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comming soon
January 20, 2015
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副島輝人(1931~2014)ジャズに興味のある人でこの人の名を知らない人がいたら、その人の感性のアンテナには苔が生えている。会ったのはもう30年もまえ、ジャズコンサートを主宰している知人の家で。こちらは集団即興演奏としてのジャズにしか興味がなかったしミュージシャンそのものにはあまり関心がなかったので、「ジャズ評論家」なる存在にも興味を持てなかった。しかしそのときの印象は鮮烈で、「すばやく決断すること、自分の判断の正しさを信じることもしくはそれに賭けること」の大切さを学んだ。というのは、知人がライブ録音したテープをかけると、ものの数十秒で「この演奏は乗っている」とか「これは○○にしては乗っていない、なぜだろう」と判断をくだしていく。別に何かの審査を頼まれているわけではない。ほんの座興の一コマなのだ。先達もいず、予備知識もない世界で、手探りですべてをつかんでいかなくてはならなかった「昭和ヒトケタ世代」の真骨頂を見た気がしたものだ。ジャズだけでなく、映画や温泉にも造詣の深い人だった。私生活がどんなふうだったかは知らない。世を去った今になって、どんな晩年だったか知りたくなる。好きなこと、興味のあることだけに打ち込むことができた幸福な人生だったと想像するが、いくらかでも副島さんのような人生が送れたらと思う。プロデューサー、コーディネーター、資料蒐集家としても卓抜だった。秋山邦晴を連想するが、副島さんの仕事を引き継いだり発展させたりできる人も決して現れないにちがいない。時代と風と音楽がたまたま紡ぎだした、そんな人だった。斎藤晴彦(1940~2014)黒テントの看板俳優として何度か舞台に接した。日本語で歌うシューベルト「冬の旅」公演をきいたのが最後。アンコールに歌った高橋悠治「民衆に訴える」も感動的だった。彼が有名になったのはバブル期だっただろうか。CMやバラエティ番組でも見るようになって驚いたが、何となくほほえましかった。彼のばあい、小劇場運動を捨てて転向しメジャーな世界に「移行」するような人とは思えなかったからだ。その予感通りの生涯だった。私生活はまったく知らないが、きれいに生きて、きれいに死んだ。副島さんと同じで、そんなイメージがある。そのイメージは間違っていないはずだ。ジョン・マックルーア(1930~2014)LPでクラシック音楽を聴き始めたころ、「演奏と音質がいい」と感じるLPに彼の名前を見ることが多かった。デッカのジョン・カルショー、EMIのウォルター・レッグも当時からすでに有名だったが、何と言ってもCBSコロンビアのジョン・マックルーアの名は特別にインプットされた。音楽は、作曲家と演奏家だけでは成り立たない。両者を媒介しすべてをセッティングするプロデューサーがいなくてはならないし、とくに録音のばあいはその役割が大きい。もしカルショーがいなかったらカーゾンやブリテンを、レッグがいなかったらマリア・カラスや初期カラヤンを人類は得ることができなかった。同様に、マックルーアがいなかったら、ワルター晩年の録音の数々やバーンスタインの名盤のいくつかも日の目を見ることはなかった。それなのに、彼らに対する評価や関心は低く(というかないに等しい)、その志を継ごうという人もいない。音楽ファンやジャーナリズムは最悪であり醜悪だ。どれほど彼らの恩恵にあずかっているかはかりしれないのに、無知もはなはだしいからだ。バーンスタインのオペラ版「ウェストサイドストーリー」の録音風景のビデオの中に、マックルーアは少しだけ出てくる。それを見たときの驚きも忘れられない。イメージとちがって、軽薄さを感じるほど軽妙な人物だった。ホセ・カレーラスに英語の発音を注意してバーンスタインに怒鳴られる、そんなシーンがあった。ジョン・カルショーには著書がある。ウォルター・レッグには妻の歌手、シュワルツコプフとの回想記がある。ジョン・マックルーアには今のところなにもない。
January 1, 2015
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