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ふつうの人は、20歳前後に家を出る。ものごころついてからの20年程度しか、親と一緒に暮らす期間はないことが多い。その期間以外のことや、親が若かったころのことは、あまり関心もないし、意外と知らないものである。年表にしろと言われても、まず不可能。1945年に20歳だった父は、戦争に行くことなく終戦を迎えた。正確には、予科連に半年ほど行ったので、もう少し戦争が続いていたら特攻隊にでも入れられていたかもしれない。学徒出陣が始まったのは1943年10月。兵役を免除されていた学生10万人が主に特攻隊要員として徴兵されていった。人生には1~2年のちがいで明暗をわけることがしばしばあるが、終戦の歳に20歳の大学生だった父は運が良かったといえる。大正生まれの人と昭和生まれの人の間には、非常に大きな違いを感じることがある。大正生まれの人、特に男性には、どこかでいつも戦争で死んだ友人や兄弟のことを意識していて、自分だけが生き残っていて申し訳ないというような感覚を持っている人が多い。よきにつけ悪しきにつけ、戦後の日本はこういう人たちのストイックな倫理感によって作られていった部分が大きいのではないかと思う。巨視的に見れば、アメリカの中央銀行の政策の失敗が大恐慌と経済のブロック化を生み、それがファシズムと戦争を引き起こした。それでも、山本五十六元帥をはじめ海軍は負けるのがわかりきっている戦争には反対していたし、ヒロヒトが反対すれば開戦は防げた。引揚げ者だったために家のなかった父は、不動産に対する強い執着を持っていた。ハイパーインフレを経験しているので、円も信用していなかった。「東京に不動産を」「円は紙くずになるから金と株式に」「いつでも外国に逃げられるようドルを持て」「北海道にいる限り食糧の心配はない」これが、父が戦争と戦後の動乱の経験から得た、浅薄といえば浅薄な教訓・処世訓である。戦後生まれの人たちに、おそろしく国際感覚が欠如していると感じることがあるのは、こうした父の話を何度も聞かされたからにちがいない。もう少しというときに戦争が始まり、父はすでに決まっていたドイツ留学を諦めたらしい。その話を知ったのは、1992年にドイツへ行くことになったときだった。ハイデルベルクの街を、まるできのう行って見てきたかのように語る父は、とうとうドイツへ行くことはなかった。
September 29, 2004
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叔父への手紙あなたが1945年6月にインドネシアのビアク島で戦死したという公報が届いたのは、1967年のことだったでしょうか。外務省から届いた骨箱に入っていたのは、骨ではなく石ころでした。あなたが死んだとされる年から59年。ひょっとしたら、あなたはジャングルですっかり日本語を忘れて生きているのかもしれません。「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三のような体験のあげく餓死したのかもしれません。たぶん後者ではないかと思っていますが、どうですか?出征のときには、あなたより10歳も20歳も年上の部下たちが「自分たちが弾除けになって小隊長を守りますから安心してください」と言ったそうですね。あなたは人望があり、あなたを知るあらゆる人から、最大級の賞讃を聞きました。ある人は真顔で、生きていたら大臣くらいにはなっただろうと言っていました。なぜかいまでもあなたあての郵便物が届くことがあり、表札にはあなたの名前も書いています。だから、わたしにとってあなたは「いつも不在の叔父」でした。ほかのきょうだいの話を全くしない父も、あなたの話だけは繰り返ししたものです。あなたが知らない、あなたのきょうだいたちの話を、あなたが死んだ歳より年長であるわたしが教えてあげることにしましょう。あなたの兄、長兄の消息を知る人間はいません。戦争からは生きて帰ったものの、戦争で行った中国で麻雀を覚え、南京大虐殺に加担したのか人格が崩壊したそうです。戦後すぐに離婚したあとケチな犯罪を重ねたあげく行き倒れて死んだと聞きますが、だれもそれを確かめた人はいません。あなたのすぐ下の妹は27歳で死にました。デング熱で、あっという間だったそうです。その下の妹は3年前に84歳で死にました。戦後、流れ着いた日高の浦河町で、町長の息子との縁談を断って教員を続けていたそうです。ずっと独身で、ただただ父母やきょうだいのために生きた一生でした。あなたのすぐ下の弟は、土建の事業に失敗したあげく40代で死にました。底抜けのお人好しという印象の人でしたが、のこされた家族の苦労はたいへんなものでした。その下の弟は、その叔父が死んだ翌年にやはり40代で死にました。胃痛をごまかして焼酎を飲んでいたそうです。盲腸だということで切ってみたら胃がんで、手術室からは生きて出てきませんでした。進駐軍相手に商売をしている会社と契約して司法書士の仕事をしていましたが、酒乱で非常に自己中心的だった人らしく、あらゆる人から恨まれていました。双子の娘がいましたが、縁を切ってしまったのでどうなったかは知りません。あなたの末弟、すなわちいま食糧難の時代に患った結核が再発して死の床にあるわたしの父は、代用教員、保健所勤めの役人を経てサケマスの増殖を研究する機関の職員になりました。それにしても、小さいころから病弱で最も早く死ぬと言われていた父が最も長生きしているのだから皮肉なものです。軍事独裁政権の支配下にあり自由に訪問できなかったビアク島、あなたが戦死したと伝えられるその場所に最も近いグアムに、父が末妹と共に訪れたのは20年ほど前だったでしょうか。いちばん下の妹はいまも健在です。数年前までは亡姉、いまは85になる夫をかいがいしく世話しています。こう振り返って思うのは、あなたの男きょうだいたちの人生はことごとく失敗だったということです。その妻たちの苦労はたいへんなものでした。死んだ男の遺したものは、母親思いの子どもだけと言えるかもしれません。いま思い出しましたが、あなたの最後を知りたがったあなたの母と妹が、イタコのような霊媒師にあなたの霊を呼び寄せてもらったことがあります。その霊媒師は「寒い」とぶるぶる震え、熱湯を飲み干しました。さらに死んだのは公報で伝えられた6月ではなく2月で、冷たい海の中にいる、とのご託宣でした。ビアク島は熱帯なので2月だろうと6月だろうと寒くはないはずなので不思議なことです。東南アジアへ向かう飛行機の窓から海や島々を見下ろすとき、特攻機や人間魚雷で死んでいった日本兵たち、あなたを含めた「奥崎謙三の戦友たち」を思わずにはいられません。あなたを死地においやったもの、それを「日本」と呼ぶならば、その日本を滅ぼすことこそ、あなたへの弔いだと考えています。
September 28, 2004
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1926年(大正15年)生まれの父は8人きょうだいの7番目。下は妹なので末男。父のきょうだいは全員、台湾生まれのようなので、祖父母が台湾にわたったのは1900年代と思われる。日清戦争に勝って清から台湾を割譲されたのが1895年。日本軍は独立派など1万4000人以上を虐殺して全土を制圧。住民に日本国籍をとるかどうかの2年間の猶予を与え、併合が「完成」したのが1898年。祖父は1959年に74歳、祖母は1975年に88歳で亡くなっている。それぞれ1885年、87年の生まれ。子どもの年齢から、台湾にわたったのは1905年ごろと思われる。台湾統治に最も影響力があったのは後藤新平である。後藤の統治は、帝国主義国の侵略国統治としては世界史的に見ても最も人間的なもので、そのためもあって台湾人(内省人)は現在も日本と日本人に対して好意的な人が多い。後藤の在任は1898年から1906年。祖父母が台湾にわたったのは、後藤の統治が奏功した時期だったということだろう。軍隊が制圧したあとの民間人の移住であるという点において、「ブラジル移民」などとは、似ていても性格の異なるものだったでしょうが、祖父母にはそういう区別がついていたとは思えない。日本の敗戦で祖父母が引き揚げてきたのは1945年。20代から50代までの、人生の大半を台湾で過ごしたことになる。それなのに、祖母が台湾を懐かしがったりしていた記憶はない。それに比べると、父の台湾への執着は強烈だった。話すことの半分以上はいかに台湾がいいところかという話。「台湾では」という枕詞で始まらない話の方が少なく、「台湾」という単語そのものにさえ食傷したほどでした。「台湾では」という話のあとに続くのは、決まって東北の農民の排他性と無教養さ、北海道の気候の悪さと北海道人の粗野さに対する罵倒だった。10代までの経験が人格形成に非常に大きく影響するということだ。父が台湾を最後に訪れたのは1987年10月。この年、日本敗戦のあと台湾を占領した蒋介石の国民党が、民主化運動の高まりとレーガン政権の圧力によって38年間続いた戒厳令を解除し旅行がしやすくなったからだった。蒋介石その人は88年に死んだが、フランコやヒトラーにも匹敵する独裁者がつい最近まで生きていたことを、もう忘れかけている。国民党の台湾支配は暴虐極まりないものだった。日本統治下の大学で学んだ知識人へのポル・ポト的弾圧もあり、父の友人で長く投獄されていた学者もいる。「歴史意識」ぬきでどんな自我の形成もありえない。日清戦争で割譲された台湾の植民地経営に参画した民間人の孫であるという自覚を忘れることは人間性を喪失することと同義だと思う。
September 27, 2004
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父が生まれたのは1926年(大正15年)、当時は日本の植民地だった台湾の台南市。祖父は岩手(一ノ関)、祖母は宮城の出身。祖父は三男坊で農家をつぐことはできない。植民地に移住するといろいろな優遇措置があったので台湾にわたり、製糖会社に勤めたと推測される。祖母の実家は造り酒屋で宮城のその地方では名家、しかし父親が遊興三昧のあげく先物で失敗して没落。そのいきさつはいまでも語り草になっているらしい。製糖会社を勤め上げた祖父の退職金は4000円。これはかなりの金額だが、戦後のハイパーインフレと新円切り替えでタバコ銭になった。無一文で老後を、それも引揚げ者として住むところもなく迎えざるをえなかった祖父の無念が、どれほどのものだったかは想像できない。祖父はわたしが2歳だった1959年に亡くなったので記憶に残っていない。一緒に写っている写真はあるが、写真の表情から、そうした無念を読みとることはできない。実家があり親戚が多い一ノ関に引き揚げた祖父とその家族は、食糧難の時代に親戚にじゃま者扱いされたこともあって、食糧の豊富な北海道へと流れることになった。この一ノ関での体験はよほど強烈だったらしく、度量が小さく世間の狭い「いなかもの」への悪罵を何度聞かされたかわかりない。同じいなかの人でも、在日朝鮮人は別。日本人が飢えたり病気になったりしたとき、自分たちが迫害していた朝鮮人から逆に食べ物を分けてもらったり親切にされたという話はあちこちで聞く。それでも差別をやめない日本人ほど救いがたい民族が、ほかにあるだろうか?
September 26, 2004
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8月上旬にはひとりで外出できた父が、結核の再発で入院したとたん立ち上がるのもおぼつかなくなった。大学病院の若い医者が「完治」と言って投薬をやめてまもなく食欲がなくなって衰弱したのは、薬で抑えられていた菌が暴れ始めたのだと思う。去年と同じように1クール3ヶ月の投薬で治ると思っていた。が、万が一を覚悟しなくてはならないようだ。70代にもなると、健康な人でも急速に老け込むことがある。もし父が死ねば、しばらくはあわただしくなるにちがいない。落ちついたら落ちついたで、父のことを書きたいとは思わなくなるだろう。どんな人の人生にも、政治や歴史が大きく関わっている。しかし、なぜか日本人は自分には関係がないと思っている人が多い。日本人の歴史意識の欠如は韓国人などと比べると鮮明ですが、歴史や時代との対峙から逃避した人間・民族がどうなるかは、それこそ歴史が教えている。歴史や時代を参照しながら、父とその一族のことを思い出して書いておくのも、ムダではないかもしれない。
September 25, 2004
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