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秋田県、なかでも角館は美人の産地として知られている。惇子はその角館の出身。うりざね顔の、スレンダーな典型的秋田美人だった。ぼくより色白な女性と出会ったことはほとんどないが、彼女は間違いなくぼくより色が白かった。ヨーロッパ人の少し赤みを帯びた白さとはちがう、雪やお餅を思わせるような純白の白さだった。1978年冬のある夜、銭湯帰りの彼女と遭遇したことがある。透き通るように白い肌がほのかに赤く染まり、はんてんを着た20歳の彼女ほど愛らしく美しいものは見たことがない。彼女が歩いているそこだけスポットライトがあたって輝いているような錯覚さえ起きた。知り合ったのはミニコミ喫茶の無給ボランティアグループの同僚として。彼女は北大文学部の学生で、山岸会の恋人と別れたばかりだった。山岸会とは「お金のいらない楽しい社会」をキャッチフレーズにしている農本主義コンミューンもどきのカルト集団であり、彼女もあやうくその会に入るところだった。それを阻止したのがウーマン・リブのネットワークで、その縁でミニコミ喫茶に関わるようになったのだった。彼女の専攻は日本史。なぜか日本史とか政治学を専攻する学生には左翼がかったのが多かったが、彼女も思想的にはかなり左翼で、それで山岸会などにかぶれそうになったのだろう。日本的な奥ゆかしいところのある、秋田人形のような愛らしい美人なのに、男に媚びず凛としている。そんな彼女を眺めていて、「仲間うちの女は恋人にしない」という当時たてていた原則を何度破ろうと思ったかわからない。しかしぼくの願いもむなしく、彼女はぼくが紹介した友人と恋仲になってしまった。東大医学部から北大医学部に再入学した男で、彼女の郷里にほど近い県の出身だったこともあり、帰省先でデートした二人はあっという間に急接近してしまった。トンビにあぶらげをさらわれるとはこのことだと思った。彼女は卒業後しばらくして首都圏の中学教師になった。友人とは遠距離恋愛になった。1980年に音楽会を開いた。バイオリンを弾くその友人にも出演してもらったが、その音楽会での共演をきっかけに、友人は医学部の教授の娘と恋仲になり、惇子とは別れた。この二人はその後結婚したが、考えてみれば、たまたま紹介した二人の女とだけ、その友人は深く関わったことになる。待った甲斐があったと、東京や三里塚での集会の帰りなどに、彼女のところを訪れた。昔の仲間という気安さがあり、彼女の部屋を訪れることに、お互い何の抵抗もなかった。しかし、何年も仲間として接するうちに、彼女に「女」を感じなくなってしまっている自分に気づいた。彼女も、何日も一緒に過ごしているというのに、ぼくに「男」をまったく感じていないようだった。「わたしは(ぼくとセックスするのが)イヤだからね。やりたくなったら女を買いに行ってね」と、まるで女性解放論者とは思えないことをしゃあしゃあと言うのだった。まあいい。待とう。彼女がその気になる日はそう遠くない。仕事に慣れて余裕ができたとき、近くにいれば友だちから恋人へとブレークスルーするチャンスはあるにちがいない。そう考えていたら、1988年のある日、彼女からハガキが来た。夏休みに北海道旅行をするので一週間ほど同行してほしいという。買ったばかりのクルマで北海道を一周したいとのことだったが、鴨がネギを背負ってやってきたと小躍りした。長年の念願かなって彼女とベッドインできるとほくそ笑んだ。そうした下心を隠しながら、30歳そこそこの男女二人の珍道中が始まった。ぼくの計画では、一週間のうちの最後の方で摩周湖を訪れる。霧の摩周湖でロマンティックな気分になり、森のなかのペンションに泊まる。もうすぐ旅も終わるので別れを惜しむ気持ちも少しはできているにちがいない。その時に一気に勝負をかける、という計画である。しかし、市場でカニを買って食べたり、キャンプ場にテントを張って泊まったりというワイルドな旅をしているうちに、すっかりそういう気分ではなくなってしまった。それでも、失礼かと思ってそのペンションではかたちだけ誘ってみた。「やりたければ女を買いに行って」と、前のようにあっさりとかわされてしまったが、断ってくれてほっとしたのが正直な気持ちだった。彼女は、学生時代は妻子ある労働組合活動家と恋愛をしていた。首都圏で就職してからは、同僚の、被爆歴のある元新左翼活動家でかなり年上の既婚男性と深い仲になっていたのをあとで知った。独身の若い男とは、友人を含めて何人かと付き合ったがうまく行かなかった。なぜだろうと思っていたら、ふとしたきっかけでその理由がわかった。彼女はファザコンだったのだ。かなり年上で、アウトローだったり暗い影がある男にしか惹かれないようだった。ぼくのように育ちがよく楽天的な男は、お呼びではなかったのだ。彼女が友人にあてた手紙には、ぼくのことが書かれていて、「脳天気」「悩みがない」「何も考えないで生きている」とあったが、褒めてくれたと思うことにした。彼女は母子家庭で育った。しかも、母親との関係は良好ではなかった。母親を思う反面、「わたしがこうなったのはあの女のせいだ」となぜか憎んでいた。双子の弟がいたが、彼女の母は娘より息子をかわいがったせいもあるかもしれない。珍旅行の5~6年後、惇子からハガキが来た。くだんの元活動家と結婚したという知らせだった。教訓。鉄は熱いうちに打たなければならない。いいと思った女は友人に紹介したりせず、親しくなりすぎてミステリアスな部分がなくならうちに押し倒すべきだ。それでもしフィーリングが合わなければ、そのあと友人に移行すればいいだけのこと。友だちから恋人への移行など、子どもの世界のお話でしかない。三度目のデートでOKしなかった女とは縁がないと思うべき。こういう教訓を得たのが惇子との付き合いだったが、この教訓をその後生かして大きな成果を得たのはあらためて言うまでもない(笑)しかしそれにしてもこういう教訓を教えるのがおとなのつとめというものではないだろうか。誰も教えてくれなかったばっかりに、ぼくは、ぼくより色白の女の肌をむさぼる千載一遇のチャンスを永遠に逃がしてしまった。
March 22, 2008
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もう二度と聴かなくていい、と思っていた小林研一郎の指揮する演奏会に、なぜかまた行ってしまった。曲はスメタナの連作交響詩「わが祖国」。昨年11月にチェコ・フィルの実にヒューマンな演奏で聴いたばかりの曲。「一発屋」と蔑まれることもあるコバケンは、しかし決して悪い指揮者ではないと思う。音楽するのがイヤでたまらないオーケストラという集団から、アマチュアのような熱気と集中を引き出す力はさすが。日本のオーケストラのような、比較的響きの薄い弦楽セクションから、音が波になって見えるような、うねるような響きを引き出すことのできる指揮者は決して多くない。そういう彼ならではの「熱い」瞬間は数多くあり、その手の演歌的情緒や岡本太郎的「爆発」を好む幼稚な聴衆の多くは終演後ブラボーを連呼していた。しかし、何度かコバケンを聴いていると、あそこはこうやれば効果的だからこうやるだろうな、という予測ができてしまう。それなりの成熟は感じられるし、表現というか音楽的語彙も少なくないので悪くないのだが、歌うべきところはとことん深く歌い、ピアニッシモとフォルティッシモは極端にやり、という手練手管が見え見え。次はこうやるだろうな、と思っているとそうなるので意外性もなく発見もない。コバケンは悪くない指揮者なので、一度は聴いておく価値がある。ただしシベリウスの交響曲第2番とかチャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」のような曲に限る。札響のよさは、東欧や北欧のオーケストラにも似て、決して派手なうまさはないが、音楽に対して純粋な気持ちを持っていることであり、ちょうどニューヨーク・フィルや東京のいくつかのオーケストラとは正反対の特質を持っていることだった。バブル期以降、そういう札響の美点はかなり損なわれたと感じてきたが、バブル崩壊後に人格形成をしてきた若手が多く入団するようになり、そういう美点が戻ってきたのをこの日の演奏でも感じた。4月定期ではチェコの知られざる巨匠、ラドミル・エリシュカが登場する。今年77歳のこの指揮者は現存する最高の指揮者だと思われるので、万難を排して二日間とも行くつもりだ。
March 21, 2008
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舞台は日本占領下の上海と香港。抗日運動のグループの美女が対日協力者の暗殺のためスパイとして要人に近づく。しかし二人は愛し合うようになる。暗殺の時は刻一刻と迫っていく。その時女がとった行動は?映画「ラスト、コーション」を観て誰もが連想するのはベルトルッチの「ラストタンゴ・イン・パリ」だろう。背景は異なるが、異様な状況と緊張の中で男女が出会い、男が女をレイプし、セックスだけの関係でありながら、最初は男を憎んでいた女が男を受け入れ愛するようになっていくという過程は同じだし、何よりハイテンションで延々と続くベッド・シーンが似ている。よくできたサスペンス映画だ。謎に満ちた冒頭のシーンの意味が最後になってわかる構成などは見事だ。女が暗殺対象に気に入られようとして積極的なのか、それとも敵でありながら愛するようになったゆえのことなのか、激しく長いベッド・シーンの意味が判然としないあたりもいい。ベッドシーンが心理的なサスペンスになっているのが、この映画が「おもしろく感じられる」最大の理由だろう。原作は中国の女性小説家の自伝的短編らしいが、対立する思想を持つ人間同士の愛というのは古今東西の文学の一大テーマであり、この映画もその系譜に属する。この映画の監督は、危険な恋、禁断の愛こそ燃え上がるというのを自身の創作の中心テーマに据えているのではないかと思うし、その点では成功していると思う。しかし、登場人物の個別のキャラクターの描き方は、紋切り型で浅い。演劇青年たちが抗日のテロリストグループに変貌していく内的な必然性の描き方が弱いのは、この監督の人間洞察力の弱さを物語っている。暗殺計画がばれそうになり、情報提供者を殺すことになるシーンがあるが、ああいう場合、曲がりなりにも要人暗殺を目指すようなテロリスト集団は、いっさいの人間的感情をぬきに敵対者をあっさり殺せるものである。政治がどこまで人間を狂わせるものかについての観察と洞察が足りないのは、こうした部分だけでなく、日本支配下の中国や日本人の描き方にも表れてしまっていると思う。また、対立する思想を持つ男女の愛は、対立する思想そのものの放棄や組織からの離脱を結果するケースがほとんどだが、この映画ではそうならない。そうならないのは男が冷酷だからだが、男のそうした冷酷さはほとんど描かれていない。もしその冷酷さが深く描かれていたなら、愛に生きた女と、愛を捨て利権をとった男との対比が鮮烈な印象となって残り、男というもののダメさを描いた傑作になることができたかもしれない。よくできたサスペンス映画ではあるものの、ほんのちょっと不条理な結末を迎えたエロティックなサスペンス映画の域を出ずに終わってしまったのは、しょせん、この監督が映画をエンタテイメントとしかとらえていないからではないだろうか。こういう映画を観ると「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」のような映画を思い出す。赤軍派のテロリストとゆきずりの恋に落ちた女が、スキャンダラスなスクープとして下劣な記事を書きまくる新聞記者を、テロリスト以上の冷酷さで無感情に殺すという映画だったが、あの映画では女の内面的な成長というか変化が、少ないセリフでありながら高い密度で描かれていた。ブルジョワ社会の秩序からはみ出してでも愛に生き、愛を冒涜するものを憎悪してやまない、女性の持つ気高い女性性のようなものを感じて感動したものだが、あの映画に比べると、この映画はクールなタッチの割にメロドラマしてしまっている。監督は、あるいは叙事詩的にこの時代を描きたかったのかもしれない。どの立場にも肩入れしないような描き方は、残酷な時代の中でも輝く瞬間があった人間の愛そのものを称揚したかったのかもしれないが、それにしては細部のリアリティを欠きスケールが小さい。
March 18, 2008
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生まれて初めてキスした相手とそのときのことはよくおぼえている。1976年7月だから19歳、彼女も19歳だった。大学のクラスメートで名前は以下諸事情により削除彼女が夏休みに帰省せず、レコード店でもうひとりの彼女と偶然に会うことがなく、女子高出身者が彼女にぼくの悪口を吹き込むことがなければ、あと何回かはキスができ、セックスもできたと思うのに残念だ。ぼくが残念なのではない。彼女にそういう幸福をプレゼントできなかったことが残念なのであり、人の恋路に口を出す連中は頭に豆腐の角をぶつけて殺す。
March 17, 2008
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バルセロナの作曲家、エンリケ・グラナドスの最期は悲劇的だった。ドイツ潜水艦の無差別攻撃を受けた船に乗り合わせた彼は、いったん救助されたものの、最愛の妻を助けようと海中に身を投じ、そのまま帰らぬ人となった。グラナドスはとてつもない優しさを持った人だったようだ。貧しい人に同情して自分が持っているお金を残らずあげてしまい、自分が生活に困窮したという話さえ伝わっている。これらのエピソードが物語る優しさ、悲劇へと向かう優しさは、グラナドスの音楽のいたるところからきこえてくる。組曲「ゴイェスカス」はスペインの画家ゴヤの絵に触発されて作ったピアノ曲。二部六曲からなる大作で、グラナドスの代表作の一つである。彼の作品には民族性を強く感じさせるものと、ロマンティックな叙情性を感じさせるものがある。しかし、この「ゴイェスカス」では、その両方の要素が融合し高度な次元に高められいる。ゴヤの絵のようなほの暗く甘美な音楽が、スペイン的な哀感を漂わせながら続いていく。特に美しいのは「嘆き、またはマハと夜うぐいす」。恋人を待つ女の心情を表した切々としたメロディが三度繰り返され、その心を慰めるかのようにウグイスの鳴き声を取り入れた音楽が呼応する。※グラナドスの孫弟子にあたるバルセロナの女性ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャの11990年代の録音は気品があり神々しささえ感じさせる(BMGビクター)。
March 16, 2008
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「光州、1980年5月」という高橋悠治のピアノ曲がある。1980年5月、全斗煥の軍事クーデターによる政権奪取と独裁政治に抗議し、光州市民は蜂起した。蜂起そのものは鎮圧され、多くの犠牲を出したが、1987年の韓国民主化の原動力となった。光州に続け、光州のように闘おうを合言葉に、韓国全土に広がるキリスト教会のネットワークや労働組合、学生自治会の活動が活発になっていった。この光州蜂起の首謀者として金大中が逮捕され、死刑が求刑された。全世界で抗議の声がわき起こり、救出運動が行われた。のちに全斗煥は逮捕され、金大中は大統領になる。1980年の夏から秋にかけては、全斗煥に抗議する連日の集会やデモで大忙しだった。知人の何人かは大通公園にテントを張り、ハンガーストライキを行った。そのテントの防衛のためにぼくも見張りに立った。一般市民は好意的でカンパもたくさん集まったが、そうした市民の姿が少なくなる時間になると、街宣車に乗った右翼などが妨害に現れたりするし、警察も道交法違反で介入しようとするからだ。はたして、街宣車に乗った右翼がやってきて、大声でわめき始めた。周辺には私服警察がいるので、へたに手を出すとぱくられるから挑発には載らない。車体番号をメモして右翼の写真をとっておく。顔をおぼえておいて、20年後にぶち殺すためだ。小林悠有さんと知り合ったのは、まさにそんな時。右翼の写真をとり、周囲を見回すと、ジーンズをはいた長身の女子大生が、右翼をにらみつけながら大通公園名物の焼きトウモロコシを食べていたのだった(笑)右翼はわめくだけわめくと去っていった。ぼくは彼女に声をかけた。「右翼は嫌いですか?」彼女は言下に「大嫌い」と言い、何がおかしいのか朗らかに笑った。何て素敵な人だろうと思い戦線離脱。あっさり自分の持ち場を放棄して彼女をお茶に誘った。話してみると彼女は早稲田の法学部生。北海道旅行に来ていてあす東京に帰る予定だという。市内を観光したいというので、ガイド役を買って出た。早稲田は憧れの大学で、受かったのだけど行かなかった。そんな大学の、しかも美人女子大生と知り合いになれて嬉しかったし話も弾んだ。ジーンズにTシャツというラフな服装だったけど、何となく垢抜けていて「やはり東京の女性はちがう」と思ったりした。市内観光は何事もなく終わり、帰京した彼女と「文通」が始まった。卒業を控えてせっせと旅行していたようで、ある時は新島からハガキをくれた。卒業した彼女は、電電公社のOLになり、大阪に住むことになった。OLをやりながら司法試験に挑戦するという。「電電虫になって大阪に来ました」という手紙はいまも手元にある。しかしその文通は、途絶えてしまった。こちらの転居先を教えないでいるうちに、彼女は会社の寮から出てしまい、音信不通になってしまったからだ。最後にもらった手紙には、父が函館に転勤になり、故郷は北海道になりましたとあった。日付は1981年7月7日になっている。彼女のことをなぜ今も未練たらしくおぼえているかというと、ある時、カセットテープを送ってくれたからだ。15分ほどのテープには、彼女の声で、近況が語られていた。その声と話し方に、すっかり魅了されてしまった。20代前半にしては落ち着いた声で、アナウンサーのようなきちんとした発声でありながら、声には艶があり、端正な語り口なのに色気もあった。悠有さんのような声と話し方をする女性は実は多くない。日本女性の多くは、舌足らずな、甘えたような話し方をする。地の声よりもやや高い音程で話す人が多い。悠有さんにいちばん似ている声と話し方だと思ったのは、1980年代にFM東京のアナウンサー兼プロデューサーだった田中美登里さん。彼女の番組を聴くたび、悠有さんの声を聴いているような気がしていつも思い出した。東京の私大生文化というものが、今はあるかどうか知らないが、かつてはあったと思う。そういう文化と、司法試験を目指すという知的なところ、右翼を憎む義侠心、ピンボケ写真からでもうかがえる美しい容姿、そして何より声と話し方・・・ジャズと紅茶と旅行を好む1970年代後半の典型的な美人女子大生だった彼女は、この27年、ぼくの中ではパーフェクトな女性としてスタンダードになっている。司法試験には受かったのだろうか。それとも、空港のすぐ近くに住んでいたからパイロットとでも恋に落ちて結婚しただろうか。右翼が来なければ彼女と知り合うこともなかったし、彼女の声に魅了されることもなかったと思うと不思議な気がする。ハンストテントの周りの人だかり、乱立する旗やプラカード、署名を呼びかけるトラメガの声と応じる市民、黒ぬりの街宣車に戦闘服の右翼・・・そんな中で焼きトウモロコシをかじっていた悠有さん、あなたはあまりに美しかったが、それらすべてがいまとなっては夢の中の出来事のように思える。1981~2年にかけて、豊中市立花町にあったNTT岡町寮に住み早稲田セミナーに通っていた小林悠有さんの消息をご存知の方はご一報ください。お礼にヨーロッパ往復航空券を差し上げます。
March 15, 2008
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札幌には二つの大学オーケストラがある。北大と教育大である。定点観測の観点から、数年に一度は出かけるようにしている。北大は川越守という人がずっと指揮者をつとめている。堅実だが、あまりおもしろい音楽作りをする人ではない。一方の教育大は、音楽科があることもあり、毎年、学生が指揮をする。この学生の指揮に瞠目させられることが多いので楽しみにしていた時期があった。しかし、今回は直江宣之という、元札響ホルン奏者で高校の音楽教師をつとめた人が指揮をした。この人の指揮がいかにも生真面目で、表情も淡泊でおもしろみがない。ビゼーの「カルメン」第1組曲など、大見得を切ってド派手にやってもいい曲だと思うのに、何ともおとなしい。音楽というのは時間芸術で、その時に鳴り響いては消える。常に一期一会なのが音楽であり、そこに参集した人たちに、たとえ破綻があっても何かを語りかけなければならないし、何か非日常的なものを感じさせなければならない。そういうものを、川越守にしても、この日の指揮者にしても決定的に欠いている。メーンのドボルザーク「交響曲第8番」など、しょせん学生オーケストラなのだから、第3楽章など思い切りメランコリックに歌わせ、フィナーレは勢いだけで突っ走ればいいと思うのだが安全運転のあげくエンジンブレーキがききすぎて音楽の流れが止まってしまうような部分さえあった。音楽専攻の学生も多く混じっているこの大学のオーケストラは、ソロ部分などでははっとする美しい響きを聞かせることもかつてはあった。しかし、数年前と比べると、明らかに技術水準は低下し、士気も下がっているように感じたのはなぜだろうか。以前は1500人規模の会場で7~8割は埋まっていた客席も、今回は500人規模の会場で6割も入っていない。それにしても茶髪の学生は減った。もちろんまだいることはいるが、こういう学生気質というか若者の変化も興味深い。
March 14, 2008
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店番のローテーションに入っていたミニコミ喫茶の常連客に小百合さんという美術学生がいて親しく話すようになった。短大生の割におとなびている、と思ったら別の大学を出てから短大の美術科に入り直したということだった。1981年ごろの話。そんな彼女のあねご肌にひかれたのか、彼女を慕うクラスメートは多いようだった。小百合さんを通じて、たくさんの短大生と知り合うことになった。ちえ子さんともそうして知り合った。偶然にも同じ高校の後輩で、彼女の姉とも以前から知り合いだった偶然も重なり親しくなった。彼女の父はたしかレーニンの著作の優れた翻訳者としても知られている大学教授だったと思う。ちえ子さんには少し暗いところがあった。姉が主宰している金日成のチュチェ思想研究会に参加していて、左翼思想全般には共鳴しているようだったが、その研究会のドグマ的な体質に自分が合わないことに悩んでいるようだった。ぼくは何であれイデオロギーは唾棄すべきと思っていたので、チュチェ思想の悪口を言い続けた。左翼や新左翼の心情そのものは高潔で動機はすばらしいが、左翼思想、とりわけ一国社会主義(スターリン主義)は、天使の心から生まれた悪魔の思想でしかない。そういう説得が効いたのかどうかはわからないが、彼女は研究会をやめて、チュチェ思想そのものの呪縛からも解放された。表情に明るさが戻った。彼女は同じアパートの向かいの部屋に住む北大生と半同棲していた。その彼が在日朝鮮人として初めて芥川賞作家になったイ・フェソンの「見果てぬ夢」全6巻を持っていて貸してくれるということになり、彼女の部屋を訪れた。訪れてみると、彼女は熱を出して寝込んでいた。「本はそこにあるから持って行って」と言う。すぐ果物など買って届けると、彼女はぐっすり眠っている。ふと見ると、机の上に日記帳がある。目が止まり、つい読んでしまった。ぼくの名前が書かれていたからだ。そこには、同棲中の彼とぼくがよく似ているということ、研究会をやめるにあたってぼくの説得や存在が大きな支えになったこと、同棲中の彼が頼りにならないというグチ、ぼくのことが「かわいくてたまらない」ということなどが乱雑な字で書かれていた。本来、快活で聡明なはずの彼女の暗さの原因の半分は、その彼との関係にもあるようだった。それまで彼女のことを異性として意識したことはなかった。むしろ金日成主義者のくせに乗馬などやる、グラマーでセクシーな彼女の姉の方に関心があった。ボーイッシュでさっぱりした感じの彼女のことは、妹のように感じていた気がする。ちえ子さんはなぜか友だちを次々と紹介してくれた。のり子とちかさんという、それぞれ短大と高校の友だちと親しくなった。のり子は北海道によくいる、アタマのネジが何本かはずれたような底抜けのお人好しで男好きな女。数週間だけぼくの彼女になったが、幼稚さに愛想がつきてフェードアウトした。ちかさんの部屋には二人で遊びにいくことになった。駅で待ち合わせ、お酒やすき焼の材料を買った。考えてみれば、ちえ子さんと二人きりで会ったのはこの時だけだ。彼女はやけに明るく、嬉しそうだった。新婚カップルみたいで、ぼくも心が弾んだ。ちかさんの家まで20分くらい腕を組んで歩きながら、「彼女と付き合うのも悪くないかも」と思ったりした。ちかさんの部屋に着いた。はたして、そこにはストライクゾーンど真ん中の美人がいた。さっきまでの幸福な気分は吹っ飛び、札幌でいちばん大きなキャバレーの超人気ホステスだというちかさんの魅力に圧倒された。ちかさんは知的だが反抗心が旺盛で、そのために高校も中退し、実家も出てホステスをしているということだった。ちかさんは沖縄旅行から帰ってきたばかりだった。旅費はもちろん、何人もいるパトロンから出してもらっていた。つまり、複数のパトロンからそれぞれもらっているので、一度旅行に行くとものすごくお金が貯まる、と屈託なく笑うのだった。ちかさんはその後、検定に合格し、そうして貯めたお金で国立大学に入り教師になった。優生保護法に反対する先鋭な活動家になり、後年、そのデモでばったり再会した。ちかさんはサービス精神が旺盛で、店で着るきわどいドレスの数々を次々と着替えては披露してくれた。20歳とはいえ成熟した女性の色香を感じさせる彼女のそんな姿を見ていると、ちえ子さんが子どもに見えた。しかし事態は暗転する。一人暮らしだとばかり思っていたちかさんには同棲中の彼がいて、予定より早く仕事が終わって帰宅したからだ。悪い人間ではないのだが、学歴コンプレックスの塊のような男で、ちかさんの十分の一も収入がないことにも卑屈になっていた。酔うほどに絡み、しまいには悪態をついてきた。なだめたりすかしたりしたが効果はなかった。決して感情的にならず、挑発にも乗らなかったぼくの対応は、われながら立派だった。災い転じて福をなすという。こういう事態に誠実に対応することで、ちかさんに一目おかれたい。あわよくば彼女に、という計算がぼくにそういう対応をさせたのだった。男はさんざん悪態をつき、少しだけ暴れると、部屋中にゲロを吐きまくって寝てしまった。ちえ子さんと二人でゲロの後始末をした。そうしているうちに夜も更けてきて、ぼくは寝てしまった。気がつくと、ちかさんとちえ子さんが話をしている。寝ているふりをしながら、その話をきいた。ちえ子さんは、卒業を契機に広島の親の元に行くつもりだと言った。同棲中の彼とは別れるつもりだという。そしてなぜかぼくのことがかわいくてたまらないのだと繰り返し話した。ちかさんも、お金が貯まったらゲロ男と別れ、検定試験に集中するつもりだという。夢うつつに彼女たちの話を聞きながら、女とはなんてしっかりした、そして不思議な生き物なのだろうと深く感じ入った。こちらも中途半端な身分で余裕がなかった。彼女は卒業後の進路などについて悩んでいたにちがいない。きみがいなくなると寂しい、札幌にいてほしい、くらいのことをなぜ言えなかったのかと、われながら自分の器量の小ささに忸怩たる思いが残る。次の年の夏に、広島のちえ子さんからハガキが来た。「私は結婚し、秋には母となります」とあった。それきりちえ子さんのことは忘れていた、というか忘れることにした。忘れていたちえ子さんのことを思い出したのは、アルバムを整理していたら写真が出てきたからだ。ビキニ姿の美女5人の真ん中に写っているいちばん色黒なのが彼女で、たぶんこれは彼女が所属していた絵画サークルのキャンプか何かの時のものだと思う。その写真をここに転載できないのは残念だが、ビキニ姿の彼女は思いのほかグラマーで、服を着ているときの印象とはだいぶちがう。いつも微笑んでいるような表情をしている人だったけど、この写真では晴れやかに笑っている。見ていると、腕を組んで歩いたあの20分の記憶がぼくの腕にあたった彼女の胸のふくらみの感触と共に思い出されてくる。彼女の友だちとばかり付き合い、彼女の友だちにばかり惹かれた。しかし、27年たって思うのは、その中ではちえ子さんが最も情が深く、思いやりのある人だったということだ。そんな彼女のよさに気がつかず、女としてわかりやすい魅力を持っている人ばかりに目を奪われた、そんなぼくはバカだった。人生にはよくそういうことがある。いちばん大事なものはいちばん近くにあり、気がついた時にはもうなくなっているのだ。
March 12, 2008
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コンサートに行くとたくさんのチラシをもらう。その中で、一枚のチラシが目に止まった。カラー印刷だが、デスクトップパブリッシングで作ったのがわかる。上手に経費を節約していると感心した。よく読むと、東京芸大大学院生の声楽家3人が、協同してそれぞれの郷里で開くコンサートで、収益はユニセフに寄付するとある。まだ無名の若い人たちだが、経歴を見るとこれからが期待できそう。収益を寄付とは、若いのに殊勝な心がけだ。地方出身者は、ハンディも大きいが、意欲的な人も多い。わずか999円の入場料のコンサートが黒字になるとも思えないが、こうした意欲のある伸び盛りの人たちの演奏なら楽しめるのではないか。それに、こうした人たちこそ応援する価値がある。こういう三段論法で考え、100人も入れば満席になる小さなホール(渡辺淳一文学館)のコンサートに出かけてみたが、読み通り、それはそれは楽しく充実した2時間だった。出演は広島出身の長峰由紀子、熊本出身の安本ゆか、札幌出身の門間信樹。この声楽の3人に大阪出身のピアノの藤井美希を加えた4人によるプログラムは、歌曲、オペラ、そして有名曲の3部構成で、まずこの構成がしゃれている。歌曲は3人の作曲家の作品を3人が2曲ずつ歌い、二部ではソロと二重唱。第三部はピアノ・ソロのあとシャンソン、ミュージカルのナンバー、最後に日本の歌を三人で、という進行。フランス歌曲にはあまりなじみがなかったが、アーンやプーランクの初めて聴く歌曲の軽妙さや洒脱さが、生のコンサートならではの雰囲気で楽しかった。パリやヴェネツィアのカフェにいるような気がしたほど。まだ若い人たちなので、第二部のオペラは声に「若さ」がありすぎたが、プッチーニのオペラ「トスカ」から「歌に生き、愛に生き」の熱唱(長峰由紀子)はすばらしいものだった。バイオリンの潮田益子や安永徹など、音楽の中に深く入りこんで音楽と一体となるかのような集中を、特に日本人のクラシック演奏家に感じることがあるが、彼女にもそういうところがある。この人は4月からウィーンに留学するということだが、ひょっとしたら大化けしてメジャーになるかもしれないと思う。こういう掘り出しモノのコンサートで、ふつうの音楽ファンや音楽関係者を見かけることはまずない。これからも、音楽ファンや評論家が見向きもしないコンサートにせっせと通い、彼らが通うコンサートにはなるべく背を向けるようにして、一生の宝になるような時間をなるべくたくさん持ちたいと思う。それにしても、電気回路を通さない、ベルカントの生の人間の声ほど美しい響きは、この世にほかにない。それなのに、その美しい響きを知らずに終わる人の何と多いことだろう。ホスピスを定期的に訪れる活動をしているソプラノ歌手がいる。音楽を必要としているのはそういう人たちであり、そういう人たちが必要としているのは美しい人間の声による音楽だと思う。近年の日本の若手声楽家のレベルの向上は、ステージマナーを含めて著しいと思っていたが、その漠然とした印象がかなりはっきり確認できたと思う。13日の熊本、17日の広島公演に行くことができないのが残念だ。
March 11, 2008
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東京へ行ってきた。一泊二日。少しだけ時間があったので、約20年ぶりに秋葉原へ行った。買ってから20年以上経過したアンプとスピーカーが劣化してきた気がするので、気になっている機種を試聴できる場所を探したら、秋葉原に一軒だけあったのだった。20年前は、発売されたばかりの8ミリビデオカメラと生産終了した古い型のワープロを買った。当時は札幌にはまだ家電量販店がなかった。秋葉原で「ここまでは安くならないだろう」という金額で交渉したらOKが出た。あっさりディスカウントしてくれたので買わざるをえなくなったのだった。新古品のワープロは、非常に印字がきれいでそのまま印刷に使えたので重宝した。定価の5分の1ほどで手に入れたそのワープロは、投資した金額の数十倍の利益をもたらしてくれたのだった。秋葉原おそるべしと思ったのはその時。飛行機代をかけてでも行く価値があると思ったものだった。その後、札幌にも家電量販店が相次いで進出し、秋葉原への関心は消えた。しかし、ちょっとマイナーな会社の製品になると、やはりまだ秋葉原まで出かける必要があるようだ。試聴してきたのはsoulnoteという会社のアンプ2機種。ハイエンドと普及タイプ。値段は3倍ほど違うが、値段ほどの差は感じなかった。電源部が独立しているタイプのアンプは30年以上前に55万円で出た一機種で、いまの貨幣価値にひきなおすと数百万はするし、現にハイエンドオーディオの世界では数百万するアンプは珍しくない。同等かそれ以上の性能のアンプがハイエンドを選んだとしても30万円強で手に入るのだから悩ましい。それでも、アンプはほぼ目安がついた。難しいのはスピーカーの選択。あと何度かは秋葉原に足を運ぶ必要がありそうだ。20年たって、秋葉原もずいぶん変わった気がする。目的の店のすぐ手前には「緊縛専門店」なんてのがあって目を疑ったし、全体にしゃれた雰囲気の街になった気がする。
March 7, 2008
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オネゲルの「交響曲第2番」を生演奏で聴くのは長年の念願だった。暗く悲痛な二つの楽章に続く諧謔的な音楽で始まるフィナーレ。しかし、トランペットによるコラール風のテーマが奏でられる最後の部分は、オネゲルのみならず、弦楽合奏のために作られた最も感動的な音楽のひとつだと思う。ナチス・ドイツ占領下のパリで作られたこの曲を、パリ市民は、ナチスからの解放の音楽として聴き、鼓舞されたにちがいないが、あらゆる非人間的なものに対する抵抗・闘争・そして勝利の音楽として、この音楽はまだ生命と価値を保っている。バッハとオネゲルという、プロの団体ではなかなか組むことのできない地味なプログラム、しかもめったに演奏されないバッハの「6声のリチェルカーレ」とオネゲル「交響曲第2番」が演奏されるというので出かけてみたが、予想以上にレベルの高い演奏で「アマチュアおそるべし」という印象を受けた。バッハが楽器の指定をせずに書いた、「音楽の捧げもの」の中の「6声のリチェルカーレ」は、誤解を恐れずに言えば「人類が創造した至高の音楽作品」ではないかと思う。ウェーベルンがオーケストラに編曲したものが知られているが、この日は弦楽合奏による演奏。この曲のよさは、鍵盤楽器による演奏より弦楽器によるものの方が伝わりやすいと思う。切実な祈り、絶対的な哀しみを表わすのに、人間の声に近い楽器の方が適していると思うからだが、立派な演奏ではあったものの、フレーズの流れが途切れがちで、永遠を思わせるこの曲のスケール感を」欠いたのが残念。ほかにバッハ「管弦楽組曲第3番」とカンタータ第29番から「シンフォニア」。アンコールにアルビノーニ(ジャゾット)のアダージョ。ブランドに群がる音楽ファンが見向きもしないコンサートにもじゅうぶんに楽しめて、意義深いものがあるという例。オネゲルのいくつかの作品は、死ぬまでにぜひ聴きたいと思っている。「交響曲第2番」も、っやはりプロ・オーケストラの演奏で一度は聴いてみたい。札幌ではその機会は、この曲の場合のように数十年待たされる可能性があるので、地球の裏側まで出かけてでも聴くつもりだ。
March 2, 2008
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