全9件 (9件中 1-9件目)
1
ニューヨークには可能性に挑戦する人たちがあふれていた。滞在したアパートの向かいの部屋の住人はダンサーの卵で時々音程のはずれた歌が聴こえてきたし、夜中にカギの問題で叩き起こしてしまった下の階の住人(若い日本女性)は何かアートの勉強をしにきているようで、日本で出会う若い女性には全くいないアグレッシブなタイプ。だいいち、そのアパートのいくつかの部屋をリースして再リースしている経営者にしてからが、ニューヨークに来て5年になるという若い日本人男性ピアニスト。「いっさいの言い訳なしに」自分の可能性に挑戦している人たちと接するのは、日本ではあまりない経験だが、そういう人たちとどんどん知りあえるのだから面白い。自分にも何かできるのではないだろうか。いつのまにか自然にそういうことを考えている自分に気がつく。人種も、性別も、年齢も関係なく、意欲と能力さえあれば受け入れてくれる街。誰にでもチャンスを与えてくれる街。しまった。20代、いやせめて30代までに来ておくべき場所だと思った。ニューヨークでなら、たとえ何かに挑戦して失敗しても、潔く諦めがつく。日本が人間の可能性の芽をつんでしまう国であると薄々感じてはいましたが、それがはっきり確認できた。千葉敦子がなぜニューヨークに住みたがったかも、行ってみて初めて理解できた。考えてみれば、一週間、同じ場所に滞在した旅行というのは初めての体験。同じ場所に滞在することで、少しはそこに住む人たちの視点を持てたような気がする。9番街47丁目のすさまじく古くてボロいアパート。たった一週間、それもただ寝るために帰った場所なのに、まるで故郷のような場所として記憶に残っているのだから不思議だ。
October 31, 2004
コメント(0)
紅葉が美しい秋のニューヨークから帰って、まずしたのは、蔵前仁一の『旅人たちのピーコート』を読み返すこと。蔵前仁一の初めての海外旅行がニューヨーク滞在を含めたアメリカ旅行。その旅から20年近くもたって書いた旅行記の終わりの部分が、ニューヨークを出発するときの気分とぴったり同じだという気がして、無性に読み返したくなった。その部分。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・瀬戸はぼくに聞いた。「本当に日本に帰るの?」「帰るよ、そりゃ」「このままいればいいのに。仕事なんかいくらでも見つかるぜ。何なら俺のところにしばらく泊まっててもいいし。日本より絶対こっちの方がいいと思うけどね」このセリフを何度聞いたことだろう。僕が日本に帰るというたびに、日本人たちは何故帰ろうとするのか理解できないというのだった。僕も、その気持ちがまったくわからないわけではなかった。日本にいるよりここにいる方が、何か大きな可能性があるような気がしてくるのだ。そんなご大層なことではなくても、こちらにいる方がより自由であり、わくわくする日常があるように思えた。(中略)だが、僕にはできなかった。日本に失って惜しいものがあったわけではなかったが、そんなつもりでアメリカに来たわけじゃなかったのだ。それが言い訳なのは自分でもわかっていたが、やはりアメリカに踏みとどまる勇気も、そして理由もない。日本行きの飛行機に乗り込んで、僕は絶対にまたニューヨークに戻ってこようと心に決めていた。それもなるべく近いうちに。それは自分にとってかなり現実的なものであるように思えたので、帰国の途上にあっても何一つ感傷的な気分に陥らなかった。もし来月か再来月、またニューヨークへ来られると考えていれば、しみじみと別れを惜しむ気にはなれないだろう。僕はそうやって初めての海外旅行の地アメリカを離れたのだった。・・・・・・・・・・23歳の蔵前仁一が1979年に感じたのとまったく同じことを、1979年よりはるかに落ちついた「おとなの街」になったと思われる2004年のニューヨークに47歳のわたしが感じるのだからおもしろい。ニューヨークに踏みとどまる勇気も、そして理由もない。それが言い訳なのは自分でもわかっていたが、またいつでも来られると考えたたわたしは、しみじみと別れを惜しむ気にもならず、まるでラッシュアワーのニューヨークの地下鉄にでも乗り込むようなつもりで飛行機に乗りこんで帰ってきた。
October 30, 2004
コメント(0)
ニューヨークから帰ったら、父は骨と灰になって箱の中にいた。出発予定当日に死んだことといい、飛行機の欠航で出発が一日延びて仮通夜には出られたことといい、運命の采配のようなものを感じずにいられない。大竹愼一の父も、彼が日本に着いた日に亡くなったのだそうだ。中学生のころ、音楽クラブの顧問の先生の家に遊びに行って、そのホームドラマのような温かい団らん風景を心底うらやましく思ったことがある。「ふつうの家庭とはこういうものなのか」とがく然としたが、父の性格の異常さ(と言って悪ければ)偏りに深く感じ入ったのはそのときからだと思う。いまよりさまざまな社会的規範が強く貧しかった時代には、非常に激しい症状を示す分裂病の人がたくさんいたが、父にもそういうところがあった。葬儀で使った写真はデイケアセンターに行っていたときに介護の人が撮ってくれたもので、穏やかで悪意のない顔をしている。憎悪と嫌悪を感じるばかりだった父の否定的な面は、死によってあがなわれ清められたように思えてくる。長所だけが思い出され、この写真のように生きている間ずっと善良な老人だったような気がしてくるから不思議だ。あれほど憎悪し嫌悪していた父の死でさえこれほど悲しいのだから、若くして親をなくした人や、子をなくした親の悲しみはどれほどのものだろうか。
October 29, 2004
コメント(0)
父が死んだ。19日の深夜、死亡診断書によれば20日午前0時5分に死んだことになっている。78年と196日の人生だった。消灯時間の9時半まで病院にいて、帰宅してしばらくしたら電話がかかってきた。あわててとってかえして着いたのは0時40分。まだ父の体はあたたかかった。死の瞬間に立ち会えなかったのは残念だ。死の10時間ほど前には、話しかける内容によっては反応があった気がする。ニューヨーク行きはギリギリまで迷ったが、やはり行くことにした。葬儀は身内だけだし、事前にできることはだいたい済ましてある。父が身代わりに死んでくれ、旅の安全を守ってくれる道祖神になってくれたのだと考えることにした。少しずつ冷たくなっていく父の体をさわっていても、奇妙にその実感がない。父の死は、これから長い時間をかけて事実としての重みを増していくのだろう。
October 20, 2004
コメント(0)
父はもう虫の息。呼びかけにも反応がなくなった。ただ、好きだった曲を大きめの音で流すと、目を閉じたまま眼球だけが少し動く。叔母のとき、その死は数日前にわかった。その経験から推しても、父はまもなく死ぬ。78年と6ヶ月ちょっとの人生、大正の末年すなわち昭和元年から平成まで3つの年号にまたがったひとりの男の人生は終わる。父と最後に話したのは10月3日。そのときはまだボケてはいなかった。自分がどこにいるか、周辺の地理などははっきりと認識していた。苦しかったのは脳出血で意識がなくなるまでの1ヶ月たらずだったと思う。それも、ほとんど眠っていたので、苦しみは少なかったと思われるのがせめてもの救いだ。肺結核で死んだ正岡子規の凄まじい苦しみを思い起こすと、幸運とさえいえると思う。数日前、お見舞いを2日ほど休んだら、夜中に母のところに現れたという。その話を聞いたとき、ああ、瞬間的に死んだのだと思った。肉親の初めての死=生の終わりに直面して思うのは、この世のありとあらゆるもの、人間の愚かさやくだらなさ、欲や争いも含めて、すべてがすばらしいものだということだ。こんな簡単なことさえ、肉親の死に直面してみなければわからないのだから、人間とはなんと知恵の足りない存在だろうか。
October 17, 2004
コメント(0)
ある雨の朝きみは子どものころ住んだ家を思い出している。きみが住んでいたのはロシア映画に出てきそうな、白いブロックを積み上げた平屋の市営住宅だった。裸電球、まるいちゃぶ台、ブリキのコップ、机代わりのリンゴの木箱、ハエ取りリボン、湯沸かしつきの石炭ストーブ・・典型的な昭和30年代の風景は、たとえば土門拳の「筑豊の子どもたち」やいくつかの映画でさえも、もう見ることはできない。冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビに電子オルガンとしだいに家具が増えても、あたりまえだが3間あわせて12畳ほどの広さは変わらなかった。天気のいい日は洗濯板とたらいで洗濯、冬が近づくと大量の薪割り、とうきびや芋を植えていた畑は冬はスケートリンクになった。家の割に敷地は広く、玄関先の空間ではケンケンができ、道路までは何十歩か歩かなければならなかった。床下にネコがたくさんいた物置には鉱山から運んだ木樽の風呂桶があり、夏には薪で沸かして入ることもあった。親しくしていた宇津井健によく似た近所の白バイのりの警察官は、なぜか銭湯に入ることのできない人で、よくこの風呂をもらいに来た。そういえば、追跡していたクルマがわざと急停車してこの人の同僚が追突して死んだことがあった。事故と処理されたが、この人を中心とする白バイ部隊はこのクルマを数ヵ月にわたって徹底追尾した。ノイローゼになった持ち主は首を吊った。銭湯は女たちの情報交換の場だった。週に一度か二度の銭湯では、決まってのどの渇いた子どもが白い牛乳より5円高いフルーツ牛乳をねだって親に叱られ泣いていた。あの家にきみが住んでいたのは、きみの父の30代にあたる。きみの父は自衛隊と駐留軍が住民の半数を占めるその街で飲食店の衛生指導などを行なっていた。手洗い用の別の蛇口を作らなくては、保健所の営業許可は下りない。しかし、店主にはそのカネがない。そこできみの父をはじめとする保健所の職員は、そういう店で飲食をしてその費用を捻出させたのだという。そういう親切を仇で返す店もあったと聞くが、戦後のある時期までは、公務員に公僕の意識があったのだ。就職難で高学歴の人たちが続々と警察などお役所に入った時代、彼らの復興への志や庶民を啓発しようとする意識は高かった。いまならネパールかグアテマラの山奥に行かなければお目にかかれないあの生活を、ひどいとも貧しいと感じることがなかったのは、世の中ぜんたいが貧しかったからだろうし、生活が上向いていくのが実感できたからだろう。あの時代がよかったとノスタルジーに浸るつもりはない。欠食児童は珍しくもなく、保健所が野犬狩りのためにまいた毒まんじゅうを拾って食べて死ぬ子どももいたし、生活苦から新興宗教に走る人も少なくなかった。日本人はまだ列を作って並ぶことができず、祝日に日の丸を掲げる家がたくさんあったほど封建性も残っていた。女が外で働くことはイスラム社会のように奇異の目で見られた。しかし、1990年代のある日、きみの父が言ったことを、きみは忘れることができない。あのころは、何もなかったからよかった。ひとつずつ、少しずつ、自分の力で作ったりして得るしかなった。人間は自分で働いて得たものしか、それを得たほんとうの喜びを味わうことはできないものだ。あの貧しかった時代にノスタルジーを感じることのないきみは、あの貧しかった時代にノスタルジーを感じることのない人を決して友人にすることはない。
October 12, 2004
コメント(0)
父が最後に台湾を訪れたのは1987年10月。この年に旅行したのは、戒厳令が解除されたというだけでなく、個人的な理由があった。この年に退職した父は、緑内障の手術をすることになり、万が一の失明の可能性を考えて、手術前に台湾を再訪して友人たちに会っておこうと考えたのだった。台湾には、地理的に近い沖縄からの移住者も多かったので、沖縄に引き揚げた同窓生が多い。そこで、沖縄の友人たちと会ったあと台湾へという旅程を組んだ。1987年10月19日は、世界を震撼させたあのブラックマンデー。旅行は、その19日をはさんだ2週間だった。台湾最大の証券会社の役員をしていた父の友人は休みをとって案内してくれたが、ブラックマンデーの直前の週に自分の持ち株すべてを売却し、休みの間は指示できないので会社全体でも株のポジションを大きく下げた。そのため、ブラックマンデーの暴落に巻き込まれずに済み、なおかつ暴落のあと買い戻したので大損転じて大儲けになった。もし持ち続けていたら損したであろう金額と、暴落のあとの買い戻しで儲かった金額は、それぞれ日本円で数百億円は下らなかったそうです。たいそう感謝されたが、この人には日本の株の格言を集めた本を送ったりしたこともあった。この人に限らず、父の台湾時代の友人には成功者が多い。そのひとつの理由は、蒋介石ら本省人たちの台湾支配があまりに過酷だったし、蒋介石がいなくなってもいつ共産党中国が侵略してくるかもしれないので、台湾人は常に外国へ逃げることを考えた。ものすごいハングリー精神で起業したりした人が多かった。屋台ひとつで商売を始め、巨大飲食店チェーンの経営者になった人もいる。四国よりやや大きく、九州よりやや小さい台湾。そんな小国の人たちは、「国を捨てて逃げる」ことも含めて、将来のリスク計算をしていたのだろうと思う。同窓生の日本人にも成功者は多い。戦後、ゼロから起業して資産数百億という人もひとりやふたりではないようだ。これらの友人たちの中では、一介の公務員にすぎなかった父が最も貧乏だったのは間違いない。1970年代の工業化を経て、台湾は大きく変わったようだ。南国の美しい自然やのどかな人情はかなり失われてしまったようだ。この旅以後、父が台湾の話をすることはほとんどなくなった。
October 11, 2004
コメント(0)
ある調査によれば、加齢に前向きな人はそうでない人に比べて平均7年長生きするという。10代で2回のマラリア、20代で肺結核、50代で胃潰瘍をやった父も、タバコをやめ飲酒を慎み、運動して健康に留意していれば、7年はムリでもあと3~4年は生きられたかもしれない。そもそものつまづきは、胃潰瘍になったこと。管理職になって強まったストレスをお酒で晴らそうとして胃潰瘍になったのだ。いまは胃潰瘍はクスリで治りますが、当時は切除が一般的だった。胃を切除するとどうしても食が細くなり、太ることのできない体質になる。痩せると、歳をとって抵抗力が落ちたとき、感染性の病気にかかりやすくなってしまう。結局、ストレスを(お酒以外で)上手に解消する方法、気持ちをリセットできる趣味を持たなかったのが、<7年間長生きしそこなった>最大の原因だろう。大腸がんで死んだ兄を見ていたので、健康に留意しない父も、大腸がんだけは気をつけていた。マメに検査を受け、取る必要がないとも言われているポリープを何度も切除した。それくらい気をつけていたのに、本数は減らしたにしてもタバコをやめることはなかった。これは、いま70代以上の人の多くが経験していることですが、タバコが配給だった時代の影響が大きい。終戦後、物資の多くが配給だった時代にタバコは成人全員に平等に配られた。ほかに楽しみのない時代、吸わなかった人も吸うようになり、吸う人は吸わない人からもらってたくさん吸うというようなことが起きた。事実、あの時代にタバコを吸い始めた人は非常に多い。国が肺ガン患者や結核患者を製造していたようなものだ。早期発見や予防の大切さを説く人は多いが、いちばん効果的なのは、父が兄の大腸がんを見て必死になったように、「ある病気で人がどういう経過をたどって死に至るか」を見せることだ。できれば中学生くらいまでに。自発呼吸が停止した場合の延命措置を断ってきた。「新人類女医」は嬉しそうだった。
October 10, 2004
コメント(0)
自分の足で歩いてそれなりに元気に、散々悪態をつきながら入院した父は、4週間後には寝たきりになり、8週間後は口もきけない状態になってしまった。この経過を見て思うのは、「日本の病院はボケ老人の量産工場であり、医療とは最も効率的にボケ老人を生産するシステムを指す」ということだ。たまたま、入院したのが運悪く国立病院(独立行政法人)だったせいもあるかもしれない。国立病院の医者の多くは、医療がサービス業であるというあたりまえのことを知らない。すべてが機械的・事務的で、インフォームド・コンセントもアリバイ的。何かの病気で入院・手術をした高齢者が、その病気ではなく「治療に起因する他の病気」で死んだり寝たきりになったりする例のなんと多いことか。3人いる担当の医者の中で、メーンである女医を、父は蛇蠍のように嫌っていた。その理由がわかった。患者の病気を理屈だけで割り切ろうとする傾向が強い。すべての医師には精神科医師の資質が必要だと思うが、その資質を著しく欠く。この女医と話していると、<新人類>という言葉を思い出す。人間にとって何が大切かという価値観に、まったく共通のものを見い出せない。つらつら思い出してみると、患者もしくは知人・友人として、これまで数十人の女医と女医の卵に接してきたが極端に人間性を欠く人ばかりだった。誤解をおそれずに言えば、女医には充分な警戒心をもたなければならないし、避けるのが無難だということだ。国立病院の新人類女医にあたってしまった父は、それも寿命のうちということだろう。「帰る」というと淋しがって口のきけないまま泣く父のところから帰宅するクルマの中で、しきりに考えるのはこのことだ。
October 7, 2004
コメント(0)
全9件 (9件中 1-9件目)
1