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大学に入学してすぐやることは、単位をとりたいと思う科目の最初の講義に出て登録することである。単位などさっさと取ってしまって学生生活の後半は楽をしよう。多くの学生と同じく、わたしもそう思ったのであらゆる講義に出席して登録しまくった。当時は出欠もうるさくなかったので、登録だけしておいて代返を頼み、レポートや試験だけクリアすればいいという風にも考えた。そうして登録した科目に「心理学」というのがあった。出席してみて驚いた。男の方が多い大学なのに、圧倒的な数の女子学生で教室が埋めつくされていたからだ。その理由は、今となってはわかる気がする。女性は、とにかく他人の気持ちが気になる生き物だからだ。他人の心の痛みがわかる、女性の持つ優しさという特質が、彼女たちをして「心理学」を選択せしめていたのだろう。しかし、最初の講義を聞いてわたしは思った。これは学問と呼べるようなしろものだろうか。その講義では、当時まだ存命だった、ピアジェというスイスの心理学者を扱うようだったが、ピアジェの本を読んでも、普通に生活していれば誰にでもわかることしか書いていない、としか思えなかった。そのころ流行っていたのはユングだった。ユングはフロイトの門下生である。フロイトには学問の香りがある。しかし、精神的病理の原因はすべて両親との関係性にある、とするフロイトの最も有名な「エディプス・コンプレックス」のテーゼにしても、その根拠はあまりに脆弱だと思った。この世の悪はすべて資本主義に原因があるとする共産主義、信じれば救われるという新興宗教と同じで、どうひいき目に見ても科学ではない。こうして、登録はしたが心理学の単位はとらずに終わった。それでも宮城音弥、岸田秀といった心理「学」者の本も読んでみた。そのころ知り合った演劇青年が、しきりに岸田秀を持ち上げたりしていたからだ。それはそれで面白い部分もあったが、やはり学問ではない、科学ではないと思った。文学サークルなどの知的サロンで話題にする分にはかまわないが、まともに勉強するに値する「学問」とはいえないし、そもそも学問ではないのだ。学問でないとすれば何か。オカルトである。神学と同じで、荒唐無稽な前提を受け入れることによってのみ成り立つ錯覚の体系、といえばいいだろうが、実際、それほどの体裁すらないのが心理「学」というしろものだ。大学で「心理学」の単位を取った女性は多いことだろう。それらの女性すべてを敵にまわすことになることになるかもしれないが、それでもかまわない。心理学がオカルトでしかないことに気がつかず、その後も気がつかずに俗流心理学の本などを買っているあなたは、バカ以外のなにものでもない。
November 19, 2008
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前半は間違えて、ステージ右側上方の最も客席寄りの席に座った。ボーン=ウィリアムズの「タリスの主題による幻想曲」を聴くには、この席は最適だったようだ。暖色系ではなく寒色系の、札響の弦のサウンドが目に見えるような明晰さで聞こえるだけでなく、響きの広がりまで目に見えるようだった。この曲は、尾高忠明と札響のコンビの「テーマ曲」と言えるくらい繰り返し演奏されてきたが、それだけに、札響の弦楽セクションの状態を判断するひとつのスタンダードとなる。驚いた。まるで別のオーケストラかと思うくらい、内声部、とりわけヴィオラセクションが豊かに鳴っている。この数年、「2007年問題」ではないが、定年を迎えたメンバーが多く、札響は一気に楽団員の新陳代謝が進んだ。それがはっきり表れているのが、チェロやヴィオラなどのセクション。なにしろ、チェロなど副主席奏者だった人がいまや末席にいるほどなのだ。残念なのは、これほど充実したサウンドなのに、色彩の変化に乏しいこと。たとえて言うと水墨画の味わい。油絵のくどさは要らないにしても、せめて水彩画程度の色彩感がほしいし、艶も足りない。シベリウスやドヴォルザークにはこれでいいかもしれないが、ブラームスやロッシーニやラテン系の作曲家の音楽だと、低体温に感じられてしまうにちがいない。長所は同時に短所でもあるわけだが、ことイギリスの音楽に関してはこうした特徴はすべてプラスに働く。ディーリアスの「楽園への道」は、まさしく水彩画の世界だが、管楽器が加わる普通の編成。寒色系の弦の響きの上に暖かい管の音色が優雅に舞っていき、心地よい眠気に誘われる。比較的空席があったので、後半は二階最前列中央に移動した。曲はエルガー(ペイン補筆完成版)の交響曲第3番。この曲は作曲者自身が廃棄を望んだと言うし、遺族もまた補筆完成を拒んでいたという。たしかに、第1番のような傑作に比べると弱点も目につく曲ではある。第一楽章は独創的だがいささか単調だし、第三楽章は感動的ではあるもののクライマックスの形成に失敗している。第二楽章はエルガー節全開だが語りかけるものは弱い。中でフィナーレは最も成功しているが、「落日の輝き」が魅力と言えるエルガーの音楽としては、表現の重心がどこにあるかが曖昧に感じられる。魅力的な音楽なのだが、作曲者の本心がどこにあるかがきこえてこないのだ。しかし日本初演(CD録音もしている)のコンビによる演奏は見事なものだった。曲のすみずみまで血の通った表現で、まるでこの曲を何百回も演奏してきたかのようだった。ミスなど技術的なことはともかく、この演奏を超えることは、イギリスの指揮者とオーケストラによっても不可能だろう。マーラーの交響曲第5番、ラフマニノフの交響曲第2番など、尾高忠明が世界ナンバーワンである曲は(多くはないが)少なくない。エルガーの交響曲第3番、及びこの日演奏された曲は彼が世界ナンバーワンの指揮者であることを証明していたと思う。同じプログラムによる東京公演が11月18日にある。
November 14, 2008
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