量の自然破壊も他者からの収奪も必要としない。禁欲ではなく、感受性の解放という方向だという。 A氏:近代社会は「未来の成長のために現在の生を手段化し、犠牲にする」という生き方を人々に強いてきた。成長至上主義から脱して初めて、人は『現在』という時間がいかに充実し、輝きに満ちているかを実感できるのではないか」と氏は言う。 私:紀元前6世紀から紀元1世紀にかけて、古代ギリシャでの「最初の哲学」と、仏教、儒教、キリスト教などの世界宗教が相次いで出現している。この時代、貨幣経済による交易と都市化が進み、村落共同体の有限な空間に生きていた人々が、世界の無限の広がりを初めて実感した。その衝撃に直面した人間が、生きることのより普遍的な根拠を求め、哲学や世界宗教が生み出された。近代に至る文明の始動期だ。 これに対して、今、我々は、人間の生きる世界が地球という有限な空間と時間に限られているという真実に、再び直面している。 この現実を直視し、人間の歴史の第二の曲がり角をのりきるため、生きる価値観と社会のシステムを確立するという仕事は、700年とは言わないが、100年ぐらいはかかるだろう。 けれどもそれは、新しい高原の見晴らしを切り開くという、わくわくする宿題であると思うと見田氏は言う。 A氏:これは、このの下記のような「減速社会知的街道」の1つかね。 「成長神話の崩壊」、「下り坂社会を生きる」、「デフレの正体」、「経済成長という病・退化に生きる、我ら」、「超マクロ展望・世界経済の真実」、「減速して生きる・ダウンシフターズ」、「資本主義の終焉と歴史の危機」 私:「ダウンシフター」とは孤独な「世捨て人」とは全く違うんだね。 嫌な仕事から好きな仕事へ、環境破壊的な仕事から持続可能社会的な仕事へ、競争的な仕事から共生的な仕事へ、大きな会社から小さなビジネスへという大きな社会的な転換運動だね。
2015.05.21
コメント(0)
私:このロングインタビューのポイントは、人類は成長期から安定期に向かいつつあるという巨大な曲がり角にあるという指摘だね。 深刻な環境問題を抱えつつも、経済成長を求め続ける――。私たちの文明が直面する根本的なジレンマに対して、日本を代表する社会学者・見田宗介氏は「ならば成長をやめればよい。そうすれば今よりもずっと幸福な社会が訪れる」と明言している。 A氏:見田氏は、日本社会について、「世代が消滅しつつある」という指摘をしている。 世代間で意識が違うのは、青少年期の体験が大きく異なるからで、戦争中に若者だった世代と、戦争体験のない団塊の世代では、価値観が違うのは当然。 だが、73年のオイルショック以降は『豊かな社会が当たり前』という時代が続いている。 人々の生活を、根こそぎ変えるような巨大な変動が少なくなり、歴史の流れがスローダウンしている。世代の消滅はその反映だという。 日本だけではなく、欧米でも同じような現象が起きているという。 私:「だから日本はずれている」にある若者の「コンサマトリー」だね。 社会学では「今、ここ」にある身近な幸せを大事にする感性のことをいうそうだ。 歴史が進化し続けるままだといずれ人類は破滅する。60年代の危機的な問題は「人口爆発」だったが、今や欧州や東アジアでは少子化が問題となっている。世界全体の人口は今も増えているが、増加のスピード自体は70年ごろを境に急激に低下。 これも爆発期から安定期に向かいつつあることの証しだと見田氏は指摘する。 A氏:社会の閉塞感が強まる中、人々が成長を望むのは当然だが、成長の限界は必ず来るし、本当はすでに来ているという理論もある。 現代の社会は、限界を過ぎても無理やり成長を続けようとする力と、持続可能な安定へと軟着陸しようとする力とのせめぎ合いとして理解できると氏は言う。 私:その典型例が原発の問題。原発のような破滅的リスクを伴う技術をやめられないのは、限界に達している成長を無理やり続行しようとするから。 社会学者のウルリッヒ・ベックは、原発事故や地球温暖化など、人間の手に負えない危機に翻弄される社会を「リスク社会」と呼んでいるという。 ベックは、リスク社会を現代の宿命であるかのように論じているが、リスク社会を乗り越える方法は、人間の歴史が安定期に向かいつつあることを直視し、われわれの価値観と社会のシステムを、そのような方向に転回することだという。 明日は、その未来の姿に目を転じよう。
2015.05.20
コメント(0)
私:投票前の16日(土)の9チャンネルのMXテレビで、ゲストの大阪都構想賛成の高橋洋一氏が言っていたことは、270万人の大阪市を1人の市長が見るのは大変で、区に分け、50万人前後の規模が適正だと言っていた。東京23区の各区は大体、そのくらいの人口規模らしい。 A氏:この朝日新聞の「考論」欄の金井利之・東大教授も片山善博・慶応大教授も同じことを言っているね。 金井教授は「これまで自治体は、総じて『大きいことはいいことだ』という発想だった。だが人口約270万人の大阪市では、大きすぎて市長の目が行き届かず、住民の意見も市役所に十分に伝わらなかった。特別区になれば今より身近な自治体になるという点で、都構想は評価できる点もあった」とコメントしている。 私:片山教授も「今の政令指定市が基礎的自治体として大きすぎるという問題提起をした点は重要で、全国の指定市は、住民ニーズをくみ取る工夫を競い合うべきだ。とりわけ一定の数の住民が『市を解体してもいい』と賛成票を投じた大阪市は猛反省が必要だ」としているね。 ただ片山教授は「大阪都構想は、スムーズな戦争遂行のために東京市を廃止して作られた東京都の制度を大阪に持ち込み、市を壊して大阪府に権限と財源を集めようとするものだ。住民に身近な市町村にできるだけ仕事とお金を移していく分権改革の流れに反する」と批判的だね。 A氏:片山教授はさらに「大都市の戦略作りでも、横浜市などの意向を尊重する神奈川県のように、府の方が譲ればいい」と横浜の例をあげていて、二重行政の弊害は問題にしていないね。 私:人口約370万人の横浜市の職員が1万9千人なのに対し、人口約270万人の大阪市の職員が約3万5千人だという。しかし、その原因については、あまり議論されていないようだね。 確かに、横浜市と神奈川県の間はうまく協調しているのか、二重行政の弊害という話は横浜市民として俺は聞いていないね。 一般論として、270万人の大阪市を1人の市長が見るのはムリだから、適正規模の区に分けるのだというが、もっと人口の多い横浜市は何故、問題にならないのだろう。 大阪の特殊事情があるなら比較して論じてもらいたかったね。
2015.05.19
コメント(0)
私:朱子学と陽明学の違いは、比喩的に言えば、キリスト教のカソリックとプロテスタントの関係と言えるかね。 カソリックは教会と聖職者のがっちりした組織を持つ。プロテスタントは個人主義的な発想。朱子学も科挙による選抜された官僚に守られた君主政治を背景に持つが、陽明学は個人がすでに生まれながらの個性ある聖人だね。 A氏:高杉晋作がいう陽明学とは、個々が心に絶対の理念をすえることによって、現体制を解放に導く、変革の手段だったのであり、それは久坂玄瑞、西郷隆盛、松蔭の心事に共通のものなんだね。 明治維新の思想の根底に儒教の陽明学があったとはね。 私:朱子は12世紀の人で政治的には里甲制といって、皇帝を頂点とする官僚制的な国家機構の下に、全民戸が一律に皇帝の民として組織的に把握されている状態だね。 これが15世紀の王陽明の頃になると里甲制が行き詰まりとなり、大地主、中小地主、自営農、小作農などに分解し始めた頃だね。 A氏:宋代から明代までは、官僚制による一君万民体制だったのが、清代になると郷村における地主の経済支配を認めて、それと結合するかたちで王権権力がその上に乗っかるという構造になるね。 私:一君万民の政治原理が有効であった明代半ばまでは一律の道徳律による万民支配を行えばよかったが、この政治原理のかげりがみえた局面に対して、陽明学は心が持つ個別性や多様性のため、道徳的善性にも、個別性・多様性を認めることになる。 陽明学というのは、地主層による郷村秩序の再編という歴史の趨向を先取りしたものといえる。 A氏:李卓吾の陽明学での異端とは何かね。 私:彼は君主有徳を政治の枢要とする旧来の政治を否定し、民の要求を主体とした民主主導の政治を主張するが、これは君主が偉いという君主制の下では異端扱いとなり迫害される。1602年、76才で獄中で自決。 彼の考えは共和制につながるので、1911年の辛亥革命後、名誉を挽回し、現在も高い評価を得ているという。 本書の狙いは、松蔭が本当に李卓吾を正しく理解していたか、「童心」「心」「天」「自然」「理」など同じ漢語を使いながら異質な解釈をしているのではないかというものだが、その点は抽象的で理解しにくかったね。
2015.05.18
コメント(0)
私:安政5年正月、幕府による日米修好通商条約の調印に先立った、これに反対する松陰の「狂夫之言」と題する一文がある。 それによれば、わが国を狙う諸外国の内、アメリカが最も欺瞞的で利をもって誘ってくるだけ始末が悪い。 まず、社会福祉で「愚民の心」をつなぎとめ、次に西洋技術にあこがれる「利を知りて義を知らず、書を知りて道を知らざる」の知識人を雇養して、これをてなずけ、幕府の貪吏は利でひきつけるーーー。このように内側から侵蝕されやがてわが国はアメリカの属国となってしまうという。 A氏:戦後の日米関係を松蔭が予告していたという皮肉を言う人もいるね。 私:要するに、彼はヨーロッパ列強の当時のインドや中国への侵略の状況について、驚くほどの正確な知識を持っていた。 そして、幕府の利己的な権力保衡、諸藩の自藩第1主義など、統一権力不在の国内分割状態を、日本半植民地化の国内条件とみなし、それゆえに尊王攘夷を独立保持の第1前提とみなしていた。 A氏:用意周到というべき構想を松蔭は抱いていたんだね。 私:松蔭は政治的な駆け引きではオンチだったという。 彼が死刑を宣告された間部暗殺計画も、死刑になる容疑の事実がないのに、計画を幕吏にしゃべってしまったために危険視され、死刑まで宣告される。 密航事件の時も同行した佐久間象山のほうが、政治的にしたたかだったという。 A氏:ところで、朱子学と陽明学の違いはどこにあるのかね。 私:この本は繰り返し比較的平易に説明しているね。 朱子学は学ぶことによって誰しも聖人になれるとしたので、学んで科挙などで選ばれた人が世を治めるという思想だね。 だから、唐代まで、貴族門閥による世襲的な身分秩序制とその中での貧富貴賤を生まれながらの運命的な持ち分とする人間観があった。 しかし、民衆が豊かになるにつれ、王陽明は道徳的本性を人の本質とするということによって平等にしたことだね。 試験勉強のできる裕福な階級の子弟のみが聖人の道を目指せるのでなく、人が原初的に持っている親子・兄弟の愛情を持つ以上、そのまま聖人だとしたわけだね。 明日は、内村鑑三が指摘したキリスト教との類似に移ろう。
2015.05.17
コメント(0)
私:この本は、30年ほど前に出版されたものだが、小島毅氏の「吉田松蔭・教育者か、近代化の先駆か」で紹介されたもの。「靖国史観」に次ぐ小島毅・知的街道の第3弾だ。 A氏:たしか、安部首相が国会演説で吉田松蔭の言葉として「知行合一」をあげたが、これは間違いで、王陽明が興した陽明学の言葉だ。 私:陽明学は朱子学の後、幕末日本に広がるね。 後にプロテスタントのクリスチャンとなる内村鑑三は「代表的日本人」(明治27年刊)で次のように書いている。 「旧幕府が自己保存のために助成した保守的な朱子学とは異って、陽明学は進歩的・前望的にして希望に充てるものであった。それが基督教に似ていることは従来一再ならず認められた所である。事実、その事も一つの理由となって基督教はこの国において禁止せられたのであった。 『これは陽明学に似ている。我が国の分解はこれを以て始まらん』。維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、長崎にて始めて基督教聖書を調べて、そう叫んだ。 基督教に似た或るものが、日本の再建に参加した一つの力であったといふことは、我維新史における特異なる一事実である」 A氏:この「李卓吾・正道を歩む異端」の李卓吾も陽明学者だね。 私:一時、陽明学の異端と言われた人だが、この本では、内容はほとんど吉田松蔭との関係が主だね。本の題名を「吉田松蔭と李卓吾」としたほうが正確だね。 吉田松蔭は、安政5年(1858)12月26日の萩の野山獄への再入獄から、やがて江戸送りとなり、安政6年10月27日に伝馬牢で処刑されるまでの10ヶ月の間の松蔭の獄中からの書簡によると、300年ほど前の李卓吾の書に没頭していることがわかるね。 A氏:吉田松蔭の入獄の理由となった老中間部詮勝の要撃策は、松蔭の独走の気味があり、当時、江戸にいた高杉晋作、久坂玄瑞ら松下村塾の高弟たちは時期尚早としてむしろ当惑していた。 私:このため、直情径行気味の松蔭は、獄中から高杉に絶交宣言し孤立するね。 明日は、吉田松蔭が持っていた外敵、特にアメリカに対する危機感にふれよう。
2015.05.16
コメント(0)
私:今も、最後の激戦地「バルシャガル高地」北縁に旧ソ連軍の陣地跡がある。 地元の研究者も全く知らない戦跡だった高台約1キロの間に4重の塹壕が掘られた、多層防護の構造が特徴だという。 旧ソ連軍の野戦陣地の基本形とされる「縦深陣地」の跡だという。今は、随所にさびた有刺鉄線が転がっているという。 小説家の五味川純平氏は記録作品「ノモンハン」(1974年)で、「縦深陣地」に繰り返し言及していた。 「『陣地が厚いというか、縦深がともかく深いから、一線を抜いても、二線に引っかかって潰されてしまうんだ』。作中、従軍の元兵士は語る。『(敵戦車は)火焔瓶で面白いように燃えた。しかし、あれは窮余の一策だね。まともな戦法じゃない。何十トンもある鉄の塊が走って来るんだろ、それへ人間がサイダー瓶を持って跳びかかって行くなんて、正気の沙汰じゃない』」 A氏:ノモンハンの停戦時、五味川氏は23歳。「兵隊が支援砲火もなしに戦車と闘わされているということが、強烈に心に灼きついた。いつの日にか、私たちもそうなるであろう」と、当時の感慨を作品の冒頭に記した。 そして6年後、関東軍兵士となった彼ははるかに劣勢の戦場へ投入されたね。 私:第2次大戦最末期の45年8月13日、彼は旧満州(現・中国東北地方)東部国境でソ連軍戦車部隊に遭遇。中隊158人中、生存は4人。「手榴弾を二発結束して戦車の腹へ叩き込んだが、牛の腹に小石を投げたほどのこともなかった」という。 6年間で進んだのは兵器の性能よりも、人間を消耗品と見る日本軍の発想だったと感じられたという。 A氏:五味川氏は生き残った兵士らを指揮して満州を逃げ延び、日本へ奇跡的生還を果たす。この体験を基にした長編小説「人間の条件」(58完結)は、全6巻で計1300万部を超えるベストセラーとなったね。 私:兵器の劣勢は兵士の血と肉で補われた。「勇敢だけでは砲弾の炸裂には耐えられない」。作中、五味川氏は軍幹部らの無策を怒りながら慨嘆した。 「ノモンハン戦はそれを証明したが、帝国陸軍はその証明を認めようとしなかった。砲火に対しては夜襲による突撃を、戦車に対しては肉攻を、という基本方式を変えることなく、大戦へ突入した」ことになるね。 ノモンハン事件は、2年後に始まる太平洋戦争の結果を予測していたね。
2015.05.15
コメント(0)
A氏:司馬氏は、ノモンハン事件をテーマに昭和の陸軍が行き着いた姿を描こうとした。 文芸春秋の編集者だった半藤一利氏は70年代初頭、「司馬さんから『ノモンハンを書きたい。手伝ってくれるか』と頼まれた」と語る。半藤氏は、第26連隊長として事件を体験した須見新一郎氏を紹介し、最初の取材は長野県の須見宅まで同行もした。 私:だが、敗戦時に陸軍の関東軍参謀だった瀬島龍三氏と「文芸春秋」(74年1月号)で司馬氏が対談したのを理由に、司馬氏は須見氏から絶縁された。軍幹部の愚劣さに苦しんだ須見氏には、元参謀と対談した司馬が許せなかったという。 例えば、ノモンハンで関東軍の作戦主任参謀だった服部卓四郎は41年7月に大本営作戦課長に、関東軍参謀だった辻政信は42年3月に同課作戦班長に就任。ガダルカナル島の作戦を指揮した。 物資の輸送能力を考慮せず損害を広げたノモンハンの失敗が拡大再生産され、島は「餓(ガ)島」と呼ばれ、島での死者約2万人のうち、約1万5千人が餓死か病死とされる。 A氏:ノモンハン事件から何も学んでいなかったのだね。 私:司馬氏が苦しんだのは、取材先との関係より、この国が抱える構造的な何かだったのではないか。執筆の見通しを尋ねた半藤氏に、司馬氏は「その話は一切しないでくれ。ぼくがノモンハンを書くとしたら、血管が破裂すると思う。当時の日本陸軍のトップの頭の悪さと、国家保全への感覚のなさに、精神衛生が悪くなってしまう」――。 司馬氏は対談や随筆でそう繰り返し、長編小説で「昭和」を描くことはなかったね。 A氏:96年2月、司馬氏は死去。半藤氏は霊前で合掌し「私が書きます」と誓った。作品「ノモンハンの夏」が約1年後に完成した。 半藤氏はこの本で「ノモンハン敗戦の責任者である服部・辻のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を指導した全過程をみるとき、(中略)人は過去から何も学ばないことを思い知らされる」と結んだ。 私:司馬氏は、「坂の上の雲」でも203高地の戦い方の稚拙さで多くの兵士が死ぬことに耐えられず、しばしば呆然となって筆をおいたという。 ましてやメチャメチャにソ連の戦車にやられ、多くの戦死者を出したノモンハン事件を書くことは、気が進まなかったのではないかね。
2015.05.14
コメント(0)
A氏:モンゴルの東端で1939年5月、「ノモンハン事件」と呼ばれる紛争が起きる。 国境線をめぐる小競り合いが、旧満州国(現・中国東北地方)にいた関東軍と旧ソ連の機械化師団の衝突に拡大。4カ月間で日本側2万人、ソ連側2万6千人が死傷した。 私:ノモンハン事件で苦戦した兵士の渇きと飢えと疲労を村上春樹氏は「ねじまき鳥クロニクル」(95年完結)で描いた。彼が長編小説で初めて描いた戦争が、ノモンハン事件だった。 小説の中で『ノモンハンにはまったく水がなかった』『世の中に喉(のど)が渇くくらいつらいことはない』。従軍した本田老人は小説の主人公オカダ・トオルに語る。 A氏:本田と戦友の間宮らは事件の前年、敵地で諜報活動中に捕まり、同行した山本は生きたまま全身の皮をはがれ、間宮は深い古井戸へ飛び込まされる。 間宮が闇の中で実際に味わった極限状況と、オカダが近所の枯れ井戸の底で体験する個人の深層意識への旅。この隔絶ぶりが、戦争体験を継承することの絶望的な困難さを暗示していると感じた。 私:文芸評論家の加藤典洋氏は「村上の作品には、日本とアジアの関係へ向けた視線が通奏低音のようにある。オカダの行為は、あの戦争とどう向き合うかという戦後生まれの日本人の課題を示している」と語る。 A氏:ノモンハンで優位を得たソ連は同23日、ドイツと不可侵条約を締結。ソ連と英仏の挟撃を当面避けた独軍は9月1日、ポーランドへ侵攻し、第2次大戦が始まった。 ソ連もノモンハンで日本と停戦の翌日の同17日、ポーランドを攻略。 一方、欧州開戦をお膳立てした形の日本は2年後、南進政策を選んで対米開戦に至る。日本の敗因の多くは、ノモンハン事件でも見いだせるものだった。 私:「ノモンハンで何一つ教訓を学ばず、南方で同じ失敗を圧倒的規模で繰り返した」。 紀行文「ノモンハンの鉄の墓場」(94年)で村上氏はそう述べ、現代日本を「一皮むけば そこにはやはり以前と同じような密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいている」 と評した。 個人間の戦争体験の断絶と対置されるのは、一貫して暴力的な国家の本質だったんだね。
2015.05.13
コメント(0)
私:第2次大戦の終幕がソ連の対日参戦だったように、その端緒も日ソが戦ったノモンハン事件だったとする見方が欧米に現れているという。 「内陸アジアの僻遠の地で戦われたこの知名度の低い紛争が、アドルフ・ヒトラーによるポーランド侵攻、およびその後に続いたあらゆる出来事の導火線になった」。 米国の研究者スチュアート・ゴールドマンと英国の歴史家アントニー・ビーバーが12年、それぞれの著書で第2次世界大戦をノモンハン事件で始め、6年後の日ソ戦で終えているという。 A氏:日ソのノモンハン事件が始まったのは1939年5月。 第2次世界大戦の引き金となったヒトラーのドイツのポーランド侵攻が1939年9月1日。ソ連のポーランド侵攻が9月17日。 タイミングが合うね。 私:世界史上の注目度が高まるノモンハン事件。 最も詳細な戦記を書いたのは、米サンディエゴ州立大学教授のアルビン・クックス氏。 「ノモンハン 草原の日ソ戦――1939」(原著85年)を著し、事件当時の欧州情勢を「第2次大戦の勃発を間近にひかえて急速に破局へ向かって展開」していたと位置づけ、ソ連側の作戦がその情勢と連動していた実態を資料と証言で示したという。 A氏:クックス氏はハーバード大学で博士号を得て50年代に米陸軍の日本軍事史研究部員として来日、ノモンハン事件の研究に没頭した。現代史家の秦郁彦氏と56年から交流があった。クックス氏が「炊事軍曹にまで詳しく聞く姿勢に感銘を受けた」と秦氏は話す。 私:今春もモンゴル東部で現地調査が進む。 調査団長の岡崎久弥氏は「第2次大戦は旧満州で始まり、終わった。その連続性を調査で裏づけたい」と語っているという。 この5回シリーズを、朝日デジタルで過去にさかのぼったノモンハン知的街道を辿ってみよう。
2015.05.12
コメント(0)
私:政府が国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への登録を目指す「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」(福岡県など8県)について、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議(イコモス)」が、登録をユネスコに勧告したね。 A氏:一連の資産は1853年から1910年のわずか50年あまりの短期間で急速な産業化が達成された幕末、明治前期、明治後期の三つの段階を反映していること、が証明されているとしている。 私:俺は、同時に、敗戦で廃墟となった日本が30年ほどで、はるかに技術的に優れていた米国の製品に追いつき、1968年に国民総生産(GNP)が自由主義圏で2位になるという奇蹟もあげたいね。 今朝の朝日新聞の「ナショナルと戦後の風景:4」欄で「旧敵国、背中追った」という見出しで、松下電器を例にその奇蹟をまとめているね。 A氏:日本がまだ連合国軍の占領下だった1951年。松下電器産業(現・パナソニック)の社長だった松下幸之助氏は米国から、本社に「56歳にして初の海外渡航。家並みやネオンの美しさに感嘆し、店頭に並ぶ商品の豪華さに目を見張った。訪問した工場では、進んだ生産設備に驚いた。家電製品の普及ぶり、女性の社会進出にも感心した」と書き送ったという。 私:米国とたたかった太平洋戦争では、松下電器も軍用の真空管や無線機を増産し、その体験と研究の成果は、戦後の民需生産再開に有形無形のプラスになった。 しかし、戦争が終わってみると、かつての敵の生産力は段違い。多くの日本企業にとって米国は、仰ぎ見る存在だった。 A氏:それが、敗戦17年後に米タイム誌は62年、松下電器を5ページにわたって詳報し、「松下の高品質な輸出品によって、日本は安物の生産国だというイメージが払拭されつつある」と評し、表紙は幸之助氏が飾るまでになる。 私:1970年代にはカラーテレビで、1980年代には自動車で、米国に追いつき、追い越したね。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。米国の社会学者エズラ・ボーゲルは79年の著書でそう表現した。 今はアジア勢の価格攻勢で元気がない日本だが、アベノミクスの第3の矢で、明治と昭和の頃の日本の活力をとりもどせるかね。
2015.05.11
コメント(0)
私:日本の農村に集落営農が広がっているという。 高齢化や後継者不足により個々では成り立ちにくくなった農家が、集落ぐるみで農地や機械、農作業を共同化し耕作放棄を防ぐ取り組み。 集落営農数は2月現在で1万4852と、05年の1万63から10年間で1.5倍に増えたという。 集落営農のうち株式会社などの法人数は、10年間で646から3622と5.6倍に急増。 集落営農全体に占める割合も6.4%から24.4%に上がったという。 A氏:集落営農数の地域別内訳は、東北(震災の影響が大きい宮城・福島の両県を除く)が3306で最も多く、九州2568、北陸2373と続いた。法人化率は北陸が39.4%、中国が36.9%と高かった。 私:日本の農村では元々、農家が助け合って農作業をしてきたが、その機能が弱っている。 A氏:34面では「集落残せ、農家が社員 重ねた話し合い/若手に土地集約」と題して、山形県のある集落営農を立ち上げたある若手の事例を紹介しているね。 06年には農作業や農機具を共有する集落営農組織を立ち上げたんだね。 私:話し合いは年間100回を超えたという。世襲に頼らず、集落の内外から若者を呼び込むため、09年には株式会社化し、雇用保険や年金が保証され、思いのある後継者に会社ごと引き継げば、集落は存続すると考えた。 こういう中堅となる若手の人物の存在が、日本農業の将来を決めるね。
2015.05.10
コメント(0)
私:昨日に続く、リスク社会特集だが、今日は感染症や災害のリスクをとりあげているね。 今回は、参議議員・小野次郎氏、川崎市健康安全研究所長・岡部信彦、東京大教授・牧原出氏、大大牟田透・論説委員、瀬川茂子・アエラ編集委員の5氏の寄稿。 感染症や災害は突発的なリスクなので、あまり興味がなかったが、感染症については起きた時に慌てるのでなく、平時からのマスコミや政府などとの情報交換が必要だと思ったね。 A氏:感染症はグローバル化でリスクは大きくなっているね。 驚いたことに、エイズの陽性者は世界で3500万人にのぼり、年に160万人が死亡していると推計されていることだね。 スケールは小さいが、今年は、日本はデング熱はどうなるだろうね。 私:ところで、今朝の新聞の囲み記事の「金融緩和2年 再建に注文次々 4月の日銀政策決定会合議事要旨」で、複数の委員は、日銀が国債を買うから金利は低いままだとの期待がふくらみすぎることで、政府の財政健全化に向けた姿勢が後退するリスクには、引き続き注意が必要だ」と述べたとある。 ここにリスクという言葉が出てくるね。 昨日とりあげた政治・経済のリスクだね。 A氏:ところで、社会的リスクと違うが、経営リスクがあるね。 今朝、テレビでユニバーサル・ジャパンをとりあげていた。 このゴールデンウィーク期間中、ものすごい入場者だったという。 特にハリーポッターの施設は大人気だったらしいね。 ところが、ここは2004年に経営破綻しそうになるのだが、会社再建プロが立て直しをしたんだね。 私:ハリーポッターの施設に金をかけたのがあたったね。 年収800億円なのに、なんと450億円のカネをかけたという。 A氏:リスクだね。 私:これが見事に成功して、危機を脱して、今は、過去にない入場者で最大の売上をあげている。 日本の政治・経済のリスクはユニバーサル・ジャパンのように成功するだろうか。
2015.05.09
コメント(0)
私:リスク社会という定義が明快でないが、朝日新聞はリスクとは何か、どう向き合えばよいか。朝日新聞社の「未来への発想委員会」委員とゲスト、記者が総論から各論まで幅広く交わした議論を2回にわたり紹介すると企画を立てたね。今日の初回は、6氏が寄稿しているが、リスク社会の定義のあいまいさを示していて、6氏の意見の焦点はばらばらだね。 A氏:日本の政治・経済的なリスクにふれたのは、千葉大教授・広井良典氏、大阪大副学長・大竹文雄氏、日本総研主席研究員・藻谷浩介の3氏だね。 私:広井氏は、1千兆円を超える財政赤字を将来世代にツケ回ししている現実がある。これは税などの負担を含め、どのような役割分担と責任で、社会としてリスクに対応していくかという発想や議論が欠落してきた結果ではないかとしている。 その背後には、「経済成長がすべてを解決してくれる」という意識とパターナリスティック(父権主義的)な国家観が複合して存在している。高度成長時代の共同体観の強固な遺物に他ならないとしている。 大竹氏も、増税による可処分所得の減少を現段階で確定したくないので、無理に高成長をねらってギャンブル性の高い政策に手を出し、現状の可処分所得を維持する可能性にかけたくなる。 期待どおりの結果が得られればいいが、そうならない可能性もある。 現状を維持したいが故に財政破綻という大きなリスクを選んでいるのだという。 A氏:ずばり、この政治・経済問題のリスクを正面から指摘しているのは藻谷氏だね。 私:現政権は、大きなリスクを伴う諸施策を迷わず進める。円安誘導、極端な金融緩和、年金の株式市場への投入、集団的自衛権、使用済み燃料の管理・処分費用の増大リスクを計算外とした原発再稼働、言論の萎縮リスクを無視した放送局への干渉と武勇伝は続くという。藻谷氏は、蛮勇を振るう政権担当者よりも、これを積極・消極に支持する今の日本の指導層(政治家、財界人、マスコミ幹部など)の胸中の方に興味があるという。彼らはなぜ政策のリスクに対して危惧を表明せず、牽制もしないのか。お受験の勝者である今の指導層は、現政権の諸施策のリスクを「四捨五入では0」と受け入れているのだろう。 その結果としての大政翼賛的行動こそ、日本社会のリスクを高めている元凶ではないかという。 大竹氏のパターナリスティック(父権主義的)な国家観の指摘と重なるね。
2015.05.08
コメント(0)
A氏:望まない人にもFAXで商品などのチラシを送る「FAX広告」に関するトラブルが増えていると報じているね。 消費者庁によると、昨年度は12月末時点で約910件と過去最多ペース。 過去5年で2倍近くになった。迷惑メールのような規制がないことが背景にあるという。 受信する方はインクや紙がもったいないね。特にインク代が高くつく。 私:技術革新でFAX送信コストが10年前の4分の1以下になり、通信会社のシステムで1時間に約3万件送信できるという。 「FAXは電子メールと違い一度は必ず見てもらえる。郵送のDMと比べて費用対効果が高く特に中小企業に人気だ」という。 A氏:だから、いきなりFAXで広告がよく来るのだね。 私:俺のところはそういう被害はない。 以前あったインク式コピー機が故障したので、インクが高いので、カーボンペーパー式の安いのに買い替えたんだ。 そして普段はカーボンペーパーを入れておかいないんだ。 電話がなって出ると、「コピーだ」と通話機が知らせるので切ってしまう。 すると、「FAXが来ているが、カーボンペーパーがないのでプリント出来ない」という表示がでる。 A氏:FAX内容をコピー機が一時的に記憶しているわけだ。 私:そこでその記憶を削除する機能があるので、それを使って削除する。 だから、FAX広告はプリントされないというわけだ。 A氏:それじゃコピーだけをしたいときはどうするの? 私:コンビニもあるし、友人の会社にもあるね。 インク代やカーボンペーパーを買うより安いね。 プリントを知人に送るときには使えるしね。 今のところ、迷惑なFAX広告の被害はないね。
2015.05.07
コメント(0)
私:日本各地の農村で高齢化と後継者難は著しく、さらに打撃を与えるとされる環太平洋経済連携協定(TPP)交渉は大詰め。 そこで「瑞穂(みずほ)の国」はどうなるのかと朝日新聞は4回にわたり現場から報告するという。 今日は石川県輪島市の「白米(しろよね)千枚田」からの現場報告で、戦後まもなくは約20軒の農家が耕作していたが、約20年前から高齢農家が次々に現場を退き、子どもたちも農業を継がず、現在は、現役地元農家は1軒。 現在、棚田を維持しているのは年間2万円を市に支払い、コメ作りを体験する棚田オーナー。輪島市役所で白米千枚田を担当するのは、農林水産課ではなく観光課。A氏:日本農業全体で見ると、日本がTPPに参加した場合、安い輸入品に押され、国内の主な農産物の農業生産額は約8兆円から約3兆円減り、カロリーベースの食料自給率も39%から27%ほどに落ち込むとの見通しだというね。私:耕作放棄地は棚田以外の農地にも広がり、全国で滋賀県の面積とほぼ同じ約40万ヘクタールに及び、販売農家の265万戸の中心だった兼業農家は15年間でほぼ半減。 地方の製造業の雇用減で、若者の就職先が減り、兼業農家が成り立たなくなりつつある。 農家の平均年齢も2010年で67歳と高齢化が進んでいる。 一方、君の「糖質制限食」のようにコメをあまり食べなくなって、コメの需要が減る。A氏:そのせいではないが(笑)、1人当たりのコメの年間消費量は、1962年度の118キロをピークに2013年度には57キロと半減したという。 11年には主食用のコメの家庭での購入額が、初めてパンに抜かれた。もっとも、俺はパンも「糖質制限」食べないがね(笑)。私:ご飯が主食の定番ではなくなり、パンやパスタなども主食の一つという考え方に変わってきているという。 調査では、夕食に一汁三菜を用意する回数は、02~03年は週2.7回だったが、12~13年は週1回に。おかずがないと、ご飯は食べにくい。 食の簡便化に伴い、主食の中で嫌われるのはご飯だという。 「瑞穂の国」もグローバル化で曲がり角を迎えているね。
2015.05.06
コメント(0)
私:二大政党制の本場、英国の総選挙が7日に投開票だね。主要政党に有利な単純小選挙区制。にもかかわらず、事前の世論調査では、どの政党も過半数を占められない情勢だという。 A氏:二大政党制は、アングロサクソン系の国々に多く見られるモデルだったが、すでにその多くの国が多党制に移行しており、原因は時代とともに人びとが政治に求めるものが変わり、二つだけの選択肢では有権者の多様なニーズに応えられなくなったからだという。 私:小選挙区制も問題だね。昨年12月の日本の総選挙では、得票率に比べて議席占有率が高くなる小選挙区の特徴が出て、自民党の得票は48%と半分以下だったのに、議席占有率では76%に達して、他党を圧倒した。 A氏:民主主義に多数決はつきものだが、少数意見も謙虚に配慮しないと欠点になるね。 私:翁長沖縄知事は、辺野古反対は沖縄県民の総意だというが、得票は36万票。辺野古賛成の仲井眞弘多前知事の得票は26万票と賛成者もいる。 名護市の市長選でも基地反対は19,839票だが、賛成もいて15,684票だ。 知事選は石垣島だけみると、仲井眞弘多氏の得票が9,363票で翁長氏の8,992を抜いてトップで沖縄本土と逆で、尖閣に近い危機感を示しているね。 A氏:大体、翁長氏は10年ほど前には、辺野古基地賛成だったんだがね。 私:「国境の島」として知られる日本最西端の与那国島で、自衛隊配備の是非を問う住民投票が2月22日に実施され、即日開票の結果、賛成が過半数を占めたね。 やはりここも尖閣諸島が近いので沖縄本土とは危機感が違うようだね。 与那国島の自衛隊配備予定地ではすでに工事が始まっており、2015年度末までに完了する予定。 住民投票に法的拘束力はないが、住民投票条例は町長と町議会に「投票結果を尊重」するよう求めていた。 今回の住民投票を受けて、与那国島の誘致賛成派の町長や政府の方針が支持された格好になったという。 「もう一つの沖縄」があるね。
2015.05.05
コメント(0)
![]()
靖国史観 日本思想を読みなおす 私:「大義名分」は「大漢和辞典」では「大義と名分。臣下として行わなければならない大きなすじみちと本分」とあり、引用例は中国の古典でなく、日本の儒学者の文章で和製であることを意味するという。 A氏:現在では「正義」のほうが使われるね。 私:「人間として守るべき筋道」を意味し、英語のジャスティスに近いという。 しかし「正義」には「論語正義」のように「正しい意味」という使い方もあるという。 「大義名分」は和製語だがその考えは朱子学の歴史認識に存在するといい、「あるべきことを実在よりも優先させる歴史認識」だという。 著者は、大東亜戦争を大義名分論の視点で見ると、米国の外交の権謀術数にやられており、「大義名分」は儒教の根幹、「あの戦争」は「太平洋戦争」などではなく、「大東亜戦争」で、この点で著者は靖国神社と遊就館に滿腔の賛意を表するという。 しかし、氏は「大東亜戦争」を使わない。使えない。敗けたからだ。 「薩長テロリスト集団による簒奪」のことを教科書では「明治維新」と呼んでいる。 彼らが勝者だからだ。 A氏:新選組組長だった近藤勇を東京裁判よりひどい一方的な断罪に処し、白虎隊を含む軍人たちのまともな埋葬を許さず、敵の本営だった江戸城で仲間の戦死者の慰霊祭を行った連中。 靖国を創建させたのはこういう人たちだというわけだ。 私:著者はある人たちが「東京裁判」を認めないように「慶喜追討」を決めた小御所会議の正統性を認めたくないからだという。 靖国神社は徳川政権に対する反体制テロリストたちを祭るために始まった施設だという。 A氏:靖国問題が国際問題でなく、国内問題だと著者は主張するわけだ。 私:戊辰戦争以来の未解決の歴史問題があるという。 長州藩は京都御所に向かって発砲したことを謝罪したか? 薩摩藩は江戸市中に放火したことを謝罪したか? 「維新」を歴史の道理に適うものとして疑わない感性には、著者は納得出来ないという。 著者は、同意してくれる読者が一人でもいることを念じて、この書を終わるとしえいる。 俺は少なくとも神道でなく儒教を根拠とし、「ご本尊」のない、靖国神社の特殊性は理解できたね。
2015.05.04
コメント(0)
![]()
靖国史観 日本思想を読みなおす 私:「維新」という言葉も儒教由来の言葉で「改革」、「改新」と違って「単に新しいことを始めるのでなく、「古くからの由緒を持つ君主が天命を受けて天下を治めることになること」を意味する」という。 A氏:「維新」と「革命」の違いは、「革命」は王朝交替があることだね。このブログの「『孟子』の革命思想と日本・天皇家にはなぜ姓がないのか」ですでに取り上げていたね。 私:明治新政府は「王朝交替」していないから「革命」でなく「維新」というわけだ。 明治以降、元号に1世1元を採用するのも朱子学の影響だね。明治の西洋化の裏には朱子学化があることを忘れてはいけないね。明治の「教育勅語」に朱子学的な人倫道徳が盛り込まれているのは偶然ではない。 A氏:日本には「革命」がないというのは、万世一系の天皇が統治してきたからだね。 私:しかし、万世一系の天皇とは王朝交替がないということだけで、王家の内部では熾烈な闘争があったね。 有名なのは南北朝時代で、南朝と北朝が両立するね。 男系の血のつながりは北朝なのに、後に「大日本史」が南朝を日本全土の正当な統治者であるとしたのは歴史認識としてムリがあるという。 江戸の多くの歴史家も後醍醐天皇が吉野に逃げて以降は北朝(持明院統)が中心であったという史観をもっていたという。 A氏:なぜ、「大日本史」は1329年の南北朝合一まで、南朝が正統で北朝はニセモノだったという説に加担したのだろうね。 私:南朝中心にこの時代の描いた「太平記」の影響だろうという。 また、「大日本史」が南朝正統史観を強く打ち出したのは、朱子学の何ごとも筋を通そうとする歴史思想を受容咀嚼したからだという。 「大日本史」は、両朝合一時の北朝天皇の後小松帝までで筆をおいている。その年に歴史の区切りを終わったと判断したからであろうという。 中国の正史が王朝滅亡をもって記述を終えるのと同じやり方で、南朝滅亡により、正当な一つの王朝が滅亡したとも読める書き方を「大日本史」は意図的にしている。 これは鎌倉幕府開設以来の武家政権時代を「国体」に反するものとみなす皇国史観へとつながっていく。だから、王政復古は「革命」でなく「維新」となる。 明日は「大義名分」という和製熟語にふれよう。
2015.05.03
コメント(0)
![]()
靖国史観 日本思想を読みなおす 私:靖国神社が他の一般的な神社と本質的に異なることは「ご本尊」がいないことだね。 そして一般の神社で「ご本尊」が複数の場合、序列があるが、靖国神社の「英霊」には尊卑の区別はない。 「英霊」という言葉は日露戦争に始まり、それまでは「忠魂」「忠霊」が用いられていたという。幕末の水戸藩士で正志斎の後輩の藤田東湖が、中国宋代の忠臣文天祥の詩に感ずるところがあって読んだ詩の中にこの「英霊」という言葉が出てくるのだという。 A氏:「英霊」は大和言葉ではなく、儒教の「礼記」に基いているようだね。 私:では「英霊」になれるのは誰か。それは「天皇の名のもとに戦った陣没者や天皇のために政治的に犠牲になった人」である。「天皇のため」であって「日本国のため」ではない。 「天皇制国家」を打倒して人民のための国を作ろうとして獄死した幸徳秋水や三木清は「英霊」ではない。天皇に逆らったからである。 同じ理由で西郷隆盛は「英霊」ではない。彼は西南戦争で賊軍だったからだ。 A氏:明治政府樹立の時、官軍の戦死者は「英霊」だが、賊軍の戦死者は「英霊」ではない。これは、敗者も祀る古代からの神道と異なるという。 靖国神社の誕生はその意味で歴史的・政治的であった。「官軍」と「賊軍」の区別が靖国の原点だね。 私:新選組だって、一時は「官軍」だったが、王政復古で政府が交代し、それにともなって「官軍」と「賊軍」が入れ替わる。 天皇と朝廷のために過激なテロリストたちと戦っていたはずの会津藩や新選組は「勤王の志士」たちの命を奪った憎むべき「朝敵」となったね。 A氏:日清戦争になると戊辰戦争と違い、国家間の戦闘だから「官軍」も「賊軍」もなくなる。 私:しかし、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦と日本は勝ってきた。 「勝てば『官軍』」だったが、第2次世界大戦で、明治以来のこの論理は崩れたね。 明治のときも、長州藩は薩摩藩はじめ多くの藩を味方につけることによって、徳川政権を降伏に追い込んで勝って「官軍」になった。「官軍」だったから勝ったのでなく、勝ったから「官軍」になったというわけだ。 明日は「革命」と違う「維新」という用語にふれよう。
2015.05.02
コメント(0)
![]()
靖国史観 日本思想を読みなおす 私:日本を国家として一体視し、それを守るべき単位としたのが、正志斎の「新論」の特徴だね。西洋列強の船が日本の沿岸に出没するようになったという背景があるね。 それまでは「国」は常陸とか薩摩とかいったレベルの「藩」を意味していた。 正志斎の発想は「大日本史」編纂事業の中で育まれてきた「わが国」意識であった。 A氏:日本とは古来どのような国柄なのか、その本来の理想的なすがたに立ち戻ってこそ、はじめて諸外国の侵略行為に立ち向かうことができると正志斎は考えた。 その「日本の本来あるべき正しいすがた」が「国体」であったというわけだね。 私:その「国体」の中心にいるのは天皇で天照大神からつながる祭政一致が日本の「国体」となる。「天照大神の神勅」を奉じる天皇を君主として仰ぐ体制が「国体」なのだね。 嘉永4年(1851)、若い長州藩士・吉田松陰が水戸藩を訪れる。2年後に正志斎は82才で逝去しているね。 松蔭は正志斎の「国体」を受け継ぎ、さらに現下の政治権力を相対化する存在として天皇中心の日本独自の「国体」持ち出す。 この思考が討幕運動の思想的な原動力であり、また、大日本帝国における「右」からの政治批判運動の理論的な根拠となるね。 A氏:松蔭は「革命」の成功を見ることなく刑死するが、その弟子たちが一翼を担った王政復古の成功により彼は殉教者としての扱いを受け、靖国神社の「英霊」として今も祭られているね。 私:靖国神社の神殿を参拝する人は吉田松陰の霊にも拝謁してわけだね。 ここで戦中、戦後にとぶが、有名な平泉澄史学があるね。 東條が心酔したという皇国史観だね。 平泉氏は戦後も「大東亜戦争」の誤りを認めていないし、東京裁判も受け入れず、戦犯も「国体護持」に散った人物と捉えていた。 A氏:吉田松陰と同じく、彼らもまた「国体」の敵によって殺された殉難者だったとみなしたのだね。 私:宗教的・祭祀的な心性が近代とは離れたところで人々をとらえているのだろうか。 正志斎の議論はその意味で正しいと著者は言う。 明日は「英霊」という見方にふれよう。
2015.05.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
