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目の検査のために一泊二日の入院をした。大学病院である。日内の眼圧変動を調べるためのもので、検査そのものは1分もかからない。それを3時間おきに4回やるというもの。一年半まえにも、個人病院で同じような検査をした。そのときは入院などせず、数時間おきに病院に行った。それで十分なはずなので、入院の必要があるとはまったく思えない。しかも検査は風圧を使う、素人でもできるもので、個人病院でいつもやっている検査のほうが精密で正確だ。なんだかなあ、と思ってしまう。それはともかく、病気でもないのに入院するのは興味深い体験だった。入院したのは高3のとき頭を打って以来だから32年ぶりだ。一食260円の病院食。材料の原価は120円と見た(笑)が、吉野家の朝定食よりは原価率が高いのではないか。民間の病院とは明らかに異なる医師たちの態度。患者よりも教授を見て仕事をしているような気がするが、気のせいだと思いたい。システム化され手際のいい看護師たちの作業。年配の看護師が多いのは年功序列の公立だからか。たくさんの入院患者を見ていると、健康のありがたみをじわりと感じてしまう。同室の患者は、症状があるのに5年間も放置して右目を失明したことを昼食を一緒に食べにきた妻に罵倒されていたが、日ごろからの健康管理が大事だということを思い知らされる。ノートパソコンを持ち込んだ。ブログを書いたり、音楽を聴いたりするためである。ウォークマンのようなもので外で音楽を聴く趣味はないが、ノートパソコンを携帯型音楽プレイヤーの代わりにするアイデアは正解だった。ふだん聴き慣れたクラシックの曲が、何と美しい音楽だったのかと驚く。ラヴェルの舞踊音楽「ダフニスとクロエ」の夜明け部分の美しさは十分知っているつもりだったが、初めて聴いたときのように新鮮に響いたのは、ほかにすることがなく、音楽をかけがえのないものと感じながら聴いたせいだろう。「ショーシャンクの空に」というアメリカ映画で、作業中の囚人たちの上をモーツァルトのオペラの一節が流れるシーンがあるが、そんなふうに響いた。病院で死んだ母のことも思い出す。在宅医療が受けられて、家で死ぬことができたらどんなによかったかと思う。思い出の品々や家具に囲まれ、家族やペットもいる。長年親しんだ環境はいいものだし、家族が最期を看取ることができる可能性も高くなる。最期に間に合わなかったことが、母の死をいまいとつ納得できない理由になっている。むかしは、人は病院ではなく家で死ぬことが多かった。しかしそれにしてもいびきには参った。山小屋などでも経験することだが、中年以上の男というのは、なぜあれほど大きないびきをかきながら平気で寝られるのか。そもそも、なぜあんなにいびきをかき寝言を言うのか。病気ではないのか(笑)おかげでほとんど眠ることができなかったが、こんなことが3日も続けばほんとうに病気になってしまいそうだ。最後の検査から退院の手続きまで3時間近くも待たされた。まるで旧ソ連のような非効率さだ。血圧や体温のようなものの測定など、重篤な患者でなければ自分でやって記録するようにすればいいし、食事だって配膳する必要などない。こういう非効率がGDP成長を損なっているのだ。あんな程度の検査で1万6千円もかかるのは、そもそも診療報酬が高すぎるからだろう。診療報酬を3割減らすことだ。そうすれば自己負担分を5割にしても患者の負担は変わらないし、5割負担ともなれば健康に注意する人は増えるだろう。大学病院の実態を見てしまったからには、健康オタク道をさらにきわめることにしよう(笑)
January 30, 2007
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折々のバカというより折々のナゾ、というべきかもしれない。BSiでやっている吉田類の「酒場放浪記」を見ていて気づいたことがある。この番組は、イラストレーターの吉田類が、主に東京とその近郊にある庶民的な、しかも個性的な酒場を探訪するというものだ。吉田類は、まずビールをもらうことが多い。そうすると、たいていの店が瓶ビールを出す。割合で言うと、ビール・サーバーのある店は10軒のうち2軒くらいだろうか。その2軒も、見ていると過半の客は瓶ビールを飲んでいる。ホッピーを主にしているところも多い。ちなみにホッピーはノンアルコールビールのような麦芽の味のする炭酸飲料で、焼酎をこれで割るとまあビールに似ていなくはない味になる。ナゾなのは、なぜこれらの店やこれらの店の客は、生ビールではなく瓶ビールで満足しているのかということだ。生ビールと瓶ビールは、ビールと発泡酒くらいの違いがある。すなわち、前者は後者と比較にならないほどおいしい。値段がものすごく違うというならわかる。しかし下町の庶民酒場といえど、瓶ビールでけっこういい値段をとっている。単位あたりの価格はほとんど変わらないと見た。値段が同じなら、おいしいものを選ぶのが経済合理的であり、人間は本来そういう行動をとる生き物のはずだ。それでは、東京の庶民酒場の経営者も客も、経済合理的な行動をとることのできないバカなのだろうか。そんなことはないと思う。大胆な仮説を立てるなら、要するに東京(を含む本州以南の地域)では、ビールに対する関心が低く、ビール文化のようなものが確立していないのではないかということだ。ビールそのものが軽視されるているだけでなく、できるだけおいしくビールを飲むという文化そのものが一般化していないという気がする。本州のいなかでは、ビールを頼むとまったく冷やしていない瓶ビールを出されることさえある。ラガータイプのビールは冷やして飲むものだという常識がまだ普及していないのは東南アジア地域と同じだ。ひるがえって北海道では、そういう経験をしたことがない。よほどの僻地でない限りビールサーバーがあっておいしい生ビールが飲めるし、たとえ缶や瓶しかなくてもきちんと冷えたビールが出る。居酒屋でビールサーバーをおいてないところなど、ちょっと記憶にないどころか、近所のラーメン屋やそば屋、大衆食堂のようなところさえ、はやっているところはほとんどがビールサーバーをおいている。今まで飲んだもっともおいしいビール十傑に入るのは、ミュンヘンやアンダルシアと並んで、近所のトンカツ屋のキリン一番搾りだったりする。人口密度の高い本州、とりわけ首都圏は流通が発達していてボンベの配送は簡単なはずだから、配送コストの問題ではないだろう。収納コストはどうか。「酒場放浪記」で見る限り、瓶ビールの方が場所をとるように思える。東京にはビールを飲みながら天ぷらを食べ、そのあと日本酒、最後に蕎麦を食べるという粋な文化がある。こういう文化には、大きなジョッキよりも、小さなグラスに自分で瓶から注いで少しずつ飲む、というスタイルがふさわしいということはいえる。しかし、見た目は粋かもしれないが、しみったれた印象も持ってしまうのはわたしだけだろうか。暑い地方、たとえばスペインのアンダルシア地方などでは、よく冷えたビールを小さなグラスで飲むが、そうすればいいだけのことだ。ビールはかつては高かった。アルバイトの時給より大瓶一本の値段の方が高い時代は長かった。しかし今では、アルバイトの時給の半分から3分の1になった。卵ほどではないが、物価の優等生がビールであり、それは価格の半分近くを税金が占めるのも理由のひとつだ。ビールを高いとは感じなくなるくらいに豊かになったにもかかわらず、ビールは高い飲み物だというイメージが抜けきらないので、さらに割高なイメージのある生ビールを避け瓶ビールを飲む人は多いかもしれない。しかしこれは発想というか考え方がさかさまだ。われわれは、おいしいビールを心おきなく飲めるようになるために、一生懸命働いてきたわけだし豊かな社会を築いてきたのである。おいしいビールを我慢し、まずい発泡酒や相対的に劣る瓶ビールで節約を考えるのは、学生ならともかく、人生に対する態度が根本から間違っている。守銭奴のそしりをまぬかれないケースも多いだろう。近所にある、日本最北と思われる沖縄料理店では、オリオンビールの生を飲むことができる。一方、「酒場放浪記」に出てきた東京の沖縄料理店では缶をそのまま出していたのでのけぞった。この事態から推測されるのは、やはり本州以南の日本におけるビール文化の不在、人類が生んだもっとも偉大な飲み物のひとつであるところのビールに対する無理解と軽視にちがいない。瓶ビールを出して平気な店主とそういう状況に不満を持たない客によって、居酒屋商売が成り立っている、その全体が、ひどく滑稽でバカバカしいことのように思える。食べ物にはいろいろとこだわっているくせにビールを軽視する店主と客たちをバカ呼ばわりするのは、フィールドワークが足りないので控えることにしよう。ただ首都圏の居酒屋でビールサーバをおいているところが少ないというナゾの背後には、いくつものバカが潜んでいるのは確実と思われる。
January 28, 2007
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オーケストラアンサンブル金沢の音楽監督に就任した井上道義が久しぶりに客演。この人は、デビュー直後から節目節目に何度か実演を聴いている。一度も裏切られたことはないし、その明快で個性的な指揮ぶりはいつ見ても楽しい。巨匠性とかカリスマ性はないが、欧米のメジャーオーケストラの常任指揮者級の実力の持ち主だと思う。オール・モーツァルト・プログラムで、前半は25番と35番の交響曲を2曲。小編成に絞り込んだ対抗配置で、オリジナル楽器オーケストラの演奏解釈をかなり取り入れた、ダイナミックの幅の大きい、アクセントの強い、そして速めのテンポの演奏。これはこれでいいのだが、あたかもこれ以外の演奏スタイルは間違っているとでも言いたげな昨今のこのスタイルの流行には食傷気味。往年の大指揮者たちのロマンティックな演奏が懐かしくなる。札響では二代目常任指揮者ペーター・シュバルツの素朴でぬくもりのあるモーツァルトも魅力的だった。後半はパントマイムのための音楽「パンタロンとコロンビーネ」 K.446。オーケストラの定期演奏会としては珍しく、オーケストラは見えない位置においてバレエ仕立てにして上演。井上道義はたしかバレエの素養があり、ここでも指揮者兼ダンサーとして登場。音楽だけ聴くと印象に残らない曲だが、バレエ(パントマイム)と一緒に聴くと、モーツァルトの心理描写の巧みさには感嘆させられる。ワーグナーを経てベルクの「ヴォツェック」に至るオペラの心理描写のルーツはやはりモーツァルトなのだろう。その発見は心地よい驚き。だが動作の滑稽さで笑う観客が多いのには違和感を持った。箸が転げてもおかしい年頃の女の子ならともかく、大げさな身振りやわざとらしい演技に屈託なく笑えるほど幼稚ではないぞと思ってしまった。芝居は嫌いではないが、芝居がかったものは好きではない。だからしらけてしまうのである。井上道義や、井上の同級生で札響の常任指揮者の尾高忠明など、ちょうど団塊の世代の指揮者は、巨匠性を獲得するその一歩手前にいるような気がする。サヴァリッシュやデュトアのように巨匠性を獲得しないで終わるのか、それとも小澤征爾のように巨匠の道を歩むことができるのか。彼らはじつはいま音楽家人生の正念場にいるのだと思う。井上道義の余技は楽しんだが、余興のようなことに時間を費やすには、そろそろ残り時間が少なくなっている自覚はあるだろうか。
January 27, 2007
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小樽(祝津)のホテル、ノイシュロスに一泊してきた。四人で行ったので、このホテルで一部屋だけある最上階のロイヤルスイートに。最上階は改修前は回転ラウンジだったところで、そのせいか全面が窓になっている。広さは80平方メートル以上、半露天の大きめのお風呂も部屋にある。窓からは海と海になだれこむ断崖絶壁が眺められる。その絶景が居ながらにして眺められ、ヨーロッパ調の家具が揃い、ちょっとしたセレブ気分を味わえる。フランス料理のフルコースと朝食がついてひとり二万円ちょっと。1平方メートルあたりで考えるならかなりリーズナブルだということは、4000円以上するところもあるカプセルホテルと比較すればわかる。もし東京近郊なら、室料だけで数十万はしそうな部屋だ。ここは一昨年の秋、母と来た。台風が去った直後で、波と海が美しかった。1年に一度くらいは来てみたいと思ったものだった。そんなホテルを1ダースくらい見つけておいて、たまにそういうところで気分転換をしたり、日常から完全に離れた時間を持つのは、特に家事に追われがちな女性にとって精神衛生に非常にいい気がする。母をあちこち連れ出したりしたあとは、母は決まって若返ったようになり生気を取り戻したものだ。スイートの特権で、食事はレストランでも部屋でもとることができる。朝食は部屋でとった。何から何まで給仕される生活は、快適だが何だかスポイルされてしまいそうだ。着替えてレストランに出かけるくらいのことはしないと、すべてに無気力になってしまうような気がする。思ったのは、日常は非日常を味わうための我慢の日々なのではなく、非日常が日常の時間の糧となるべきだということだ。どちらの時間も、かけがえのない自分の人生の一部なのだ。
January 21, 2007
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東京へ行ってきた。3泊4日の小旅行。マイレージがたまり期限が近づいたので、迷ったあげく東京にした。新宿から光ヶ丘まで歩いたり、いわさきちひろ美術館に行ったり。雪のない道は歩きやすい。つい無理をして腰を痛めてしまった。雪はないが、歩く道はかなり選ぶ必要がある。というのも、道が狭いので車道と歩道の分離のない道ではいつもクルマに注意しなくてはならない。片側2車線以上の広い道は交通量が多く、歩いていても楽しくない。結局、ガードレールがある片側一車線の道を歩くのがベストという結論に達した。練馬駅の近くの176というそば居酒屋に行った。古民家風の作りで中はけっこう広い。店名の176は練馬の郵便番号でちなみに住所も電話番号も176だそう。どのメニューも独特な工夫を凝らしてあって、いつか全種類味わってみたいという気になる。客層もよく、タバコを吸う客、声高にしゃべる客は皆無。札幌にもおいしいものを食べさせる店はたくさんあるが、こんなに雰囲気の店はないと思う。練馬を下町と言っては失礼かもしれないが、東京の下町の「底力」はたいしたものだ。向かい側の席に座った聾唖の夫婦の食べっぷり、お互いを気遣いながらのマナー「いいものを見た」という気にさせられた。1月の東京は受験以来だから30年ぶり。椿の花が咲いていたが、30年前は花になど目が止まらなかった。今度は新宿から渋谷にかけてのあたりを歩いてみたい。
January 15, 2007
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今年はついに個人からの年賀状ゼロを勝ちとった。10年かそれ以上かかった。やり遂げようと思ったことが成し遂げられたのには感慨無量なものがある。よもや年明けに投函された分が届くこともあるまい。しかし父や母への賀状はまだ何通か届く。死んだことは通知してあるのだから、きっと読めないかボケが始まっているのだろう。去年来た分に対しては喪中ハガキを出しておいたので、今年はこれが効いた。喪中をきっかけに賀状のやりとりが終わることは多い。来年もまた賀状ゼロを連続して勝ちとっていきたいものだ。そのためには、賀状をやりとりするような「水くさい」人間関係を全部断ち切ることだ。どうも日本人には八方美人というか誰にでも好かれようとする傾向がある。タレントじゃあるまいし、人気商売ではないのだから、バカからは嫌われ、悪人からは憎まれ、権力者からは恐れられるようになるべきだ。年賀状を作ったりするための時間コストを年12時間とすれば、10年で120時間、50年では600時間にもなる。たいてい二日くらいはかかるものだから、10年で20日、50年では100日だ。そんな時間があるなら、旅に出たり、ブログでも書いている方がマシだ。三欠くにカネ貯まるという。義理、人情、礼儀の三つを欠くとおカネが貯まるということだが、人情はともかく、形式的な義理や礼儀はできるだけ「欠く」方がよい。よほど親しかった人ならともかく、結婚式や葬式のような虚礼に対しては礼を欠くのが人間的な態度だ。たとえば家族が死んだとき、いちばん慰めになるのは、のこされた家族を訪れて故人の思い出などを語ることである。いまの都会の葬式ではそんなことはあり得ない。家族が知らなかったようなことを知ると癒されるものなのに、アリバイ的に通夜や葬儀に出たあとは知らんぷりがほとんどだ。千葉敦子が闘病の末ニューヨークで死んだときの追悼パーティの様子を妹が書いている。「アツコはよく闘ったし、闘病生活をサポートしたわたしたちもベストを尽くした」と、お互いの健闘を讃え合うような温かい雰囲気だったという。中途半端な人情ならない方がよい。情けは人のためではなく、自分のためだが、人のためにならない情けは有害なだけだ。ギャンブルでおカネを使い果たした友人がいた。元カノに助けを求めた。元カノはわたしに相談してきた。「一円たりとも貸すな。家に一歩も入れるな。電話にも出るな」とアドバイスしたので彼女は難を逃れたが、わたしは友人を失った。ギャンブル狂の友人などいない方がいい。さわやかな気分になったものだ。
January 4, 2007
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